心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年10月16日(月) 雑談

ノートPC用の電池パックが発火するという問題。
「ああやっぱり」という気もしました。もうこの工程は省くから来なくていいよと言われたのは何年前だったか。その不条理が今回の原因とはとても言えませんが、過剰にコストダウンを求める余り、ついつい何かがおろそかになるのはよくある話。交換にかかる費用は400億円を越えて、まだまだ増えそうだとか。
それでも同社製のノートPCについては、回収という話が出ません。日本国内で炎上するまで放置でしょうか。

精密測定器の不正輸出で摘発された会社もありました。急に疎遠になって、どうしちゃったのかなと思っていたんですが。海外に技術移転すると、国内の雇用が守れない。だから国内でがんばるんだという社長の主張は立派でしたが、国内で作ったものが、海外に売れないのでは困ってしまうのか。

会社の経営って、すごく難しいんだねぇと思うこの頃です。まあそういう職業とは縁が成さそうなんで、心配要らないんですが。

話は変わって、僕はAC(アダルト・チルドレン)というコンテキストでは語らないので、ACのことはよくわかりません。
ただ、世の中には親に十分愛された人と、愛を受け足りなかった人がいるとは考えています。これは客観的に見てどうかという話ではないですな。
周囲から見て十分愛されているように見えても、本人が足りなかったと感じるなら、もっと愛される必要があったんでしょう。逆にあんまり愛されていないように見えても、実は本人は足りているという場合もあるはずです。
人は一人一人違うから、どれだけ愛されればいいかも一人一人違うはずです。だから、ここまであればいいはずだとは言えないことになります。
親の方も事情は同じで、一人一人どれだけ愛せるかの能力が違う。たくさん愛せる親もいれば、不足気味の人もいる。
だから、親と子の組み合わせによっては、ミスマッチが起ることもある。
まあ、これは理屈です。「理屈とトクホンはどこへでもひっつく」と言われますからね。

じゃあどうすればいいのかと言われても、僕らが持っているのは12ステップという道具だけなんですよ。それにAAメンバーの2/3は「AA以外の場所で、精神的、心理的、あるいは霊的なケアを受けた経験がある」ことは憶えておいて欲しいと思います。
とはいうものの、12ステップは一生無料で使える道具であります。

そして、ソブラエティを続けている多くのAAメンバーが、その中でリラプス(relaps:逆戻り)を経験し、回復は一生取り組む作業だと感じているのであります。


2006年10月15日(日) 資格試験

朝4時に寝て、6時半に目覚ましが鳴りました。
寝る前に持ち物を揃えたはずが、スリッパを忘れてきたことに気付いたのは、駅への途中でした。引き返しても良かったのですが、コンビニで買えばいいやと、駅へ向かいました。が、数分後、僕の中のセブンイレブン神話は崩壊します。

そのまま行って、会場内は靴下で歩いてもいいかと思ったんですが、トイレが困ります。試験会場は中学校や高校が使われることが多く、トイレにサンダルはありません。仕方ないから家まで戻ったら、電車を一本逃しました。
朝の時間帯なんですが、一本逃すと30分後です。
おかげで、行った先の駅からタクシーを飛ばす羽目になりました。1,910円。

試験会場へは15分遅れで到着。30分まで遅刻は許されるので、気楽(?)なものです。

いつものことながら、会場はスカスカです。費用を振り込んでいるにもかかわらず、半分ぐらいの人は会場に現れません。僕も勉強が間に合わなくて一回諦めたことがありました。仕事が炎上していて試験どころではない人もいるんでしょう。
午前中のマークシートの試験が終わると、出席証明がもらえます。それで帰っちゃう人もいます。会社から費用を出してもらっている人は、受験したという証拠さえもらえば良いらしいです。

午後の試験は記述式。お腹が痛かったです。もはや若くはなく、肉体的な疲れがすぐに体の不調につながります。睡眠不足が続くとすぐに下痢をします。
もちろん途中退出してトイレに行くこともできるのですが、そうすると再度入室はできません。悪いことに試験の時間割は100分とか2時間とか。途中でトイレに行くのは、合格を諦めるのに等しい行為です。

受験者は僕と同じぐらいの年格好の人が多く、みんな顔に疲れが浮かんでいました。男ばかり。午後の休憩時間にはもう人は減りません。最後は論述式。
30分ほど早く諦めて退出しました。

