無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年05月30日(月) 体調振るわず/『げんしけんDVDボックス』2

 朝から熱発して出勤できず。

 グータロウ君が友達から『押井守DVDボックス』を借りた話を日記に書いている。
 押井守ファンでも、アニメは好きだが実写映画はちょっと、と感じている人は多いと思うが、その点で言えば私は「どっちかと言うと実写の方が好きかな」という珍しい押井ファンであると言えよう。いや、そりゃ映画としての完成度で言えば『機動警察パトレイバー』や『攻殻機動隊』の方が上だろうし、押井守らしさが横溢している点では『天使のたまご』や『御先祖様万々歳』を挙げるのが妥当だろう。それらの傑作群に比べると、実写3作(『紅い眼鏡』『ケルベロス 地獄の番犬』『TALKING HEAD』)は観念的で映像としての魅力にも乏しく、“一般的には”一段劣って見えるのも仕方がないかもしれない。
 けれど、アニメでは「絵」というフィルターがかかるために抑制され薄められてしまうが、押井守のナマな人間に対する欲望は、実写版ではかなりストレートな形で反映されていて、それが私なんぞには非常に面白いのだ。少なくとも『紅い眼鏡』の兵頭まこの、目を見張るほどに済み切った美しさを見るだけでもこれは価値があるのよ(笑)。


 なんだか殆ど毎日酔っ払い批判をやらかしてて、全世界の愛飲家をテキに回しているようであるが、実際、酔っ払いの仕出かしたトラブルを書いていけば、毎日ネタに困ることもなく、立派に事件簿ができ上がっちゃうのである。
 映画監督のオリバー・ストーンが、27日夜、酒を飲んで乗用車を運転、ロサンゼルスの路上を走っていたところを取り締まり中の警察官に停められた。その際、車内を調べたところ、薬物が見つかり、逮捕されたという(薬物の種類は未発表)。アチラの話だから、ストーン監督は保釈金1万5000ドル(約162万円)を支払ってすぐに釈放されたそうだけれど、それだけのカネをポンと出せる人間なら、サケをやろうがヤクをやろうがカネ積みゃ何とかなるって発想になってもおかしかないわな。監督の薬物所持での逮捕は、99年に継いで2度目だとか。
 名声を馳せてはいるが、私はオリバー・ストーンという人を映画感得としてたいした人だとは思っていない。「社会派監督」という肩書きはクセモノで、題材がセンセーショナルな場合が多いので注目されることが多いが、かといってその演出力まで秀でているとは限らないからである。『プラトーン』を見た時に感じたことは、一般的な世評に反して「大味な描写だなあ」というものであって、監督が意図したらしい「ベトナム反戦」とやらは“映画の中からは”感じられなかった。リアルとか言われてたわりにはメロ入ってたしな。
 だもんで、この人も私には「胡散臭い」監督の一人だったのだが、最近はサケやヤクに限らず、本職の映画の方でもいろいろと馬脚を表しつつあるようである。『アレキサンダー』はホモ描写ばかりが話題になって、映画自体は大コケしたようだが、根のない「社会派」が客に媚売ってりゃ、いつかは化けの皮がハゲて見捨てられるのも必然というものだろう。『アレキサンダー』はまだ見てないんだが。


 DVDボックス『げんしけん』2。
 5〜8話、及び、『くじびきアンバランス』2巻。
 本編の方は、原作ベースながらオリジナル描写もかなり付け加えられていて、ドラマとしての厚みを増している。横手美智子脚本に期待してボックス買いまでしてるようなものなので、つまんなかったら涙がちょちょ切れるところだ。
 1話限りで消えちゃった新入部員のエピソード、「空気読めねえ」ぶりがリアルでおかしい。いるんだよ、宴会で先輩を無視して一人勝手に食いもの食いまくるやつ。おれもだけどな(もちろん私の場合は空気が読めないのではなくて空気を無視しているのである。飲めねえって言ってるのにムリヤリ酒を押し付けてくる酔っ払いにはこっちだってそれなりに対抗するというものだ)。
 予告編のナレーションで、咲姉さんがレイヤーを思いっきり貶しまくって(素で悪気なく言ってるという設定)、それに大野が「全国のレイヤーを敵に回しましたよ」と静かに突っ込むのがナイス。
 『くじアン』は「大総集編」という体裁で、過去の対決を千尋が思い返す。もちろんシリーズそのものが存在してないので、総集編もへったくれもないのだが、横手美智子著の小説版『くじアン』とはシリーズ構成もエピソードも違っているらしい。できればそこんとこの整合性も合わせてほしかった気がするが。1巻に引き続き、全体的に作画演出を「イマイチヘタレ」レベルで抑えているのが見事。これ、あくまで本編劇中の「架空アニメ」なんで、斑目とかが「アレックスとの対決シーンはリキ入ってましたなあ」と批評するクライマックスの一部分を除いて、作画レベルをよくできないのである。予め「手抜きでいい」ことが約束されてるアニメなんて、スタッフは気は楽だったかもしれない(笑)。

2004年05月30日(日) 相手を選ぼうよって話と、韓国の『ヒカ碁』
2003年05月30日(金) 追い込み日記/懐かしの男
2002年05月30日(木) タカリ女の言い分/『東亰異聞(とうけいいぶん)』1巻(小野不由美・梶原にき)
2001年05月30日(水) まるでNENNEのように/『帰ってきたハイスクール!奇面組』(新沢基栄)ほか


2005年05月29日(日) だから酒税は今の十倍でも構わないって/『戦国自衛隊1549』Vol.1(半村良・福井晴敏・Ark Performance)

 話題の『エウレカ7』、チラッと見たけど、それほど“引っかかるもの”がない。1話から見たわけじゃないから何とも言えないけど、キャラクターがデザインに凝ってるワリには内面の方が作り込まれてない気がする。もう何話か続けて見てみないとちゃんとした感想は出せないが、ウラの『ゾロリ』とどっちを見るか、迷うところだ。

