無責任賛歌
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| 2004年06月01日(火) |
まだ眼が痛いのよ(+_;)。 |
今日は仕事を休んで、退院3ヶ月後の再指導に、入院先の病院まで行く。 検査結果は、血糖値は108、ヘモグロビンA1Cは5.9、正常人と変わりない。中性脂肪も基準値の範囲内で、主治医の先生からも看護師、栄養師さんからも、「よく頑張りましたね」と誉められる。これなら、薬を一つ、減らしてもいいのではないか、とのこと。 自分でも体調が徐々によくなってきているなあと感じられるのは、張り合いが出るものである。ここんとこ、雨と仕事のせいで運動ができなくて、腹がまたちょっと出たなあということまで自覚できるので、節制しないといけないなあ、というのが具体的にわかるのだ。次回の再指導は10月の予定だけれど、そのときまでに、なんとか70キロ代前半までは体重を落としておきたいもんである。
眼科に回るまでに時間が空いていたので、しげと少し買い物。病院の近くのデパートの中に、ミッフィグッズの店があって、そこに無理矢理連れて行かれる。 以前、キャナルシティにあったミッフィグッズの店が今年の頭に潰れてしまったので、しげはかなりショックを受けていて(ポイントカードが全てパアになってしまったのだ)、その当時は泣きの涙であった。福岡市内でもミッフィの専門店は数えるほどしかないので、ここを先途と、ええブツはないかと目を皿のようにして棚から棚へと移動している。でもって、物欲しげにあのグッズ、このグッズを手に取ってはこちらをチラチラと見るのである。なんだかその様子を見ていると、なんとなく、職場で飼ってるカメを思い出した。エサをほしがってこちらを見上げて目をしばたたかせているサマがソックリなのである。ついほだされてバッグを一つ買ってやったけど、我ながら甘いことである。
眼科に回って、光凝固のレーザー治療。ところがこれが以前してもらったのとまるで感じが違っていて、痛みが半端ではない。私の場合、近眼が極度に進んでいるせいで眼球がかなり飛び出ているので、レンズを嵌めただけでもう痛みがひどいのである。「動かないで」と言われても、ショックで痙攣してしまうので、ちょっと継続できない感じになってしまった。途中で治療を中止して、後日、再治療することに。こういう面倒なことをしても視力が元に戻るわけではないので、こちらは何だか虚しいことである。 ……視力は落ちないって説明に書いてあったけど、ちょっと落ちた気がするぞ。もうちょっといい医者っていないんかなあ。
小学生による殺人事件が発生。 今日の昼、長崎県佐世保市の大久保小学校で、11歳の女子が、同級生の御手洗怜美(さとみ)さん(12)をカッターナイフで切りつけて殺害。佐世保署に補導された少女は、「すまないことをした」と泣きじゃくってるそうだけれど、動機はまだわかっていない。でも勝手な憶測だけれども、事件の性質からいって、「痴情のもつれ」以外には考えられない気がする。 まさか小学生が、と考えるのは、現実と隔絶した平和で幸せな世界に生きていらっしゃる方である。大人以上にドロドロした情念の世界に生きてる小学生だって、今日びはゴロゴロいるのだ。酒鬼薔薇事件以来、こういう事件は、早晩起こるだろうことは誰もが予想していたろうし、今まで起こっていなかったことが不思議なくらいだ(起こってたけど隠蔽されてたんじゃないか)。 これでまた、「学校の指導体制はどうなっていたのか」とか、「少年法の更なる低年齢化を」とか、責任をどこかに転嫁させたい論調がはびこって、問題の本質が奈辺にあるか追及されないままに終わっちゃうんだろうけれど、まあ、本質が掴めたからって、犯罪の防止には糞の役にも立たないのである。殺したあとでなら「すまなかった」といくらでも言えるからねえ。 事件は起きるときはどうしたって起きる。「命」の価値なんて、地球どころか、木の葉一枚よりも軽いという事実を、みんなはもう知ってしまっている。殺された女の子も、殺した女の子にとっては木の葉なみの価値しかなかったのだ。だったらその子も木の葉として扱ってあげるのが筋だって思うんだけれど、誰もハッキリとそのことを口に出せないんだよねえ。そんなにみんな、偽善が好きか?
