ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ|過去へ|未来へ
2010年06月18日(金) 問題の分かち合いばかりでは 6月3日の雑記「その概念を他の依存に拡張する」で、
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100603
「問題」と「解決方法」の二つに分けました。
人それぞれ抱えている問題は違います。アルコールだったり、ギャンブルだったり。薬物だったり。共依存だったり。はてはACだったり。問題が違えば、ミーティングでそれを分かち合っても、共感できないことだってあります。
僕はアルコールの人なので、ギャンブルへの衝動がコントロールできないこととか、覚醒剤をやってセックスするといかに気持ちいいかとか、食べて吐いたときのちょっとスッとする感じとか、(頭では理解できても)体験的に知っているわけじゃありません。
けれど、問題は違っていても、解決方法(12のステップ)は共通です。
「私たち一人一人にとっての偉大な事実は、私たちが共通の解決方法を見つけたということにある」(p.27)
だからミーティングでは、問題ばかりでなく解決方法も分かち合う必要があります。どうやってその問題を解決したかという「経験」を分かち合うことで、将来へ向かう「力」や「希望」が生まれてくるからです。
逆に言うと、問題ばかりが分かち合われているミーティングには「希望」がありません。表面的に明るくても、裏にはいつまでも問題に屈服され続ける惨めさが潜んでいます。過去アディクションがひどかった頃にあんなことやこんなことをした、と笑いに転化して話すのは、一見楽しく明るい分かち合いに見えるのですが、それだけでは実は解決のない暗い暗い希望のないミーティングになってしまうのです。
依存の症状が止まっても、それだけで問題が消え去るわけではありません。日常生活の中で、問題はいくらでも発生してきます。人間や金銭への不満や不安にさらされ続けるのが人生なのですから。もちろん、人間にとってそうした心の中の問題を口に出すことは大切なことです。けれど、ミーティングは問題を分かち合う場所ではなく、むしろ、それをどうやって乗り越えたか(解決)を分かち合う場所です。
けれど、そうした解決の示されない(暗い希望のない)ミーティング会場でも、人はそこに何らかの心地好さを感じます。悩んでいる人は孤立しがちなので、悩んでいるのは自分一人だと思っています。けれど、ミーティングに行けば同じ問題、同じ悩みを抱えた人が他にもいることがわかり、その中に混じって「ちょっとホッとする」のです。
また悩んでいる人は孤立しがちなので、(酒やギャンブルが止まっていても)心の中を打ち明ける相手がいない(か少ない)のがふつうです。ところがミーティングに来れば、みんな黙って自分の話を聞いてくれますから、先週のミーティングから今日までこんなことがあったとか、会社や家でこんな目にあった、という話をして、それで「ちょっとスッとする」のです。
こんなふうに、問題ばかりが分かち合われるミーティングでも癒し(リリーフ)は与えられます。けれど、その癒しの効果は一時的なものに過ぎず、問題は解決されないまま残ります。せっかくミーティングにつながっても、そのことに失望して去ってしまう人もいます。あるいは、一時的な癒しを延々求め続ける人たちもいます。
ある人がミーティングに毎日通って酒をやめていました。回復優先で仕事はしていませんでした。三年経って仕事についたら、忙しくてミーティングに行けず、精神的に調子を崩して再飲酒、仕事もクビになってしまいました。この人に対して「ミーティングから離れるから再飲酒するのだ」と言って済ませていいものでしょうか。
一時的な癒ししか与えないミーティングに毎日通って、それによって断酒を続け、そこから離れたら酒を飲んでしまう・・忙しくてミーティングに行けない状況に、ただ流されてしまうだけの人を作る。これでは回復とは言えません。この人に、またミーティングに通えばいいよ、というのは、螺旋をもう一回転させるだけ、良くて問題の先延ばし、悪ければ「人殺しの論理」です。
だから、ミーティングでは問題だけでなく、解決(ステップ)の話をしなければなりません。ステップの話というのはどうしても堅苦しい雰囲気になりがちなのですが、でもそれが実は明るくて希望のある会場なのです。
