G*R menu


9.嫉妬と独占欲

 男女の言い争う声が廊下にまで響いている。
 それが自分の向かう教室から聞こえていることに気付き、乱菊は大きく溜息をついて足を止めた。男の方が一方的に女に怒鳴られているようで、低い声が何かをぼそりと言うとすぐに女が金切り声を上げている。乱菊には女の声しかはっきりとは聞こえなかったが、相手の男が誰であるのかはその声と訛りで、何より気配ですぐに判ったから、とにかく関わり合いにならないようにと背を向けた。机の中に忘れてしまった教本は必要なのだが、仕方ない。面倒だが後で、午後の授業全て終わった頃にでも取りに来ようと乱菊は思う。
 廊下を引き返そうと一歩踏み出したところで、背後が急に静かになった。一、二、と数えたところで女がしゃくり上げる声がした。乱菊は窓の外に眼をやる。淡い黄緑色に芽吹いた枝の向こうに広がる空は淡く青い。雲は白い。日に日に暖かくなる太陽の光がまんべんなく降りそそぎ、廊下には柔らかい窓枠の影が規則正しい四角の枠となっておちている。その陽気に似合わない、乱暴に戸を開ける音がした。乱菊は振り向かない。悲痛な泣き声とぱたぱたという足音が近づいて、乱菊を追い越していった。泣きながら走り去る女子学生は華奢で小さく、焦げ茶色の真っ直ぐな髪をしている。乱菊の制服よりも袴の裾や肘などのあたりがきれいだから、おそらく下級生なのだろう。その影が廊下の角に消えたところで、乱菊は振り向いた。
 教室の扉に寄りかかったギンが、へらりと笑った。
「ギン」
「どないしたん、乱菊。こっち来はった思うたら背ぇ向けて。こっちに用事あるんやないの」
 ギンはいつも通りの、乱菊にだけ向ける顔をしている。乱菊は習慣的に周囲を見渡した。人影はない。耳を澄ましても気配はなかった。ギンは小さく笑い、
「誰もおらんよ。昼休みやさかい、皆、教室になんかおらへんよ」
と言った。乱菊は苦笑して、本を抱え直す。
「……忘れ物を取りに来たのよ。全く、痴話喧嘩を教室でするの、やめてよね」
「せやからボク、話終わらせたやないの」
「最っ低」
 呆れた声で乱菊は呟く。目を細めてみせると、ギンは困った顔をした。
「あんた、あの女の子に何言ったのよ」
「ええぇ、別に何でもええやないの」
「言ってみなさい」
 問いつめるとギンは更に眉を寄せる。少しばかり唇を尖らせてすねたようにするが、諦めたのかギンは口を開いた。
「ええとなあ、あの子いろいろ言うてくるさかい、面倒やから周りうろうろしよるの止め、て」
 乱菊は呆れて口を開けて、また閉じた。ギンは乱菊を窺うように覗き込んで、
「で、泣きよるからな、君が何しよっても興味ないしどうでもええし、せやからボクに何か望むん止めてもらえるかなあ、うっとし、て……言い、ました」
と声を小さくして話す。乱菊は険しい目でギンを見上げた。ギンがせわしなく視線をそらす。
「あんた、最低最悪」
「う」
「言語道断」
「うう」
「女の子にうっとうしいなんて言うもんじゃないわよ。まったく」
 そう言って乱菊が睨むと、ギンが不服そうに視線をそらした。
「せやけどな、別にボク、あの子とどうこうしとったわけやないんやぞ。あの子が傍におっていいか聞きよるから、好きにしたらええって言うただけやもの。別にボクがあの子に何か望んだわけやない」
「あんた、最初から大きく間違ってる」
 乱菊はまた大きく溜息をつく。
「女の子の方は、あんたに好いてほしくて近づいてるんだから、その意に添えないんなら最初から断ってあげなさいよね」
 ギンは小さく笑った。
「それはおかしいわ。女の子の意に添えるかどうか、最初はわからへんもん。せやから一応、断らんでおるんやけど」
