無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記




ホームページ |プロフィール |掲示板「トーキング・ヘッド」 |メール
|藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2002年05月31日(金) 病気はハンデじゃないってば/映画『スパイダーマン』/『ミステリー民俗学者 八雲樹』1巻(金成陽三郎・山口譲司)ほか

 今日づけで体調不良で退職される同僚がいらっしゃったので、「お大事に」と声を掛けたら、小声で周りに聞こえないように「……あなたも糖尿でしょう、気をつけてくださいね」と耳打ちされた。
 察するにこの方、上司から肩タタキされたんである。
 病人はウチの職場にはいらん(とハッキリは言われなかったろうけれど)、遠まわしに「ゆっくり休んだらどうかね」とか言われたんである。
 憶測でモノを言うなと言われるかもしれないから、ハッキリ書いとくが、私も何度か同じことを言われてるから、ウチの職場の体質はちゃんと知ってるのよ。やっぱり病気で長期休業してた同僚のことを「二度来なくていいよ、アイツ」と上司が陰口叩いてるとこに偶然出くわしたこともあるし。
 病気だからと言って、全くカラダが動かないわけではない、無理しない程度に働くんならなんの問題もないことは、実際に持病のある人間にはわかってることである。つまり、病人が「要らないもの」と判断されてしまうってことは、たいていの職場が従業員に「無理させよう」と考えてるからってことになるよな。
 誰もがタテマエじゃお互いに労わりあうことが大切みたいなこと言うけど、現実には病人は迷惑の対象でしかないのだ。もちろん、一人の人間が仕事を休めば、迷惑が周囲にかかるのは事実だ。けれど、病気だの事故だのはいついかなるときに起きるかわからない。それをどうフォローするかは、本来、その職場が組織として予め考えとかなきゃなんないことじゃないのかね。それができないのは組織自体に問題があるってことじゃないのかね。「不況だから個人に負担がかかるのは仕方がない」というのは管理ができないことの言い訳だ。
 なのに、どの会社でも結局はそこで働く者の個人責任を取らせるみたいな形で問題をやり過ごしちゃってることが多いんだよな。
 個人に先立って会社がきちんと責任をとた事例なんて、どれだけあるというのだろう。「会社の責任」なんて、新聞に載るような事故とか不祥事とか、何かの事件にでも発展しない限り、問われること自体がまずないのだ。
 けれど、そんなふうに組織としてのありようが責任を追求される場合でも、最後には立場の弱い人間だけが責任を取らされて、事故そのものは闇の中に葬り去られて行くってこと、いくらでもあるよな。
 そういう事例が続出してるのが、例えばナントカ省とか警察とか病院とかの一連の不祥事じゃないのか。「医者が病気になってどうする」と文句つけるヤツがいるけど、過労が普通の環境の中で、病気にならないでいられるもんかい。

 病人は邪魔ものか?
 健康なことがそんなにエライのか?
 だったら、トシ食ってカラダが動かなくなっても、病院にもかからず、施設にも入らず、誰にも迷惑掛けずに朽ち果てろよ、それが筋ってもんだろうが。

 こっちも病み上がりだから、どうにもむかっ腹が立って仕方がない。
 けれど、誤解しないで頂きたいのだが、私は全ての責任を組織に押しつけて、「病人の責任」を回避しようと思っているわけでは全くないのである。病人が自分の病気に甘えてしまう状況、これはやはり始末に悪いことだ。
 「甘える」と言ったが、具体的な行動としては、他人を羨んだり僻んだりする態度でそれは現れる。「こんな苦しみ、健康なアンタには分らないだろう」なんて愚痴、健康な人間の方だってそんなこと言われりゃ反論のしようがない。実際に病気になって見せるわけにはいかないんだし。こういうのを「無理難題」、ないしは「難癖」と言うのである。
 病気をマイナス要因と考えないで、「まあ、それが普通だし」と考えられば何も問題はないのだけれど、肝心の病人自身が、そんな後ろ向きな生き方してるものだから、そこを「健常者」に突っ込まれてしまうのである。
 口では「病気だからってメゲる必要ないんだ」とか「身体障碍はハンデじゃない」とか言いながら、実は「自分に同情してほしい」「自分に優しくしてほしい」と考えてるだけのヤツってやたらいるんだよな。
 病人は心の底のどこかで、やっぱり「なんで自分だけがこんな目に」と思っているんである。被害者意識に心を支配されてしまっているんである。だから病人が病人を恨む、やっかむ、という馬鹿げた事態まで起こる。
 乙武洋匡氏の『五体不満足』が出た時、「あれが身障者の普通の姿だと思われたら困る。自分の障碍や病気をプラス志向で捉えられない人も多いのだ」と批判してたヤツが結構いたが、マイナス志向で捉えるやつが多すぎたからこそ、アンチテーゼとしてのアレがベストセラーになったんだってことに気がつかないといかんよな。
 身障者や病人に対しては同情も激励も要らない。ごく普通に接してくれればいいのであるし、気を遣ったつもりで障碍や病気のことに触れないようにする必要もない。
 手のない人間に、「普段はどうやって生活してるの?」と聞くのは、差別でもなんでもないのだ。余命いくばくもない人間に「あと何年生きられるのか?」と聞くのは相手を傷つけることにはならないのだ。まあ、言いにくい気持ちは分るけれど。
 少なくとも、私は傷つかない。実際、「あと何年くらい生きられるの?」と聞かれた時には、「子供のころ数年と言われてたけど、ここまで持たしたぞ。あとのことは知らん」って答えてるし。私に関しては、その手の遠慮は一切無用である。
 そういうこと聞かれてメゲてるようなら、その心根の方が社会生活をする上でのハンデになっちゃうってこと、病人はそっちの方を問題に思えよ。カラダ治す前にココロを治せ。 


