2019年09月13日(金) |
納得して死ぬという人間の務めについて/曽野 綾子 |
この人の人生観とか死生観には共感することが多い。 もちろんこの方の世界に向けた働きには遠く及ばないけれども。
利己的で不機嫌な老人になるか、明るく楽しい老人になるか。いかに最後の日を送るかを決めるのは、死んでからじゃ遅い!幼い頃からキリスト教で死を学び、十三歳で終戦を迎え、三人の親を自宅で看取り、二〇一七年、夫を見送った著者が、生涯をかけ対峙してきた、「死ぬ」という務めと、それまでを「生きる」任務について語る。
よく、「歳をとるほど楽しい」とか、「若い時と同じくらい生き生きしている」とお書きになっている高齢者がいるが、私はまったくそんなことはない。歳をとれば、それなりによくないことが増える。
食べなくなる、ということに、私たちはあまり心理的な苦痛を覚えなくてもいいように思う。食べなくなることは、その人がある年齢になって、近い将来、生きることを止めたい、ということを自ら語っているので、きわめて自然なことではないかと思う。食べなくなって、やがて死ぬという経過は、当人も周囲も深く納得するところだろう、という気がする。戦争や飢饉で食料がなくなって死ぬ悲惨さがそこにないからである。
そして私がつくづく思うのは、どうも死について話すことがタブーになっているような社会のこと。 よく万が一というけれど、決して万が一ではない。 いつか必ず死はやってくるのだ。はっきりと分かっていることを何故語ってはいけないのか、私には理解できないでいる。
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