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絶対的な響きをもって鐘の音は時を告げた 11

 固く口を閉ざし、沈黙していたギンが自分の方を振り返ったことに乱菊は安堵し、その眼をみて訝しげに首を傾げた。
 普段と、眼が、違う。
 見たこともないその眼に、乱菊は一瞬不安になった。殺意ではない。敵意でもない。流魂街でよく向けられた血走った眼でもない。けれどその眼は熱に潤んでいて、その視線は熱く湿っている。なのに、どこか静かで、奥底には理性があった。
 変だ。乱菊はわずかに後ろに下がる。矛盾したものがギンの紅い眼の中に共存していて、それが乱菊を混乱させる。
「ギン……?」
 ギンの表情は沈みきっていて乱菊には伺えない。先程の薄っぺらい笑みでないことはいいのだが、ギンの引き結ばれた口元が、何か、重いものを予感させて乱菊は困惑を隠せない。
 ゆっくりと、時の流れが遅くなったかのようにギンの手が伸ばされて、それに一瞬見とれていた乱菊は、次の瞬間、反射的に体を離そうとした。その途端、急にギンの手は素早く動いて乱菊の腕を捕らえたかと思うと、自分の方に引き寄せて、腕の中に乱菊を抱きしめる。普段の抱擁とは異なるその腕の力に、耳元にあたる息の熱さに、乱菊は違和感と、かすかな恐怖を覚えた。体が強張り、言葉が出ない。
 ギンは無言のまま、乱菊を抱え上げて寝台の上に放り投げるように横たわらせると、そのまま離れることなく乱菊の上に覆い被さった。
「ギン……! ねえ!」
「大声上げると、人来るで」
 思わず出した声に、ギンが耳元で囁いた。その声の低さに乱菊は総毛立つ。
 これは誰。
 この人は誰。
 強い力で自分を抱き竦めるこの人は誰。熱い声で耳元に囁くこの人は誰。熱を帯びた眼で自分を見つめるこの人は誰。
 乱菊は知らなかった。ギンのこんな熱も重みも力も、知らなかった。

 知らない人が乱菊の上にいた。

「乱菊を邪魔やと思うたことなんかない」
 焚きしめたような良い香りのする髪に顔を埋めて、耳元でギンは囁く。
「乱菊をどうでもええと思うたことなんかない」
 あまりにも唇が近づいて耳朶に触れると、乱菊の体が腕の中で跳ねる。その感触を味わいたくて、ギンは唇を耳に押しつけて囁いた。
「ただ、こんな風に、乱菊を、壊したかっただけや」
 息を飲み込んで殺す、その堪えた声が溜まらなく甘い。腕の中で震えるしなやかな体が狂おしいほど柔らかい。背筋がぞくぞくするのをギンは感じた。頭の芯が熱を帯びて何も考えられなくなる。それでもギンは、奥底の本当のことは隠しながら、そして嘘は言わないまま、乱菊に囁く。
「壊れたら、それで、お人形さんは、終いやろ」
 乱菊には、意味がわからなかった。
 ギンが何を言っているのか分からない。ただギンが力を込めるたび、耳元に唇を押し当てるたび、熱い吐息で首筋をなぞるたび、体中が過敏になって熱くなる。熱が乱菊の頭を鈍くさせ、乱菊の混乱は加速する。
「だから乱菊、これでボクらお終いや。ボクを嫌うなり憎う思うなりなんでもしぃや。ボクはしたいよう、するだけや」
 ギンの言葉を乱菊は聞き咎めた。息が乱れてはいたが、乱菊は自分の首筋に顔を埋めているギンに言う。
「……どうして、あたしが、あんたを、嫌う、の」
 首を軽く噛まれて、思考が全て飛びそうになるのをどうにか捕まえて、乱菊は必死になって言葉を放つ。
「こんなこと、で、どうしてあんたを、憎むの」
「こんなこと、やて」
 ギンが体を少し起こして、乱菊を覗き込んだ。その眼を見て乱菊は眉を顰める。ギンの眼の奥の奥の光は、普段と一緒の柔らかさだ。確かに熱く潤んでいるけれど、静かで柔らかな眼だ。なのにどうして、こんなことになっているのか。乱菊はギンから眼を逸らさないまま、話そうとする。話しておかなければ、伝えておかなければならないことが乱菊にはあった。
「あたし、壊れないわ。こんなことで、壊れない。だって、ねえ、あたしずっと」
 ギンは急に乱暴な手つきで乱菊の両手を乱菊の頭の上に持っていき、左手で両手首を押さえつける。乱菊が慌てて振り解こうとしてもぴくりとも動かせない。乱菊の額にかかった髪をギンの右手が撫でるように除き、そのまま右手が額を軽く押さえる。そしてギンは視線を合わせたまま、唇と唇が触れそうな距離まで顔を近づけて、小さく、低く言った。
「黙っとき」
 そのまま唇を塞がれて、乱菊は黙らざるを得なかった。