2003年06月01日(日) 再開シンクロ日記(^o^)/映画『あずみ』 2002年06月01日(土) マトンウォーズエピソード0(^o^)/『ボンバーガール』1・2巻(にわのまこと)ほか 2001年06月01日(金) あえて美人殺しの汚名をきて/『「彼女たち」の連合赤軍』(大塚英志)
映画『キューティーハニー』について、今日になって、気がついた事実。 冒頭で、ハニーは「海ほたる」に向かうのに、透明なゴミ袋を服代わりに、ほぼ半裸状態で商店街の中を突っ走る。エネルギーが足りなくて変身できない、という設定なのだけれど、「変身できないのなら、自前の服を着ていけばいいじゃん。この子は服を一着も持ってないのか?」と首を傾げていた。でも、考えてみたら、「Iシステム」でどんな服も纏えるのだから、わざわざ服を買って所有してたりはしないのですね。ただのサービスかと思っちゃってた(かもしれんが)。 パンフレットのインタビューなどを読んでみると、今までよく知らなかったのだが、サトエリ、かなりなオタク少女だったのだな。『エヴァ』には完全にハマッていたそうだし、中学時代はオタク仲間しか友達いなくて、アニメ語で話したり、コミケ行ったりしてたそうだし。そう言えばメイキング映像で『式日』のギャグもトバしてたなあ。 サトエリに関して「あんなのハニーじゃない!」とバッシングしてるオタクもいるようだが、「仲間」だと分かったら、少しは排他的な態度が、変わるんじゃないだろうか。もっとも「同族嫌悪」を示す可能性もあるけれども。 「ヤフー」の映画評なんか見てると、やっぱりと言うか、脊髄反射しかしてないヒステリックなカミツキが見えるからねえ。「エヴァ嫌い」とか。『ハニー』の映画評で『エヴァ』持ち出してきてどうするんかね。 ああ、でもホントにこの映画、ヒットしてほしいぞ。アラはあるけど、日本映画の中から、これだけ素っ飛んでるエンタテインメント映画が生まれたってのは、すばらしいことだと思うのである。今回も、パンサークローの真の首領、パンサー・ゾラは名前のみ語られてはいたが、未登場だった。次なるパート2でこそ、パンサー・ゾラとの最終決戦を見たいと熱望しているファンはきっといるだろう。で、ぜひとも実写版、イボ痔小五郎の登場を(無理だって)。
『ハニー』でブラック・クローに扮していた及川光博、次は7月から始まるNHKアニメ『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル』の第3話にゲスト出演するらしい。 このアニメ、制作が『To Heart』のOLMだったり、ポワロの声が里見浩太朗で、マープルが八千草薫だったり、よく分らんがオリジナルキャラクターでメイベル・ウェストという小娘(名前だけだとハニー・ウエストをちょいと連想するね。声優は折笠富美子)とアヒル!( ̄∇ ̄ ;)が登場するとか、豪華なんだか貧弱なんだか、いったいどんなものが出来るのか、期待していいんだか悪いんだか全く分からない。とりあえずミッチーが出るなら、しげのために録画してやらんとなあ、とは思うけれども、全く、アニメの実写化よりも、実写や小説のアニメ化にも問題はないかってこと、もうちょっと議論されてもいいと思うんだけどもねえ(--;)。
5月も終わりであるが、今月のシメの話は、やっぱりトンガリさん。 日頃から私たちに対して仕事が杜撰だ、書類はきちんと出してくれ、やいのやいのとうるさかったので、仰る通りにきちんと書類を揃えて提出したのである。 途端にトンガリさん、「こんなにしょっちゅう書類を出されても処理できません」と文句を垂れ出した。 「ですが、書類を出してくれと仰ったのはあなたですよ?」 「まとめて出して頂けないんですか?」 「あなたが、一度にまとめて出されても困ると仰ったものですから」 自分が言ったことも忘れている、と言うよりは、こちらに仕事を強要すれば、その分、自分の仕事も増えるのだということに全く気が付いていなかったのだ。阿呆である。 仕事は仕事、引き受けないわけにはいかないから、またブツブツ口の中で悪態をつきながら、トンガリさんは引き上げて行った。結局、この人、仕事をしたくないだけなのである。脳の不自由な方だからと遠慮していたが、仕事が滞ってはどうしようもない。不自由だろうが何だろうが、その脳を使える限りは使って頂こう。
今日も終日雨。こうも雨降りが続くと、運動療法が続けられずに困るのだが、同僚にはすっかり私が雨の日も運動をし続けているものと思いこまれてしまっているのだ。 階段を登ってきただけで、てっきり私が運動してきたものだと思われて、「よく続いてらっしゃいますね」なんて言われてしまうのである。「いや、なかなか体重が減りませんで」と頭を掻くのだが、実際、体重がずっと微増しているので、ヤバイのである。食餌制限もそうだけれども、何とかして運動しなくっちゃなあ。
