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01 前兆
白哉は一人きりだった。 その誕生は周囲の者全員に待ち望まれ、歓迎された。父も母も、彼らに連なる多くの者も、付き従う者達も、皆、白哉を愛した。白哉はそれを幼いながらも理解していたから、自分の内に吹く木枯らしのようなものをどうにも不思議に思っていた。何故、自分はひとりきりだと感じるのだろうかと、幼い頭で懸命に考えた。それは誰にも言わなかった。皆、愛してくれていることを彼は知っていたからだ。白哉はその木枯らしのような感情を顔に出すこともしなかった。それは家の教育でもあったし、何より、周囲の人間を心配させることを白哉は望んでいなかったからだ。 一人、白哉はその木枯らしを抱えていた。 それをなんと呼ぶのか、幼い彼はまだ知らなかった。
幼なじみである、かなり年上の少女はそんな白哉をかわいがった。周囲の人間とは異なる、一見すると乱暴な可愛がり方は周囲の者をはらはらさせたが、その直接的な表現は白哉にとっては心地よいものだった。白哉はその心地よさを表情に出すことは殆どなかったが、少女は無表情の中にかすかに、波間に揺れる光のように浮かぶ彼の喜びを見逃しはしなかった。 「そなたは、本当に不器用で……かわいい奴よのう」 およそ女性らしくも若者らしくもない口調で、少女は白哉の頭を乱暴に撫でる。彼女は綺麗な黒髪を短く切り、しなやかな身体は浅黒い肌で覆われていて、まるで闇の中にいる黒猫のようだった。実際に気紛れな彼女はまさに猫のようで、もう一人の幼なじみである下級貴族の少年は毎日振り回されていた。 「いいんですよ。彼女はああでないといけませんよ」 あるとき、白哉が少年に大変ではないのかと尋ねると彼は笑ってそう言った。普段は飄々とただ笑っているだけの少年の笑みはそのときだけは深く柔らかくなり、白哉は強烈にそれを羨ましく思った。その理由は判らない。ただ、白哉は何かを渇望した。常に静かな白哉の目は珍しい光を帯びていたのだろう。少年は白哉を見てわずかに驚いた顔をして、次に優しげに笑って彼の黒髪を撫でた。 「白哉サンにも、そのうちにそういうお人が現れますよ」 「……そうなのか」 「そうですよ。そういう巡り合わせはあるもんですよ」 白哉の前に屈み、少年は彼の小さな手のひらをとると柔らかく握った。そして、さ、帰りましょ、皆さん心配してますよ、と言って歩き出した。
また、白哉には幼なじみの兄妹がいた。その兄妹は白哉と同等の家柄の者だったが、どこかざっくばらんとした育て方をされていて、その言動に白哉はよく驚かされていた。 「おう、白哉」 白哉よりも少し年上の少年は、白哉を見つけては何の断りもなく彼を肩に担ぎ上げた。 「な、何をするっ」 「何って、肩車だぜ。あっちで鬼事してるんだ。行こう」 白哉を肩に担いだまま、少年は走り出す。白哉が頭にしがみついたまま彼の横顔を覗き込むと、少年はその睫毛がきれいに生えた大きな眼で見返して、にやりと笑った。 「もっと速く走っても大丈夫か?」 「問題ない」 少年の笑みは決して上品なものではなく、どちらかというと粗野だった。しかし白哉はその笑みを浮かべた横顔を見ていると、どこか気後れし、そして惹かれた。 向こうの方では彼の妹である少女が大きく手を振っている。その仕草もとても姫と呼べるものではなかったが、白哉はそれを眩しそうに眼を細めて眺めた。その姿はみるみる近づき、少年が急に止まって白哉が肩から放り出されると、その身体を少女はしっかりと受けとめた。 「兄貴、何やってんだよ。白哉が怪我すんじゃねーか」 「なあにこれくらい、白哉は平気で着地するよなあ」 白哉は少女の柔らかい腕の中で戸惑いながらも「うむ、出来る」と言う。そして見上げると、少女の、彼女の兄とそっくりの大きな睫毛に縁取られた眼と見合った。そうすると少女はその眼を細め、ばさばさと白哉の髪をかき混ぜるように撫でて、 「お前もかわいくねえなあ」 と笑う。そしてひょいと地面に白哉を降ろした。白哉は二人の兄妹を見上げる。二人とも開放的な、何も隠していない顔で笑いかけてきた。