けれど、それだと解決を経ていない、ステップをやっていない人はミーティングでの分かち合いに参加できなくなってしまいます。ステップをやっていないビギナーは、問題を分かち合えばいいし、それで「ホッとする」でも「スッとする」でもしてくれればいい。一時的な癒しでも何でも使って、ともかく酒やギャンブルをやめ続けることが大切です。なぜなら、酒に酔いながら、薬でラリリながらステップをやるわけにはいきません。ステップをやるまでの猶予期間です。
ビギナーには、問題だけを分かち合う自由が許されている。
のです。問題だけを分かち合っている人がビギナー(何年飲んでいなくても)、解決(ステップ)の経験を話せるようになればビギナー卒業、ということです。
問題だけしか分かち合われていないミーティング会場は結構たくさんあります。それが与える一時的な癒しが自助グループの効果のすべてだと思っている人もいます。けれど、それは誤解です。自助グループの真の実力はそんなものではありません。見くびってもらっちゃ困るってわけ。
2010年06月17日(木) 希少種 厚生労働省の行った患者調査(2008年)によれば、精神病(精神および行動の傷害)で治療を受けた総患者数は281万5千人。(ちなみに統合失調症が約80万、気分障害(うつ病など)が約104万)。
一方、アルコール依存症で治療を受けている総患者数は1万6,700人(患者調査2005)。
ということは、精神科医が診る患者のなかで、アルコール依存症の人は1.67万/281.5万=0.59%です。
KASTを基準にアルコール依存症の有病率を推定すると男性7.4%、女性1.5%。これだと450万人が依存症。IDC-10を基準にした場合は男性1.9%、女性0.1%。82万人がアルコール依存症です。決して依存症の人が少ないわけじゃありませんが、医者にいく人が少ないのです。
つまり、アルコール依存症の受診率はとても低いため、「精神科の現場ではアルコール依存症の人は珍しい」。168人の患者のうち1人だけなのです。
さらに、うつ病も併発している、しかもそのうつ病が難治性で何年も治療している、となると、そんな患者を複数抱えている先生って、どれぐらいいるんでしょう(きっとすごく珍しい、という意味)。
2010年06月15日(火) 優れていたから断酒できたわけではない 確かに僕は十何年間か酒を飲んでいません。
それだけ断酒が続くということは、僕に何か優れた点(例えば「断酒に向いた資質」)があると考える人もいます。
でもそれは大きな誤解です。
もし僕が再飲酒したとして、もう一度断酒できる確率はどれぐらいでしょうか?
「ひいらぎさんみたいな人だったら、きっとまた断酒できますよ」という人もいます。でもそれは誤りで、「他の人と変わらない」が正解です。
何年酒をやめていても、また飲んでしまったら今度は細かな再飲酒の繰り返しになってしまって、(今のところ)自助グループに戻ってきていない、という人はいくらでもいますし、中にはそのまま死んでしまう人もいます。
自助グループは確かに断酒に役に立ちますが、そのメンバーになっていることが(再飲酒後の)断酒に対する能力の高さを示しているわけではありません。もし、断酒会やAAのメンバーを100人並べて、全員を谷に突き落とし(酒を飲ませ)たとすると、谷底からはい上がってこれる(再度断酒できる)人の割合は、いま入院中の患者さんたちと変わらないはずです。
断酒が始まったときに、断酒会やAAに通おうと思ったのは、何らかの幸運に寄るところが大きいわけで、別のタイミングだったら同じ人でもダメだった可能性が高いのです。(AAメンバーであれば、その気にさせてもらえたのもハイヤーパワーのおかげと言うかもしれません)。
以前にも書きましたが
「行ったり来たり」
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100503
再飲酒する人は、飲んでもまた酒をやめることができる、と考えているのです。
もし酒が毒薬で、飲んだらその場で死んでしまうなら、本物の自殺志願者しか再飲酒しないでしょう。アル中は緩慢な自殺だと言いますが、実際には生きるために飲んでいるのであって、再飲酒は自殺ではありません。再飲酒しても生き残れると思うからこそ、目の前の酒が飲めるのです。
今回の断酒(ソブラエティ)が、何らかの幸運(偶然)によって得られたもので、次もチャンスが与えられるとは限らない(今度飲んだらそのまま一生やめられないかも)という事実に思い至れれば、今飲まないで生きていられることの奇跡に感謝できるというものです。そう、ソブラエティは貴重なものだからこそ、大切にしなければならないのです。
「またやめればいいよ」というのは、飲んでしまった人を慰めて、またやる気を出してもらうためにかける言葉です。今やめている人間が自分に対して使うのはそれこそ自殺行為です。
