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絶対的な響きをもって鐘の音は時を告げた 3

 かなり乱菊はうんざりしていた。
 毎日毎日、集落の男二人が入れ替わり立ち替わり乱菊を口説きにやってくる。これまで、つれない乱菊の態度に数人は諦めたが、この二人は、夏に向けて熱くなる太陽に加熱されたのか、毎日毎日やってきた。常時いるわけではないことが幸いだったが、彼らは自分の作業が始まる前の朝のひとときを乱菊と共に過ごそうというらしく、乱菊が起きる前から小屋の周辺を彷徨き廻っている。半年も続くギンの不在に、ギンはもう帰ってこないという自分の諦めに、毎晩疲れて眠る乱菊にとって彼らの気配での目覚めは最悪だった。
「おはよう、乱菊」
「一緒に果物を食べないか」
「泉の辺で涼みながら食べようよ」
 戸を開けると二人の男が交代で乱菊に話しかけてくる。相手を出し抜こうと思わないのだろうかと、乱菊はいつも不思議に思う。多分、抜け駆けするほど強気にはなれないのだろう。そう考えて乱菊は更にうんざりする。
「ねえったら、乱菊」
「悪いけど」
 溜息をついて、乱菊は二人に向き直った。
「あんた達に乱菊なんて呼び捨てにされる筋合いはないわ。止めて頂戴。それから食べ物は無駄にしたくないからまだいらないの。だいたい、あんた達は食べなくても動けるでしょう? 果物はお祝いのために採ってきたものでしょう? 大事にしないとだめじゃない」
 鬱陶しいと思うその感情をわざと隠すことなく、乱菊は力を込めて言った。乱菊と呼んでいいのはギンだけだ。乱菊の口調は自然ときつくなる。男二人は少し戸惑ったような表情をする。
「はい、お二人ともおはようございます。ほら、もう挨拶はすませたわ。あんた達は仕事に行って。あたしもすることがあるの」
 乱菊はそう言い放つと、戸の脇に置いてあった籠を抱える。かなり苛立っていることを自覚していた乱菊は、とにかく早くここを立ち去りたかった。しかい男達は乱菊の前から動こうとしない。
「どうしたのよ」
「俺達も一緒に行くよ」
「自分の仕事をして頂戴。あたしは一人でできるのよ」
「一人でできるって、もうそろそろ一緒にしようよ。寂しくないのか。市丸はもう帰ってこないよ」
 苛立っていた乱菊の感情がすっと引いた。男達は籠もるような聞き取りづらい声で話している。まだ朝だというのに鋭い夏の陽射しが、じりじりと首筋を焼いている。
「アイツはもう帰ってこない。外れに住んでいないで、俺達の傍に来いよ。あんな奴待っていたって仕方ないじゃないか」
「あんたにそんなことを言われる筋合いはどこにもないわ」
 乱菊はわざと微笑んで言った。声は低く冷たく、我ながら怒っていると他人事のように乱菊は感心する。
「あたしに任されている仕事は一人でできることなのよ。それに、あたしは好きでここにいるの。寂しくもなんともないわ。いい加減にして」
「でも」
 一人の男が乱菊の肩を掴んだ。そこから悪寒が全身に広がるのを感じて、乱菊はその手を乱暴に振り払う。男は手を放したが、今度は振り払った手首を掴んだ。乱菊は解放しそうになる霊圧を抑え、気持ち悪さを我慢した。霊力を使うことは許されなかった。
「……離して頂戴」
「乱菊が一緒に来てくれたら」
「いい加減にしないと殴るわよ」
「いくら霊力があるといっても、所詮、女じゃないか」
 男の言いぐさに嫌悪感が勢いよく沸き上がる。
 これも全部ギンが帰ってこないからと思ったときに、乱菊の肌に懐かしい霊圧が微かに触れた。
 その出所を探して振り返る。森の方に、そこに人影があるのを、こちらに向かってくる人影を乱菊は見つけた。それはまだ遠くてはっきりと見えないけれど、乱菊が目を向けたとたんに、霊圧が強くなった。
 陽射しに輝くあの銀髪。
「ギン!」
 乱菊は叫んで、掴まれている手首を力一杯振り解くと、驚いて何も言えない男達を置いて籠を放り出して走り出した。向こうの人影もこちらに向かって駆けだしたのが見える。
 距離をもどかしく思いながら乱菊は全力で走った。

