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絶対的な響きをもって鐘の音は時を告げた 8
広い試験会場で、乱菊はずっと入り口の方を見ていた。 試験開始直前に乱菊は会場に滑り込んだ。門番と知り合いだったのか、乱菊を送ってくれた……志波空鶴と名乗った女は帰りかけていた受付の死神を門番に呼び戻させ、乱菊の受付を強引にさせた。 「いいから早く行け! 走れ!」 「ありがとう!」 案内に走る死神の後を追いながら、乱菊は振り返ってお礼を叫んだ。空鶴は門番と並んで手を振っていた。乱菊はその向こうにギンの影を探す。遅刻しても入れるだろうか。立ち止まることもできず、乱菊は会場に駆け込んだのだった。 実技試験が終わり、それに合格した人間が残って、筆記試験が始まろうとしたときだった。 部屋の入り口から死神が一人入ってきて試験官に何か告げたかと思うと、続いて入り口に白い羽織の人影が見えた。その人の髪の焦げ茶色が揺れて、試験官が慌てて入り口に走る。試験会場が少しざわめいた。 羽織の人と試験官が何か話している。羽織の人はよく見えないけれど、試験官が頭を下げていることから考えると偉い人なのだろうか。乱菊の横で、明らかに上等の着物をきた少年が「隊長だ」と呟くのが聞こえた。その周囲へ囁きが波のように広がっていく。 白い羽織が消え、入れ替わるように乱菊が待ち望んでいた姿が現れた。 一斉に会場がどよめいたが、乱菊は立ち上がりそうになるのを堪えるので精一杯だった。ギンだ。やっとギンが来た。入れたんだ。胸の前で手を組み、乱菊は遠くのギンを見つめる。銀髪にも着物にも血がついているけど、歩き方は普通だから怪我はしていないようだ。ギンの無事を確認して、乱菊は息をつく。ほっとして、力が抜けた。まだ試験が残っているのではなかったら、乱菊は机に突っ伏していただろう。 ギンは前で試験官と話している。それを眺めていて、人心地ついて、ギンの様子がおかしいことに乱菊は気づいた。ギンは笑っているけれど、その笑みはいつも乱菊に向けるものではなかった。ギンが張り付いたような、隙のないそれを浮かべるときは、信用のおけない人間と話すときだった。初対面だからかしら、と乱菊は首を傾げたが、胸の奥でそれは違うと声がする。そういえばギンは部屋に入ってきたときから周囲を一切見渡さない。乱菊を探そうともしないその様子に、乱菊は不安になった。 会場のざわめきは止まない。周囲の囁きは動揺とわずかな怖れを伴っていることに、やっと乱菊は気づいた。何をしたらあんな血塗れになるんだ、と後ろの方で誰かが囁いた。なんだか怖い、と誰かが呟いた。なんで血だらけなのに笑ってるんだ、と横の少年が言った。乱菊は心の中で首を振る。そんな言葉を遮ってしまいたかったが、何かを言えるような状況でもなかった。 「筆記試験の開始を少々お待ち下さい。彼の実技試験を行いますので……お静かに」 試験官が会場に告げると、更にざわめきが起きた。遅れてきたのに試験が受けられるのかよ、と誰かが野次った。ギンは飄々とした笑みを絶やさず、何の反応もせずに立っている。試験官から何事か告げられて、ギンが足を肩幅に開いた。霊圧解放の試験。会場中が注目し、その好奇の目に乱菊は嫌な感じを受けた。小さな野次が連鎖して発せられた。 けれど、そこまでだった。 ギンの霊圧が解放された途端、最前列の人間が椅子から崩れ落ちた。試験官はさすがに身動ぎもしなかったが、目が見開かれている。誰もが黙り、霊圧で空気が唸る音だけが部屋を揺らした。 乱菊は、これがギンの全力ではないことを知っていたが、その普段とはあまりに異なる肌触りに顔を顰めた。これはまるで威嚇だ。 全く表情を変えないまま、ギンが霊圧を抑えて、右手に霊力を集め始めた。その捩れるような音に、乱菊は更に顔を顰める。普段より、少しだけ、雑だ。それでもその音と集められる霊力の大きさに、会場は静まりかえる。 「……これ、どないすればええの。どっかぶつけるんか」 ギンが淡々と試験官に訊いた。試験官は、一瞬だけ反応が遅れたが、 「いや、これで終了にします。これ以上は必要ありません」 と告げた。そうだろうと乱菊は思う。試験課題はもっとあったけれど、全てを行えば、前の方にいる受験生が気を失ってしまうだろう。 「これから筆記試験を行います。君は……こちらへ」 試験官につれられて、ギンは会場の最後列へ移動する。そのときも全く表情を変えず、全く周囲を見渡さないギンから、乱菊は視線を外さなかった。
