無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年03月28日(月) 気持ち悪い話(笑)/『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』(稲葉振一郎)

 しげの病状、さらに悪化。
 ともかく「気持ち悪い」を繰り返すばかりで、食事も喉に通らない。ともかく医者に行くように言い置いて、今日は職場へはタクシーで。
しげは結局、病院で点滴を打ってもらったようである。これまでさして健康面では特に悪いところのなかったしげだが、検査の結果では肝機能が悪くなっていたそうだ。
 しげも酒は全くやらないので、これはもう「肉」のせいだろう。これで「肉しか食わない」生活がどれだけ体によくないかいくらバカなしげでも理解したとは思うが、でもだからといって抑制が利くような性格ではない。つか、我慢がストレスに直結するもんで、食わないでいれば食わないで心と体のバランスを崩すのである。……どうしようもないじゃん。
 食事も喉に通らないので、しげはウィダーインゼリーでの食事。私は自分でスパゲティを作ったら、「油の匂いが気持ち悪い」と言われた。そこまで油使ってないのに、かなりひどい状況なのである。


 夜、NHK『BSアニメ夜話』「新世紀エヴァンゲリオン」。
 冒頭で「10年経ったら冷静に討論できるのではないか」という視聴者からのメールが紹介されていたが、滝本竜彦を呼んだ時点でそりゃ無理だったんじゃないか(苦笑)。編集でかなり“見られる”レベルにしてはいたが、かなり会場の雰囲気は重かったのではないかと想像される。
 『エヴァ』にどっぷりハマッてしまって、心ここにあらずになってしまった人というのは、私もホモオタさんという実例を身近に知っているので、滝本さんの言動を見ていると、なんだか暗い気分になる。一歩間違ったら自分もああなりかねないと思うと、ああいうのめりこみ型、思い込み型の人を笑い飛ばせないんだわ。岡田斗司夫さんも唐沢俊一さんも、実にしゃべりにくそうであった。
 肝心の論争も、説明のための説明に堕している部分が多々あって、例えば「『エヴァ』は『文学』でありまた『エンタテインメント』であり」といった言葉の使い方についてはかなり乱暴で、文学研究者から見ればあまりに無知な言に聞こえてしまうと思われる。じゃあ『文学』って言葉をどう定義してるんだよ、と突っ込まれかねないのだが、これは視聴者のレベルを想定しての故意の用語なんだろうね。視聴者をバカにしているようだが、まあホントにバカなのでこれは仕方がないのである。結局ここでは、「文学」とは「なんか難しいことを作者が内省してるもの」、「エンタテインメント」とは「お客さんを喜ばせるもの」と、単純に作り手のベクトルが内外のどっちに向いてるかという点でのみ解釈すればよいようになっているのだが、本来「アニメで文学をやるというのはどういうことなのか」まで、もうちょっと突っ込んでしゃべってくれないと、あまり意味のある話にはならないのである。
 宮村優子の「気持ち悪い」エピソードは前にも雑誌で読んだことはあるが、より詳しくて楽しかった。いや、よくぞ放送したものである。すごいぞNHK。


 稲葉振一郎『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』。
 「どうせ藤原のことだからこれは買って読んでるだろう」という声がどこかから聞こえてきそうだが、そりゃ買うよ。買わいでか。
 いやね、最近読んだ本の感想、全然書いてないから(だから書き出したら止まらないのである)、これも書くのどうしようか迷ったんだけれど、やっぱりSFファンにはビッグ・ネームである長谷川裕一が、一般のマンガファンには今ひとつ知られていない、というのが悲しくて仕方がないからだ。
 長谷川裕一が「スペース・オペラ」「タイム・トラベル」といったSFの古典的モチーフを大河ロマンとして描いて来た唯一無二のマンガ家である、という作者の主張には、「ほかにもいなかったかな?」と思いはするが、長谷川裕一のマンガ作品がどのように生み出されてきたか、そのルーツとなる文化背景としてのSF作品、それこそ海外日本を問わず、小説、映画、マンガの歴史をたどりつつ詳述していく姿勢は好ましい。文化を無視した単独の作品論、作家論というものはただの個人的感想にしかならないからである。
 『スター・ウォーズ』が『スペース・オペラ』と言いつつも、実は宇宙を舞台にした御伽噺でしかなくなっていることはもはや明確な事実であるが、長谷川裕一の『マップス』は「寓話」となる寸前で「SF」として成立していると作者は主張する。そんなのどっちでもいいじゃないか、という反論はあろうが、その違いは、長谷川裕一マンガの魅力はSF性にこそあり、と信じている読者にとっては重要だろう。「神とは何か」というSFのテーマをただの「寓話」として終わらせるか、科学的可能性としての「未来」として受け取るかは、そのベクトルが全く違う。
 種々雑多な宇宙人が登場する銀河世界など、現在ではほとんど荒唐無稽な域の物語であるし、私は別に「寓話」でかまわんと思う。人間であれビメイダー(人工生命)であれ、自意識(心)を持った存在が、そのアイデンティティーを「心があること」に求めるというのは、循環論法であり、証明不能な「コギト・エルゴ・スム」の哲学の課題でしかない。しかし、現代では「SF」は「寓話」としてしか語りえないのではないか。科学もまた本質的には哲学であり神学の範疇にあるのであろう、というのが私の現在のSF観である。
 もちろん私は稲葉氏の論が間違っていると言いたいわけではなく、長谷川裕一作品が、「SFマンガ」を考察したい人のための格好のテキストである、という作者の基本的姿勢は多くの人に共感を持って受け止めてもらいたいと思うのである。

 本の内容からちょっと離れて、これは私の推理、というよりは勝手な憶測なのだが、石森章太郎が『サイボーグ009』を完結できなかったのは、長谷川裕一の存在があったからではないか、と想像しているのである。長谷川さんの『マップス』が連載されたのは『SFアニメディア』(後に『コミックNORA』と改題)の創刊号からだが、これには『009』最後の長編「時空間漂流民編」も同時連載されていた。
最初、編集部は、『009』完結編「神々との戦い編」の連載を依頼したという。それに対して石森さんは「まだ準備が整っていない」と断ったという。ではなぜ、「漂流民編」が終了した後、完結編に着手しなかったのか。『NORA』は長いこと「時空漂流民編」の権利を他社に渡さなかったし、当然その「席」を用意していたはずなのだが、結局、完結編は描かれることはなかった。
 これは、同誌に連載されていた『マップス』を石森さんが読んで、「しまった! 先を越された!」と思ったんじゃないかというのが、私の憶測なのである。
 「神々とは何か? 地球上に残るさまざまな不可解な遺跡、ピラミッドやモアイ像などなどの探索から人類発祥の謎を追い求め、その果てに『創造者』としての“神”とサイボーグ戦士たちが対峙する」というのが「神々との戦い編」の基本ラインになるはずだったことは今ではよく知られている。
 しかしそれは、「宇宙に残る伝承を辿って、この宇宙発祥の謎を追い求め、その果てに創造主たる“神”と対峙する」という『マップス』のストーリーラインとそっくりなのである。しかもスケールは長谷川さんのほうがはるかに大きい。結局は「専守防衛」で内へこもって終わりそうな『009』に対し、『マップス』は銀河障壁を越えようという、外へ外へと広がっていく物語だった。
 「009」をライフワークと任じ、自身の最高傑作であるのみならず、日本SFマンガの最高峰にしたいと望んでいたと思しい石森さんにとって、『マップス』ショックは相当なものだったのではないかと思う。『マップス』を超える作品を描かなければならない。しかしそのプレッシャーがどれだけ大きいものか、これは『マップス』を読まれた方ならばすぐにご理解いただけると思うのだが、日本におけるスペース冒険ファンタジー作品としては、『マップス』を超える作品は空前絶後なのである。最高傑作を超える最高傑作なんて、いくら石森章太郎でも無理というものである。
 石森さんは悩んで悩んで、結局、描けなかった。膨大なメモだけは残っているようだが、完結を約束された息子さんたちも、それを「傑作として」纏め上げることは不可能なのではないかと思う。残念なことではあるけれど。