 最初、乱菊の傍に男が二人いることに愕然とし、次に乱菊が嫌がっている素振りであることにほっとして、ならば大変な事態なのではないかと一瞬霊圧が高まったら、乱菊が自分の方を振り返った。
 何か、自分の名前らしき言葉を叫んだのが聞こえた。
 駆け寄ってくる乱菊に向かって、ギンは走り出した。乾ききった自分が急速に潤うのが分かる。周囲の風景が途端に色鮮やかに感じられるのが分かる。焦がれて灰になりそうなほどの、その乱菊の姿がどんどん大きくなってくる。

 ギンが自分に向かって走ってくる。その顔は珍しく満面の笑顔で、乱菊は怒っているのも忘れて笑ってしまった。半年。半年も離れていたのは初めてだ。近づいてくるギンは少し大人びたようで、乱菊は走りながら気恥ずかしくなってきた。そんなことは初めてで、乱菊はぎゅっと手を握る。
「この大馬鹿者!」
 抱擁しようと腕を広げたギンの懐に入り込んだ乱菊は、抱きしめるより前にみぞおちに拳を埋め込ませた。ギンが呻いて、前のめりになる。
「ら……乱菊、突っ込み上手なったんやなあ……」
「他に何か言うことはないのかこの大馬鹿者!」
 ギンは両腕でお腹を抱え込んでいたが、乱菊を見上げ、とろけるように微笑んだ。乱菊は真っ赤な顔をして、涙をこぼさんばかりにしている。最近の乱菊はギンを出迎えるとき、泣かなくなった。けれど泣くのを堪えているだけなのか、眼にはいつも涙が浮かんでいる。今も、乱菊は複雑な表情だ。
「あんたが半年もいなかったせいで、あたしはたいへんだったのよ!」
「どうしたん」
「……煩いのよ。男の人が」
 言いにくそうに俯いて言った乱菊を見て、先程の光景を思い出して、ギンはああと頷いた。
「虫寄ってきてるんか。乱菊べっぴんさんやさかい」
「ああそうよあたしのせいよもう嫌! 鬱陶しいったら!」
 自棄になって乱菊は言った。ギンが目の前にいると、張りつめていた自分が緩やかになっていくのを乱菊は感じた。先程の不快感もすでになかったが、乱菊はギンにはなんとなく訴えておきたくなった。
「あんたがいなかったからよ」
「それは堪忍なあ」
 ギンは背筋を伸ばすと乱菊の前に立った。乱菊は少し違和感を感じて、それがギンとの目線の差であることに気づく。ギンは背が伸びていた。以前は鼻の頭が自分の目線だったのに、今は薄い唇が目の前にある。自分も背は伸びているのだが、それでも差が大きくなるくらいに会っていなかったのか。
 乱菊は腕を伸ばし、背伸びをしてギンの頭を抱え込んだ。
「ギン、おかえりなさい」
 少しの間、無言になったギンは僅かに身を屈ませると、両腕を乱菊の背中にそっと回した。その細さに、しなやかさにギンは驚いた。会っていない間に、乱菊はまた綺麗になっている。
「ただいま」
 乱菊の肩に顔を埋めると、いい匂いがした。その香りで全身がそのまま溶けてしまうようにギンは思う。そしてなんとなく口をついて出た。