 今日の『仮面ライダー響鬼』は十八之巻「挫けぬ疾風」。
 ついに「謎の男」がライダーたちと接触(っつっても会ったのはあきらだけだが)。これがどういう目的だったのかがよく分からない。あきらに「何かした」のか、単なる足止めだったのか。結局オオナマズは倒されちゃったわけだから、足止めだけが目的だったら何の意味もなかったことになる。当然ここは前者であって、あきらの身に今後変化が……って展開になるのが作劇のセオリーってもんなんだけれど、『響鬼』の脚本家陣、あまりそこまで深く考えて脚本書いてない気がしてならないんだよね(笑)。「謎の男」のただの示威行為なんじゃないかな。
 しかしここんとこどんどんヒビキの影が薄くなってきてるのはちょっと気になるとこだね。早いとこバイクに乗せたげようよ。


 マンガ、半村良原案・福井晴敏原作・Ark Performance漫画『戦国自衛隊1549』Vol.1(角川書店)。
 福井晴敏作の小説版も出てたけど、単行本だったので、マンガ版だけを購入。最近はあれこれと出物が多いので、小説は文庫か古本でしか買わなくなってるのだ。映画企画ありきのメディアミックスだから、原作を小説で読もうがマンガで読もうが余り変わらんわな。つか、『亡国のイージス』にしろ『戦場のローレライ』にしろ、福井晴敏の小説って、設定のあざとさと浅薄なイデオロギーが鬱陶しくて、力のある作家さんだってことは分かるんだけど、今一つ好きになれないとこがあるんである。だから思想性なんて皆無の半村良版『戦国自衛隊』(作者本人が「思い付きだけで書いた」とかつて後書きで告白してるんだよな)のリメイクの担当者としては余り相応しいとは思えないんだけど、ほかに角川が頼みにできる作家がいなかったんだろうな。
 その福井晴敏の「原作者あとがき」がまたこの人の「眼の低さ」を露呈していて、作画野―の光吉賢司氏を賞賛するのは構わないんだけれども、それがまあやたら「天才」って表現を連発するものだから、かえって「そこまで誉めるほどのものか?」と首を傾げたくなってしまうのである。確かに構成、作画ともに素晴らしいことは認めるんだけれども、「天才」というほどじゃない。そんなこと言いだすなら、マンガ界は天才ばかりがひしめきあってるって。スタッフに関わってる人間が身内をやたら誉めると「誉め殺し」に終わるんで、そういう機微に気がついてないあたりも福井晴敏がイマイチ信用できないことの一因になってるんである。
 でも実際、「骨組み」ばかりで小説・映画ともに決して面白いとは言い難かった半村良版に比べると、結構面白くはなっている。
 日本各地で発生する謎の虚数空間。このままではこの世界を含む次元空間そのものが無に帰してしまう。その原因は六年前に起きた自衛隊のタイム・スリップにあると判断した技術研究本部の神崎怜は、事件の中心に元陸軍一佐・的場毅が関連していると見抜き、かつて的場の部下であった鹿島勇祐に助力を求める。
 ご都合主義的設定や展開は随所にあって、戦国の世での歴史の改変がどうして平成時代にだけ影響を及ぼしているのかとか(「等価交換」ってことだけじゃたいして説得力のある説明にはなっていない)、更に未来からの干渉がないのなら、この事件自体が実は歴史的にたいした影響を及ぼさないってことなんだから、つまんないじゃないかとか(もちろん、宇宙の歴史が平成で終わっちゃったのなら更に未来ってのはありえないわけであるが)、基本的なSF設定がかなり雑なんだが、ともかく『戦国自衛隊』シリーズは「自衛隊が戦国で大暴れする」アイデアの面白さだけを楽しめばいいのだから、SF設定がどうのこうのってのは気にしたってしょうがない面はあるんだよね。
 笑っちゃったのは、タイムスリップした的場が、すっかり戦国時代に染まっちゃって、喋り方まで時代劇口調になっちゃってること。「戦国の者共よ、これが我が意の声と知れ」「我が想い、どうやら天も関心事らしい! 事は成った!」「久しいな、鹿島」とか、気取り過ぎである。映画もこんな調子なのかね? まあ、超大作映画かなんかと勘違いしないで、B級SFを楽しみに行くつもりで見に行きゃいいかな、ってな印象なんだよね、これは。


 エコ缶さんの練習に参加するので、しげは夕方から外出。
 ひとりのんべんだらりとしていたら、父から電話がかかってきた。「明日から入院するぜ」と言うので驚く。
 「六月からの予定じゃなかったんね」
 「早めたったい。お客さんで、仕事ば続けろって言わっしゃる人もおるけん」
 「姉ちゃんは、店はどげんするて?」
 「さあ。別にやめるとは言わんごとなったけん、続ける気やなかか?」
 なかか、って、ちょいとアンタ。こないだまで店をたたむのなんのと騒いでたのはどうなったんだ、と、ガクッと来たけど、要するに父も姉も仕事は続けたいのである。ちょいとお互いの言葉の“かけがね”が外れかけちゃったんでゴタゴタしたけど、本来、ケンカなんてする必要はなかったのだ。
 まだお互いのシコリが解けたわけではないようなので、予断が許される状況ではないのだが、タダで散髪できなくなるのは経済的に結構イタイので、もちっと店は続けていてほしいのである。
 ともかく明日の早朝から入院ということなので、荷物運びをしげに手伝わせることを約束して電話を切る。
その直後に、また電話。タイミングよく、今度はしげからだった。今しがたの電話の内容を伝えて、父の入院を明日手伝ってくれないか頼む。
 「ああ、それ、ちょっと無理かも」
 「どうして?」
 「今からよしひと姉さんを北九州まで送っていくことになったから」
 「なんでまた?」
 「今日、コンサートで博多に来てたんだけど、そのあと飲んでて終電逃したって。帰りは早くても3時は過ぎるから、朝起きるのは無理」
 父の手伝いがなくとも、もともと朝起きて私の弁当を作ったりするのは日課だったのだが、それもできそうにないとか。とんだ大迷惑だが、確かによしひと嬢を夜の博多の街にほったらかしとくわけにはいかないから、送ってやらなきゃならないのは仕方がないことではある。しげにしたところで断れる状況ではないことは分かるのだが、どうも釈然としない。いざとなっても何とかなるって甘えた感覚がよしひと嬢に全くなかったと言えるだろうか、ということである。
 だから酔っ払いは、といつもの私の言い分を繰り返すことになってしまうのだが、「酒に呑まれる」タイプの人間がなぜ酒を飲むのか、これが私にはどうにも理解できないことなのである。言っとくが私だって昔、大学時代にゼミの宴会で酒を飲んで乱れちまったことはある。しかしそれで自分には酒を飲む資格はないと気づいたから、それ以来、一切酒は飲んでないのだ(挨拶代わりに舐める程度はある)。病気になる以前から、私は禁酒してるんである。
 なんかホントに酒飲みの常識は狂ってるよなあと思うのは酒を過剰に摂取すれば中毒症状を起こす薬物と同等のものだという認識に欠けていることだ。飲酒を禁止できないのは、これが既に社会的に廃絶することが不可能なまでに蔓延してしまっているからに過ぎない。ヘタに禁酒した場合、どうなるかはアメリカの「禁酒法」時代、マフィアの暗躍を許してしまった事実が証明している。
 適度に血行をよくする効果があるからいいじゃないかとか、そんな言い訳はちゃんと「適度に」飲んでる人間が言わなきゃ説得力はない。「何かあっても責任取れない自分」を作りあげといてそんな言い訳をするのは、「どうせそうそう事故やトラブルなんて起こさないさ」と高を括っているだけで、自らの卑劣さに気づかないかあえてそれに目をつぶっているかのどっちかである。「責任取れない事態」になったあとで悔やんでも遅いが、そういう過ちを犯している人間がどれだけいることか。世の中に確かに宗教は必要だよなあと思うのは、ここまで「罪人」が蔓延していれば、彼らを全て裁くことなど不可能で、結局は「赦す」しかないからである。別に赦したいなんてそもそも「非飲酒派」の誰も思っちゃいないんだが。
 それにしてもしっかり者だと思っていたよしひと嬢まで酒に呑まれるタイプだとはなあ。そりゃライブが楽しくて浮かれてたんだろうが、明日の仕事のこともまるで考えてないとは呆れた話である。しげと連絡が付かなかったら、どうするつもりだったのだろうか。道端で寝て過ごすか。どっちかっつーと、ウチに泊まってもらって、朝一番の列車で帰ってもらってた方がこちらは助かってたんだがなあ。
 もっとも、その場合、ウチは地震後の片付けがまだ済んでないので、私としげは車で寝なきゃならなくなっていたと思うが、それでもそっちの方がマシなのである。

