無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年07月30日(土) 星に花火/『新吼えろペン』2巻(島本和彦)

 『ウルトラマンマックス』第五話「出現、怪獣島!」(装甲怪獣レッドキング/両棲怪獣サラマドン/飛膜怪獣パラグラー/電脳珍獣ピグモン登場)。
 なつかしの初代『ウルトラマン』「怪獣無法地帯」のリメイク。前作からはレッドキングとピグモンが継承されての登場で、怪獣ファンとしては喜びたいところだけれど、物語自体はまるで高揚感を得られない。
 まず、いきなり出現した謎の島に、DASHよりも先にトレジャーハンターたちが侵入してるという設定がヘンだけれども、またこいつらが定番過ぎるくらいにDASHの妨害をしまくるのが、ドラマ展開上ある程度は必要とは言え、説得力に欠けている。ものすごい犯罪を犯そうとしてるんだから、そこまでの行動に出るからにはよっぽど切実な理由とか緊急事態とかがなきゃなんないはずだし、何らかの心の葛藤だって描いてしかるべきなんだが、脚本はそんな緊張感を少しも描き出そうとしないのだ。いくらなんでもダッシュバードをぶち壊すのは笑いの種でしかない。そんな、駐車場荒らしじゃあるまいし、戦闘機のコックピットを簡単に壊させていいものか(カイトたちは開けっ放しで出てったのかよ)。
 昔は、子供だましでない脚本を志す人は、こういうところでも手抜きはしなかったものだ。こんなテイタラクなら、たとえ印象が暗かろうと前シリーズの方がよっぽどマシである。蛍雪次郎さんにインディ・ジョーンズの格好をさせるのもどうかと思う。
 怪獣の分類名が「どくろ怪獣→装甲怪獣」(レッドキング)、「友好珍獣→電脳珍獣」(ピグモン)と変わっちゃったことも気に入らない。着ぐるみの出来が40年前のものよりなんかチャチになっちゃってるのはどうしたものかね。
 貶しどころ満載だけれども、強いてよかった点を挙げれば、「怪獣島が移動し、日本に迫ってくる」という設定が、これまたなつかしの一峰大二作のコミック版『ウルトラマン』を踏襲していたことである。まあ、何で島が動くんだって説明、まさかコミックのまんま「島がホンダワラで出来ている」なんてことにはしないと思うけれども、今のところ前編の段階では何の説明もない。もしかしたら後編でも何も説明しないつもりじゃないかという不安があるんだが、そこまで脚本家がアホだったら、円谷はもう脚本のチェック機能がゼロどころかマイナスになっていると判断するしかなくなるなあ。
 

 アメリカ航空宇宙局(NASA)が、昨29日に、太陽系の最遠部に冥王星よりも1.5倍大型な「第10番惑星」を発見したと発表。
 これまた“第10番惑星と認定されたなら”、教科書を書き替えなきゃなんない大事態だけれども、発見された場所が例の小天体が群集している「カイパーベルト」の中だし、これまでに発見されてきた第十番惑星候補を押しのけてまでわざわざ認定しなきゃならないものかどうか、今の段階での発表はちょっと早計じゃないかと思える。周知のごとく、冥王星ですらその大きさから(月より小さい)惑星と認めるべきではないという意見も多いのだから。
 まあオタク的には惑星の新名称はいったいどうなるのかとか気にはなる。神様の名前、殆ど使い果たしてるからなあ。言っちゃなんだが、小惑星や衛星にポコポコ付けすぎたのだ。せめてジュノー(ヘラ)くらいは取って置けばよかったのに。けれどその昔、世紀の大誤報であった「第一番惑星」(もちろん水星の内側にあるという意味)にいったんは付けられた「バルカン」はまずないところだろう。太陽から遠すぎるのに火の神はちょっとね。あと考えられる手は、今後も惑星が発見されることを想定して、冥王星1、冥王星2と番号を付けてく方法が残ってるけど、何だかこのまま「2003UB313」という名称のまま、定着しちゃうような気もする。こうなるともう味気ないっつーか、どうでもいい気になってくるよなあ。
 惑星認定もまだである現段階では、はしゃぎ過ぎるのも早計だと分かっちゃいるんだが、つい、『セーラームーン』は新作が作られるのかとか、しょーもないことで騒ぎたくなるのは、オタクの性(さが)というよりは、我々の世代がかつて宇宙に限りないロマンを求めてきたロケットボーイズであるからだろう。「無限に広がる大宇宙」とか「Space is the Final Frontier」なんて言葉にたいしたときめきも感じない若い世代にとっては、今回の大発見も「へえ」で終わっちゃうんだろうなあ。そっちのほうがずっと寂しい。


 夜、P.P.Produce次回公演のための第一回打ち合わせ……のはずが、出席者が少ないので急遽花火大会に(笑)。参加者は、鴉丸嬢、其ノ他君、しげ、私と、去年も花火で遊んだぞのメンバー。
 だいたいうちの劇団、役者希望者がただの一人もいないというとんでもない劇団なので、「裏方手伝いならするよ」というメンバーが集まったって、現段階では打ち合わせにも何にもならないのである。とりあえず台本のシノプシスだけは二人に渡したけど、具体的な検討はもちっとあとになりそう。
 最初、去年も花火をした岳城まで登っていったのだが、どういうわけだか、11時も回った深夜だというのにやたら車が停まっている。もちろん、我々同様花火をしに来てるわけでは全然ない。だってどの車も上下に揺れてんだもん(呆)。
 いたたまれないので、目的地を変更、志賀島を目指す。途中、海の中道は何キロにも渡ってずっと右も左も海岸だから、どんなに人が来てたとしても、どこかに必ず花火の出来る場所はあるだろうという目算である。そう思って車を走らせたところ、確かに適当な場所は見つけたのだが、そこに至るまで走りに走った。
 いやもう、驚いたの何のって、右も左も延々と続く車の列。何十台、何百台来てるか分からないってくらいに車がずっと路駐しているのである。これは別に上下運動しているわけではなく、めいめいが花火をしたりバーベキューしたり何かハイテクなビデオビジョンみたいなの持ちこんで踊ってたりしているのである。
 確かに土曜の夜で翌日は休日だ、どこかで飲むよりみんなで集まって海岸でどんちゃんやった方が安上がりではあるかもしれないが、どうしてここまで人間が多いのか。こんな熱帯夜じゃ蚊にだって食われちゃうだろうに、そこまでして遊びたいのか、そういうエネルギー、他に使うことはないのかとか、自分たちも遊びに出かけているにもかかわらず、現代の若者の脳軟化現象を目の当たりにして慨嘆するのであった。
 結局、前々回公演のときに舞台で流した映像を撮影した海岸(鴉丸嬢がドレスで突っ走った海岸である)まで出張る。場所はもう殆ど志賀島の手前だ。そこでも既に遊びに来ている連中が二、三組、花火をぱんぱか海に向かって打ち出している。だからその元気、もっと有効に使うことできないのか。
 早速、しげが買い込んできた花火の袋を空ける。去年はネズミ花火とかスモークとか、夜中にやっても少しも面白くない花火ばかり買いやがったので、そこんとこ今年は「派手なの買え」と厳重注意しといたので、半分は打ち上げ花火。多分、二、三十発くらいはあったと思うが、其ノ他君と二人でどんどこ打ちまくったら、あっという間に終わってしまった。その間、鴉丸嬢はしげと二人で地味に線香花火とかしている。「男どもはどうしてあんなに打ち上げに熱中できるのか」みたいなこと言ってたけど、もちろんそれが男のロマンだからである。かと言って、フロイト的な解釈はしないよーに。

 思い切り喉が渇いたので、飲み水を求めてそのままカラオケになだれ込む。朝の六時くらいまで四人で熱唱。
 相変わらず鴉丸嬢と其ノ他君の歌う曲はオールドタイプの私には全然分からない。「ジムノペディ」って言われたら、私はエリック・サティしか思い浮かばないのだ。つか、こういうバンド名を付ける連中ってアタマ悪いとしか思えない。サティとその音楽性を比較される覚悟があってやってんのか? 度胸があるというよりはただの馬鹿じゃないかとしか思えないのだが。
 其ノ他君が『HI-HO』を歌うというので、てっきりディズニーかと思ったら、これまたhideのである。こういう間違いをやらかしてるオヤジは、全国にかなりいるだろうなあ。オヤジ世代は新しい知識を全然知らないから参っちゃうよね、と若い人たちに馬鹿にされそうだが、私らに言わせれば、何でそんな紛らわしいタイトル付けなきゃならないのかと、そっちの方に文句を付けたいのである。

