無責任賛歌
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| 2005年08月04日(木) |
「子供のために」と言ってる大人にろくなやつはいない/映画『ハービー 機械じかけのキューピッド』 |
「政治とスポーツの話題にはあまり触れない」ようにしてるんだが、まあ、これは「スポーツ外」の事件とも言えるんで、あえて扱う。 何のことかって言うと、あの明徳義塾高校の甲子園辞退事件のことだ。喫煙と暴行の事実が高野連にチクられたという。 具体的な経緯は以下の通り。 今年4月から7月にかけて、二年生・一年生部員11人が、野球部の寮内で喫煙。これは、野球部主将らが寮内で煙草の吸い殻を発見してその事実が判明した。主将がすぐに野球部部長・宮岡清治と監督・馬淵史郎両氏に報告したところ、当該生徒を特定できたので、厳重注意を行った。 また、5月から7月初めにかけて、三年生・二年生部員6人が、一年生部員を正座させた上、腕や胸をたたくなどの暴力をふるったという。 これは7月中旬になって、被害にあった一年生部員の保護者からの連絡で判明、やはり部長と監督が被害者宅に家庭訪問して謝罪、「何とか穏便に」と頼み込んでコトを収めたつもりになっていた。 どちらの件も部内で処理し、吉田圭一校長には全く報告されていなかった。校長が事実を知ったのは、昨三日に高野連に送られてきた投書により、高知県高野連が調査を開始したためである。辞退の決定はわずか一日で行われたわけで、異例のスピードだと言える。 記者会見で馬淵監督は「全て自分の責任」と述べていたが、そりゃ確かにそうなんだけれども、こういう不祥事は決して初めてではないという事実を考えると、その一言で片付けちゃっていいの? って疑問を感じてしまうのだ。 テレビのコメンテーターとかは「早い段階できちんと学校や高野連に報告しておけば、直前に出場辞退なんてことにはならなかった」と言っている。それは多分その通りで、「当該生徒をこれこれこういう形で処分しました」という形を取っていれば、まあ「禊」はすんだ、ということで、事件に関わらなかった選手の出場は可能になったのだろうと思う。 でも、ということは「煙草吸おうが暴力振るおうが、形だけ謝罪しておけば、甲子園に行ってもいい」ってことになるんで、その罪の重さとか被害者の気持ちとか高校生としての規律の遵守とかってのは全然ないがしろにされてるってことなんだよね。「タバコとかイジメとかどこの学校でもあるじゃん。それくらいで出場辞退なんて厳しすぎる」って、事件自体を「軽く」考えてるって訳だ。 そりゃそうだろう。今現在、出場が決定してる全国の野球部員で、喫煙経験がないやつがどれだけいるか。上級生が下級生をしごいてない学校がどれだけあるか。明徳義塾が出場辞退なら、全国で甲子園に行ける資格のある高校なんて、ごくわずかになるんじゃないか。ほかの学校が出場できているのは、単に不祥事が「バレていない」だけである、明徳は運が悪かっただけだと、そう感じてる高校野球ファンは、相当数、いると思うのである。 でも実態はどうあれ、「高校野球」はあくまで「教育の一環」であるわけよ。たとえタテマエであろうがキレイゴトであろうが、「高校球児」には「清廉潔白」「質実剛健」を求めるしかないのね。決して「いいよいいよ、その程度のワルいことならどこでもやってることだから気にせずに出場しなよ」なんて言えるわけがない。喫煙や暴力を許すような対応は学校だって高野連だって、絶対に取れるわけがないし、そんな学校があっちゃ困るということは明徳に同情している世間の人にだって分かるリクツだと思うんだがどうかね。 も ちろん、「マジメな部員が巻き添えを食らって出場停止というのはひどすぎるのではないか」という主張は充分に根拠があることだと思う。けれど、こういう不祥事がいつまで経っても後を絶たないのはなぜかってことを少しは考えてほしいのだね。一連の不祥事を単に当該生徒の「個人の身勝手」だけで済ませられることなのかどうか。「未成年だからって、タバコくらいいいじゃん」「シゴキくらい運動部なら当然」って感覚は本当に一部の個人だけのものかどうか。実のところ、「多少の悪行は許容の範囲」という感覚が社会的に蔓延“しすぎている”せいじゃないのか。 つまり、「この程度のことで出場辞退なんてかわいそう」と考えている「甘やかしの風潮」が、逆に彼らを出場辞退に追い込んでいるのである。明徳の部長と監督はまさにこの「甘やかし」をやらかしていたわけだ。それで「自分の責任」なんてちょっと片腹痛いんだけどね。だいたい、事件が起こったのはほんの先月のことだよ? それで充分に禊が済んでると思える感覚自体、既に「甲子園出場」に目がくらんで「教育者」としての本義を忘れていたのだと非難されたって仕方がないだろう。 「 部員の気持ちを考えて」というのは言い訳にはならない。これもこないだのサッカーの話と関連してくるが、「勝つことだけが、甲子園出場だけが野球をするための目的・理由なのか」ということなのだ。別に勝つために練習するなと言いたい訳ではない。勝つことのみに汲々としていると、本来「何のためにスポーツをしているのか」という本義が忘れられるぞと言いたいのだ。 スポーツをする理由なんてハッキリしている。それが「好き」だからだ。明徳に限らず、コソコソ隠れてタバコ吸ってるような高校球児に言いたい。お前たちは「野球が好きだからやってる」のではないのか? 自分たちの行為が「スポーツを汚している」ことに気づいてないのか? でもまあ、高校生は所詮ガキだしね。中には分別がつかないやつが出てくるのも仕方がない。やはり一番責められるべきは部員を甘やかした部長に監督、大人たちだろう。たとえ一部の生徒であるにしろ、不祥事を起こした部員を抱えていたことに恥も覚えず、「甲子園出場」の「実績」を残すことだけを優先しようとしていたのだから(そうではないと主張するならまだ自分たちのバカさ加減に気がついてない)、これはやはりスポーツに携わる資格をいったんは放棄しなけりゃ、スポーツに対する冒涜であろうと思うのである。 も一つ、これもやっぱり指摘しとかなきゃならないことなんだが、タバコ吸ってることが判明した時点で、親も自分の息子に部活するのを許してんじゃねえよってことだ。 発覚したのが初めてのタバコか? 絶対そうじゃないだろう。中学のころから吸ってて、親だってその事実に気付いてたはずだ。それで何をノウノウと楽しげに野球させてるんだ。 え? 本当に自分の息子が喫煙してる事実に気づかなかったって? だったらやっぱりお前はバカ親だよ。 こういうバカ親がそこいら中に湧くほどいるうちは、「不祥事即出場辞退」という悲しい事態はなくならないのである。永遠になくならないな。 世の親御さんよ、あんたんちの息子さん娘さんがタバコをこっそり吸ってるのを見つけても、「仕方ないわね」とかで軽く済ませたりするなよ。「どうせ説教したって聞きやしないから」って躾けるのを放棄したりするなよ。そんなふうに扱われる子供は不幸だよ。あんたらが子供を愛せないクズじゃないんだったら、子供を愛するってことがどういうことなのか、真剣に考えてみなよ。コトナカレ主義な学校に子供を預けちゃった責任は、あんたらにもあるんだからさ。
もう一つ、ニュースはあまり触れようとしないけれど、事件の発覚が匿名の「チクリ」だってことについて、恐らくはウラで「犯人探し」が行われてるんじゃないかと思う。多分、真っ先に疑われるのはシゴキの被害者になった一年生の生徒たちかその関係者だろうが、そうでなかったらえらい濡れ衣になるんでもちろん断定なんかしない。私が考えているのは「別の可能性」である。 つまり、もはや「公然の秘密」であるが、高校野球にはつきものの「野球トバク」がこの事件に関わっているのではないのか、という疑惑なのである。 どのくらいのカネが動くものか、私は参加したことがないからよく知らないが(ホントよ)、地域によってはかなりの額になるところもあるかもしれない。これが、もしも「策略を弄してでも儲かりたい額」であったなら、欲に動かされてしまう人間も出てくるのではないか。この不祥事の事実を知って、明徳の対戦相手に賭けていた人間が、まさに試合直前の「賭けが終わったであろう」時期を狙って投書した可能性、決して低くはないと思うのである。 だからさあ、高校の部活動で野球だけが突出して騒がれてる状況だって、決して教育的にいい効果があるとは思えないし、ハッキリ賭博に利用されてる事実だってあるんだしさあ、それこそ全国大会そのものをいっぺん自粛するくらいのことやってもいいと思うんだよ。いくらスポーツなんかしてたって、健全な精神なんて培えないんだから。