 関係ないけど巻末の「長谷川裕一作品リスト」、『ハイスピード・ジェシー』が載ってないなあ。ああ、あれは双子の弟さんの「長谷川裕二」さんの作品だったか(笑)。

2004年03月28日(日) 夢の中では生きられない。
2003年03月28日(金) メモ日記��
2001年03月28日(水) 悪役NO.1/映画『隠密剣士』/『名探偵コナン 科学トリックBOOK』ほか


2005年03月27日(日) オウムが来りて……何をする?/ドラマ『巷説百物語 孤者異(こわい)』

 今んとこ一回も見逃してないぞ、の『仮面ライダー響鬼』九之巻「蠢く邪心」。
今回の妖怪(魔化魍)は「オオアリ」。ムシ系は一話で土蜘蛛が出てきてたからインパクトが薄いなあ、こいつでまた二話連続の話だったら間延びしちゃうなあ、と思っていたら、ヒビキにあっという間に倒されてしまった。
 あれれ? と思っていたら、メインの妖怪は,イブキが遭遇する別のやつなのであった。姑獲鳥(うぶめ)か大首か、これまでの「猛士」のデータでは判断がつかない(どうやら「おとろし」らしい。予告編を見る限りデザインはでかいサイだが)新妖怪。レギュラーが増えて、そろそろ新展開が必要じゃないかと思っていたところだったのだが、設定も構成も少しずつ複雑になってきている。
 その反面、明日夢がなかなか猛士V魔化魍のメインストーリーに絡んでこないのが気になる。いや、常識的に考えればただの高校生をそんな危険な運命に巻き込んでいくことは極力避けるのが普通なのだが、それじゃドラマにならないから(笑)。でも昭和ライダーシリーズの少年ライダー隊みたいになっちゃっても困るし。ここは明日夢がとんなふうにヒビキの弟子になっていくか、その展開を見ていきたいところである。多少の葛藤はあっても、多分そうなると思うんだけどな。
 知ってる人はもう多いと思うが、明日夢君を演じている栩原楽人(とちはららくと)くん、島本和彦原作の映画『逆境ナイン』にもライト山下役で出演している。映画は多分つまらないと思うが、藤岡弘、と楽人くん目当てで、オタク諸君は見に行くように。全国ロードショーは七月からだ! 福岡じゃ「シネリーブル」での公開だからいつになるかわかんないんだけどなっ(涙)。


 町内会の総会があって、来年からうちが組長の当番が来るというので出席。収支決算だのなんだの、こういうのは退屈なだけなんで、居眠りしないかと心配していたのだが(実際、殆ど退屈なのだが)、会長さんが“あること”を口にして、いきなり眠気がすっ飛んだ。
 「昨年から、オウムの道場が町内にできておりますが……」
 もちろんこの「オウム」というのは「オウム真理教(アーレフに改称)」の支部のことである。10年前の事件当時は博多駅前にあったのが、その宇土枝クー気裏に引っ越したまでの情報は聞き知っていたが、まさか自分とこの町内に来てたとは。
 会長さんの提案は、来年を期して町内からの退去を求める委員会を設立したらどうか、ということだったのだが、10年前ならばともかく、旧オウム真理教の罪を認め、ひたすら謝罪と賠償を行っている現在ではかなり難しいのではないか。
あえて他人事のように言っちゃうけれど、オウム真理教が麻原彰光の「ポア」の宗教概念に則って、再び無差別大量殺人を行う危険性があるかどうか、それは年々低下してきていると考えざるを得ないのではないか。もちろん、だからと言って、住民の不安が解消されるわけではない。未だに地下鉄サリン事件の実行犯の一部が逃走中である以上、在野の信者が彼らをかくまっていないと断定することはできない。しかしやはりそういった「不安」も、結局は漠然としたものだとして、今後犯罪を犯すという確たる証拠とは認められないのではないか、ということなのである。
 私も正直な話、今はオウムよりも地震のほうが怖い。いや、未だにややヒステリックな感じで、オウムをいかにせん、とコブシ振り上げ力説する会長さんのほうが怖い。まあ仕事だから町内会の連絡とかはするけれども、あまりこういう人のいる総会とかには出たくないもんである。


 帰宅して昼寝をしたら、変な夢を見た。しげが自分の日記にも書いていたが、「生きた雪ウサギ」を飼っている夢である。
 ウサギは二羽いて、名前はジャニスとケン。生きてはいるのだが、この二羽、雪ウサギだから動かない。でも生きてる限りは自分の見てないところでは動いてるんではないかと思って、ちょっと離れたところにジャニスを置いていたら、いつのまにかいなくなってしまった。「ジャニスー、ジャニスー」と声を掛けて探していたら目が覚めたという、特に面白くもない夢だった。
 けれどもどうやら、寝ぼけて夢の様子をうわごとで実況中継していたらしく、それがおかしかったのでしげは日記に書いたらしい。相変わらず意味不明な文章になっているので、注釈をしておきます。