ギンは決して、乱菊の方を振り返らなかった。
筆記試験の、つまりは合否の結果は、次の日に発表されるということだった。試験官の説明が終わると会場に会話が溢れ、受験生達は次々に群れを成し、もしくは一人で出ていった。誰もが囁くように話し、盗み見るように最後列に座るギンの方を見て、逃げるように部屋を後にする。 乱菊は荷物をまとめてギンの元に向かおうとしたが、振り返った途端にギンは立ち上がり、どう見ても意図的としか思えない動きで顔を逸らした。そして、窓際に行くと、窓を開けて躊躇もなく窓枠を乗り越える。 「おい、ここ三階だぞ」 誰かがそう叫んだが、銀髪が窓の向こうに消えた。まだ残っていた人間が騒ぎ出す。その騒ぎの中、乱菊は動けなかった。ギンが、あれくらいの行動で怪我をするとは思えなかったが、ギンの行動そのものが乱菊にはわからなかった。乱菊はギンと話をしたかった。話さなくてもいい。ただ触れて、お互いの無事を喜びたかった。そして、謝りたかった。 自分が逃げた後、ギンに何があったのだろうか。乱菊は心配で仕方ない。しばらく静止したままあの状況を何度も思い返し、試験前に二人が潜り込んでいた空き家にギンが戻ってくるかもしれない、ということにやっと思考が辿り着き、乱菊は会場から出た。 瀞霊廷内部は、流魂街とかなり異なる様相をしていた。汚れのない白壁の建物。落ち着きのある色で彩られた店。模様が浮かび上がるように敷き詰められた石畳の道。道の脇に植えられた木々が薄い影を道に落とし、その上を、一目で質の良いとわかる服を着た人々が歩いている。乱菊にとっては、この外にある流魂街一地区だってとてもきれいな町だった。しかし、落ち着いて見渡すと、なんと差があることだろうと感じずにはいられない。まして、自分が落とされて暮らしていた八十地区なんて。 これが世の中だ。乱菊はかすかにしか覚えていない現世を思う。あそこも、死んでから来たここも、かわりはしない。不条理で、不公平で、不平等。それが世の中だ。それが世界だ。神様なんてどこにもいない。いたとしても、多分、もうこの世界に飽きて見放しているだろう。このことを乱菊は不満に感じてはいない。ただ、そういうものだと感じていただけで、それを目の当たりにしただけのことだった。 それに。乱菊は俯いて、顔を上げる。誰かに操作された平等な世界なんていらなかった。そんなことに喜びは感じない。乱菊は美しい町並みを見渡す。不条理で不公平で不平等だから、命は何度も現世とここを行き来して、何度もその生を生きるのだろうか。汚い場所で死に、きれいな場所で生き、出会い、別れ、産んで、殺して。ただそんなことを繰り返す。 自分が幾度の生を繰り返したか乱菊は知らない。ただ、今の人生はとても幸せだと思って乱菊は自然に微笑みを浮かべる。現世でどういう死に方をしたのかは覚えていないが、ここではギンに拾われてこうして生きている。辛いこともあったことは確かだが、ギンとの過去はとても安らかで暖かだ。そんな過去を持っていることを乱菊は素直に喜んでいた。 だからこそ、今、ギンと一緒にいたかった。