白哉の両親は彼を大切に育てた。 それは決して甘やかしたものではなく、不必要に厳しいものではなかった。上流貴族としての意識、振る舞い、家を背負うということについて両親や周囲の者は、しんしんと白哉に浸透するように何かにつけて彼に話して聞かせた。それは長男として、唯一の跡継ぎとして産まれた白哉にとっては必要なことであったし、その教育こそが彼への愛情だと彼らは考えていた。 「白哉さん」 体の弱い母は、午後の陽射しのさす部屋で白哉に言い聞かせる。 「しっかりと生きていかねばなりませんよ。私達が支えているのは私達だけではありません。付き従ってくれている者達の生活。これまでの家の歴史と家が支えてきた瀞霊廷の歴史。それらを守り支えていくことを忘れてはいけません」 「はい、母上」 一間ほど離れた場所に正座した白哉はしっかりと母の目をみて頷く。その距離を詰めることは殆どなかった。家の長たるものは、誰かに甘えてはならないことを理解していたから、白哉は母の細い腰に抱きつくことはしなかった。 「白哉」 年老いていた父は広い庭の中にある藤棚で白哉と並んで藤を見上げながら話す。 「そなたは霊力もあり、それも強いようだ。おそらく成長するにつれて死神になりうる強さになるだろう。朽木家の長としてだけではなく、死神として更にこの瀞霊廷の支えとなりなさい。それが貴族の役割であり、力を持つ者の役割だからな」 「はい、父上」 白哉は懸命に父の顔を見上げるが、彼は屈むことをしなかったから白哉は父の表情が見えなかった。ただ横にあった大きな手のひらを握ろうかと考え、そして白哉はそれもせずに頭上の藤を眺めていた。 父も母も、白哉を限りなく愛していた。それは独善的な盲目的なものではなく、ただ白哉のことを思い、朽木家で生きていく白哉のためを思った愛情だった。しかしその基盤から「朽木家」が抜けることはなかった。彼らは朽木家として生きること以外を知らなかったし、想定もしていなかった。 白哉はその愛情を受けとめていた。この家に生まれた以上はそれが当然とも思っていたし、両親の愛情は本物だと判っていたからだった。 ただ少しだけ、両親の前にいると自分の中に吹く木枯らしを感じずにはいられなかった。その手に触れたいと沸き上がるその思いを黙って抱え、白哉は父と母を見上げていた。彼らの微笑みはあまりに高いところにあったから、彼らが微笑んでいることを知ってはいたが白哉にはあまりよく見えなかった。
そうして日々はゆるやかに過ぎていった。
白哉は死神となった。彼の能力は秀でており、貴族だから特別扱いだという周囲の陰口を白哉はその実力で黙らせた。先に死神となっていた幼なじみ達も、影で彼を助けていた。それは判りやすいものではなく直接的なものでもなく、ただ白哉の表情には出さない傷を癒すものだった。 「おぬしは不器用のままに育ったのう」 漆黒の幼なじみは少女から美しい女性へと変貌していたが、相変わらずの口調で白哉をからかい、しかししなやかな腕を伸ばして柔らかい手で頭を撫でた。 「そんなことはない」 「それが不器用と言うのだろう。まあそれもまた良しか」 欄干に腰掛けていた漆黒の幼なじみは、遠くを見て笑うとひょいと降りた。白哉がそちらに目をやると、同じく幼なじみの、かつての少年が青年の姿をしてやって来ていた。彼は白い羽織を翻して白哉に並ぶ。 「十二番隊隊長、ご無沙汰している」 白哉がそう挨拶すると、青年はへらりと笑う。 「いやですよう、白哉サン。そんな堅苦しい」 「兄は隊長であり、私は一介の死神なのだから当然のことだろう」 「もう席官でしょうが。おめでとうございます、白哉サン」 幼なじみの青年が、ほぼ同じ高さになった白哉の頭を昔と同じように撫でる。その横で漆黒の幼なじみは可笑しそうに笑った。 「ほれ、お前が遅いから白哉がふて腐れておる。全く、儂も早めに仕事を切り上げてきたというのに」 「すみませんねえ。ちょっと研究が終わらなくて。ま、でももう終わりましたし、行きましょ。良い店なんですよ、これがまた」 「うむ。