 WOWOWドラマ『巷説百物語 孤者異(こわい)』。
 以前、『巷説』を『京極夏彦 怪』と題して四話ドラマ化したのもWOWOWだったけれども、そのときとはスタッフ、キャストを一新している。監督は酒井信行から堤幸彦へ、小股潜りの又市は田辺誠一から渡部篤郎へ、山猫廻しのおぎんは遠山景織子から小池栄子へ、考物の百介は佐野四郎から吹越満へ、事触れの治平は谷啓から大杉漣に交代。ストーリーも前作とのつながりはなく、百介は今回の事件で初めて又市たちと出会う設定になっている。
 意外に気が付かれていないようだが、『巷説』シリーズは立派な「本格探偵小説」である。不可解な謎は提示されているし、それを解き明かすためのヒント、伏線はちゃんとあるし、それが論理的に解かれもする。
 印象としては闇を扱いながらも華やかな印象のあった前シリーズに比べて、かなり暗く渋めのキャスティングになっていると思う。だからと言ってつまんなくなったかというとそうではなく、ミステリーとしてのツボはやや外しはいるものの、キャラクターの魅力がドラマのうねりは充分作っていると言えるだろう。
 又市については、最初の田辺誠一はあまりにさわやか過ぎて、「小股潜り」の名にふさわしくない印象だった。アニメ版は又市本人が妖怪であるかのようなキャラクターデザインで、面白くはあるけれども完全に原作とは別物になってしまっている。映画『嗤う伊右衛門』の香川照之は薄汚れた小悪党の雰囲気でかなりイメージに近い。渡部篤郎もかなり「胡散臭く」てよいのだが、もう一つ「軽み」があればもっとよかったと思う。だいたい悪党というものは、どこかにふざけたところがないと辛気臭くなってしまうものだからだ。アウトローで世をすねちゃいるけれども、どこか底抜けな明るさがあって、それでいて全く逆の闇もまた背負っていて……なかなかに微妙な演技力を要するのである。一昔前なら、こういう役どころは砂塚秀夫やジェリー藤尾あたりが受け持っていたものだったが、最近ではなかなか適役な俳優さんを探すのが難しい。竹中直人ならソツなくこなしそうだけれど、何でもかんでも竹中さん、というのもどうか。今回の渡部さんはこれまでの演技の流れでそのまま流した印象があって、やや物足りない。できればもう二、三回は又市を演じさせて、役を深めてもらえたらと思う。
 大杉漣の治平には文句なし。キャストを聞いたときに一番不安だったのが百介とおぎんだったのだが、意外や意外、この二人の「距離感」が実にいい具合なのである。
 ラストシーン、二人の間の「敷居」を示すおぎんに対して、それを乗り越えることができずに黙りこくる百介。おぎんは何事もなかったように去るが、そんな彼女に又市は「忘れ物は?」と問いかける。おぎんは笑って「いけすかねえやつだよ」と笑う。このときの小池栄子の表情がいい。何か一つ吹っ切れたような、それでいて切ないものを少しばかり残しているような、幼いようで艶っぽいような、不思議な微笑である。遠山景織子のおぎんも素敵ではあったが、原作のイメージには小池栄子のほうが近いのではないか。
 堤幸彦作品は『ケイゾク』がまあマシだった程度で、正直な話、これまでは惨憺たる出来のものが多かったのだが、それは主に脚本の粗雑さによるものだろう。今回もとても江戸時代人とは思えないような台詞は多々あったが(同心が「過去形で言うなっ!」なんて近代文法の知識があるのはいくらなんでもちょっとなあ)、一応、ドラマとしての密度は高い脚本を与えられて、初めて時代劇を演出したにもかかわらず、あまり破綻のない出来栄えに仕立てている。それなりに「粋な」脚本なら、その実力を充分に発揮できるのだろう。


 しげ、体調崩したまま。風邪引いた上に薬が合わなくて「気持ち悪い」を繰り返す。どうにかしてあげようにもどうしようもないので、明日は病院に行くように言明するくらいしかできないのである。

2004年03月27日(土) 作りゃいいってもんじゃない映画だってある。
2003年03月27日(木) メモ日記��
2001年03月27日(火) 今日も伏字、明日も伏字/『トランジスタにヴィーナス』2巻(竹本泉)ほか


2005年03月26日(土) パーセントの疑問/舞台中継『ロミオとジュリエット』(蜷川幸雄演出版)

 遅く起きた朝は『ケロロ軍曹』第51話「ケロロ小隊 撤退!さらばペコポンよであります」。
 いかにも最終回っぽいタイトルだけれど、土曜朝10時の時間帯での放送が今週で終わりってことで、来週からは金曜夕方6時のゴールデンタイムに移行するのである。つまりそれだけケロロ人気が沸騰してるってことなんだろうけれど、人気番組でも時間帯が動くと急激に視聴率低下、ということもよくあることなので、宣伝にはいっそう力を入れてほしいものだ。
 ただねえ、原作にもあったこの「さよならだけどさよならじゃなかった」パターン、もうこれまでのマンガ、アニメで腐るほど見せられてきてはいるので、せっかく30分一話で丸々見せようっていうんだから、もう少し工夫してほしかったと思うのである。ただのお子様向けアニメにならそんな期待は持たないんだけれど、パターンを踏襲しつつもそこに新しい一手を投じてきた佐藤順一監督作品だからね。
かつて関わりのあった人たちとの記憶も消去、というパターンも「またかよ」だけれど、単に使い古されているネタだからだってだけじゃなくて、地球征服をしようとしてる宇宙人がいちいち記憶消去をしなきゃならない意味なんてない。原作の段階からこれ「ムリだよなあ」と思ってたんで、いっそのこと省いちゃってもよかったんじゃないか。
 あと小ネタで、最初に出てきたケロロ上司は、『ウルトラセブン』最終回一話前第48話「史上最大の侵略(前編)」のセブン上司のパロ。40代にはオタクでなくても常識のこういう説明も、若い人には必要になるのである。やれやれ。姿はぼやけているけれど、つまりこの上司、ケロロと同じ姿をしているのね。と考えると、これが「決戦!ケロロ小隊24時」の「新ケロロ軍曹」の伏線になってるのかも? いや、そもそも「隊長としての資質を持っている=ケロロの姿」と考えることもできるわけで、ケロロ自体が上司の、あるいはそのまた上司の……なんて考えると、「SFだなあ」と思ってニヤリとしたくなる。
 あ、それから今更だけど、原作の第50回小学館漫画賞児童向け部門受賞は嬉しかった。某社の漫画賞と違って、小学館は他社作品でも気前よく賞をくれるところが素晴らしいと思うのである。

 CSテレ朝チャンネルで『クレヨンしんちゃん』一挙放送。まったりしてたころのしんちゃんもいいなあ。


 実はまだ名称が確定していなくて、それが問題視されている「福岡県西方沖地震(仮称)」のニュース、新聞でもネットでもめぼしい情報はかなり減ってきていて、もう「山は越えた」という情報もあるのだが、その一方で、「マグニチュード7程度の地震が発生する確率が、これまでは今後30年間で0.4%だったのが、7%に上がった」という情報も流れている。
 と言っても、こんなふうに数字で表されたところで、これが確率的にどの程度の「起こりやすさ」を意味しているのか、私のようなシロウトにはよく分からない。降水確率の「50%」が、「降る確率が半々」という意味でないことはよく知られているし、10%なら傘を用意しておけというのは常識みたいなものだ。その伝で行くなら、この7%という数字も「かなりの確立で怒る」という意味に解釈しなければならないのではないか。けれどそういった具体的な説明は全くないのである。
 世の中、物事をやたらパーセントで表したがる人は多いが、これってシロウトに対しては、実は殆ど意味がないんじゃないかと私は思っている。たとえば30年で7%の発生率というのなら、428年中には100%地震が起こるということになるのか。そうではないだろう。だからこういう数字を出すときにはそれが「どういうことを表しているのか」を具体的に説明してくれるのでなければ、単に不安をあおることにしかならないのである。
 実際に山を越えたはずの余震、昨日も今日も治まる様子が見えない。ちょっとゆらっと来たな、と思ったら、しょっちゅうテレビにテロップが流れる。庶民にとっては地震は明日来るかもしれないし千年来ないかもしれない、それくらいの大きな振幅の確率でしか認識できない、不確定な出来事なのである。科学とやらが本当に進歩してるっていうのなら、無意味なパーセントなんか出してないで、もっと納得のできる予測を出してはいただけないものかね。