2004年05月29日(土) 手術決定&女の子の国
2003年05月29日(木) 追い込み日記/アカデミズムな男
2002年05月29日(水) 管理ってそういうことじゃなくてよ/DVD『絶叫屋敷へいらっしゃい!』/『ガンダムエース』7月創刊号ほか
2001年05月29日(火) ヒステリー・ヒストリー/『オサムとタエ 早春残光編』(村野守美)ほか


2005年05月28日(土) おお・それ・みよ!/映画『機動戦士Zガンダム A New Translation 星を継ぐ者』

 アメリカの俳優エディ・アルバートが26日、肺炎のために死去。享年99。
って、えっ? エディ・アルバート、まだ生きてたの? と、そっちの方で驚いてしまった。つか、この人の訃報、私は昔、新聞で見た記憶があったんだけど、私ゃユメでも見てたんだろうか。確かに横顔の写真まで載ってたって記憶してたんだけどなあ。
 映画ファンにはなんといっても『ローマの休日』での陽気なカメラマン、アーヴィング・ラドヴィッチ役が有名で、これでアカデミー助演男優賞にノミネートされたくらいなのだが、それまでは下積みが長く、1953年当時、既に45歳だったのである。映画を見てるとそんなに老けてるようにはまるで見えないんだけど、それが彼の演技力だったんだろうね。経歴を見ると、サーカスの空中ブランコ乗り(!)から始まって、舞台、ラジオで歌手・役者・声優として活躍した後、30歳でようやく映画デビューを果たしている。本名は「エドワード・アルバート・ハインバーガー」と言ったが、ラジオで名前を「エディー・ハンバーガー」と間違って紹介されたことがあって、ラストネームを省いちゃって芸名にしたのだそうな。
 もともと演技に幅があるのは当然だったのだが、軽妙な役から重厚な役まで自由自在に演じられたものだから、かえって重宝がられすぎてどうでもいいような役まで引き受けすぎていた嫌いがあり、50の坂を越えたころから少しずつテレビ出演が多くなり、映画はとんとご無沙汰となってしまった。
 それでも『刑事コロンボ/ホリスター将軍のコレクション』では権威主義の塊のような老将軍、マーティン・ホリスターを堂々と演じてもいた。犯罪の具体的な物証に乏しいなど、ミステリーとしての本作の弱さを指摘する声は結構あるのだが、これはエディ・アルバート自身が第二次大戦中最も激烈な戦闘であったタラワの戦いに参加しており、負傷した味方の救出に尽力した功績がある事実を踏まえてのパロディ作品なのである。彼自身にとってもこの戦闘は思い出したくない過去だったらしく、本作放映当時(1971年)には完全な沈黙を守っていた。そういう経緯があったからこそ、「なぜ将軍は凶器を隠すことができなかったのか」という謎の解決に説得力が生まれていたのである。
 遺作は日本のテレコムも作画で参加しているテレビアニメシリーズ『スパイダーマン』の悪役ヴァルチャーの声優。空飛ぶ科学者・ハゲタカスーツの爺さんである。ホントに何でもやってるんだなあ。65話中、7話に登場しているが、日本で放映されたのはそのうち2話のみ。最終出演作である“Six Forgotten Warriors Chapter 4: The Six Fight Again”の放映が待たれる。……って、エディ・アルバート目当てで首を長くしてる人が日本にどれだけいるかわかんないけど。


 しげはエコ缶さんの芝居の打ち合わせであ朝からおでかけ。
 昨日に引き続き私は歯医者に行って再び消毒。麻酔が切れると悼みがぶりかえすので、まだ抜糸はできない。
 帰りに「バーミヤン」に寄って、台湾フェアの小海老と卵のビーフンを食する。辛くなくて油濃くもなく、適度に美味い。でも台湾フェアなら台湾ちまき〔肉粽 (バーツァン)〕があってほしいとこだけどね。