 言葉を聞いていられなくて、自分を見つめる眼を見ていられなくて、ギンは乱暴に乱菊の両手の動きを封じ込めると、乱菊のふっくらとした唇を食べるかのように口づけた。
 その唇は想像通りに柔らかく、ギンはそのまま本当に食べてしまいたかった。食べて、一緒になって、そのまま消えてしまいたかった。
 どこで間違えたのだろう。
 何を掛け違えたのだろう。
 ただ分かることは、もう後戻りはできないというそれだけだ。
 唇を離すと、どちらのものともつかない唾液が糸を引く。それが切れる前にギンはもう一度軽く口づけをして、舌で乱菊の唇を舐めた。乱菊の見開かれていた眼が何かに抗うように細くなり、眉がやけに扇情的に顰められる。それでも視線を外そうとしない乱菊の、その眼に、その表情に、ギンはもう耐えきれなかった。
 顔を見ることはもうできない。顔を見せることも、もうできない。
 ギンは体を起こしてその下で、乱菊の体を乱暴に転がして俯せにした。抗われる前に乱菊の両手を再び頭の上で押さえつける。乱菊の両手首はギンの左手におさまり、その細さにギンは、乱暴に力を入れようとしてもできず、ただ、布団に押しつける。
「ギン」
 なんとか横を向いて振り返ろうとする乱菊の頭を右手で押さえ、乱菊の細い腰を自分の体で封じ、乱菊から見えないようになってやっと、ギンは血が滲むほど唇を噛みしめた。そして乱菊の耳に口を寄せると、感情を殺した声で囁く。
「もう、二人きりでいられるわけやない。どんどん他人がボクらの間に入ってくるで。ボクらの暮らしは終わるんや、乱菊」
 耳元から首筋へ、そしてはだけて露わになった肩へとギンの唇が押しつけられて、乱菊はくぐもった声で呻いた。ふと頭からギンの手が離れ、息が楽にできるように頭を動かすと、ギンが頬に唇をおとす。その濡れた感触に乱菊は硬直する。
「いつまでもボクと一緒におらんと、仰山友達作り? 乱菊はべっぴんさんやから、男も仰山できるで。ぴかぴかな暮らしが始まるんやで。ボクとのこと、もう、きれいに忘れ。どうせボクは、乱菊をこんなふうに壊したかっただけや。そうしとうて、ずっと一緒にいただけや。そやさかい、もう終いなんや。そやさかい、もう」
 何を言ってるの何を言ってるのこの上にいる人は何を言ってるの。
 乱菊にはギンが言いたいことが全くわからなかった。ギンの言葉が本心だとは、どうしても思えなかった。何か違う、何か隠している、それは確信として乱菊の中にあった。自分の体が初めて味わう電流のような刺激に意識を奪われそうになりながら、それでも乱菊はギンの本心を探ろうと、耳に囁かれる声の響きに、背中にあるその気配に、全身を研ぎ澄ませようとする。ギンの表情を確かめようと、懸命に体を捻る。けれど、ギンはするすると乱菊の着物をおろすと背中に口づけをするので、顔を見るどころかその舌の感触に余計に背中が反ってしまう。それでも乱菊は諦めるわけにはいかなかった。