2010年06月14日(月) 専門性って何だろう 子供虐待死から学ぶ、という専門家向けのセミナーになぜか参加していたひいらぎです。
普通は午前中が講演(講義)、午後が少人数のグループに分かれて事例検討を何件か、という組み合わせなのだそうですが、半日しかないのでいきなり事例検討になりました。周りは児童相談所や福祉事務所、学校の先生や施設の職員などなど。泳げないのに冬の日本海に放り出された気分です。
グループの人数は7人前後になるように調整していました。多すぎると発言しない人が出てくるし、少なすぎると別の視点から見ることができなくなるのだとか。それと、すぐに討議に入らず、その前に数分各自黙って検討する時間を設けていました。いきなり討議に入ってしまうと、頭の回転の速い人・声のデカい人が主導権を握ってしまうので、それを防ぐねらいだそうです。
事例検討は実際に起きてしまった虐待死事件の経過をたどりながら、虐待死を防ぐにはどうする「べき」だったのか、そしてなぜそれが出来なかったのかを考えます。
どうやったら防げたのかを考えるときに、社会の仕組みが悪いという話にしてしまってはいけないわけです。例えば「虐待する親も孤立して苦しんでいるのだから、それを支えるネットワークが必要だ」というのは正論なのですが、目の前の案件に対処しなければいけない人には役に立たない話なのです。
また、「こうするべきだった」という「べき」を考えるのは簡単なのですが、ではなぜそれが出来なかったかを考えないと前に進みません。(12ステップの棚卸しでも「べき」を見つけるのは簡単です。恨むべきではなかった・・というふうに。ではなぜ恨んでしまったのかを考えることで、性格の欠点が見えてきます)。
虐待死というのは、親が子供を守れず、親戚や近所も守れず、学校も子供を守れず、医者も守れず、児童相談所などの専門機関も守れず・・という(ワールドカップをやっているのであえてサッカーに例えれば)何人ものゴールキーパーがいたにもかかわらず、順番に全員かわされてゴールを許してしまった、みたいなものなのです。
最初の事例では、子供の左ほほとももにあざがあるのを医者がみつけて通報しました。左ほほのあざは右利きの人が利き腕で顔を叩いてできたもの、もものあざは正座させて上から何かで叩いた結果できたもの。これだけ明らかな虐待の徴候がありながら、対処が学校だけに任され、半分近く学校を休む状況が何ヶ月か続いた後に虐待死が起こっています。
全体を見渡せれば気づけるような「明らかなリスク」が見落とされているのは、他の事例でも同じでした。
最後に講師の先生が、専門性について
「専門性が高いとは、全体を見れば誰でもわかることを、どのような状況の中でも(実際の実践において)見失わない力があるということなのではないか」
と提示していました。
虐待死というのは足が速いんだな、というのが感想です。リスクが発生してから数ヶ月で死という結果がでてしまいます。現場の緊張感というのを感じます。それにくらべて依存症というのは(大人だし)致死性といっても、死ぬまで何年も何十年もかかるので、ゆっくりしたものです。
最近あっちでもこっちでも「専門性の確立が必要だ」という言葉を聞きます。しかし専門性って何なのかがわかりません。もちろんその分野の専門的な知識や技量が必要なのは言うまでもありません。教育、福祉、医療、なんでもそうでしょう。しかし、それ=専門性というわけでもなさそうです。この疑問に対する答えが、講師の先生の最後の言葉だったのではないか、と思いいたりました。
話は変わって、AAのスポンサーにも専門性は必要です。AAはアマチュアなんだから素人で良いじゃないか、という話もあるでしょう。もちろんそれはその通りで、スポンサーになるために専門的な教育を受ける必要はなく、その人の回復の経験がありさえすれば十分です。けれどAAのスポンサーシップはアマチュアであることを(技量の低さの)言い訳にするのではなく、高い専門性を(素人ゆえに)無料で提供できることに誇りを持つものです。
最近ビッグブックを使った12ステップのやり方・伝え方が注目されているのは、とても良いことだと思います。なぜならそれによって、「ステップのやり方を伝えていく」というスポンサーシップの本質が取り戻されているからです。けれど、「ステップを伝える」ことに意識が集中しすぎているんじゃないか、という懸念があります。
確かに12ステップへの知識・経験・技量、そういうものは必要でしょう。スポンサーはそれが「専門」であり、それがなければ話になりません。けれど、それだけがあればいいわけではなく、やはり全体を見通す力は不可欠です。
