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絶対的な響きをもって鐘の音は時を告げた 10

 寮での手伝いを終えて部屋に戻ると、ギンはそっと周囲の気配を探った。そして息を殺して音を立てないように窓を開けると、勢いよく飛び出してすぐ傍の枝に飛び移った。そして葉陰に隠れるようにして数本先の街路樹まで移り、そこから幹をつたって地面に降りた。ここ数日、森にいるわけでもないのにこんなことばかりしているような気がして、ギンは微かに笑みを浮かべる。こんな些細なことも乱菊に報告すると、すばらしく楽しいことのように乱菊はギンに微笑んでくれるだろう。そして言うのだ。あんたはいつ猿になったの、猿も木から落ちるんだから、気を付けなさいよ、と。乱菊の口調を思い浮かべて、ギンは泣き笑いのような表情を浮かべた。そして、先程頭に叩き込んだ瀞霊廷の全体図を思い出し、女子寮の方へと向かう。
 夜の瀞霊廷は人通りが少なかった。ギンは用心して、建物の影の中から出ないように、周囲の気配も霊圧も探りながら歩く。藍染に見つかることを恐れてのことだが、それ以前に女子寮に向かっているというだけで見咎められるだろう。
 瀞霊廷の石畳の道に、蔵のような店の影が落ちている。白壁が続いているせいで、月光を反射してひどく明るい。屋根瓦の彫刻が鈍く輝いている。その中を夜を眠らない人々が時折すれ違う。
 ギンはこれまでの暮らしとの差を思い、口を歪めて笑った。でも、これが世界というものだ。このことは、ギンを悲しませることも憤らせることもしない。ギンはただ、そういうものだと思いながら、急ぎ足で通り抜けるだけだ。
 町中を抜け、林の中に入るとその向こうに女子寮の建物が見えた。白壁に、細長い窓がいくつも、狭い感覚で並んでいる。それらの幾つかは暗いが、多くの……特に下の階ほど灯りがともっている。一階には大部屋があるのか、窓も大きく、少しだけ豪奢に作られている。作りは男子寮と変わらないようだ。ギンは少し手前の木立に隠れ、乱菊の霊圧を探るために耳を澄ませた。
 その途端、四階左端の窓が乱暴に開けられた。
 山吹色の髪の毛が揺れて、乱菊が慌てたように周囲を見回している。拍子抜けて、ギンは声を立てずに笑った。乱菊は、こちらがどんなに霊圧を抑えても気づいてくれる。もともと勘が働くのだろう。乱菊は、気のせいだとも思わないのか、諦める様子もなく周囲を探っている。
 さすがに堂々と出ていくと誰かに見られるかもしれない。乱菊の隣の部屋の窓は暗いままだから、木の枝から姿を現す分には見つからないだろう。そう考えてギンは手近の木に登ると、枝づたいに乱菊の窓辺に近づいた。枝が微かに揺れるが、ギンは葉陰に隠れて静かに窓辺へと向かった。
「……ギン」
 乱菊が、泣きそうな笑い顔で窓辺にいた。
 自分の唇に人差し指を当てて、ギンは窓から部屋の中に滑り込んだ。その体を、乱菊が無言で抱きしめた。
 ギンの匂いにくるまれて、乱菊の両目から涙が零れた。そのことに自分で驚いて、自分がどれだけギンに会いたかったかに気づく。ギンはいつものように、戸惑ったように頭を撫で、その後に腕を背中に回して柔らかく抱きしめてきた。ギンの心臓が早く脈打っているのを押しつけた耳に感じて、乱菊はやっと安心する。
「乱菊」
 耳元でギンが囁く。
「怪我、してへんか」
 乱菊は腕の中で頷いた。
「なんともないんか。大丈夫か」
 再び乱菊が頷くと、ギンは大きく息を付いて乱菊の首筋に顔を埋めた。ギンの吐息を首に受け、乱菊は少し緊張した。ずっと一緒にいたのに、少し離れていたからだろうか。でもその緊張は決して居心地の悪い物ではなかった。乱菊は笑みを口元に浮かべる。
「ギンこそ、なんともないの」
「ボクはなんともあらへん」
「そう、ならいいんだけど」
 ギンが腕を緩めたので、乱菊は離れて、既に布団を敷いてあった寝台に腰をかけた。その横にギンも座る。布団の下で箱の蓋が軋んだ。
「ごめんなさい、ギン。あんたばかりに大変な思いをさせて」
「そんなことあらへんよ」
「ううん……あんたが集めてくれた着物とか、あんたの分はここにあるから」
 寝台の隅に置かれた包みを示し、乱菊はギンの顔を覗き込んだ。
「それでね、ギン……何があったの?」
「何もあらへんよ」
「嘘」
 乱菊はギンの細い眼から視線を外さない。いつもと同じようにギンは笑っているけれど、その笑みはいろいろなことを自分に隠してきたことを乱菊はいやというほど知っていた。
 けれどギンはただ笑っている。
「本当や。そない怖い眼ぇせんとって」
「なら、どうしてあたしを避けていたの」
「いつ」
「試験が終わったときとか、結果発表のときとか」
 乱菊は諦めずに食い下がった。わずかにきつく細められているその眼にはまだ涙が残っている。乱菊は零れそうになった涙を拭おうとしたが、その前にギンの指がその涙を掬い取った。