 昼に待ち合わせて、映画を見に行くつもりだったのだが、しげはどういうわけか家までエコ缶スタッフのぞのっちさんを連れてきていた。てっきり一緒に映画を見るのかと思ったら、「車でぞのっちさんを家まで送ってあげようとしたら、道に迷ってウチまで着いた」とのこと。
 「ぞのっちさんの家ってどこよ」
 「M」
 「ウチと方向全然逆やん!」
 しげはこうしてしょっちゅうリングワンデルングに陥っているのである。……つか、ぞのっちさん送ったあと、帰りの博多駅までの「一本道」をなぜか脇道に入ってまた迷うしよう。
 おかげで、シネ・リーブル博多駅で映画『機動戦士ZガンダムA New Translation星を継ぐ者』を見る……つもりだったのだが、到着したのが開始時間の10分前で、既に午後1時の回は満席であった。仕方なく次の3時の回のチケットを買うが、これも満席ギリギリ。客が来てくれるのは嬉しいが、座れないんじゃなあ。どうしてもっとでかい映画館でやってくれないのか。
 Yahooの映画投票では『ミリオンダラー・ベイビー』に次いで期待度が2位だったのに、劇場側もリサーチが不充分なのである。
 
 今や信じがたい話ではあるが、本放映時の20年前、テレビシリーズ『機動戦士Zガンダム』第1話『黒いガンダム』を見た友人Kは声を上気させてこう言った。
 「見たか? あの作画レベル! トミノ、絶対劇場化そのまま狙ってるぞ!」
 私はと言うと、「女のような名前」と言われただけでいきなり相手に殴りかかる「キレる若者」(もちろん当時そんな言葉はなかった)、カミーユ・ビダンを見て、その雑なキャラクター設定に引いてしまっていたので、正直な所、作画レベルの話などはどうでもよかった。けれど友人Kが興奮するのも一応は納得できて、当時は「あれでも」劇場アニメ並みの作画レベル、と思われていたのである。つか、たいていの劇場アニメの作画レベルが低かったんだけれどもね。
 今、『ヤマト』や『銀河鉄道999』シリーズなどの劇場版を見ても、最近のテレビアニメシリーズ並みの作画にしか見えない。
 当時はアニメの情報は現在よりもはるかに少なく、断片的にしか入っていなかった。しかもようやく入手した情報は、必ずしも嬉しい情報ばかりではなかった。そもそもマトモなアニメファンならみんな、「続編」と聞いただけで、「『ガンダム』まで『ヤマト』化するのか!?」と、苦虫を噛み潰したような顔をしていたものなのだ。つまり、本放映時から、「別にファンは誰も望んではいなかった」企画なのである。それが、「安彦良和はキャラクターデザインのみで、作画には参加しないらしい」とか、「井上瑤も続編には反対していて、セイラさんの出番は殆どないらしい」とか、初めからいやな情報ばかりが相次いでいた。で、現物がアレである。「『ファーストガンダム』(という言葉も当時はなかったが)しか認めない」というファン層が生まれたのもこの頃からなのである。
 賛否両論が渦巻いた『Z』は、結局、当時は劇場アニメにはならなかった。それなりの人気は博したが、第一作に比べればとても一時代を築いたアニメと言える代物にはならなかった。しかも、アムロとシャアを中心に描いてきた一連の『ガンダム・サーガ』は、いったん、劇場版『逆襲のシャア』で終わってしまっている(それでも尻切れトンボの印象は強いが)。更なる続編、小説版『閃光のハサウェイ』はついに映像化さえされなかった。
 その後の数々の続編、他監督による外伝やパラレルワールド的作品群、「リメイクもどき」などなどが生まれては消えていく中では、もはや『Z』の映画化など、誰が予想できただろう(ゲームで『Z』に人気ガ集まってたことなんて、私ゃ想定してなかった)。
 けれど、逆にその「なぜ今」が、『Z劇場版』にかえって新しい魅力を付加しているようにも思う。本放映時の「なぜ?」は多分に「続編なんてやめてくれ」という気分がファンの間を支配していたが、『∀ガンダム』という「黒歴史の封印」を経た後では、「かつての間違った歴史の修正」もありえるのではないか、「今度の『Z』はハッピーエンドです」というトミノ御大の信じられない台詞にも信憑性があるのではないか、『Z』に幻滅した世代にも何かを期待させるものがあったのである。
 実際には私のような本放映時のファンの殆どは、既に「ガンダムシリーズ」自体から遠ざかっていて、今『Z』に熱い眼を向けているファンは『ファースト』も『Z』も、全て「既にあるもの」として享受している若い世代だろう。情報はあるが、「時代の空気」を知らないのはかえって幸せである。なにしろ彼らは、何の心の葛藤もなく、『Z』を『ファースト』の素直な続編として認められているのである。

 劇場は大混雑だったが、お客は明らかに10代、20代に集中していた。男女比は8:2で男が多く、女性もたいていはカップルの片割れである。一人で来ていた女の子もちょっとだけいたようだが、『SEED』流れの腐女子さんだろうか。まさしく「新世代のガンダムファン」たちである。九州で『Z』が劇場公開されてるのは福岡と熊本だけなので、どうも北九州や長崎あたりから遠征して来ている客もいたようだ。
 チラチラ聞こえてくる会話を聞いていると、たいていの観客が『ファースト』も『Z』もテレビシリーズを見た上で来ている。しかしその会話内容は幼稚で、旧作画との落差とか、どのキャラのデザインは気に食わんとか、そんなんばっかである。脚本や映像演出について語っている連中は殆どいない。オレたちが20代のころにはもうちょっと身のある会話してたよなあとは思うが、それも「葛藤のない享受」をしている若い人たちには無関係な旧世代の愚痴に過ぎまい。

