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05 後ろ指

 かたり、と微かな音がした。
 夜風が滑り込むように室内に入り込み、浦原の頬を冷たく撫でた。手にしていた書物を閉じ、浦原はゆっくりと振り向いて小さく笑う。
 深い夜の闇を背にして、闇から抜け出たような夜一が窓枠に座っていた。髪も肌も、身に纏う衣装も全て闇の色で、その中で眼だけが金色に光っている。
「こんばんは、夜一サン」
 軽いが柔らかい声で浦原は声をかける。
「どうじゃ?」
 夜一は表情のない顔で浦原に尋ねた。その顔を見て、浦原もゆっくりと笑みを消す。そして、目線を逸らさずに真っ正面から夜一を見つめた。
「あと、二、三日あればいいほうでしょ」
「そうか。時間がないな」
 夜一は俯くと、窓枠から飛び降りて音もなく浦原に歩み寄る。開け放した障子からは風が夜一にまとわりついて入り込み、しっとりと潤った褐色の肌から立ち上る微かな花の香りを浦原に届けた。浦原は顔を綻ばせる。その顔を見て、夜一は呆れた顔をし、浦原の隣に座る。そのときだけ、畳が小さく軋んだ音を立てた。
「何をにやけておる」
 夜一が軽く睨んでみせると、浦原はわざとらしく笑ってみせる。
「夜一サン、風呂上がりでしょ。いい匂いがしますよ」
「ああ、確か布袋が湯に浮いておったな」
 自分の腕を嗅いで、夜一は頷く。
「様々な花の香りがする。花びらでも入ってたか」
「相変わらず無頓着っスねェ」
「まあ、儂のことなどよい。今は、現世へ逃げる手段を考えねばなるまい」
 からかって笑う浦原を夜一は射抜くような視線で見上げた。浦原はそれでも笑みを崩さない。ただ、長い前髪の奥にある眼だけを鋭く光らせ、
「夜一サンは、ここに残って下さいませんか」
と呟くように言った。
「夜一サンは、罪があるわけじゃないんスから、大丈夫です。逃走するのはアタシとテッサイだけで」
 口元だけは微笑ませている浦原を心底呆れたような目で眺め、夜一は嘆息した。
「馬鹿か、おぬし」
 金色の眼がつう細められ、そのままゆっくりと瞬きをした。
「昔、おぬしに申したじゃろう。共に成長し、共に戦うと。幼い頃の言葉を忘れるほどには、儂はまだ年老いてはおらぬぞ。おぬしの頭はもう耄碌したのか? ん?」
 夜一の声には揶揄は全く含まれていない。浦原は笑みを消して眼を伏せる。
「まだまだ、間違いを繰り返して迷い彷徨うほどにアタシは若いですよ。そして夜一サンは」
 言葉を切ると、浦原は口の中で小さく、綺麗なままですよ、と呟いた。
「ならば、覚えておろう。共に行くぞ」
「……現世まで逃げてしまえば、そのまま追放という形で放置されるとは思うんスよ。尸魂界に影響を与えられないように何らかの処置はされるでしょうし、アタシ達は見張られるでしょうけど、連れ戻されることも殺されることもないでしょう。……でもね、夜一さん」
 ここで浦原は大きく息をついた。そして伏せていた眼を上げる。その眼は鋭く、真面目だった。
「アタシらは殆どのものを失わなければならないんスよ」
 夜一は即座に答えた。
「承知している」
「お家はどうするおつもりで?」
「当主が失踪しただけで立ち行かなくなるような貧弱な一門ではないわ。直系の血筋は残るし、周囲から色々と言われるじゃろうが……断絶になることはあるまい」
「アナタの忠実な部下の皆さん……刑軍と、あの」
 そこで浦原は言葉を切り、珍しく口籠もった。夜一は小さく、
「砕蜂か」
と言う。浦原は頷いた。
「アナタのお気に入りでしょう。手塩にかけて育ててたじゃないっスか」
 窺うように浦原はざんばらの、鳥の子色の前髪の間から夜一を見る。夜一は唇を一文字に引き結んで黙り込んだが、ふと緩めて、ほうと息をついた。