 前にも日記に書いたことがあるが、そもそもイマドキの歌手やバンドが、旧曲のタイトルをまんまパクることがあまりにも多いのを問題視しないのは音楽家および音楽ファンの意識の低さでしかないと思うのだ。あの曲もこの曲も同じタイトルってんじゃあ思い入れだってしにくい。どうしても「人まね」にしか見えないから、ファンにはなりきれないのである。
 「別にアンタにファンになられても困っちゃうよね」とかからかわれるかもしれないが、仮にこれが著作権に引っかからないとしてても、最低限、守らなければならない「礼儀」はあるはずだし、そもそもこれは作家としての「良心」の問題だと思う。どう言い訳したって、既成曲に同タイトルがあるの知ってて流用すれば、それはただの「恥知らず」なんだよね(それはそれとして、版権にうるさいディズニー、曲のタイトルを流用されてもそれは許しちゃうのかな。まあほかにも『星に願いを』とか歌ばかりでなくやたら本だのマンガだの映画だのに流用されてるからいいのかもしれないが。ああ、でも石野真子の『狼なんかこわくない』は私は許す)。
 若い人にとっては昔の曲なんて知らないだろうし、今聞いた方がオリジナルってことになるんだろうけれど、だったらタイトルもどうしてオリジナルにしないのか、そこがオカシイのだ。だって、これが小説だったら、新人作家が自分の小説のタイトルに『吾輩は猫である』とか『羅生門』とか付けたら、絶対に問題になるのに(実際、『人間失格』ではモメたよね)、歌に関してだけはそのあたりの感覚があまりにルーズだからである。
 これはタイトルだけの問題ではなく、日本の流行歌の場合、ポップスだろうがロックだろうが、全般的に詩の中身も陳腐なのは否定できない事実だと思うのである。別にコムズカシイ詩を書けと言いたいわけではない。日常のちょっとした思いや愛を語る場合でも、みんな似たような言葉、似たようなフレーズばかりを羅列して平気でいられるあの神経は何なのだ。で、何かと言えばサビの部分に英語を入れたがるんだよな。それで何が「オリジナリティ」だ「オンリー・ワン」だ。ウソこきゃあがれ。
 この際、ハッキリ言ってやるが、若手の歌手が書く歌詞の七割五分くらいは「詩」と呼ぶのもおこがましいくらいに幼稚で脳タリンである。具体例を挙げるとテキが百万人くらい増えそうだから避けるけれども(既に遅いか)、これまで私が本気で「これはすごい!」と感じた詩は、中島みゆきなど、数えるほどしかいない。ほかのはね、アレとかは無内容だしアレとかは馬鹿だしアレとかは異性に甘えてるだけの糞である。「あの曲はいいぞ!」と反論したいヤツは具体的に歌を教えてくれ。どこがどう陳腐か全部心理分析して説明してやるぞ。

 今日は特にアニソン縛りをしていなかったので、中島みゆきを歌ってやろうかと思っていたのだが、其ノ他君に先に『地上の星』を歌われてしまった。いや、あと追いで古いのを歌ってもよかったんだけど、なんか気を削がれた。もちろんこれは其ノ他君が悪いわけではない。でも其ノ他君にはその後、『アニメタル』も歌われちゃったんだよな(笑)。なかなかレパートリー広いぞ、其ノ他君。おかげで間隙を縫って選曲するのがなかなか大変だったけどな。
 結局、こないだよしひと嬢とカラオケに行った時と同じように、英語曲ばかり歌うハメになった。
 歌っている最中、私は飲み物を注文してはトイレに行きの繰り返しである。体調よくないってのに、全く何をやってんだか。これではまた心配しいな誰かからお説教を食らいそうである。
 さすがに五時間もぶっ通しで歌っていれば、アタマがフラフラしてくる(こないだもそれくらい歌ってたけど)。鴉丸嬢と其ノ他君を送った後、帰宅したらそのままぶっ倒れて寝た。明日は『仮面ライダー響鬼』も放送がないので、ゆっくり眠れるのである。


 マンガ、島本和彦『新吼えろペン』2巻(島本和彦)。
 炎プロアシスタント募集編。読者投票で一番人気のキャラをレギュラー入りさせようという、いわゆる新キャラ導入ということだけれども、あまり魅力的なキャラがいないのがネック(笑)。連載本誌は読んでないので結果がどうなったかは知らないのだが、女の子キャラに決まるんじゃないかね。男増えてもマンガの画面、華やかにならないし。
 それよりも今巻で面白いのはやっぱり「富士鷹ジュビロ」との対決編なのである。「架空のキャラの取り合い」って、現実には滅多にないだろうと思う人もいるかもしれないが、つい好きなキャラを自分のマンガの隅に描き込んでしまうという例は、80年代にはやたらあった。いやね、いくら好きでもここまでやるのは行きすぎだろうってのもあったのよ。あ○ひろ○の『とっ○も少○探検○』とか、脇キャラが殆どアニメキャラというヒドイ例すらあったのだ。
 そういうシュミが高じていくと、脇キャラばかりでなく、主役か準主役のキャラですら、「このキャラ、あのマンガのパクリやん!」と非難されても仕方がないくらいに「似ている」キャラになってしまうこともよくある。マンガ家さん同志が師匠とアシスタントの関係であるとか、友達同士であるとか、そういう事情があるならそれもたまにはありかなと思うけれど、そうでない場合はやっぱり非難されちゃうわな。そのへん、うまくアレンジできれば、「『D-××××ma×』は決して『×の錬××師』のパクリではない」と言い逃れができるのよ(笑)。アレンジがヘタだと「サンデー」のかつてのアレとか現在のアレとか、困った事態になるんだよねえ。
 島本さん自身、デビュー当時はモロに「石ノ森章太郎絵」と言われていたものだったが、実際に石ノ森さんから「認められる」ようになってからは絵柄がかえってオリジナリティを増すようになり、そういう文句もなくなっていった。今や独立独歩、今巻では自作について「従来の基準にあてはまらんところを目指すゆえ、しかたあるまい!」という自らのオリジナリティを宣言して恥じない域にまで達している(まあ、そういう文脈で出たセリフではないのだが)。
 あと、巻末に特別収録されている尹仁完×梁慶一による『コリアより愛をこめて』は、『新暗行御史』11巻とのコラボになってるので、島本ファンはこちらも必ず買うように(笑)。

2004年07月30日(金) 遺産相続って言うのか、こういうのも。
2003年07月30日(水) マヌケな人々/『二葉亭四迷の明治四十一年』(関川夏央)/映画『山の音』/『住めば都のコスモス荘』1・2巻(阿智太郎・矢上裕)
2002年07月30日(火) ウチにキンチョールはない。/『ゴーストハンター ラプラスの魔』(安田均・山本弘)ほか
2001年07月30日(月) 八女って全国的にどの程度有名なんだ?/『ロマンアルバム・太陽の王子ホルスの大冒険』ほか


2005年07月29日(金) 久しぶりにトンデモさんの話題/『スケバン刑事』12巻(和田慎二/完結)

 『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを逝く者』についてこないだまで「『Zガンダム 星を継ぐ者』よりずっと面白いじゃないか!」と、私のことを人としてどうかってくらいに貶していた東京のグータロウ君であるが、詳細な批評を日記にアップしたら、急にトーンダウンして「よく考えれば、あれは要らない物語だよなぁ。」とか言い始めた。うーん、今ひとつ根性がないなあ(笑)。何度も書いてる通り、作品ってのは視点を変えればいくらでも評価が変わるものだから、別にグータロウ君の感想が間違ってるなんて思っちゃいないのに。
 もちろん映画の感想書くたびにいちいち「あの、これは私の個人的な感想で、ほかの人はどう考えていても構いませんし、私の意見が絶対だとは思いませんよ」ということを前置きとして書いておくわけにもいかないから、省略しているけれども、当然私の見方だって自分で正しいと思って書いているわけではないのである。人間が、自分が正しいと思ってることしか言わないなんて考えてる人がいたら、その人は大甘ちゃんである(笑)。


 今日は元から仕事休みの日なので、テレビを漫然と見ていたら、以前、『トンデモ本の世界』でも「日本政府打倒を目指す古代帝国軍総統」として取り上げられていた「小島露観(万師露観)」のニュースが飛び込んできた。今更どうして? それとも何か新しい進展でも? という相反する興味で見ていたのだが、格別急展開があったわけでもなさそうである。ワイドショーの類はヘンなときにヘンなものをひょいと放送するものだ。
 報道の仕方はいかにも「第二のオウムになるのではないか」という不安をあおるような、政府転覆集団かセックス教団かって感じであるが、だったらもう十年以上前からニュースで取り上げてしかるべきじゃなかろうか。つか、未だにあの「ザイン」とかいう組織が何をどうしたいのか、実際に何かをしようとしているのかしていないのか、全然分からない。不安を感じる人も実際にいるとは思うが、小島露観の言動が支離滅裂なので、当局だって危険性があるのかないのか判断か付かず、どうにも取り締まりようがないというのが現状だろう。でも、コトバは過激でも基盤が貧弱でこれ以上は広がりようがない気もするし、ほっときゃいいような気もするんだけど。かえってテレビ放送しちゃうほうが宣伝になって信者を増やしてしまうというのは、それこそ「オウム」での教訓だったはずなのだが、懲りてねえよなマスコミ。
 レポーターの「あなたは宗教家なんですか?」の質問に、小島露観、冗談なんぞ一切通じないという表情で「軍人です」と答える様子が映し出されていた。一応気分は「独裁者」らしい。アドルフ・ヒトラーよりはアデノイド・ヒンケルに近い気はするが。両脇にはべらせていた女性を「私の最高傑作です」と紹介するあたり、何だかどこかで見たことあるようなデジャブーを感じたのだが、多分、東宝映画『怪獣大戦争』のX星人統制官&波川女史とか、『マジンガーZ』のあしゅら男爵&ガミアorシュトロハイム&ドナウα1とか、そんなもんのイメージだろう。でも最高傑作と言ってるわりにはご面相がちょっとね。いや、それなりにではあるんだが、もうちょっと凝ってもよかったのではないかと思ったのよ(笑)。
 果たしてこれから先、何らかの「続報」があるのかどうか、騒いだわりにはこのままフェードアウトしてくんじゃないかと思うのだが、昼間ヒマのある人はまあテレビウォッチングしてみてくださいな。


