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8. 幸せを感じる一瞬

「乱菊さんが、「ああ幸せ」って感じる一瞬って、どんなときですか?」
 唐突に訊いてきた七緒に、乱菊はまさに飲み込もうとしていた団子を喉に詰まらせた。隣の席で堰を切ったように咳き込む乱菊を、背を撫でるとも叩くともせずに七緒は眺めている。お茶の時間には遅い宵の店内には乱菊と七緒しかおらず、咳き込む音が響いた。
「ちょ、ちょっと七緒、せめて何か優しくしてよ」
「丸飲みしようとなさるからでしょう」
 冷ややかにそう言う七緒に対し、温くなっていたお茶を一息に飲み干して、乱菊は大きく溜息をつく。
「冷たいなあ、七緒ちゃんったら」
「その呼び方はよして下さい」
「誰かさんを彷彿とさせるからかしら」
「今日は早引けの日。個人的な時間なんです。思い出させないで下さい」
 七緒はわずかに頬を赤らめて、綺麗な細い眉を顰める。ちぐはぐのその感情表現に、乱菊は微笑んだ。その笑みを見て七緒は更に眉間の皺を深くする。
「どうしたのよ。急にそんな奇怪な問いを」
「……今朝、京楽隊長が仰ったので」
 これ以上は刻まれないだろうというくらいに眉間の皺が深くなり、七緒は白い指先でその眉間を揉みほぐす。以前、京楽に「皺がとれなくなるよ」と言われてからの七緒の癖だ。
「とにかく、どんなときですか?」
「幸せねえ」
 七緒の問いに、乱菊は頭蓋の裏を覗き込もうとするかのように目を上に向けてどことなしに思いを馳せる。
「幸せって、なんか言葉が曖昧でよく分からないけどね」
「……現在の暮らしは、幸せだとは思っているんです。恵まれていて、地位もあって、穏やかで、……友人もいて、尊敬していなくもない上司もいて」
 七緒はそう呟くように言い、それでも納得いかないのか考え込むように唇に指を当てる。その仕草を横目で見やり、そして乱菊は眼を閉じた。
「でも……それも確かに幸せだろうけど、、それって、振り返ってみると「ああ幸せ」って思う類のことよね。でも、「今あたしものすごく幸せ」って、その瞬間に感じるようなのって、もっと強烈で明確で、でも暖かくて柔らかかったような気がする」
 幸せ。
 瞼の裏に思い浮かぶのは朝日に白く輝く銀色の髪。
 乱菊には、振り返ると本当は幸せだったという時代があった。そしてその頃でも時折、とても幸せだ、と感じる一瞬があったと乱菊は思う。
 あの頃はもっと、生きることが厳しくて、喜びも苦しみも哀しみも激しく鮮やかだった。空も雲も森も河も花も血も何もかも、鮮烈な色をしていたように感じる。
 その中でも一際輝いていたのは銀色の。
 遠くからでも一目で分かる、諦めても諦めても帰りを待っていたあの姿。あの姿を確認して、駆け寄って抱きしめるまでのあの長いような時間。抱きしめたときのあの安心感。あの瞬間は全てを忘れて、その幸福を全身で味わっていたように思う。
 それも今は遠すぎて、そうだったかなと思えるだけなのかもしれないけれど。
 目を開けて、乱菊はかすかな苦い笑みを浮かべた。
「乱菊さん?」
 七緒がほんの少し、怪訝そうな表情で乱菊をのぞき込み、乱菊は誤魔化すように肩を竦めた。
「昔にあったような気がするけど、昔すぎて思い出せないわ」
「そうですか」
 何かを察したのか、七緒はただ頷く。そして目の前に飾られた花を睨むように見つめて、
「今朝は隊長に、隊長が仕事を早々に片づけて下さった時です、って申し上げたんですけど、本当はもっと、そんな生意気なことじゃなくて、もっと違うことを言いたかったんです」
と呟いた。
「京楽隊長なら、分かってるわよ」
「そうかもしれないですけど、でも」
 生真面目に誠実に考え込む七緒を見て、乱菊はどこか切なくなって、目を細めた。









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