無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年03月06日(木) 御乱心!……って、マジなんですけど/『オタクの迷い道』(岡田斗司夫)ほか

 先日の東京行きでヨナさんに頂いたCDを、ここんとこずっとパソコン打ちのBGMにして聞いている。
 ずっと通してこの日記を読んでいらっしゃる方ならお分りいただけるだろうが、私は、誰それから何を頂いたとか、私の方から何をお贈りしたということを、この日記にはあまり書かないようにしている。
 というのも、実は私、日頃から結構いろんな人にモノを頂いてるのである。もちろん、ご好意は嬉しい限りなので、素直に喜んではしゃいでる様子を書いてもいいのだが、それがあまり度重なるってのもちょっとみっともない、日記の雰囲気が何となく浅ましくなっちゃうような気がして省略してるんである。
 それに、あまり喜んでると、贈り物をしてくださった方が、「じゃあ次はもっと喜ばせてあげよう」ってなこと考えて、どんどん豪勢なものをくれたりするので、抑え気味にしないとヤバいんである。
 だって、今回ヨナさんが下さったの、CDが3枚ですよ。それだけで6000円越してんですから。ビックリ〜(/'O';)/
 ……あまり日記で金がないだの貧乏だなどと書くものではないなあ。あちらこちらから御喜捨が慈雨のごとく……(^_^;)。

 頂いたCDはいずれもヴィヴァルディの『四季』である。クラシックの造詣なんぞ全くない私でも、さすがにこれくらいは知ってるし、ウチにもCDは何枚かある。もっとも殆ど映画のサントラに収録されてるものばかりなので、フル演奏のものは少ない。しかも本棚の奥に埋まっていて取り出せないと来ている(いつものことだ)。
 唯一フルバージョンで持ってるヤツは、悪名高きディアゴスティーニのシリーズのもの。と言っても中身が悪いわけではなく、アルベルト・リッツィオ指揮、サン・マルコ合奏団の演奏する『四季』は、メロディーラインの強弱がハッキリしていて、わりあい好きな演奏であった。
 ヨナさんに頂いた一枚目は、カール・ミュンヒンガー指揮、シュトゥットガルト室内管弦楽団の『四季』。メロディー全体よりも、奏でる音の一つ一つを力強く響かせるタイプ。『春』なんかは全然優しげに聞こえない。『秋』も同様。何となくヴィヴァルディに「挑戦」している雰囲気だ。
 二枚目はニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの『四季』。軽快かつ流麗、畳みかけるところは勢いに乗って迫ってくるが、決して「怒涛のごとく」とはならない。『秋』なんてやや高めの浪が落ちつきなく連続してわしゃわしゃとかぶってくる感じで、何だか滑稽だ。「笑える『四季』」なんて初めて聞いたなあ。
 三枚目はイ・ムジチ合奏団による『四季』。印象は「豊饒」である。1995年の録音で、3枚の中では一番新しいバージョンであるせいかもしれないが、一つの音に絡む楽器の多さが目立つと言うか、重層的で一番オーケストラっぽい。ただ、その分「いかにも」な演奏になっており、『冬』のように静かなメロディーであれば、深く沈んだ音の中に潜んでいる奥深さを感じ取ることもできるが、『春』あたりだと、かえってオーソドックスすぎるくらいに聞こえてしまう。
 まあ、こんなのはシロウトの勝手な印象批評でしかないが、楽団の「個性」によって、「同一曲でもこれだけ印象が違うんですよ」ということを理解させたいヨナさんの意図は伝わった。
 だからと言って、これでクラシックにハマるかどうかは分りませんよ、とヨナさんには言っておこう(^o^)。

 私も、芝居の脚本で、流す音楽の指定をするときに、同じ曲の別バージョンをいくつか並べる、ということをよくやる。ギャップの違いが狂騒的な笑いを引き出す効果を狙ってるのだが、以前の芝居でナット・キング・コールの『ペーパームーン』と桜田淳子の『ペーパームーン』をオープニングとエンディングで流すというものすごいことをやった。ものすごすぎて、その意図があまり客には伝わらなかったようだが(それどころかウチの演出にもつたわんなかったもんな)。
 しかも、音響がドジって音を途中でぶった切りやがったし。やったの其ノ他くんだよ。つくづく使えねえやつめ……(-_-;)。
 今度の芝居も、脚本段階でそういう意図を狙った「ある選曲」をしてるんだが、さて、鈴邑君はちゃんと面白く演出してくれるかなあ。