「何も知らせる気はない」
「いいんですか」
「巻き込むつもりはない。儂の消えた後のあの席にはあやつが座ることになるじゃろう。それでよい」
「恨まれるかもしれないっスよ」
「構わぬ」
 浦原の真っ直ぐな視線をとらえ、夜一は明瞭な声で言い切った。その声の響きに浦原は肩を竦めて、身の内に溜まっていた何かを吐き出すように、大きく息を吐く。そのまま肩をすぼめ、続けて小さく息を吐いた。
「……何も、アナタをここに引き留めてはくれないんスね」
 夜一はひょいと上体を浦原に寄せた。覗き込むように浦原を見上げる。金色の視線が前髪の奥に隠れている浦原の眼を捕らえた。
「選び取るものを儂が見誤ることはないぞ。後悔しないとは言わぬ。迷いがないとも言わぬ。しかしそれでも儂の目を曇らすものはない」
 しなやかな腕を伸ばして、夜一は俯き加減の浦原の頭を撫でる。褐色の指が鳥の子色の髪に埋もれて、さらさらと音を立てた。
「世界を危機に陥れるものまで造り出すほどに才があり、愚かしいおぬしを助けてやれるのは儂しかおらぬわ……もっとも、儂は姫育ちゆえ、日々のことでおぬしを具体的に助けるのはテッサイじゃがな。今から言っておくが、儂は炊事も裁縫もしたことはないし、するつもりもないぞ。覚悟しておけ」
 にやりと笑みを含んだ声で囁きながら、夜一はゆっくりと髪を梳くようにして浦原の頭を撫でている。ときおり、くしゃくしゃと髪を掻き回しては、再び梳かすように一定方向に手を動かす。その手に全てを委ねるように浦原は眼を閉じた。
「おぬしは気に病むな。これからのことを考えろ。儂は己でこの道を選んだ。儂のことを考える必要はどこにもない」
 夜一の声に耳を傾けたまま、俯いて浦原は口を引き結ぶ。二人を包むかのように、開け放たれた窓からは闇の匂いを重く含んだ風が流れてきている。浦原と夜一の間に漂うお互いの体温で温められた空気がゆるりと押し流された。
 俯いた浦原の眼には膝におかれた自分の骨張った手が映っている。その手は、固く握られている。
「……あのご夫婦には最後まで迷惑かけたままでしたねェ」
 浦原の呟きに、夜一は目を伏せた。浦原の髪から手を離し、両手であぐらをかいている自分の足首を掴む。
「お元気なんでしょうかねェ。ときどき、こっそりテッサイに食料や衣類を持って行かせているとはいえ、もうお仕事も辞めてのんびり余生を過ごすだけだったご夫婦に、戌吊に行けと、行って、食べなければ生きていかれない赤ん坊を育ててくれと頼んでしまって」
「……半月ほど前に、こっそり様子を見に行った」
 夜一は低い声で言った。浦原が顔を上げた。
「もしかすると今生の別れかもしれぬと告げた。あの娘も預けたままになる、おぬしらを瀞霊廷に戻すこともできぬやもしれぬ、とも。いくら詫びても足りぬのに、奴らは笑って許してくれたわ。子供ができなかったゆえ、おなごを育てられることは楽しいと」
「ご夫婦は泣かれたんじゃないですか。昔っから夜一サンをかわいがってくれていたじゃないっスか。庭で遊ぶアタシ達を、庭木をダメにしても池を壊しても許してくれて……一緒に直させられましたけどね」
 昔のこととなった光景を見るように遠い目をして小さく笑う浦原に、夜一もまた小さく笑みを浮かべた。
「あ奴らは儂が産まれる前から儂の家に仕えていたゆえ、儂とおぬしのいたずらを全て見ていたからの。その度に説教はするが笑って許してくれていた、本当に気の良い夫婦じゃった……それゆえ、儂らから赤子を託されたのだがな。それも……崩玉をその身に隠した赤子を、のう」
「そう言えば、あの娘さんを預けたときに散々訊かれましたっけねえ。本当はアタシと夜一さんの間に出来た赤ん坊じゃないのかって。多分、今でもそう思ってらっしゃるかもしれないっスよ」