 昨年、「これはいいぞ!」と誉めまくったシルヴァン・ショメ監督の長編アニメ『ベルヴィル・ランデブー』であるが、いよいよジブリCINEMAライブラリーから8月3日にDVDが発売される。広島アニフェスで見た時には果たしてこれが全国公開されるものか、DVD発売は夢のまた夢かと疑っていたのだが、これでテレビ放送の可能性も出てきたと思う。NHKのBS夏休み劇場とかWOWOWで深夜とか、ワクが限定されそうな気はするけれど。日本はアニメ後進国だから(日本のアニメが世界で一番とか傲慢にも思いこんでる連中が多いんだわ)、なかなか他国のアニメをきちんと評価できないし見ようともしないが、少しでも人口に膾炙していってくれると嬉しい。
 発売直前に宣伝係りに借り出されたのが女優の本上まなみ。イベントで 「クールでいて、ギリギリのナンセンスにあふれています。友人と見て『コレ、何?』って顔を何回も見合わすのは他にない」と絶賛したとか。アイドルやタレントを、一見畑違いっぽい作品の広告塔に使うことを昔はちょっとどうかなと考えていたものであったが(かつてウタダがダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を賞賛したのにはアタマを抱えた)、最近はこれも致し方ないかと思うようにはなっている。何しろもう、世間の人たちはこういう「引き」がなけりゃあ、ディズニー以外の外国の長編アニメになんぞ、全く興味を持たないからである。ヒョーロンカとかシキシャとかセンモンカとか、そんな人たちが声をからしても誰も見てくれはしないのだ。
 本上まなみの発言は、『ベルヴィル』の何を見て「クール」と評しているのか、「ギリギリのナンセンス」とはどういう意味なのか、顔を見合わせたからどうだというのか、何も言っていないに等しいというか、『ベルヴィル』以外の作品にだって流用できそうなくらいに陳腐なのだが、それでも私ごときが百万言を費やすよりもよっぽど若い人たちへの求心力は強いだろう。結局、「その作品を見たい」と思わせる最大の要素はいつの時代も「フィーリング」だからである。
 しょうがないから、私も改めて『ベルヴィル』の魅力をこう語ろう。
 「ヘイ、そこのbaby、ファンキーでファニーなBAHchanたちがグローバルにhopしちゃうGOKIGENなムーヴィーを見たくないKAI? それがこれ、『ベルヴィル・ランデブー』さ! 買って損はさせねえゼ、Ah,Hah!」
 ……あほか。


 午後から、しげの通院に付き添い。
 何となく学校の三者面談に向かう親のような心境で、別に苦情を言いに行くわけでも言われに行くわけでもないのに、何となく緊張する。待合で待たされている間も、診察室の中に入れてもらえるのだろうかとか、ありえないことを心配しているのである。私の方が神経症にかかっているみたいだ。
 始めてお会いしたカウンセラーの先生は、朴訥で誠実な好青年という印象。こういう仕事は患者に警戒心を持たれてはまずかろうから、誠実さというか人当たりのよさが一番の武器だというのは了解できるのだが、果たしてそれだけで充分だろうかという疑問もある。しげの心はかなり業が深いというか、ヤミの部分も内側にどんよりと漂っているので、そこまで掬い取りながら治療をして下さっているのかどうか、そこはちょっと掴み取れなかった。
 カウンセラーの先生の前では、しげは緊張しているのかやはり訥々とした喋りになる。自分のことがうまく適切に説明できないので、突然「世界がシュレジンガーの猫なんです」なんて口にする。慌てて私が「つまり世界が自分が知覚しているから存在しているようにしか思えないって言ってるんですよ」と、量子論の説明やらSF小説、マンガなどによく使われる設定であることを説明する。前提となる知識がないと何のことやら分からんことをポンポン口にしてしまうところがしげのコミュニケーション不全なところだ。
 私が「解説役」に回ったせいか、カウンセラーの先生からは「また時々来てください」と頼まれる。やはり本人とだけ対話するだけでなく、「周囲の人間がしげのことをどう見ているか」ということを説明することも大事なのだろう。もしかしたら、しげよりも私のアタマの方がよりイカレていて、私がしげに暗示をかけてしげをイカレポンチのように見せかけているだけかもしれないのだ。
 PPのみなさんで、ためしにしげと一緒に病院に行ってみたいという人、しげに申し込んでみませんか? カウンセラーさんは千客万来大歓迎で遠慮は要らないみたいだから、めったにない経験ができますよ(笑)。

 博多駅のゲイマーズ、紀伊国屋に寄って、本を物色。
 オムライスの店で晩飯、帰宅。
 こないだから片っ端から小説、マンガを読みまくっているのだが、相変わらず日記にアップできているのはその本の一部である。指の痺れさえ治れば、まだもう少しスピードがアップできるのに、歯がゆいことである。数少ない読者の皆さんには更新遅いとかもっと書けというご不満もあろうかと思いますが、もう数年前とは病状が違ってますので、このくらいのペースでカンベンしてくださいな。


 テレビ『ドラえもん』、今日は「ころばし屋」と「きこりの泉」、ナンセンスギャグモノの傑作二本立てである。作画は安定、演出もまあまあ、新シリーズに入って、スタッフもどうやら軌道に乗った感じである。オープニングに未だに歌が付かないのはそろそろ何とかしてほしいと思うが(女子十二楽坊が嫌いなわけではナイ)。
 「ころばし屋」はもちろん『ゴルゴ13』とかのパロディであるが、途中、のび太ところばし屋の対決を西部劇の一騎打ちのイメージで描いて、のび太の特技を見せるあたりの演出が上手い。「きこりの泉」も、スネ夫がわざと新品のおもちゃを泉に捨てたら巨大ロボになって出てくるというオリジナル部分が、決して原作を損なうことなくうまく融合している。オチの「キレイなジャイアン」がどうなったのかという疑問は今回のリメイクでもやっぱり解消されなかったが、まあ、これはいいか。
 総じて出来のいいエピソードが続いているので、この調子なら少なくとも数年は延命できそうではある。ただ、映画シリーズを続けていくのはもうどうかなあという気がしている。マンネリでもオーケーというか、あえてマンネリを楽しむのがテレビであるとすれば、映画は「お祭り」である。どうしても新しい要素、去年よりも何か一つ面白い要素が求められるものだ。いくら新しいファンが付いて新陳代謝が行われていると言っても、旧作をビデオで見返すことが容易である以上、飽きられるサイクルは昔に比べてかなり早くなっているだろう。これ以上新作を作っても、大同小異という印象しか与えないだろうと思うのは、「原典回帰」の名のもとに実はネタ切れを露呈した『のび太の恐竜』のリメイクが新作として予定されているからだ。もうこれで打ち止めにした方が有終の美を飾れるんじゃないか。
 私は「藤子・F・不二雄ファン」ではあっても「『ドラえもん』ファン」では必ずしもないので、ちょっとザンコクなことを言っているかもしれないが、例えば『ルパン三世』のテレビスペシャルシリーズのように、同工異曲の作品が拡大再生産されて、作品評価自体が下落していくのを『ドラえもん』にまで見るのはちょっとツライものがあるのである。


 マンガ、和田慎二『スケバン刑事』12巻(完結/メディアファクトリー)。
 完全版最終巻。なんだかんだで、和田慎二の代表作はこれってことになるんだろうなあ。同時に張ってた伏線が収拾付かなくなって、ご都合主義な展開が続出、連載時無理やりまとめちゃったのを単行本化のときに何とか辻褄を合わせたという、和田慎二のストーリーテリングの雑さを露呈した作品でもある。いきなり出てきた「学生刑事No.1」とか、名前も分かんないままだもんな。
 まあデビュー連載だから仕方ないと見る向きもあろうが、現在だって作劇術がたいして上達しているわけではないから、間違っても和田慎二を「稀代のストーリーテラー」とか呼んじゃいかんよな(和田慎二について書くときは必ずこの件に触れているが、メディアファクトリーに移って見返しにこう書かれるまで、和田慎二をそんなふうに認識していた人間はまずいなかったことを指摘しておきたいからである。これは「歴史の捏造」ですらあるから、明確にしておく必要があるのだ)。
 実際、信楽老の「グランド・スラム作戦」にしたところで、既に政財界のドンとして君臨している彼がわざわざそんな一歩間違えば自滅しかねない作戦を計画しなければならないメリットは殆どないのである。神恭一郎と組織「猫」との関わりについてだって、最終巻でこんな取ってつけたようなページ数で簡単に書かれていいこっちゃないだろう。「説明」や「解説」ばかりでドラマが一向に盛り上がらない。それを誤魔化すために、今巻ではやたらキャラクターが死にまくる。
 ある程度それは仕方がないとしても、第一部では三平を殺し、前巻ではツグミを殺し、美尾が死んで、えーっとあと誰が死んだっけ。もちろん、碧子も信楽老もサキの母も神もサキも死にまくる。ここまで死なせてればもう食傷で、敵はともかく味方も無意味に死なせすぎ、悲しみすら涌いてこない。「オチ付けるために無理やり死なせたな」という印象しかないのだ。これだけの犠牲を払ったのなら、「生きて帰ってこその任務」とサキに言わせたのなら、少なくともサキは、主人公のサキだけは生き残らせなければそれこそドラマとしての「辻褄が合わない」というものだろう。もう完結して何十年も経つというのに、未だにこの最終巻の結末には納得がいかないのである。
 書き下ろしの後書きでも、いろんな人の協力、後押しでマンガ家を続けて来られたと感謝の言を述べているが、だったらもう少しキャラクターの描き方を考えてほしいものである。和田さんの「はみだしもの」意識はなんか自意識過剰だとは思うが、そういういつまでも青臭いところ、実はそう嫌いじゃないのだ。

2004年07月29日(木) やっぱり「じゃないですか」はいやじゃないですか。
2003年07月29日(火) ちょっとだけギャグの話/『キャラクター小説の作り方』(大塚英志)
2002年07月29日(月) 肉は血となり肉となる/『砲神エグザクソン』5巻(園田健一)/DVD『マジンカイザー』6巻ほか
2001年07月29日(日) いっじわっるはっ、たっのしっいなっ/『竜が滅ぶ日』(長谷川裕一)ほか


2005年07月28日(木) 壊れていく定め/『画図百鬼夜行全画集』(鳥山石燕)

 朝目覚めたら、手先が痺れて動けない。
 仕事を休んで病院へ行ったのだが、調べてもらったら、尿糖も血糖値も冗談じゃねえってくらいに上がっていた。手先も利かなくなるはずである。
 主治医から、「去年は調子よかったんですから、節制すればよくなりますよ」と元気付けられる。薬もとっくに切れていたので、こういう結果が出るのは予測がついていたのだが、実際に言葉で伝えられるとなかなかに辛いものがある。