ふと、気が向いて、栗本薫の『時の石』を読み返す。 高校生のころ、これを読んで感動し、ボロボロ涙を流した記憶はあるのだが、何分もう20年以上も前のことだから、細かい内容は忘れている。さて、このトシになって読み返してみて、再び感動できるものだろうか、と思って読んでみたのだが、別の意味で何か切なくなってしまった。 「時の石」というのは「精神的タイム・マシン」とでもいうものである。いつ、誰が、何のために「そこ」に置いたのか分からないが、偶然、現代の高校生がそれを手に入れ、再び帰ることのない「精神の旅」へと旅立ってしまう……。ラストに栗本さんらしく、ホモを匂わせるような描写もあるが、読んだ当時はまさか栗本さんが「筋金入り」だとは思いもせず、そのほのかな終わり方に胸が締めつけられるような切なさを覚えたのだった。 今はさすがにそういうことはない。読み返してみて、「ああ、こんな“大甘”な物語だったんだ」と、その粉飾の過ぎる文章に閉口してしまうくらいである。 では、何が切なかったか、というと、作中にほとんど何の注釈もなくオタクネタが散りばめられているところなのである。 キャラクターの一人のガリ勉君が、「藤波」と仇名をつけられる。これは、柳沢きみおの『月とスッポン』というギャグマンガに登場するガリベンくんの名前なのだが、そんなことをいちいち説明しなくてもよいくらい、「藤波」というキャラクターのことは、当時のマンガファンならば誰もが知っている「共通言語」として機能していたのである。しかし、今や古本屋ですら入手困難であろうこのマンガのこのキャラは、もはや「わかる人にはわかる」というレベルでしか思い出されなくなってしまっている。『時の石』では、そのガリ勉くんが更に「フジっこ煮」とからかわれる。これは、江口寿史の『すすめ! パイレーツ』のギャグを踏襲しているのだが、もうここまで「超有名」なネタだと、江口の名前はおろか『パイレーツ』というタイトルすら紹介されない。それくらい、この「フジッこ煮」のネタは、「周知」の事実だったのである。 もちろん、当時だって、「マンガを読まない人々」は存在していた。しかし、そんな人間を栗本薫は読者として全く想定していなかった。読者もまた、そんな栗本薫の態度に明らかに「仲間意識」を感じていた。今思えば、栗本薫にそういったシンパシーを感じていた読者は、まだそう名付けられてはいなかったが、まさしく「オタク」だったのである。 今の栗本さんならば、こんな「濃い」と言ってもよいネタを堂々と振って、それでいて平然としていられはしないだろう。当時はそれが出来たというのは、まだマンガが今ほどには「拡散」していなかったからだ。 あのころは、過去のマンガもまだ殆ど絶版になってはいず、ちょっと大きめの書店に行けば、昭和20年代、30年代のマンガだって遡って読むことができたし、売れているマンガ雑誌も限られていて、現在進行形のマンガの大半を読むこともまだ可能だった。マンガの裾野が広がりに広がってしまった現在、それは到底不可能なことである。 だから、あのころのマンガファンたちは、マンガが世代間も越える「価値」を持ちえるだろうと、信じて疑わなかった。それはもう、今でははかない「夢」である。マンガファンどうしでも、話が通じない、意見が合わずに敵対する、そんなことは日常茶飯事になってしまった。同じマンガファンだというのに、どうして許し合うことが出来なくなってしまっているのだろう? だから私は切なくなってしまったのである。 ……寒い時代だとは思わないか(これももう、誰のセリフだかわかんない人もいっぱいいるんだろうなあ)。
2003年05月31日(土) 追い込み日記/サボっていた男 2002年05月31日(金) 病気はハンデじゃないってば/映画『スパイダーマン』/『ミステリー民俗学者 八雲樹』1巻(金成陽三郎・山口譲司)ほか 2001年05月31日(木) 多分まだ20世紀は終わっていない/DVD『なぞの転校生�供�
| 2004年05月30日(日) |
相手を選ぼうよって話と、韓国の『ヒカ碁』 |
ここ一週間ほどは、なんとなく気疲れすることが多かった。 あっちゃこっちゃ医者回りをしたり、しげと延々人生について語り合ったり(~_~;)、例によって例のごとく、トンガリさんの意味不明の言葉を解読したりと(したからと言って、何かいいことがあるわけでもないが)、平凡なんだか異常なんだかよく分らない毎日を過ごしていたからだろう。気がついたらまた食事の量がいつの間にか増えてもいる。3ヶ月検診が間近だというのに、ちょっとヤバイのである。
