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地上の縁からのぞき込むと深遠の青が底もなく 3

 夏期休暇直前の教室は締まりなくざわついている。
 どこか弛緩した空気が流れ、誰も彼もが集中できていない。これから更に鋭くなる太陽の光に急かされるのか、授業中も休憩中も、どこかしら皆、落ち着きがなかった。
 授業が終わり、乱菊は窓から出ていこうとするギンの姿を見て慌てて立ち上がった。
 これまでの提出物で未提出の物があった場合、休暇が始まる前に全てを提出するように学生達……主にギンが言われていた。ギンはそれらの半分以上を未提出のまま放置している。提出した分さえ、乱菊やリンドウらが急かして出させたものだ。残りのそれらを回収するのも級長の役目らしく、乱菊はそれを教師から頼まれたときには不満げに眉を寄せた。ギンがおとなしく終わらせるとは思えない。案の定、ギンは期限になっても乱菊にそれを渡すことはなかった。
 乱菊はギンを呼ぼうとして口を開け、そして動きを止めた。ちょうど、三人は傍におらず、乱菊がギンを呼ばなければならない。乱菊はまだ心の準備をしていなかったし、呼ぶ練習もできていなかった。
 市丸君。
 その一言が違和感を伴って乱菊の喉の奥で引っかかっている。市丸君市丸君。乱菊は頭の中で繰り返し練習をすると、口を開けた。
「ちょっと待ちなさいよ、市丸……ギン!」
 するりと、呼び慣れた呼び方が続けて出た。
 ギンが、長く一緒にいた乱菊でもなかなか見たことのない程の、驚いた顔をして振り返った。窓枠に片足をかけたまま、こちらを振り返った格好で動きが止まっている。細い眼がかすかに見開かれていて、緋色の瞳が乱菊を見ていた。
 そして周囲も動きを止めていた。だいぶ馴染んできたとはいえ、ギンのことを恐れている人間の方が多い。ギンを呼ぶ人間も少なかったし、呼び捨てにするのは、市丸と呼ぶツワブキと数人の男子くらいだった。
 乱菊は周囲の反応には目もくれず、ギンに近寄った。ギンの顔を見て、乱菊は可笑しくなった。こんな崩した表情のギンを見るのは久しぶりだった。乱菊は満足げな笑みを浮かべた。実際、自力で呼べたことに乱菊は満足していたし、フルネームで呼ぶことのほうが、市丸君と呼ぶことより違和感がなかったこともあった。
「市丸ギン、あんた、宿題を今日中にあたしに渡せって言ったでしょう」
「……寮に忘れてしもた」
 ギンは驚いた顔のまま、呟くように言った。乱菊は眉をひそめた。
「なら、ここで待ってるから、取りに戻って頂戴。……どうしたのよ」
 乱菊が追い立てるように手を振っても、ギンは片足を窓枠にかけた体勢のまま固まっている。そして、僅かに声を震わせて、
「何なんや、その、市丸ギンて」
と言った。今度は乱菊が固まった。それを見て、何かが弾けたように突然、ギンが笑い出した。片足はそのままに、腹を抱えて、ギンは笑いながら苦しそうに体を折り曲げる。
「……笑うことないじゃない」
 乱菊は、急激に不機嫌になって呟いた。

 腹が捩れるとはこういうことかと身に染み入るように実感しつつ、ギンは爆笑していた。乱菊がどんどん不機嫌になっていくのが手に取るように分かるが、それでもギンの笑いは止まらない。
「…普通……市丸君とか………あるやろ」
「あんたに君付けなんて贅沢よ」
「なら、ギンちゃんとか」
「ちゃん付けなんて冗談じゃない」
 ムキになって言い切る乱菊の頬は少し赤い。それを見てギンは堪えようもない幸福感を笑いに誤魔化して、更に笑い続ける。
 自分だって戸惑って、結局、「級長さん」と役職で呼ぶことで自分を誤魔化している。乱菊がギンを呼ぶときにどれくらい戸惑っているか、ギンには想像に難くなかった。
 けれど、そのうちに乱菊は自分のことを、他人行儀で呼ぶだろう。
 君付けで呼ぶ声などギンは想像も出来ない。それが二人の、自分が敢えて取った距離を具体的に示すようで、望んだこととはいえ、ギンは苦しかった。
 でも、まさかそうくるとは。
「……頭っから、終いまで全部言うか、普通」
 笑いすぎて脇腹が痛い。目尻に涙が浮かんだまま、ギンは横目で乱菊を見る。
「他にどう呼べって言うのよ……」
 怒っているのか困っているのか、赤い顔をして眉をつり上げて乱菊は小さく言った。
 ああどうしよう。
 ギンは笑みが浮かぶのを止められない。
 どうしようどうしようどうしようか。自分だけ、味わってもいいだろうか。皆の前で宣言すれば、本当のことは隠し通せるだろうか。
 ギンは、片手で顔を覆って、笑みを隠す。
「……ギンでええよ」
「は?」
 乱菊の、間の抜けた声が問い返している。ああ多分、今、あの大きな眼がくるりと開いているのだろう。そしてゆっくりと瞬きをしているだろう。ギンは、手を外さないまま、笑いを漏らす。
「ギンて呼べばええ。呼び捨てしたいんやろ。市丸ギンじゃ長すぎるて。ギンでええ。級長さんなら、お強い人やさかい、別に構わん」
 ようやく表情をするりと消して、ただの笑みを浮かべてギンは手を外した。
「弱い奴がそう呼びよったら、潰すけどな。級長さんは、十分強いお人やし」
 乱菊がじっとギンの眼を、その奥まで見通すような眼をして見ている。そしてふっと、器用にその視線だけを和らげて、あとは不機嫌のまま、
「なら、……ギン、さっさと取りに戻って」
とだけ言った。
 自分の名が呼ばれる。ギン、というその響きは甘く柔らかく、ギンはくらくらした。久々に味わうその響きに、ギンは自分の名前はこんなに良いものだったろうかと思う。
「ほな、取ってきますわ」
 綻びそうになる顔を窓に向け、ギンは窓から外の街路樹へ向かって飛び出した。