 かつての『ファーストガンダム』劇場版三部作はそれぞれ2時間20分ほどの長尺を要した。しかし今回の『Z』第1作は1時間35分。当然、テレビシリーズ14話分のストーリーを全て語ることは不可能なのだが、ではこれがダイジェスト版になっているのかというとそうではないのだ。これは声を大にして言いたいのだが、本作はあくまで富野由悠季監督による「ディレクタ―ズ・カット版」なのである。だから、「テレビシリーズを見てないとわけがわかんないよ」という批評・感想は、全てこの映画の表面をなぞっただけの浅薄で半可通な意見でしかない(『ファースト』は見てないとつらいだろうが、『Z』を見ておく必要はない)。
 一つ例を挙げるなら、主人公であるカミーユの登場シーン、これが映画では一切使われていないのである。カミーユの映画での初登場シーンは既に拘束された後、脱出のシーンからである。あとでジェリドをぶん殴るシーンが回想としてチラッと出て来はするのだが、なぜカミーユがそんな暴力を振るったのかは最後まで全く説明されない。説明不足じゃないか、と憤慨するのはお門違いで、ティターンズの横暴は再三再四描かれているので、カミーユの拘束も、“映画上では”「民間人が何か軍人から横暴なことをされたのだろう」としか見えない。というか、そう見るべきなのである。
 カミーユがシャアを「そんな大人、修正してやる!」と殴るシーンもカットしているので、当然これは「カミーユはシャアを殴らなかった」と解釈すべきなのだ。見事なくらいにカミーユの「いやな部分」がカットされている点だけを取ってみても、本作が「ダイジェスト版ではなくディレクターズ・カット版」になっている所以であるのだ。詳細はもう語ってたらキリがないから省くしかないが、ともかく全編に渡って、あの「陰気アニメ」がこんなに「気持ちのいい」アニメになっているとは、なんとまあ。
 だから、テレビ版との違いをいちいち挙げることは、本作の魅力を挙げる一助になりはしても、本質を描くことにはならない。恐ろしいことに富野由悠季の演出力は、60の坂を超えてまだ進歩しつつある。これも富野御大がこれまでに映像演出の本を何度となく表しているお陰で理解できるのだが、ラストの延々と続くバトルシーン、『逆シャア』でも『F91』でもその演出理論が優れているにも関わらず具体的な映像としては有効に働かせられなかった失敗、簡単に言えば「誰と誰がどの機体でどうやって戦っているか分からない」状態だったのが、本作では実にスムーズに「分かる」のである。
 一つはあの「画面切り取り」の演出がスライド式に変わり、唐突で説明的に見えていたのが軽減されスムーズに見えるようになったことも大きいだろう。単純に見えるが、あれは面白いアイデアではあったが、実は映像の流れをかなり滞らせていた。
 しかし工夫はそれだけでなく、カットからカットへ移行するときのモビルスーツの動線が「見えるようになった」ことが一番の進歩だと思う。
 我々観客は映画をただ漫然と見ているだけなわけではなくて、「この先、このキャラクターはどう動くのか」、その「動線」を予測しつつ見ている。例えばそれは視線の動きも含めてそうで、あるキャラが右を向いたとき、その相手は当然左に位置していなければならないわけで、それは、映像演出の基本中の基本である。テレビサイズの演出と映画サイズの演出では、その「動線」の作り方が違うのだが、最後のバトルシーンを全て新作画にしなければならなかったのは、まさしくこの「動線」の処理のためである。単純に上下の絵を切って、横広にすればいいわけではないのだ。『逆シャア』などはそれをテレビサイズ感覚でやってしまったために、動線が見えず、誰がどう戦っているのかよく分からなくなっていたカットも多かった。それが今回のバトルシーンでは殆ど見られないのである。
 二者の対決だと動線は比較的作りやすいのだが、三者以上になるとなかなかに至難のわざとなる。「シャアの乱入」と言う、そのカットだけは「わざと」動線を無視するが、それ以外、本作では全てこの動線がきちっと計算されているのだ。ロボットアニメの歴史上、これだけ複雑な空中戦を観客を混乱させずに見せてくれた例を私はすぐに思い出すことができない。『マクロス』の「板野サーカス」だって、カメラが追いかけているのは実はバルキリー一機だけだったりするのだ。このラスとバトルの美しさを見るだけでも、本作を見る価値は充分にある。
 でもって、最後はアムロとシャアの再会でパート2に続くのだが、この空中シーンでの夕陽に輝く二人のきらめきぶりは、富野演出初の「萌え」シーンと呼んでいい。空中で殆ど言葉も交わさず見つめあっているだけなのに、二人には確かに心の交流が存在しているのだ。それは第三者であるカミーユを二人の再会の「目撃者」として配置し、「ただならぬもの」として認知させることで「萌え」感覚を観客にも誘導しているのだ。何ちゅー演出をあのトシでなされるかね。「なんか巷では『ガンダム』の名を騙った萌えアニメが幅を利かせてるらしいな。でも俺に「萌えアニメ」を作らせたらこうだぞ!」と叫ぶ御大の雄叫びが聞こえてきそうである。もう刻(とき)が見えちゃってますって(笑)。
 ……しかしオタクも変わったねえ、というのは、字幕が流れだした途端に立ち上がる客がかなりいたことだ。字幕を見ないオタクがオタクと言えるか! それに『�供戮陵醜霾圓世辰討舛磴鵑販�れたんだぞ! サブタイトルが「恋人たち」だと!? もう御大、どこまででも行くつもりだぞ!! やっぱ若いやつに『Z』は渡せんよなあ。
 というわけですんで、今んとこ劇場アニメでは今年No.1な本作をアニメファンならぜひとも見ましょう。で、薄いウンチクを劇場でくっちゃべるな。

2004年05月28日(金) 神経科に行こう!&デジモン新作
2003年05月28日(水) すっ飛ばし日記/耽美かヤオイな女たち
2002年05月28日(火) 素敵なあなた(はあと)/CD『ぼういず伝説』/『コメットさん☆』DVDBOX2ほか
2001年05月28日(月) 才能がないなんて言い訳だ/DVD『チャーリーズ・エンジェル』


2005年05月27日(金) 虫歯が痛いよ/『探偵学園Q』20巻(天樹征丸・さとうふみや)