 昨日から今日にかけて、職場ではトラブル続き。
 私は当事者ではないので、詳しい事情はわからないのだが、「事件」は偶然目にした。
 まずは昨日の昼ごろのこと。
 私が事務仕事をのんべんだらりとこなしていたら、向こうの方で騒がしい声が。揉めているのは同僚のAさん、Bさんである。
 A「……だいたいアンタはオレを馬鹿にしとろうが!」
 B「馬鹿になんかしとらんて!」
 A「いいや、馬鹿にしとう、どうせオレはパソコンなんて扱いきらんったい!」
 どうやら、Aさんがパソコンに入力したデータに間違いがあったので、Bさんが訂正を要求したところ、その言葉使いが悪かったので、口論になったらしい。AさんとBさんは、以前にも似たようなことで諍いを起こしていたが、そのときの憤懣もこの場に持ちこされているようだ。
 A「だいたい元々のデータが間違うとったでしょうが。だけん、最初からきちんとデータば確認してくださいて頼んどったでしょうが」
 B「そのデータは今更訂正がきかんでしょうが。もういっぺん、各部署からデータば出し直してくれなんて言えんでしょうが」
 激昂しているのはAさんであるが、話の筋道はAさんの方が通っている。元々おかしいデータをなんとか整合性を持たせて使えるものに調整しようとして、Aさんは入力に失敗したらしいのである。
 ただ、筋を通すにはAさんは人間として感情的に過ぎるのである。日頃から被害妄想的な態度が目立つし、トラブルを起こしたのもBさんとだけではないのだ。
 A「もうよか! そげん役に立たんデータなら、全部消しちゃる! コンピュータの中のデータも全部消しちゃる!」
 B「やめんね! そげんことしたらどげんなるか、わかっとうとね!」
 Aさんが暴れ出したので、周囲も途端に騒然となった。
 胸倉を掴んだの掴まないのでケンカになる。
 争いを止めようと何人もの同僚が集まってくる。
 A「キサマ、殺す! C、殺す!」
 Aさん、もう完全に常軌を逸している。いきなりCと別の同僚の名前を叫ぶが、その場にCさんはいないのだ。どうやらAさんの妄想の中では、全てのトラブルはAさんの直接の上司であるCさんの陰謀によるものらしい。BさんをCさんの腰巾着だと思っているらしいが、Aさんの主張をある程度正しいものと認めても、そういう事実はなかろうと思われる。
 Aさんの暴言、もう止まらない。
 A「ちきしょう、殺してやるからな、C! キサマの家族もみんな殺すぞ! 娘も息子も殺してやる! 首を洗って待っとけよ!」
 その場にいた者でAさんは外にムリヤリされて行かれた。
 残った同僚のうち、一人の女性が突然痙攣を起こして泣き崩れた。
 「……もういや! こんな会社……!」
 こういうことがウチの職場では結構起きるのである。
 私が、この日記上で私の身分も社名も明かせない理由を少しは御理解いただけたであろうか(^_^;)。
 今日、Aさんは会社をクビになった。
 あれだけの狂いっぷりを見せた以上、それはもう仕方のないことなのだが、あまり真っ直ぐな人にデータの改竄とか、そんな裏仕事を頼んじゃいけないのである。会社だって、いつでもトカゲのシッポ切りができるように、「クビにしやすい人」を選んでそういう汚い仕事を押し付けているのがヒレツなのである。
 給料もらってる身がこういうことを言うのはなんなのだが、ウチの会社、マジで潰れたほうがいいとは思うな。
 
 Aさんのトラブルは、私は管轄違いのところで起こったことなので、傍観するしかなかったのだが、私の部署でも人間関係のトラブルはしょっちゅう起こっている。
 今日も若い子が一人、「私もう、この会社辞めます」なんて私に泣きついてきたので、小1時間かかってなだめるハメになった。原因は女同士の陰湿なイジメ、と本人は主張するが、これも見たところ被害妄想がちょびっと入っている。
 だからと言って、「考え過ぎだよ」と簡単には言えない。それは頭ごなしにその子の主張を否定しちゃうことになるので、下手をしたらヒステリーを起こされかねない。
 ともかく、どんなことをされてるのかを詳しく聞く。それから「陰口ぐらい気にするな」とか「イヤな態度を取られるのなら無理して付き合うことはない」とか、「陰口に負けたくらいのことで会社辞めちゃうなんて損だよ」とか、いつのまにか自分の仕事を中断して、人生相談を始めているのである。
 いや、その程度ならまだいい。なかなか泣きやまない彼女を持て余して、気がついたら、「君がいないと、会社も寂しくなっちゃうよ」とか、「君がいなくなっても悲しむヤツはいないなんて言うな。少なくともオレは悲しい、それは確かだ」とか、聞きようによっては口説き文句みたいなことを口走っているのだ。
 やばい……( ̄∇ ̄;)。
 いや、別にこの程度のことで私とその子の間でナニがナニしてナニになるとは思わない。私は中年である。しかも「冴えない」とか「しがない」とか「むさくるしい」とか、そういう形容詞が上についたほうが似合うようなナリなのだ。
 でも、私のその場限りの激励にもそれなりの効果はある。ようやく「明日も……会社に来ます」と言ってくれた彼女のその顔には、明らかに私への感謝の表情が浮かんでいたのだ。
 これがきっかけになって、必要以上に私が慕われたりしちゃったりなんかして、仮に例えばもしも万が一、「今度、藤原さんのお宅に遊びに行ってもいいですか?」なんて言われたら、しげに何と言われることになるか。
 いや、これは私の妄想ではなく、たまにそんなこと言ってくる若い子が実際にいるのだ。職場は職場、私生活は私生活で厳密に分けておきたいのだが、若い連中の面倒を見て行く過程においては、そうもいかない場合もある。面倒は見るが期待はするなという線引きをちゃんと引いておかないとマズいのである。
 読者諸君はここから何か胡乱な展開があるんじゃないかと期待する向きもあるかもしれないが、そういうことは絶対ないので煽らないようにね(~_~;)。


 岡田斗司夫『オタクの迷い道』(文春文庫・620円)。
 単行本買ってるけど、こんなに特典が付いてたんじゃ、買うしかないですねえ。単行本のときは、表紙のモデルさんがあのインリンだとは気づいてなかった(日本全国で、「あれは『インリン』じゃなくて『インラン』だな」という寒〜いオヤジギャグを思いついたヤツが五万人はいると思われる)。当時はイケてないキャバクラ姉ちゃんみたいだなあ、とか思ってたのに、こんなに売れるとはねえ。かと言って好みになったわけじゃないんだが。