 けれど、私のことよりも変化が激しかったのは父のほうだった。
 突然、夕方電話がかかってきて「木曽路」でしゃぶしゃぶを一緒に食べることになったのだが、言動がおかしい。
 父と姉との間柄があまりよくない状況はまだ続いている。本来なら姉に継がせる予定だった店を売っぱらうとか、かなり過激なことも何度か口にしていたのだが、この間から、今住んでるマンションを売り払って私やしげと一緒に住む家を探そうと考え始めている。計画に無理があるなあと思いながらも一応は付き合ってやらにゃあと、今度の日曜日にモデルハウスを見に行く約束をしていたのであるが、今日、「日曜は何時に待ち合わせる?」と聞いてみたら、「日曜日は俺、仕事やないか」とキョトンとされてしまった。自分が言い出していながら、そのことをすっかり忘れていたのである。
 記憶障碍はそれだけではない。
 昔話をするうちに、20年前、私が大学院に行かせてもらえなかったことについて話が及んだ。大学院まで行くことになれば当然東京で一生暮らすことになるわけで、それには父も母も反対した。まあ、カネもないということで、私は素直に諦めたわけであるが(当時は福岡に彼女もいたのでそれも帰省する理由になった)、それに関して家族間で大したトラブルはなかったのだ。
 ところが当時、父の友人で「どうして大学院まで行かせて学者さんにしてやらなかったのか」と父に意見した(余計なお世話ではあるが)人がいらっしゃって、父の店の常連客でもあるので、今でもたまにその方は昔を思い返して父を非難するのである。
 父は、「あの人は今でもお前を『何で大学……に行かせてやらなかったか』って俺に文句ば言いようばい」と言う。
 私が「まあ、別にぼくは行けなくても構わなかったけど」と答えたところ、父の態度が急に変わった。
「何ば言いよるか。あのときはお前と『行かせろ、行かせん』で二時間もケンカしたやないか」
 「え? そんなことしてないよ?」
 「何言いよるか。俺はちゃんと覚えとる」
 「だって、そんな喧嘩までして『大学院』に行きたいとか思ってなかったもん」
 「『大学院』やない、『大学』のことや! 」
 目が点になるとはこのことである。確かに私と父は、「大学」に入る前に「大学まで行って何するとや」ということでケンカをしたことがある。最終的には父か折れて、無事入試を受けさせてもらえたのであるが、どうやら父の頭の中では大学入試のときのことと、大学院に進学するときの記憶がごっちゃになっているようなのである。
 しかし、父が私を「大学に行かせなかった」と記憶しているとしたら、私が上京していた四年間は何をしに東京に行っていたというのであろうか。物見遊山か。それとも私が上京していたという記憶自体が父の脳からすっぽり抜け落ちているのだろうか。私が大学を卒業していないのならば、当然、今の職にも就けていないのだが、そのあたりの知識も父からは欠落してしまっているのだろうか。多分、そのあたりの整合性の不備も父には認識できなくなっているのだろう。
 父は、車から降りるときにもドアの開け方が分からなくてモタモタしていた。もう何度もしげの車には乗っているというのに、取っ手の仕組みをすぐに忘れてしまうようになっているのである。
 年を取ってきて、同じ話を何度も繰り返す率はかなり高くなってきていたが、日常的な記憶の混乱もひどくなっている感じで、「それはそうじゃないよ」と言えば、頑固に「俺の方が正しい」と言い張る。追及しても仕方がないので、私は口をつぐむことも多くなった。
 父と姉との軋轢も、必ずしも父の主張を鵜呑みにすることはできない。父が姉に「店を譲る」と言ったのは、母が急死して、父がショックを受けていたころのことである。現在父は、「あのころのオレは自暴自棄になっていてモノを考えられなかった」と過去の自分を否定するのだが、私から見ればそのころの父の方が今よりもよっぽどモノを考えている。今の父は、もしかすると姉に店を継がせることを約束したことすら忘れかけているのかもしれない。
 父と暮らす家を探す前に、父を入れる病院を考えないといけなくなるのだろうか。父はもう四分の一ほどは私の父ではなくなっている。しかし、その喪失率がどの程度になれば「見切り」をつけることになるのか、明確な基準のあることではない。完全に「私の父だったころ」の父は、「俺がボケたら遠慮は要らないから施設に叩きこめ」と言っていたのだが、いざ自己喪失してしまったら泣き出してしまうかもしれない。脳梗塞で倒れた祖父(父の父)が私と会うたびに涙を流していたのを思い出した。
 私の方が先にボケる可能性だってあるし、決断は意外に早く来るかもしれない。


 マンガ、新沢基栄『フラッシュ奇面組』3巻(スクウェア・エニックス)。
 二年ぶりの新刊。作者の腰痛による休載はファンにはもう周知の事実なので、もうわずか10ページだろうと掲載されていれば嬉しいという状況。良くぞ3巻が出てくれた、と感激である。
 だからと言ってマンガの方が面白いかというと、十年一日というか二十年一日で、新しいものは何もない。「先生が生徒にメシをたかりに家庭訪問に行くが、かえってひどい目に合わされる」とか「キャンプで仲間とはぐれてサバイバル」なんてネタ、これまでどれだけあったことか。しかも、そこで展開されるギャグも殆ど破天荒なものがない。前者なら空き巣と勘違いされるとか、後者は熊に襲われるとか、「どうしてこれで面白いと思えるのか」と作者に問いかけたくなるくらいにありふれすぎている。なんかねー、『奇面組』よりも更に十年くらい古い永井豪の『ハレンチ学園』や『キッカイくん』にも家庭訪問ネタやサバイバルネタがあったけど、そっちの方がまだSFが入ってる分、面白かったりするのよ。つまり、かつての『3年奇面組』も『ハイスクール!奇面組』も、『少年ジャンプ』に連載されていた当時ですら、そのギャグはかなり古かったのだ。これが新人マンガ家の持ち込んできた原稿だったら、絶対にボツを食らってるだろう。
 ところがオビには「あるある探検隊のレギュラーも推薦ッ!! 『おもしろすぎて西川くんが気失ってもたぁ〜!』」とか書いてあるんである。何かのギャグを「面白い」と評することは、即ち自分のギャグセンスがその対象と同程度だと言うのを告白するのと同じであるから、レギュラーのギャグはまさに20年、30年昔のそれだってことになる。この推薦、レギュラーにとっては自殺行為じゃないかと思うんだが、でも、レギュラーがこのあと「あるある探検隊」で何年も持つとは誰も考えていないだろうから(別のギャグを考え出してもたいして変わるまい)、これはある意味、実に適切な起用のようにも思える。まあ、レギュラーが『奇面組』の推薦してることに気づく人自体少なかろうから、何の影響もないかもしれないのだが。
 ギャグセンスも変化なしなら、作中で描かれる風俗もあくまでジャンプ連載当時のものだから、零君たちはケイタイも持ってはいない。いや、一番気になってたのは天野邪子率いる御女組だけれども、やっぱり昔と変わらないロングスカートだ。若い人たちが見たら「このひとたちどーゆーひと?」としか思えないのではなかろうか。
 これだけ「変わらない」のであれば、今後この作者に何か新しい境地が生まれるとは思えない。人に勧められるマンガでは決してないのだが、これを「骨董品」的な面白さとして楽しむ向きには貴重であるかもしれない。それで、たとえ単行本刊行に二年の間が空こうと、やっぱり買ってしまうのである。


 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)。
 『妖怪大戦争』映画化の余波で、こんなものまで文庫化。
 国書刊行会発行のシリーズを大枚はたいて買ってた身にしてみればチト悔しくはあるのだが、若い人がこういう「古典」に廉価で触れることができるようになっていることはうらやましいことである。
 知ってる人は知ってるが、現代の妖怪ブームのルーツは江戸時代にある。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪のスタイルがかなりの率で鳥山石燕のデザインを踏襲したものであることが、この「原典」を見れば一目瞭然であるし、京極夏彦が小説中に登場させている妖怪たちの多くがやはり石燕に拠っている。
 石燕の功績は、それまで、伝説や昔話の中に「言葉」としてしか語られなかった妖怪たちに「姿」を与えたことだという。石燕の絵は実際にあちこちに引用され模写され、現代にまでこうして生き残っている。その絵の魅力を絵の専門家でもない私が語ることは難しいが、簡単に言ってしまえば、人ならず獣ならず、しかし人のようにも獣のようにも見えるそのキメラ的な姿が、人間界と異界との間を繋ぐイメージとして的確に機能したからではないだろうか。西洋画に登場するドラゴンや悪魔たちのような単純なイメージに比べると、石燕の妖怪たちははるかに個性的で親しみ深い。
 例えば、石燕の描く人魂の中には、往々にして人間や鳥獣の顔が描かれる。我々はその姿に恐れを抱くがそれは即ちそこに「心」を見るからである。人間ならざるものに心があることは確かに恐ろしいが、そこには若干の親しみやユーモアもまた生まれるのだ。
 石燕はその絵も面白いが、文章もまた面白い。心霊家が心霊写真を見て「これは何々の霊だ」と根拠もなく断定するいい加減さに似た面白さだ。
 「人面樹」という妖怪は、花が人の首の形をして笑うのであるが、笑い過ぎて地面に落ちてしまうのである。妖怪の中で一番馬鹿なのではなかろうか。「目目連」という妖怪(破れ障子にたくさん目が現れる)などは、「碁打ちの霊だ」とか言ってるのである。それって、「碁打ちは『目』をたくさん読む」ってシャレではないの(笑)。「否哉(いやや)」などは、女の服を来ているのに顔を見たら爺さんだったので「いや〜!」と叫んで付けた名前である。そんな妖怪なら巷にゴロゴロしてると思う(苦笑)。
 こんなふうに面白い妖怪を紹介していったらキリがない。あとの妖怪たちはぜひご自分の目で確かめていただきたい。
 残念ながら原文のままで訳文は付されていないが、たいして難しい古文ではないので、中学生レベルの読解力で読みこなすことができるだろう。