「私はスポンサーとしてステップを伝えるだけだ。スポンシーの悩み事相談には乗らない」という話をあっちでもこっちでも聞いてしまいました。しかしその言葉は、自ら12ステップへの専門性を否定する言葉です。
例えばこういう人に限って、スポンシー本人だけを相手にして、スポンシーの家族へのコミットメントを避けています。「ビッグブックのやり方に忠実に従っている」と言いながら、第7章の内容はまるで無視です。僕の経験では、本人だけを相手にしているよりも、スポンシーの家族と何らかの接触を持てた方がずっとうまくいきます。何も家族からの情報を拒否する必要はありません(ビッグブックに捨てて良いところなんてないよ)。
ビッグブック・ムーブメントには様々な批判も寄せられています。ビル・Wの言うとおり、批判にはまるで正当性のないものも混じっていますが、たいていの批判には正当な部分も含まれています。「ステップを伝えるだけ」というのもその一つであり、字句通りステップを伝えることに集中するのではなく、その目的を達成するためにこそ全体を見渡す能力が必要なのでしょう。
2010年06月11日(金) というわけで共依存について 6/2の雑記で
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100602
「アディクションの基礎概念」を説明し、
翌日の雑記で
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100603
「その概念を他の依存に拡張」してみました。
依存症とはコントロールを失う病気です。ほどほどでやめる(量のコントロールをする)ことができない以上、唯一の解決方法は完全にやめることだけです。一方、食べ物や買い物への依存の場合には、完全にやめることはできません。ではコントロールを取り戻せるのかというと、そうではなく、やはりある一線を越えれば病気がぶり返してしまいます。
アルコールやギャンブルの場合には、健康と不健康を分ける境界線は量がゼロのところ(しかも全員同じ場所)に引かれている。食べ物や買い物の場合には、その線はゼロのところではなく、しかも人によってその線の場所が違っている。・・という違いがあるものの、「ある線から向こう側には行けない(一生)」という点は同じです。
そしてその概念は、感情の依存や共依存にも拡張できることを説明しました。
様々な依存症のなかには、医学がまだ病気として認めていないものもあります。しかし医学が認めていない病気でも、それがアディクションであれば同じ概念が通用します。つまりたまたま依存の対象が違うだけで、同じ病気なのです。そして、同じ病気であれば、治療法も同じとなります。
旦那さんも奥さんもアル中という夫婦がいたとします。この場合、旦那にも奥さんにも同じ治療が必要、というのは分かりやすいことです。これが、旦那さんがアル中、奥さんがパチンコ依存だったとしたら? AA・GAというグループの違いはあるでしょうが、やる治療は同じです。片方だけを治療して、もう一方は治療しない、なんてあり得ません。
では・・・。旦那さんがアル中、奥さんが共依存だとしたら?
もちろん、同じ治療が必要であり、対処も同じになります。
例えば、「自力でやめることは困難だ」というもアディクションの基礎概念の一つです。飲んでいるアル中に「酒をやめろ!」といくら説教をしても無駄です。そのことは良く理解されています。
さらには、一人で酒をやめようとして、何度も失敗している人に対して、私たちは「医者に行け、自助グループに行け」とアドバイスをします。それは依存は「一人でやめることは困難」ということが理解されているからです。
(簡単にやめられて、一生ぶり返さなければ、それは依存症ではない)。
では、旦那がアル中だという奥さんが、そのことを相談をすると、どんなアドバイスをもらうでしょうか。僕も以前はこんなことを言っていました。
「旦那さんの病気の尻ぬぐいをするのはやめなさい。過度な関わりを避け、旦那さんを手放して、あなた自身の幸せを考えなさい」
・・だがこれは、アル中に酒をやめろと説教しているのと同じです。もちろん、やめなくてかまわないと思っている人に、「やめるべきだ」と言うことは必要です。しかし、やめられなくて悩んでいる人に、繰り返し「やめろ」と言うのは無意味です。
(簡単にやめられるのなら悩んでいないし、簡単に自分の幸せに気持ちが切り替えられるのなら、それは共依存ではありません)。
しばしば繰り返されてきたことは、依存症のことは分かっているはずの援助職の人が、相談に来た奥さんに「手放して、あなた自身の幸せを考えなさい」という、一見もっともらしいけれども役に立たないアドバイスをすることです。これは共依存をヤメロヤメロと説教しているのと同じです。結果的に共依存はおさまらず、奥さんが旦那に酒をヤメロヤメロと言うのは止まりません。
