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18 毒娘

「さて、あとは微調整だけだネ」
 手拭いで水を拭い、マユリは阿近を振り返った。
「阿近、お前にそれを任せるヨ。私は少し十二番隊の仕事があるからネ」
「俺ですか」
 愉快とは言えない表情を常に浮かべている阿近は、ことさらに顔をしかめた。持っている全ての技術を投入したと言っても過言ではない作品を、いくら側近とはいえマユリが他人にそれを任せるとは考えられなかったからだ。
 しかし、マユリは事も無げに続ける。
「知識の入力は義魂段階で既に済ませてあるし、体術については私が教えるヨ。ただ、先に義魂と義骸の連携の訓練をしなければならないダロウ。十二番隊の仕事は興味はないが仕方ないのダヨ。一週間。それで人としての基本動作ができるようにしておけ」
「……分かりました」
「手伝いが必要なら女性を使うようにするのダヨ。ネムに女性としての教育をする意味でも、その方がいいだろう。他の人間は使うんじゃないヨ。触れされることも、緊急時以外はさせるんじゃない」
「分かりました」
 技術局員の女性を思い浮かべ、阿近は微妙な表情をした。女性としての教育など、できる人間がこの場にいるのだろうか。
「ネム。お前は私の娘になるのダヨ。恥ずかしくないように、きちんと学んでおくように」
「はい、分かりました。マユリ様」
 マユリは急いた様子で術式の部屋を出ていった。
「いってらっしゃいませ、マユリ様」
 隣で透明な声がする。阿近は横を見て、そして溜息をついた。
 手術台に腰を掛け、深々と礼をした女性が顔を上げた。真っ直ぐで艶やかな黒髪が覆っていた顔が見える。毛細血管まで透けてしまいそうな白肌。黒目の大きな眼は長い睫に縁取られている。鼻筋の通った小さな鼻。小さな、柔らかそうな赤い唇。それらパーツ一つ一つが美しく、それらが絶妙な配置で小顔に収まっていた。
 その顔に浮かぶのは無表情。
 ネムはただそこに在った。

「そういうわけで幼稚園の始まりってな感じなわけだ」
「具体的にはどうすればいいんですか」
 局の一室で技術局員の紅一点である少女に尋ねられ、阿近は一枚の紙を取り出した。夕べ、ネムの様子を見ながら教育として必要と考えられることを書き出していったリストだった。
「一.話し方(1)大きな声(2)囁き声。二.動作(1)歩く(2)走る(3)転ぶ……なぜ転ぶ必要が」
「転んだときにどう対処するのかを学ばないとだめだろ。ガキは転ぶと顔から突っ込んだりするからな」
「詳しいですね。ええと、(4)スキップ……必要かな? これ。(5)登る(6)降りる。ああ他いろいろとありますね。まあいいや。三.食事動作(1)箸の使い方(2)お椀の持ち方(3)咀嚼(4)飲み込む……なんだかお母さんみたいですね、阿近さん」
「うるせえ」
 リストを読み上げては突っ込む少女と、それに一々答えている阿近を、傍に座っているネムはじっと眺めていた。無機質な室内に、甲高い少女の声が響いている。
「…………やっと最後だ。四十五.表情(1)笑う(2)怒る(3)泣く(4)悩む(5)考える(6)困る……表情まで教えるんですか」
「義骸か義魂、どちらかに経験があったなら、そんな必要は全くないんだがな」
 阿近は腕を組んで億劫そうに言う。
「全く未経験の場合、いくら義魂にプログラミングしてあったとしても一通り経験することが必要なんだよ。知識はあるし、すぐに覚えるだろう。まあとりあえず、知識のある赤ん坊を相手にしていると考えろ。この一週間は、動きは大きく、表情は豊かに、わかりやすく動け。基本的にはお前の動きを手本にするんだからな」
「え、あたしですか」
「俺を手本にしてどうする。俺の表情なんぞを真似してみろ。美人が勿体ないじゃねえか」
「あたし、美人っていうわけじゃないんですけど」
「美人のつもりでいろ」
「あたし、握り箸なんですけど」
「矯正しろ……いい、俺がする。俺が教える方が早い」
 阿近がネムを振り向いた。ネムは微動だにせず、ただ瞬きだけが人形ではない証としてあった。阿近は一瞬だけ言葉を失い、そしてネムの前で屈み込む。ネムを見上げる格好になって、そうするとネムはゆっくりと俯いた。
「ネムさん」
「はい」
「これから一週間、俺とこいつで、アンタの微調整をしていきます。義魂と義骸の連携を向上させ、人間としての基本動作を習得するということです。アンタには知識は既に入れてありますが、それを実際の経験としていく必要があるからです。分かりますかね」
 ネムは頷いた。そこに何の表情も見られないことに、阿近はこの一週間の作業を想像してうんざりする。溜息を喉の奥で殺して、阿近は説明を続けた。
「俺らには他の仕事もあるんで、交代でアンタにつきます。もし二人ともいない場合には、現世の映像を見てもらいます。参考になるでしょう。いいですか」
「分かりました」
 ネムは立ち上がった。その所作に音はなく、阿近は何か別のモノを見ているような気がして、そして慌てて立ち上がった。
「どうぞよろしくお願いします」
 深々と、ネムは頭を下げた。黒髪がさらさらと微かな音をたて、背から流れ落ちた。