 しげが、「カトウが日記でわけのわからないことを書いてるんだけど、なんだか誰かに怒ってるみたい。オレにケンカ売ってるのかなあ?」と言う。
何のことだ、と件の日記を読んでみると、なるほど、わけの分からないことが書いてある。

 >以下、人格を疑われそうな文章を延々書き連ねてしまったので自ら削除。
 >公開の日記で書くようなことじゃないや。○○は絶対○○してるくせにしてないと言うからむかつくーとかそういうの。ほんと、ママンの腹の中からやり直した方がいいと思うぜ?そして一般道徳と正しい○○を身に着けてきたほうがいい。マジオススメ。

 内容をぼかしているからよく分からないというより、文脈が適当だから意味不明の文章になってしまっているのである。日記なんて勢いで書くものだから、誰しもそうなっちゃう部分があるのは仕方のないことではあるのだが、加藤君の場合、それがしょっちゅうなので、真面目に解読しようとすると、いささか苦労する。いっそのことしげのように、単語だけが羅列されてるような文章だったら、最初から解読不能なので諦めもするのだが、下手に意味のある文章が散見しているので、何のこっちゃいなとつい解読したくなってしまうのだ。
 誰かに怒ってるとも読めるが、自分に向かって「私は非常識だ」と言ってるようにも読めるところが難しい。仮にしげに対して怒ってるんだとしても、「そういうの」の指す内容が何か非常識なことなのか具体的に書かれていないから、結局は本人に伝わっていないのである。それじゃ意味ねえなあと思うが、伝えたいとは特に考えてもいないのかもしれない。
 これまでの加藤君の文章を読んでる限り、自分のことを棚に上げて些細な揚げ足取りをするという島本和彦的な芸風で書いてるところがあるし、「人格を疑われる」と書いてるところからも、「つまんないことで腹を立てている軟弱な小心者」をあえて演出しているように見える。それ自体は別に問題はないのだけれど、ただ、やりすぎちゃうと、以前、下村嬢の件で起こしたような舌禍事件を招くことにもなりかねない。あのとき加藤君は、こじれた話を収拾しようとしてかえって火に油を注ぐような失敗をやらかしていた。そういうおバカなところも、若気の至りでかわいらしくはあるのだが、かといって誉められる類のものでもない。
 加藤君、あれからそれほど時間が経ってるわけでもないから、そのこと考えてホドホドにしとくようにね。相手は下村嬢よりももっと面倒くさいしげだから。
 実際、しげは、こういう「遠まわしな当てこすり」をされると、気になって仕方がなくなる性格だ。「確かによく分からんなあ。でもどうせたいしたことじゃないだろうし、別にほっときゃいいんじゃない?」と言ったのだが、なんだかいつまでもイライラして落ち着かない。面倒くさいので、「よく分かんないなら、本人に『アレどういう意味?』って直接聞いてみりゃいいじゃん」と言ったら、鬱陶しそうに「メール送るとカトウはくどくて長いのくれるんだよ」と言う。説明はしてほしいが、くどいのはいやだって、そりゃ自分勝手ってものだろう。もっとも、日記で公開されてるものに対しては、自分も日記で対抗するのがスジ、と考えているようで、それはそれで納得できることではあるが。
 結局しげは、自分の日記に「誰に怒ってんの? もしもボクなら買うわよん! 違うならスルーして。」と書きこんだ。ケンカを売ってるくせに「スルーして」と「逃げ道」を用意しているところが、腰が引けててまるで花紀京か池乃めだかである。バトルやろうってのを止めようとはサラサラ思っちゃいないけど、行き当たりばったりで、建設的な論争に発展させようって予見がないなら、あまり要らんことはしないように。時間の無駄だ。


 WOWOWで舞台中継『ロミオとジュリエット』。
 ロミオは藤原竜也、ジュリエットは鈴木杏、演出が蜷川幸雄という、実に意欲的かつHOT(死語)なキャスト・スタッフによる「ロミジュリ」である。福岡公演もチケットがあっという間に完売してしまい、私もプレオーダーの抽選に外れてしまって、ナマで見損なってしまっていた。
 蜷川さんの舞台にはほぼハズレがない。演劇誌に辛辣な批評が寄せられることもあるが、それは全て「蜷川幸雄にしては低調」という、期待ほどではなかったというレベルに留まっている。つまりは常に水準以上の作品だけを作り上げてきたということだ。しかし蜷川さんの凄さは、その舞台が常に「異端」であり、既成の舞台に対して「挑戦的」であるというその事実だ。
 古典であるシェイクスピアを現代の、しかも日本で、観客にリアルに感情移入させるというのはそう簡単ではない。シェイクスピアにはもちろん現代に通じるテーマ、普遍的な要素は当然あるのだけれども、それを「翻訳」や「言葉」が阻害している面がないわけではない。
 つまり、「ロミジュリ」で言えば、「おお、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」なんて台詞を、観客を笑わせられずに役者に言わせられるものなのか。爆笑とまではいかなくても、苦笑してしまうのではないか。
蜷川さんの演出は革新的であったと思う。どうしても笑っちゃうようなシーンならば、いっそのこと笑わせてしまえばいいのである。
 舞台は世界各国の人々の顔写真が何十枚と貼り付けられ、よく見ると三段に区切られてそれぞれが場面場面での舞台となる。バルコニーのシーンはもちろん最上段をバルコニーと見立ててジュリエットはそこに、ロミオは平舞台でジュリエットを見上げるという構図になる。最初は。
 舞台装置を簡略化し、「見立て」のみで演じることは決して珍しいことではないが、シェイクスピアでそれをやることは一歩間違えればただの手抜きに見えてしまうことがある。先日見た『R&J』は、見立てたい実が殆どない凡庸な舞台に終わっていた。ところが藤原竜也と鈴木杏のそれは、この舞台を最大限利用したと言っていい。舞台を“作りこんでいない”ために、自由自在に二のは走り回り、段を駆け上りよじ登り飛び降り、躍動するのだ。まさに初恋に有頂天になり傍若無人なほどに。これが客席に「爆笑」を生む。前述の「ロミオ、ロミオ」の台詞などは切ない語らいではなく感情の破裂である。それを聞いた瞬間のロミオの身もだえ。つまりこの二人、もう完全な「バカップル」として描かれているのである。
 なるほど確かにあの二人、本質的にはそうだよなあ。これもまた「バカには勝てない」物語なのである。面白い。


 昨日の夜八時くらいから寝ていたのだが、起きたのが今日の夜の八時。しげ、新記録樹立の24時間睡眠。睡眠薬変えたせいか? でも「気分悪い」を連発していたから、あまり合ってないのかもしれない。

2004年03月26日(金) トシの変わり目の大掃除。
2003年03月26日(水) メモ日記��
2001年03月26日(月) アカデミーよりラズベリー/『幽霊暗殺者』(赤川次郎)/ほか