窓から飛び降りて下に植わっていた木に飛び移り、ギンは枝から枝に飛び移るようにして地面に立った。そして騒がれる前に走り出す。人の間をすり抜けるようにして立ち止まらずに、ギンは西門を飛び出した。そしてそのまま、乱菊と潜り込んだ空き家のある森とは反対方向に駆けていく。 自分と乱菊の関係を誰かに知られるわけにはいかなかった。誰かに知られ、それが藍染の耳まで届くことは避けなければならなかった。ギンは、顔を背ける前に視界に映った乱菊の姿を思い出して、ぎりぎりと歯を食いしばった。じっと自分を見つめている大きな目。見るな、とギンは叫びたかった。ただギンにできたことは、呼びかけられる前に会場を飛び出すことだけだった。 森の中に飛び込むと、ギンは気配を探りながら辺りを見回し、人がいないことを確認すると枝振りの良い樹によじ登った。ここで一晩を過ごすつもりだった。 樹の中途ほどの枝に腰掛け、幹にもたれてギンは、今日初めて息をついた。一睡もしていない、走り続けた体が鉛のように重い。このまま樹の中に埋もれていくのではないかと思うくらいに、体が沈み込む。それでもギンに睡魔は訪れない。目を瞑ると、乱菊の姿が思い出される。 先程の、視線を送らないようにして視界の隅で捉えた乱菊の姿は、見たことのない、おそらく上等の着物をきて、とてもきれいだった。ギンは微笑みを浮かべる。どこで着替えを手に入れたのか分からないが、乱菊が自分と同じような血塗れの姿でいなかったことにギンは心底ほっとした。あれならば、自分と乱菊が関係づけられることはないだろう。 ギンは悩んでいた。このままどこかに一人で逃げれば、乱菊は自分との関係を藍染に悟られることなく幸せに暮らせるのではないだろうか、と筆記試験の最中に、ずっと考えていた。ただ、ギンには、藍染から逃げ切れる自信がなかった。今の自分では感知できないほどの実力差が、ギンと藍染の間にはあった。流魂街は広大だ。もしかすると可能なのかもしれないが、藍染の実力が掴めない分、逃げきれるとはギンには考えられなかった。だから、乱菊を連れて逃げるという考えはなかった。 自分が死んでしまえばいいのかもしれないとも考えた。しかし死神が、もし魂の行方を追跡できるとしたら。乱菊との生活を失って、乱菊を忘れ去り、その上あの男に捕まることを想像すると、ギンはその選択肢も捨てた。 なにより、ギンには乱菊と別れて生きることが考えられなかった。微笑みが消え、ギンの体は、何に向かってぶつければいいのか分からない憤りに、震えた。乱菊に会いたかった。抱きしめて、無事を確認したかった。ただそれだけのこともできない現状に、ギンはただ歯噛みするしかなかった。
空き家に戻り、そこに散乱したものを見て乱菊は溜息をついた。 ギンは戻ってきていなかった。 昨夜、乱菊が散らかした小枝や小話集のそばに、着物や筆が落ちている。それらはギンが昨日集めたものだろうと思い当たり、乱菊は手を伸ばして拾い始めた。昨夜、ギンはここに戻ってきて、異変に気づいてすぐに乱菊の気配を追ったのだろう。集めたものを放り出し、走り出すギンを想像して、乱菊の眼から涙が零れる。自分は間違ったのではないだろうか。振り返らないギンの背中を思い出し、乱菊は声を上げて泣き出した。 どれくらい泣いたのだろう。ギンとは違う人の気配に顔を上げると、すでに空は茜色に染まっていた。近づいてきたのは、昨日、まさにこの道を歩いていた姉妹だった。乱菊は涙をふいて立ち上がった。 「昨日は、妹を助けてくれて本当にどうもありがとう」 背の高い、姉らしき少女が頭を下げた。もう一人の少女も頭を下げる。この小さい方の少女が、昨日、攫われかけていた少女だった。 「ごめんなさい」 「ううん。いいの。無事でよかった」 「怖かったでしょう。ごめんなさい、本当に」 「ううん。あなた達が呼んでくれた空鶴さんがいなかったら、あたし、試験に間に合わなかったし。あたしは無事なんだし。本当にいいの」 泣きそうになっている妹を見て、乱菊は微笑んだ。間違ったのかもしれないと思うのは変わらないけれど、それでもこの少女が無事だったことは良かった。 「ここにいてくれて良かった。どこに行けばお礼を言えるのか、わからなかったから。