 唐沢俊一・宮脇修一両氏との対談は、なんと87ページにも及ぶ。しかもその内容の濃いことと言ったらもう(_△_;)。
 対談中に「我々は薄い」発言があるが、もちろん全てのオタク情報を知識として仕入れることなど不可能なことを認識した上での発言である。
 岡田さんや唐沢さんが若いオタクに向かってよくする「こんなことも知らないのか」発言にカチンと来て「自分はどうなんだよ、おまえらだってこんなことも知らないし薄いじゃないか」と難癖つけたがる人は結構いるようだが、オタクとしての「濃さ」ってのは、単に知識の多寡にあるのではない。手に入れた情報が、自らの価値判断のフィールドの中でどのような位置に属しているのかを分析できる「能力」、更にはそれを社会的な価値判断の中にも反映させていける「表現力」を言うのであって、ただ単に知識があるだけでは、そりゃ、ただの「知ったかぶり」でしかないのである。
 某掲示板の定連さんなんかみんなそうだからなあ(-_-;)。
 唐沢さんの「オタク」を標榜するスタンスも、この対談や最近の日記を読んでいると、少しずつ変わってきているなあ、と思う。『オトナ帝国』を誉めていたころには、まだ世代間を越えたオタク的知識の伝達がありえるのではないかと考えておられたようだが、何だか最近は若い世代の無知無教養ぶりに諦めがちのようだ。
 私はもう「『オトナ帝国』は万博世代以外には本当には分らない」と思っているし、30代以下の人間の『クレしん』に対する面白がり方は総じてウスいなあと寂しく感じているのだが、でも「実体験」のないヤツに想像力で補えと言っても限界があることは仕方のないことなのだ。
 例えば、戦争経験のない人間の反戦の主張がほぼ全て偽善にしか見えないことと状況は同じである。
 祖母が目玉の松ちゃんや林長二郎の魅力を熱く語り、母が大川橋蔵の死とともに「青春が終わった」と語った「事実」は伝えられるが、その「実感」は決して祖母や母の中から私に移し替えられはしないのである。
 唐沢さんが小林信彦の「リアルタイム経験論」を苦々しく思いつつも受け入れざるをえないと考えておられるのも、自分が「オタク第2世代」として、その時代に生まれていなければ、自らオタクの道を選択することはなかったこと、言い替えれば、時代が「岡田斗司夫」を生み、「唐沢俊一」を生んだことを実感されているからであろう。
 だとすれば、これからの「時代」において、「オタク」はどういう「在り様」を作っていけばいいのか、その指針を示すことが唐沢さんのこれからの「仕事」になっていくはずなのだが、唐沢さんはズルイことにそのアタリについてはあえて発言を控えている。
 自分の著作でそれは語って行くおつもりなんだろうなあ、つまりこの対談は『唐沢俊一的オタク論』の予告編のようなものなので、人の軒先を借りてちゃっかり伏線を張っているあたり、相変わらず商売上手なことである。

 岡田斗司夫さんの本なのに、唐沢さんのことばかり書いちゃったな。
 それじゃあんまりなので、岡田さんのことにも触れておこう(^o^)。今回、初めて知ったのだが、この連載の文章を実際に執筆されていたのは、奥さんの岡田和美さんであったのだった。悪く言えば奥さんは旦那さんのゴーストライターであったわけだが、これは夫唱婦随の合作と考えるべきだろう。
 こういう夫婦関係って羨ましいなあ。
 岡田さんは開田裕治さん夫妻を「オタク同士の理想の夫婦像」と語っているが、どうしてどうして、『フロン』の件でも分る通り、岡田さん夫婦もお互いの人格を理解しあって、あの二人にしかできない夫婦関係をちゃんと築いておられるのである。
 夫婦というものが絶対無二のものであり、他との相対的な価値判断で見なすことがどれだけ愚かしいかということを、実践しちゃっているのだ。これから書かれる岡田さんの本も、全部が全部ではないにしろ、岡田さんが語ったものを奥さんがまとめる形で成り立つものもたくさん生まれていくのであろう。「岡田斗司夫」とは実は、「エラリー・クイーン」であったのだ、という嬉しい発見である。


 晩飯はしげが仕事に行く時間が迫っていたので、マクドナルドのドライブインでてりたまバーガー。ちょっと簡単過ぎ(~_~;)。
 でも、これがわれら夫婦の現在のスタンダードスタイルなのである。別にそうなりたくてなったわけではないのだが。

2002年03月06日(水) 夢のビル・ゲイツ/『金田一耕助の新冒険』(横溝正史)
2001年03月06日(火) 優しい夫ごっこ/『真・無責任艦長タイラー2 奮闘編』(吉岡平)ほか


2003年03月05日(水) テレビアニメまとめて感想/『TRICK2 THE COMIC』(西川淳)/『ギャラリーフェイク』27巻(細野不二彦)ほか

 長々書くのにちょっと疲れてきてるんで(なら短くしろよ)、今日も他人のフンドシで行を埋めるインケツワザ。
 大地丙太郎監督のホームページ「大地丙太郎WEB」の3月4日の記事より。

> 見る方も全部見るのは不可能なのでダメだと思う作品は自然と淘汰されると思うんだけど、1クール放映と言う短い期間で終わってしまうためダメだと気づいた頃には遅かったりするんだよね(笑)見る方の意見としては贅沢な話だけど、やはり本数減らしてクオリティを上げてもらいたいところ。ヤシガニ(この表現嫌いなんだけど)がアニオタの間でしょっちゅう引き合いに出される事自体異常なんだから。