「一緒に死神になろ」

「……はい?」
 乱菊がギンを引きはがし、見つめてくる。大きな瞳が見開かれている。しかしギンも驚いていた。言葉にするまで、ギンはそんなこと考えてもいなかった。
「どういうことなの、ギン」
 突然のことに乱菊は驚いていた。
 しかし目の前でギンもまた、狐に包まれたような顔をしている。
「あ、えーと、ちょい待ち。ボクもようわからへん」
「わからへんって……あんた、考えて喋ってる?」
「いや、あんな、確かにボク、いつか一緒にもっと数字小さい地区行きたいなあとは思っとったけど」
 言い訳するようなギンの言葉を聞いて、乱菊は更に驚いた。あまりの衝撃に声も出ない。驚くと声が出ないって本当なんだ、と頭の片隅で冷静に思うくらいに驚いていた。ギンが、常に一人で自由に出ていってしまう彼が、自分と一緒に行こうと考えていたことなんて、長い年月一緒に暮らしてきた中でただの一度も聞いたことはなかった。
 呆然とする乱菊の沈黙を怒りと勘違いして、ギンは慌てて懸命に言葉を繋ぐ。
「乱菊と出会った頃に芸人さんの集団と会うたやろ。その用心棒のおっさんが言わはったんや。死神なればええやんってなあ。暮らし楽なるし、チカラ役立つし。確かにええなあって思うとったんよ。そやけど、そこ行くまでが難しいやろ。そやさかい忘れてたんやけど、ふいに思い出したんか、ついぺろっと」
「……あんたそんなに軽くぺろっとなんて」
「いや、確かに忘れとったけど、そやけど、今こう話してて、ええ考えやって思うんやけど。うん、そうや。ええ考えや」
 話しているうちに、ギンはだんだん昂揚してきた。そうだ、自分の最初の望みは、乱菊と一緒に死神になることだったのではなかったか。ギンはぐるぐると考えを巡らせる。もう乱菊は強くなった。長旅に耐えられるだろうし、死神試験にも受かるだろう。
 死神になれば血を浴びることもない。
 荒んだ生活を続けることもない。
 そうすれば自分は乱菊にこの世界に拒絶されることもなく、拒絶を恐れて自分でそれを壊してしまうこともなく、ずっと一緒にいられるようになるのではないだろうか。
 乱菊と。乱菊の世界と。
「……ええ、考えやて思うんや。ボク」
 乱菊は目を見開いたままギンを見ている。ギンの言葉を待っている。そうか、とギンは初めて気づく。自分はずっと言えずにいたけれど、乱菊はずっと自分の言葉を待っていたのではないだろうかと、ギンは確信に近く、思う。
 ここまでどうにか乱菊から逃げ切らずにいられたのだからこそ、今。
 自分が何も恐れずに、この言葉を言えば。
「なあ、どうやろ、乱菊」
 ギンは両手で乱菊の肩を掴んだ。
「中央行って、一緒に死神ならへんやろか」
 いつになく真剣な表情のギンを、乱菊はぼうっと見つめていた。連続して驚きがやってくるものだから、乱菊の思考が追いつかない。
「……あたしも一緒に行っていいの?」
 乱菊が彼女にしては珍しくおずおずとした口調で問うと、ギンは苦笑した。ギンはこれまでの自分の行動をよく自覚していた。常にギンの帰りを待ち続けた乱菊らしい疑問だと思う。乱菊はいつも帰ってきた自分を殴り倒して元気に迎えてくれるけれど、実はこんなにも不安でいたのか、とギンは改めて気づいた。
「あたりまえや。乱菊いなくてどうするん。一緒に死神なろ? ボクも乱菊も、十分にチカラある思うし、受かるんやないやろか」
「一緒になれるのかな」
「なれる。ボクら、この地区で無敵やん。こんな場所で二人生きてきたんやて。大丈夫や。だから、一緒に行こ」
 ギンがここまで言って初めて、乱菊が安心したように顔を綻ばせて笑った。花開くような華やかな、嬉しそうな表情にギンの胸の内がぎゅっと掴まれたように痛くなる。何度も乱菊から逃げようとし続けたけれど、結局自分には無理だった。この綺麗な花から離れられない。傍にいないと、自分は何も感じられない。乱菊を拾う前の自分はどうやって息をしていたのだろうとすら、ギンは思う。
「うん、一緒に行こう。ギン」
 乱菊がそう言ったとたん、眼じりに溜まっていた涙がこぼれ落ちた。ギンがそれを指でそっと掬い取ると、乾いていた指先が濡れた。ギンが再び乱菊を抱きしめた。乱菊は力を込めて抱き返す。この喜びがどうかギンに伝わりますように。ギンの頬に自分のそれを寄せながら、この温もりと一緒に伝わらないだろうかと乱菊は願う。