2005年03月25日(金) 愛知万博開幕/映画『カナリア』

 愛知万博(愛・地球博)が、今日から開幕。
 でもニュースはと言えば、テレビも新聞も、ライブドアVSフジテレビにソフトバンク・インベストメント(SBI)が参戦した話題とか、サッカー・ワールドカップの日本・イラン戦のほうをメインに報道している印象で、万博関連については今ひとつ影が薄い。
 まあ、35年ぶりの万博とは言っても、その間に沖縄海洋博とかつくば科学博とか「ミニ万博」はいくらでもあったわけで、正直な話、地域振興に利用しようってだけが目的の、中身の薄い博覧会には日本人は飽き飽きしてると思うのである(福岡の「よかトピア」とか「北九州博」を知ってる人が全国的にどれだけいるのか)。メインの展示が「冷凍マンモス」と言うのも弱い。大阪万博の「月の石」は「未来」の象徴だったけれども、「マンモス」じゃベクトルは過去に向いちゃってるもの。ロボットたちのダンスも今更そう珍しくもない。何より、今回は大阪万博の「太陽の塔」に匹敵するような象徴的なモニュメントがない。あの塔がもしなかったら、大阪万博の印象は180度違ったものになっていただろう。岡本太郎がいかに偉大であったかと言うのは、見た目は何なんだかよく分からない塔一つが切り取った空間が、万博会場すべての空間の「意味」を支配し、「何かよく分からないがとてつもなくすごいことが行われているのだ」という期待と驚愕とを我々に与えてくれたからだ。そういう「期待と驚愕」が、今回の愛知万博にどれだけあるか。
 一つの時代を共有する感覚というものがなければ、たとえ同時代に、同じ国に生き、同じ言葉を話していても、人と人との心は離れる。人間は所詮は主観でしかものを判断理解できないものではあるが、それでも多数の主観に共通項を見出すことができればそれは客観と呼ばれる。簡単に言えば、人がコンサートや芝居やイベントやスポーツの観戦にわざわざ足を運ぶのは、単に対象をナマで見たい、じかに触れたいと考えているからだけではない。そこにいる人々との「空気」の共有、一体感を求めるからである。「あのころはこういう時代だった」と誰もが同じように語れる共通概念がほしいのである。それは本質的に孤独である人間の精神が欲求する本能のようなものだと言っていい。
 しかしながら、戦後の“個人主義”の歴史の中で、我々日本人はそのような「共通概念」を徐々に見失っていくことになる。テレビの人気番組の視聴率が40%、50%を記録し、年末の紅白歌合戦に至っては80%を越えるという、「君もあなたも日本人」的な時代は過ぎ去った。せいぜい東京オリンピック、大阪万博の時代くらいまで、すなわち高度経済成長の時代くらいまでが、おおむね日本人が「同じ方向を目指していた」と言える時期ではなかったろうか。
 別に、過去を懐かしんでいるわけではない。一度細分化してしまったものを再び統合することなど困難極まりないことだし、またそうする意義もないと思う。個人の意志の意図的な統合は、全体主義を生みかねないからだ。しかし、バラバラになってしまったもの同士が、自らの個人主義を貫き存在意義を尊重すると同様に、他者の価値も理解し許容することができずに、それぞれに屹立しているだけ、という状態はやはり一つの不幸なのではないか。そういう現状だからこそ、「文化による国際交流」を図る万博の存在意義は確実にある、と言いたいのだが。
 私は代理戦争としてのスポーツに熱狂している人々を見ながら、その「闘争を無批判に許容する無自覚な態度」に対して常々苛立たしさを覚えている。「スポーツによる国際交流」なんて不可能なことは、各国のサポーターの「敵憎し」の態度を見れば明らかである。しかし、闘争本能をどこかで発散せねばならないのが人間の業であり、勝利による擬似支配もまた、孤独からのやむを得ざる脱却であることは、私も理解しないではないのだ。ただ、それが力道山対シャープ兄弟のプロレス中継を映し出す街頭テレビに人々が群がったころとたいしてかわりばえもしない未成熟な精神に基づく熱情であり、決して誉められた類のものではないこと、本来ニュースとは何をメインに報道すべきものなのか、マスコミがそれを見失ってしまっていることを、認識くらいはしてほしいと思うのである。
 予想していた通り、初日の客の出足も関係者の期待数には届かなかったようだ。会期中の半年の間には何とか大赤字にはならない程度に繁盛してほしいんだけど。


 ライブドアと言えば、中島みゆきやタモリ、倉本聰が、もしもニッポン放送がライブドアによる経営に乗り出した場合、出演を拒否する、と答申していたそうな。まあ歌手やタレントの世界だって「義理」のしがらみに支配されちゃいるんだいるんだろうから、それ自体はしょうがないかなあと思うんだが、これまでそんな「義理」とは縁のない言動を繰り返してきてた人が今更ニッポン放送に義理立てするってのもなんだか解せない。
 中島みゆきがずっと『紅白』出演拒否をしていたのは、紅白という存在と、自分の歌手活動との間に乗り越えられないほどの乖離があると感じていたからではなかったのか。ニッポン放送の経営者が変わったら、局のアイデンティティ、放送内容のカラーそのものが変わってしまうのだという確証でもあるのか。なんかそのへんに“ウラ”がありそうで、出演拒否した人たちのナマの声が聞きたいものなのだが、こういう場合、たいてい当事者は沈黙しちゃうんだよね。それがかえって“癒着”を連想させる胡散臭さを醸し出す結果になるんだけど、ホントのとこはどうなんでしょうかね。 


 午前中で、転勤のための残務整理はほぼ終了。
ということは、来週は一応出勤はするけれども、仕事は全くないということになる。本でも読んで暮らしてればいいわけで、これだけ体が空くのは今の職について初めてである。いや、これまでにも転勤は何度もあったんだけれど、転勤する直前まで引継ぎやら何やらで立て込むことが多かったんでねえ。

 午後から有給を取って、しげと買い物。
 とりあえず食事を「すき家」で。
 いつものようにメニューを凝視しながら、しげは「いかに肉をたくさん食えるか」と、牛丼の大盛りを注文しようか並盛りにしようか、目をキョトキョトさせている。肉はたくさん食べたいが、ご飯は少なめで充分なので、どちらにしようか迷っているのだ。さらに本音を言うなら、「豚丼」と「牛丼」の両方とも食べたいのである。でも豚丼と牛丼を両方食べれば当然食べ過ぎになる。口には出さないが、そんなことで悩んでいるのは一目瞭然であった。
 「……なあ、ミニ牛丼頼んで、豚皿頼んだら?」と言った途端、しげの顔がぱあっと輝いた。思わず「アンタ頭がいいね!」なんて言うのだが、そこまで肉が食えることが嬉しいのか。この日記もかなり長いこと書き続けているが、食事の話題になるといつも必ず「肉」「肉」「肉」である。もっと細やかな味を表現できるような、しっとりとしたようなまったりとしたような、要するに何が言いたいんだよ、ワケ分からん、と腹立たしくなるような食通ぶって気取ったいけ好かない文章も書いてみたいのだが、そういう機会はしげと一緒にいる限り、まず訪れそうにない。