夜、AMCキャナルシティ13で、映画『ハービー/機械じかけのキューピッド』。 先週公開されたばかりだと言うのに、興行収入のベストテンに全く顔を出さなかったので、こりゃあ早々に打ち切られるなあと思って見に行く。 出かける前、『亡国のイージス』を見に行きたがっていたしげとちょっとモメる。「そっちもどうせ見に行くんだから慌てなくてもいいじゃん」と言ったら、「ノルマみたいに見に行くのがイヤ」とそっぽを向かれた。これでも見に行く映画絞ってるんだがなあ。 『ハービー』も最初はそれほど心惹かれるほどではなかったのだけれど、『ラブ・バッグ』のリメイクではなく、ちゃんと「続編」になっているというので、それなら見に行かなきゃ、という気分になったのである。 1969年の『ラブ・バッグ』に始まる「心を持った」フォルクス・ワーゲン「ハービー」を主役に据えたディズニー制作の実写シリーズは、第2作『続ラブ・バッグ(ハチャメチャワーゲン大騒動)』(1973)、第3作『ラブバッグ/モンテカルロ大爆走』(1977)、第4作『ビバ!ラブ・バッグ』(1980)、テレビ版リメイク『新ラブバッグ/ハービー絶体絶命!』(1997)と続いてきた。タイトルの「ラブ・バッグ(愛の虫)」は、フォルクス・ワーゲンがその形状から通称「ビートル(カブトムシ)」と呼ばれているため。 多分シリーズのうち3作くらいは見てるはずなんだが、かなりムカシのことである上、内容が大同小異なので、どれがどれだったかよく覚えていない。ハービーの持ち主は作品ごとに変わってたように思う。なんとヘレン・ヘイズがオーナーだったのは第2作であった。 続編ではあるが、冒頭にこれまでのシリーズを簡単に振り返るシークエンスが用意されているので、初見の人でも話を理解するのに困ることはない。かつてレースで連戦連勝だったハービーも、寄る年波か全然勝てなくなって廃棄処分、ついにスクラップにされかけてしまう。旧シリーズを見ている人にとっては、一度でもハービーに乗って友達になった人間が彼を捨てることになるとは信じがたいのだが、主役を若返りさせるためにはこのムチャな設定も仕方がないのだろう。新しいハービーのオーナーは、マギー・ペイトン。演ずるは今をときめくティーンのアイドル、リンジー・ローハンだ(こないだまで「リンゼイ」と表記してたのに、どこかからクレームでも付いたのか)。 ペイトン家は一家でレーシングチームを結成しているが、連戦連敗。マギーもかつてはレーサーだったのだが、一度事故を起こしたために、父のレイ(マイケル・キートン)からレースを禁止されている。そんな彼女には、今のチームのふがいなさが歯痒くって仕方がない。 マギーは大学の卒業祝いに買ってもらったハービーに乗って試運転。ところがハービーはいきなり勝手に走り出し、あげくの果てにはNASCARの人気レーサー、トリップ(マット・ディロン)に喧嘩を売ってしまう(バックミラーでトリップの車体にキズを付けていくシークエンスが可笑しい)。早速始まる二人のストリート・レース。とまどうマギーだったが、予想に反したアクロバット運転で見事にトリップを打ち負かす。そのとき、マギーの心の中に「走りたい!」という強い熱情が蘇ってきた。 しかし、勝者のプライドをズタズタにされたトリップは、なんとかしてハービーの秘密を探り出し、復讐する機会を得ようと、巧みな罠をマギーに仕掛けてくる……。 物語は定番だが、伏線の張り方と始末の付け方の上手さ、テンポのよい展開、勝利敗退再勝利のドラマと、映画作りの基本を忠実に守って、退屈はさせない。ディズニーは「アニメはダメだが実写はいい」という持論をまたしても確認することになった。ネットの批評を見てると「子供向けじゃないか」というトンチンカンな批評があったが、だから最初からファミリー映画だと分かってるものに文句を付けるのは八百屋で肉を注文するようなものなので、お門違いなのである。なんかこの手の批評とも言えない低レベルな感想が蔓延しているのを見てると、ホントに日本じゃ教育は機能してないんだなあと情けなくなる。 一番笑っちゃった感想は、ラストのレースでハービーが壁を走ってトリップを追い抜くシーンを見て、恐らくはレースファンの人の意見なのだろうけれど、「あんなのはレースに対する冒涜だ」みたいなことを書いているのである。全く困った意見で、これは本格レース映画なんかじゃないよ、そういうのが見たければ、『栄光のル・マン』でも見ててくれ(私は未見)と言いたい。「壁走り」はこれまでのシリーズでのハービーの「得意技」で、これをクライマックスでやってくれたのはまさにオールドファンに対する制作者たちのサービスで、あれがなきゃ画竜点睛を欠くというものなのである。 「壁走り」がどれだけ受けたかってのは、後に『ルパン三世 カリオストロの城』で宮崎駿がフィアットに崖を走らせたことでも分かる。これは、ワーゲンとかフィアットとか、丸っこくて可愛い車にさせるからこそ面白いのだ。そのへんの感覚も分かんないたかがレースファンが、映画を偉そうに語ろうってんだから、専門家気取りなやつの言はこれだから鬱陶しいのである。 素直にファミリー映画として楽しめば、これだけ「安心して」子供を連れて行ける映画も珍しいくらいである。随所随所に見せ場はあるし、車にだって心があるってことで、子供にモノを大切にしようって気持ちを持たせる効果もあるだろう。かと言って、説教臭いわけでは全然ない。素直になエンタテインメントに仕上がっているのである。 CGIが必ずしも「売り」になってはいないのもいい。ハービーの「表情」は、確かにバンパーがくにゃっと曲がったり、急に「顔面崩壊」してベロベロバーをしたりはするけれども、危惧していたほどにはわざとらしくなってはいない。これも旧作の雰囲気を大切にしようというスタッフの良心の表れだろう。 オールドファンとしてちょっと残念だったのは、『ハービー』のテーマソングが、一回しか流れなかったこと。流してくれただけで嬉しくはあったのだけれど、『イージー・ライダー(ワイルドで行こう)』を流すくらいなら(いまいち雰囲気に合ってないよなあ)、もっと『ハービー』が聞きたかったという思いはしてしまう。 主演のリンジー・ローハンはあちらではムチャクチャ人気があるらしくて、確かに勢いに乗ってる印象はある。 けれど、これまでに出演している映画の殆どがリメイクだったり続編だったりで、その売り方がいかにも「アイドル」であって「役者」でない点が気にかかる。デビュー作の『ファミリー・ゲーム/双子の天使』は『罠にかかったパパとママ』(エーリヒ・ケストナーの『ふたごのロッテ』!)のリメイクだし、最大ヒット作の『フォーチュン・クッキー』もオリジナルはジョディ・フォスター主演の『フリーキー・フライデー』だ。で、全部ディズニー制作。 何が気になるかって、こういうディズニー御用達の健康優良児(と言っても昔に比べればかなりワイルドではあるのだが)ばかりに主演してたら訳の幅が狭くなっちゃうんじゃないかとか、でもいきなり「オトナへの脱皮」とかで、汚れ役やっちゃって人気急落なんてことになってもよくないよなあとか、そういう余計なことを考えてしまうのだね。 言っちゃなんだがリンジーちゃん、アチラでは今が旬で「魔法」がかかっているみたいだけれども、コチラではそうでもないので、恋人のケビン(ジャスティン・ロング)から「すごくきれいだ」とか言われていても、「そう?」と疑問符が付いてしまう。比較しちゃ悪いが、懐かしのエリザベス・テーラーほどに驚異的に美しいってほどでもないからね。 かと言って、ジョディ・フォスターのようにズバ抜けた演技力があるわけでもないので、これから先、生き残りが厳しいような気がするのだ。若い役者を大事にきちんと育てていくシステムがあればいいんだけれども、アメリカでも日本でもそれはすっかりなくなっちゃってるんである。 さて、果たして更なる続編シリーズ第6作が作られるのかどうかということだけれども、ちょっと難しいかなと思う。もともと『ラブ・バック』シリーズを復活させようという目的で作られたわけではなく、あくまでリンジー・ローハン主演映画を企画した流れの中で生まれたアテモノ映画であるからだ。リンジー・ローハンが続けて登板するならばともかくも、主役を変えて続編を、ということにはならないのではなかろうか。 これはマンネリになっても構わないから(というよりもマンネリを楽しむ種類の映画である)、続きが見てみたい作品の一つなので、できれはリンジーが「もう一度ハービーに会いたいの!」とでも言ってくれたら可能性はあると思うんだが、なかなか難しいんだろうなあ。残念。
2004年08月04日(水) 既知外にサッカー 2003年08月04日(月) 映画の話いくつか/『モンティ・パイソン・スピークス!』(デヴィッド・モーガン)/『だめっこどうぶつ』1巻(桑田乃梨子) 2002年08月04日(日) 爆走……できねーなあ(^_^;)/『スーパーロボット烈伝』(石川賢)/『光の島』3巻(尾瀬あきら)/『黒ベエ』1巻(藤子不二雄A)ほか 2001年08月04日(土) やっと入院準備/映画『猿の惑星』/『20世紀少年』6巻(浦沢直樹)ほか 2000年08月04日(金) 特許成金、夢じゃない?/『20世紀モノがたり』(紀田順一郎)ほか
| 2005年08月03日(水) |
オタク道に女は要らない/『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(古川薫) |
日記開設から6周年。たびたび日記が飛んでて申し訳ない限りですが。 でも、お客さんは確実に増えていってるんで、自分でもフシギで。読み返しても「つまんないこと言ってるな、こいつ」としか思えないんですが。 何度か書いてることですが、勘違いする人が多いんで、改めて一言。私ゃ自分の文章で「啓蒙」しようなんてこれっぽっちも考えちゃいません。「あいつらバカか」とやたら過激な言葉を使うのは、そう書かないとナアナアな文章にしかならないからです。 だって、宮崎アニメ見て「日本のアニメは世界最高!」なんてホザイてるやつを「バカ」以外のどんな言葉で表現すればいいですか?