2004年07月28日(水) 会話のナカミがウスくったっていいじゃないの……ねえ。
2003年07月28日(月) ついに出ますよ、アレが/『タク坊の毎日』(中川いさみ)/『最良の日、最悪の日 人生は五十一から�◆戞幣�林信彦)
2002年07月28日(日) 台本書いてると仕事してる気になるなあ/『アベノ橋魔法☆商店街』2巻(完結/出口竜正)ほか
2001年07月28日(土) アイ・ラブ・アッシー。……違うって(-_-;)/『スーパーロボットマガジン』第一号ほか


2005年07月27日(水) あのここな無知蒙昧な糞ったれどもめが(怒)/『空中ブランコ』(奥田英朗)

 吉本新喜劇の元座長で喜劇役者の岡八朗(2003年に「岡八郎」から改名していたそうな)さんが、昨26日、肺炎による呼吸不全のため死去。享年67。
 奇しくも昨日は中島らも氏の一周忌である。同じ兵庫県尼崎出身で、吉本の岡さんの芝居を日常的に見て育ったらもさんが一年先に逝き、そのぴったり一年後に岡さんが逝かれた。この暗合が悲しくて仕方がない。何でこう連日悲しい思いをしなければならないのか、正直、もう何も書きたくはないくらいなのだが、やっぱりこのところの訃報に関する故人の紹介の仕方に違和感を覚えているので、ちょっとだけ書く。
 「笑い」について九州に生まれてよかったな、と思えることは、関東の笑いも関西の笑いも平等に見ることができるからである。関東人はそもそも関西の笑いを全く知らない。東京進出している関西タレントは多いがそれは近年のことで、20年ほど前には松竹新喜劇も吉本新喜劇も全然テレビ放送がされていなかったので、その本質など知りようもなかったのだ。逆に、関西人は関西人で、関東人に対する対抗意識が強いから、関東の芸の面白さにあえて背を向けているところがある。志ん朝や談志のすごさをいっかな理解しようとしない。自分たちの論理で関東の芸を判断しようとするから、しばしばトンチンカンな見方をしてしまうことになる。
 関東対関西の不毛な諍いを見ていると、どっちも面白いじゃないか、と思えるのは九州人の特権かなと思える。
 無知なんだから仕方がないといえば仕方がないのだが、関東人には松竹新喜劇と吉本新喜劇の区別もついていない人が多い。渋谷天外・藤山寛美・小島敬四郎・藤山直美たちと平参平・岡八郎・花紀京・原哲男・船場太郎といった人たちとは芸風も舞台も全く違う(こういう名前を聞いてもピンと来ない関東人は笑いに関しては沈黙するように)。前者がチャップリンなら後者はキートンでありマルクス兄弟でありブルースブラザーズである。私だけがそう言っているのではない、中島らももそう言っていて、らもさんが影響を受けたのは当然後者なのである。
 人情・泣き笑いが松竹新喜劇の芸風なら、吉本新喜劇はドタバタ・スラップスティックであり、差別ギャグのオンパレードである。物語を収束させるために、最後に取って付けたように「人情話」で落ちをつけはするものの、そんなところに吉本の本質はない。ひたすら他人をからかい、欠点をあげつらい、チビ・ハゲ・デブの差別語が飛び交い、ナンセンスでシュールなギャグが舞台を埋め尽くす。まさに既知外沙汰だ。全盛期の平参平の体技はチャップリンやエノケンを凌駕していたし、花紀京のピカロぶりはまさに東洋のグルーチョ・マルクスと呼ぶにふさわしかった。そして岡八郎の「顔技」はジェリー・ルイスである。
 説明しなくたって関西より西の人間にはこんなのは常識なのだ。みなもと太郎が「関東人のギャグセンスが偏っているのは吉本を知らないからだ」という趣旨のことを発言していたのには私も頷くところが大いにある。
 だから、新聞などで岡さんの芸風を「人情味溢れる」などと紹介しているのは全くの見当違いである。若いやつが書いたのか関東人が書いたのか知らないが、これが岡さんに対してどれだけ失礼な発言か分かるまい。
 だいたい岡さんの持ちギャグ、「くっさ〜」「えげつなあ」「スキがあったら、かかってこんかい!」などを紹介しておきながら、これのどこに「人情」があると言えるのか。人情がないからこそギャグが切れるし、差別することで生まれる絆もあるのだ。いや、あえて岡さんの持ち味を「人情」と呼んでも構いはしないのだが、それは「関西人の人情」であって、関東人のそれとは似て非なるものであるのだ。関東人の人情はさっぱりしているが関西人のそれは絡みつく人情である。思いやりも優しさもからかいも罵倒もひっくるめた人情である。なぜなら、人間はみんな不器用だから、ぶつかりあい絡み合わなければ本当に心の底から絆を結ぶことはできない。それを感覚的に体得しているのが関西人なのである。関東人から見れば鬱陶しくて仕方がないだろうが、そういう文化があることも知っておかなければならないのではないか(逆に関西人も単純に関東人には人情がないなんて断言しないことである)。
 だから岡さんは、差別ギャグを飛ばしまくっていても、全然偉そうではない。他人を馬鹿にしても少しも上から見下げた感じがない。みんな庶民だし、貧乏だし、馬鹿(阿呆)だからだ。お互いに馬鹿にし合えるから楽しいのだ。だから一緒に笑えるのだ。えいくそ、書いてて涙が出てきたぞ。どうしてくれる。
 関東人にも、岡・花紀コンビの芸を堪能する機会がないわけではなかった。しかし、二人の主演映画であり、東京にもその芸を認知させようとした『あゝ独身(チョンガー)』は、「関東人にも理解できるように」人情味を混ぜてしまったために、かえってその芸の力を減殺させることになってしまった。思い返すだに、その不運は悲しみて余りある(もっとも関西人は「どうして関東で認められなければならないのか」と憤慨するであろうが)。 
  岡さん(本当は「八ちゃん」と言ったほうが親しみが湧く)の死は、東京で言えば、志ん朝師匠の死に当たるほどの事件なのであるが、殆どの関東人にはまったくピンと来ない出来事であろう。私は一昨日の杉浦日向子さんの死と、同じかそれ以上のショックを受けているのだが、関西の人のプログとかを見ていると必ず岡さんの死に触れているのに、関東系の人は「誰それ」ってなもんだ。同じ日本人だと言うのに、この「文化落差」は何なのだろう。無知は罪悪だとつくづく思うことである。


 昨週の映画興行成績、1位・2位は続映中の『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』及び『ポケットモンスター・アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者ルカリオ』が占めたが、3位に『鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』が初登場でランクインした(4位以下は『宇宙戦争』『アイランド』『星になった少年 Shining Boy &Little Randy』『皇帝ペンギン』『電車男』『姑獲鳥の夏』『フライ、ダディ、フライ』と続く)。
 公開2日間の成績は、動員で約18万人、興収およそ2億2500万円だとか。「eiga.com」では、「これは、今年の『コナン』のおよそ80%の出足となり、最終的には20億円オーバーも狙える好スタートとなった」「もちろん、シリーズ化は既定路線」「松竹としては待望のドル箱シリーズをやっと手にした感がある」などと、既にシリーズ化が決定的であるかのような書き方をしている。
 けれど、オタクの特性を考えた場合、初日、二日目に客が押し寄せるのは当然のことで、本当にヒットしたかどうかは、来週にならないと分からない。アニメの場合、リピーターが現れ、評判が口コミでオタク以外の人間にも伝わらない限り、その後が続かないということもこれまでにままあったことである(前売券が記録的な売り上げを上げながら、前売り以外の客がほとんど来なかった『クラッシャージョウ』という前例がある。あれも松竹配給だったなあ)。
 果たしてそれだけの力が『鋼の錬金術師』にあるものかどうか。いやね、映画を見て確かにこれは「続編のための伏線」を張りまくってるなあとは思ったものの、だからと言って本当に続編が作られるかどうかは、やはり映画がヒットするかどうかにかかっているのである。一説には既にスタッフは次期テレビシリーズの準備に取り掛かっていると言われるが、途中で頓挫する危険性だってある。映画の出来に関しては賛否両論喧しい。松竹はともかく宣伝戦略がへたくそだから、あまり皮算用はしないほうがいいんじゃないかなと思うんだけど。


 ついについについに、マンガ家の中田雅喜(なかた・あき)さん・円尾敏郎さんによる『日本個性派俳優列伝4 テレビが生んだ悪役スタア 天津敏』(ワイズ出版)が刊行された。7月24日、天津さんの命日にである。
 中田さんのホームページで、この本を刊行するためにひとかたならぬ苦労をされていた様子をずっと見てきていたので、刊行にこぎつけたことはまことに嬉しい。まさに感無量。いや、ホントに中田さんのコメント見ながら私は泣いているのだ。
 私にとってのベスト・ヴァリアントは何度も日記に書いてきた通り天津敏さんなので、実は自分でも資料を集めかけて特集ページを作ろうと考えていた時期があった。けれどその過程で中田さんがやはり熱狂的なファンで、出版も視野に入れて調査をしていると知って、私ごときの出る幕ではないなとやめた。もちろん計画が頓挫したからと言って、私に悔しさは微塵もない。本当のファンなら、対象に対する独占欲は生まれないものだ。赤の他人ながら、私は中田さんにそっと心の中でエールを送っていた。
 天津さんが亡くなられてもう26年になる。天津さんがどれほど素晴らしい役者であったか、私の身の回りにいる若い人たちは殆ど知らない。言葉で説明したって伝わらないし、出演作のDVDを見せようとしてももともと興味のない役者の作品なんて見ようとしてもくれないし、だからと言って強制するのもいやなので、諦めている。けれど、天津さんは、決して歴史の流れの中で忘れられていい役者ではない。断じてない。
 私たちの世代には説明も不要な『隠密剣士』の風魔小太郎、『仮面の忍者赤影』の甲賀幻妖斎が代表作で、映画にも『日本侠客伝』シリーズ、『緋牡丹博徒』シリーズ、『日本女侠伝』シリーズなどで印象的な悪役を演じた。その魅力は私の拙い筆ではとても表現しきれない。勝手ながら中田さんのホームページの文章を引用させていただく。