 ようやく映画にも行けそうな体調になってきたので、職場に迎えにきたしげと車でキャナルシティに向かう。
 途中、吉塚のパピヨンプラザに寄って、そこで食事。
 いつものように、店がたくさんあると、どこに入ろうか、しげは鬱陶しいくらいに迷いまくる。
 「『ナイル』は安いけどカレーしかないし、スパゲティは外では食べないと決めてるし、マックはどこにでもあるし、ここのケンタはゲロマズだし、やっぱりロイヤルホストしかないかなあ」
 「『八仙閣』もあるけど?」
 「あ、そこに決めた!」
 ……そんなにあっさり決められるんなら最初から迷うんじゃねえや(-_-;)。
 どうしてそんなに簡単に決められたかというと、ここにはしげのお気に入りメニューの「エビのマヨネーズ和え」があるんである。八仙閣もあちこちに出店があるが、このパピヨンプラザ店を始め、これがある店は限定されているのだ。
 大皿と小皿の二種類がここにはあるが、小皿でも軽く一人前以上の分量はあるので、一皿頼んで二人で分ける。
 三千円均一で、二人前の料理を五皿まで選べるというので、他にも酢豚だの餃子だの、小皿をいくつか頼む。たいていの料理がそう間を置かずに出て来たのだが、中華ちまきだけがいつまで経っても出て来ない。シビレを切らして店員さんに「まだですか?」と聞いたら、「蒸すのに15分ほどかかりますので……」と言い訳。15分なんてとっくに過ぎ取るがな。
 映画の時間もあることなので、キャンセルすると、しげがボソッと「クレーマー」と言う。別にクレームつけたわけじゃないじゃん。自分だってしょっちゅう料理が運ばれてくるのが遅くなると「もう帰る」とかわがまま言うくせになあ。しげのワガママは欲望が満たされないための憤懣だが、私は時間を気にしただけだから、いっしょくたにされても困るんだが。


 しげに『ノット・ア・ガール』は見られてしまつていたので、今日見る映画は『スパイダーマン』。
 マンガの実写化がトンデモ映画になっちゃうってのは日本のマンガの場合もよくあることだけれども(『ドカベン』や『嗚呼!花の応援団』が真っ先に思い浮かぶのは世代かね)、アメコミのヒーローものの場合、ハナから実写化したら相当ヘンテコなものになるんじゃないかと以前から思ってはいた。
 だってよう、スーパーマン一つ取ってみたってさあ、あんなタイツ一枚の筋肉男が実際に目の前に現れたら、100人が100人、コイツはヘンシツ者だって思うぜ(日本のマンガに登場するスーパーマンのパロディもたいてい変質者扱いだものな)。ファンタスティックフォーもスパイダーマンもまたしかり。どうして向こうのヒーローはお肌にピッタリフィットしたタイツに拘るのかね。やっぱりゲイ文化の影響なのか。
 もちろんそれがいけないってことじゃなくて、基本的にチープでキッチュなB級映画として楽しむことができれば、それはそれでいいと思うんである。ティム・バートンの『バットマン』シリーズも、『Xメン』も、私は楽しんで見た。設定にしろストーリーにしろ、常識的に判断すればデタラメきわまりない。けれど、その逆立ちしたって文芸大作だの感動の名編だのといったA級にはなりえないデタラメさ、いい加減さこそが、まさしく何でもアリのごった煮的大衆文化の象徴とも言えるわけで、見ていて実に小気味いいのである。
 でも、その「ごった煮」の中に入れたってしょうがない要素もあるんだよね。それが何かっていうと、「ヒーローの孤独」ってやつ。