「ギン、あたしの、眼を見て、話して」
「それはできへんよ」
「本心で、話している、なら、あたしを仰向けにして」
「あかんよ。乱菊のきれいなきれいな背中見とるんや」
「ギン」
 乱菊は肘で突っ張って体を起こそうとした。しかし、手首を上にずらされて、頭を再び押さえられる。ギンがまた耳元で低く囁いた。
「それに、ボク本心話しとる」
低くひくく囁いた。
「ボク、ずっと乱菊から離れたかったんや」
 できれば、こんな事態になる前に。
 腕の下から乱菊の抵抗が消えた。思惑通りの反応に、ギンは顔を歪めて笑う。勘の良い乱菊のことだから、これを言えばそれが本心から出てきた言葉だと悟ることはギンには分かっていた。そしてこの言葉が、ギンの本心とは別の意味に響くことも、よく分かっていた。それでいい、そう思った。思ったから、ギンは積年の感情を口にした。
 力を緩めても乱菊の抵抗する様子はなく、ただ力の抜けた体がそこにあった。押さえ込む手を外し、ギンは乱菊の体の下に腕を回して抱きしめる。
「ギンは、あたしのことが嫌いだったの?」
 乱菊が呟いた。ギンはそれには答えられない。
「ギンは、気紛れであたしを拾ったの?」
 独り言のような問いに、それでもギンは答えられない。
「……拾ったのに、拾ったならあたしはギンのものなのに、どうして?」
 虚ろに響く小さな声。ギンは白い背中に顔を寄せた。背中の、まるで羽を削ぎ取られたような肩胛骨の部分を口に含む。汗で塩辛いが、甘い匂いがするのはなぜだろう。
「拾いもんがボクのもんなら、ボクが乱菊をどう好きにしようと、勝手やろ」
 黙り込む乱菊に、ギンは覚られないよう歯噛みする。でもこれでいい。これでいいとギンは繰り返し自分に呟いた。
 ギンが背骨に沿って舌を這わすと、乱菊は無言のまま体を強張らせる。焦らすようにゆっくりと首まで舐め上げて、肩を噛む。乱菊の体が震えた。
「拾ったもんを、好きにして、放っておいて、気紛れにかわいがって、壊して、壊れたら捨てる。それだけや。それで終いや。明日からボクら知らんもん同士、そういうことにしとき。乱菊は、自分の好きにし。ボクもボクの好きにするわ」
 額を乱菊の後頭部につけて、ギンは自分に言い聞かせるように、低い声で言った。
「ボクら二人きりの暮らしはもう、お終いなんよ。ほんなら、ここで丸ごと新しくしてしまい?」