> ちなみに3月現在の録画対象(※録っているモノ≠観ているモノ)。1軍は録り逃がすと後悔するもの。2軍は録れなかったら仕方ないか、くらい。

> 1軍:クラッシュギアNitro、ギャラクシーエンジェル、花田少年史、ボンバーマンジェッターズ、プラトニックチェーン、ビッグオー、天使な小生意気

> 2軍:WOLF'S RAIN、デジモンフロンティア、明日のナージャ、星のカービィ、ミルモでポン、ふぉうちゅんドッグす、ストラトスフォー

> 正直ナージャはそろそろ辛くなってきたので録画対象から外したくなってきた(;´Д`)ただでさえ土日はエンコが立て込んでるし。とっとと島編に行って欲しい。

 実際、もう全てのアニメ・特撮を追いかけるのは仕事持ってる身にゃ無理だし、DVD録画したって、見返す時間なんてない。既に私ゃ「日本映画専門チャンネル」を録画して見てないやつが10本越してるんである。ましてや毎週放送のアニメはなあ……。
 そのことを考えると、アニメ業界の真っ只中にいて、これだけのアニメを見ようとされてる大地監督は立派なものである(仕事サボってるわけではあるまい)。だいたい、業界の人って、同じ業界の人の仕事って気にしないって人も多いからねえ。
 私は必ずしも大地監督の作品を世間ほどには買ってないんだけれど、一見誠実そうに見えて、その実、海千山千魑魅魍魎有象無象百鬼夜行の様相を呈しているらしいアニメ界の中で(ホントにそうかどうかは知らんが)、大地さんは珍しく本当に「誠実」っぽいのだ(だから作るものがつまんないという意見もあるが)。
 しかも大地さんは、巷間言うところのピュアな人(『HERMES ヘルメス 愛は風の如く』なんてのを作っちゃうようなスタッフのことね)とは意味が違う。見ている作品の評価の仕方からして、“作品造りに対して誠実”だと思うんである。
 『クラッシュギアNitro』に注目してるところなんか特にね。こういう人が推薦してくれる作品なら、ちょいと見てみようか、という気にさせられる。
 いや、私もここに挙げられてるアニメ、一応八割方は飛び飛びながらチェックしてるんだけれど(福岡で放映されてないのは除く)、量が多すぎて日記に全部感想なんて書いてられないんだって。
 だから今回、大地さんの日記にかこつけていくつか感想書いちゃうけど、『クラッシュギア』は未だにCG部分に慣れないけれど、作画はピカイチ。大地さんがチェックする理由ってのも分るねえ。あのスタッフは、『ミトの大冒険』の流れなのかな?
 『ギャラクシーエンジェル』はフザケてるワリにSFテイスト満載なんて回もあって、ついつい見てしまう。堺三保さん脚本のときなんかはやっぱりいいね。
 『WOLF'S RAIN』はこの期に及んでまだ『エヴァ』やるかって印象。アニメファンとやおいファンのどっちを狙ってんだか分らない中途半端なキャラデザインもちょっとなあ。
 『ストラトスフォー』も期待したほどのできじゃなかった。いや、まあまあの出来ではあるんだけれど、「今更」感が強くってね。もう少し前に見てたんならちっとはハマッたかもしれないけれど、「女の子ばかりの部隊」ってだけでもう、なんというか……。
 でも、この人もう死んでいいよと言いたくなるくらいヒドイ、某あ○○り○○るの脱力感しか与えてくれないクソ脚本の某日露戦争アニメよりゃずっとマシなんだよねえ。ロシアがどうのこうの以前に、シナリオとしてクソだよなあ。みんな揃ってのケツ振りエンディングも虚しいよなあ。
 ほかのもちょこちょこ見てるのもあるけど、感想は特になし。


 晩飯は回転寿司の「しーじゃっく」。
 モーニング娘。の歌う『ひょっこりひょうたん島』が流れてくるのを聞いて、その余りの思い入れのなさっぷりに殺意を抱く。
 何が「2003年の『ひょっこりひょうたん島』を歌うことになりました」だ。ライオンさんに食わせてやろうか(優しいから食わないだろうけど)。


 天神で買い物をしたかったが、しげが「眠い」というので中止。
 その代わり、近所の本屋に寄ってもらう。しげはいやがっていたが、そこで明智抄さんの新刊『砂漠に吹く風』(新装版)上下巻を発見する。
 実は、しげが一番好きな作家さんが明智さんである。寄り道するのを初めはブツクサ文句を言っていたしげだったが、途端に「買う買う」とウシみたいなことを言い出して、ケロッと機嫌がよくなる。


 マンガ、鳥山明『ドラゴンボール完全版』7・8巻(集英社/ジャンプコミックス・各980円)。
 このあたりを読み返してると、レッドリボン編が終わったあたりで連載やめときゃ、鳥山さんの作品の幅も広がったろうになあ、と思っちゃうな。これ以降はもう、全てこれまでのパターンの拡大再生産になってくから。
 アニメの方は確か、このへんで連載に追いついちゃって、露骨に水増しやオリジナルが増えてったころだね。「ヤッホイ編」なんてどうでもいいのまで差し挟んでたし。それでも人気が落ちなかったのは、鳥山さんにとって不幸だったよなあ。今、鳥山さんが連載できなくなっちゃったのも『ドラゴンボール』の後遺症だろう。


 マンガ、堤幸彦監修・蒔田光治原作・西川淳漫画『TRICK2 THE COMIC』(角川書店/単行本コミックス・588円)。
 『六つ墓村編』と『妖術使いの森編』を収録。
 このままどんどん続くのかな? 絵は相変わらずヘタなんだが、コマ割りのメリハリの付け方はうまいので何とか読めはする。読めるだけで面白いとは言わんが。監督は「これはミステリではない」と言ってるけれと、だったらミステリ仕立てにするなよ。
 ……で、小説版読んだときも気になったこと。どうして森のだと毛が伸びるの?


