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絶対的な響きをもって鐘の音は時を告げた 2-1.5

 乱菊と一緒に暮らすようになってから、もうどれくらい経ったのだろう。かなり長い年月を乱菊と過ごしたが、その間に何度家を出たことだろう。
 最初に家を出たあの時からしばらくは、ギンは乱菊の傍を離れることをしなかった。一年くらい、一緒に眠り、食べて、放浪していた。家を出たときの感情を捨て去ったわけではなかったが、ギンは乱菊とともに暮らす日々の方がいとおしかった。
 本当にそう思っていたはずなのに。
 しばらくすると、ギンはふとした拍子に、無性にどこか遠くへ行きたくなった。自分でも不思議な衝動だった。どこか苦しくなって辛くなって、ギンは夜明け前にそっと住処を出るようになった。最初は理由を自分に与えた。自分達を付け回す人さらいの男を脅して追い払うとか。住んでいた周囲で騒がれる殺人集団を潰しに行こうとか。襲ってきた強盗の残党を捜そうとか。けれどそのうちに理由もなくなり、ギンはただ、出ていくようになった。
 どうしてなのか。ギンは自分の感情がわからなかった。
 ときどき、静かに寝息をたてる乱菊の横にいて寝顔を眺めていると、ギンは無性に苦しくなった。乱菊がすぐそばにいるのにも関わらず、遠く感じるこの感覚。咄嗟に乱菊の頬に触れようと思って手を伸ばしても、その滑らかさが怖くて触れられない自分の指。こういうときにギンは思い出した。乱菊が呆然として、それでもギンを守ると言ったあの夜。ギンは、発作的に「乱菊の傍いたらあかん」と感じて、家を出ていく。
 そしてそんな風に出ていくのに、すぐに乱菊の不在がギンを押しつぶした。乱菊が自分を捨てたかもしれないという妄想がギンを押しつぶした。耐えきれなくなってギンは乱菊を一目だけ見に、乱菊がまだ待っているかどうかだけを確かめに、こっそりと戻る。そしてギンに気づいた乱菊に出迎えられる、ということを繰り返した。幾度も幾度も繰り返した。
 最初の出奔については、ギンは自分でも理由がわかっていたし、それを納得していた。安全に中央に行ける手段が乱菊にあったこと。このままそばにいたら乱菊もまた自分と同様に血塗れになってしまうと思ったこと。ここで乱菊と別れれば、乱菊は幸せになれると思ったのだった。
 しかしその後の衝動がよくわからなかった。人殺しに関しては、乱菊にはさせていないし、ギン自身も、本当にどうしようもないとき以外は怪我をさせるに留まっていた。そして何より、この衝動が沸き起こるのは、人を殺した直後などではなく穏やかな日常に不意に立ち現れるのだった。発作的に、乱菊のそばにいることに苦しくなる。自分が何よりも乱菊を求めていることを知っていたギンは、どうしてそうなるのか不思議でしかたなかった。ただ、ギンは、自分の衝動を深く追求はしなかった。混沌とした感情を形にすることなく、ただ苦しさから逃れるように家を出るだけだった。