 乱菊は空っぽになっていた。

 その空洞には言葉も何も浮かばない。乱菊が黙り込んでいると、ギンも無言になった。部屋の中には荒い息づかいしか聞こえない。
 ただ体の反応に身を任せていた乱菊は、それでもギンの手つきが乱暴に見せかけて、でも乱菊を痛めないようにされていることに気づいていた。ギンが全体重を自分にかけないようにしていることに気づいていた。乱菊が呻き声を上げると、一瞬、動きを止めることに気づいていた。
 目の前の布団をぼんやりと眼に映し、乱菊はギンに伝えたかったことを思い出す。
 今はもう遠い遠い八十地区。最後の集落での隣人の女との会話。帰らないギンを待つ弛緩した時間。
 あのとき、乱菊は恋を知らなくていいと思っていた。帰らないギンを待って、そのまま自分が終わる、それでよかった。乱菊の根幹にギンはいた。それを揺らがせるほどのものがあるだろうか。ギン以外に、それを揺らがせるものがあるだろうか。乱菊が望む望まないにかかわらず、ギンは乱菊に深く根を下ろしていて、もう不可分の存在になっていた。
 たとえ恋がやってきても。
 あのとき、乱菊は思っていた。
 たとえ恋がやってきたとしても、それでもギンの存在を越えることはないだろう。乱菊は続けて思う。もし自分が人に体を許せることがあるとしたら、それはギンだけではないだろうかと。
 そう思った。そう思っていた。
 だから本当に、こんなことでギンを憎むはずはなかった。乱菊は眼だけを動かして、自分の肩を押さえる大きな手を見た。細長い、節の出た指が肩を掴んでいる。それは決して外れなかったが、痕がつくほどの力ではない。乱菊は横腹に触れるギンの手を意識した。その手は体を刺激し震えさせるが、その指先の感触は柔らかだ。
 ギンが何を考えているのか、わからない。
 ギンに何が起きたのか、わからない。
 乱菊から離れたかったという言葉は本心だろうと、乱菊は感じていた。その言葉に衝撃を受けたのは本当だ。愕然とした。その次に哀しみが溢れた。続けられるギンの言葉に深く抉られて、乱菊の中から哀しみすら失せた。
 けれど、ギンから伝わるこの、感情にすらなっていない何かは乱菊をそっと揺すり続ける。肌に伝わるこの何かは決して嘘ではないと、乱菊の体が消え入りそうに小さく叫ぶ。
 脚の間に滑り込む指に、乱菊はかすかに震えた。

 指にまとわりつく湿り気に、目の前にある滑らかな白い背中に、乱れて広がる山吹色の髪に、ギンの中で蠢くものがぞろりぞろりと、ギンを支配しようとしていた。霞がかかったように何も考えられず、眩暈をおこしているかのようにぐらぐらする。それでもギンは、その暗い熱さに支配はされなかった。時折痛そうに呻く乱菊の声に、震える体に、ギンは我に返る。
 こんなことは望んではいなかった。俯せになり、自分の手に押さえつけられている乱菊の姿を見て、ギンは口元を歪める。欲情はあった。確かにあった。けれど、こんな形で発露させるつもりはなかった。
 もしも、本当にもしも、乱菊を抱けることがあるとしたら。ギンは自分が願うことすらできなかったその感情を思い出す。もしも抱けることがあるとしたら、そうしたら。
 乱菊の背中に伏せていた体を起こし、ギンは細い腰を掴んだ。もう引き返せない。もう戻れない。
 この悦楽も嫌悪も慕わしさも衝動も恍惚感も罪悪感も懺悔も後悔も切望も愛しさも何もかも。
 全てが吹き荒れて、ギンはその嵐をそのまま乱菊に捻じ込む。
 ギンの視界が歪んだ。

 身を引き裂かれるような痛みに布団を噛みしめて、乱菊は叫び声を殺した。下腹が破けるのではないかと思うほどの痛みと圧迫感。擦れるその引きつる痛み。解放された両手で敷布を握りしめ、突っ伏して乱菊は痛みに耐えた。衝撃が脳髄まで駆け上り、意識を失いそうになる。なのに、ギンが中で動く度に走る痛みが、乱暴に意識を引きずり戻す。やがて動きは滑らかになり濡れた音が耳に届くようになっても、突き上げられるその苦しさに乱菊は呻いた。

 その背中に、滴り落ちるものがあることに気づいたのは、乱菊が痛みの中に違う感覚をようやく見いだしたときだった。

 ぱたぱたと、ぱたぱたと、肩に、背中に何かが滴り落ちていた。肌を濡らすそれは、止むことなく滴り落ちて、乱菊の汗と混ざり滑り落ち、敷布に染みをつくる。
「……ギン」
 掠れた声で呼ぶと、後ろからギンが腕を乱菊の体の下にまわし、抱きしめて、頬を寄せてきた。



 その頬は、濡れていた。





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