「ああ……そうやなあ。ボク、乱菊に言っとくことあるんやったわ」
 その指を舐めて、乱菊から視線を外し、ギンが呟いた。
「こっから先、ボクら、関係ないことにしよか」
 ギンはまっすぐに前の壁を睨んでいた。横で乱菊が息をのむ気配がしたが、ギンは視線を動かさなかった。部屋の中が静まりかえった。どこかの部屋から数人の嬌声が聞こえる。窓の外で木々がざわめく音がする。けれどこの部屋の中の空気を揺らすことはない。滞った空気が重くのしかかる。
「どういう、こと」
 震えを押し殺した声で乱菊はギンに訊いた。鋭い視線をギンの横顔に向ける。いっそのことそれが刺さればいいと思う。それでもギンは乱菊を振り返ろうとしなかった。
「どうもこうもあらへん。ボクら無事に流魂街抜け出したやろ。ここなら安全に生きていかれるわ。一人でも」
「……だから、何? それでどうして、あんたとあたしが関係ないことにしなきゃならないの」
 乱菊は辛抱強く訊いた。膝の上で両方の拳を握りしめる。その指の先は白くなり、力を入れすぎて震えている。
「そのほうがええよ」
「答えになってないわ」
「無関係で、仲良うせんほうがええって」
「あたしには、その良さが全くわからないわ」
「ほな、ボク、はっきり言うわ」
 ギンがやっと乱菊を振り返った。その笑みを見て乱菊は更に表情を険しくする。いつもと同じように見えるそれは、何かのお面のようにギンの表面に貼り付けられていた。薄っぺらい、動かない笑みのギンが口を開く。
「二人でやってくの、もうめんどいわ。一人の方が気楽やし。ここで暮らすんなら、乱菊も一人で平気やろ。周りの誰もボクらを知らん。ちょうどええさかい、ここで無関係にしよ。乱菊も自由や。好きにすりゃええ」
「……そんな言葉を、信じろって言うの」
「そうや」
「無理。あたしには全く信じられないわ」
「信じんでもなんでも構わん。明日からボクら、知らん人同士や」
「冗談じゃないわ。せめて、もう少しマシな説明して頂戴」
「マシて……」
 ギンが声を出して少し笑う。動いた横顔を見て、これはギンにとって面白かったんだなと乱菊は思う。動くのなら、なら、動け。乱菊は畳みかける。
「あんたは、あたしに何も言ってくれない。いつもそうよ。いつだってそうだったわ。でもね、あたしにだって分かることもあるのよ。あんたに起きた事や考えてる事は分からなくても。言ってみなさいよ。もっとマシなことを。あたしが何も分からなくて、全て鵜呑みにすると思ったら大間違いよ」
 ギンはおかしそうに笑っていたが、それでも乱菊から顔を背けた。微笑んでいても眼の奥は決して笑わず、頑なに、目の前を、もっと遠くを見ている。
「そうやなあ。別に、これまでも散々ボク一人で出ていっとったさかい、納得いく話や思うたんやけどなあ……だって、そうやろ。ボク、勝手に一人でやってきとってん。出ていって、ただ気紛れで戻ってきてただけやし。もうええやろ。乱菊も、一人でやってけるわ」
「それはさっきも聞いたわ。あたしが訊きたいのはそんなことじゃないわ」
 乱菊は自分の体がどこかに吸い込まれそうな気がしていた。どこか虚ろで現実味がない。ただ目の前のギンだけが、確かに、存在感を持って、わけのわからない話をしていた。八十地区を出たときに交わした言葉がとても遠い。けれど、乱菊はあのギンの言葉を、声を疑うことはできなかった。微かに震えた深い声のあの響き。ずっと一緒だというあの言葉。
「あんたは、あたしを気紛れで拾って、気紛れでただ一緒にいただけなの」
 ギンは、何も答えない。乱菊は、小さな声で、けれどはっきりとした響きで問う。
「あんたは、あたしのことが邪魔だったの」
 乱菊の声が震えている。
 この部屋が隔絶されたかのように、外がとても遠くなったように音が消え、ただ乱菊の声だけがギンの耳に届いていた。泣きそうや、とギンは思う。けれどギンは身動ぎもせず、触れそうで触れない距離で乱菊の隣にいた。
「ねえ、あたしのことが、邪魔だったの。どうでもよかったの」
 繰り返される乱菊の問いに、肯定の返事をしなければならないと思うのに、ギンの喉は何か重いものに塞がれたように何の言葉も発せられない。ここで肯定すれば、乱菊は自分から離れて安全な暮らしができるだろうと思うのに、ただ一言、そうやと必死で声を出そうとしても、言葉がギンの胸の奥で引っかかっている。
 ギンは、昔から確かに乱菊から逃げ出したかった。しかし、乱菊を邪魔だとも、どうでもよいとも思ったことは一度もなかった。逃げ出したいと思うことだって、乱菊が疎ましいわけでも憎いわけでもなかった。ただ大切で、大切すぎて、ギンにとって乱菊は不可侵の存在で、美しい世界のすべてで、汚すことも壊すことも汚れることも壊れることも恐ろしくてただそれだけで。