またまた父から突然の電話。 もちろん父から電話がかかってくるときはいつも突然なのだが、電話に私が出られないと後で必ず「なんで出らんやったとか」と悪態をついてくるので、間が悪いときにかけて来られると非常に鬱陶しいのである。でもどういうわけだかオヤジの電話って、間が悪いときに限ってかけて来るんだよな。不思議と。 用件は盆休みに旅行の予約が取れたということで、覚えとけというものであったが、ちゃんと忘れないでほしいのは父のほうである。今月14日にどこぞに鵜飼いを見に行くぞということであるが、私の視力でそれが楽しめるかどうかはちょっと疑問である。 けれど14日ということは、見事に三井グリーンランドの『仮面ライダー響鬼』のヒビキ&イブキ・トーク・ショーとかぶってしまった。さすがに親父を遊園地に誘うわけにもいかないので(しかもどうやら徹夜で並ばないと座れないらしい)、こっちはもう諦めるしかないのであるが、客が押し寄せると初めから分かってるようなイベントは、ちゃんとチケットを発行してほしいものである。それをしないってことは役者さんを所詮は「客寄せ要因」としてしか考えてないってことだからなあ。
神奈川県藤沢の映画館「フジサワ中央」では、映画『電車男』に「オタク特別料金」が設けられてるんだそうな。窓口で「オタク一枚」と自己申告すると、1300円で入れるということである。オタクである証明は特に要らないということだから、別にあえて百式Tシャツを着て行かなくてもOKなのだ(笑)。 話題作りとしても面白いが、何より「このシステムを知った非オタクがあえて『オタク』と名乗って入場できるかどうか」、試金石になっているところが興味津々である。さらに言えば劇場での表記は「ヲタク特別料金」となっているそうで、やや自虐的かつ差別的ニュアンスのあるこの表記には、たとえオタクとしての自覚があってもためらいを感じる人もいるだろう。 で、実際にどれだけの人がこの「特別料金」を利用しているかというと、劇場の話によれば「約半分」だそうな。 さて、ここであまり根拠のない「試算」をしてみたいのだが、即ちロングラン・ヒットを飛ばしている『電車男』を見に来ている客の中で、「本物のオタク」はどれくらいいるか、という試算である。これが単純に「半数」と断定はできないのが現代オタク事情のややこしいところだ。 つまり、「自分はオタクだ」と自覚し、そのことに恥ずかしさも全く感じてない人、濃いか薄いかは関係なく、こういう人は「純粋オタク」であると認めよう。彼(彼女)は、確実に「オタク一枚」と口にして入場することができる。 問題となるのは、客観的に見て充分オタクなのだが、それを世間的にひた隠しにしている「隠れオタク」である。こういう人はたとえ料金が安くなろうと絶対に「オタク一枚」とは言わない。外出時には服装にも気を遣って正体がバレないようにしている可能性は大である。しかし、オタクの浸透度がかなり高くなっている現在、こういうパターンの人間はかなり少なくなっていると見ていいのではないか。彼(彼女)は「非オタク」の中に紛れ込んでいるかもしれないが、データを左右するほどではないと考えられる。 逆に、「非オタク」なのに「オタクのふり」をして安く入って来る連中、これは結構いるんじゃないか。日ごろは「オレ、オタクなんかじゃねーよ」とか言ったり、「オレ、ガンダムに結構詳しいんだぜ。ガンダムって三号機まであるんだよな」とか意味不明なこと言ってるやつが、堂々と「オタク一枚」と言ってのけるのである。こいつらは断じて我々の「仲間」ではない。これが「オタク一枚」と名乗った者のうち何割ほどいるのか。ここが最も根拠がない試算であるが、一割、二割では利かないと思うのである。 最初から堂々と「大人一枚」と入場する人間はもちろん「非オタク」である。彼らはたとえ安くなろうとも、「絶対にオタクとだけは名乗るまい」と決意している。即ち、オタク特別料金を支払わなかった「半数」の殆どは「敵」なのだ。 となると、結局、『電車男』入場者のうち、オタクはどれだけいるのか。多分、二割から四割の間くらいだ。漠然とした試算ではあるが、「入場者の半数がオタク申告」という事実から考えると、あながちそれほど外れてもいまい。
つまり何が言いたいかというと、確かに昔に比べればオタクは世間に浸透したかもしれないが、『電車男』を見に行くような(あるいは原作を読むような)人間の中に、オタクはそんなに多く含まれてはいない、ということなのである。あるいは、もともと関心の外にあると言った方がいいだろうか。オタクが見たいと思う映画はあくまで特撮、アニメなのであって、「自分たちの生態を活写したノンフィクション」などではないのだ。 まあ別にこんな分析せんでも、ネットのレビューを見てりゃ、その殆どが『電車男』を普通のラブストーリーとして楽しんでいる「非オタク」な人々の意見ばかりだと言うことに気付きはする。そういった連中の感想って、「感動した」って言ってるポイントが「オタクなのによく頑張ったね」って言って「同情している」ところにあって、それってつまりは「オタクという属性は非社会的なものであり、かつオタクは一般人に比べて人間的に劣っている」という前提が観客の中にある、ということなのである。そんな蔑みのニュアンスが滲んでいる文章なんて読んでてもあまり嬉しくはないし、劇場で普通っぽいカップルが泣いてる様子を見ても、「ああ、こいつらは今、オレたちに同情してくれてるんだなあ」ということが目に見えて伝わってくるので、苦笑いしか浮かんでこないのだ。 だからその点に気づいているオタクの感想の中には、「アレは真のオタクの姿ではない」と懸命になって主張しているものも散見していて、いかにあれが「虚構としてのオタクであるか」ということを具体的に説明しようとしている。もちろん、そんなのはやるだけ無駄な行為で、あの映画に感動している「非オタク」の人たちにとっては、あれがオタクの真の姿を映しているのかどうかなんてことはどうでもいいのだ。 例えば「普通のオタクはあそこまでオドオドしてないよ。オレだって電車の中で女の子が絡まれてたら勇気を出して助けるよ」なんて言ったとしたら、相手はどう反応するか。「へーえ」で終わりである。だってそれじゃあ、「同情してあげられない」からだ。「女の子に声もかけられないくらい純情で、誰かが助けを求めても震えて動けないくらいに臆病」であるからこそ、電車男の「勇気」に「感動してあげられている」のに、それを否定する意見になど、一般人が耳を傾けるはずがないのである。 ともかくヒット映画ってのは、「かわいそう」な人たちが「頑張ってる」姿を描いたら、それに「同情する」観客がオカネを落としてくれるシステムになっている。『砂の器』しかり、『エレファントマン』しかりである。それが実際は差別を許容しているシステムだと言うことには気が付いていないし、実はそうなんだよと言ってやってもやっぱり「同情」することは止めない。なんとなれば人間は誰かを差別し、優越感を抱くことでしか自らのアイデンティティーを保てない動物だからである。 「非オタクな人々」が、「オタクの恋」を見に行く動機は、「オタク」が明らかに現代人のステイタスの最下層に位置しているからだ。だから、いくらオタクが『電車男』でのオタクの描き方が問題だと批判をしたところで意味はない。「オタク=コミュニケーション不全」であり、「オタク=恋もできない半端者」という刷り込みが前提にあるからこそ、ああいう映画が作られたのだ。その刷り込みは当人が無自覚なうちに行われているので、オタクがいくら「オタクをバカにするな!」と叫んだところで、一般のお客さんは「え? 別にバカになんてしてないよ」とキョトンとするだけである。人間の認識は常に実態よりも自分にとって都合のよいイメージの方を優先するものなのだ。 まあ、オタクがバカにされないためには、結局は電車男君がやったように「自分も非オタクの仲間に入る=差別される側から差別する側に行く」のが一番の方法であるわけだが、それを潔しとしないオタク君は、たとえ女の子からキモイとかイケてないとか言われようとも、孤高を保ち、女にモテることなんて考えないことであろう。「オタク道に女は要らない」と覚悟することである。「オタクだって人並みの幸せはほしいんだ!」とか言ってるやつは修行が足りない。だいたい「女よりも楽しいこと」があったからこそ、オタクになったんじゃないのか。電車男はオタクの希望の星などではない。オタクを堕落へと誘惑するアクマの甘い実なのである。
夜、7時半より、ぽんプラザホールで、FPAPの主催による「第2回制作者勉強会」にしげと一緒に参加する。 演劇というとどうしても役者ないしは脚本家・演出家にスポットが当たってしまうが、実際に「舞台にかける」までの段取りを組むのは製作者の仕事である。ところが地方劇団やシロウト劇団ってやつは、この「制作」についての認識が甘かったりおろそかになってるところがやたらと多い。 その結果どうなっちゃうかというと、役者が集まらなかったり集まっても喧嘩してやめたり劇場側と打ち合わせが不十分でもめたりチラシやパンフレットが間に合わなかったり公演当日になって「すみません、今日の公演は中止です」なんてことになってしまうのである。 まあ、そういうことを回避しようってことでの勉強会だったのであるが、しげから事前に「そういう会」であることを詳しくは聞かされていず、「今度の芝居の企画書を書いてよ」と言われて、何のことやらよく分からないままに「見所」とか「あらすじ」とかを書いたものを適当にでっち上げて渡したところ、なんとそれを参加者全員で俎上に上げて「企画書としていかがなものか」と検討されてしまうという会であったのだった。 ……だったらそう先に言っといてくれよ。それだったらもちっとマシなもの書いたのに。 と後から思っても遅いのである。やれ「どこにどういう意図で出す企画書なのか」とか「具体的な資料が少ない」とか、当たり前の指摘をやたら受ける。まあ受け答えするのはしげだからいいけど。 ほかの議題は「チラシの作り方」とか「北九州演劇祭についての情報」とか、また各参加団体の公演のPRとか。どっちかっつーと、宣伝目的で来た人が多かったみたいね。 劇団「改・FREE’ズ+(カイ・フリーズプラス)」の堤さんもいらっしゃっていたのだが、しげとお喋りしていて、偶然にも高校が同じであることが分かった。しげの高校は北九州の方にあるので、福岡でこうして同窓の、しかも演劇関係者が知り合うと言うのはなかなか珍しい偶然である。こういうとき、人間ってホントに縁だよなあとしみじみ思うことである。
古川薫『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫)。 田中絹代が亡くなって、もう18年。もし生きていれば96歳。気が付けばもうすぐ生誕百年なのである。若い人たちにとって「名前も聞いたことがない」女優になってしまっているのは仕方のない現実ではある。現実ではあるが、本当にこの国の人間というのは文化とか伝統とか歴史とか言うものに背を向けて平気でいられるものなのだなあと今更ながらに嘆いても仕方のないことを嘆いている。脳のキャパ、自分で狭くして楽しいのかお前らと思うけれど、脳のキャパが狭いからそれも理解はできないのだろうな。 しかし、本書を読んで「田中絹代がこの国の人間に何をされてきたのか」を考えたとき、この「飽きっぽさ」というか「過去に対する執着心のなさ」というか「楽しいことも楽しくないことも全部忘れてスッキリするクセ」というか、これこそが日本人の一番の特性なんじゃないかという気がしてくるのである。しかし、たとえ日本人の大半が歴史を過去に置き去りにすることで生きてきた民族だとしても、田中絹代は決して忘れられていい女優ではない。田中絹代はただ単に名女優であったというだけの存在ではない。日本は、日本人は、確実に「田中絹代の時代」を経験してきているからである。
