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地上の縁からのぞき込むと深遠の青が底もなく 10
学院から少し離れた森の中。 常緑樹の濃い深い緑に覆われたその建物は、学院の療養施設だった。授業や実習で怪我をしたり、在学中に病気になった者はここに収容される。この施設の二階の部屋に一人、窓の脇にある寝台に横たわる乱菊がいた。鎮痛剤が効いているのか、肩と背中の痛みは薄れている。乱菊は痛みに紛らわされることなくぼんやりと外を眺めている。葉の隙間から漏れてくる光はすでに赤く、そしてすぐに闇色を帯びてくるだろうと乱菊は思う。 学院から少し離れただけだというのに、ここは静かで人は滅多にやってこなかった。基本的には立ち入り禁止であり、見舞いなども時間が限られていることもあるだろう。 ときどき、初々しい緑の匂いをふんだんに含んだ初夏の風が葉を揺らし、開けられた窓から入ってきては乱菊の髪を揺らした。
森の中が闇に満ちる頃、下の方で急に人の気配がした。その意識的な気配の発散に、乱菊は返事の代わりに手を伸ばして窓枠を軽く叩いた。その音に再び気配は消え、草や木の肌を蹴るかすかな乾いた音がした。 暗い緑の中から、ギンが現れた。 「どんな具合や」 「別に、ここにいなくてもいいくらいに元気なつもりなんだけど」 よっこいせ、とわざとらしく呟いて、ギンは窓枠を乗り越えて寝台の脇に座った。乱菊は布団から出した手で、ギンの袖口を掴む。その手首には包帯が巻かれ、ギンは気づかれないように息を吐いた。 「……何や、ボク来るん待っとったんか」 「残念でした違います……ただ、来るかなって思ってただけ」 乱菊は俯いた。 「ちょっと、さすがに考えさせられちゃって……あの女の子の処分、退学なんでしょう」 ギンは素知らぬ顔をして、前を見つめている。ただ手が、乱菊の頭を撫でるように叩いた。 「乱菊が気に病んでもしゃあないやろ」 「そうだけど、気にするなっていうのも無理な話なの」 「勝手にあの男が自滅して退学しよって、それを勝手に逆恨みしよった女がやっぱり自滅しよっただけの話やないの。乱菊はむしろ被害者やぞ。気にすることあらへん」 乱菊がよく知る昔よりもずっと大きく骨張った手が、山吹色の髪に指を絡ませながらゆっくりと頭を撫でる。幼い頃は肩の上で揺れていた髪は肩の骨の下まで伸びていて、枕の上に広がっていた。ときどき、長い指はくるくると遊ぶように指に巻き付ける。ギンは眼を細め、目の前の乱菊を眺めた。 「……あたしがお付き合いしていれば良かったのか、なんてことは思わないんだけど」 乱菊ははっきりと言い、その相変わらずの迷いのなさにギンは笑った。軽くギンを睨んで、乱菊は続ける。 「ただ、理解できないっていうことが一つ。そして気の毒だなっていうことが一つ。あと一つが、理解できないからだと思うけど、怖いなって思う。これらをぐるぐる無駄に考えていたのよ」 指折りして説明する乱菊に、ギンは小首を傾げた。 「何を理解できへんのや」 「せっかく学院に入ったのに、そこを出ていかなければならないようなことをしでかすのか、そうさせる感情が分からないのよ」 「奴ら、金持ちやないの。別にここ出ても何も問題あらへんやろ」 ギンが酷く乾いた声で言った。口元は笑みの形をしていたが、眼が笑っていない。 「切羽詰まっとらんもん、奴ら。せやから、色恋沙汰であないなことしよるんよ。ここにしがみつくことあらへん。あんな奴ら、おったところで何の役にも立たん」 乱菊は苦笑した。 「きついね、ギン」 「当たり前や。乱菊を散々困らせた男と、乱菊を殺そうとした女やぞ」 酷薄な笑みがギンの口元に浮かぶ。今、目の前に彼らがいたらギンは迷わずこの表情のまま物騒なことをするだろうと乱菊は思う。実際、あの後輩の少女が乱菊を虚の前に突き飛ばしたとき、ギンはすぐに駆けつけてその虚を斬り捨てて、即座に少女に刀を向けた。 思い出して乱菊は眼を伏せる。 「ボク、どうして乱菊が奴らを気の毒やて思うのか、よう分からん」 ギンは乱菊の髪を指で巻き取りながら、呟く。 「あの男、乱菊のことよう知りもしないくせに求婚しよるし、断られたら散々乱菊を追い回しよって、気味悪うさせて。勝手に成績落としておかしゅうなって、寮に忍び込んで退学やないの。乱菊止めたから何もしぃひんけどな、乱菊の部屋に忍び込んだんは許しとらんぞ、ボク」 「うん」 「あの女なんぞ、あともう少し救助来るんが遅かったら絶対潰したわ。今やってボク我慢しとる。あの見目と家柄だけの男のどこがええんか、さっぱりわからん。男が退学なったんは乱菊のせいやないのに逆恨みしよって。分かっとるの、乱菊。あの女、ホンマに乱菊殺すつもりでしよったんやぞ」 「うん」 「乱菊見ぃひんかったろうけどな、あの女、君突き飛ばして薄く笑うたんや。えらい醜う顔しよって」 「うん」 乱菊は横向きになり、枕に半分顔を埋める。ギンの指から髪がするりと抜けて、ギンは所在なさげに手を乱菊の頭に置く。そして再び優しく撫でる。乱菊はその優しすぎる感触に縋りそうになって、眼を固く閉じた。 「分かってるの、ギン。あの子、本当にあたしを殺すつもりだったんだと思う。突き飛ばされたとき、すごく痛かったから。肩の傷より背中の打ち身より、ずっとあの時の方が痛かった」 瞼の裏にあの冷笑が浮かび上がって、乱菊はより固く眼を閉じる。