休日くらいは、ゆっくり朝寝をしてかまそうと思っていたのだが、起きて時計を見てみるとまだ6時。枕元で話し声がしていたので、目が覚めてしまったのだ。 こんな朝っぱらから、何なんだと、見てみると、しげが電話で誰ぞと話している。しげのちょっとエラそうでナマイキな口ぶりから判断するに、相手はハカセ(穂稀嬢)であるらしい。ウチのメンバーの中では穂稀嬢は最年少なので、しげのくせに威張っているのである。風呂に入って、上がってみると、まだずっと電話し続けていた。私が目覚めてからもかれこれ小一時間にはならないか。 ようやく、電話が終わったようなので、いったい何を話してたんだ、と聞いてみると、「今日は役者がみんな都合で集まれないから、練習自体、中止しようって」 「で、どうしてそんな長電話に?」 「いつの間にか、話が“人生相談”になってた」 「“人生相談”? 誰が誰に?」 「ハカセがオレに」 「……はあ」 「間違ってると思わん?」 「そりゃ、間違ってるよ」 何をどう相談したのかは知らないが、何かを相談して、何の参考にもならないことしか言わないのがしげである。「お前に相談するくらいなら、便所のリケッチアにでも相談するわ」とバンコランに言われたのはパタリロだったが、しげに相談するくらいなら、確かに梅毒スピロヘータやクラミジアに相談したほうがマシかもしれない。 ……だからと言って、ハカセ、本当に相談しないようにね(^_^;)。 たいていの場合、自分の悩みというものは、他人から見れば殆ど悩みと言えないくらいに「軽い」ものだよ。
練習がなくなったので、映画でも見てこましたろ、ということでキャナルシティまで『キューティーハニー』を見に行く。 日曜なので、かなり混んでるんじゃないかと危惧していたが、雨降りのおかげなのか、駐車場もまあまあ空いている。到着したのは30分前、開演時間には余裕で間に合った。……つか、我々が今日の一番乗りだったよ。映画の詳しい感想は、コンテンツの方を参照のこと。サトエリがいいと思えるかどうかで、観る人の感想は180度違ってくるだろうね。 しげはミッチーさえ出て歌ってくれりゃ、それで満足、映画自体は「まあまあ」だとか。『CASSHERN』は長くて後半が鬱陶しかったが、似たような回想シーンが『キューティーハニー』にもあるけれど、こちらは実にあっさりとしたもの。どっちかというと「物足りない」くらいだったので、中間が取れないものかと思ってしまった。 1時間半という回転率のいい作品であるにも関わらず、AMCでの上映は一日たったの4回。前売りの売れ行きが芳しくなかったのかもしれない。公開二日目だというのに、客席も半分ほどしか埋まっていない。いかにもオタクって感じの一人ぼっちのお客さんもチラホラいたが、たいていは若いカップル。こういう人たちがたくさん来てくれないと、『CASSHERN』のようにヒットには結びつかないのだ。全体として、100人いるかいないか、というところで、この分だとちょっとヒットは危ぶまれそうな気配である。 エッチなシーンは確かにあるけど、たいしたことないから、老若男女、こぞって見に行きなさい。
帰りに、しげ、おでんの材料を買い込む。 昨日、たっぷり作ったシチューを、腐っちゃまずいとばかりに一日で食い切ったので、もう次の食事を作らねばならなくなったのである。しげも、少し口をつけはしたのだが、「クリームシチューの具に豚汁の材料は合わなかった」と反省している。確かにゴボウやタケノコがシチューに入ってても、うれしかないわなあ。豚汁の具って言ってるわりに豚はおろか、肉自体、全く入ってないし。でも、ンなこたぁ、作る前からわかるだろう(-_-;)。 そんなもんでも文句一つ言わずに私は食べてしまうくらい、好き嫌いがないのだ。感謝してほしいくらいである。
アニメ、『ヒカルの碁』が、『ゴースト囲碁王』と題して、韓国でも6月1日からテレビ放映されることになったとか。けど、韓国の事情に合わせて、日本色の強いシーンは修正されるんだと。ヒカルもシン・ジェハに、佐為はチャランという名前に変えられるとか。 著作権がどうのこうの、と喧しいわりには、こういう「国情に合わせた変更」というのはしょっちゅう行われてるのが不思議である。日本でも何の映画だったっけ、中国映画の南京大虐殺のシーンがカットされたりとか、ディズニーの『ノートルダムのせむし男』が原タイトルから『ノートルダムの鐘』と改題されたりとか、何だかなあな改変はいくらでもあるけれど、「向こうの国ではこう認識されてるんだから」と許容する心がなけりゃ、結局は文化交流は不可能だと思うけれどもね。だいたい、佐為を韓国人に見せかけるのは無理があるだろう。それともチマ・チョゴリを着た霊に全部作画しなおすのか? 向こうの番組見た人の感想とか、どこかにアップされないかな。
2003年05月30日(金) 追い込み日記/懐かしの男 2002年05月30日(木) タカリ女の言い分/『東亰異聞(とうけいいぶん)』1巻(小野不由美・梶原にき) 2001年05月30日(水) まるでNENNEのように/『帰ってきたハイスクール!奇面組』(新沢基栄)ほか
| 2004年05月29日(土) |
手術決定&女の子の国 |