 この日記、わざと「だである」文と「ですます文」を混ぜて、記録的な意味合いとお客様への語り口調とをないまぜにして書いてるんですが、別に文体の統一ができないわけではありません(笑)。
 日記なんだから、基本的には前者で書くのが普通だと思ってたんですが、ふと世間の日記さんを見渡してみると、語り口調の日記のほうが圧倒的に多い。そうか、みんなそんなに自分の日記を読んでもらいたいのか、とネットにおける「日記」が通常の「日記」とは意味合いが違うことを再確認いたしました(別に悪口じゃないからね)。
 私なんぞは、語り口調を多用しちゃうと、文章がどうしても「落語風味」になっちゃって(「私なんぞ」と書き出しちゃうのが既にそうですね)、いや、お喋りそのものなら早口で一気に言っちゃうから、さほどモタモタした印象にはならなくてすむんですが、書いたものを読んでもらう場合にはただ文章が長くなるばかりですから、鬱陶しいだけだろうなあと、できるだけ避けるようにしてたんですね。それにどんなに「言文一致」を試みたところで、結局、自分のモノホンの喋りと文章とは一致しないんですよ。「語り口調風文章」になるばかりで、どこかね、目の前の相手に語りかけているように見えて、ホンの少し、視線が逸れているというか、宙を泳いでいるようなものになってしまう。「独り語りの傲慢さ」とでも言えばいいような雰囲気が漂ってしまうんですね。「落語口調」というのは実はそれを回避する有効な手段の一つなんですが、二葉亭四迷の『浮雲』なんかを読んでみると、円朝の速記本を参考にしたと言いながら、だからこその「混乱」があちこちに表れてしまっています。まんま落語口調で書いちゃえばいいところを、そこから離れて新たな「語り文体」を開発しようとしたところが急に堅っ苦しくなっちゃって、周囲の文章から浮いちゃって、その「傲慢さ」が目立っちゃってるんですね。エリート崩れはこれだから(笑)。
 日頃の私は、他人の言によればかなりぶっきらぼうで無粋で、更にシニカルで余計なヒトコトが混じるんで、耳障りらしいです。亡母には大竹まことにそっくりと言われてましたが、これは喜んでいいのか悲しむべきなのか(苦笑)。自分じゃ全然似てないと思ってるんですがね。お前の書く文章っていやらしいんだよ、と感じていらっしゃる方も多いとは思いますが、ナマじゃない分、まだ「毒」は薄められてますんで、この程度でごカンベンいただければありがたい限りです。

 でまあ、今日に限ってどうしていきなり語り口調に変えちゃったかと言いますと、冷静に書いちゃうとやたら悲惨な印象になっちゃいそうだったからでして(笑)。
 夕べ、映画の帰りにコンビニに寄ったんですよ。私の場合、糖尿だし結石できやすい体質だし、一日の水分の消費量が結構嵩みますんで、しょっちゅうお茶だの水だの飲んでなきゃなんないんですね。で、帰ってきて早速、がぶっと水を飲んだと。
 そしたらまあ、途端にとんでもない激痛が左顎に走りまして。いやもう、脳天をつんざくくらいのオソロシイ痛みで。要するにムシバの痛みなんですが、これまでもたまにズキッと来たことはあったんですが、それがどうやら神経の深いとこまで達しちゃったらしい。痛んでる箇所がちょうど歯と歯とのスキ間だもんで、どうにも処置の仕様がない。正露丸詰めようにもそこまで届かないわけです。
 どうしたら痛みが治まるかというと、冷たい氷を口に含んで患部に当ててれば、一応は治まる。けれど、氷が溶ければ元の木阿弥です。仕方がないのでどうしたかって言うと、風呂に入って、口の中にシャワーで延々と水を流し続けた。いやホントに「一晩中」です。だって痛くって眠ろうと思っても眠れなかったんですから。その間、しげはずっと寝こいたままです。
 朝になって、私が風呂で一晩過ごしたことに気づいたしげが、「そんなに痛いなら、オレを起こしてくれればよかったのに」と言いました。
 「お前を起こしたら、どうにかなったのかよ?」と聞いたら、「そりゃ何もできないけどね」と言い返されました。だったら起こす意味なんてないってもんです。どうせ本当に起こしたら、「せっかく寝てたのに、どうして起こしたん!」って文句言うに決まってますから(涙)。
 結局今日は、トテモ仕事に出られる状態ではなく、早朝に歯医者に出かけて行って、奥歯を抜いてもらいました。知り合いの歯医者さんで、正直な話、ちょっと藪なんですが、一番近場の病院だったので背に腹は変えられなくて。取ってもらった虫歯は記念にもらいました。こういうの、しげが見るのが好きなんですよ。棄てちゃうと文句言われちゃうんですね。実際に見せたら、「穴が空いてる1」と喜んでました。そりゃ虫歯ですから、穴が空いてるのは当然です。英語では虫歯のことをストレートに“Cavity(穴)”と言いますしね。こういうところもしげは感覚がヘンです。屋根に棄てたってまた生えてくるわけじゃなし、何で取って置かせたがるんですかねえ。

 朝になってようやく眠ることができたので、夜まで爆睡しました。ですから今日書くことは本当はほとんどありません。日記の更新もとてもできる状態ではありませんでした。一度更新が滞ると、あとが続かなくなるのでそれは避けたかったのですが、いかんともしがたい運命に苛まれることはあるものです。
 日頃ちゃんと歯は磨いてたのか? と言われそうですが、もともと乱杭歯なんで、どんなに丹念に磨いても、子供のころからしょっちゅう虫歯にはなってたんですよ。以前の治療からかなり時間が経ってたとこなんで、今回は結構、持った方です。