田中絹代の評伝は新藤兼人が『小説田中絹代』を著しており、これは市川崑監督・吉永小百合主演『映画女優』のタイトルで映画化もされた(映画は糞だったね)。 即ち「定番」の伝記が既にあるわけで、にもかかわらずあえて大部の評伝を上梓しようというのだから、いったいどういう切り口で田中絹代に取り組んでいるのか、そこが気になるところである。 筆者の「あとがき」によれば、本書を執筆するに至る最初のきっかけは「田中絹代の靴のサイズが22センチだった」ことだという。「そのちっちゃな靴で、『花も嵐も踏みこえ』トップスターの座を守り抜いたのか」。 まあ、この感慨がピンと来る世代はもう日本には殆どいなくなっているように思う。私とて、亡き母に思いを寄せるときようやくその感慨の片鱗がうかがえるくらいのものだ。 ムカシの人には説明不要だが、タイトルにも使われている「花も嵐も踏み越えて」のフレーズは、田中絹代の代表作の一つ、『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』の冒頭の一節である(ちょっと前までは「この歌のタイトルは?」と質問したらみんな『愛染かつら』と答えるので、「違うよ、『旅の夜風』だよ」と正解を言うクイズが流行ったものだったが、今や曲自体が忘れられてしまっているのが悲しい)。 田中絹代という大女優を一言で語るとことは不可能だが、この一世を風靡した歌を語ることで、その時代に生きた女性の人生を象徴させることができる。「戦後」という時代がまず『リンゴの歌』に象徴されるとすれば、戦前、戦中を象徴する歌が『旅の夜風』だ。これはそういう歌なのである。 私もこの歌は母の鼻歌で覚えた。母もまたこの歌に自分の人生を重ね合わせていたのだろうが、恐らく戦後の一時期くらいまでは母と同じように感じていた女性が一般的であったと思う。一つの歌が時代を映すことがなくなってしまった現代人には、「花も嵐も」に込められたかつての女性たちの思いはピンと来なくなってしまっているだろう。「花」だの「嵐」だの余りにも大仰で誇張が過ぎるように思えるだろうが、実際にそれが大げさに感じられないほどに情熱と苦悩を当時の女性たちは経験していたのだ。
> 花も嵐も 踏み越えて > 行くが男の 生きる道 > 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ > 月の比叡を 一人行く
> 優しかの君 ただ独り > 発(た)たせまつりし 旅の空 > 可愛い子供は 女の生命(いのち) > なぜに淋しい 子守唄
歌っているのは映画に主演した上原謙・田中絹代ではなく、霧島昇とミス・コロムビアである。歌詞を見れば分かる通り、一番が男の歌、二番が女の歌である。 しかし冒頭の「花も嵐も」は当時、男性よりも女性によりアピールした。田中絹代が演じた高石かつ枝が、いや、田中絹代自身が花も嵐も踏み越えた波瀾万丈の人生を送っていた。そしてそのことを大衆も感じ取って、自らの身になぞらえていた。 だからこそ、筆者の古川氏もこの評伝のタイトルに『花も嵐も』を冠したのだと言える。そういう感覚が普通だったのだということが理解できないと、「なぜ男の歌が女の人生に重ね合わせられるのか?」という疑問にぶち当たったまま、答えが出せなくなってしまう。 「田中絹代がどれほどの女優であったか」どんなに百万言を費やしたところで、知らない世代には伝わらない。いや、その生前から「忘れ去られていった」過程を古川氏の筆はある意味残酷に描き出して行く。 田中絹代は日本発のトーキー『マダムと女房』に主演し、その「鼻にかかった甘ったるい声」で観客を魅了した。初代『伊豆の踊子』女優として、「純情可憐な初々しさ愛らしさ」を観客の目に焼き付けた。そして『愛染かつら』の高石かつ枝として、「空前のヒット」を飛ばした(既にキャリアのある「田中絹代」という名前を捨てて「高石かつ枝」と改名させようとする動きすら生まれたほどである)。 それが、戦後、外遊して帰国、ファンに投げキッスを送っただけで「アメション女優」と呼ばれ、人気は地に落ちた。以後、田中絹代は復活を目指し、溝口健二監督とのコンビで『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』など世界の映画賞を総ナメにする傑作郡で名女優としての名声を確立するが、かつて「高石かつ枝」であったころに得ていた大衆的な人気を勝ち得ることは二度となかった。 その時の状況を古川氏はこう記している。 「被占領国の日本には、絨毯爆撃で家を焼き、非戦闘員を殺し、あげく広島・長崎に原爆を落としたアメリカに対する面従腹背の隠然たる空気が充満している。(中略)しかし、たかがサングラス、たかが投げキッスをとらえて、報道機関がこれほどの憎悪を一人の同胞に向けるというのは、何とも歪な現象である。ジャーナリズムの論調に煽動されて、世間一般も絹代に軽蔑の目を向け、引き潮のようにファンは離れていった」 しかし、その「ファン」とて、その後、生活から思想に至るまで急速にアメリカナイズされていくのだから、田中絹代への憎悪は即ちアメリカさんの前に卑屈にひれ伏すしかなかった自分自身に対する憎しみの反作用であったとしか考えようがない。卑劣だったのは日本国民のほうだったのである。 田中絹代の最後の輝きとも言える『サンダカン八番娼館 望郷』。これは確かに素晴らしい映画で、元「からゆきさん」を演じた田中絹代の演技はまさに「入魂」の一言がふさわしい。老いてなおあれほどに強烈な生の輝きを宿した目を、私は他の映画俳優に感じたことがない。若い人に「田中絹代のすごさ」を感じてもらうとすれば、この最晩年の傑作を見せることが理解は早いとは思う。しかしそれでも「田中絹代の時代」を感じることは決してできない。今見れば退屈ですらある『愛染かつら』、そこに「時代」を感じることができなければ、映画を本当に「見た」ことにはならないのである。 古川氏は、田中絹代の魅力を語るときに必ずと言っていいほど「美人ではないが」と注釈をつける人々に対する反発もまた、本書を執筆する動機になったという。確かに言われてみればそういう形容を付ける評論家・解説者は結構いたようだが、私は田中絹代が美人ではないなどと思ったことは一度もなかった。美は主観的なものだし個人差はあると思うが、それにしても田中絹代を「不美人」と判断するのなら、日本人女性で美人と言える女性は皆無に等しくなってしまうだろう。人気絶頂を極めた田中絹代に対する、これは過剰なまでのライバルたちやマスコミのやっかみであったと思う。 うつろいやすい大衆ではあるが、彼女の「美しさ」にだけは、決して背を向けはしなかったと思う。
中田雅喜・円尾敏郎編・天都カネ子監修『日本個性派俳優列伝�検.謄譽咾�生んだ悪役スタア 天津敏』(ワイズ出版)、ようやく届く。 一ページめくって読んでいくのがもったいないくらいで、なかなか先に読み進めないが(つか、読みながら泣いてるし)、天津さんについてはそのうち、思いっきり書いてみたい。いや、もうどこまで書いたらいいか自分でも見当が付かないもんで。
2004年08月03日(火) 5周年! ……タイトル考えなくていいのはラクだ(^o^)。 2003年08月03日(日) 見つかりませんでした/『アニメ&漫画コラボBOOK 茄子 アンダルシアの夏』 2002年08月03日(土) 手帳求めて花いちもんめ/DVD『刑事コロンボ 別れのワイン』/『忍者飛翔 桜の章』(和田慎二) 2001年08月03日(金) 1周年!/TVスペシャル『ルパン三世・アルカトラズコネクション』ほか 2000年08月03日(木) 巻頭言&近頃の若いやつぁよぉ……/『ジェームズ・ボンドへの招待』(ジェームズ・チャップマン)ほか
| 2005年08月02日(火) |
痺れた指で書いてます/『ボクを包む月の光 ―ぼく地球(タマ)次世代編―』1巻(日渡早紀) |
先週の映画全国興行収入、「eiga.com」によると以下の通り。
1,スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 2,ポケットモンスター・アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者ルカリオ 3,亡国のイージス(初) 4,ロボッツ(初) 5,宇宙戦争 6,アイランド 7,鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 8,星になった少年 Shining Boy &Little Randy 9,皇帝ペンギン 10,電車男
1位、2位はしばらく不動って感じだけれど、注目は3位の『亡国のイージス』。今年の福井晴敏映画化三部作のうち、一番出来はいいんじゃないかと予測してるんだが、まあまあの好スタートを切ったようだ。新聞記事によっては「50億円も狙えて実写邦画の��.1も狙えるんじゃないか」とか書いてるけれど、この「eiga.com」の分析は冷静で、「30億円程度だろう」というもの。表面的な派手さでは『終戦のローレライ』『戦国自衛隊1549』の方が勝っている感じだし、ともかく前二作の評判が悪かったから、それを考えるとこのスタートは充分OKだろう。 それに引き換え、封切り二作品が間に入ってきたとは言え、『ハガレン』のランク・ダウンはかなり激しい。評判よくない『アイランド』より落ちてるってのはやっぱり一般ファンへの浸透度はかなり少ないのである。先週、「どうせ一週間経ったら動員落ちるよ」と予測していたが、まんま的中するとはやっぱり腐女子しか見に来てなかったんだってことが証明されたわけで、情けないったらありゃしない。先週はこの「eiga.com」の編集部氏、「続編は確実」とか言ってたくせに、今週は急に「続編製作が難しくなるかも?」とトーンダウンしやがった。予測が甘いっつーか、単に「映画業界に詳しい人」ってだけじゃ、オタクとか腐女子に関する認識・理解がそもそもないんだろうね、だからオタクってすっかり細分化しちゃってるから、「一部に大受け」が全体に広がることってなかなかないんだよ。野村総研の「オタク市場は2900億円」なんて試算も殆どアテにならないのである。 実際に『ハガレン』続編が作られるかどうかはまだ微妙ってところだろう。興行収入20億円は苦しくなったが、せめて10億行ければギリギリGOサインが出る可能性はある。いや、もう続編は作らない方がいいよと思っちゃいるのだが、一度コワレた作品がさらに奈落の底を転落していくのを追いかけてしまいたくなるのも『ヤマト』以来のオタクの悲しい性(さが)なもんでね。もういくらでも作ってくれ、『鋼の錬金術師SEED DESTINY』とか。