 それは何度目の出奔だったろう。
 そのときには理由に出来る事があった。住んでいた集落に強盗の集団が出没した。住人はみな殺されることはなかったものの、ギンと乱菊は顔を見られた。すぐに二人は場所を移り、次の住処は森の中に隠れるように作った。けれどギンは集団を追い払うことを理由にして、夜中に家を出た。ここは見つからないだろうから乱菊は安全だと、自分に言い聞かせていた。
 強盗集団はすぐに見つかった。次の日の夜、再び集落を襲おうとしていたところに出会したのだった。記憶と目の前の男達が符合することを確認すると、ギンはすぐに刀を抜いた。殺すつもりはなかったが、乱菊のいる場所からずっと遠くに追い払うつもりだった。
 殺さずに追い払うには時間がかかった。数日かけて、気を抜くと喉笛を掻き斬りそうになる自分を抑えながら、ギンは何度も男達を不意打ちで襲い、住処から少しずつ男達を離していった。木の上で休息をとり、男達との距離を保ちながら機会を見計らって襲撃する。繰り返しているうちに、ギンは自分の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じた。
 自分の中が仄暗く透明になっていく感覚。
 男達の居場所を確認して、ギンはさほど離れていない大木の枝に座り幹にもたれかかった。さすがに少し疲れて溜息をついたときに、ふと乱菊の姿が脳裏に浮かんだ。仄暗い中に山吹色が射し込んできて、ギンは戸惑った。そこを照らしたらだめだとギンは頭を振り、枝の上に立ち上がった。止まるとろくな事を考えない。ギンは枝から枝へ飛び移り、男達の中に飛び込んだ。
 慌てふためく男を一人、深く踏み込みすぎて斬り付けた。殺すほどではない、けれど深い傷から鮮血が刃の軌跡を追って飛び散るのを見て、ギンは体が軽くなったように感じた。
 どうして自分はこんなに苦労して殺さないようにしているのだろう。全てが止まった思考の中で、ギンは自問する。自分が殺す分には構わないのではないか。乱菊の目の前でなければ構わないのではないか。
 どうせこいつらは虫なのだから。
 そう、どうせこいつらは虫なのだから。
 ギンはもう一歩深く踏み込んだ。体のひねりを利用した勢いで刀を振りきろうとした。
 しかし。
 手の勢いが削がれた。男が悲鳴を上げてギンから離れようとしていた。ギンは瞬時に距離を置く。男達を睨みつけながら、ギンはただ、自分の内側から発せられる声に圧倒されていた。
 耳を塞ごうにも自分の奥で静かなのに小さいのに響き渡るその声。ギンを世界から遮断するそれは呪詛のような声が頭の中で呟かれる声がこれは誰の声誰の声これは誰の乱菊に不似合いや乱菊を汚す存在や泥 と  血にまみれた    お前 傍におって いいんかいつか   乱菊  お前見捨てて いなくなる乱  菊いつか い なくなる   そのいつ かが     遅けれ ば乱菊汚れ  て この仄暗い 場所 まで堕ちてくるで   綺麗な  綺麗な
 乱菊が
  汚れて  血         塗れの 場所まで    堕ちてくるで
綺麗な世界が        消え失せるわ
  綺麗 な 乱 菊が消え失  せるわ乱菊は
                    人殺 し  の   お前    を
    血と  臓物の  
 臭いが  染みつ い た  お前を
                 空っぽのお前 を 世界も
     光も
             空 も
         花 も
             何もかも ない
                お前を ほら そしたら
そしたら
    そしたら
  そしたら

そうしたら

「そんなことになるのやったら」

 ギンは自分の声で我に返った。男達がちりぢりに逃げ去っていくのが見えていたが、ギンは動けなかった。ギンは気づきそうになった。もう少しで気づいてしまう自分に気づいて、ギンの体が勝手に震えた。愕然とした。
 自分は逃げたがっていた。
 逃げたくて仕方なかった。
 乱菊から? 何故?
 こんなに欲しているのに?
 ギンは走り出した。動かないと考えを進めてしまいそうで、怖くなった。無意識に乱菊の待つ住処とは反対方向にギンは駆けていく。しばらく走って急に、殺さないままで追い払った強盗達が気になりだした。かなり遠くに追い払ったとはいえ、戻ってしまったらどうなるのか。乱菊が出会ってしまったらどうなるのか。そう思って、背筋がぞっとした。頭の中が真っ白になった。ぞっとして真っ白のまま走り出し、ちりぢりに逃げた男達を数日かけて探しだした。