 金曜エンタテインメント特別企画『空中ブランコ とんでも精神科医伊良部一郎登場』。
 奥田英朗の直木賞受賞作のドラマ化、ということで、放送前から結構リキの入った宣伝がされたんじゃなかろうか。いつもより放送前の予告編CMも多かったような印象である。……でも実は私、この原作読んだことなかった、というか、存在自体知らなかった(苦笑)。
 調べてみたら、この『空中ブランコ』って、サブタイトルにある通り、いい加減で自分勝手でドデブな精神科医が、なぜか患者を次々に治療できてしまうという「とんでも精神科医・伊良部一郎」シリーズの第二弾で、既に『ヤングチャンピオン』でコミック化はされているわ、一作目の『イン・ザ・プール』も『シティボーイズ・ライブ』や『トリビアの泉』の三木聡監督によって映画化されているわと大人気で、こりゃもう知らなかったこっちのほうがモノシラズなのであった。
 主人公の伊良部一郎の外見的なイメージは原作とは全く違うようだが、主演の阿部寛、ヒゲヅラでなんとなく不潔っぽいメイク、長身なのを猫背になって胡散臭い雰囲気を出し、若干ひきつけたような低い声で笑い、たまに何かに取り憑かれたように目を剥いたりもする、これじゃ患者より本人の方が精神的にどこかおかしいんじゃないかと感じさせる演技は、『トリック』の上田次郎をほとんどそのまま踏襲している。だから新鮮味がないと言えばないのだが、阿部寛ファンにはこれで充分だろうと思われる。原作ファンが怒るかどうかは知らないが。
 ストーリーは、原作の短編集からいくつかセレクトしたものを一本にまとめたもののようで、突然ジャンプが成功しなくなって“不眠”で悩む空中ブランコのフライヤー・山下公平(堺雅人)、尖端恐怖症のヤクザ・猪野誠司(遠藤憲一)、誇大妄想で自意識過剰なモデル・安川広美(佐藤仁美)の三人を伊良部が「同時治療」していく。まあ、そのまとめ方はまずくはないがうまくもないといったところ。脚本の橋本裕志はテレビアニメの脚本も多いが、原作付きアニメの「引き伸ばし」を長年やってると、こういう「可もなく不可もなく」な脚本しか書けなくなる。いや、そうなっちゃった時点でこれはやはり「不可」だろう。原作じゃ多分3人の間には何の関わりもなかったと思われるが、それを中途半端に絡ませているから、ドラマの焦点がぼやけてしまっているのだ。かといってこれを深く絡ませようと思ったら、オリジナルな展開をかなり増やさなきゃならなくなるから2時間ワクじゃまず収まらない。もともと2時間ドラマよりも連ドラ向きの企画なのである。
 確かに「面白くなりそうな」要素は多々あって、カウンセリングでやってきたのに、伊良部の治療はいつもビタミン注射だけとか、患者の男の子のお母さん(未亡人)にアタックしたりとか、いったい治療のためなのか単に自分がやりたいだけなのか、「空中ブランコ」を特訓し始めたりとか(原作にもある設定だったら、デブなだけにすごい迫力だろうなあ)、これがミステリーならドーヴァー警部や吉田茂警部補、大貫警部も裸足で逃げ出すほどの傍若無人ぶりだ。けれどその個性が今一つ際立って感じられないのは、要するにドラマ作り自体が全体的に薄っぺらで絵空事めいてしまっているせいだと言えよう。こういうトンガッたキャラクターを魅力的に描くためには、たとえ周囲の人間が心を病んでいてもそれをリアルに描かなきゃならない。堺雅人はまだそうでもないが、遠藤憲一や佐藤仁美の演技はちょっと過剰で切実感がない。そもそも脚本や演出の段階で「ドラマにし損なっている」シーンが多々あって、例えば佐藤仁美が鏡を見て自分の美しさに見惚れるシーンなど、ここにキラリーン、なんてエフェクトをかけちゃうものだから台無しなんである。妄想を全て映像化すりゃいいってもんじゃない。こんな効果を入れられたら、佐藤仁美はただの馬鹿ってことになっちゃって、視聴者が同情できなくなるじゃないか。監督に「これは病気の人を扱っているのだ」という自覚がないせいでこんな事態が起きるのだ。監督の村上正典、映画の『電車男』も監督してるそうだけど、ちょっと見に行く不安材料が増えちゃったなあ。
 「伊良部一郎シリーズ」が金曜エンタテインメント枠で今後も続くのなら、脚本や演出をもうちょっと考えてもらった方がいいと思うが、テレビの予算じゃそれは無理かな。意外によかったのは、看護師・マユミ役の釈由美子で、色気たっぷり子ちゃんなのだが、トンデモキャラクターばかりの中で、多分この子が状況を一番冷静に把握しているのである。なぜなら、周囲の右往左往をただ見ているだけで何もしない(笑)。まああれだね、『チキチキマシン猛レース』のケンケンの位置にいるキャラか。台詞もほとんどないのだが、ないからこそまたいいのだ。


 マンガ、天樹征丸原作・さとうふみや漫画『探偵学園Q』20巻(講談社)。
 どうやらそろそろ最終章が近い雰囲気なので(終わったら金田一少年を再開するつもりなんだろうな)、まああまり貶すようなことも控えようと思うが、今回収録の特別番外編『盟探偵ケルベロス編』にも類似の先行トリックを使った小説があることは指摘しとかなきゃならないし、ケルベロス自身が「稚拙なトリック」と言った通り、あんな方法じゃ証拠隠滅はできないよ。相変わらず最後のどんでん返しが「こんなことなら殺すんじゃなかった」って「犯人の勘違い」で終わるのも興醒め。
 本編の方は団先生が倒れて、天草流が復讐鬼への道をたどるのかどうかというところでサスペンスを盛り上げようとしているけれども、少年マンガで一方のヒーローを本気で悪の道に走らせるわけにゃいかないわな。どこかで引き返すか、催眠効果で自分の犯罪に気が付かずにいたから無罪ってことになるか、実は初めから祖父のキング・ハデスに対抗するつもりでいて罪は犯さずにどんでん返しで終わるとか、天樹・佐藤コンビはもうこれまでありふれた展開しか描いてこなかったから、こんな陳腐な展開予想しか浮かばない。で、多分どれかで当たってるんだよ、きっと。
 それはそれとして、“冥王星”キング・ハデスの本名が「国王星彦」ってネーミングセンス、何とかならんのか。

2004年05月27日(木) 「義理」もまあ、ありがたいけど。
2003年05月27日(火) すっ飛ばし日記/メジャーかマイナーな男たち
2002年05月27日(月) また仕事休みました。/『コメットさん☆』DVDBOX/『ああっ女神さまっ』24巻(藤島康介)
2001年05月27日(日) 今度の芝居のキーワードは「裸」です/『ヨイコ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか


