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地上の縁からのぞき込むと深遠の青が底もなく 11
男子学生と女子学生の退学の事件はしばらく囁かれていたが、いつのまにか消えていった。物事は流れゆき、大小にかかわらず日々新しいことが出てくる。夏が去り、秋が訪れたころには人々はそんなことがあったことすら忘れていた。ただ一部の人間の中にだけ、しこりを残しただけだった。
窓の下の方から虫の声が聞こえている。 乱菊は寮の自室で寝台に寝転がり、頬杖をついて教科書を読んでいた。胡桃染めの小袖の裾がめくれあがっている。窓から流れ込む空気は涼しく、どこか乾いている。色づいた枯葉が一枚、風に乗ってひらひらと床に落ちた。 扉を軽く叩く硬い音がした。 「乱ちゃん、いいかな」 乱菊は顔を上げ、寝台から滑り降りると扉に歩み寄った。外開きの扉を開くと、それを避けるようにしてリンドウが立っていた。紅花で染められた小袖を着ている。 「どうしたの。まあ、入りなよ」 体をどけて乱菊が招き入れると、リンドウは後ろ手で扉を閉めて入ってきた。寝台の上に広げられた教科書を見てリンドウが笑う。 「勉強中だったのね。そうね、試験は明後日だものね」 「範囲が広すぎ。さすがに勉強するわ」 「そりゃそうねえ。私もしてる」 そう言ってリンドウは微笑み、乱菊が教科書をどかした寝台に腰掛けた。乱菊もその隣に座り、リンドウの横顔を見つめる。それはどこか俯き気味で、乱菊は明るめの声で話しかける。 「どうしたの。一緒に試験勉強って感じじゃないけど」 「うん、そうじゃないわね」 リンドウは顔を上げると、眉を困ったときのように寄せて笑ってみせる。そして、さらりと、 「今日、市丸君にふられちゃった」 と言った。 一瞬、乱菊は言葉に詰まる。しかし頭の中は静かだった。そして、目の前の壁に顔を向ける。何故かふいに、決して忘れ得ないあの、入学前の夜のギンが思い出された。乱菊は眉をしかめる。 「そっか」 「あまり驚かないね、乱ちゃん」 「驚いてるよ」 「ううん。驚いてないよ。……気づいてた?」 リンドウもまたじっと壁と床の境目を見つめて動かない。乱菊は俯いた。 「……なんとなく」 「そっかあ」 敷布の上に両手をついて、リンドウは仰け反るようにして天井を見上げた。俯いている乱菊の眼に敷布の上のリンドウの爪が見える。その歪んだ爪は淡く透明に紅く染められ、紅く光っていた。 リンドウが乱菊の視線に気づき、爪を見下ろして笑った。 「……この爪ね、本当は現世でこうなったの」 「流魂街での生活じゃなくて?」 「うん、現世で」 リンドウは再び天井を見上げた。その向こうの夜空を見ようとするかのような遠い目に、乱菊は黙り込む。 「私、現世ではちょっといいとこの家にいてね。弟が跡継ぎで、私はのんびり暮らしていたの。そのうちに家のために嫁ぐんだろうってくらいしか考えてなくて、何の疑問もなく、それでいいと思ってた。私が文字を読めるのは、そういう家で育ってたから」 「うん」 「でもね、家臣に反乱起こされちゃって」 乱菊は横のリンドウをそっと窺った。リンドウの横顔は真っ直ぐ天井を見上げたまま、懐かしそうに眼を細めている。そこに激しい感情は見あたらず、乱菊はまた前を向いた。 「お父様とお母様はどうなったのか知らない。多分、殺されたと思う。私と弟は牢に……っていっても、庭の外れにある単なる浅い洞窟みたいなものなんだけど、そこに閉じこめられたの。私、どうしても弟を逃がさなきゃって思って、壁を掘ったの。道具なんてないから、手で」 自分の目の前に腕を伸ばして両手を広げ、リンドウはそこで軽く笑った。 「無茶だなあって今なら思うんだけど、でもあの頃は夢中でね。弟は跡継ぎではあったけど、体が弱かったから、あたしがやらなきゃって思っていた。手でずっとずっと掘って、爪が全部剥がれた。外までもう少しかなってところまで掘って、見つかったけどね。掘った穴から引きずり出されて、それで一緒にばっさり斬られたの」 目の前の両手を握り、膝の上に置いてリンドウは俯いた。 「一緒に斬られて良かった。一緒にここに来られたもの。私は弟とずっと一緒にいたの。ここに来てもあの子は体の弱かったけど、あの弟だけが私の全てだった」 「……弟さんは?」 「もう死んだわ。ここに来る前に」 俯いたままひっそりと微笑むリンドウを見て、乱菊はただ頷いた。部屋に沈黙が流れると、遠い階下の笑い声がかすかに聞こえた。 「弟はね、弱かったけど霊力はあって、だから余計に大変だった。食べ物を手に入れないとすぐに寝込んでしまったし、霊力は弱いから身を守ることもできないし。でも、私を支えていたのは弟だったの。ほら、髪が長いと掴まれたりして危ないじゃない? でも姉様は長い方がいいって、危なくないように弟が毎日結ってくれたわ。やっと生えてきた爪が歪んでいて私が泣いていると、弟は花びらを摘んできて、その絞り汁で染めてくれた。