 六日が経った。
 教育は順調に進んだ。ただ一つを除いて、ネムの動きは滑らかになり、咄嗟の出来事に対する反応速度は上がり、一通りのことは習得したように見えた。
 ただ一つ。表情を除けば。
「どーうして、あたしが手本なのに表情が出てこないんでしょう」
 局員の少女が頬杖のまま呟く。阿近も肩肘を机について、手に顰め面の顔を乗せていた。横ではネムが姿勢を正したまま、手を膝の上でそろえて座っている。相変わらず微動だにしないが、ときおり、自主的に目の前の茶を飲むようになった。
「あたし、この六日間、ものすごく表情豊かだったんですけど」
「いつも通りじゃないのか」
「一応は意識してましたよ」
「……赤ん坊は、見ているうちに覚えていくもんなんだがなあ」
 阿近はネムを横目で見やる。その横顔はあまりにも整っていて、本当に人形のように見えた。表情がない。表情はどうして出てくる。感情。
 感情が、ない。
 阿近は盛大に溜息をついた。少女とネムが同時に阿近に注目する。
「どうしたんですか」
 少女が尋ねた。
「どうもこうもなあ、すぐに表情をつけろってのも無理なんだよな」
「どうして」
「感情がまだないんだよ。ないっつうか、感情と表情が結びついてないっつうか。専門外だろ、これ」
 阿近は机の真ん中に置いてあったお茶請けの菓子を手に取ると、ネムに渡した。
「食べてみて下さい」
「はい、分かりました」
 ネムは一口、菓子を口に運ぶと咀嚼して飲み込んだ。そして阿近を見つめる。
「どうですか」
「甘味を感じます」
「それをどう思いますかね? 心地よいとか、嫌悪を感じるとか」
 阿近の言葉にネムはしばらく動きを止めた。それを見逃さず、阿近はネムに言う。
「今、ネムさんは考え込んでるんですよね」
「はい、適切な言葉を検索しています」
「そういうときは、こういう動作をします。ほれ、やってみせろ」
 いきなり阿近にふられ、少女は戸惑い、それでもすぐに小首を傾げてわずかに俯いてみせた。それを眺めて、ネムも無表情のまま、真似をする。
「そうです。で、菓子をどう思いました?」
 ネムは顔を真っ直ぐになおし、阿近を見返した。
「心地よい、という表現が適切だと思います」
「そんなときはこんな顔をします……て、顔の筋肉がまだ適切に動かせないのか」
 盛大にお菓子を食べて顔を綻ばせてみせる少女の前では、真似をしようとして顔を引きつらせているネムがあった。慌てて少女が手を伸ばし、ネムの顔をマッサージする。両手で顔を包まれて、ネムは無表情のまま動きを止めた。
「感情と表情との連結は時間がかかりそうだな」
 阿近は眉間に皺を寄せ、再び頬杖をつく。その顔とネムの顔を交互に見て、少女局員は急に明るい顔をした。
「阿近さん、いいこと思いつきました」
「何だよ」
「ほら、現世の伝統芸能を参考にしたらどうですか。能狂言とか浄瑠璃みたいなのなら、顔の角度や仕草だけで感情を表現するっていうし、歌舞伎のオーバーアクションも使えると思うんですけど」
「……ああ、あれか」
 阿近の眉間にさらに深く皺が刻まれた。それを見て少女は首を傾げた。
「名案じゃないですか?」
「いや、当座をしのぐ良い案だと思うけどよ、ちょっと……面やら人形やらだろう? 普通の感情表現とは違いすぎねえか?」
「でも、コミュニケーションのためには状態の表現手段は必要不可欠ですし、毎回毎回、顔の筋肉を攣らせるわけにいかないじゃないですか」
「お前、たまにマトモなこと言うな」
 ふて腐れて唇を尖らせた少女を無視して、阿近は立ち上がった。二人が阿近を見上げる。
「資料室から伝統芸能の映像を借りてこい……て、いい、俺が行ってくる。お前はネムさんの顔の筋肉を柔らかくして、あーとかいーとか準備運動をしていろ。少しでも表情をつけられるようにした方がいいからな」
「はあい」
 少女局員の間の抜けた返事を背に、阿近は部屋の扉を開け、後ろ手で閉めた。そして人気のない廊下を歩き出す。硬い足音が予想以上に響き、阿近は顔をしかめた。
「どうしてこんな、熱心なんだかな、俺」
 独り言ちて、阿近は自嘲の笑みを浮かべた。これまで自分がしてきたことを思い出し、ネムにしていることを比べる。そして首を振った。
「やっぱり、育てていると情が移るのかねえ…………くだらねえな」
 呟きは小さく廊下に反響した。それを打ち消すように、阿近は乱暴な足音で階段へと向かった。