思えば3月だったか4月だったか、ふとした気まぐれから書店で参考書を買ってしまってから約半年、勉強しなくちゃいけないのに「やる気がしねぇ」という状態からはやっと解放されました。

年末か年明けぐらいに、賞状のような合格証書が送られてくれば合格、来なければ不合格であります。僕の場合には、合格しても得るものはあまりありません。こんなことなら、AAのラウンドアップに行っていた方が良かったかと思ったりしました。もっとも、ラウンドアップに行っても、疲れでお腹が痛くなるのですが。


2006年10月14日(土) 鳴らない電話

隣県でAAのラウンドアップが行われている関係で、ホームグループのミーティングは留守番組だけになりました。といっても、このグループでは、ラウンドアップに行かない人のほうが多いので、あまりいつもの週末と変わりませんでしたが。

なにも自助グループに限らず、人の集まるところ、個人の力を越えた「パワー」が存在しうるという考えには、うなずけるものがあります。
だから、AAだ断酒会だという枠に囚われなくてもいいではないか、と言われれば確かにそうです。

断酒会でもAAでも、行ったことのある人は、そこに何らかの「型」があることを感じたのではありませんか?
断酒会は断酒道とか言っちゃってるし、AAはステップだとかうるさいし。そういう「型」を、うざったく、堅苦しく感じたとしても不思議ではないです。
形に囚われずに、もっと自由にやればいいのに、なんか嫌だなぁというのが、フツーの人の感じ方だと思います。

でも、本当にそう感じているんだったら、自分なりの考えで、自分なりのスタイルで始めてみればいいんですよ。気楽に。実際そうする人もいます。

市の公民館の一室を借りて、AAミーティングを始めた話は別に書きました。そこの公民館を使っているサークルは多かったので、定期的に部屋を確保するには会議に出なくちゃなりませんでした。
多くは趣味のサークルです。お茶やお花、料理、楽器、書道、手話・・・。その多くは、役に立ったり、楽しかったりするもんなんでしょう。参加者には。
ところが、その会議に出続けていると、参加してくるサークルがだんだん入れ替わっていく様子がわかります。

同じ曜日に公民館を使っているサークルもたくさんありました。でも、10年経って、いまだに同じペースで続けているのは、隣の部屋の日本語教室ぐらいでしょうか。
もちろん僕の目にしないところで続いているものもたくさんあるかもしれず、断続的に続いているところを加えればもっと増えるでしょうが。

何が言いたいかというと、楽しい趣味のサークルであっても、なかなか長続きはしないと感じるのです。ましてや、自助グループってのは漢方薬みたいに、ゆっくりと作用するもんでのですから。

ところが病気は一生ものです。だから、例え個人の力が弱まっても、続いていってくれないと困ります。永続性を確保するには「何か」が必要なんだと思います。

その「何か」がなんなのか、簡単には説明しきれないんですが、堅苦しく感じさせる「型」ができる過程で、その「何か」を獲得していったのではないかと。

そういや、ACのグループもやってるんですよね。


2006年10月13日(金) 飽きる

AAやってて飽きませんか? と聞かれることがあります。
そんなのとっくに飽きているという感じがします。少なくとも、新しい刺激があって、興味がかき立てられる状態は、とっくに過ぎてしまいました。ミーティング終了後に感じるカタルシスも、どんどん薄くなっていくものです。
ミーティングの顔ぶれだって、そんなに変わるもんじゃないですし。

飽きているとは言っても、趣味でやってるわけじゃないですからね。
仕事に飽きても、簡単にやめられないのと似ているかも知れません。ご飯を食べるのも、うんこをするのも、数え切れないほどやってきましたが、飽きたらからやめるというわけにもいきません。
どちらかというと、歯を磨いたり、風呂にはいるのと似ています。歯を磨いたり、風呂に入らなくても、死にはしません。でも、それが自分の常識になってしまうのは嫌だなと。
東京にいた頃は、風呂なしのアパートに住んで飲んでいたので、面倒で2〜3ヶ月銭湯に行かないこともありました。本人はそれほど切迫感がないのですが、周囲にしてみれば「何やってんだお前は」と言いたいところでしょう。いま、自分で思い出しても恥ずかしい話です。が、その時は人にどんな思いをさせてるか、考えていなかったわけです(自分がどう思われるかは気になりましたが)。
災害でインフラが崩壊すれば、風呂だなんて言っていられません。でも、せっかく文明生活に生きているんだから、風呂には入りたい。ミーティングもしかりというところでしょうか。
ついでに誰かが助かってくれれば、それにこしたことはありません。