 博多駅に回って、「紀伊国屋書店」で、吾妻ひでおの『失踪日記』を探すが、品切れ状態。ここんとこ何件も本屋を回って探してるんだけれども、一冊も見当たらない。既に初刷は売り切って二刷かかってるらしいが、それだけ売れてると言うよりは初刷の部数が少なかったのだろう(涙)。『ミステリーズ』9号や「SFジャパン」春号を入手する。
 「SFジャパン」は版型を単行本サイズに縮小されての新発行。今回は「SF大賞」特集で、受賞は押井守監督作のアニメ映画『イノセンス』。もっとも、選考評を読むと、たいていの選考委員が本作の完成度には不満があり、これまでの押井作品をひっくるめての「功労賞」としての意味合いで受賞を決定したとのことである。そういう受賞のさせ方についてはどうかと思いはするが、確かにSF界が押井守に対してきちんとした評価をしてこなかった点については大いに不明を恥じるべきであろう。一般的な判断に基づくならば『軌道警察パトレイバー』や『攻殻機動隊』のときに、私個人としては『うる星やつら』『御先祖様万々歳』の時点で大賞をとっていもおかしくないと思われるからである。だから、受賞自体はファンとして嬉しい。
 けれど選考委員の選評を読むだにつくづく、SFに対する見方の格差は人によって天と地ほどもあるなあと思う。「全体的に低調」「全体的に高水準」と、全く感想が逆だったりするが、どちらかが間違っているのではなく、SFについて「拠って立つ地点」が違うだけなのだ。「昔、SFというジャンルがあった」という表現も一時はやりはしたが、曲がりなりにも『SFジャパン』の刊行が続いている現状、「SF冬の時代」は過ぎて、ほんの少し春めいては来ていると思う。福井晴敏が“大”ブームを起こすくらいの勢いを示してくれればこれはもうハッキリ「春だ」と言えると思うんだれどもね。

 「メトロ書店」にも立ち寄るが、そこにも『失踪日記』はなし。入手するにはもうしばらくかかりそうである。
 横山光輝の『狼の星座』2巻を見かけて、ふと帯を見ると「1、2巻発売中」と書いてある。あれ? 2巻が出ていたのに気がつかなかったのかな? と思って、付近を探してみたがやはり2巻は見当たらない。不審に思って、店員さんに聞いてみたところ、「不適切な表現があったので、回収されました」とのこと。
 ああ、またか、と嘆いたのは私だけではあるまい。何がどう引っかかったのかは分からないが、新刊ならまだしも、かつて流通したものを再刊行しようとした途端に問題視すると言うのはそれこそ「歴史の改竄」ではないのか。しかも、この事実、新聞も雑誌も現時点では殆どのニュースが扱っていない。わずかにネット上の個人の日記などに紹介されているくらいだ。つまり明らかに「緘口令」が敷かれているのである。
 もう本作を読んだのは何十年も昔であるので、内容も細部は忘れてしまっている。どこがどう引っかかったのはよく分からないが、多分中国人に対する差別的な表現とか、そんなのであろう。しかし、そういう差別と戦う男の話なのであるから、そういう言葉が出てくるのは自然、というよりも「出さなければならないもの」である。でなければ差別がどれだけ悲惨か、その実態が分からない。それが差別のばらまきになるではないかとの主張は当たらない。だったら学校や会社で必ず同和教育とか人権学習なんてのをやってるのはどうなるのか。どんな言葉もバカにかかれば差別的に使用される。バカを想定して表現を自粛することは、結局バカを温存することにしかならないではないか。日本人はこんなバカの跳梁を許す歴史をいつまで続けていくつもりなのか。
 『狼の星座』2巻は表記を変えて再発売されるそうである。封印されなかっただけマシとは言えるが、こうなると私が持っていたオリジナル版『狼の星座』を紛失してしまったのは、返す返すも悔やみきれないことである。


 いつのまにか博多駅のゲームセンターの横に新しくできていた「A−ZONE」を覗いた後(覗いたただけですよ。コスプレやフィギュアには興味ないんで)、「シネリーブル博多駅」で、映画『カナリア』を見る。

 テロ事件を起こしたカルト教団「ニルヴァーナ」から保護された少年・岩瀬光一(石田法嗣)。初めは関西の児童相談所で妹の朝子(味野和明日架)と一緒にいたのだが、反抗的な態度が消えず、祖父の隆司(品川徹)から引き取りを拒否される。朝子を奪われた光一は、相談所を脱走し、とある廃校で運動靴とドライバーを手に入れ、妹を取り返すために祖父のいる東京に向かって走り始める。
 途中、光一は、ある男(池内万作)に手錠を掛けられ、危うい目に遭いかけていた少女・新名由希(谷村美月)を偶然助ける。光一を「ニルヴァーナの子」と見抜いた由希は、「恩返し」と称して光一とともに東京に向かって旅をすることを提案する……。

 「ニルヴァーナ」はもちろん「オウム真理教」をモデルとしているが、10年前日本中を震撼させたこの事件、若い人でもまだ記憶に残っていると思う。オタク的には、富野由悠季が彼らを「自分の子供たち」だと認識してショックを受け、長い間作品を作れなくなってしまったその原因として有名かもしれない(その程度のもんかいと否定しきれないのがオタクの怖いところである)。
 「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」自体は殆ど描写されない。塩田明彦監督の意図は、教団崩壊後も未だに「ニルヴァーナの子」であり続ける少年を通じて、「オウムとは何だったのか」を問うよりももっと普遍的に、「他者によって規定されている自分」から「自分自身が決定する自分の価値」を発見していくことを描こうとしたのだろうと思う。ただ、そうなると、別にオウムを題材にしなくてもいいじゃないか、という感じの作品になってしまうことは否めない。実際、物語の骨格は山中恒の児童文学『ぼくがぼくであること』にそっくりだ。
 ならばいっそのこと中途半端に「ニルヴァーナ」での生活の日々など描写せず、少年がとらわれている過去がどんなものかは暗示だけで済ませてしまったほうが映画としてはより効果的だったと思う。『黄泉がえり』のときもそうだったが、塩田監督、説明的な描写が多すぎてくどいのである。ラストの「これからどうするの?」「生きてく」という台詞の陳腐さはどうだろう。修行シーンやラストシーンをカットして、多少意味不明なところが出てきても全てを「象徴」として描いたほうが、ずっと面白い出来になったと思う。
 しかし、こういう「僕って何?」的な話ってホント増えたね。こういうのは本来は「物語以前」のネタで、思春期の少年にしか通用しない、オトナが今更見るような話じゃないんだが、同様のネタである『エヴァンゲリオン』や『もののけ姫』に大人まで殺到している現実は、それだけオトナと称する人々も実は未成熟だということなのだろう。そういう現象を確認する映画としては面白いけど、こういう「芸術以前」の三島由紀夫的な鬱陶しい映画はしげの好みには合わなかったらしく、見終わった後、すごく疲れ果てていた。
 世の中には地獄を見てきた子供なんていくらでもいるわけで、「オウムの子」だった事実なんて、たいしたことないよなあと見えちゃうのである。