2005年05月26日(木) チェーン店も消える/映画『バタフライ・エフェクト』

 2、3ヶ月に一回くらいの割合で食事していた「一番カルビ」の諸岡店、今月いっぱいで閉店が決まったそうで、20%割引の案内が来ていた。
 街が様変わりしていくのは時代の変遷というやつで致し方がないことではある。近所を見回してみても、私が子供のころから親しんでいた店だの食堂で、今も残って営業中、なんてところは数えるほどしかない。「代替わり」というものが現代ではほぼありえないことになってしまっているので、「老舗」の店なども一代で立ち消えていくしかない。かく言う我が家も、不肖の息子が床屋を継がなかったために、曲がりなりにも髪結床の昔から続いてきていた床屋の家系(母方)がついに途絶えてしまった(親に詳しく聞いたことはないが、江戸の昔から少なくとも三代か四代かは続いていたのである)。しかし今や床屋という職業自体が法改正により絶滅してしまっているので(現代の理容師は昔の床屋とは別物で、剃刀を砥ぐ技術もない)、私が継いだところで焼け石に水、どうにもならなかったのが現実であろう。
 それやこれやの「商店街」の存続が危ぶまれている原因は、一昔前ならスーパーマーケットやらショッピングモール、チェーン店といった巨大資本の進出のせいにされていたものだったが、気がついてみたら、そんな巨大資本も、一時の乱立状態から緊縮整理の方向に進んでいる。しげが以前勤めていた空港通りの「モスバーガー」、ここも最近潰れてしまっていたが、一見順調そうに見えていた焼肉業界も、実情はなかなか厳しいものがあったのだろう。「一番カルビ」が開店したのは数年前だったと思うが、撤退があまりにも早い。同じ筑紫通りに「ウエスト」もあれば「焼肉のさかい」もあるので、結局は淘汰されたということである。だいたい、福岡には焼肉屋ばかり多すぎるのである。
 せっかくの割引券を無駄にするのももったいないので、仕事帰りに待ち合わせて「一番カルビ」に。「たらふくセット」とかいうのを頼むが、鶏肉とホルモンを焼いているうちに、ロースにカルビは全てしげに食われた。いつもは自分ばかり高い肉を食ってちゃ悪いかと、5枚に1枚くらいは私にも譲ってくれるのだが、今日は全くなし。よっぽど肉に飢えていたのだろう。もちろん、しげは毎日肉に飢えているので、さして不思議はないのだが、ちょっとばかり心が落ち着いていないのかもしれない。


 ダイヤモンドシティ福岡ルクルで、映画『バタフライ・エフェクト』(注意・ラストのネタバレあり)。
 タイトルは例の「カオス理論」による「バタフライ効果」のことで、北京だったかブラジルだったかで蝶が羽ばたくと、アメリカで嵐が起きることだってある、という「風が吹けば桶屋が儲かる」式の考え方を示したもの。
 要するに「何がきっかけで運命が変わるか分からない」ということで、それを時間SFと絡めたところがミソと言えばミソである。
 主人公の大学生・エヴァン(アシュトン・カッチャー)は、少年のころ、心神喪失状態に陥り、記憶をなくしてしまう癖があった。今ではごく普通の生活を送っていたエヴァンだったが、七歳のころからつけていた日記を発見して、失われた記憶を取り戻そうとかつての友人たちに会おうとする。
 精神病院に隔離されていた父の死に、自分は何か関係していたのか? 初恋の相手・ケイリー(エイミー・スマート)と地下室でビデオ映画を撮ったとき、何が起こったのか? イタズラで郵便箱に仕掛けたダイナマイトは爆発したのかしなかったのか? エヴァンを眼の敵にしていたケイリーの兄・トミー(ウィリアム・リー・スコット)は、エヴァンの犬を本当に焼き殺したのか? 故郷の町を去ったエヴァンは、ケイリーに「君を迎えに来る」と約束していながら、それらの謎を放置したまま13年を過ごしてきていたのだった。
当時のことを聞き出そうと、友人のレニー(エルデン・ヘンソン)を訪ねたエヴァンだったが、彼はもうずっと心を閉ざして家に引きこもったままだった。エヴァンは思い余って、ケイリーに再会したが、それが彼女を精神的に追い詰め、自殺に追い込んでしまう。そのショックが、エヴァンに「過去を変えたい」という強い思いを抱かせることになった。日記を凝視するエヴァン。その眼に映る日記の文字がぐらぐらと揺らぎ始める……。
 結局、「過去を変える」という時間SFの定番ネタなんだが、その手の作品をたくさん読んだり見たりしてきた人には「今更」感が強いだろう。それに、小説と違って映画だから詳しい説明が省かれてしまうのは仕方がないのかもしれないが、タイム・パラドックスの問題があまり深く考えられていないのが気になってしまう。
 エヴァンは過去を変え損なっては再び時間軸を遡るのだが、一本目の時間軸と次の時間軸が同じものなのかそうでないのか、そこが判然としていない。普通に考えれば“過去が変わってしまっている”のだからそれぞれの時間軸はあくまで別のもので、たとえエヴァンが過去を変えたつもりになっていても、それは本人が枝分かれした別の時間軸に飛び込んだだけのこと、「過去を変えることができた」とエヴァンが思っているのはただの自己満足に過ぎないのである。もともとの時間軸では、ケイリーはあくまで死んだままだ。だからそんなことに気づきもしないであっちこっちの世界を行ったり来たりしているエヴァンは底抜けの馬鹿にしか見えない。主人公に感情移入ができないから、全編、不快感が続くばかりでちっとも面白く見られないのである。
 パンフレットではSF作家の梶尾真治氏が本作に影響を与えたと思しい先行作品を挙げているが、殆どラストシーンの演出がそっくりそのままな、アノ時を駆けちゃう日本映画を挙げないのはどうしてなのかなあ、と思っていたのだが、どうやら梶尾さんが見た本作と、実際に公開された映画とはラストが違っているらしいのだ。
 これは二者を比較しなきゃなんないからもうあえてネタバレしちゃいますけど、劇場公開版はエヴァンがケイリーと出会うこと自体を回避して運命を変えて終わるのに対して、ディレクターズ・カット版はどうも創世記にまで遡っちゃうみたいなんですね。そこまでせにゃあ、運命は変えられんものだったのかとちょっとオドロキだけれども、無難でありふれた終わり方しちゃった公開版よりも、そっちのほうがトンデモでかえって面白かったかもしれない。テレビ放送するときはぜひ、オリジナル版のほうを放送してもらいたいものである。

2004年05月26日(水) 不安なことばかり。
2003年05月26日(月) すっ飛ばし日記/宍戸錠な男
2002年05月26日(日) マクド&マクド/『濃爆おたく先生』2巻(徳光康之)/『韃靼タイフーン』4巻(安彦良和)ほか
2001年05月26日(土) 恐怖! ウワバミ女の逆襲(完全版)/『人造人間キカイダーTRIBUTE』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)