なだいなだの本にあるのですが、断酒会で優等生タイプは2〜3年で飽きてしまい、「もはや学ぶものは何もない」と来なくなってしまうんだそうです。人に助けられ、自分が得ることばかり求めているから、見えなくなってしまうのでしょうね。

明後日日曜は資格試験で、今さらですが今日から勉強を始めています。最大の難関は、当日朝起きられるかどうかです。「AAだったら、間違いなく起きるのにね」とは妻の皮肉であります。

「猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身全霊僕でありたい」とハイポジの歌にありました。教育テレビの人形アニメの歌になっていました(確かカタツムリのやつ)。
自分自身であることを妨げているのは、何を隠そう自分であったりして。


2006年10月12日(木) 抗酒剤

3回目の入院の、最初の外泊の時に、すっかり酔っぱらって病院に戻り、次の外泊から抗酒剤を服用させられました。それが初めての抗酒剤でありました。
ナースステーション内でシアナマイドの入ったカップを渡され、それを目の前で飲んで見せ、さらには口を開けて飲み下していることを確認されました。
なんだかなーと思った記憶があります。
精神病院では服薬拒否をする患者は多いです(依存症以外の病気の人が多い)。薬を手渡して本人に飲めといっても、飲まずにゴミ箱に捨ててしまいます。だから、食事後に患者は水の入ったコップを持って一列に並び、看護婦から口の中に薬を投入してもらうのです。そして「飲んだよ〜」と口の中を見てもらう。「おいらは依存症で」と主張しても例外は認めてもらえず、列に並ぶのでありました。
アルコール専門病院に行って、そういうのとは無縁になったと思っていたら、シアナマイドでは同じことでありました。薬好きのアル中でも、抗酒剤は服薬拒否が多いらしく、手順は同じであります。

なぜシアナマイドを服薬拒否するのか。それは酒が飲みたいからだとする話もあります。もちろん酒を飲みたかったら、抗酒剤は飲みたくないのが道理です。
でも、酒はやめたいのだが、抗酒剤も飲みたくないという気持ちも理解できます。酒を飲むのも飲まないのも、自分の自由意志でやってきたんだから、抗酒剤で無理矢理飲めない体にしてもらわなくても、自分の意志で飲まない方を選択していけるはずだ。それをシアナマイドを飲めというのは、信用されていないし、断酒に前向きな気持ちも評価されていない、それが気にくわないという理屈です。
しかし、飲む・飲まないが自分の自由意志の選択だと思うのが間違っています。病気によって、常に「飲む方」にバイアスがかかっているのであって、酒に関しては自由意志はあまり役に立ちません。

自分は抗酒剤を3年飲みました。
シアナマイド(液剤)は背中が痒くなってたまらなかったので、ノックビン(粉剤)に変えました。ところが、地元の開業医にはノックビンの仕入れがなく、わざわざ僕のために仕入れてもらいました。
1年経った時に、「そろそろ抗酒剤を止めたい」と医者に相談したのですが、医者は否定的でした。こちらもわざわざ仕入れてもらった手前、無理押しには断れません。結局3年飲みました。整腸剤と混ぜてもらってたので、抗酒剤を飲んでいるということを普段は意識しませんでしたが。

3年経った時に、医者が「じゃ私からもバースディプレゼント」といって、ノックビンの打ち切りを告げられました。これでいつでも飲める体になったんだと思うと、ちょっと不安でしたが、そのうちそんなことも忘れました。

抗酒剤を飲みながらの断酒は、本物の断酒じゃない、なんていう言葉を聞きます。もちろん、断酒の真正は抗酒剤というモノサシでは計れないと思いますが。


2006年10月10日(火) 仮説(ネタがないとき用予備校)

ま、あくまでも仮説であります。

AAの中にいる女性はなぜこうも魅力的なのか?
(え? 自助グループにいる女性には魅力を感じない? さあ、帰った帰った)
そもそも魅力を感じていないのなら、この仮説は成り立たないですからね。

基本的には、女性の数が男性より少ないところがミソであります。

そもそも、スチュワーデスだとか、モデルだとか、受付嬢だとか、コンパニオンというような職業の女性になぜ男はあこがれるのでありましょうか。
制服を着ているから? モデルやコンパニオンは制服じゃないです。
容姿端麗であることが、そういった職業に就く条件であるから・・・それもあるかもしれません。
キモは、多くの男性と接する機会のある職業だからだとされています。
(多くの人に接するからこそ、容姿が求められるということもあるでしょうが)。