> 「いまどきの悪役はサイコや訳ありばっかりだ。これでは主役は引き立たない。天津敏の悪役は純粋に私利私欲のために生きる悪役だった。知的で男らしく、責めて恐く、受けて色っぽい、とてもリバーシブルな敵役。」
 43才から亡くなるまで、たった15年間、悪役一筋に賭けたオヤジの星。そういう意味でも天津敏は不世出の悪役である。」

 今度の出版が、若い人たちにとっても格好の「天津敏」入門書になってほしい、そう願っていたのだが、数日前から中田さんの掲示板で、本を読んだ読者の何人から、困った「荒らし」が行われるようになっていた。
 例えばこんなのである。 

>「ほとんどインタビューだけで繋いでいくという構成には
 ややツラいものを感じました。
 やはりどなたかの手による本論(真っ当な俳優天津敏論)が冒頭にあって
 そのコーナーで天津さんの功績の説明がきっちりなされたあと、
 ゆかりの人々のインタビューのパートが据えられるという構成のほうが
 読みやすく、購入対象者にアピールし易かったと思うのですよ。
 また、インタビュー相手がどういうひとかについての説明が
 ないのも不親切かと」

 一見、普通の意見を述べているように見えるが、これ、単に自分の無知、勉強不足、モノシラズ、ついでに性格の悪さを棚に上げて、傲慢に振舞っているだけである。
 「真っ当な天津敏論」って、何をもって「真っ当」と評するのか、だいたいこの演劇後進国の日本で脇役俳優のありようについてまで目を配って役者論を展開した例がどれだけあると言うのか、天津敏に関しては中田さんのこの労作が殆ど嚆矢であることにこの馬鹿は気づいていないのか、インタビュー相手が誰か分からないならそれこそ自分で調べろ、なんでも説明されなきゃお前の頭は回らんのかこの糞が、と怒り心頭に発した。
 こういう甘え腐った若造(かどうかは分からないが、文章から見ても四十代以上とは到底思えない)が蔓延しているから、年寄りの怒りの種は尽きないのである。てめえらは「アジカンって鯵の缶詰?」とか、「モー娘。なんてみんな顔同じじゃん」とか言われたら腹立たないのか。
 こういう馬鹿がウザイので、中田さんは仕方なく次のようなコメントを掲載せざるを得なくなった。

> 「『テレビが生んだ悪役スタア 天津敏』の読み方が分からない人のためにガイドいたします。
 1:この本は資料本です。その証拠はカバーをとれば一目瞭然です。
 2:インタビュー内容と総目録を熟読すれば天津敏の人と仕事が見えてくる内容になっています。
 3:想像力を巡らせて読んでください。
 4:その上で「天津敏論」を自分の中で組み立てていって下さい。そのための資料本です。
 5:自分の思っていた本ではないと感じた方は、どうぞ宮城と三浦半島と京都に行って自分の足で調べて自分の「天津敏」本を出して下さい。
 それは私と円尾のおおいに望むところです。
 上記の内容をふまえた上で本を読み、それでも理解できない人は残念ながら想像力と読解能力が乏しいと言わざるを得ません。
 賢明なる読者諸君にはこの本の基本方針がおわかり頂けたかと思います。」

 努めて冷静なコメントである。私が付け加えることは何もない。あとは中田さんのこの文章に共感してくださる方に、少しでも天津さんの魅力を知っていただきたく、天津さんの出演作を辿るガイドとして、この本を購入して利用していただきたいのである。発行部数がもともと僅少なので、ぜひネット注文していただきたい。私は今日「セブンアンドワイ」で注文した。
 私は基本的に本の「批評」や「感想」は述べても「宣伝」はしない。だから日記にこういうことを書くのはこれきりにする。あとは実際に本を入手したあとで、批評ではなく「感想」を書こうと思う。資料本に「批評」は要らないやね。


 晩飯は久しぶりの「大河すし」。
 例の一皿でも最低300円はする高級寿司屋である(でも回転)。ウニなんか600円だ。大トロなんてトテモ庶民には手が伸ばせない価格。だもんで、開店そうそうは何度か足を運んでみたものの、近頃はとんとご無沙汰であった。
 ところがしげが最近、昔の私の日記を読み返していて、寿司食った記述を見て「スシスシ!」と騒ぎ出したので、たまにはいいかと覗いてみたのである。
 何しろ値段が値段だから、店に入ったときにはちょっと量を控えようと思っていたのだが、流れてくるネタがみな美味そうなこと。アスパラ巻きですらみずみずしい。で、実際食べてみたらネタばかりでなくシャリの握りも適度で米の甘さもほんのり口中に広がる美味さなので、どうしてもついあれこれ手が伸びてしまうのだ。
 しげもステーキ寿司や煮穴子寿司なんかを注文してバカバカ食っている。私も、ここでしか食べられない馬こうねとか炙りチーズサーモンとか炙りエビマヨとか炙り豚トロを食う。炙りものがここは特に美味いのだ。今年初め、女優の宮崎美子もここで炙りすしを堪能したとかで、その効果もあったのか、バイパス沿いの車が通りすがりには入りにくい位置にあるのに、平日の夕方だというのに結構繁盛していた。油断しているとネタがご近所さんに取られてしまうので、カウンターが取った皿でどんどん一杯になっていく。こうなるともう止められない。
 で、ちょっと「やめときゃよかった」ってくらいお財布が軽くなりました。次に来るのはいつの日になることか。


 奥田英朗『空中ブランコ』(文藝春秋)。
 トンデモ精神科医・伊良部一郎の『活躍』を描くシリーズ第二作。同じ原作を扱いながら、ドラマ版と映画版とではその完成度に天と地ほどの差が生まれていたので、こりゃ原作もちゃんと読んどかないといけないなあと思っていたのだが、ようやく「原作」を購入して読んだ。文春だから慌てなくてもどうせ文庫化されるのにね(でもあそこは文庫化のサイクルが長いものなあ)。
 収録されているのは『空中ブランコ』『ハリネズミ』『義父のヅラ』『ホットコーナー』『女流作家』の五編。それぞれの作品に登場するのは、人間不信のサーカス団員、尖端恐怖症のやくざ、強迫神経症の医者、ノーコン病のプロ野球選手、嘔吐症の女流作家。つまんなくはないけど直木賞受賞ってこの程度? というのが正直な印象。つまり、五編が五編とも基本的には同じ話なんだよね。
 それぞれのエピソードの主人公が、ココロの悩みを伊良部に相談するのだけれど、本当に精神医学を学んだのかどうか怪しい自由奔放な伊良部の奇行に振り回されて、かえって混乱していく。なのに、ひょんなことがきっかけになって各人の悩みはいきなりスッと消え去って、これは果たして伊良部の手腕によるものなのか、それともただの偶然か、ともかく今日も伊良部先生はとつても元気だ、というのが全ての話の基本構造。
 ちゃらんぽらんに見えてもそれはカモフラージュで実は伊良部は名医、という設定になっていないところが面白くはある。ともかくその場の思いつきでと言うか、自分の本能の赴くままにと言うか、殆ど無茶な「逆療法」ばかりやらかしているのだが、それが結果的には功を奏するのだから、「もしかしたら伊良部って名医なのかも」と読者に錯覚させるところが小説として上手いのである。もちろん、患者に意味もなくビタミン注射をするのが趣味なんて変態が名医のはずはないんだけどね。これはミステリーで言えばジョイス・ポーターの『ドーヴァー警部』シリーズで開発されている手だ。病気の治癒、事件の解決、これどちらもあくまでただの「偶然」で「好運」なのね。これでクビにならないんだから、いくら伊良部が総合病院の跡取り息子だからと言っても、すげえラッキーマンだわ。
 「毎回同じ話」だから、そのマンネリを楽しむか、飽きるかで、このシリーズの評価は分かれると思う。直木賞は珍しくもその「マンネリ」の部分を評価したのかも。まとめて読むとやはり飽きる可能性の方が高かろうから、少し間を置きながら各短編を読んでいくのがいいんじゃないかな。
 伊良部一郎のキャラクターはドラマの阿部寛とも映画の松尾スズキとも似ていないけれども(だって原作の伊良部、デブなんだもん)、どちらかと言えば松尾スズキの方がまだ近い。確かに伊良部は変態だけれども、どこか稚気があって憎めないのに、阿部寛はまんま変態みたいな演技(『トリック』と全く同じである)してたもんなあ。再ドラマ化されるなら、伊集院光に演じてほしいな(笑)。

2004年07月27日(火) だけーどボクにゃ前歯がないよ、虫歯の虫〜に食べられた♪
2003年07月27日(日) 揺れて揺れて揺れて/『のだめカンタービレ』1・2巻/『平成よっぱらい研究所 完全版』(二ノ宮知子)ほか
2002年07月27日(土) イナジュンはいいねえ〜♪/DVD『カタクリ家の幸福』/『雨柳堂夢咄』其ノ九(波津彬子)/『ガンダムエース』9月号ほか
2001年07月27日(金) 『クレしん・オトナ帝国同人誌』完成!掲示板も見てね/『怪』11号ほか