 小屋に戻ると、すでに集落の男二人はいなくなっていた。乱菊はほっとしたが、ギンは心の中で舌打ちをした。睨むくらいはしておきたかったのだが、それを目敏く感知した乱菊に「物騒なことをしちゃだめよ」と釘を刺された。
「あたしはもう気にしていないんだから」
 乱菊にそう言われてはギンは何も出来ない。少し不満げにするギンを無視して、乱菊は少ない荷物をまとめ始めた。出立するなら、できるだけ早い方がいい。
 荷物にできない痛みやすい食べ物や、大きな籠などを親切にしてくれた夫婦のもとへ持っていく。奥方は家で裁縫をしていた。
「奥さん、ギンが帰ってきたの」
 乱菊がそう言うと、入り口からギンが覗き込んだ。
「あらギンちゃん、お帰りなさい。なんだか大きくなったわね」
 奥方が嬉しそうに微笑んで二人を迎え入れてくれる。陽射しが痛い外とは違い、家の中はしっとりと涼しい。たたきに腰掛けて、乱菊はほっと息をついた。
「よかったわね、乱菊ちゃん」
「ええ。ホントに」
「じゃあ、あの男の子達は近寄らなくなったのね」
「ギンの姿を見たらいなくなっちゃったわ。よかったわよ。しつこくて」
「せやからボクなんとかしたろって」
 ギンが口を挟もうとすると、乱菊がきっと睨んだ。
「あんたは何にもしちゃだめよ」
「そうよねえ。ギンちゃんがいなかったから、あんなことになっていたのにね」
「ほら、奥さんもそう言ってるじゃないの」
 女二人に挟まれて何も言えず、ギンは黙りこくって奥方が出してくれた白湯を飲んだ。乱菊はどことなくはしゃいで奥方と話している。そんな笑顔を見ていると、怒られてもええか、とギンはのんきに思う。もうこれからずっと一緒にいられるのかと思うと、ギンは何をされても嬉しかった。初めて味わう開放感に、ギンは浮かれていた。
 乱菊は、いろいろと詰め込んだ籠を奥方に差し出した。
「あら、どうしたの、これ」
「あのね、あたしとギン、もう少ししたらここを出ていこうと思うの。これは持っていかないし、あたしが決まりとは別に個人的に集めたものだから奥さんに貰ってほしいと思って」
「あら……」
 奥方は眉を顰めた。
「どこに行くの」
「死神になろうと思って、中央に」
「あらあらあら」
 乱菊の言葉に奥方は泣き始めた。乱菊が奥方の肩にそっと手を伸ばす。
「寂しくなるわ、そんな遠くに」
「ごめんなさい。急にこんなことを言い出して」
「ううん、いいのよ。ごめんなさいね、泣き出しちゃって。恥ずかしいわ」
 袂でそっと涙を拭う奥方を見て、乱菊はここにいた自分は恵まれていたんだなと思う。これまでギンと乱菊は定住ということをほとんどしてこなかったけれど、この集落には一番長く住んだはずだ。ここだからギンを待っていられたのかもしれない。
「みんなに迷惑じゃなかったら、数日したら出ていこうと思って」
「長老達には言った?」
「これから言いに行くつもり」
「そう……うん、そうね、早く言ったほうが良いわ。いってらっしゃい」
 奥方が乱菊を抱きしめた。そして肩越しにギンを見つめる。
「ギンちゃん、乱菊ちゃんをよろしくね。もう離れちゃだめよ」
 涙目に見つめられて、ギンは神妙に頷いた。もう、離れる気はどこにもなかった。





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