 マンガ、細野不二彦『ギャラリーフェイク』27巻(小学館/ビッグ・スピリッツ・コミックス・530円)。
 指名手配の似顔絵までネタにするかなあ。確かに社会の隅々にまで「芸術」はあるんだけれど、これが2巻や3巻のころに描かれてたのならともかく、27巻まで来てるとただの「ネタ切れ」にしか見えないのが残念。
 国宝Gメンの知念さんが仏像の指折っちゃう話なんか、別にこのシリーズでやらなきゃならないような話でもないし。
 絵も荒れてきてるし、30巻くらいでキリよくケリつけようよ。

2002年03月05日(火) さよなら半村良/ドラマ『盤嶽の一生』第1話/『かりそめエマノン』(梶尾真治)
2001年03月05日(月) SMOKE IN MY EYES/『銀河帝国の弘法も筆の誤り』(田中啓文)ほか


2003年03月04日(火) 騙されるほうがねえ/『たったひとつの冴えたやりかた』(J・ティプトリー・Jr.)/『ENDZONE』2巻(えんどコイチ)ほか

 訃報が二つ。
 ミステリ作家・生島治郎氏が、2日午後、肺炎のため死去。享年70。
 氏の「兇悪」シリーズ、これは好きで何冊か読んでたんだが(単行本はよく出てたけど、文庫は数冊しか出なかった。あれだけのヒット作家だったのに、なぜかなあ?)、「日本におけるハードボイルド小説の草分け」とか言われてるわりに、結構ウェルメイドだな、と思った印象がある。
 もっとも私は、「ハードボイルド」というジャンル自体、そう信じてはいない。心理描写を全く欠いた、完全に「乾いた」小説など書きようがないと思っている。ダシェル・ハメットだって、ロス・マクドナルドだって、主人公の行動の背景に当然その人物の心理が読み取れるようになっているのである。
 「兇悪」シリーズのテレビ映像化『非情のライセンス』は、主役の会田刑事を演じた天知茂の眉間のシワが全てと言っていいような番組だったが、それでも後年のフヤケタ明智小五郎シリーズよりはずっと出来がよかった。もっとも原作の会田はもっと地味で、確かにテレビほどに饒舌ではない。原作のイメージで言えば、どちらかというと仲代達矢に演じさせたかった感じである。
 文体が乾いている、という点では、生島治郎の後継者は、北方謙三でも大沢在昌でもなく、ましてやいしかわじゅんではなく(^o^)、赤川次郎なのではないかと思っている。実は赤川次郎のデビュー作は、『幽霊列車』ではなく、この『非情のライセンス』のシナリオなのである。赤川次郎が、誰を範として小説を書き始めたかが分ろうというものだ。
 後年の生島さんはあまり好きではない。例によって、『片翼だけの天使』に失望したためだ。在日外国人のソープ嬢との恋愛が成立しないとは思わない。だが生島さんの「思い」はあまりに「甘々」だ。こりゃ破綻するよ、と思っていたら、ホントにそうなった。
 映画になった『片翼』も見に行ったが、あまりに退屈でつまらなくて、途中で席を立って帰った。そんなことをしたのは、『暖流』と『プロ野球を100倍楽しく見る方法』の三本しかない。どんな作品にも一人よがりな部分はあるが、それも程を過ぎると、鼻につくのである。
 でも、この人も文壇的な評価はキチンとされてないって思うなあ。生島さんばかりでなく、大藪春彦も河野典生も小鷹信光も、日本のハードボイルド系作家たちは、みな過小評価されてるように思えてならない(確かに駄作も多いんだが)。アメリカじゃハードボイルド小説はヘミングウェイの流れに連なる現代小説の1ジャンルとしてちゃんと評価されてるってのにねえ。

 もう一つの訃報は、声優兼構成作家の井上瑤さん。2月28日午前、癌で亡くなったことが古谷徹氏のホームページに記載されていた。新聞等に訃報の記事はまだないが、まず間違いなく事実だろう。
 掲示板に以下のように書きこみ。

> 塩沢兼人さんが亡くなったときもショックだったけど、井上さんも……。
> 声優さんはあまり誕生年を発表しないから、正確なお年は分らないけれど、まだ50歳とちょっとだったんじゃないか。早いよ。早過ぎるよ。
> 『ガンダム』を「たかがロボットアニメ」と見ている人たちに対して、ムキになって一番熱弁を振るって擁護してたのが井上さんだった。ガンダムへの思い入れが強過ぎて、富野監督とケンカしたこともあった。それくらい作品に全身全霊をかけてぶつかる人だった。
> アニメが好きで、声優が好きで……。
> あえて断言するけれど、『ガンダム』の声優陣で、一番ファンに近かったのが井上さんだったのだ。
> 寂しい。