 帰宅して、サッカーなんか見ずに、『3年B組金八先生 最終回スペシャル』を見る。桜中学のモデルになった学校も廃校になるし、脚本家の小山内美江子さんもシリーズ中盤で病気降板してしまったし、これがホントにホントの最終回になるのかもと思って見てみたただけで、いかに「史上最悪のB組」を演出し、覚醒剤ネタまで持ち込んでも、最後がご都合主義の感動で締めくくってしまうのはドラマである以上は仕方がない。
 この二十年、『金八』シリーズをどうしても好きになれなかったのは、金八が一見悩んでいるように見えて、実はまったく悩んでいないからである。結局はそれもドラマに結末つけなきゃならないためには金八に「答え」を語らせる必然から生まれた番組そのものが持っている矛盾であり、だから今回の最終回も、金八は決して教師を辞めないだろうと予測がついてしまうのである。どんなに悲惨な題材を持ってきても、所詮は予定調和、全然現実感がないんだわ。
 古いドラマだけれど、加山雄三の『高校教師』のほうがヒロインの生徒が事故死するわ、加山雄三は教師を辞めるわ、現実感がありましたわ。

2004年03月25日(木) 英語はニュアンスで読む。
2003年03月25日(火) メモ日記��
2001年03月25日(日) ハカセ登場!/『カムナガラ』1・2巻(やまむらはじめ)ほか


2005年03月24日(木) 残務整理の日々/『チキンパーティー』2巻(金田一蓮十郎)

 朝から季節はずれの雪。つまりは「名残り雪」だけれども、あの歌もやっぱり3月を想定してるんだろうな。「東京で見る雪はこれが最後ねと」って言ってるが、つまり、「夢破れて恋にも破れて田舎に帰る」って情景なんだろう。歌詞だけ聴くと、どうにもセンチメンタルで気恥ずかしいくらいなんだが、十代二十代のころは、何であんなに一生懸命になつて歌ってたんだろう。まあやっぱ20代というのはどうしたって自分に酔っちゃう年頃なのであろう。


 今日は一日、職場で転勤の準備。
予定されていた会議も出なくていいということなので、不必要な書類などを整理する。机の奥に例のホモオタさんから職場に届いた手紙を仕舞い込んでいたのを見つけて、ああ、とため息をつく。つい何ヶ月か前に職場に届いたものが二通、どちらもワープロで「貴様のような変態の盗人の既知外は仕事を辞めろ」というもの。最初にホモオタさんに出会ったのが私が20代初めのころで、もう20年近く昔だ。よくもまあ、フラレた恨みを未だに持続させてるもんだと思うけど、やっぱそういうエネルギーを別んとこに注ぐことができてたら、道はいろいろ開けたと思うんだけれどもねえ。だからホモがノーマルに惚れるなってば。「同類は分かる」のがホモなんじゃないのか。
 今の支社に転勤してきたときも、ホモオタさんは「今度転勤してきた藤原ってやつは、変態の盗人の既知外ですよ」と中傷のメールを社員の全員に送りまくっていた。今度の私の転勤を知ったら、また同じことをやらかすことは見当がつく。何やってももうホモオタさんの正体は知れ渡っているから、私が本当に変態だなんて疑われることはなくて(多少マゾっけはあるかもしれんが)、ホモオタさんがハガキ代を損するだけなのだが、もうイカレてしまったアタマでは、自分の置かれている状況もまるで分からなくなってしまっているのであろう。
 実は日記を書いていなかった時期に、上司に勧められて、福岡法務局に相談に行ったことがある。けれど担当者は、「そんな様子なら、勧告しても効力はないでしょうねえ」と、つまりは「既知外は取り締まれない」という、これまで警察や弁護士に相談した時に聞かされてきた返事を繰り返しただけであった。2ちゃんねるの差別落書きを取り締まれないのと同様である。どうせそんなことだろうなと見当はついていたので、特に落胆もしなかったが、「だいたい、あなたのところの上司や、その人の上司は何をやってるんですか」と言われたのには苦笑した。何もやらないし何もできないから、警察に行け、法務局に行けとこちらばかりを動かしているのである。
 ホモだからと言ってオタクだからと言って既知外だからと言って、それが即、その人が世に害なす人間だということにはならない。しかし、ホモだったりオタクだったり既知外だったりする人間がストーカーに走れば、世間はああ、ホモだからオタクだから既知外だからストーカーになるのね、と短絡的に考える。そういう誤解を招きたくはないから、あまりホモオタさんのことは日記に書いてこなかったのだが、やっぱりそういう存在が「ああいう職業に就いていて放置されている」という現実があるってことも、もっと世間は知ってた方がいいと思うのである。……婉曲なモノイイで申し訳ないが、私の職業知ってる人にはご理解いただけますでしょう。


 午後、またちょっと余震。感じとしては震度2くらいか。
 ……って、後でニュース見たらホントに震度2であった。連日の地震のおかげで、だいたい今のが震度いくつくらいなのか分かるようになってしまっている。いやな後遺症だ。
 ニュースでは「山を越えた」とか言ってるが、感覚的には有感地震の回数はいっかな減っていない。しげはうちで大丈夫かなあ、でも鈍感なしげのことだから、どうせまたメールを送っても「地震? いつ?」とか言い出すかもなあと思って、今度は控えていたら、しげのほうからメールがあった。
 寝室で寝ていたら、地震で積み重ねていた本がまた落ちてきて、耳を直撃したそうである。それがまた、押井守・藤原カムイの『犬狼伝説』豪華版ボックス。こないだ『大漢和辞典』に埋もれて苦しんだくせに、何でそんなかさばるものを枕元に積み上げておいたかな。記憶力も学習能力もないやつは同じ失敗をいつまでも繰り返すものであるが、こんなに早く同じ落とし穴にはまるというのは、いくらなんでもバカ過ぎないか。


 トンガリさん関係の資料もまとめて、私の後任の同僚に手渡す。
 その際、これまでトンガリさんのしてきた横領のこととか、それをいろいろ補填して結果的には横領にならないように私が四苦八苦してきたこととか、伝えるべきかどうか迷ったが、結局は全部事細かに伝えた。
 と言うのが、その件について上司に相談したときに、こっそりと「実は転勤がなければ、来年も藤原さんにトンガリさんの担当をしてもらおうと思ってたんですよ」と教えてもらったからである。これまで私の進言を散々無視し、トンガリさんの暴走を放ったらかしにしておきながら、その私に泥をかぶれというつもりなのか、とさすがに腹が立ったので、もう後任の同僚には事情を全部知っておいてもらったほうがよかろう、と判断したのである。
 トンガリさんの代わりにしていた仕事、この一年間だけでファイルにした資料が5、6冊分にはなっていたのだが、それを何とか圧縮して2冊にまとめて説明する。説明しながら、自分でも「こんな大量の仕事を、オレ、真面目にやってたんだなあ。自分のでもないのになあ」と苦笑する。見返してみて、驚くくらいに手を抜いていないのである。オレってもっと、スチャラカでスーダラな社員じゃなかったのか。無責任な社会に対しては個人の無責任で対抗するしかないというのがモットーじゃなかったのか、と心の中で自問自答してみるが、考えてみれば問題社員を放置して転勤してしまう点では私もやっぱり無責任なのである。
 でももともとトンガリさんに対して責任持たなきゃならない義理なんてないんだからな。あとは野となれ山となれである。