 思い出し笑いをして言う浦原の声は、沈んでいた。一緒に笑う夜一もまた、肩を下げて溜息混じりに笑っている。
「ふふふ。どちらにも似ておらぬから、もう思ってはおらぬじゃろう。それでも、任せておけと胸を叩いておった。そして涙ぐまれたが、笑ったまま儂を見送って……儂は最後まで本当に甘えてしまったな」
 横に首を振り、夜一は膝を抱えて顎を乗せる。
「……あの娘の様子は遠くから見た。裏の広場を一人で元気に駆け回っておった。霊力も日々高まっているらしい」
「崩玉を取り出してやりたかったっスね」
「うむ。せめて、一緒に現世に連れて行きたかった。おぬしの開発した、あの義骸が知れてからの奴らの対応が想像以上に早かった。早すぎた。儂にまで監視の目が光っておったから、忍んでこっそり行くのがやっとじゃった。摘出は無理でも、せめてあの娘を連れて行かれれば、婆と爺は余生を瀞霊廷で心安く過ごせ、娘は我らと共に現世へ行き、何にも巻き込まれることもなく、何も知ることなく、人として生きられたのじゃがの」
「そして、崩玉の行方は完全にくらませれたんスけどね」
 二人は顔を見合わせ、苦笑した。
「儂らは、本当に罪深いな」
 夜一は静かに囁く。
「何も知らぬ娘に全てを隠しておきながら、その娘よりも崩玉のことを案じておるよ」
「そうっスよ。それでもアタシらは、崩玉をそのままにしておくわけにはいかないんです」
 浦原もまた、静かな声で答える。
「もう、現世で待ちましょう。あの子が死神となって現世にくる機会を、じっと。なに、そう簡単にはあの子に崩玉が隠れていることはばれません。アタシ達はずっと非常に厳しい状況にいますが、それでもそこまで間抜けじゃあなかったっスよ」
「あの娘が死神とならなければ?」
「それはそれで、ありがたいんスよ。そのまま尸魂界での生を終え、彼女の魂魄は洗浄されて新たな生を現世で受けて、そのまま沢山の魂魄の中に紛れ込みますから。ただ…………もしそうなっても、探し出すのに苦労するでしょうが、彼女の魂魄の行方を捜し出さないとならないっスね。どんなに時間がかかろうと崩玉を壊す手段を見つけて、崩玉を完全に壊してしまわないと……製作者の責任っスからねェ」
 浦原は軽く軽く、だが明るさを微塵も含まない声で言う。前を真っ直ぐに見据えた浦原の横顔は固く、それを眺めている夜一の顔も同様に固い。
「……そうじゃな」
 目を瞑り、夜一は小さく息を吐いた。
「儂らはそれをできるくらいには長生きするじゃろうからな」
 沈黙が二人の間に降りた。庭の木々が枝を揺らす音が急に大きく聞こえ始めた。葉擦れの音はさざ波のように大きくはないこの部屋を満たし始める。
 浦原が横目で夜一を見た。
「まずは、明日の夜、三人で駆け落ちしましょ」
 低く小さく囁かれたその声に揺れはどこにもなかった。夜一は無言で頷き、にやりと猫のように笑ってみせた。
 ざわめく葉擦れの音はまだ鳴りやまない。








 浦原さんと夜一さんの駆け落ち前夜です。この中に独自の設定がぎゅうぎゅうに詰め込まれています。詰め込みすぎて壊れそうなくらい。話の根底にあることについては(かなり乱雑ですが)考察を書いたので、考察設定ページをご覧頂ければと思います。
 喜夜の話は今のところ、05、25、27でして、凍結してある25に浦原さんと藍染さんの話があります。その話は現在、ちょっと考え直し中なのですが、この三つで浦原さんと夜一さんが逃走するまでの(このサイトなりに妄想してみた)出来事を簡単に書けていけたらと思っています。私にとって、この二人はカップルというよりも運命共同体のようです。


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