せらび
c'est la vie
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みぃ


2006年06月12日(月) 六月六日と「牡羊座的」男たち

先日、ワタシが「わぁ、今日は6・6・6だ」などと浮かれている頃、その六月六日という日には、世界中の彼方此方で色々な人々がこの世を去ったようである。

いや、勿論それはどの日であろうと、基本的に毎日誰かしら死んではいるのだが。

例えば、某NGO(Non-Governmental Organization)の二番目に偉い人として世界中に知られていた「ザルカウィ」という男が、とうとう亜米利加軍の攻撃によって殺害された。

うちの界隈では、この男の死に顔がテレビで何度も放映された。傷だらけで膨れ上がった赤や蒼の斑な顔写真が幾枚か、これでもかと挙げられていた。丁度晩飯の最中だったワタシには、全く好い迷惑であったが。

この男に関しては、あんまり四六時中「二番目」を捕らえた!というのがニュースになるものだから、それは「そっくりさん」が沢山いるからなのか、はたまた本当の「二番目」が「輪廻転生」してこの世に戻って来たからなのか?という冗談が出回る程だった。

…そうか。そうすると、あの冗談はもう使えないという事か。残念。

勿論、今後「二番目」が再びニュースになる事はない、というのが前提だが、本当に「そっくりさん」か「輪廻転生した二番目」が出て来たら面白いと思う。


それから知人の中には、丁度同じ日に会社関係者が何人か死んだ、という人があった。その人が、この日は世界規模で何かあったのだろうか、と言ったのでワタシも早速感化されてしまってこんな事を書いている、という次第である。

しかし一番身近な話としては、今でも親しい間柄である中学時代の大先輩が仕事でここ数日外国へ行っており、そこで同僚であり友人でもあった人を事故で亡くした、というものである。

事故の詳細についての記述はここでは避けるが、ワタシ的に最も気になるのは、彼女が精神的・肉体的に疲労困憊しており、初七日を過ぎたとは言え友人氏の死をどう受け止めてよいのか分からぬ、と日記に書いている点である。

ワタシはそこへ何かコメントを書こうか、迷っていた。余計な事を言わないで放って置く方が良いだろうか。こういう事は外野がどうのと言うより、苦しんでいる本人の気の済むようにさせてやるのが良いだろうから、黙って見守ってやる事にしようか。

そんな事を思っているうち、以前にもここで少し書いた例の馬鹿が、「先輩の強さで乗り越えていってくださいね」などと追い討ちを掛けるようなコメントを残しているのを発見して、ワタシはその無神経振りに憤慨した。

あほか。親しい人が突然死んで混乱している人間に「強さ」を求めてどうするのだ。しかもまだ渦中にいるのに、「早く乗り越えろ」と言っているようなものじゃないか。そんな風にプレッシャーを掛ける馬鹿が何処にいる。分かったような口を利くな。

そういえば奴は昔から無神経なところがあったよ。本人は気を使っているつもりなんだろうが。


偏見を承知で言うが、奴は「牡羊座」の太陽の生まれである。

そういえば、ワタシが大学時代にお付き合いしていたオトコノコは、太陽はワタシと同じ水瓶座でも、男性における恋愛を司る火星とコミュニケーション・スタイルを表す水星が「牡羊座」だった。

こいつも通常人々から「あいつはいつも気を使って、いい奴だ」などと評されるのだが、ワタシからするとなんて気が利かないのだこの無神経野郎と思うような事を言ったりやったりしていて、それが元でワタシが匙を投げお別れしたという経緯がある。


また、比較的近年に長らくくっ付いたり離れたりという関係を続けていた男、こいつの事をワタシは「腐れ縁・悪霊男」などと呼んでいるが、奴もそういえばかなり「牡羊座的要素」が強いこてこての牡羊座だった。

こいつも人々からは受けが良い。自分でも同僚・友人思いの「いい奴」だと思い込んでいるので、周囲の人間に対してはかなり過干渉である。しかし実際は「人から嫌われるのが怖い」というだけで、必要以上に「良い子ぶっている」だけである。

だから未だにワタシとオフィスなどで顔を合わすと、その際勿論ワタシは簡単な挨拶だけで愛想など振りまいたりせず通り過ぎる訳だが、決まって後からメールをよこして突然自分の近況報告をしてみたり、「さっきは誰々と仕事の話をしていたからゆっくり話せなくて済まない」などと聞いてもいない言い訳をしてみたりするのである。自分に自信が無い男というのは、なんと哀れなのだろう、とその度に思う。


こうしてワタシは忽ち、ワタシがほんの数人ばかし知っている「牡羊座的」な男たちの自信過剰で無神経なところを一般化して、さてはまた「牡羊座気質」の所為に違いない、と暫し憤慨してみる。



…いや待て、そんな事はどうでも良いのだ!

例えそれが本当に「牡羊座気質」の所為だとしても、それが本来相性の良い筈のワタシに何故か鼻に付いて仕方が無いものだとしても、それ自体はどうでも良いのである。


人間いい年になって来ると、身近なところに死人のひとりやふたりは出て来るだろう。その故人との関わりが、戸籍上は兎も角、心の距離が密接であればあるだけ、突然の死と共にやって来る混乱や虚無感など様々な感情もまた深いものである。

そういう気持ちを消化するのにはそれぞれに必要な時間というものがあって、それは「初七日」だからとか「一周忌」だからさあ気持ちを切り替えて、とかいう風に割り切れるものでは無く、全く人それぞれなのである。

だからワタシは、本人の気が済むまで、時間を掛けてゆっくりお別れをしたら良いと思う。

それに、人の気持ちなんて、そう簡単には分からないものである。結局のところは、他人の気持ちは全くその通り経験する事など出来やしないのだから、想像するしか出来ない筈である。

ならば、「貴方の気持ちが分かる」とか「貴方も辛いだろうけど」とか「いつまでも悲しんでいないで」などと分かったような事を言わずに、分からないなら分からないと真実を言った方が相手にも親切じゃないか、下手な偽善なんか、更に相手を傷つけるだけじゃないか、と思う。

「貴方の苦しみを想像する事しか出来ないけれど、でも何か出来る事があったら言ってくれ」とでも言う方がまだましだ、とワタシは思う。



君が思っている程、ワタシたちは親しくない。

他人はあくまで他人。

その辺りは、勘違いしない方が良い。


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