 全員殺した。

 浴びた血の生暖かさを肌寒いからちょうどいいとすら思いながら、ギンは最後の死体の傍に座り、住処を出てきた日数を数えてみた。最後の男を殺すまでギンには明確な意識というものがなかった。数えてみたら、もう十日が過ぎていた。これまでで最長記録だと思った瞬間、乱菊に会いたくなった。あの苦しさが怖いとすら感じていたのに、それ以上に、会いたくて仕方なかった。
 乱菊の姿がうすぼんやりと現れる。
 いつも乱菊のもとに戻るのは朝日の昇る頃で、どんなに霊圧を消しても、乱菊は敏感に察知して迎えに出てくれた。あの輝く姿。それはギンにとって、明るいもの全てだった。明るく柔らかく暖かいもの全てを表していた。ギンに欠けている明るい部分全てを乱菊が補っていた。ギンはそれを感覚で理解していた。だからこそ、乱菊がいない今、ギンは息をするのも難しい。
 ギンは幻に向かって手を伸ばした。その手は血塗れなのに、その血塗れのままで乱菊を抱きしめたかった。たとえ自分が血塗れでも、乱菊は厭うことなく抱きかえしてくれることをギンは知っていた。
 それでも、いつか乱菊は自分を捨てるかもしれない。けれど、もし乱菊が自分を捨てないでいたら、そのうちいつか乱菊も自分と同じように、輝きを失って仄暗い底に沈んでしまうかもしれない。
 そんなことになる前に、逃げ出してしまいたかった。
 ギンは、乱菊が自分を捨てるのを目の当たりにしたくはなかった。
 ギンは、乱菊が輝きを失って自分と同じようになるのを見たくはなかった。
 それがどれくらい自分勝手な願いかなど、ギンには分かりすぎるくらいに分かっていた。自分は恐ろしいくらいに自分勝手だ。ギンは、乱菊の願いも思いも何一つ、顧みてはいなかった。ただ、自分が光を失うのを恐れて、もしくは光が消えてしまうのを恐れて、その前に光から逃げ出そうとしていた。
 そして多分。

 自分の目の前で「そう」なるならば、その光り輝く花を手折るだろうと思う。

 ギンは蹲り、吐いた。
 数日間、飲まず食わずでいたのに、ギンは胃液を絞り出すように吐き続けた。胃液すら出なくなっても吐き続けた。このまま、口から体の裏側がずるりと出てきてしまえばいいのに、と思ったが、そうはならずにギンは血と吐瀉物の中に突っ伏した。濃い血の臭いと胃液の臭いに、また吐き気がこみ上げた。それでも動く気力すらなかった。
 ギンは顔を横に向けて、口から唾液を垂れ流すようにしてしばらく動かなかった。何も考えられずにいると、上の方から鳥のさえずりが降ってくることに気づいた。二羽、いるのか、会話のようにさえずりあっていた。もう少し周囲に気を払うと、そこは森の中にぽっかりとできた空間で、狭いながらも広場のようになっていた。すでに夜が明けていて、その空間から日の光が地面まで届き、ギンの体を温めていた。夜中、生暖かいと感じた他人の血はすでに黒く乾いていた。
「乱菊」
 ギンは心臓が締め付けられるような痛みを胸に感じた。太陽の光が自分を温めている、そのことがどうしようもなく切なかった。多分、自分は夜にしか生きられない生き物なのだ。なのに、だからこそ、太陽に焦がれてやまないのだ。
 乱菊。乱菊との穏やかな日々。綺麗な暖かな柔らかいやさしい世界。
 いつか自分は拒絶される。
 いつか自分は壊してしまう。
 手放さなければと思う。手放して、自分の手の届かない、どこか知らない遠いところで、乱菊がその世界で生きていられればそれでいいと思う。それなのに、あまりにも自分は欲張りでこの手が乱菊を放さない。
 ギンは仰向けに転がった。青い空が眩しくて、重い手をあげて影を顔に落とした。まだ小さいその手は血と吐瀉物と泥で汚れきっていた。