行きつけの眼科がアテにならないので、もうちょっと大きめの眼科に出かけてみる。 位置的に行きやすいところでもないのだが、住宅街に近いせいか、かなり繁盛している様子で、土曜日の午前中ということもあってか、待合は満員で、ざっと4、50人の患者さんが待っている。いつでも閑古鳥の行き付けの眼科とは雲泥の差だ。 かなり待たされて、両目とも眼底検査、最初は女医さんに診てもらって、そのあと院長先生(意外と若い)に回された。 即座に「網膜に変成が見られます。予防が必要でしょう」と、先の眼科医とは全く逆のことを言う。こちらは一も二もない。今日はもう手術は無理ということなので、ちょうど来週の火曜、糖尿病の3ヶ月検診があるので、その日の午後に治療を受けに来ることにする。治療費、またたっぷりかかるんだろうなあ、と思って聞いてみたら、前の眼科の半分以下。金額にしてン万円も安かったのだ。 あああ、あの医者、ボッてやがったな。義理があってずっと通っちゃいたのだが、もう信用ができない。もう二度と行くまい、と決心したが、いささか遅きに失した感はある。義理だの人情だの、現代人にとっちゃ、足枷にしかなってないよなあと痛感することであった。
『週間文春』の林真理子さんのエッセイで、宅配の寿司が異常に不味かったので、その寿司店の社長にクレームをつけた話が載っていたが、しげはそれを読んで「この人って『客人生』しか歩いてきてないよね」と言う。 確かにクレームをつけることが生きがいなんじゃないかと思えるような品のない客はいるが、林さんの場合はそれほどでもない。社長に偶然会ったので、つい文句を言ってしまったが、ご本人が、「鬱陶しいオバサンになっちゃった」ということは自覚していて、自嘲しているのである。それに比べて、「芯のある米で握った寿司」を2時間遅れで宅配した寿司屋は、「商売人の自覚のない」と批判されても当然だろう。現実にそんな腐れた店は腐るほどあるのである。 「お前、仮にも店を構えてるんだろう、大学祭の出店のタコ焼きみたいに、生煮えベチャベチャ、食えたシロモノじゃないってレベルと同等でどうすんのよ」と思った経験はみなさんにはないだろうか? いちいち目くじら立てるのもなあ、とガマンをしていれば、相手は「これで許されているもの」とつけあがる。基本的にサービス業であることを忘れてしまっているのだ。老舗だと自惚れている店ほど、そういう傾向がまま見られる。いやね、職人気質でガンコでも、美味けりゃ文句はないけどね、不味いもの食わせといて「不味いと言うな!」というのはただの傲慢でしょう、ってことなんですよ。「不味いなら食うな!」というのも的外れの批判で、そのイカレた逆ギレぶりが情けない限り。美味いか不味いかは食ってみなけりゃわからんという当たり前のことがもうわかんなくなってるんだよねえ。 店には店の、客には客の、「分」というものがあるのだ。それがわからなければ、お互いに見限られても仕方がない。繁盛する店とそうでない店の差というのは、ホントにごくごく基本的な客あしらいで決まってくるところがある。私がウェイター、ウェイトレスの「よろしかったですか」という口調に不快感を示すことを避けないのは、それが客をバカにしている言動であることに気がついた人間なら。みながみな、言い続けなきゃいけないことだと思うからである。「クレームをつけるのもみっともないからやめよう」という判断は美徳ではあるが、既にそんな美徳が察せられる人間も死に絶えつつあるのだ。まあ死んでいいって思ってる人もいるんだろうけれどもね。
昨日からまたまた「どうしたらしげは家事をするようになるか」ということを延々と話していたのだが、ともかく「家事をしようとする」と、「失敗したらどうしよう」という妄想がしげの活動を規制してしまう。なにもあれもこれも全部やれと言ってるわけではないのだから、とりあえず「食事と掃除と洗濯だけでも毎日するようにしたら」と何百万回も繰り返し言ってたことをまた言ったら、「じゃあ、食事と掃除だけする」と言う。これも何度もしげがそう言っては守れなかったことなんで、たいしてアテにはできない。 それでも一年発起した気になったのか、しげ、買い物をしてクリームシチューを作る。でも鍋いっぱい、軽く十人前くらいは作るものだから、到底今日中に食い切れる量ではない。戦前の大家族かい、ウチは(-_-;)。性格が大雑把だから、微妙な加減というものがわからないのである。気持ちは嬉しいのだけれども、そもそもしげの大雑把な性格そのものを変えなけりゃ、問題は解決しない。普通の日常的な、誰でもできそうな簡単な家事だって、今のしげにはムリなのである。 しげがきちんと家事に勤しむ姿を、いつの日にか見られるものかと期待して十一年が経ったが、私はまだ期待し続けないといけないのだろうか。
