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地上の縁からのぞき込むと深遠の青が底もなく 4
学院は二週間の夏期休暇に入った。 帰るところのある学生は、長期間の自由が得られるこの機会に帰省する。家族のあるスミレは家へ、共に暮らしてきた仲間のいるツワブキは二地区へ、それぞれ帰っていった。 足取りも軽く去っていく二人を見送って、乱菊はリンドウにどうするのか尋ねた。リンドウは軽く笑って、 「誰もいないわ」 と言った。 「そう……ならあたしと一緒に過ごそっか」 乱菊もまた軽く笑う。過去をないことにした自分には、共に過ごす人はいない事になっている。リンドウは乱菊を振り仰ぎ、いたずらっぽい表情を浮かべた。 「今のうちに宿題を終わらせて自慢してしまいましょう」 「そうね……ただ、ちょっと先にしていて。あたし、今日ちょっと出かけてくる」 「どこへ行くの」 「入学試験のときにお世話になった人に、やっと挨拶に行くの」 乱菊は、この休暇を待ち侘びていた。安堵したように微笑む乱菊を見て、リンドウも同じように微笑んだ。
お菓子の入った箱を手に、乱菊が志波家の屋敷を訪れたのは昼過ぎだった。草原の向こうに奇妙な形状の門が見えたとき、乱菊は言いようのない笑いが込み上げて、それを隠すことなく歩いて向かう。どうしてこう、芸術的というか前衛的というか、理解しがたい形状になるのだろう。こういった感性は比較的普通である乱菊には、よく分からない。 微妙な門をくぐり、乱菊は声を上げた。 「松本乱菊と申します。空鶴様にお会いしたいのですが」 扉が開き、両側から同じ顔が覗く。 「お待ちしておりました。どうぞ」 二人の間を通り抜け、草履を揃えて脱ぐ。二人はその間に先に立ち、乱菊は二人の巨体の後をついて磨かれた長い廊下を歩いた。この前と同じ座敷に乱菊は通され、そこで待っていると、威勢のいい足音と共に襖が開かれた。 「よう、元気だったか」 志波空鶴が弾けるような笑みで乱菊を見下ろす。乱菊は正座のまま、両手をついて礼をした。 「ご無沙汰しておりました。おかげさまで学院に無事入学できました」 「固ぇよ。ほれ、顔上げろ」 頭を小突かれて顔を上げると、目の前に胡座をかいた空鶴が乱菊を覗き込んでいる。 「どうだ。学院は」 「友達もでき、これまでとは全く異なる生活をできています」 「食えてるか」 「はい。寮でお手伝いをすればお小遣いももらえますし、それで必要な筆記用具などを買っています」 「そうか。良かったな」 空鶴は乱菊の柔らかな髪に手を通すと、乱暴に頭を撫でた。さらさらと髪が掻き回され、乱菊は軽く顔をしかめて、そして笑った。その笑みを眺めて、空鶴が頬を緩め、すっと真面目な眼をした。 「攫われてから、大丈夫だったか」 乱菊は首を傾げ、微笑んだ。乱菊には空鶴の尋ねている意味が分かったが、それはもう、八十地区では日常茶飯事であり、既に慣れたか、麻痺していたことだった。乱菊はもう数え切れないくらい危険な目にあい、人の血を浴びている。それでも、それを尋ねる空鶴の言葉が乱菊には嬉しかった。 「大丈夫です。夜も眠れるし、男の人も死神も怖くはありません」 「そうか。なら、いい」 乱菊の言葉に空鶴は頷いた。 「お前のことは死神連中にはばれていない。ただ、お前を助けた奴かどうかは分からないが、その場にいた坊主は、護廷十三隊から注目を集めているぜ。お前の同級生だろう。有名らしいぞ」 「……その有名人が、あたしを助けた人だと思います……多分」
あの出来事を思い出すとずるりとあの夜が脳裏に出てきて、ギンの表情が浮かんでくる。乱菊は目を伏せないように空鶴の眼を見つめたまま言葉を選んで肯定した。そして心の中では空鶴の言葉に驚き、同時に納得していた。護廷十三隊といったら死神の中でもエリートだ。彼らに一年次から注目されることがどれほど希なことか、今は乱菊にも分かっていた。確かに、抜けたとはいえ数人の死神を相手にできるギンの実力は注目されてしかるべきだろうとも思う。
「試験の途中で血塗れで現れたので、誰もが知っています」
言葉にしていて、自分はなんて卑怯なのだろうと乱菊は歯噛みする。あのせいでギンは多くの人間から敬遠されている。乱菊はギンの血塗れの理由を皆に話したいと思っていた。話して、ギンに対する誤解をときたかった。それでも、それすらも乱菊はできない。 そしてふと乱菊は思う。どうして、そこまでギンは口止めをするのだろう。乱菊との本当の関係も、あの夜の出来事も、全てをギンは隠そうとする。 それは空鶴が気にしてくれていた理由とは異なるように乱菊には感じられた。 何から。 誰から。 ギンは乱菊を隠そうとしているのだろう。 どうにも苦しくなって、乱菊は無意識に視線を畳の目に落とす。あまりにも情報が少なすぎて色々なことが分からない。分からないそれらから、乱菊はギンの手によって遠ざけられているように感じる。ギンはいつもそうだ。乱菊に何も言わず、何もさせずに、ギン自身だけを傷つけていく。
「……ただ、その血塗れの理由を誰も知りません。あたしは何も話していないから、皆、彼のことを恐れています」 「知っているのは死神の一部だけだ。上層部だけが知っている。恥だからな。学生が知らないのは当然だ。お前が言わない限りはな」 俯き気味になる乱菊の頭に手を置いて、空鶴が軽く頭を叩く。 「お前は言うな。言わない方がいい。その坊主がお前に話すことを求めていないなら、お前は話す必要がない。何より、話したらこれまで以上に坊主は恐れられるし、妬まれることになるだろうよ。死神数人を倒して、護廷十三隊から注目されてると知れたら、それこそ嫉妬と恐怖の的だ」 「……分かりました」 乱菊はようやく顔を上げて、笑みを無理に作った。空鶴がにやりと、わざとだろう、大袈裟に顔を崩し、立ち上がった。 「それでいい。……天気がいい。庭にある池の辺で茶にしよう。お前の持ってきた菓子を食おうぜ」 「はい」 乱菊も立ち上がり、まだ開かれていない風呂敷包みを手にした。庭に向いている障子に手を掛けて、空鶴が振り向く。 「別にどうでもいいんだけど、お前とその坊主は知り合いだったのか」 「いいえ」 表情を変えることなく、乱菊は即座に否定した。それを見て、空鶴は一言、そうか、とだけ呟き、それ以上は聞いてこなかった。 障子を開けると、よく手入れされた庭が強い日光に照らされて、影に切り取られたような鮮明さでそこにあった。乱菊を出迎えた男の一人が、大きな番傘と長椅子を持って池の方へ走っていった。
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