こうすると姉様はすごくきれいだって、花のようだって、毎日」 膝の上で爪を指の腹で撫でながら、呟くようにリンドウが話す。その眼は静かで、その口調は静かで、ただ愛おしむようにリンドウは爪を撫でた。乱菊は何も言わずにその爪を眺めていた。 初めて親しくなった日のことを乱菊は思い出していた。あの日、リンドウは、仲間のことを話すツワブキを眩しいものを見るように眼を細めて見ていた。 「本当は弟とここに来たかった。あの子が旅に耐えられるようになったら、ここに来るつもりだったの。でも、その前に風邪を引いてあっという間に死んじゃった。だから私にはもう何もないの……うん、でもいいの。弟が辛かったことも忘れて生まれ変わってるなら、それで。…………ただ」 リンドウの気配に乱菊は顔を上げた。リンドウは真っ直ぐに乱菊の眼を見つめていた。 「どこかがどうしても寂しいの。私の中にぽっかりと穴があるの。私、市丸君なら同じような空洞を持ってるんじゃないかなってふいに感じて、そう感じてから、少しずつ惹かれていったわ。私はもしかしたら、恋ではなくて寂しさに落ちたのかもしれない。でも、恋い慕う心って、そういう、何かが欠落しているから生じるものだと思うし、市丸君に惹かれたことは本当のことだと思う。……それを全部、市丸君に話したわ」 リンドウが消えそうに微笑んでいる。乱菊は笑みを無理に浮かべた。 「それで、ギンは」 「誰にでも空洞はあるし、ボクのソレは君のとは違うって。いつもの市丸君とは違う顔で笑ったわ。ちゃんと、笑ってくれた。それを見て、ああ私じゃダメなんだなって思って」 「……そっか」 乱菊は眼を伏せた。自分が安堵したわけでもなく、驚いているのでもなく、ただその話を受けとめていることを乱菊は理解していた。ただ、リンドウに何も話せないでいる自分に嫌悪感がよぎり、それを飲み込んで乱菊は苦く笑う。 リンドウは少し黙り込み、そして振り切るように無理をした笑みを乱菊に向けた。 「でもいいの。市丸君、私のことはちゃんとふってくれたから。他の女の子達と違って、ちゃんと。市丸君、言ったもの。私のことは適当にはしたくないから、きちんと断るって。だから、それで十分かなって思って」 「うん……そっか」 乱菊はリンドウの笑顔が眩しくて眼を細めた。リンドウは涙も浮かべず、ただ微笑んでいる。 「強いね」 独り言のように、乱菊は呟いた。 「そんなことないよ。やっぱり泣いたもん」 「ううん。でも強いよ。あたしだったら笑って話せるのかなって思う」 乱菊の言葉に、リンドウは少し顔を歪ませた。 「……ううん、私、少し嫌な奴だから、乱ちゃんには話しておきたかったの」 「どういうこと?」 「乱ちゃんと市丸君、仲が悪そうに見えるけど、でも本当は仲がいいんじゃないかって、ずっと感じていたのよ。なんとなく」 乱菊は黙り込んだ。リンドウは俯いていて、だから表情が見えなかった。 「乱ちゃんがどんな反応をするんだろうって、少し気になってたところもあって、だから話したの。でも、乱ちゃんはただ話を聞いてくれた。ごめんね。なんか、ちょっと試すようなことして」 人を狂わすのが色恋なんやろ。 いつかのギンの言葉が乱菊の中に暗く響いた。 「市丸君にも聞いてみたんだけどね。乱ちゃんのこと、どう思っているのかって」 乱菊は意識的に口角を上げた。 「級長さんは乱暴者で怖い、なんて言ったんじゃない?」 「うん……ふふ、冗談よ。一言、どうしてそこに級長さんが出てくるん、って言ったわ。それで、もう私、それ以上は何も聞けなかった……聞いちゃいけなかったのね。きっと」 何か言おうとして口を開き、けれど乱菊は何も言えずに口を閉じた。そして困ったように眉を寄せ、 「何なのかしらね、全く」 とだけ言って、首を傾げた。リンドウも同じように眉を寄せて苦く笑う。 「私、誰にも何も言わないわ。市丸君がそれで安心してくれるといいのだけれど。あーあ、でもこういうことを胸の中に秘めておくと、恋心までそのまま保存されそうで嫌よね。こんな時は、さっさと新しい恋をするに限るのに。卒業までには、上手に忘れていたいなあ」 「……とりあえず明日、あんみつでも食べようよ。おごるから」 乱菊が提案すると、リンドウはやっと明るく笑って振り返る。 「そうね。慰めてもらおうかしら」 「食べて遊んで、そうしていたらそのうちに新しい恋とやらも巡ってくるんじゃないかしら……知らないけど」 「乱ちゃん、自分は恋なんてどうでもいいって言ったんだから、適当なこと言っちゃだめよ」 「だって知らないんだもの。仕方ないじゃない」 二人は顔を見合わせて、そして笑い出した。
それ以来、乱菊はリンドウからその恋心の行方を聞かなかった。ギンもリンドウも普段通りで、乱菊は何も言わずにそれを見ていた。一歩離れてただ見ていた。 やがて周囲も乱菊もギンも、試験や卒業後の進路決定に忙しくなる。穏やかでどこか隔絶した学院という空間にも容赦なく時は流れた。
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