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2005年03月30日(水) 投票ボタンを置かない理由

先日は失敗した。
前々回の日記のことである。話の流れで、「心に残ったときだけ押してね」という一言を添えて文末に置いている空メールボタンに毎回メッセージを入れていることを明かしたところ、興味で押す人が続出したのだ。
「あら、よかったじゃないの。いっぱいもらえて」
いやいや、そういう問題ではない。

日記書きにとって読み手からの反応がサイトを継続する力になることは、あらためて言うまでもないだろう。
誰かしらに読まれていることを認識したくてカウンタを、どんなふうに読まれているのかを知りたくて掲示板を設置する。メールフォーム欄に「励みになるので送ってやってください」なんて書いてあるのをよく見かけるが、これはお愛想でもなんでもない、本当にそうなのだ。

しかし、私にはさらにもう一歩突っ込んで知りたい、感じたいと思っていることがある。テキストごとの「手応え」というやつだ。
私にとって出来のいいテキスト、不出来なテキストがあるように、読み手にとっても読み応えのあった日、なかった日が存在するだろう。内訳は共感でも反感でもいいのだ、「素通り」しなかった人がどのくらいいるのか。私はそれが知りたい。
もちろんメールや被文中リンクの数がどっと増えれば、「今日のは興味深く読んでもらえたんだな」とわかる。が、そんなふうに手応えが目に見える形となって表れるのはよほどのときだけである。そんなことは月に一度あるかないかだ。
だから、私は「メールを送ったり自サイトで言及したりするような、そこまで派手なアクションを起こすほどではないけれど、面白く読みましたよ」という程度の手応えも拾いたいなあと思う。

そう考えたとき、空メールボタンが力になってくれるのだ。
「web拍手」というボタンをときどき見かけるが、期待する役割はあれと同じ。読み手がなんの得もないのにわざわざ押してくれた、というところに、ささやかな“評価”を感じることができる。
また、読み応えのあるなしだけでなく、そこに書いたこと、つまり自分の思いや考えがどのくらい普遍性のあるものなのかということを推測する手がかりにもなるので、私は毎回その数を興味深く、まじめに見ている。
冒頭で「失敗した」と言ったのは、メッセージを入れていると明かしたことによって、「どんなものだろう?(ぽちっ)」を誘うことになってしまい、その判定ができなくなったからだ。

……と言ったら、「そういう目的なら、べつに空メールでなくても日記リンク集の投票ボタンでいいんじゃないの?」という声が聞こえてきそうだ。
しかし、それでは代用できないのではないかなあと私は見ている。なぜなら、投票ボタンには空メールボタン以上に書き手に対する情や思惑が反映されやすい気がするからだ。
投票ボタンを押す、押さないの基準は人それぞれだが、私は「人」で押している。そういう一票が書き手の望むものであるかどうかはわからないけれど、その日のテキストがどうだったかというより、その人に「応援している人間がここにいます」を伝えたくて、私は押す。だから更新がなくても、あるいは止まっていても毎日押さずにいられないサイトもある。
うちにそんな思い入れを持ってくれている人がいるとは思えないが、投票ボタンを置けば自動的にランキングが絡んでくるため、義理押しが発生したり、逆にリンク集とは関係のない人たちが押すのに抵抗を感じるようになったりすることは考えられる。
「空メールが届く」ということ以外に私に利がない、そしてその空メールは私にしか価値のないものである、だからこそそこそこの数の人に“参加”してもらえ、かつある程度正確に手応えの大きさを把握することが可能になっている気がする。

それに、こんな心配もなきにしもあらず。
「今日のテキストは受けが悪いだろうな」「この結論はある人たちから反感を買いそうだ」と予想しながらアップすることがちょくちょくあるのだけれど、投票ボタンをつけたとたん、そういうことができなくなったらどうしよう?
「上位目指してガンバルゾー!」となるのはよいが、得票数を意識して書くテーマを選んだり、「この一文は抜いておいたほうが無難だな」なんて考えたりするようになったら、ものすごく困る。サイトの寿命を縮めるのは、「書きたいもの」と「書けるもの」とのギャップなのだ。



長々と書いたけれど、結局なにが言いたかったのかというと。
前々回、前回とふだんの三倍近くの数の空メールが届いているけれど、「押してくれたアナタだけに本文には書けないウラ話をこっそりお教えしちゃいます!」なんてことはまったくないので、今日は面白く読んだよというときにだけ押してもらえるとなおのことうれしい、ありがたい、という図々しいお願いなのでした。