志波様のところに行っても、いなかったし」 姉の少女がほっとした様子で微笑んだ。その言葉に、乱菊は自分の着ている着物を見た。 「あたし、空鶴さんに着物返さなきゃ。今、いらっしゃるのかしら」 「うん。一緒に行こうか?」 「ありがとう。猪に乗っていたから、道がよくわからないの。……ついでに、この着物の洗い方も教えてもらえないかしら」 着物の裾を摘んで、乱菊は恥ずかしくなって俯いた。初めての柔らかい手触りは、この着物が乱菊が着たこともない上質のものだと教えている。普段の着物は、川でざぶざぶと、足で踏んで汚れを落としていたが、これをそうするわけにはいかないだろう。 姉の方は首を傾げて着物に眼を近づけていたが、 「空鶴様は気にしないと思うわ。洗えって言われたら、そこで脱いで洗えばいいんじゃないかな」 と言った。空鶴の口調を思い出して、乱菊も頷いた。 荷物をまとめて部屋の角に片づけ、乱菊と姉妹は並んで志波家に向かった。道々、一地区のことや志波家のことを姉が説明してくれた。志波家がもとは貴族だったことをきいて、乱菊は心底驚いた。今は花火師をしているという空鶴は、本来ならば姫だという。あの口調あの身なり。そしてあの屋敷。目の前に見えてきた、微妙な造形の屋敷を眺めて、乱菊は、人ってわからないと呟いた。ただ、自分が攫われたことを隠すようにしてくれていた空鶴を思い出し、実は細やかで優しい人なのだろうと考えた。 微妙な見た目の番人に連れられて屋敷の奥に入ると、そこは広い畳の部屋で、突き当たりに空鶴が座っていた。 「今日は本当にありがとうございました」 「おう。試験はどうだった」 「受かっていればいいなと思います。あの、それでこのお借りした着物を返そうと」 「それ、俺にはもう小さいからやるよ。気にすんな。単に俺のお下がりだ」 空鶴はにやりと笑うと、姉妹の方に向き直った。 「お前らはもう元気だな。でも今日はもう暗いから、泊まっていくか?」 「ありがとうございます。でも、ちゃんと帰れます」 「そうか。あの抜け死神達は処分されたらしいから安心しろよ」 空鶴の言葉に乱菊の眼が揺れた。空鶴は乱菊をちらりと見る。 「乱菊。俺に詳しい情報は入ってこないが、とりあえず、死神以外には死人もなければ怪我人もないって聞いてるぜ」 「……ありがとうございます」 乱菊は深々と頭を下げた。多分、あの抜けた死神達を処分、殺したのはギンだろうと乱菊は確信していた。あの血の量は、そうとしか思えなかった。そのことについて、何か咎められたのだろうか。それとももっと他に何か、あったのだろうか。乱菊は思い悩む。自分があまりに何も知らないことが辛かった。 目を伏せる乱菊を空鶴は横目で眺めていたが、すぐに手を伸ばして乱菊の頭を乱暴に撫でた。 「お前、泊まっていくか? 発表は明日だろ?」 気を回してくれているその言葉が乱菊にはありがたかった。しかし、空き家を思い出して、乱菊は首を横に振る。 「ありがとうございます。でも、すみません。泊まっていた小屋に戻ります」 「こっちには布団もあるぜ。なんか不都合でもあんのか?」 乱菊は無言で、申し訳なさそうに微笑んだ。自分では気づいていなかったが、乱菊はもともと感情や考えを胸にしまい込む質だった。ギンと出会う前の暮らしがそうさせたのかもしれない。ギンだけが、乱菊の感情を掬い取り、たどたどしい言葉に耳を傾けた。乱菊が感情を吐露できるようになったのは、ギンと出会ってからだった。 空鶴は、乱菊の様子に、ただにやりと笑う。 「まあいいか。いろいろあるよな。合格したら、多分寮に入れるはずだから、安心しろよ。中に入るとしばらく出られないけど、そのうちに報告に来い」 「はい……本当にありがとうございます」 言葉に尽くせないほど感謝して、頭を下げて乱菊は屋敷を後にした。
けれど、闇に沈む空き家にギンは帰ってこなかった。
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