2005年07月26日(火) 『Zガンダム 星を継ぐ者』再論/『神様ゲーム』(麻耶雄嵩)

 エンピツのアクセスランキング、5位にまでなっちゃいました(汗)。でも、アクセスランキング表から飛んでくる人はゼロなんだねえ。エンピツに登録してる人、アクセスランキングまではチェックしてないのかな。いや、私も普段は殆ど覗いちゃいないんだけど。
 今日はもう、来てくださってる方が1000人くらいに落ち着いたので、明日にはずっと順位は落ちるだろうけれど、なんかもうちょっと『Zガンダム』について補完して語っておかないといけないような気分にさせられてしまう(笑)。

 ということでもうちょっとだけ付け加え。未だに『Zガンダム 星を継ぐ者』で「旧作画」を使っていることに関して「なんで全編新作画にしないんだ!」と文句を付けている人が後を絶たないけれども、もともと「再編集版」として企画されたものに「再編集はケシカラン」と文句を付けるのは、感情的な難癖にしかなってないからね。そんなことを言い出せば、「『イノセンス』のCG技術は素晴らしいのに、どうしてキャラクターも含めてCGにしなかったのか」とか(カンヌでは、海外のメディアでそれに類する質問を記者が押井監督にしたらしい)、更には「アニメは所詮ただの絵に過ぎないのだから、リアルな物語は描けない。どうしてアニメ作家たちはあんな貧弱な表現方法に拘っているのか」なんて阿呆な主張も認めなければいけなくなってくる。新作画に拘る人間は、間接的にアニメを蔑んでいるのである。
 もちろん、予算と時間が許せば、『Zガンダム』を全編新作画にすることも可能であったとは思う。しかし、富野由悠季が、なぜ「再編集」に拘ったのかということについては、もう少し感情的にならずに分析する必要があるのではないかと思う。
 そもそも『ガンダム』シリーズは、アニメブームを起こした作品ではあっても、数々の批判にもさらされてきた作品である。森やすじや大塚康生からは、「あんな“動かない”ものはアニメではない」とまで言い切られている。東映動画で長編フルアニメーションに携わってきた立場であれば、リミテッドと呼ぶのもおこがましい3コマ作画、バンクだらけのアニメなどアニメと呼んでほしくないという気持ちになるのは当然であろう。更に言えば、富野監督が東映動画を引っ掻き回して徹底的に対立することになった手塚治虫の「虫プロ」(当時)出身であることも批判の背景にはあると思う。「日本のアニメをダメにした」それが手塚治虫批判から富野由悠季批判にまでスライドしているのである。
 しかし、日本のアニメ業界を現実に牽引して来たのはその「アニメではない」無数のテレビアニメであり、そのノウハウは手塚治虫が開発してきたものだ。その事実はアンチ・虫プロ派であっても認めなければならないことだろう。殆ど捨て売りのような価格で『鉄腕アトム』を製作してきたのは弊害ではあったが、東映動画だけに任せておいたら、日本のテレビアニメの歴史は、十年は遅れていたかもしれない(東映動画も結局は「手塚システム」を導入することになる)。
 バンクシステムは、マンガが記号であることを最大限に利用した荒業であると言える。川原泉が『小人たちが騒ぐので』で、「同じ人物のコピー絵でも、背景のトーンを変えれば全部違った顔に見える」ことを実験していたが、即ち「マンガ絵」の持つ情報量は、もともとかなり少ない。どんなに緻密に描かれた絵であっても、ナマの人間ほど微妙な表情を表現することは不可能である。だからこそアニメは基本的に「情報量が少ない」ことを逆手に取り、カリカチュアされたキャラクターと動きで喜怒哀楽を強調し、「微妙な味わい」を無視してきたのだ。ディズニーのフルアニメーションはまさにそうして発展してきたのであって、しかし初期の東映動画がそれに追随し、そして追随している限り、ディズニーを越えることは適わなかった。『鉄腕アトム』の3コマ作画は、バンクシステムは、本当に「弊害」だけをもたらしたものだったのか。同じ絵がシチュエーションを変えればどうにでも見えるということは、アニメの表現を広げもしたのだと肯定的に考えることはできないのか。それを1番最初に実証して見せたのが『鉄腕アトム』だったのであって、「動きもしない」アトムのうなだれた姿に、ロボットの悲しみを見出していたのではなかったか。『エヴァンゲリオン』の止め絵の多用をただの枚数減らしだとは思わなかったのではなかったか。我々はテレビアニメの歴史の中で、「情報量の少ない絵を想像力で補完する見方」を素直に受け入れてきたのだ。
 もちろん、アニメーターの技術が向上し、予算が増えればアニメはバンクや3コマ作画や止め絵は控えるようになる。しかしそれでもアニメの「絵」は最終的に実写ほどの情報量を提供することはできない。レイアウトを考えタイミングを計り、声優が声を当て効果音を付け、更に観客の「想像力」に期待して、やっとこさ作品として認めてもらえるのである。富野由悠季が「絵コンテ千本切り」を行ってきたのは、そういったテレビアニメであり、その中には「元東映動画」の宮崎駿が監督した『未来少年コナン』などもあった。その演出力に感嘆しつつも、富野由悠季は口には出さず、考えていたことだろう。日本のアニメの歴史は虫プロが作ったのだと。
 なのに、今のアニメファンは見た目のよい新作画だけに騙されて、アニメがその「記号性」を駆使する表現方法であることを忘れてしまっている。アニメは「動いても動いていなくてもアニメ」である。世界最高峰と言っていいユーリー・ノルシュテインの『話の話』や『霧につつまれたハリネズミ』などは「切り絵アニメ」であるが、あれがどれほど動いていると言うのか。動かそうが動かすまいが、アニメを作品として昇華させる要素は「演出」なのである。
 「再編集で、たいして動きもせず汚い旧作画で何が悪い。逆に動かず汚い作画だからこそ編集と演出でドラマを成立させることができるのだ。ディズニーと宮崎アニメの信奉者は去れ」
 私には富野監督が内心、『星を継ぐ者』についてそんなことを考えているように思えてならない。まあ、本人に聞いても韜晦して絶対に正直には言わないだろうが、そうでなければ、堂々と旧作画を劇場にかける「過激さ」の理由が説明できないのである。

 恐らく、日本初の「再編集」劇場アニメは『鉄腕アトム 宇宙の勇者』だ。テレビシリーズの中から『ロボット宇宙艇の巻』〔46話〕『地球防衛隊の巻』〔56話〕『地球最後の日の巻』〔71話〕を中心に、“新作画も加えて”再構成している。今のオタクはすぐに「新作画がどれくらいあるか」ということに注目してしまうが、この時代、当然そんなことは「売り」にはならない(どちらかというと、白黒アニメだったアトムがカラーで見られるというインパクトの方が強かった)。「新作画」は、異なるエピソードを繋ぐために必要であっただけである。
 「再編集映画」になぜ新作画が必要になるのか、“新作画を一切使用しなかった”アニメをいくつか思い浮かべていただければその理由は見当がつくのではないかと思う。例えば、『宇宙戦艦ヤマト』はデスラーとの最終決戦をカットし、『未来少年コナン』はなんと「ギガント」のエピソードをまるまるカットしてしまった。そんなデタラメな事態を引き起こしたのは、新作画がシーンとシーンの間の省略された部分をうまく繋ぐ「ブリッジ」として機能せず、映画の「尺」を調整できなかったためである。即ち、日本の再編集アニメにおいては、新作画はもっぱら物語の省略と繋ぎのために使用されてきたのだ。
 『星を継ぐ者』においても、「新作画」は「ブリッジ=尺の調整」としての役割を果たしてはいる。しかし、わざわざ「新訳」と名乗ったのは、単に1時間半の時間内に映画を収めるためばかりではなかった。旧作の設定や意味を組み変え、21世紀のガンダムファンに送る新作として『Z』を再生させるためには、「旧作画と新作画のコラボレーション」が絶対に必要だったのである。
 例えば、幽閉され監視を付けられ不遇をかこつアムロがカツに罵倒された後、エゥーゴと行動を共にするまでの過程は一気に省略されるのだが、その間を繋ぐブリッジのシーンは、フラウがレツとキッカと共に旅立つ新作画のシーンである。ここでどうして新作画が必要になったか。
 テレビシリーズではこのときフラウはレツとキッカの間にいて、二人を抱き締めている。ところが新作画ではフラウは二人の横にいて、目は彼方を見つめているのだ。この違いは何か。旧作では再び戦場へと向うアムロに対してフラウの心は既に離れてしまっている。彼女は、カツもアムロに奪われ、残されたレツとキッカもまたいずれは戦乱に巻き込まれていくのではないかという不安に襲われており、だからこそ二人を抱き締めずにはおられなかったのだ。このようなフラウの姿を見せられては、視聴者はどうしたってアムロの身勝手さ、カツの幼さを感じないではいられない。あるいは逆にフラウの方が男の陰で過剰に被害者ぶっているように受け取る人もいるかもしれない。どちらにせよ、彼らの心がバラバラになっていることは間違いないのである。
 だが、新作画のフラウは、戦争に対する不安を抱きつつも、アムロを、カツを戦場に送り出す「勇気」を持っている。アムロがなぜ再び立ったのかも、カツがなぜアムロと行動を共にしたのかも理解している。彼女の目は、決して戦争の現実から逸らされてはいないのだ。
 この新作画ゆえに、アムロは旧作のような単純に鬱屈したキャラとは見えなくなった。幽閉されていたときすらずっと脱出の機会を狙っていた人物として描かれ、そして彼の後ろには今でも「ちゃんとフラウがいる」ことが明示されることになったのだ。
 アムロは決して孤独な存在ではない。つまり、『ファーストガンダム』で、アムロが最後に「僕には帰るところがある」と言った言葉、これがまだ生きていることを、20年の時を経て、ようやく富野監督は示してくれたのだ。ここで感動しないのなら、その人はガンダムファンを名乗ることを止めたほうがいい。
 これは、「旧作画と新作画の融合」があったからこそ成立した効果である。富野監督には「新作画」だけで長編アニメを作る意図はもともとなかったし、また、「旧作画」だけで「新訳」が成立するとも考えていなかった。『星を継ぐ者』はそのことを前提として批評しなければ、適切な評価は下せない。「旧作と新作の落差がひどすぎ」とか「新作画だけで作れ」という不満が印象批評の粋を出ないものであり、映画の本質を見ていないのはそのためである。