 「思い入れが強すぎて」の部分は、役者としては損な部分だったのではないかと思う。『うる星やつら』で最初の2年ほど、ランを演じていたのが、突然「インドに行って来る」と役を降りてしまった(後任は小宮和枝さん)。絵に描いたような思いこみぶりに、多少の心配を覚えたのも事実だったので、後に『うる星やつら完結編』のカルラ役で復帰したことは嬉しかった。
 声優の活動だけでは飽き足らず、『クイズダービー』の問題作成も長い間されていた。ともかく雑多な知識欲の旺盛な方で、唐沢俊一さん以前の一行知識マニアでもいらっしゃったのである。
 なぜ声優が構成作家に? そういう疑問を持つ人の方がかつては少なかった。アニメブーム以後にこの世界に入ってきた人たちと違って、自分たちが声優である前に役者であり、役者としてまず何をしなければならないか、ということを真剣に考えている人なら、「声優以外の活動」もごく自然の流れだからである。

 『ガンダム』シリーズも、『逆襲のシャア』にセイラさんが出てこないのはどう考えてもおかしいのである。富野監督は、イベントなどで「セイラさんは声優さんがボクを嫌っているので出ません」と冗談めかした発言をしていたが、実際にそうした部分もあったのではないか。
 井上さんのエピソードで、こんな話がある。
 『ガンダム』関係か何かのパーティで、どこぞの会社のおエライさんが、「どうして『ガンダム』はこんなに人気があるんでしょうかねえ」と井上さんに聞いたとき、井上さんは、「あなたは『ガンダム』を一本でも見たことがありますか? 見たことはないでしょう。見ていればなぜ『ガンダム』に人気があるかは分るはずだからです。何か仰りたいなら、ともかく一本でもいから、まず『ガンダム』を見てみてください」と啖呵を切ったという。
 ……カッコイイなあ(T-T)。
 役と役者を同一視する愚は避けたいと思いつつ、「セイラさん本人や!」という思いを打ち消すことができない。
 そんな井上さんだから、「たかがロボットアニメ」と、自作に対するあまりに自嘲気味な発言を繰り返す富野監督に対して(富野さんがそう言いたがる気持ちも理解できなくはないんだが)、井上さんが不満に近い思いを抱いていたであろうことも見当がつく。
 富野さん、どうして『逆シャア』をアムロとシャアとセイラさんの物語として描かなかったんだ。
 今更言っても詮無いことではあるのだが。

 『未来放浪ガルディーン』のアニメ企画も、火浦功がもちっと作家としてマトモだったら実現してたんだよなあ。塩沢さんも井上さんも亡くなった今となっては、仮に制作されることがあったとしても、全然別物になってしまう。火浦功、なんでちゃんと原作書かなかった。
 今更言っても詮無いことではあるのだが。

 セイラさん、ランちゃん以外にも、シェリル、香貫花、おそ松くん、天野邪子、ゲベルニッチなど、役は変われど聞いただけで「瑶さんだ」とすぐわかる個性のある声。そんな人が、どんどん少なくなっているように思う。
 惜しみても余りある思いが、汲めども尽きぬほどに流れてくるのだ。
 

 仕事帰りの晩飯、「王将」で牛モツラーメンと豚の天ぷら。
 ここも間を置いて行くと、いろいろ変わったメニューが増えている。
 料理が来るまでの間、例の「ウソ職業」を集めた本、クラフト・エヴィング商會の『じつは、わたくしこういうものです』をしげに「これ、面白いよ」と言って読ませてみたのだが、何ページか読んで、腹立たしそうに「読んだ」と言って、突き返してきた。
 「面白くなかった? こういうの好きかと思ったんだけど」
 「だって、ふざけとうやん!」
 「……何が?」
 「妖しいオヤジが『月光密売の方法は秘密です』とか言って、明かそうとせんもん!」
 「……何言ってんの? 明かそうったって明かしようがないやん」
 「なんで?」
 「できるわけないじゃん!」
 「だって、ここに『月光密売してます』って書いてるじゃん!」
 「……おまえ、もしかして、この本に載ってる職業がホントにあると思ってる?」
 「違うと!?」
 「『月光』なんて、どうやって密売するんだよ! ウソだってすぐわかるだろ!?」
 「だって、写真で杯持ってるじゃん! 何か秘伝のワザがあるのかなって思って……」
 「『一瞬にして、地球の裏側の夜のところから、表側の昼のところまで月光を運んでくる』って、できるわけないじゃん……。これは『ウソを楽しむ』本なんだからさあ、少しは気づけよ」
 「だってオレが騙されやすいの知っとろ? エロさんとこの『銀河パトロールのジョンさん』にだって騙されたんだから!」
 だからなあ、エロさんには誰も読者を騙そうなんて意図はないんだって。勝手に騙されたのはおまえだろうに。
 あの、読者のみなさま方の中で、しげのこういった一連の言動を読んで、「いくらなんでもそんなバカな人間はいないだろう、私が話を誇張しているか作ってるんじゃないか?」と思ってらっしゃるかもしれませんが、しげに関する限り誇張は全くありません。まんまです。典型的な天然かつ不思議ちゃんなのです。劇団の連中にはもっと激しい不思議ちゃんが何人もいるので一番マトモに見えるのですが(考えてみたらすげえ劇団だ)、単に総体的な問題でしかありません。
 で、思い出したので書いときますが、これも実話です。
 以前、空を見上げて、「実はあの空って書き割りなんだよ」としげに言ったら、「へええ」と感心してました。……信じるなよ(-_-;)。