女優のロ−レン・バコールが(っつっても知らない若い人もいるかもしれないが、自分で調べるように)、1日発売の『タイム』誌で、トム・クルーズをケチョンケチョンに貶したとか。ケイティ・ホームズとの婚約を映画の宣伝に利用してるとか、まあそのあたりの批判は誰しも言ってることだけど、クルーズの演技力について堂々と「(世間でクルーズの演技を「グレート」と評価していることに対して)グレートと言うならそれなりのことがなければならない。トム・クルーズなんかのことではない」と言い切ったというから、小気味よい。でも、天狗の鼻っ柱を折るにはバコールくらいの大女優を呼んでくるしかなかったってのが大根役者に大手を振って歩かせてるハリウッドの脆弱な体質を逆証明しているわけで、決して喜ばしい状況ではない。 実のところ役者の「演技力」を測るのは簡単なことではない。「そもそも役者に演技力は必要なのか」という議論すらあるくらいで、「演技力論争」を本気で始めたら、延々と尽きることのない堂々巡りに陥ることすら覚悟しなければならない。だから「トム・クルーズは本当に大根かどうか」という問題についても、その批判の視点を明確にしなければたとえバコールの言と言えどもただの中傷と解されて終わってしまう危険も大である。正直、私だってクルーズの演技を上手いなんて思ったことは一度もないんだが(あの口をいつも半開きにする癖は何とかならんのか。知的な役をやっても全然知的に見えないぞ)、クルーズを責めるならほかにも責めなきゃいけない俳優がベン・アフレックとかベン・アフレックとかベン・アフレックとか、いっぱいいるんじゃないかと思うのである。 バコールはトム・クルーズだけでなく、元妻のニコール・キッドマンに対してすら「キャリア不足」と斬って捨てた過去がある。なんかあちらのおすぎか井筒和幸みたいで小気味よくはあるけれども、感情的に自分の嫌いなタイプの役者をこき下ろしているだけのように見えなくもない(共演もしてるし本当は仲がよいのかもしれないが)。 演技力があるとされている役者であっても、映画によってはミス・キャストと評されることもある。アカデミー賞を取った役者がその後鳴かず飛ばずになってしまった例も少なくない。とかく「演技」の評価は一定の確固たる基準を示せるものでもなく、水物だと言っていい。今回はいささか有頂天になりすぎているクルーズをたしなめる意味や、役者への太鼓持ち提灯持ち茶坊主的おべんちゃらを使うしか脳がなくなっているマスコミへの牽制の意味があるとしても、これで単純に役者の演技力をああだこうだと決め付けるような流れができたりしなきゃいいがなと憂慮するのである。
手足の痺れ取れず、再び病院へ。 先日の検査の詳しい結果も出ていたので、教えてもらうが、「痺れが出ても当然でしょう」ってくらいにあの値もこの値も昨年から跳ね上がっている。去年に比べりゃストレスは軽減しちゃいるんだが、去年の蓄積が今になってここに来たって気がしなくもないな。 主治医の先生、「薬飲んで養生しても、痺れが完全に取れるようになるのは一ヶ月ちょっとはかかるでしょう」とのこと。もちろん、それで私の体質自体が治るわけではないが、節制すれば血糖値が下げることは年齢的にまだ間に合うのでがんばりましょうと激励される。確かに、ウォーキングも再開しているし、日常生活に支障を来たさない程度には状態を回復させないと、日記も書けやしないのである(と、更新が遅れてるのを言い訳)。
終戦60年記念番組『二十四の瞳』。 見ました。 既に感想も何も書きたくないくらいだが、若い人たちにやはり言いたい。まかり間違ってもこんな安っぽいドラマで泣いたりなんてするなよ。『二十四の瞳』がどんな話か本当に知りたいのなら、壷井栄の原作小説を読みなさい。あるいは木下恵介監督版の映画を見なさい。 脚本は臭いくらいに反戦を訴えていてかえって白々しいし、イデオロギーだけの上滑りしたセリフをいくら書いたって、感情に訴えかけるドラマには決して成り得ないという基本中の基本をこのくそばか脚本かは分かってない。 役者の演技も脚本に引きずられて大仰で臭いばかりである。いや、脇はまだいいんだけど、主演がもう見ててまるで新興宗教の教祖である。なんか最近は「黒木瞳主演」ってだけでそのドラマ見る元気がなくなるんだけど、熱演のしすぎで押さえが利かないのだ、この人。舞台のときのクセがまだ抜けてねえんじゃないかな。
マンガ、日渡早紀『ボクを包む月の光 ―ぼく地球(タマ)次世代編―』1巻(白泉社)。 ヒット作品のパート2は落ち目の証拠ってのは『サルまん』でも書かれていた法則だけれど、本作はそういう「夢よもう一度」の企画ではない。作者が解説で書いている通り、家庭の事情で一時期引退を考えていたのである。ファンへの「最後の贈り物」のつもりで、読み切りを一編だけ書いた、それが第一話の『ボクを包む月の光』だったという次第。 それが作者の事情も好転して今も続く連載に発展するようになったのだから、世の中何がきっかけに瓢箪から駒な出来事が起きるやら分からない。だもんで、今回に限り「二番煎じ」がどーのという類の批評は適当でないと言っておこう。 サブタイトルにもある通り、これは1980年代から90年代にかけて、一大ブームを巻き起こした『ぼくの地球を守って 記憶鮮明東京編』(通称「ぼくたま」)の「次世代編」である。オリジナルビデオアニメにもなったし、『花とゆめ』の歴史上、最もヒットした作品の一つと言えるだろう。 これも今や歴史の彼方になりつつあることで、説明が必要になってしまったことであるが、パート1のヒットには、一つ、「いびつな側面」も生じていた。 主人公の坂口亜梨子(ありす)には、自分がもともとはるか彼方の宇宙の人間であり、月にいて地球を観測しているという「前世」の記憶があったのだが、実は同じ記憶を共有する仲間が、ほかにも六名いたのである。物語はその「月の仲間」との邂逅、そしてかつて起きた仲間内のトラブルが、時を経て現代のこの東京でも繰り返されようとしているというサスペンスを描いたものであった。 ところがこの「前世の仲間との邂逅」という設定が、一部のファンの間で「自分にも前世の仲間がいるかもしれない」という錯覚を生み出してしまったのだね。「○○という名前に聞き覚えのある人、コンタクトください」なんて投書がオカルト雑誌の『ムー』とかにどっと寄せられることになった(すぐに規制)。 そのあまりの反響の大きさに、作者が「これはフィクションですから」と単行本等で但し書きをすることになり、またそれにファンが「夢を壊すな」と反駁するなど、作品外での騒動が偉く喧しい事態に陥ってしまった。 世間の識者からよく「マンガやアニメばかり見てる子供は現実と虚構の区別がつかなくなる」と非難されることに対して、ファンやオタクは「そんな阿呆がそうそうおるかい」と反論していたものだったが、実際にこうして「虚構と現実の区別がつかない若者」が大挙して現れちゃったおかげで、「やっぱりマンガファンってバカじゃん」って言われるハメになってしまった。もちろんそのあとにあの「オウム事件」が起きてしまって、マンガ・アニメファンに対する世間の風当たりはいっそう強くなることになってしまったのである。 つまり前作『ぼくタマ』は作者の意図に関わらず「オウムの前哨」的な「事件」でもあり、キャラクターへの入れ込み度の過激な女の子たちを排出させた点で現代の腐女子どもを増殖させる温床ともなったマンガであり、まあなんつーか、いいマンガだったのになかなか素直に評価しにくかった作品でもあったのである。
前置きが長くなったが、いろんなトラブルを巻き起こしつつも、前作は実にうまい形で「着地」をしたと思う。あれだけ人と人とが憎しみ合い裏切り合い、狂気すらはらみつつ、ハッピーエンドが訪れるとはちょっと予測していなかった。完結巻を読み終わったときには、何か積年のストレスが一気に晴れちゃったような爽快感を味わったものだった。 だからこの作品だって、「続編」は「蛇足」と言えば蛇足なのである。前作できちんと始末がついていないキャラクターに未来路がいたが、無理に後日談を描かなければいけないものでもない。どんな物語でも一応の終わりは来るのだから、登場人物が死なない限り、「その後」は読者の想像に任せた方が本当はよいのである。 ところが作者自身も予期せぬいきさつで「続編」は再開されることになった。 小林輪・23歳。小林亜梨子・32歳。二人の子供、蓮(れん)・7歳。……えーっと、計算すると輪は16歳でパパかよ。結婚できる年じゃねーじゃん(多分二年間待ったのだろう)、でも三人の幸せそうな姿を見ると、ちゃんと「ハッピーエンド」は続いていたのだなあとホッとする。となると、普通「ドラマ」は生じないはずなので、どうしてもそこで波風を立てるキャラクターが必要になってくるわけだ。 それがやっぱりというか待ってましたというか、永遠のやんちゃ坊主・紫苑なわけだね。叶えられなかった自分と木蓮と、そしてその子の生活を転生した三人に見出してちょっかいをかけてくるわけだ。でも、前作のようにまだ子供だった輪の精神を引き裂くまでには至らない。ちゃんと輪を眠らせてその隙に体を乗っ取るという一番ありがちなやり口(笑)。これも前作の紫苑を知っているファンなら、「何て人間が丸く優しくなったんだろう!」と感動することだろう。……いや、前作知らない若い方、ホントに紫苑って、極悪非道の外道だったんですよ。でも人気は一番。なんで世の女性はワルにばかり憧れるかね。 でも、いったんはハッピーエンドで終わってしまった物語だから、多少のトラブルが生じても、前作ほどの緊迫感はない。紫苑だって、親子二代に渡ってそのカラダを乗っ取りまくってるけれど、もはやかつての悪意はない。トラブルメーカーではあるがあくまで蓮の「守護天使」に納まっているのである。 「始末が付いてなかった」未来路はそのESP能力を買われてアメリカにいる。自ら犠牲になることで輪たちが研究対象にならないよう守っているが、そのために一人娘の日路子(カチコ)とは音信普通になっている状態。これが次巻以降、新たな「事件」の火種になるのかもしれないが、一ファンとしては、彼らがこれ以上苦しい「戦い」などに身を投じていってほしくはないという「願い」のようなものすら感じている。 かつての紫苑と月の仲間たちとの戦いは、誰が死んでもおかしくない戦いだった。けれど誰も死なない形で収束した。それが素晴らしかったのだ。小さな諍いはあっても、もう彼らの誰かが「犠牲」になるような物語は展開してほしくはないのである。多分男性ファンはみんなこう思っているだろうが、「亜梨子の涙はもう見たくない」のである。まあ私は前作では女性キャラでは桜のファンだったのだが。 絵柄が前作とはすっかり変わってしまって(前作自体も長期連載の中でキャラの顔はガラリと変わってしまっていたが)、全体的にふやけた雰囲気になってしまっているが、「核」になってるものは変わってないなと思えて、それが嬉しかった。再び描かれた子供のころの輪、確かに絵柄は全然違うのだけれど、そのいたずらっ子っぽい笑顔が、前作第一巻で新体操遊びをしていたころの笑顔に、すんなりリンクしたのだ。 不明なことに、私はここでようやく十数年ぶりに気が付いたのだ。 ああ、これもまた、ウェンディに置いていかれる『ピーター・パン』の物語だったのだ、と。そして、ついにウェンディに追いつくことのできたピーター・パンの物語であり、それでも自分がピーター・パンであることを忘れずにいられた少年の物語であったのだと。 そうだ。バリーのウェンディは決してピーター・パンを待っていてはくれなかった。けれど亜梨子は、木蓮さんは、ちゃんと輪を、紫苑を、転生してまで待っていてくれたのだ。大人になることと、少年のままでいることと、輪はその両方を果たすことができたピーター・パンだったからこそ、亜梨子は彼を待つことができたのだ。これは、「そういう物語」だったのだ。 そして「新たなピーター・パン」の物語は、ちゃんと、この「次世代編」でも踏襲されている。蓮も、日路子もまた、大人になることの恐ろしさを知ることになるだろう。イニシエーションは常に「恐怖」を伴って子供を蹂躙する。しかしそれでも蓮の、日路子の行く末が、少年らしさ、少女らしさを失わぬ「ハッピーエンド」であることをこの作者は描こうとしているのではなかろうか。それはもちろん、紫苑から輪へ、そして蓮へ、恐らくは未来永劫に伝えられる「少年の系譜」である。日渡さんなら「そこまで」描けるのではないか。今は、それを期待しても構うまいと思う。 かつてこの物語に私が覚えた感動は、この物語の本質のほんの一部でしかなかった。だからと言って今私が全部を理解したなんておこがましいことを口にするつもりはないが、目からウロコの二、三枚は落ちた気がする。自らの愚かさを認識できるからこそ、本は何度も読み返さないといけないし、年も取らなきゃならんと思うのである。 もう一度また前作を一巻から読み返してみたいが、残念ながらこれも書庫の山の奥に沈んだままである。……まんがカフェにでも行こうかなあ。
