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15 乾き
朝靄の立ち込める川の辺に膝を抱えて座り、ギンはただ流れゆく水面を眺めていた。 時折、魚が跳ねる。水面はさざめき、揺れて、その波紋もまた押し流していく。透明な川は底まで見渡せて、黒光りする石の並ぶ川底には水草が流れに体を傾けて揺れている。 晴れている空は、もうすぐ太陽が昇る頃で、もう明るい青になっていた。高い雲が一つ二つ、ゆっくりと流れていく。その雲の形をゆらゆらと変形させて、川は流れている。ただただ、留まることなく澱むことなく、ギンの目の前で全てを流している。 ギンは、手近にあった小石を手に取ると、川面に投げ入れた。水音がして、水が跳ね上がる。波紋はみるみるうちに下流へといってしまう。もう一つ、もう一つ。ぽちゃん、ぽちゃんと音をさせ、ギンは小石を投げる。 十数個も投げた頃だろうか。ギンは溜息をついて、膝に額をつけた。 「ボクの煩悩も流れんやろか」 膝を抱える手は、乱菊より大きくなった。細かった腕は必要なだけの筋肉がついて、乱菊より太く長くなった。背も乱菊より高くなった。声は低くなった。乱菊より歩ける距離が増えて、持てる荷物が増えて、眺める景色が高くなり、そして。 変化は身体だけに留まらない。 「この乾きも疼きもいつか流れてくれるんやろか」 川は何も答えない。
昨晩、ギンは一人、果物を持って花街を訪れた。鮮やかな花々がひらひらと辻や窓辺で男達を誘っていた。その中からギンは一人選び出した。目の大きな、唇のふっくらとした、髪の柔らかそうな女だった。 「どうしたの、坊や」 「遊んでくれへんやろか」 「初めて?」 「そうや」 女は眼を細めて、微笑んだ。 「……あたしがまだ現世にいた頃、よく懐いてきた隣の坊やがあんたくらいだったわね。この辺りには子供が居ないから、懐かしいよ」 この地区では子供は珍しい。この地にやってきて、多くはすぐに死んでいく。ギンは現世でいうと十三、四歳くらいに成長していたけれど、ここまで成長することも、この年齢で生き残ることも難しかった。 女は小さな扉を開けて、ギンを中に招き入れると障子を閉めた。小さな蝋燭の灯りに影が揺れた。 「どうしてあたしを選んだの」 「……」 「好きな女の子にでも似ていた?……ああ、図星だね。その子には好かれていないの?」 「一緒に暮らしとる」 「ああ……それは難しいね。ずっと一緒にいるの?」 「もう数十年になるわ」 「そっか。長いね」 布団に招き入れられて、ギンは女の懐に潜り込んだ。甘い体臭と白粉の匂いを含んだ布団は生暖かかった。 「なあ、姐さん、いつ死んでここに来やはったん」 「十年くらい前だよ。十九の時に流行病で死んだ。旦那もいたけど、どうなったかな」 「……聞きたいんやけど」 「何?」 「どこまで大きゅうなったら、ボクん中でぐるぐる蠢いとるモンは落ち着くんやろか」 女は無言で首を傾げた。夕暮れにも似た色の灯りで、女の白い肌が、白い胸のふくらみが暗く暖かく染まっていた。長い睫の影が目尻に落ちていた。それらをギンは眺めていたが、そのどれもギンの中には留まらなかった。 ギンは大きく息を付いて、目を伏せた。 「姐さん、大きいんやから分かるやろ。なあ、ボク、ずっとずっと、十年以上も抱えとるんや。疼いて、乾いて、仕方ないのに、どうもこうもできひんから暴れるんを押さえて我慢しとったん。姐さん抱けば治まるんやろか。それでもどうにもならへんのやろか」 ギンの言葉に女は目を見開いて、そして、軽く溜息をついた。 「……ここは成長が遅いものね……そうよね、坊やの方があたしより年上なんだろうけど、体はまだ青い時期の真っ只中なのか。現世なら、人にはよるけど、数年でまあまあ治まるもんなのにね。二十を越えれば、それなりに落ち着くもんだろうに」 「ボク、幾つくらいなんやろ」 「十と三、四くらいだと思っていたよ、あたし」 「………まだまだやん。あと何十年あるんやろか」 ギンは布団に突っ伏した。その銀髪を女がやさしく撫でた。髪がさらさらと音をたて、女の指の間をすり抜けた。 「その女の子に無理強いはしないんだね」 「嫌がること、しとうない」 「……見た目は坊やで、欲求もその年頃のものなのに、そういうことだけは成長しちゃうのも……辛いねえ」 俯せのまま、軽く呻いたギンに、女は体を寄せてきた。柔らかい暖かさが、ギンの背を覆った。 女が耳元に囁いた。 「十年以上もその子に向けられた乾きがさ、あたしとの一晩で潤うとは思えないんだけど……少しは慰めになればいいね。こっちを向きな、坊や」
ギンは体を捻り、後ろを振り返った。 朝靄に霞んでいるが、ここでは珍しい色鮮やかな花街の建物が遠くに見える。早朝まで相手をしてくれた女は、確かに柔らかく暖かく潤んでいた。けれど、その潤いはギンの中までは染み込まない。ギンは再び川面に目をやる。光が急に飛び込んできて、眼が痛い。 山辺から現れた朝日の光が届き、揺れる水面が乱反射していた。 乱菊を思い出して、ギンはきゅうと痛む鳩尾を押さえる。体は快楽を感じても、この乾きが求めているのは乱菊だけだった。乱菊だけが、ギンを苛むこの乾きを潤してくれるだろう。 ギンは薄く笑った。もうすでに、大人と言えるほど自分は生きているにもかかわらず、それでも精神は肉体に引っ張られ、乱暴に引きずり回される。おかしいと思う。理不尽だと思う。長すぎる青い苛みに、おかしくなりそうだとも思う。 それでも、仕方なかった。ギンは乱菊のいる世界でしか息が出来ない。 また溜息をついて、そしてギンは膝をつくと川の水を両手で掬った。隙間からこぼれ落ちる水が膝を濡らしたが、構わずギンは顔を洗った。そしてもう一度水を掬うと、口を濯いだ。 「帰ろ……まだ乱菊、いてるやろか」 苦く笑うと、ギンは立ち上がって川伝いに歩き出した。
ずっと考えていたことでした。思春期が長いこと、年月を重ねることで大人になる部分と、体に引きずられざるを得ない部分の共存。これはかなり辛いのではないだろうかと思っていたのです。解決してませんけど。 追加:この話は、長編二番目の話と繋がっています。ギンの回想の部分なのですが、もっと詳しく書いておきたいと思っていました。
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