援助職が家族に対してヤメロヤメロと言い、家族が本人にヤメロヤメロと言う。本人が家族にウルセエと言う。こんな構図では問題が解決しなくて当然です。
では、どうすればいいのか。
旦那(本人)も、奥さん(家族)も、依存の対象が違うだけで、同じ依存症です。だから、同じ治療モデルを使えばいいのです。まず教育(知識)が必要だし、急性期治療が必要なら病院に行けばいい。その上で慢性期には12ステップグループなり断酒会なりの自助グループに通ってもらって、そこの治療モデルを使ってもらう。自助グループの守備範囲外(健康や法律など)は専門家の手を借りればいい。これは本人も家族も同じです。
本人と家族を同じように「病んだ人」と見ることで、問題はシンプルになり、解決可能になります。なぜ、断酒会という一つの場所で、本人も家族も回復するのか。なぜ本人のグループと家族のグループが同じ12ステップを使っているのか。考えてみれば当然のことで、問題が同じだからこそ、解決方法も同じで良いのです。
アル中と暮らしているから(旦那が依存症だから)といって、家族が共依存とは限らない、という意見もあるでしょう。もちろん、それはそのとおりです。大酒飲み全員がアル中とは限らないのと同じです。やめようと思えばいつでもやめられる大酒飲みは、たくさんいる・・・はずなのです。
AAメンバーの多くは、初めてAAにやってきた頃は、自分がそれほどひどい酒飲みではないし、やめようと思えばいつでもやめられるし、やめるときは自分一人でやめられる、と思っていました。けれどAAに通い続けて、そうではないことに気づき、助力を得て問題を解決することができたのです。もし、孤独に飲み続けていたなら、当時の信念を今でも貫いていたことでしょう。
回復した人の多くは、自分が依存症になる前から「依存になりやすい何らかの素質」を持っていたことに気づきます(素質ではなく才能と言っても良い)。アルコールやギャンブルという依存対象と出会ってその才能が開花し、激しく発症したのです。共依存の人も同じように素質を抱えていて、それが依存症者との生活という環境と出会って「激しく発症」したのです。
子供の立場の人からすれば、「飲んでいるお父さんはヘンだけれど、しらふのはずのお母さんは、お父さんと同じぐらい(いやそれ以上に)ヘンだ」というわけです。だってそれは夫婦が同じ問題を抱えているのですから当然です。
共依存というのはなかなか理解されていない問題です。なかでも最も理解されていない点は、それが依存症そのもの(他の依存症と同じ)であるということです。
この文章を書くに当たっては、某ダルクのスタッフの文章を下敷きにさせて頂きました。許可は取っていませんが、笑って許してもらえると信じております。いつもありがとうございます。
2010年06月10日(木) 離婚 掲示板で離婚という単語が出ていました。
僕も離婚経験者なので、それについて少しだけ書いておこうと思います。
離婚は結婚よりずっとエネルギーが必要だと言われますが、それはその通りです。
結婚するときは、二人とも気持ちのベクトルが「結婚したい」という同じ方向を向いています。けれど、離婚するときは、離婚を請求する方(離婚したいと言い出す方)と請求される方で、気持ちのズレがあります。お互い次の相手が決まっていて早く別れたいという場合ならいざ知らず、片方はあまり離婚したくないと思っているのが普通じゃないでしょうか。結婚するのも大変ですが、それは共同作業だからまだいいのであって、離婚は足の引っ張り合いになりがちなのでエネルギーを消耗するのです。
だから、離婚するには、様々なサポートが必要になります。婦人相談所、法律家、カウンセラー、グチの聞き役(モラル・サポートってやつ)などなど。そうした支えなく離婚を遂行しようとすると、途中でエネルギーがつきて離婚話がうやむやになってしまったりします。それほどまでに「現状維持」というのは圧倒的なパワーがあり、物事を変えるのは大きなエネルギーが必要になります。
(アル中さんたちも、「現状維持」の圧倒的な力によって飲み続けているんです)。
僕の以前いたホームグループでは、オープンミーティングは(アル中でなくても)誰でも話し(分かち合い)ができました。それに毎回来ていた女性がいました。彼女は旦那さんがアル中で、入院も役に立たずに飲み続けているという状況でした。彼女は半年ほど通い続け、最後に「ダンナの回復は諦めました。離婚することにしたのでもう来ません」という言い残してそれっきり来なくなりました。(当時アラノンはこの地にありませんでした)。