 今更語るまでもなく、スパイダーマンは「悩めるヒーロー」として造型されている。それはかつての実写化、アニメ化、日本でのマンガ化(平井和正&池上遼一!)においても踏襲されていた、スパイダーマンをスパイダーマンたらしめる必要不可欠な要素なんである。
 けれど、軽い味付け程度にまぶすんならまだしも、「ヒーローの悩み」なんてのをあまり前面に押し出しちゃうと、設定自体に矛盾が生じちゃうこともあるんだよね。勧善懲悪モノだってのに、戦う前からヒーローが悩んでたら、「さっさと戦ってこんかこのバカが!」って腹たって来ないかな? 『エヴァ』のシンジくんじゃあるまいしねえ。
 主人公が悩めば悩むほど、物語の流れは阻害されてしまう。かと言って、余り正義に自信を持ったキャラだと、単純過ぎて、今度は見る者が感情移入しにくい。そこで、たいていのヒーローものは、その主人公の悩みを早い段階で解決してさしあげたりするんである。日本じゃ『仮面ライダー』だって悩んでたのは最初の数話だけだもんね。
 さて、ではサム・ライミ監督はそのあたりの矛盾をどうゴマかしてこの映画を作ったかというと。

 何も考えてないみたいなんである(^_^;)。
 つーか、最初から最後まで、主人公ピーター・パーカーの悩みがなんなのかさっぱりわかんないのよ、この映画。
 スーパースパイダーに噛まれてDNAに変化を来たした主人公ピーターは、初め、そのパワーで自分に乱暴を働こうとした友人を逆にぶちのめしてしまう。そのことを知った育ての親である叔父に「大きな力には大きな責任が伴うんだ」とたしなめられるんだけど、これってどう解釈しても「ヘタな力は使うな」としか読み取れないよねえ。
 けれどその叔父さんが強盗に殺されて、自分がスーパーパワーを使っていたら叔父さんを助けられてたかも、と気付いた途端、ピーターはスパイダーマンとして正義のために力を使うことをあっさり決意しちゃうんである。いや、最初強盗を「自分には関係ない」と無視したのだって、別に叔父さんの言葉を思い出して自分を戒めたからじゃなくて、単にふてくされてただけだし。
 ……何も悩んでないじゃん、ピーター・パーカー(-_-;)。
 普通はここで「叔父さんは力は使うなって言ってたけど、使わないと悪人の被害を受ける人たちを助けられないし……どうしたらいいんだよう」とか考えるぞ、ちょっとくらいは。
 スパイダーマンの活躍が評判になって、その写真に新聞社が賞金を出すと広告を打つと、自分で自分の写真をセルフタイマーで撮って小金稼ごうとするし、ちゃっかりしてるっつーか、自己顕示欲丸出し。彼が一応の悩みらしきものを見せるのは、スパイダーマンと敵のグリーンゴブリンが実は裏で共謀してるんじゃないかって報道された時だけど、これも好きな彼女に「私はスパイダーマンを信じてる」って言われたら気分がさっぱりしちゃうし。

 そう、このスパイダーマン、「くさる」ことはあっても「悩む」ことは全くないんである。
 さすがに、不平不満と愚痴垂れ流しながら戦うヒーローにまともな感情移入はできないなあ。……と思って、途中からこの映画の見方変えました。これ、ヒーローアクションものと思って見ても映画のカタルシスは全くありません。やっぱりお笑いバカ映画と思ってみるとこれ、あちこちにギャグ(監督にそのつもりはないかもしれないけど)が満載でもう楽しいったらないっスね(見方意地悪かなあ)。
 まずヒロインがブス(いいのか言いきって)。
 どれくらいブスかというと、往年の『スター・ウォーズ』のレイア姫並かな(主観はあるかもしれんが、結構この手の感想は多いようだね)。これだけで既に「なんでこの程度のブス助けるために躍起になるのかスパイダーマン」という突っ込みができますね。
 ピーターがだんだん蜘蛛の能力を身につけていく描写にもどんどん突っ込み入れられるな。壁を這い登るのはいいけど、どう見ても重力が下じゃなくて壁の方にかかってるぞ(壁を横にして撮影してるんだから当たり前だけど)とか。糸を出そうとして「シャザーム」とかなんとか呪文唱えるあたりもギャグだしなあ(やっぱこれ『大魔王シャザーン』がらみ?)。笑えないけど。
 いや、一番笑えるのはグリーンゴブリン。
 正義と悪の二重人格に引き裂かれて鏡の前で会話するシーンなんか抱腹もの。ジキルとハイドを一人二役の演技で見せてるわけだけど、これが、落語で八つぁん熊さんを演じ分けてるのと変わんねーんだ(^_^;)。で、いつの間にか鏡の中のゴブリンがモトの人格から独立していっちゃうってのも定番のオチ。これを演じてるのがウィレム・デフォーでさ、悪に引きずられて苦悩する時の演技が『BODY』でマドンナに誘われて行こうかどうしようか悩んでる時とおんなじなのよ。やっぱり悪って気持ちいいことなのかね(^^)。