下の学年の最優秀学級との、合同演習の時だった。 突然現れた虚に襲われていた少女を見かけ、乱菊は助けようと霊圧を解放して彼らの間に飛び込んだ。そのときにその少女が一瞬驚いた顔をしたことを乱菊は覚えている。穴が開くほど乱菊の顔を凝視していた少女は、小さく、ありがとうございますと言って俯いた。その少女を背に庇い、隙を見て逃げなさいと言って乱菊は虚と対面した。 そして、強い力で背を突き飛ばされた。 突き飛ばされて虚の前に転がったとき、逆さまの視界であの少女の顔を乱菊は見ていた。冷笑、という言葉しか当てはまらない笑みを浮かべ、少女は勝ち誇ったようにそこにいた。次の瞬間、虚の攻撃の気配を感じて横に避けたが、肩に爪が当たったのか痛みが走り、その一撃に吹き飛ばされて乱菊はしたたかに背を壁に打ち付けた。それとほぼ同時に、乱菊の急に解放された霊圧を訝しく感じたギンが跳んできて、その虚を斬ったのだった。
乱菊はギンの向こうにある闇を見つめる。月の明かりは繁る葉に邪魔されて僅かにしか届かない。濃い深い緑の向こうは、ただの闇があった。 「あたし、あの激情が怖い。あの子、あたしのこと知りもしないのに、話したこともほとんどないのに、殺意を向けるその激情が分からない。それを引き起こす恋情が理解できない。寮でみんなとのお喋りに出てくる恋はそんな感じはしないのに」 「人を狂わすのが、色恋なんやろ」 静かな声でギンが言った。その沈んだ声に、乱菊は眼を向ける。 「分かるの? ギンは」 「どうやろ」 わずかに首を傾げて、感情のない声でギンが一言で答える。 「沢山の子と間をおかずに付き合ってるじゃないの。長くて一週間だけど」 「あれは単に勝手に期待して近づいてきて喚いて離れていくだけや。ボク、拒みもしぃひん。引き留めもしぃひん。それだけや。どうでもええ」 「そのうちに刺されるよ」 ギンはおかしそうに笑った。 「ボク刺せる女の子おったら、それこそお付き合いするわ」 「そりゃそうか」 乱菊も小さく笑う。ギンは背を屈め、乱菊の頭に額を付けた。銀髪がさらさらと流れて乱菊の目の前に落ちてきて、ギンの匂いがした。乱菊は眼を閉じる。 「ボクも色恋はよう分からん。でも、どうでもええ」 「うん。あたしもよく分からないし、どうでもいいや」 春の夜、リンドウ達と話していたことを乱菊は思い出した。乱菊も、おそらくはギンも、恋に落ちるための穴は塞がれているようだった。もう二人はそれぞれ、恋愛ではない別の物でその穴を埋めているのだろう。それは恋に近いかもしれないし、もしかするとそのものかもしれなかった。けれど乱菊にはどうしてもそれが恋とは思えない。血も憤りも汚れも幸福も喜びも、全てをギンと分かち合おうと決めた幼い頃からの気持ちに変化はなかったが、それもあの少女の持っていた狂気のような激情とは違う気がする。そしてギンもそう感じているだろうと、確信に近く乱菊は思う。 ふと乱菊は、微笑む口元を覆うリンドウの爪を思い出した。爪を染めるのは密やかな紅色。その手でリンドウは口元を隠して笑う。乱菊は、急に今の自分の状況を申し訳なく感じた。 「ギン、そろそろ行かないと見つかるよ」 その言葉に額を離し、ギンは憮然として当然のように乱菊の手を握った。 「何言うとるん。乱菊が眠るまでボクここにおるわ」 乱菊は困ったように眉を寄せ、けれど笑みが自然と浮かぶ。 「久しぶりだね」 「……そうやねえ」 ギンは空いている手で、乱菊の顔にかかっていた髪をどかし、そのままゆっくりと髪を梳くように撫でた。 「疲れてるやろ。よう眠り。乱菊が眠るまでここおるから」 「……あの子には何もしちゃだめよ」 「しぃひんよ」 「ギン」 「何やろ」 「ありがとう。おやすみ」 乱菊の眼がすぅと細められた。ギンは背を屈めて、額に自分の額をつける。 「……おやすみ。乱菊」 そっと額を離すと、乱菊の息はすでに寝息にかわっていた。片手で頬杖をついて、ギンは柔らかい顔をして乱菊を眺めていた。寝顔を眺めるのは、流魂街以来だった。
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