 ギンの姿が窓の向こうに消えると、教室の空気が緩んだ。乱菊も、ふっと気が緩み、大きく息を吐いた。
 これまで通り、ギンと呼べるようになった。乱菊はギンの機転に感心する。自分も本当なら乱菊と呼ばれたかったが、仕方ない。ギンと呼べるだけでいい。先程の、久々の語感を思い出し、乱菊は微笑んだ。
 溜息をついて肩の力を抜く乱菊にリンドウ達が駆け寄ってくる。他の生徒達は、一様にざわついて、乱菊を見ていた。
「乱ちゃん」
 リンドウが乱菊の顔を下から覗き込む。
「大丈夫?」
「大丈夫って……別に喧嘩していたわけでもないのよ」
 心配そうな三人の顔を見て、乱菊は苦笑した。ギンは面白がっていただけだし、自分は照れ隠しにふて腐れただけだ。そう考えて乱菊は、ふと思う。ギンは、自分との仲が悪いと周囲に思わせたいのだろうか。
 そんな乱菊の思いを余所に、ツワブキとスミレは話している。
「あたし、市丸のこと、思いっきり呼び捨てなんだけど」
「え、だって市丸君、それについて怒ったりしてないじゃない」
 スミレは笑うが、ツワブキは神妙な顔をしている。
「でも、あたし、何も言われる前に呼び捨てにしちゃった」
「気にすることないわよ。名字の方で呼び捨てしてるだけなんだし」
 リンドウが笑って、ツワブキの背中を撫でる。乱菊も笑って頷いた。ギンはおそらく、彼女らのことをそれなりに気に入っている。ギンが一番親しげに話すのは、彼女達だ。ギンにそういう人がいることに安心している乱菊は、彼女達と親しくなって良かったといつも思う。
 そのとき、近くにいた男子生徒数人が、こちらを向いた。
「なあ、松本、お前怖くねえの」
 殆ど話したことのない色黒の少年に話しかけられて、乱菊は瞬きを数回した。
「ギンのこと? ……別に、どうとも思わないけど」
「血塗れになるような奴だぜ。どこで何してるか分かったもんじゃねえじゃん。睨まれたら、怖くねえの。襲われるかもしれないじゃん」
 乱菊と目を合わせると途端に表情を緩ませた少年だが、言っていることは乱菊の神経を逆撫でした。少年の締まりのない口元を見ていて、乱菊はわずかに眉を寄せた。この男は何を知っているのだろう。何を分かっているのだろう。どう言い返そうか、乱菊が言葉を選んでいると、リンドウが口を開いた。
「あなた達、どこ出身なの?」
 そう言って小首を傾げて微笑むリンドウに、少年達は再びだらしなく顔を緩め、胸を張った。
「……瀞霊廷の貴族だよ。あんな下世話な奴とは全然違う」
「そう。お坊ちゃんだから無知なのね」
 さらりと、まるで「晴れると気分がいいよね」とでも言っているかのような口調で言い放ったリンドウに、乱菊は酷く驚いた。リンドウ当人は相変わらず可愛らしく微笑んでいる。そしてそのままの笑顔で、
「人生経験がそれなりにあるとね、お付き合いをしていればどんな人か、ある程度は分かるものよ。まあ、いくら時間をかけても貴方には分からないでしょうけどね」
と言った。
 少年達は度肝を抜かれたのか、揺るめた顔のまま呆然としている。その顔とリンドウの笑顔を見やって、乱菊は大きく溜息をつくと、少年達に体ごと向いた。
「……あのね、強い人間ほど、無駄なことをしないもんなの。単にあたしは級長として必要なことを言っているだけ。敵対しているわけでも何でもないの。どうして怖がらないといけないのよ。くだらない」
 そしてリンドウの方を振り向くと、彼女は目を合わせて、笑った。ツワブキやスミレも面白そうにしている。少年達は何か呟きつつ、慌てたように出ていった。
「ありがとう」
 乱菊がそう言うと、リンドウは首を横に振る。
「ううん、あたし、ああいう人が嫌いなだけよ」
「ごめんね、瀞霊廷出身には、あんな人が少なからずいて」
 スミレは申し訳なさそうに俯く。ツワブキがその背を軽く叩いて顔を覗き込んだ。
「どうして謝るのさ。あんな奴らが馬鹿なだけだよ」
「そうよ」
 リンドウも頷いて、スミレの背を撫でた。そして溜息をつく。
「でも、ああいう人って案外いるのよねえ」
「そうだねえ」
 四人全員で溜息をついた。





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