 やっぱりどんなにおカネ掛けて大作めかして見せても、アメコミのヒーローものの底なんてたいしたこっちゃないんだから、バカ映画見に行くノリで見たほうがいいんじゃないかなあ。


 マンガ、金成陽三郎原作・山口譲司漫画『ミステリー民俗学者 八雲樹(やくもいつき)/天狗伝説殺人事件』1巻(集英社/ヤングジャンプ・コミックス・580円)。
 オビに「『金田一少年の事件簿』を継承する本格推理漫画」とあるけれど、『金田一』って、「本格推理漫画」だったか?(^o^)
 もちろんこれは金成さんが途中まで『金田一』の原作書いてたことを受けてそう書いてるんだろうけど。でもこんな惹句、講談社が怒って来ないか。
 ……しかしレベル低いね。
 一応ミステリーのセオリーに従って、ネタバレはしないけどよ、第1巻だってのにこのトリックのチャチさは何なんだよ。
 いや、ミステリーとして駄作ってだけじゃなく、物語の作り方からして読者をナメてんじゃないか。犯人がそこまで被害者に対して殺意を抱いたのなら、こんな回りくどい計画殺人なんて立てないで、その場で衝動的に殺しちゃうんじゃないのか? 根本的にドラマってものが解ってないんだな、原作者。
 探偵役を民俗学者に設定しておきながら、その知識が殆どデタラメってのもどういうわけだ。あまりにヒドイので、解説で小松和彦が「正しい」民俗学的知識を披露しているくらいだ(^o^)。
 青年向け漫画だからなのか、ベッドシーンなんかもあるけど、これもとってつけたようでかえって白ける。
 いいとこ全然無いってのに、オビにまた「青年漫画界を騒然とさせた傑作」って……(-_-;)。騒然とはしたのかもね、あまりにヒドくて。……あ、絵もなんだか一昔前のエロ劇画にちょくちょく見かけたようなバタ臭い感じで、ヘタクソです。


 マンガ、加藤四季『お嬢様と私 ―たなぼた中国恋愛絵巻』2巻(白泉社/ジェッツコミックス・760円)。
 後書きを読んで、しげが感心したようにつぶやく。「加藤さん、カイシャ勤めしてるんだ!」。
 なるほど、「会社勤めをしている私にとってまんがかきは大切なは心のオアシスとストレス」なんてことが書いてある。オアシスとストレスじゃ逆じゃん、と思いながら、その実感のこもった表現に苦笑(^_^;)。
 二足のワラジ履いてる漫画家さんと言うのも決して珍しくはない。
 漫画で芽が出なかったときの「保険」のために、そうそう簡単に仕事をやめたりはできないのかもしれない。
 けれども漫画家の仕事って、世間一般の人が軽く考えてるほど、片手間でできるものではないのだ。“パンピー”はよう、漫画に対するイメージって、遊びの延長くらいにしか考えてないからさあ、「好きなことやってておカネがもらえるんだからいいよねえ」とか簡単に抜かしやがるんだよなあ、作者に面と向かって。
 やっかみ半分で人が遊んでるようなモノイイしやがるのが、どえりゃ―腹立つんだけどよう、4コマのアイデア一つ捻り出すのに、本人がどれだけ塗炭の苦しみを味わってるのかわかっとんのかこのクソヤロウとか思っちゃうよね(経験あるのかオマエ)。
 だからたいていの漫画家さんはしばらくしたら会社を辞めてマンガ家1本になるものだ。やっばり「会社と漫画とどっちが大事だ!」と言われたら、「好きな道を選ぶ」のが自然な流れだし(しりあがり寿さんとか)。
 加藤さんも果たしてどこまで持つものか(^^)。

 おっと、肝心の本の中身の感想がない。
 劉詢が皇帝になって、お嬢様(平君)と結婚しちゃったら話がつまんなくなるかと思ったらどうしてどうして(^^)。平君のボケぶり、皇后になって傍若無人さを増したのか1巻にもましてアホを晒している。
 政権争いになって命まで狙われてるってのに能天気なままなのはなかなか微笑ましいが(そうか?)、ハラに子供がいるってのに、ぴょんぴょん飛び回ったりコスプレしたりはともかく(ともかくじゃねーって)、古くなった月餅をツマミ食いするのはやめよう。
 ああ、けどずっと気になってるんだけど、この物語、一応史実をベースにして描いてることは解るんだけど、皇帝つきの武官の張彊(源氏名が香娥)、ホントに女装癖のあるストレス男だったんだろうか(^o^)。

2001年05月31日(木) 多分まだ20世紀は終わっていない/DVD『なぞの転校生�供�



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)