斎藤美奈子さんの『紅一点論』をパラパラと読み返す。 明日から『キューティーハニー』が始まるので、そのあたりだけを読み返しておこうと思っていたら、ついつい全部読み通してしまった。タイトルにある通り、特撮・アニメにおけるジェンダーを、少年少女用の「伝記」の系譜の流れから見直す、というコンセプトの評論だから、作品論とはちょいと違うのだが、作品を「男の子の国」「女の子の国」に二分化したときに、何の注釈もなく『キューティーハニー』を「女の子の国」に入れてしまっていることに、改めて首を傾げてしまった。……当時、女の子が中心で見てたのか? あれ。永井豪だぞ。まあ、後に『キューティーハニーF』と、ホントに少女向けアニメになっちゃったので、昔のアニメも、見てた女の子がいたことはいたんだろうなあ、と思いはするのだが、『F』に相当違和感を感じたことは事実なのである。 斎藤さんは『ハニー』について、「戦うヒロイン」としてはあまりに突出していて、後続作品が続かなかった、と主張している。けれどもそれにはどうにも疑問を感じないではいられない。『ハニー』だけが浮いて見えるのは、そりゃ、テレビアニメの系譜だけで見るからで(そもそも「女の子の国」に分類すること自体、無理がある。ヒロインが女の子だから、ということであれば、あまりに短絡的な分け方だ)、昔から永井豪マンガを見続けてる立場からすれば、『キューティーハニー』は特に突出している作品でもないのである。 永井豪の「戦うヒロイン」はもちろん『ハレンチ学園』の柳生十兵衛から始まっている。『あばしり一家』の悪馬尻菊の助、『ガクエン退屈男』の錦織つばさなど、初期の永井豪ヒロインはたいてい戦っていた。『デビルマン』の牧村美樹だって、決して守られるだけのお姫さまではなかった。『キューティーハニー』以降だって、『けっこう仮面』というトンデモナイものがあるのである。今度の『キューティーハニー』で特別出演の永井豪がハニーを見て「けっこう!」と叫ぶのは、ハニーとけっこう仮面がひと繋がりの存在であることの証拠だろう。 私が永井豪にずっと引かれ続けていたのは、登場する女の子たちがみんな「強かった」からである。というよりも、「女の子は強い」ということのほうが私にとっては自然であった。私は女だらけの家で育ったし、私の母はいかにも「戦前の母」で、伝法で磊落、スカートなんてはいたこともないし、ゴキブリなんか平気でつぶすし、ドブネズミも素手で掴まえる、店に殴りこんできたヤクザの胸倉つかんで投げ飛ばすくらい、腕っ節も強かった。若いころはしょっちゅう竹を真剣で気合いとともに切ってたというが、戦前はそういう「強い女」は母に限らずいくらでもいたのだ。 だからまあ、『宇宙戦艦ヤマト』の森雪が「だって古代くんが死んじゃう!」なんてブリッコしてるの見てると、私は「こいつこれでも女か?」と鳥肌が立っちゃうくらい気持ち悪く感じてしまうのである。 なんだかねえ、日本は長らく男尊女卑の社会で、女は家に縛られてて、男の言いなりで従順にさせられてって、それが封建社会の姿だった、ていう人は多いけど、それって、もともと武家社会という、日本の人口から考えればほんの1%に過ぎない世界のイメージが、明治維新以降、拡大されていったせいで起きた錯覚なんじゃないの? 少なくとも、昔からビンボーだった「庶民」の家庭は、女だって働かなきゃならなかった。家庭に閉じこめてなどいられない。ヘタすりゃ稼ぎは父親より大きいから、家庭内での母親の発言権が父親より上だったところだって、腐るほどあったのである。 「戦後、強くなったのは女と靴下」と言うが、私には「女は弱くなって、その分卑怯になった」と思えてならない。もちろん、そうでない女性もたくさんいるだろうが、男に甘える女、自分の弱さを売り物にする女、男に尽くすのが使命と考えているような女が糞にしか見えないのは、私の場合、確実に母親の影響である。 私が『ヤマト』に殆どハマらず(キャラクター造形的には出てくるやつが全てナルシストばかりで、とてもドラマなどと言えるシロモノではない)、『ガンダム』で一番好きだった女性キャラがミハル・ラトキエで(ファーストシリーズ中、殆ど唯一と言っていいくらい生活感のある「働く少女」であった)、『エヴァンゲリオン』に一番燃えた(精神を病んでるか愚かなやつばかりだが、これだけ「甘えのない」女性キャラばかりが登場したアニメも滅多にない)のは、確実にそれぞれの作品の女性キャラの存在の大きさに比例している。 斎藤さんは、女性ヒロインのエポックメーキングであった『ダーティペア』についても全く触れていない。見たことがないか、SFについて語る素養が全くないかで、「逃げた」のではないかと思われるが、あの作品くらい、「SF」という「男の子」の世界に、女の子が殴りこみをかけてしっちゃかめっちゃかにしてくれた痛快な作品もないのだ。星一つ破壊し、何百万という人間を死に至らしめておきながら、その張本人二人が「可愛いから許される」なんて物語が、SF以外のなんだと言うのだろう。「女の子」はその存在ゆえに、全ての罪が許される。女性の絶対優位を標榜したあの作品を無視していては、せっかくの斬新な批評も画竜点睛を欠くものだろう。できれば斎藤さんにはもう一度「仕切り直し」をしてもらって、新たに増補改訂版を出してもらいたいものなのだが。