 自分の中にあるその想いがあまりに強すぎて、ギンの口はこれ以上の嘘を言ってくれない。捨てられることも嫌われることも覚悟し続けていたはずなのに、最も大事なこのときに、ギンは何も言えないでいた。

 乱菊が息を詰めて自分の返答を待っている。沈黙が重く、ギンは焦った。ここで乱菊を手放さなければ、乱菊は、自分を飲み込もうとしている渦に巻き込まれるだろう。ギンはまだ、その渦の本当の姿を具体的には分かっていなかったが、それでもあの血の臭いは確実に自分を取り巻いていることを直感で知っていた。あの男は自分を逃がさない。自分はあの男から逃げられない。それは確信としてギンの中にあった。
 自分の中で言葉を探していると、ふと、ギンの鼻孔を甘い匂いがくすぐった。途端にギンの体の奥がぞろりと反応する。そういえば乱菊の髪は少し湿っていて、肌はしっとりと普段よりもきれいだった。乱菊が風呂に入った後であることに気づき、その考えに自分の体が頭が制止する間もなく反応することにギンは戸惑った。そんな場合ではないだろうと軽く頭を振って、そして、気づいた。
 ギンは息を止め、大きく吐いた。
 嘘の言葉よりも、ずっと強力に乱菊を納得させること。
 決して真実ではないけれど、嘘ではないから、勘の良い乱菊が信じること。
 ただそれをするだけで、確実に乱菊が自分を拒絶すること。

 数えるのも嫌になるほどの年月、隠し通してきた乱菊への、欲情の部分それだけをそのまま乱暴に解放してしまえば。

 それはギンにとって、自分が大切に大切にしてきた世界を叩き壊すことだった。不可侵の存在を、汚れた手で引きずり降ろすことだった。
 乱菊にそんなことはできなくて、そんな乱菊を見たくはなくて、ギンは長い間、自分の中に居座る嵐のようなそれを押し殺してきた。
 けれど、それさえしてしまえば、おそらく乱菊は自分から離れるだろう。
 そんな乱菊を見て、壊れた世界を手放して、自分も諦めがつくだろう。
 もうこれまでとは環境が違う。ギンと乱菊は二人きりではなく、これから先、沢山の人と出会う。乱菊には友人ができるだろう。恋人もできるだろう。ギンが離れたとしても乱菊は一人きりになることはない。乱菊は別の世界で生きていく。そうして人といれば、そのうちに傷は癒えていくはずだ。
 乱菊が自分ではない別の誰かのものになるところなんて、ギンは見たくはなかった。乱菊が自分との世界ではない、別の世界で笑う姿なんて、ギンは見たくはなかった。
 それでもギンは何よりも、乱菊が殺されるところを見たくはなかった。
 傷ついても、壊れても、生きていてくれればそれでよかった。生きてさえいれば、いつか、傷は塞がる。新たな世界に生きられる。ギンのいない世界で、安らかに幸せに生きられる。ギンではない、知らない誰かにだとしても、乱菊は微笑んでいられる。

 生きてさえいてくれれば。

 ギンは、自分の考えが利己的で、自己満足で、乱菊の想いも希望も何一つ顧みていないことを自覚していた。けれどそれがなんだと言うのか。ギンは必死に自分に言い聞かせる。これまでだって自分はそう、自分勝手だった。これからだって、そうするだけだ。
 向けられるであろう侮蔑の眼を覚悟した。
 自分を取り巻くだろう無色の世界を覚悟した。
 もう一度、大きく息を吐き、ギンは乱菊に向き直る。ギンの腹の奥底に潜んでいた何かがぞろりと蠢く。





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