「……なぁんだ。あんた、恋をする気があったのね。一応」
 意外に思って乱菊がギンを見上げると、ギンは柔らかな目をして乱菊を見ていた。
「恋うんぬんはどうでもええけど」
 囁くような声でギンは言い、乱菊の右手を両手で取る。それの甲を自分の唇に当てるようにして、ギンが眼を閉じた。
「ただ、なあ……ボクも、もう少し、うん」
 吐息を手の甲に感じて、乱菊はその骨張った手を握りしめた。そして苦笑して、
「うまく言葉にならないなら、無理して言わなくていいのよ」
と言った。ギンがきつく眼を閉じる。
「そうやね。よう言えへんわ」
「普段は無駄に口が達者なのにねえ」
 笑いながら乱菊が空いている手でギンの頭をなでると、ギンは表情を和らげた。
 廊下にも、他の教室にも人の気配はなく、しんとしている。窓の向こう、下方からはざわめきが聞こえるが、それもこの静けさをゆるがせはしない。乱菊には、ギンのかすかな息しか聞こえない。
「乱菊」
 小さな声でギンが呼んだ。
「なに?」
「さっきな、あの子、ボクに言うんよ。他の女の子と喋るん止めて、て……まあ、他の子いうても、ボクと喋りよる女の子なんぞ、君らしかおらへんけどな」
「うん、そうね。それで?」
 促すと、ギンは困ったように眉を寄せた。
「面倒やなあ、思うて。恋も、それしとる子もえらい面倒やわ。そういうの見とると、ホンマどうでもようなる」
 その情けなく寄せられた眉を見て、乱菊は軽く吹き出した。そしてそのままくすくすと笑い、撫でていた手でギンの頭を寄せて、額をつける。目の前で銀髪が揺れた。
「仕方ないわよ、ギン。みんな、自分の中にぽっかり空いた穴を埋めたいのよ。だからそうして相手を奪いそうな周囲を妬んだりするし、その人を独り占めしたくなったりするんでしょ」
「なんやねん。穴て」
「恋って落ちるものらしいわよ。穴がないと落ちられないじゃないの」
「崖かもしれへんよ」
「いいのよ、穴で。なんか文句あるの」
「ありません」
 畏まって答えながらも、ギンの目は可笑しそうに細められている。それを見て、乱菊は口元を緩める。
「……あたし、あんたが他の女の子と仲良くなっても、別に悔しいとも妬ましいとも思わないのよね。もう少しうまくやんなさいよ、とは思うんだけど」
 小さく、息を吐く。
「だから、あたしには穴がもうないのね。恋を知らないままだわ」
 そう言うと、ギンは細い目をきょとんと開く。わずかに見える瞳の色は春の空を映したようだ。
「なら、ボクも知らんままやわ」
 乱菊がのぞきこむと、ギンはくすぐったそうに笑う。そうして、握ったままだった乱菊の手を優しく包み込んだ。
「穴なら、ボクにはもう空かへんもん。うん、もう、空かへんわ」
 ギンの手は温かくて、乱菊は目を細めた。
「ボクは乱菊が笑うていれば、それでええもんなあ」
 その声に乱菊は眼を閉じた。昔から、ギンと共に暮らしていた頃からずっと思っていたことが浮かんできて、乱菊は笑う。
 ほら、やっぱり。
 二人とも、恋なんてしないうちに穴を埋めてしまってるじゃないの。
 眼を閉じたまま、乱菊は囁いた。
「あたしもよ」
「……うん」
 呟くように答えるギンを見ようと、乱菊は目を開けた。
 ギンは、幼い頃のようにただ笑っていた。
 柔らかな太陽の光がその輪郭をぼやかしていた。







 二人の学院時代の話は、当サイトの妄想捏造によるオリジナルです。長編の三番目がそれに当たります。この小話はその時代の一場面です。

  G*R menu novel short story consideration
Life is but an empty dream