白哉、おぬしは遠慮せずにな。おぬしの昇進祝いなのだからな」 二人に背を叩かれて、白哉は無表情のまま歩き始める。空を見上げると星が瞬き始めていた。そして花火師となった幼なじみの妹と、死神をしているその兄が一族総出で花火を打ち上げてくれると言っていたことを思いだし、白哉は店から空が見えるかどうかを尋ねようと口を開け、そして閉じた。 目の前の二人は同じ波長の光の中で話しているように、一瞬だけ見えた。 白哉は幼なじみの兄妹の姿も思い出した。彼らもまた柔らかい光の中にいるように白哉は思う。白哉はわずかに顔をしかめた。白哉は自分に与えられている愛情を疑ったことはない。しかし成長した白哉は、幼い頃から自分の中に吹いていた木枯らしの名を知っていた。 何故だろうと思う。男女の愛を求めているわけではない。家族の愛に飢えているわけではない。なのに何故、自分は感じるのだろうかと白哉は不思議でならなかった。 ふと、目の前の青年が白哉を振り返った。そして顔を見て、へらりと優しく笑う。 「白哉サン、大丈夫ですよ」 「何がだ」 「いやだなあ、もう。ほら、今はアタシタチですけどね」 白哉の肩を抱えるようにして青年が歩き出す。鬱陶しそうな顔をした白哉を見て、漆黒の幼なじみはまた可笑しそうに笑った。
そして、その幼なじみ達も白哉の目の前から消えていった。 まず最初に、兄妹の家が瀞霊廷から流魂街へと追いやられた。兄は死神をしていたから会えないということはなかったが、妹の方はそのまま流魂街で暮らすようになり、朽木家の者としてはなかなか流魂街へ向かうことは許されなかった。何より、追いやられた理由を誰も知らなかった。中央に掛け合おうとした白哉を兄の方は笑って止めた。そして、何も知ろうとするな、と一言だけ囁いた。 次に、漆黒の幼なじみと青年が尸魂界から追放された。 何も知らず、何も教えられていなかった白哉は、その出来事を知らされたときに眉一つ動かさなかった。そのまま職務をこなし、淡々と一日を過ごし、隊舎にある個室へと戻って初めてその顔を歪めた。もうすでに白哉は追放の理由を知ることのできる地位にはいたが、詳細を無闇に知ろうとはしなかった。ただ、自分に何も知らせなかった彼らの思いを理解して、一人静かに唇を噛んだ。
白哉は、ひとりきりだった。 父も母もすでに死に、朽木家の長として、一人広大な屋敷を守っていた。 木枯らしはますます強く吹いた。その乾いた音が漏れないように白哉はただそれを抱えていた。 そうして日々は更に流れた。
ある日、南門の傍を通りかかったときだった。 「お願い致します。どうか中にお入れ下さいませ。お願い致します」 細い、けれど通る声が聞こえて白哉は振り返った。その声は門の向こうから聞こえる。その響きは白哉の中に引っかかり、その響きを確かめたくて彼は向きを変え、門に向かって歩き出した。 「お願い致します。中に妹がいるやもしれないのでございます。妹には霊力がございましたから、死神になっているかもしれないのです。私はずっと妹を捜してここまでやって来たのでございます」 「そう言われてもなあ。規則でな、どうしても入れられんのだよ、お嬢さん」 「お願い致します……ならば、せめて、門番様。この姿に似た少女をご存じ在りませんか」 近づくにつれ声ははっきりとし、その哀切な響きの声は白哉の耳に染み通った。何かを渇望した、擦り切れそうになるまで求めている声に白哉の内側に吹く風が呼応する。白哉は木枯らしがきりきりと吹き荒れるのを感じた。その吹き荒れた木枯らしの中には幽かに怖れも混じっていた。これまで自分にはなかったものが門の外にあるということを、白哉は感じていた。彼はそうっと門の外を覗いて、そして息を止めた。 細い細い、吹き飛ばされてしまいそうな女性が土下座をしていた顔を上げた。 「この顔に似た少女をご存じ在りませんか」 大きな眼は必死な光で輝いていた。頬は痩け、血管が透けそうな程の白い肌は薄汚れているのに、その強い思いが全身から溢れていた。乾いて切れた小さな唇が懸命に動き、門番へ願いを述べていた。 