2004年08月02日(月) 9年目のお小遣い。 2003年08月02日(土) 新番組いくつか/映画『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』/『ルパン三世公式マガジン』8月18日増刊号 2002年08月02日(金) 復讐正露丸/『快傑ズバット』第一話/『芥川龍之介 妖怪文学館』/『秘宝耳』(ナンシー関) 2001年08月02日(木) 『題未定』ってタイトルのエッセイ集があったな/『キノの旅�検戞併�雨沢恵一)ほか
| 2005年08月01日(月) |
無意識の戦争/舞台DVD『仮装敵国 〜Seven 15minutes Stories〜』 |
これも先に但し書きしておかないとまた誤解を招きそうなんで一応断っておく。 私はもともと、スポーツは決して嫌いじゃない。生まれつき体が弱いから苦手ではあったが、小学校時代、マラソン大会はいつもビリだったがリタイアしたことは一度もないし、地域の子供相撲大会とかに参加した思い出はあるし、平和台球場に野球観戦に連れてってもらったことだって何度もある。 じゃあ、大人になってスポーツに全く興味を示さなくなったのはなぜかと言うと、ひとえに世間のファンの熱狂ぶりが鬱陶しくてたまらないからだ。 特に世界大会の類になると、どうしたって政治や国際情勢と無縁ではいられなくなるから、純粋にスポーツを楽しむことはほぼ不可能になる。 何度もこの日記でも書いてきたことだが、国家間のスポーツ試合が「代理戦争」になっていることを憂える人間があまりに少ないことは極めて危険な状態なのだ。だって、「負けた悔しさ」は絶対「雪辱」とか「復讐」という次なる「より過激な」戦いを誘発する要素にしかならないから。 つか、実際にそうなった例はいくらでもあるというのに、相変わらず「○○○国倒せ」とか平然と言ってられるってのは、心の底ではみんな戦争がしたくって仕方がないのだとしか思えず、暗澹たる気分になる。クーベルタンの「オリンピックは参加することに意義がある」ってのは、スポーツが政治に利用されることを戒めることが目的であったのだが、真剣にこの言葉の意味を噛み締めてる人間がどれだけいるのだろう。 「自分は純粋に試合を楽しんでるだけだ」と思ってらっしゃる方、でも周囲の人々、あるいはネットの匿名掲示板に群れ集ってる連中を見て御覧なさい。あなた以外のファンが本当に「スポーツだけを楽しんでる」と断言できるかどうか。 ここしばらくの世間のサッカー熱もいい加減でどうにかしてほしいと思ってたのだが、何が一番いやな気分になるって、「絶対に負けられない戦いがある」ってあのキャッチフレーズだ。 選手がそういう気分で戦うのは別に構わないけど、マスコミが煽るこっちゃねー(怒)。なんであんな選手無視の言葉が堂々とまかり通るってんだ? これまでのスポーツの歴史の中で、こういうマスコミや世間の過激な煽りのせいでダメになっちゃった選手の例、いくらでも挙げられるだろうが。そういう批判を避けるつもりかどうか知らんが、「誰のために」「何のために」負けられないのか、曖昧にしているところがこのフレーズの特にいやらしいところだが、またそれに簡単に乗っかっちゃうアタマ軽いファンがゴマンといるってことも情けなくてね。 で、東アジア選手権で、日本は北朝鮮に1−0で敗退しちゃったわけだけど、ネットをあちこち覗いてみると、予想通り、日本チームをもう小汚く罵倒する連中の多いこと多いこと。 こないだ勝ったとき北朝鮮をからかってたやつらと同じ連中かもしれないが、勝ったときに有頂天になりすぎてた感じだったから、負けたらいったいどんな反応するだろうと思ってたんだけど、日本チームへの慰めとかねぎらいの言葉がホント少ないのね。どうしてまあ、あれやこれやと欠点をあげつらうことばかりに血の道あげられるのか、神経を疑うよ。 そりゃ、北朝鮮のファンの方がアタマはとことんイカレちゃいるんだが、ありゃ国家戦略で洗脳されてるんだから狂ってるのは当たり前だ。でも、日本人の場合、マスコミの影響だけでなくって自ら狂おうとしてるやつの方が多くはないか? 何も北朝鮮に対抗して、自分たちまでアチラのレベルにまで下がってやる必要はないんじゃないか? 負けたら負けたでいいじゃん。ドイツに行けることは決まってるんだしさ。照る日もあれば曇る日もあるって、どうして鷹揚に構えられないかね? 中国も北朝鮮も韓国も民度は低いが、日本だってあまり熱狂が過ぎると威張れたものではなくなるのである。今は本当に北朝鮮憎しとか韓国憎しとか中国憎しとか、敵愾心をあらわにしたにわかファンが増えてるから、「自分はそうではない」と冷静に自己認識ができるのなら、そいつらに同調するような応援の仕方にならないように自重したほうがいいと思うのである。 しばらく日本チーム(「ジーコジャパン」って言い方も意味不明で好きになれないのでこう呼ぶ)も負けが込んだほうが、にわかファンも減って、本当のサッカーファンだけが残るんじゃないかね。 「好きなチームが負けても決してファンはやめずに応援する」これが本当のファンってものじゃないかね。 ……あ、それで今気づいたけど、俺って、「選手」のファンになったことはあっても、スポーツ自体のファンになったことはなかったなあ。長嶋は長嶋、大鵬は大鵬だから好きだったのである。だから未だに野球のルールとか全然知らないんだけど。
朝起きたらまた手足が痺れていて動かない。ものは何とかつかめるが、握力がなくて強く握ることができない。立ってもふらついてコケそうになってしまう。ちょっとシャレじゃない状態だったので、仕事を休む。薬も飲み始めたし、休み明けには調子も戻るだろうと思っていたのだが、そううまくはいかなかったようだ。 年を取ったんだなあと自覚するのは悲しいが、ちょっと夜更かしが過ぎたりすると、すぐカラダに来てしまうようになってしまった。つかこれ、明らかにこないだのカラオケの影響だろう。もちろん体調のいいときなら多少の無理は利くんだが、体調のいいときの方が少ないんだから、もう無理はしちゃいかんということである。 多分、毛細血管があちこち詰まりかけているのである。風呂に入っちゃ出、指先、足先を揉み解して半日過ごす。その間、しげが何をしているかというとやっぱり寝ているのである。もう文句を言う元気もないが、役に立ってほしいときに絶対に役に立たないんだよな、こいつは。
舞台DVD『AGAPE store #10 仮装敵国 〜Seven 15minutes Stories〜』。 G2演出の舞台はたいてい福岡か北九州には来るのだが、これはなぜか福岡での公演がなかった。DVD発売は何より嬉しい。「AGAPE store」としての公演だから、当然主役は松尾貴史である。『ガメラ』とか映画でのチョイ役出演や、バラエティ番組でのアンチ・オカルト・コメンテイターとしての彼しか知らない人には、舞台役者としての、喜劇役者としての彼をぜひとも知ってほしいところだ。 今回は七人の作家による七つの短編オムニバス。どうしてもスケッチの羅列になってしまう分、松尾貴史が持っている天性の狂気と言うか毒と言うか胡散臭さと言うか、それがエスカレートしていく面白さは今ひとつ味わえないが、作品ごとに変わるキャラクターの変化、各作家の力量の差が見えるのが面白い。 いや、一応、どの作品も水準以上の出来ではあるので、「差」と言っても部分的な視点における比較対照の問題でしかないということをお断りしておく。目安の意味で、今回は「点数」を付けてみることにする。 共演は辺見えみり・コング桑田・八十田勇一・福田転球・久ヶ沢徹・春風亭昇太。
1,長塚圭史「素晴らしい愛をもう一度」55点。 バスが自爆テロに遭って、妻(辺見)を失った夫(松尾)。彼は案内人(昇太)に連れられて、遺体が収容された公民館で妻と対面するが、妻は死んでいるにもかかわらず起き上がり、夫の浮気を責め立てる。そしてそれに同調するかのように他の遺体たち(コング・八十田・福田・久ヶ沢)も目覚め始め……。 舞台でホラーをやるのはなかなか難しい。まあホラーというよりはブラックコメディだから特に怖くなくてもいいんだけれど、オチがオチだけに、笑いの中に一抹の怖さを漂わせることができれば本当はもっといいのである。起き上がるまではみんな死体っぽくていいんだけど、いったん目覚めると死体らしさがさらっと消えちゃうのが弱点。あと、冒頭の松尾と昇太の掛け合いがやや「外し」てるのもツカミに失敗している印象。案内人がわざと別の死体を教えるなんてイタズラ、いくらなんでもリアリティがないよ。
2,倉持裕「MEAT DOLL」70点。 自己啓発セミナーで、3人の男(八十田・福田・久ヶ沢)が、指導官(昇太)から、「自分の肉体はあくまで『肉人形』に過ぎず、それを操る精神こそが自分なのだ」と洗脳される。その結果、ついに彼らは「他人の肉体」まで動かせるようになるのだが……。 他人の体も動かせるようになる、という設定には無理があるが、3人のロボットチックなマイム、他人を動かすことによって生じるトラブルが面白く、そういう無理は気にならなくなる。発想は二人羽織なんだろうけれど、それを「一人」で演じるところがミソ。 3,土田英生「潜入」60点 忍者七人が、敵の城に潜入して殿様を暗殺しようとする。ところが直前になって部下たちが次々と「草」(つまり二重スパイね)であったことが判明、味方はどんどん減っていく……。 まあ、結局「そしてだれもいなくなった」って結末になるのは見えているが、その「去り方」にそれぞれのキャラクターに合わせた工夫をしているので決してつまんなくはない。コング桑田がくノ一というムチャな設定も笑わせるし、最も忍者らしからぬ春風亭昇太のトロくさい演技も微笑ましい。けれど「『忍たま乱太郎』だよこれじゃ」という印象もぬぐえない。
4,千葉雅子「危険がいっぱい」50点 元漁師の清掃夫二人(コング・福田)が、ちょっとワンテンポ遅れた感じの後輩(久ヶ沢)をイジッてからかっている。けれど後輩の方はどこ吹く風。二人は適当にサボりながら好き勝手なことを喋っているが、突然後輩が倒れて仰天する。そこは原発で、漏れた放射能に後輩も二人も汚染されていたのだった。 途中までは女の話なんかしていかにも俗っぽい先輩二人と、実は事故で脳に損傷のある後輩とのボケとツッコミのやり取りが楽しいのだが、落ちが唐突で脈絡がなく、「はあ」という感じの一編。原発に関する知識が全くないってのも不自然っぽいが、でも現実に原発事故で死んだ人はホントに知識がなかったりしてるから、リアリティがないわけではないんだが。