 ネムを連れて執務室に入ると、マユリがこちらを振り向いた。阿近は一礼して、体を脇へ避ける。そして手で促すと、ネムは顔を真っ直ぐに向けたまま前に進み、そして立ち止まって礼をした。
「一通り、生活や業務に差し障りのない程度には教えました。問題はないと思います」
「ご苦労だったネ。ふむ、ネム、こっちへ来い」
 マユリはネムを呼び寄せ、その顎を乱暴に持ち上げた。隅々まで確認するように覗き込み、そして次に体を回転させる。ネムは無表情のまま、言われるがままに動いている。
 それを眺めながら、阿近は複雑な思いを自覚していた。
 映像を参考にして感情表現の方法を詰め込むように教えた。仕草や顔の角度、そしてどうにか眉や眼、唇の動きもできるようにしたが、はたしてネムはどれくらい、とっさの判断で出来るようになったのだろうか。どれくらい、人間として動けるようになったのだろうか。
「阿近」
「あ、はい」
 急に呼ばれて阿近は顔を上げた。マユリは満足げに頷いている。
「よく出来ているヨ。動きも滑らかだし、命令に対しても躊躇なく動けている。よくやった」
「はい」
「ネムはこれから訓練したあと、副隊長として業務に就かせるヨ。技術局でもそのように認識しておくように」
「分かりました」
 軽く頭を下げるだけの礼をして、阿近は下がろうとした。そのとき、ネムがこちらを見て、眼があったと思うと、頭を下げた。
「阿近さん、ありがとうございました」
 そう言って、ネムは確かに、阿近が教えたとおりに確かに、口元をわずかに緩ませて、口角を上げた。ほんの少しの動きで表現できるよう、徹夜で教えた表情だった。
 無表情からわずかに浮かび上がった、それ。
 強烈なその印象に阿近は言葉を失い、ただ頷いた。そしてもう一度礼をして、踵を返す。
 扉から滑り出て後ろ手に閉めると、溜息が漏れた。
「……なんつーもん、作ったんですか、局長」
 口の中で呟く。何に使うつもりなんですか、アンタは。
 あの娘を。あの美しい人形の娘を。
 命令を忠実に守り、従うだけならあの美貌はいらないだろう。誰をも溶かす毒のような容姿はいらないだろう。
 ネムの美しさは毒だ。誰もが振り返るように、溺れるように、その顔も手足も背中も肌も髪も何もかもが、密やかに香り立ち誘う蠱惑の毒。
 かすかなに浮かび上がる表情は、その美しさを更に引き立てるだろう。更に人を溺れさせるだろう。

 表現を教えたことを、阿近は後悔した。








 阿近さんの喋り方がイマイチ掴めておりません。とりあえず、ネムが作られたときの妄想です。でもまあ、あんな環境で育てられていたら、そりゃあヒワイでグロいものにも慣れますわね。
 毒娘というタイトルに半ば無理矢理な感じで繋げて書いていますが、このお題は最初からネムの予定でいました。ただ、毒の意味合いがちょっと違ってしまったような気もしますが、まあいいかということで。とりあえず、ネムさんが微笑んだら一発KOだと思います。


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Life is but an empty dream