|
10. 一雫の涙
ギンが泣いたところを乱菊は見たことがない。
切なげな表情を浮かべることはある。どうにもやりきれない、もどかしさすら伝わるような顔をして自分を眺めるギンに気付いて、乱菊は微笑みを返すしかない。そうするとギンはその表情をゆっくりと崩して笑うのだ。乱菊は、ギンがどうしてあんな表情を浮かべて自分を見つめているのか知らない。およそ子供らしくない、何かを諦めたような、それでいて渇望しているような顔をしているギンに気付いてから、乱菊はギンがいつか泣くのではないかと思っていた。 もし、ギンが涙を零したら。そうしたら自分はしっかりとギンを抱きしめよう。乱菊はそう決めていた。自分のこの幼い手ではギンの全てを受け止めきれないかもしれないから、ならば全身でしっかりと抱きとめよう。そう考えて、乱菊は自分のその考えがとても良いものに思えた。乱菊が泣いているときに……乱菊はギンのこと以外で涙を流すことは滅多になかったが……ギンは乱菊を強く抱きしめる。そうされると、乱菊の奥底にある涙の凍り付いたようなものはその体温でゆるゆると溶けて、胸を重く塞いでいたものが流し出されていく。軽くなる自分を感じて、乱菊は大きく息をつける。それを思い出して、乱菊は自分の胸の前で手を組んだ。ギンが泣くようなことがあるのは嫌だけれど、もしそうなったら、自分の体温で重く冷たいものを溶かそうと。
幼い頃からずっと、乱菊はそう決めていたのに。
「……ギン…………?」 背中にこぼれ落ちる熱い雫を感じて、乱菊は小さく小さくギンを呼ぶ。ギンの返答はない。ただ、乱菊を押さえつける手の力が弱まり、そしてすっと離れたかと思うと背後から抱きしめるように両肩に手が触れてきた。ギンが乱菊の背に覆い被さってくる。その体も熱い。ギンの頭が肩に触れる。さらさらとした髪が汗ばんだ肌を撫でた。 「ギン……?」 自分の声の弱さに戸惑いながら、乱菊はギンを呼んだ。ギンは何も答えずに、ただ乱菊の肩に額をつけている。微かに震えが伝わってくる。肩に、熱い雫がぱたぱたと滴り落ちている。 寝台に押しつけられた顔はギンの頭と反対の方を向いているから、乱菊はギンを見ることができない。ただ、背中に感じるギンがあまりに切なくて、乱菊は体を起こそうと力を振り絞る。両腕に力を込めて上半身を寝台から持ち上げた。そこに出来た隙間にギンが後ろから腕を回してきて、乱菊を抱きすくめた。ギンの体重がかかり、乱菊は再び寝台に伏す。 乱菊を抱きしめるギンの腕に力がこもる。それでも乱菊をきつく抱きしめることはしない。ただギンの、熱をもった体が隙間をなくすようにぴったりと乱菊に寄せられる。肩胛骨のあたりに熱く湿ったギンの息を感じる。荒く乱れたそれは、かすかに引きつった音を立てている。 泣いているの? 乱菊はその一言を問うことができない。肩に滴る雫は熱く、やむことなぱたぱたと落ちては肌の上を流れていく。それなのにギンは嗚咽一つもらすことなく、乱菊の中で動かぬままにじっとしている。涙の気配をさせるギンを感じるのは初めてだ。その沈黙が重すぎて、乱菊は返事を期待しないまま小さくギンを呼ぶ。 ふと、ギンが強く乱菊を抱きしめた。乱菊の中にあるものが大きく膨張する。下腹を圧迫するそれに乱菊は低く呻くが、それでもギンは乱菊の肩に額を押しつけたまま何も言わない。 熱い雫が流れ落ちる。流れ落ちていく。 体がこんなに熱いから、ギンの中にある重くて冷たいものが全て溶けて流れ出しているのだろうか。乱菊は霞のかかったような頭でぼんやりと思った。あの胸を塞ぐ重くて冷たいものがギンの中からなくなるのならば、それならばいいのかもしれないとも乱菊は思う。ああでも。乱菊はもどかしく寝台に投げ出されている手を動かす。 これではギンを抱きしめてやれない。 泣いているギンを抱きしめてやることができない。 こんなことをする理由も、これから学院でやっと安全な生活ができるというのに、自分との過去を捨てろという本当の理由も、何も説明することもなくギンは乱菊の背で熱い雫をこぼしている。もしかしたら泣いていないのかもしれない。ただ汗が滴っているだけなのかもしれない。しかし、乱菊はこのかすかに伝わる震えを無視することはできなかった。 「……ギン」 掠れた声でギンを呼ぶ。ギンは顔を上げて、頬をよせてきた。その頬は濡れていて、ひたりと乱菊の頬にくっついた。昔からずっと繰り返してきた二人の行為なのに、ギンの頬が濡れていたのは初めてのことだった。ああ、ほら。ほら、やっぱりそうじゃないの。乱菊は固く眼を閉じた。
ギンが泣いたところを乱菊は見たことがない。 ただ一度だけ、背中でその雫が滴るのを感じたことがあるだけだ。そのときのギンの嘘を乱菊は何も訊かずに受け止めた。 その嘘と、それにまつわる出来事がこれからの二人の未来を決めたことを乱菊が知るのは、もっとずっと後のことだった。
|
|