 またまたあぐにさんにSF作品を紹介しようと、本棚をひっくり返して、何冊かをセレクト。既読のものでも、やっぱり読み返さないと、とてもレビューなんて書けるものではないのである。

 まずは、「これを読んでハンカチを涙で濡らさなかったら人間じゃない」とまで評されたジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『たったひとつの冴えたやりかた』(ハヤカワ文庫・720円)。
 作者は「ジェイムズ」と名乗っているが、実は女性。そして本作を遺作として、老齢で寝たきりだった夫を射殺した後に自らも覚悟の自殺を遂げた。人類の過去の歴史を語るこの短編集に込められた、作者の最後の思いを感じながら読むことも可能だろうが、私は余りそういう読み方はしない。作品論と作家論は分けて読むほうなもので。
 表紙イラストが川原由美子で、これもポイント高し。
 『エヴァ』の最終回はハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』(こちらは余り好きじゃないので奨めない)から取られているが、設定資料だと当初はこの『たった一つ』になる予定だったことが分る。話に共通性は……あるんかなあ?(^_^;)

  16歳になったばかりのお転婆娘のコーティー・キャス。親にナイショで憧れの星空に飛び出した彼女は、宇宙の裂け目「リフト」で奇妙なエイリアンに出会う。それは分子なみに超微小なイーアという種族の「少女」で、なんとコーティーの頭に住みついてしまった!
 なぜか意気投合してしまった二人(?)は、更なる宇宙の冒険に旅立つのだが……。

 リリカルなSFが好きな人にはたまらなく切ない物語だが、正直言って、昔、最初に読んだときには、主人公コーティ・キャスの「青二才」……と言うか、はっきりと「バカ」だよねえ、この子。そのバカっぷりがどうにも付いて行けなくて、鼻白んだものだった。ラストの切なく厳しい彼女の決断も、「結局は自業自得じゃん?」てなもんで「『好奇心猫をも殺す』って言葉知らない?」って彼女に言いたくなっちゃったのである。
 それに、この物語の基本設定は、トム・ゴドウィンの『冷たい方程式』に属するものなので、少女に対して一片の同情も持たないこちらのオリジナルの方が私には好みだったのである。
 ところがトシを取ってくると涙腺が弱くなってくるのか、バカもバカとして赦せるようになってくるというのか。読み返してみると不思議不思議、昔は腹立たしかった主人公「二人」の「バカさ」加減が、妙にいとおしくなってきたのである。
 そうだよ、「人」は本来「バカ」な存在なんだ。コーティも、そして「彼女」もやはり自らを知らぬ愚か者。けれど、自らが愚かであることの運命を、受け入れたがらぬ者が、現実の世界にどれだけ蔓延していることだろう。それに比べれば、コーティたちの「決断」がいかに潔いことか。
 今回読み返してみて、これならSF嫌いの人にでも推薦できるなあ、と思った次第。けれどあぐにさんはともかく、しげだったらやっぱり『冷たい方程式』の方が好みだろうなあ。


 次にR・A・ラファティの『九百人のお祖母さん』(ハヤカワ文庫・699円)。
 先日、こうたろう君と電話で会話したときに、「あぐにさんに『九百人のお祖母さん』を奨めるのはどうかな? あれは比較的新しいし」と喋ったら、「新しくねえよ」と言われてしまった。確かにもう30年も前の作品なのである。でもSFの黄金期を1950年代だと思ってる身にとっては、これもつい最近って感覚なんだが。
 吾妻ひでおの『不条理日記』の中にこれをパロって「九百人のおばあさんに出合う」というのがあったが、パロディのワリには別になんという捻りもない。でも捻りがなくてストレートだからこれは笑えるのである。
 だって、もともと、この原典自体が風変わりでヘンテコで人を食ったSFなのだから、ヘタな捻りを加えるより、「九百人のおばあさん」と言ったほうがそのまま笑えるのである。
 一時期、SFファンの間で、何か面白いウワサ話やフォークロアを聞いて、それを伝えようとするのだが、うまく言えない。「おかしいなあ、この話、もっと面白かったはずなんだが」なんて言ってる奴に「そりゃ『馬の首』(小松左京)だろう」なんて言って突っ込んだものだったが、どちらかというと、これ、「『九百人のお祖母さん』かよ」と言った方がピッタリ来るのだ。『馬の首』は怪談だけれど、『九百人』は純然たる「悪趣味小説」だからねえ。何しろ読んでて「足元掬われる」感覚が大きくって、一度ハマっちゃうとこの味わいがたまらない。

 “誰も死なない星”プロアヴィタス(藤子・F・不二雄『モジャ公』のジュゲム星はこれがもとネタかな)。
 確かにここには墓はない。果たして本当に彼らは死なないのか? 調査員セランは、ふと、「誰も死なないのならば、彼らの祖先は、宇宙の原初から生きているのではないか?」ということに気づく。
 そして、彼は、プロアヴィタス人の祖先をたどり、「九百人のお祖母さん」にであうことになるのだった。

 え? 出会ってどうなったかって?
 いや、そんなこと可笑し過ぎて言えませんって(^o^)。


 シオドア・スタージョン『夢みる宝石』(ハヤカワ文庫・530円)。
 これ、うっかり二冊買っちゃって、1冊はC−1君にあげたんだけれど、感想聞き損なってたなあ。久しぶりに会ってみたいが、老けてるような気がするなあ。いろんな意味で(^o^)。