5,故林広志「理想の部屋」65点 開戦を目前にして、シェルター内で討議を続ける総理大臣(昇太)・厚生大臣(松尾)・官房長官(コング)。評論家(久ヶ沢)。会話が盗聴されているということで、急遽「暗号での会話」に切り替えるが、その暗号コードが「カップルの会話」を模しているために、緊迫した状況が痴話げんかのように聞こえてしまう。ところがそこに厚生大臣の恋人(辺見)が現れて、本当に痴話げんかを始めてしい……。 これもよくある「言葉の取り違え」ギャグだけれども、かなりな部分までエスカレートされていて、まあまあ高水準の出来。けれど、閣議に関係ないけどなぜか紛れ込んでしまったという評論家っておいしいキャラを後半の展開では生かしきれなかったことと、もっと混乱させてテンポを早くすることもできるんじゃないかって疑問が出て来る点で、若干消化不良が残る。 6,後藤ひろひと「ONE ARMED FORCES」70点 戦場で、塀の上に横たわり、落ちてきた爆弾を片手にぶらさげ、必死になって重さに耐えている兵士(福田)。手を離せば当然爆弾は落下して大爆発を起こしてしまう。そこにニトログリセリンを本部に運ぶ途中の上官(松尾)がやってくるが、彼も左腕を負傷してい助けることができない。衛生兵(八十田)がやってきて二人を助けようとするが、うっかりニトロを受け取ってこれまた身動きできなくなってしまう。そして最後にやってきた女性兵士(辺見)は……。 一編のスケッチとしては一番まとまっている。最終的にどう考えても脱出のしようがない(つか、手榴弾のピンを抜いているから、数秒後にはどうしたって全員爆死である)状況なのに最後がとぼけたセリフで終わるのもツボを押さえたオチだ。まとまっているだけにさらに「この状況から脱出できたらもっとすごいスケッチになるよな」とつい期待したくなるのは欲深な要求か。
7,ケラリーノ・サンドロヴィッチ「スポンサー」75点 旅行先の料亭で、不倫カップル(松尾・辺見)が別れ話をしている。そこに仲居(昇太)が茶碗蒸しを持ってやってくる。茶碗蒸しを食べた夫は突然苦しみ出して絶命。実は女と仲居は共謀して夫を毒殺しようとしていたのだった。 ……というのは実は2時間ドラマのクライマックスシーン。三人はみな役者だった。ところがそこにプロデューサーから連絡があって、スポンサーに製薬会社がいる関係で毒殺はNG、撮り直しという事態になってしまう。急遽脚本が練り直されるが、脚本家(八十田)が考えたストーリーはとんでもないものだった……。 スポンサーの横槍でドラマが混乱ってのは三谷幸喜『ラヂオの時間』にもあった設定で、話がどんどん非現実な方向に進んでいくのも同工。殻は同じでも中身が違うから模倣した印象はないが、だったら三谷幸喜よりも面白くならなきゃいけない。まあ「すごく」とまではいかないが、死んだ仲居を二人羽織で操るギャグが秀逸なので、「少し」面白くなってるというところか。 ラスト、全体を総括するに当たって、これまでのスケッチをこき混ぜた演出は、一見不条理劇的であるが、実は喜劇の定番のカタストロフ・エンディングである。ケラさんが「筒井の子」であることがよく分かって面白い。
でも、全体を通してみると、「そこそこに面白い」印象はあっても「すごく面白い」ことにならないのはどうしたことか。これがオムニバスの持つ欠点の一つで、各エピソードに出来不出来が生じた場合、全体的な印象はどうしても「不出来」の方に引きずられる結果になるのである。シティボーイズやラーメンズのようなハイレベルな舞台であっても、それは起きてしまう現象で、それを回避するには「突出して面白い」エピソードが一つは必要になるのだが、今回はそれがなかった。「そこそこ面白い」が、全体として「今ひとつ」という雰囲気を作り出してしまっているのだ。 先述した通り、松尾貴史の毒を充分に発揮させられなかったこともちょっとネックになっている。でも、こういう「合作スケッチ」の試みはもっともっと作られたほうがいいと思うんで、第2弾、第3弾とシリーズ化してくれると嬉しい。
2004年08月01日(日) あなたへ 2003年08月01日(金) 引用は盗用じゃないぞ/映画『茄子 アンダルシアの夏』/『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 2002年08月01日(木) MANGA ATACK!/テレビ特番『パワーパフガールズムービー』/『トランジスタにヴィーナス』4巻(竹本泉)ほか 2001年08月01日(水) 掲示板変更&21世紀の夏/『日本はなぜ負ける戦争をしたのか。 朝まで生テレビ!』(田原総一朗)ほか
| 2005年07月31日(日) |
政治を笑えば政治に利用されるということ/映画『チーム★アメリカ ワールドポリス』 |
昨日、本当は朝から映画を見に行くつもりだったのだが、体調がすぐれず控えていた。 今日は昨晩の(つか朝までの)花火とカラオケで昼までくたばる結果になったので、その判断は正しかったと言えよう。 夕方になってようやく体が動くようになって、シネ・リーブル博多駅に映画『チーム★アメリカ ワールドポリス』を見に行く。世間は『亡国のイージス』の方に群がっているのだろうが、優先順位はやっぱりこっちが先になるよな(笑)。
『サウス・パーク』のトレイ・パーカー&マット・ストーンによる懐かしの「スーパーマリオネーション」映画であるが、まず内容紹介以前に、気になってる方も多かったであろう「果たして天皇皇后両陛下の出演シーンは上映されるかどうか」について報告しておく。ハイ、見事にカットされておりました。『チンポコモン』と同じ憂き目ですな。日本のどこが自由の国だと悪態の一つも吐きたくなる方も多かろう。別に私は天皇制反対論者ではないが、こういうつまらんタブーが現実に存在している以上は(右翼が実際に過激な行動に出る可能性が常にある以上は)、「日本は絶対に右傾化なんかしない」という主張に説得力がなくなってしまうのである。自主規制なんかするな。 多分、このシーンはDVD発売の際も日本版ではカットされることはまず間違いのないところだろうから(しかも何の説明もなく)、完全版を見ようと思ったら、本国版のDVDを取り寄せるしかない。お金の余裕がない人は、日本版を見てどこにどんな形でそのシーンがあったかを想像してみよう。 公開二日目であるにもかかわらず、ガラスケースの中にパンフレットが見当たらなかったので、もしやと思ってカウンターで「パンフレットは売ってないんですか?」と聞いてみたところ、「制作されてないんですよ」とのことだった。本当かあ? なんかマズイこと書いたライターがいて、急遽回収されたとか、そういう可能性もありそうな気がする。映画の詳しい内容を文字で確かめたい人は洋泉社発行の『チーム★アメリカ/ワールドポリス インサイダー』を買うしかなさそうである。
平和を乱すテロリストに対抗すべく結成された国際警備組織「チーム・アメリカ」。世界警察を自認する彼らは、今日も今日とてパリで自爆テロを目論むアラブゲリラを見事に殲滅した。その過程でエッフェル塔やルーヴル美術館が全壊するなど、ちょっとした被害はあったが、世界の平和のためには微々たる犠牲である。たとえアレック・ボールドウィン率いる全米俳優協会から「救済と称して破壊を繰り返しているだけ」と非難されようと、チームは全くどこ吹く風だ。 今日もエジプトはカイロで、憎きテロリストたちが大量破壊兵器を隠し持っているという情報を探り出したリーダーのスポッツウッドは、スパイを送り込むことにする。そのためにスカウトされたのは、なんとミュージカル俳優のゲイリーだった。果たして彼の「演技力」はテロリストたちの目を見事欺くことができるのか。そのころ、テロリストたちの背後に潜む黒幕・北朝鮮の金正日は、全面戦争を画策し、俳優協会を利用しようとしていた……。
さて、本作については「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」にて、何度となく町山さんが制作レポートや実際に観劇したときの批評やアメリカでの反響などを紹介している。 内容をかいつまんでまとめちゃうと、「トレイとマットの二人は自分たちではノンポリのつもりで、右も左もブッシュも反ブッシュもまとめてバカにしているつもりかもしれないが、出来上がった映画は政治的発言を繰り返す俳優たちへの嫌悪が勝ったせいで、『親ブッシュ』と捉えられかねない映画になっている」とのこと。あちらでの映画公開がまさしくブッシュ再選の直前だったせいで、実際に「政治的に利用された」と、彼らの「うかつさ」を痛烈に非難しているのだ。 確かに、最終的にはチーム・アメリカたちは俳優協会の役者たちを殲滅し、実はエイリアンの尖兵(トレイとマットは絶対に『ゴジラ対ガイガン』を見ているに違いない!)だった金正日も宇宙に追い払うことに成功するのである。だから、町山さんのように、「チーム・アメリカはバカだけどバカなりに一所懸命正義を行っているのであって、戦争に反対する側が売国奴である、という展開になり、後半はチーム・アメリカを全然バカにしないで賞賛したまま終わってしまう」という見方をすることも充分可能だ。 しかし、チーム・アメリカ(つかアメリカそのものだわな)が自らをDICK(ちん○こ)に例えたのは、まさにあの国の本質がそういう男根的暴力によって支配されていることを喝破しているのであり、決して褒め称えているわけではない。少なくとも日本人で「オレたちみんな、ちん○こ野郎だよな」と言われて感激して同意する人間はそうそういないだろう。なのにアメリカ人の間ではそれが「賞賛」のように錯覚させられてしまうのは、アメリカ人たち自身、自分たちがちん○こであることを「自覚」しているからである。いや、自覚どころか、ちん○こであることに、誇りすら持ってしまっているからである。「ヘイ、オレたちクールでイカしたちん○こ兄弟だぜ、おま○こもケ○の穴もみんなおいらたちがヤッてやるぜ!」って感覚なのだ。 つまりそれくらいアメリカ人の大半は低脳でイカレた糞ったれどもばかりなのだが、自分がバカであることを誇りにしているバカに向かって「バカ」と言ったところで、堪えるはずがないのである。 トレイとマットの二人は決して馬鹿ではないが、彼らの誤算は二つあったと思う。一つは、「親ブッシュ派」を「チーム・アメリカ」という架空のキャラクターに抽象化させたのとは対照的に、「反ブッシュ派」の連中を実在の俳優協会の面々に代表させたために、より「反ブッシュ」の色合いの方が濃く出てしまったこと(殺される俳優たちは以下の錚々たる面々。アレック・ボールドウィン、ジョージ・クルーニー、ダニー・グローバー、イーサン・ホーク、ティム・ロビンス、ショーン・ペン、サミュエル・L・ジャクソン、スーザン・サランドン、リブ・タイラー、ヘレン・ハント。一番バカにされているのはマット・デイモンで、自分の名前しか喋れない)。 もう一つは、「親ブッシュ派」の連中が「チン○コ野郎」とからかわれた程度では屁でもないほどにバカだったとは思いも寄らなかったということだ。「親ブッシュ派」の主流になってるのは反ホモのファンダメンダリストどもだが、実は他人のちん○こくらい喜んで舐める連中で、そのことを映画の中で指摘されても気づかないくらいに脳が腐れているのだ(そういうシーンがあるのである)。やつらを怒らせるくらいに馬鹿にするためには、「チーム・アメリカ」という衣装は“アメリカでは”まだまだカッコよすぎるのだろう。 まあ、我々日本人であれば、チーム・アメリカを見てかっこいいなんて思うことはまずない。