 一回しか映画を見てないでここまで言い切るのもなんだなあとは思うのだけれど、DVD買ってもう一度見直したら感想変わるかもなあ。でも、万が一、富野監督が将来予算を潤沢に与えられて「完全新作のZガンダム」を作ったとしても、現行の『星を継ぐ者』が否定されたことにはならない。与えられた条件のもとで「最善」の作品を作る。そうして完成したのがこの映画だからだ。どんなに作画が荒れようが、テレビアニメの歴史はそうやって紡ぎあげられてきた。それを忘れて文句を付けているやつらは、テレビアニメに対する愛を忘れているのである。


 麻耶雄嵩『神様ゲーム』(講談社)。
 これもミステリーランド第七回配本作品。箱カバーの惹句は、「まさに神わざ。」これがどういう意味を持っているかは、本書を最後まで読めば「まさに」と首肯することになるだろう。これはそれくらい激賞してもし過ぎないくらいの傑作である。

 主人公は小学四年生の芳雄(江戸川乱歩の『少年探偵』シリーズの小林君と同じ名前だね)。彼の住む神降市で、残虐な猫連続殺害事件が起きる。芳雄は同級生と結成した少年探偵団の仲間と一緒に、事件の犯人を探し始めた。そんなとき、転校してきたばかりのクラスメイト・鈴木太郎君とトイレ掃除をして入る最中に、彼からとんでもない話を聞かされる。
 「ぼくは神様なんだ。だから猫殺しの犯人も知っているよ」。
 彼は大嘘つきなのだろうか。それともこれは「神様ゲーム」なのか。
 数日後、芳雄たちは探偵団の本部として使っていた古い屋敷の古井戸の中に詰められた友人の英樹の死体を発見する。恐怖と悲しみに包まれる芳雄たち。猫殺しとこの殺人事件は何か関係があるのだろうか?
 芳雄は思い余って「神様」鈴木君に「犯人に天誅を下してほしい」と頼んでしまう……。

 これだけ「仕掛け」の多いミステリも珍しい。詳述すればトリックをばらすことになるので、なかなか書き方が難しいのだが、基本的にこの作品にはふた筋の「謎」がある。
 1、猫殺しおよび英樹殺人事件の犯人は誰か。
 2、鈴木君は本当に「神様」なのか。 
 しかし物語が展開されていくにつれ、この二つは複雑に絡み合い、新たな謎をも生み、感嘆には解けなくなっていく。ついには、読む人によっては恐らく「訳が分からない」と頭を抱えることになるだろう空前絶後のラストへと辿り着くのだ。
 自慢ではないが、私はたいていのミステリ作品の犯人やトリックは「慣れ」で当てることができる。当てられない場合は私の想像の方がその作品の出来を上回っているときである(それだけ出来損ないのミステリが横行しているのだ)。
 しかし、本作は九割九分までそのトリックと犯人を見破っていながら、作者が「あのような結末」を用意しているとは思わなかった。ここまで見事に「うっちゃり」を食らわされたのは久しぶりの経験だが、決して悔しくはない。「あのようなラスト」を「用意しなければならなかった」筆者の創作意図に深く共感するからである。
 本作にはいくつもの「怒り」が表れている。それは作中人物の言葉を借りても語られることがあるが、基本的には筆者の麻耶雄嵩本人の怒りであろう。その怒りも大雑把に二つにまとめることが出来る。
 1、世の中はどうしてこんなに不条理にできているのか?
 2、どうしてミステリは「真実」を明かしてやらなければならないのか? 
 作中で、芳雄は「大事な猫を殺されたのに、それがどうしてたいした罪にもならないの?」と嘆く。もちろんこれは読者の少年少女たちに与えられた「きっかけ」に過ぎない。「世の中の不条理」はほかにもいくらでもあるからだ。犯罪が適切に裁かれていない、という思いは大人にもある。なのに、その当の大人たちが犯罪を助長するような世の中を営々と築き上げてきたことに対して何の反省もしていない。こうなったら「神様」にでも頼るしかないのではないか? しかし、世の中にゴロゴロしている「神様」もまたトラブルを解決してくれるどころか、諍いの種にしかなっていないのである……。
 しかし、世の中の一番の不条理とは、そんな現実から少年少女の目を逸らそう逸らそうとしている大人の偽善ではなかろうか。そんなに大人は子供を純粋培養したいのか。
 小学四年生にもなれば、大人がいかに奇麗事ばかりを言っているかには気がついてくる。連日テレビや新聞で報道されている事件の数々を子供が何も知らないと思っているのだろうか? いや、実際に家の近所で殺人事件があったり包丁男が学校に乱入したり、親父が浮気してたりするなんてことを子供たちは経験しているのだ。なのにそんなことは「なかったこと」のように大人は振舞う。そうすれば子供には何も分からないとでも思っているのか? 何という傲慢か! 「汚いものは見えないように」いくら大人が腐心しようと、殆ど徒労であるのに、そんなことにも気がつかない大人たちは、子供の目からは馬鹿か卑劣漢にしか思われまい。
 作者は本作を通じて少年少女たちに訴えている。「君たちの生きている世界はこんなに汚い世界なんだよ。救いなんてない世界なんだよ。でも君たちもいずれそんな世界の中で大人になって生きていくことになるんだ。だからと言って、君たちはそこで『神様』に頼るかい?」と。そして大人たちにも怒りをぶつける。「いつまで奇麗事だけの物語を子供に与え続けるつもりだ?」と。
 ミステリブームの中心をマンガが担っていることは誰も否定できないことだろうが、さらにその中心にある『名探偵コナン』がどれだけ下らないか、指摘する向きが少ないのはなぜか。もちろん、残酷な殺人事件ばかり描いて教育上よくない、と批判する大人もいないではない。しかし、『コナン』が下らないのは、残酷だからではない。そんな批判は的外れもいいところで、あのマンガの一番下らないところは、どんな事件も全て奇麗事で落ちをつけ、解けない謎はない、真実はいつも一つと能天気に主張しているところである。こんな欺瞞がどこにある?
 読者の中にはこの『神様ゲーム』のあのラストを、「そんな馬鹿な」とか「意味不明」とか言うやつもいるだろうが、それはミステリが「全ての謎が論理的に解決されるもの」だと錯覚しているからである。
 現実の社会を考えた場合、全ての「謎」が解明されることなどはありえない。ミステリもまた文芸の一つである限り、その法則から逃れることはできないはずであるし、無理に「たった一つの真実」などがあるように主張すれば、ただの一人よがりで自己満足な駄作にしかならないのだ。『コナン』のおかげでどれだけミステリの読み方を間違える馬鹿が増えたか、あれくらい罪悪なマンガもない。
 ここでハッキリと断言しておくが、ミステリの本質は、「いったん全ての謎が解かれたように思った後にもなお残る人間の謎を提示すること」にあるのだ。「論理的に全ての謎が解かれること」なんて概念はもう百年前の古い定義で、糞でしかない。横溝正史の『獄門島』がしばしば日本ミステリの最高傑作と評価されるのは、事件の謎が全て解明された後、犯人の「動機」そのものが崩壊してしまう「運命の不条理」が描かれているからである。それに対して金田一耕助の「孫」を僭称するバカマンガがくだらないのも、横溝ミステリの本質を理解していないからだ。 
 作者は読者に対して子供だから大人だからと言って一切容赦はしていない。作中には、残酷な犯罪者も変質者も堂々と登場する。さりげなく「ジェノサイド」とか「ネクロフィリア」なんて言葉も全く意味が説明されないままで使われている。再度繰り返すが、そんな現実だって身近にあるというのに、大人は子供に対して情報を抑制しているのだ。この本を読んだ年少の読者が、自分の親に「この言葉どういう意味?」と質問してきたときに、どれだけの親がきちんと「現実」も含めて説明してやれるだろうか。コトナカレな親が増えている現在、それは全く心許ない状況だと思うのである(これは一つの事例に過ぎないんで、作者が言いたいことは、大きく「現実をきちんと子供に理解させ立ち向かわせる勇気と覚悟を親は持っているのか?」ということであることに注意すべきだろう)。
 本作のラストが意味不明だとかアンフェアだとかほざく人は、メールでなら全部解説してあげられるから、質問してきなさい。ミステリはネタバレ厳禁だから、公開日記じゃこの程度の抽象的なことしか書けないんだよなあ。結局、何が言いたいのかわかんねえよという文句もあるだろうが、こっちだって隔靴掻痒なのである。


 中島らもさん一周忌のDVD『超老伝』がG2プロデュースから届く。
 私はちょうど仕事中で、代金はしげが一時的に払ったので、文句を付けることと言ったら。
 先日、雑誌『笑芸人』のバックナンバーで、中島らもさんとモロ師岡さんの最後の対談を収録したDVDも入手していたので、ここんとこずっとらもさん三昧である。
 対談でらもさんは「泣き笑いは好きじゃない」と明言している。一周忌だからと言って、泣いてばかりじゃらもさんファンとしては不適格だろう。
 みんな笑おう。泣くほどの価値もこの世にはありゃしない。

2004年07月26日(月) 何が決まったと言うのよ〜(T∇T)
2003年07月26日(土) オタクな本屋にクラシックは似合わない/『TNくんの伝記』(なだいなだ)/映画『デブラ・ウィンガーを探して』ほか
2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか
2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)