 マンガ、金田一蓮十郎『チキンパーティー』2巻。
 他人事に首を突っ込みまくり、お節介なくせに役立たずでかえって事態を悪化させてしまうことも多いのに、ウルトラハイパーなポジティブシンキングで自分がどれだけメイワクな存在か自覚できない「トリさん」。いったんは開発者の「野村さん」に処分されかけたけれども、ヒロインの「毬央」の涙のとりなしで、本人(鳥)の気が付かないうちに命が助かる。もちろん後で毬央は死ぬほど後悔するのであるが(笑)。
 このトリさん、相手の事情を思いやってるようで実は自分の中の正義感に浸っているだけで、まるでいつぞやのイラクの人質三馬鹿大将みたいなやつで、もしも実際に傍にいられでもしたら鬱陶しくて堪らないだろうが、これがそのセリフのうざったさに相反して、それほど憎めないのである。たとえば「毒舌OL姉妹」の本音トークを聞いて、いつもなら説教垂れに怒鳴り込むところが躊躇してしまうあたりに、「ああ、つまりこいつは『青春の夢』に酔ってるんだなあ」と微笑ましく感じてしまうからである(もっとも、次の回ではついにキレて説教垂れてボコにされてしまうのだが)。みなさんの傍にもこんな感じの「余計なお世話焼き」がいるかもしれないが、こういう人たちが「世の中まちがっとる」と言いながら、報われもしないのに真面目に働いているからこそ、世の中が成り立ってもいるのである。あまり邪険にしないように哀れんであげていただきたい。「トリさん」も働いてはいないが、「ボランティア」は大好きなようである。……なんかホントに三馬鹿そっくりだな。
 それはそれとして、作品中でも「毒舌」と言われちゃってるこのOL姉妹であるが、でも会話の内容聞くと、そんなに毒があるとも思えないんだけどなあ。彼氏が彼女に妙に優しくして「荷物持ってあげるよ」なんて言うのを見て、「何を演出してんだろって思うよね。男って面白い」なんて、切れるほどのものかな? 別に普通の反応だと思うんだが。「優しい人が好き」とは、女の子に聞いた「アンケート」では常に上位にランクされる「いい男の条件」なのだが、この手のアンケートの回答がいかに当てにならないか、現実に「優しい男」というのはたいてい女性から見たらキモイのである(かと言って冷たい男が持てるわけでもないので誤解しないように)。マンガの中でも「何か一つ『これが好き』って言うと、次からそればかりプレゼントされる」となじられているが、これって、子供がいつまでも同じ嗜好だと思い込んでいる親と同じ感覚なのだね。つまり、「プレゼントされた経験」が、親との間でしかないから、その感覚で彼女にも同じプレゼントばかりしてしまうのだ。つか、精神的には子供のまんまなのである。彼女からうざったがられるのも当然と言えよう。
 「トリさん」は「夢がない」と嘆くが、実際、女性に過大な幻想を持ち過ぎてる男って多いんだよ。それって逆に女性を鋳型にはめて「モノ」扱いしてるのと同じなんで、自分は楽しいかもしれないが女性にとってはメイワク千万でしかない。夢を見たい気持ちは分かるけどさあ、求めても求められないものを追いかけたってしゃあないんだからさ、ホドホドにしとこうよと、ガストの「+e」で「完全女脳」と診断されてしまった私は思うのであった。


 地震からこっち、ずっと寝付けなくて、この四日の平均睡眠時間は一時間半ほど。
 さすがに疲れが溜まっていたのだろう、寝る前に日記を書こうと思ったが力が出ずに失神するように眠る。けど熟睡はできずに夜中に起きてしまい、テレビでタイトル忘れたが稲垣五郎がホストの番組で、青木さやかが「『僕のこと好き?』なんて聞く男は嫌い」なんて言ってるのを聞いて、うんうん、と頷いたりする。あの鬱陶しいキャラを嫌いな男性(あるいは女性)も多かろうとは思うが、女性はたいてい青木さやか的な要素を持っているものである(同姓から嫌われるのは同属嫌悪だろうね。自分の恥部見せられてるようで嫌になるのだろう)。
 これもまあ、女性に幻想を抱いている男性諸君にお伝えしておきたいことだが、女性はみんな青木さやかである。女性と付き合いたいと思えば、青木さやかと付き合うのだと思って覚悟しなければならない。それが嫌なら、いつかどこかで、自分を待ってくれてる眠れるプリンセスがいるのだと、見果てぬ夢を抱いたまま棺桶に入るしかない。
 その番組で佐藤江梨子が「最近、男に振られた」話をしていたが、こういう男くらい身の程知らずな者はあるまい。サトエリ振ったって、どうせ最後に捕まえる女は青木さやかのクローンなのだから、サトエリの中に自分の好きな部分を見つけだしゃいいのである。なんかホント、何様のつもりって男、増えたね。


 加藤君から、27日に予定していた劇団の会合、参加者が少なくて中止との連絡がメールで。
 私も急遽マンションの会合が入ってしまったので、残念ながら不参加となってしまったのだが、人数が少なくても会いたきゃ会えばよかろうに、何で中止にまでするのか、よう分からん。つか、生活時間帯の違う人間が多いんだから、全員揃ってなんてのはまず無理というものだ。何か話したいことがあるなら、たとえ二、三人でも集まれるときに集まったほうがいいと思うんだが。
 加藤君、スケジュールのきつい其ノ他君やらぶきっつあんに日にちを提案してもらったら、なんてことを書いてるものだから、そりゃ無理だろう、という内容の返事を送る。スケジュールがきついということは、全然、体が開かない場合もあるということにも繋がるわけで、下手をすればいつまで経っても会合が開けないということにもなりかねない。「自分の体が空かないせいで話が進まない」なんて事態になったとしたら、二人に責任やらプレッシャーやらを押し付けちゃうことになる。だから加藤君には「候補日を複数立てて、その中で一番人が集まれる日を選んだら?」と提案したのだが、すぐに返ってきた返事が、「それだと候補日も全部体を空けてなきゃならないから、かえってきつくないですか?」というものだった。
 いやはや、前々から加藤君は「いい人」だなあ、とは思っていたが、これには全く驚いた。会社の忘年会や大学のサークルの新歓コンパで、「いつがいい?」と希望日を募ることはよくあることだが、自分の希望日以外の日に決まって参加できなくなったからといって、いちいち恨みに思ってなどいられない。出られりゃよかった、出られなかったら申し訳ないで終わりである。それを、みんなのために決定日以外の日も体を空けておこう、なんて考えの持ち主に会ったのは初めてだ。いくら「いい人」と言っても、そりゃいくらなんでも気の使いすぎというものではなかろうか。例えば、彼女から「この日は都合が悪いから、別のこの日に会おうね」と言われて、「うん。でも念のため、君の都合の悪い日も体を空けとくよ」なんて答えるようなものである。気持ちは分からんでもないが、過ぎたるは及ばざるが如しである。こういうのって、逆に「何でそこまでするの?」と彼女にプレッシャーを与えていることにならんか。まあ、よっぽど心の広い女の子でない限り、たいていは引いちゃうと思う。
 あんまり悩むなと返事を送ったけれど、C−1君といい、加藤君といい、うちの劇団に集まる男どもって、なんでこう一歩余計なとこまで踏み出すかね。

2004年03月24日(水) せめて会議には出てよ。
2003年03月24日(月) メモ日記��
2001年03月24日(土) 女の子が好き!/アニメ『フリクリ』6巻/『低俗霊DAYDREAM』1巻(奥瀬サキ・目黒三太)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)