高知県の小学校で、校庭のごみ集積場の上に「女子のスクール水着と体操服を15枚ずつ用意しろ。でないと、学校設備を壊す」と脅迫文を張った無職の男が逮捕。 ……そうかあ、よっぽどほしかったんだろうけど、「無職」だから買いたくても買えなかったんだろうなあ、思い余っての犯行なんだから、情状酌量の余地は充分にあるでしょう、学校も山本周五郎のように「これを持って帰りなさい。けれどもう二度とこんなことしちゃダメだよ。また水着がほしくなったら、来なさい」とか言って、許してやんなさい。うそ。 脅迫文に、「身長1・6メートルのサイズ」と指定されていたってことは、飾って楽しむだけが目的ではなくて、自分で着るつもりだったってことなんだろう。学校側が無視していたら、「要求を5枚ずつに減らし」たっていうのが何ともいじましい。もともと15枚要求していたということは、毎日着替えるとしてほぼ2週間分、取っかえ引返えしたかったってことなのか。あるいは体操服を敷き詰めてその上で寝転んでみたかったとか。……やっぱ、職に就いて金稼いで自分で買えよって。 でもまだハタチなんだよな? ハタチで働きもせず、考えてることは小学生の水着と体操服のことだけってのがなあ。いや、今はこれ、笑ってもいられるけど、この程度の性衝動も抑制できない人間が、逮捕されたからって反省するとも思いにくいんだよね。恐喝未遂だから、まずたいした罪には問われないだろう。すぐに社会復帰して、更に本能をエスカレートさせていって、ホントに取り返しのつかない犯罪を引き起こす危険性だってあるのだ。想像を逞しくすると、今回の事件は「前哨戦」であって、次にはその服を着せる「中身」を誘拐してくる腹づもりだったのかもしれない。160センチという指定サイズが「自分のため」じゃなかったとしたらどうか。 日本の法律はまだまだ性犯罪に対して甘いと思うんである。
2003年05月29日(木) 追い込み日記/アカデミズムな男 2002年05月29日(水) 管理ってそういうことじゃなくてよ/DVD『絶叫屋敷へいらっしゃい!』/『ガンダムエース』7月創刊号ほか 2001年05月29日(火) ヒステリー・ヒストリー/『オサムとタエ 早春残光編』(村野守美)ほか
| 2004年05月28日(金) |
神経科に行こう!&デジモン新作 |
金曜日はしげの通院の日。 診療のあとはいつも、しげがその日お医者さんとどんな話をしたのか、報告してくれるのだが、今日は何となく嬉しそうな顔をしている。 「ねえ、オレ、通院して何ヶ月になるか知ってる? 7ヶ月だって!」 「まあ、そんなもんだろうな」 「今日、お医者さんから『何ヶ月通ってるか分かりますか?』って聞かれたから、『わかりません』って答えたら、そう言われたんよ。3ヶ月くらいだと思ってたからもうビックリ」 「おれが退院してからも3ヶ月経ってるんだから、それくらいにはなるやろ」 「で、『効果はありますか?』って聞かれたから、『相変わらず家事をしないって言われてます』って答えたら、『じゃあないんですねえ』って言われた」 「……『言われた』じゃなくて、するようになれよ」 神経科のお医者さんが患者さんとどんな話をするのか、興味はあってもなかなか具体的に耳にする機会は少ない。プライバシーの問題があるから当然ではあろうが、何かにつけ排他的になりがちなこのクニでは、神経科に通ってるってだけで偏見の目で見られてしまいかねない。 しげが通院していることも日記に書こうかどうしようか、最初は迷いもしたのだが、考えてみたら、「書いちゃマズイかな」と考えること自体が偏見を偏見のまま放置することになる。別に差別撤廃なんてキレイゴトを口にする気はないが(そんなのは理想論どころか妄想だ)、私は世間が、しげ程度のいかれぽんちの存在を許容できないのなら、世間自体に存在価値はないと考えているのだ。狂ってない人間なんて、いない。 神経科に通ってることをカミングアウトした本も、少しずつ増えてきている。私が最初に読んだのは、大原広軌・藤臣柊子共著の『精神科に行こう!』だったが、私はこれを読んで「ああ、精神科(神経科)って、もっと気軽に通えるとこなんだ」と知って、随分、気が楽になった。もっともしげの方はこれを読んだ当初は、かえって「やっぱり頭のおかしいヤツが行くとこじゃん。もし診察されてそのまま入院させられて帰って来れなくなったらヤだ」と、いったいいつの時代の話やねん、と言いたくなるような妄想に取りつかれてしまったが(そんな描写はこの本の中には全くない。念のため)。こいつ、やっぱり治療を受けた方がいいなあ、と思ったのはしげのそのセリフを聞いた時からだった。 他人とうまく付き合えない人間ばかりが神経科に通わなければならないというわけではない。それもまた偏見である。「自分は社交的で人間関係を作るのが得意である」と考えてる人間だって、誇大妄想なのである。たいてい「そう思ってるのは自分だけ」で、まあサムいギャグばかり飛ばしている中年オヤジに多いパターンだ(^o^)。須らく、人はみな神経科に通って構わない。 病院の名前とか、具体的なことを書いてそちらに迷惑をかけちゃまずいから、それは避けるが、会話の内容などは、もっと知られていいと思う。