 その日、ギンは諦めた。今後も自分が家出を繰り返すだろうということ、本気で戻らないつもりで家を出るだろうということ、それでも乱菊から離れられなくて戻っていくのだろうということ、全てに対してあがくことを止めた。ギンがその日知ったことは、自分があまりに弱いということだった。どこまでも相反するものを抱え込み、その全てを捨てられず、ただギンは立ち竦んでいただけだった。
 川に着物ごと飛び込んで全身を洗いながら、妙にさっぱりしてギンは一人で笑った。なんて弱いなんて弱い。乱菊と比べて、どうしてもうこうも弱いのだろうか。弱くて自己中心的で勝手気まま。でも自分はやっと気づいた。その弱さに気づいた。
 これで乱菊に捨てられたら、仕方ないと思えるだろう。ギンは乱菊が消えた家に戻る自分を想像した。それはそれで空っぽな光景だけれど、自分は泣きもせず哀しみもせず、納得するだろうと考えた。ただ空っぽになるだけで。
 多分そのとき空は色を失うだろうけど。
 自分の息は止まるだろうけど。
 まだ青い空の下、びしょぬれのままギンは歩いて住処へと戻った。かなり遠いところまでいたようで、夜中歩いて帰り着いたのは次の日の朝だった。着物はすっかり乾いていたが、ギンはよれよれになっていた。いくら洗っても血の染みも酷い臭いも取れず、乱菊がまだいてくれはっても、もしかしたらボクこれで嫌われるんやなかろか、とまでギンは考えた。
 しかし、そんなことはなかった。
 かなり遠くの木立の隙間に小屋が見えたと思ったら、そこから乱菊が飛び出してきたのが見えた。今度こそいないかもしれないと覚悟をしていたギンは、全身の力が抜けて座り込んだ。これまで見たことない速さで走ってきた乱菊は、そんなギンを見て駆け寄りながら、
「あんたどうしてそうバカが治らないのっ」
と叫んだ。大きな目は吊り上がっていたが、涙があとからあとから零れていた。
「なんでそんなボロ雑巾のようになってんのよっ。顔色悪いわ痩せたわ着物はずたぼろだわなんなのよそれ!」
 言葉が矢継ぎ早に繰り出されるが、何の躊躇もなくギンの前に跪いて頭を抱き寄せる乱菊の手つきは柔らかかった。頭に涙がこぼれ落ちてくるのがわかった。髪の毛をすり抜けて涙が止まることなく頭皮を滑り落ちた。
「ボク、えらい臭うんや。乱菊、離れてぇな」
「知ってるわよ!」
 弱い力で押し退けようとすると頭を叩かれ、反対に乱菊に力を込めて抱きしめられた。いい匂いのする乱菊の胸の中で、ギンは急に眠りそうになった。気を失いそうになった、という方が正確かもしれない状態だった。
「おかえり、ギン」
 こんな状態でそんなこと言われたら。
 ギンは眼を閉じた。もうすでに夢の中にいるのではないだろうかと、ギンは確かめるように乱菊の背に手を伸ばしてそっと抱きしめた。
「ただいまあ、乱菊」
 ずるずると乱菊の腕の中に落ちていくギンの体。常に緊張しているその体が、みるみるうちに弛緩していった。
「乱菊、ボク、寝たいわもうあかん……」
「は? ここで何言ってるのよ! ちょっと……」
 遠くで乱菊の困ったような声が聞こえていたが、ギンはぶつんと何かが切れたように寝入ってしまった。
 目が覚めたときにはすでに夜中で、どうにか引きずってこられたらしい木の下で乱菊に膝枕されていた。幹に寄っかかって眠っている乱菊の顔を見上げて、ギンは自分がほどけていくのを感じて、願った。
 どうか死なんといてえな。

 ボクを捨てても。

 ボクが死んでも。

 それからのギンはやはり、家を出ては戻る、ということを繰り返した。ただ、ギンは少しずつではあるが、数字の小さい地区への道を見つけていた。山脈、渓谷、樹海、果てしない草原。地区を、地区境を安全に進むための最適な道なき道を、ギンは探っていた。
 いつか二人で出て行けたら。
 それまでまだ二人で一緒にいたら。
 自分が逃げ出していなかったら。
 自分が乱菊を殺していなかったら。
 狂おしいほど求めてやまない全てのものから逃げだそうとする、その相反した感情に飲み込まれそうになりながら、ギンは二人で生きていくための道を探し続けていた。





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