アメリカに在住している町山さんから見ればこの映画は「親ブッシュ」に傾いて見えるのだろうが、我々から見れば「親ブッシュ」も「反ブッシュ」も「所詮はみんな同じアメ公」であり、「こいつらみんなただの既知外じゃねえか」なのである。 だからこの映画は、「アメリカ以外の人間にとっては」、既知外と既知外が互いを罵倒し中傷しFUCKし殺戮しあうとんでもなくアナーキーでスラップスティックな映画なのであり、この世界の警察を任じているやつらが本質的に狂っているという、笑えない冗談のような現実がまかり通っている恐怖を描いている作品なのである。 いや、映画見ている最中には大いに笑ったけどね。エロでグロで不謹慎なギャグは大好きだ。マジメな人は「やりすぎで笑えない」なんて言って鼻白むだろうが、人形たちは実に大らかにSEXを謳歌し、単純に殺戮されていて、そこにギャグとしてのひねりは殆どないに等しい。大人向けではあってもギャグのレベルそのものはザ・ドリフターズの「うんこち○ちん」と同程度の幼稚なものなのである。しかしその「幼稚さ」は逆にトレイとマットの「武器」になっていて、戯画化された人物はどんなにその特徴を誇張されて造詣されていても、みな溌剌としていて愛らしく(恐らくはパロられた本人以外の人にとっては)魅力的なのである。 ちょうど小林よしのりが薬害エイズ訴訟被告の安部英を戯画化したときに「思い切り憎たらしく描いたつもりなのにかえって可愛くなってしまった」と慨嘆したように、カリカチュアは差別化であると同時に対象をアイドル化してしまう効果もある。町山さんは「金日正だけが可愛く描かれている」とか日記に書いているが、決してそんなことはない。頭でっかちアレック・ボールドウィンもスーザン・サランドンおばさんも知恵遅れのマット・デイモンも自爆テロリストのマイケル・ムーアも全然可愛いのだ。 場内はなぜか若い女の子のお客さんのほうが多かったが、彼女たちもけらけら笑いっぱなしだった。特に受けていたのは、マイケル・ムーアの自爆シーンと人形セックスのシーンと、「マイケル・ベイはどうして映画監督が続けられるの? 『パールハーバー』は糞だ♪」の歌のシーンであった。私も、これが聞けただけでも大満足だ。
帰宅して、先日入手した舞台DVD『AGAPE store♯8 しかたがない穴』を見る。 去年、福岡公演もあったのだが、つい見に行き損ねていたので、DVDででも見られるのは嬉しい。 脚本はペンギンプルペイルパイルズの倉持裕の書き下ろしで、演出はもちろん我らがG2氏である。コメディが多いG2演出作品であるが、今回はホラー・コメディあるいはブラック・コメディ、あるいは不条理ギャグホラーとでも言うべきもの。笑って見ているうちにどういうわけかだんだんとこちらの神経の方が妙に敏感になるような不安になるような背筋に怖気が走るような、あるいはちょっとばかしトリップしてしまうような、そういうフシギな気分にさせられてしまう芝居である。
南米にある架空の国「ガルガル」がこの物語の舞台。 そこには大昔に陥没した巨大な穴があり、研究所がその穴の底に建設されていた。 その不思議な生態系を調査するために、調査団が派遣された。しかし、ヘリコプターでやってきた調査団は、骨折し意識を失った一人のガルガル人を残して、全員なぜか引き返してしまう。 現地に取り残されたのは、調査とは直接関係のない四人。通訳の蜂賀(松尾貴史)、ノンフィクションライターの恵美(秋本奈緒美)、恵美の付き添いでカメラマンの天川(山内圭哉)、女医の留里子(松永玲子)。研究所に常駐していた所員の佐藤(小林高鹿)は、二重の六角形から成る奇妙な宿泊施設に彼らを案内する。 その閉ざされた空間の中で調査団が再来するのを当てもなく待つうちに、5人の神経は少しずつおかしな方向へ傾いていく。 蜂賀は自分の持ち物が全て「微妙に違うもの」に変わっていると主張する。 留里子は新しい病気の創作にふけるようになる。天川は「この世にあるとは思えない動植物」を執拗に追いかける。彼らの生態を取材し「記録」しはじめる恵美。しかし彼女は一本のペンも持ってはいなかったのだ……。 そして穴の秘密を知っているらしい佐藤は狂気を帯びはじめた彼らを見ながら沈黙を守り続けていた……。
穴の底の物語、と聞くと安部公房の『砂の女』が思い出されるが、あれが一軒家の男女だったのに対して、倉持裕が描く「穴」は更に複雑化し、「穴の底の迷宮」での五人の男女の絡み合いが繰り広げられる……と言っても、ベースはコメディなので、男女のモツレとか、現実の男女であれば起こり得るようなドロドロまでは描かれない。 台形の同じ形の部屋が八つ組み合わさって、二重の部屋を作っているというややこしい構造は何のためか、というのは後で一応、そのわけが説明されるのだが、物理的原因は解き明かされても心理的原因まで作者は解説しようとはしない。そのあたりの観客を突き放した印象は、そのトリックの類似性とも相俟って、森博嗣の某小説を想起させるが、この劇にはミステリ風味はあっても本格ミステリを目指しているわけではないから、謎がやたら残るのは、それはそれで構いはしない。登場人物たちが「穴の謎」に振り回されるおかげで、男女の営みにすら一切頓着しないのも芝居を見ている間はさほど気にならず、一応納得できる流れにはなっているからである。 しかし冷静に考えてみれば、誰かを閉じ込める目的であるわけでもない研究施設に交通手段がヘリコプター以外にないというのもおかしいし、そもそもこの四人が、調査団が引き返したのに自分たちだけ降り立ったというのも理由がよく分からないのである。普通、一緒に帰るって。やはり最初の時点で「穴の毒気」にやられてでもいたものか。 即ち、この物語もまたリアルな現実劇ではなく、連綿と続く“何者かを待ち続ける”ベケットの『ゴドーを待ちながら』の末裔である不条理劇・抽象としての物語であるのだ。彼らは調査団の再来を待っている。怪我をして失神しているガルガル人の意識が回復するのを待っている。しかし、「調査団」は本当に存在しているのか? それは彼らの証言で語られているだけである。先述した通り、彼らがこの地に降り立ったこと自体、不自然なのだ。 しかも、ギャグのように語られはするが、彼らはこの穴に降りて以来、本来の職種をいっかなまっとうできていない。通訳は本当にガルガル語を話せるのかどうか怪しげである。ライターは全くレポートを書こうとしない。カメラマンはろくな写真が撮れない。医者はまともな治療ができない。「穴」という特殊空間にいるために、それはいたしかたのない緊急事態として説明がされるが、そもそも彼らは本当に通訳で、ライターで、カメラマンで、医者なのだろうか? 疑い出せばキリがないくらいで、そもそも本当に「ガルガル」なんて国が実在しているのだろうか?(いや、架空なんだけど)。 意識不明のままの「ガルガル人の学者」は本当に存在しているのか? 「演劇」が「見立て」によって成立する芸術である性格上、その学者はあたかも「そこにいるように見立てられて」演じられているのだが、もしかすると「彼」は「本当にいない」のではないか? 「彼」の正体は最後になってようやく明かされるのだが、たいていの観客は意味が分からずに困惑すると思う。もちろん意味なんて分からなくても構わないのだが、この芝居がまたしても「ゴドーの末裔」であることに気がつけば、その「意味不明」こそが作者の意図したことであることに思いが至るはずなのである。 これは演劇関係者であるならば基本中の基本として知っていなければならないことであるが、『ゴドー』の本質は、ゴドーの正体が誰であるかということよりも、そのゴドーを待ち続けるウラジミールとエストラゴンの二人もまた「正体不明」であることにあるということだ。 「人間とは何か?」「自分とは誰か?」そんな「答えが出るはずもない疑問」を持たされていることがまさしく人間存在の悲劇であり喜劇なのである。我々観客は彼ら五人の右往左往を笑ってなどいられない。彼らが狂気の徒であるならば我々もまた「この芝居を見る以前から」狂っている。我々は生まれついての狂人なのだ。その人間の本質を突きつけているのがこの芝居の最も恐ろしい、「ホラー」としての要素なのである。 ある意味、「またゴドーかよ」という謗りを受ける覚悟も作者にはあったかと思うが(まあ意識しないで『ゴドー』になっていたという可能性もあるが)、舞台設定の見事さと役者陣の熱演で、二番煎じ三番煎じの印象を持たれることをうまく避けている。松尾貴史の操るいかにも胡散臭い「ガルガル語」(よく聞いてみると「愛があれば年の差なんて」「リンガーハットなぜ遅い」とか、日本語を外国語っぽく言ってるだけなのである)も、物語全体を通して見れば、ただのギャグではなく、「本当にガルガル語など話せないのではないか?」という彼のアイデンティティを疑う要素として機能している。全ての「実在」が疑わしくなったとき、そこから立ち上がるべき「人間」というものはありえるのかどうか。 不条理劇の究極はデカルトへの挑戦である。それが笑いと恐怖の表裏一体のドラマとして描かれることの必然をこの芝居は明示しているように思う。 一つだけガックリしちゃったのは、まあ、分かりやすくはあるのだけれど、六角形の部屋の上面図をわざわざ物語の冒頭から舞台に投影していた演出である。そんなの説明しないでいたほうがより舞台が「ややこしく」感じられてよかったんじゃないかと思うのだが。 ついでだけど、天川を演じている山内圭哉、今まさに奥菜恵の浮気相手ではないかと巷のスズメが喧しい人だが、今回はトレードマークのスキンヘッド(後頭部のひとふさだけ残している)をキャップなどで隠しての出演。普通の人っぽく演じてるんだろうけれど、やっぱりどこかコワモテの雰囲気が漂うのは隠し切れない(笑)。でも本当に奥菜恵の相談とかに乗ってあげてたのなら、優しいところもある人なのかもね。
テレビで映画『サトラレ』を放送していたが、久しぶりに見返してみると本広克行の演出が以前にも増して幼稚に見えてきた。一番よくないのは主人公たちを背後で支えているはずの「サトラレ対策委員会」の様子の描写で、委員たちのキャラクターがいかにもコトナカレな連中に戯画化されてしまっているので、それが物語全体に波及して全体的にチャチな印象を与えてしまっているのである。マンガだとサトラレにサトラレないようにする大騒動の様子などを描いても違和感ないのに、実写だとやっぱりどうしても「ありえねー」感じの方が先行してしまうので、それをどうにか処理しなきゃなんないのだが、その工夫が全くないのが本広監督の才能の限界である。 まあ映画全体がつまんなく感じられる原因は、主演の安藤政信 の演技がまたシロウトに毛が生えた程度で見るに耐えないってのもあるね。でもやっぱり八千草薫は年取ってもすっげえいいわ♪
2004年07月31日(土) ドラキュラ×の味 2003年07月31日(木) 女の子がいっぱい/『恋愛自由市場主義宣言! 確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則」(岡田斗司夫) 2002年07月31日(水) しげ、肉離れ?/『けろけろ 緑の誓い』(矢島さら)/『風雲児たち 幕末編』1巻(みなもと太郎)ほか 2001年07月31日(火) 山田風太郎死す/『新・トンデモ超常現象56の真相』(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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