女性に魅力を感じた場合、男はその女性を独占したいと思うわけです。これは自分の子供だけを産んで欲しいという太古から受け継がれた本能ですね。ところが人に接する職業の女性の場合、男は「自分より魅力的な男性に誘惑されてしまうのではないか」という不安を大きく抱えることになります。
要するに「嫉妬心」ですね。
嫉妬することは、相手に魅力を感じるということです。魅力を感じなければ嫉妬はしないですけど。そういう職業に就く女性は、熱烈なステディを持つと言われています。

嫉妬される愛情と、一緒にいると落ち着く関係は相反するので、必ずしも熱烈な愛情が好ましいとは限りませんが、まそれはともかく。

男に囲まれるということは職業に限りません。たとえば大学のサークル活動でも、女同士で固まっているより、多数の男性の中に少数派として混じっている女性は(その比率以上に)もてるわけです。

AAの中の女性にも同じことが言えるんじゃないでしょうか。
男女比が3:1ぐらいでしょうか。女だけで固まっているグループだとか、ひとりでいる女性もいますから、男性に囲まれている女性メンバーは、その比率以上に少ないでしょう。
というわけで、AAの中で男性に囲まれている女性メンバーは魅力的に見えるのであります。

AAを離れて一般社会の中に混じってしまえば、それほど輝いていないのかも知れないですがね。
(酸っぱいブドウの論理)。


2006年10月09日(月) 平凡

平凡な人間の中には、善と悪が入り交じって存在しているのでしょう。
誰だって、自分には悪い部分もあるけれど善性が勝った人間である(つまり基本的にはよい人間である)と信じたいものです。

たとえば僕はよくトイレの話をするのですが、自宅のトイレを汚したら自分で掃除する人でも、駅のトイレを汚しても掃除しようとはしないものです。そうではありませんか?
自宅のトイレを掃除しなくても、嫌な思いをするのは結局自分です。それか家人から非難されるか。いずれにしろ、リスクは負わねばなりません。ところが、駅のトイレから逃亡しても、非難を受ける可能性はごく低いものです。
公共のトイレがどんなに汚いものであるか、そういう話はもっともですし、それを無償で掃除する高潔な人間が少ないのも事実でしょう。
僕もたぶん逃亡するでしょう。逃亡を選択する心の暗闇があるわけです。
そうした暗闇に光があたっても結構平気でいられる人もいます。でも、まるで攻撃でも受けたかのように反撃したり、理屈で反論したり、イジメにでも遭ったように落ち込んだりする人もいるわけです。

自分も基本的にそうしたタイプであります。そうした過剰な反応をする人は、たぶん自分に対する期待値が大きすぎるのでしょうね。自分は平凡な人間であり、平凡な人間の中には、善も悪も同じぐらい存在していることを忘れているのであります。
どこか、自分を高潔な(優れた)存在であると見なしたい願望があります。しかし、高潔さはトレーニングなしにはたどり着けない場所でしょう。

結構平気な人は、人の心のは誰にでも闇があることを知っているし、自分もその一人であることを受け入れられるのでしょう。

棚卸しの作業をすると、そうした悪いものがぼこぼこ出てくるわけであります。
悪い部分は一生かかってもゼロにはならないです。霊的生活が完成した人はいないんですから。改善される部分もあるでしょうけど、ゼロにはならんです。
悪いものをたくさん抱えた、高潔でない弱い自分。ありのままの自分を好きになっていくしか仕方ないんじゃないかと思うのです。

結局の所、棚卸しの作業は、健全な自己愛を持つために必要な過程なんでしょう。

自分を愛せるようになるのは、誰かに愛されるのが一番なんだそうです。でも、生身の人間には、他人のありのままを100%受け止める大きさはないでしょうから、Higher Power ってもんが必要になりそうです。

自分が人とは違う(平凡ではない)だって、これが違うあれが違うと言い訳をするのは、アル中特有の「違い探し」でしょう。自分の性格的欠点に、いちいち言い訳を考えてみても仕方ない。平凡になる。自分にも(もちろん他の人にも)期待を押しつけない。がっかりしない。

ステップ4は、改善のためにありのままの現状を把握するのが目的で、自己非難の材料を探すためのものではありません。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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