そうでないと、いつまで経っても「神経科はコワイところ」というイメージが消え去らない。 今の病院の先生、しげが最初に診療を受けた時に、「合わないなあと思ったら別の病院に変わっていいんですからね」と言ってくれたそうで、それだけでも信頼できるかなと思っている。 「ねえ、『カイリショウ』って知ってる?」 「聞いたことはあるな」 「前に、先生から『病名がほしかったら付けてあげますよ』って言われてたから、『ほしいです』って言ってみたんよ」 「ほしいのかい(^_^;)」 「だって、劇団のウリになるじゃん」 「……うーん、なるといえばなるかなあ」 「『夢と現実の区別はつきますか?』って聞かれたから、『つきません』って言ったら、『それは“乖離症”と言えますね』って言われた。いろいろ聞かれて、この次までにもっとカッコイイ病名決めてもらうことした」 「……決めてもらうものか? そういうのって」 「だって『物忘れがヒドイ』だけじゃ、“健忘症”ってことになっちゃうじゃん。“健忘症”はヤダ。まだ“記憶喪失”の方がいいよ。ウソにならない程度にカッコイイ病名の方がいい」 病名に注文つける患者というのも何なんだかなあ(~_~;)。
キャナルシティで映画『ビッグフィッシュ』。こないだ見た芝居『バナナがすきな人』も息子にウソ話ばかりついてる父さんの話で、父と子の断絶とその関係の回復の物語だったけれども、これもコンセプトは同じ。こちらは映画だけによりファンタジックだったが、『バナナ』よりもずっとウェルメイドだったので驚いた。近藤芳正さんの方がティム・バートンよりもずっと「乾いた」人だったんだなあ、と比較ができるのが面白い。これもまたカミサマを頂くクニの人と、そうでないクニの人間との違いであろうか。
昨年で「東映アニメフェア」が終わってしまって、劇場アニメを単発公開しかしなくなってしまった東映動画(「東映アニメーション」と社名が変わっても、やはりこう言いたいのである)だが、次の新作が完全フルCGの『DIGITAL MONSTER X-evolution(仮)(デジタルモンスター ゼヴォリューション[X進化])』になったそうである。デジモンの映画シリーズ自体は子供ダマシの手抜きのない、濃密かつメリハリの効いた演出で、「東映動画健在なり」を感じさせてくれて新作が楽しみなくらいだったのだが、どうしても『ワンピース』や『どれみ』とかの添え物イメージが抜けず、損をしていたと思う。だからこうして一本立ちした形で新作が作られることは嬉しいのだが、よりによって“フルCG“〜? ハッキリ言っちゃうが、CGはもう確実に一つのカベにぶつかってると思うのである。ドリームワークスの『シュレック』もパート4までのシリーズ化が決定されたと言うが、ホントにそんなことしていいのか、と疑問に思う。あそこに出てくるキャラクターの中で、最も動きが不自然で魅力に乏しかったのが「人間」であるフィオナ姫だった。CGでは「人間」は描けないのだ。ピクサーの『トイ・ストーリー』の時にもそのことは感じていたのだが、あれからCGは殆ど進歩していない。一時期の日進月歩がまるでウソのように、この5、6年は停滞している。結局、これまでのCGはカリカチュアされたキャラクターしか描けていないし、これからそれを越える映像を作ろうと本気で考えているスタッフも少ないように思う。 『デジモン』シリーズは、部分的にCGは使っていても、あくまでセルアニメーションとして評価されてきた作品である。デジタルだからデジモン、という発想は短絡的なだけじゃないだろうか。しかも、そのCGアニメーションの制作を担当するのは、香港のCG制作会社『Imagi International Holdings Limited』なのである。……なんだ、外注どころか、日本アニメってわけじゃないのね。東映動画がますます自分の首を締めるようなことにならなきゃいいんだけれど。 監督はTV版『デジモンアドベンチャー』『デジモンアドベンチャー02』のシリーズディレクター、角銅博之。脚本は平成『ガメラ』3部作や、『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊』の伊藤和典と、『エアマスター』の川崎美羽の二人。実力のある方たちだから、つまらないものになりはしないとは思うけれど。
2003年05月28日(水) すっ飛ばし日記/耽美かヤオイな女たち 2002年05月28日(火) 素敵なあなた(はあと)/CD『ぼういず伝説』/『コメットさん☆』DVDBOX2ほか 2001年05月28日(月) 才能がないなんて言い訳だ/DVD『チャーリーズ・エンジェル』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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