この話をすると、結局AAは彼女の役に立たなかったと判断する人もいます。けれど、僕はそう思いません。1、2回来ただけで来なくなってしまう人たち、再飲酒、それを何度か繰り返して、何年か後にようやく訪れる回復。そうした状況を半年見続けて、彼女はダンナの回復を待つのを諦めることができ、離婚するだけのエネルギーを貯められたのでしょう。
だから、離婚するのだから自助グループは必要ない、という考え方は誤っていると思います。それに、僕は離婚後もアラノンやギャマノンに留まり続けている人たちも知っています。それは離婚がすべての問題を解決するわけではないことを物語っています。子供がいなければ離婚も良いかも知れませんが、別れても子供にとっては親は親なので、離婚すればいいというものでもありません。
「人間最後はどうせ死ぬんだ」と言いながら飲み続けているダンナさんと、「最後は離婚すればいいのよ」と言いながら行動しない奥さん。実は夫婦のベクトルは現状維持で一致しています。だからなかなか離婚しないのです。
2010年06月08日(火) 自助グループという道具 相変わらずスポンシーから毎晩電話をもらっています。
昨夜はいつもの会場に行ったのに、ミーティングをやっていなかったそうです。きっと何か間違いがあったのでしょう。せっかく行ったのにやってなかったと恨み言が出たり、やっていなかったのをこれ幸い、ミーティングに出なくて済んだとばかりに家に帰ってしまったのなら、スポンサーとしては説教をせねばならないところです。
しかし彼は別のグループの会場に向かおうとしました。ところが近所の会場に行く予定だったので小銭しか持っていません。これではそちらの会場に行く途中の有料道路が抜けられないので、金を取りにいったん家に戻っていたら30分遅刻しちゃいましたが、暖かく迎えてもらえました、という話でした。
そうやって1年目に毎日努力してミーティングに出ることは、一生続くソブラエティの良い土台になってくれることでしょう。立派な建物を建てようと思ったら、基礎をしっかりと工事しなくてはなりません。・・という話をするということは、今日の行動は良かったと褒めることでもあります。
回復の方向へ向かう行動は褒め、ダメな方向への行動は叱る。しかも「後で」ではなく、すぐに。これは犬猫のしつけと同じです。会社の新人教育とも同じかも。
彼は家族から小遣いをもらう身なのですが、以前ミーティングへの交通費をちょろまかして酒を飲んだこともあるので、家族の信用がまるでありません。金を渡せば飲んでしまうし、どうしたらいいんでしょう、とご家族から相談を受けたので、金銭出納帳をつけてもらうことにしました。1円の単位まで出納を記録して、毎日帰ったらそれを現金の残高と一緒に家族に確認してもらう(もちろんレシートを添付して提出)。そこまでやっているのに、今度は「自動販売機で缶コーヒーを飲む回数が多すぎないか?」と言われたそうです。レシートのでない自動販売機でコーヒーを買ったことにして、また酒を買う金をちょろまかしているのじゃないか、と疑われたわけです。
そこまで家族を疑り深くさせたのは、本人の過去の行動です。こんなときの慰めの言葉は、「証拠の空き缶を持って帰って提出しろと言われなくて良かったね」です。(まあ、実際それをやっても、今度はどこで拾ってきた空き缶だと疑われるだけでしょうけど)。
それだけ疑われていても本人が腐ってしまわないのは、真面目にミーティングに通う姿勢が見えるおかげで、少しでも信用が回復する方向へ進んでいるからです。信用回復も自分の努力次第だと実感できれば、努力する方向へ進めるわけです。
自助グループは道具なのだといいます。それを言えば、断酒すら道具です。道具というのは何かを実現する手段ですから、断酒が目的になるのは本末転倒だと考える人がいてもおかしくありません。
断酒というのは、その上に何かを成し遂げるための基礎です。基礎が軟弱だと、立派な建物も倒壊します。良い人生を送りたければ、質の良い断酒という基礎を維持していくことが大事です。つまり、断酒は手段であると同時に目的でもあるのです。自助グループも同様です。
もう一つ大事なことは、道具をきちんと使いこなせているか、ということです。自助グループに負の感情を持つ人は、自助グループという道具の使い方が下手なのです。逆上がりができない小学生が、鉄棒の授業を嫌いになるのは自然なことです。
逆上がりはできるまで練習しなければできるようにはなりません。だからミーティングにひたすら通えと言うわけです。
もくじ|過去へ|未来へ![]()
![]()