「妹は必ず、この姿に成長しているのでございます。門番様、見覚えはございませんでしょうか」 華奢な肩が震えていた。地面についた両腕は身体を支えられるのかと思うほどに細い。全体的に小さな身体はそれでも一歩も退かず、巨体の門番と向き合っていた。 「困ったのう……覚えはないのだが」 「ならばここで通りかかる人々に問い続けることをお許し頂けませんか」 「それも……いや、俺にそれを許す権限はねえからなあ……」 門番の戸惑いを含んだ言葉に、女性はがっくりと項垂れた。細い首が折れるかと思い、白哉は一歩踏み出した。その足音に門番が振り向き、慌てたように道をあける。 「朽木様、どうなされたんで」 「いや」 顔をわずかに上げた女性から目を離さず、白哉は門番に言う。 「通りかかっただけだ。何があった」 「それが……」 門番が口籠もったそのとき、白哉を見上げた女性と眼があった。
吹き荒れていた木枯らしがぴたりと止んだ。
「そなた、何があった」 手で門番の言葉を制すると、真っ直ぐに女性を見て白哉は言った。そしてふと気づき、白哉は女性の前で片膝をついた。 「び、白哉様、お召し物が」 付き従っていた者が背後で慌てた声を上げた。周囲の人間のどよめく気配がした。しかし白哉はただ、女性の大きな眼を見ていた。 この眼を知っている、と白哉は心の中で思う。 これは求めている眼だ。何を。何かをただひたすらにたった一人で求める眼。 「何があった……そして、そなたの名はなんという」 「…………緋真と申します。私の……過ちで行方知れずとなった妹を捜しております」 透明な声が、細く、しかしはっきりと言葉を響かせた。その響きは白哉の中で更に大きく響き、それは柔らかく、そこはかとなく哀しい和音を奏でる。 白哉はいつかの、幼なじみの青年の言葉を思い出した。それが今、現れたということを彼は唐突に理解した。 白哉の中から木枯らしの凍るような音が消え、静かに和音が響き渡る。これが何の兆しなのか、これから先どうなるのか、白哉は何も知らない。ただ、何かが自分の中で動き、仄かな熱を発し始めたことを白哉は感じていた。 もしかしたら勘違いかもしれない。一生得られないものをただ求めているだけなのかもしれない。このどこか哀しい和音そのままに未来はあるのかもしれない。しかしそれでもいいと白哉は思えた。一瞬、父の母の思いが脳裏をかすめる。白哉は一度眼を閉じ、両親の顔を思い浮かべて、詫びた。 目を開けると、白哉がずっと求めていた眼が彼の姿を映している。 「……判った。緋真よ、私が力となろう。私の屋敷へ参れ。客人として滞在すればよい」 緋真の目が大きく見開かれた。 「び、白哉様。屋敷に流魂街の者を入れるなど」 「私が客として招くのだ。何か問題があるか」 「し、しかし」 慌てて止めに入ろうとする従者を一睨みで黙らせ、白哉は再び緋真の顔に向き直る。緋真は呆然としていたが、目が合うと我に返ったように平伏した。 「あ、ありがとうございます。本当にありがとうございます」 埃にまみれた、それでもなお美しい黒髪が地面に触れている。白哉は遠慮がちに黒髪に手を伸ばし、触れる直前で手を止めた。その手を握るとそっと引き、立ち上がる。 「よい。顔を上げろ。屋敷へ向かう。そこで詳しく話を聞こう」 「はい……ありがとうございます」 緋真は顔を上げ、白哉を見上げるとふうっと、綻んだ花のように微笑んだ。細められた眼には涙が満ち溢れ、そこに映る白哉の姿はゆらりと揺れる。 白哉は何も言えずに、ただ自然と緋真に手を差し伸べた。
色々と捏造の多い話です。夜一さんや喜助さんが幼なじみかどうかも微妙なら(一応、幼い頃のことを語った場面もありましたけどね)、志波家兄妹が幼なじみかどうかなんぞ判りませんからね。まあ、没落前なら知り合いだったかなあ、なら幼なじみなら良いなあなどとつらつらと思いつつ書いておりました。年齢差も知りませんが、びゃっくんが一番下だとなんか良いなあと思いつつ以下同文。まあとにかく捏造です。
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