 養父に虐待され、家を飛び出した少年、ホーティ・ブルーイット。
 彼が逃げこんだカーニヴァル一座は、フリークス・ショー(かたわ者の見世物)を売り物にしていた。世間から迫害されている奇形児たちの中で、初めて安らぎを覚えるホーティ。しかし、ホーティの不思議な「能力」に気づいた一座の美しき小人・ジーナは、不安を覚え始める。
 その一座の団長「人食い」モネートルは、ホーティの「能力」を有する「宝石」の行方を何年も探し続けていたのだった……。

 トッド・ブラウニングの映画『フリークス(怪物団)』に着想を得たのか、物語の舞台がカーニヴァル団というのも驚き。何となく江戸川乱歩の『孤島の鬼』をも彷彿とさせるが、これはまあ、『フランケンシュタイン』や『モロー博士の島』からの平行進化だろうな。
 「作られしものの悲しみ」というのはもともとは宗教的なテーマなのだけれど、それをSFという形で定着させ、未来の人類の課題としたのは、チャペック、アシモフの功績ももちろん大なのだが、スタージョンの一連の作品も貢献してるのではないか。
 なんと言っても胸を打つのは、彼らの自らの犠牲を厭わぬ優しさに満ちた心である。
 ラスト近く、ホーティが「宝石」との交信を通じて感じた「存在」に対する問い掛け。その哲学的観想を「意味不明」と取るか、それとも、そこにあるものの「絶対的肯定」と取るか、あるいは……これらの解釈の違いによって、この物語の楽しみ方も様々に変わるだろう。


 マンガ、えんどコイチ『ENDZONE』2巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 「死」をモチーフにしたサプライズ・ストーリー、と来ればどうしてもえんどさんの前作(と言っても相当ムカシだが)『死神くん』を想起しちゃうんだけれど、殆どのエピソードをハッピーエンドにせざるをえなかった『死神くん』に比べれば、この『エンドゾーン』は随分自由になっている。まるでキレイゴトを描き続けた反動が一気に来たように、アンハッピーエンドの連続なのだ。
 もっとも、強引にハッピーエンドにしていたときのようなムリな展開がなくなって、オチが随分すっきりとしている。どこかで見たことがあるようなアイデアが多くなってしまうのは、こういうアイデア・ストーリーの場合にはどうしても起こる問題ではあるのだが、1巻のころよりは随分練られてきている。
 それこそ、若い人は『ミステリーゾーン』も『アウターリミッツ』も知らないから、新鮮に見えるかもしれないが、我々の世代ともなると、もうオリジナルアイデアなどは期待してなく、元ネタに「いかにアレンジを加えているか」という点にしか興味はないのである。特に、『雪女』などは先行作がゴマンとあるのだからゴマカシが利かない。眼を見張る、とまでは言えないが、えんどさん、なかなか健闘していると思う。
 惜しむらくはなあ、これで絵が上達してたらなあ。
 やっぱ、『とんちんかん』の絵柄でホラーはちょっとねえ(-_-;)。

2002年03月04日(月) 愛のタコ焼き情話/『八戒の大冒険 2002REMIX』(唐沢なをき)/『ダルタニャンの生涯』(佐藤賢一)ほか
2001年03月04日(日) 一日が短い。寝てるからだな/アニメ『ソル・ビアンカ』1・2話ほか


2003年03月03日(月) 東京始末&ニュースの森(^^)/舞台『奇跡の人』

 3月2日の日記の続き。

 シアターコクーン、初日だけあって、大混雑、花輪の類も目新しい。
 まずはパンフレットを買って、パラパラとめくる。大竹しのぶの公演記録が載っているのを見て、こうたろう君が、「あれ? 大竹しのぶ、ヘレン・ケラー演じたことなかったっけ?」と首を捻る。
 実は大竹しのぶ、『奇跡の人』でヘレンを演じたことはない。『ガラスの仮面』での劇中劇でヘレンを演じているのだ。でも、デビュー当時の『青春の門』や『事件』のころの大竹しのぶの演じるヘレンを見てみたかったなあ、と真剣に思う。それはパティ・デュークを越えていた可能性があるのだから。
 座席に着くなり、こうたろう君、「さあ、オレの鈴木杏はがんばってるかな」とかなんとか、世迷言をほざく。いったいいつから私の鈴木杏がこうたろう君のモノになったというのか。勘違いも甚だしいのである。

 舞台『奇跡の人』。
 『ガラスの仮面』で有名な、って言ったら、20年前なら「ふざけんな」と演劇関係者からドヤしつけられても仕方がなかったんだけれど、今やそっちのほうが通りがよくなってないかな。
 でもやっぱり私は「三重苦から立ち直ったヘレン・ケラーと、その先生のサリバンさんの実話だよ」と、フツーの説明がしたい。何たって、私が子供のころ、ヘレン・ケラーはまだ生きてたんだから。歴史上の人ではなく、今を生きる偉人だったのである。
 これは、そのヘレン・ケラーがサリバン先生との「戦い」の末に「言葉」を手に入れるまでを描いたウィリアム・ギブソン作の戯曲であり、アーサー・ペン監督によって、舞台化・映画化もされた文句なしの傑作である。
 舞台・映画の両方で主演・助演したサリバン先生役のアン・バンクロフトと、ヘレン役のパティ・デュークは揃ってアカデミー賞を受賞した。
 これだけの名作だと、そんじょそこらの役者ではとても勤まるものではない。冗談ではなく、サリバン先生とヘレンの戦いは真剣勝負となる。これまでサリバン先生はずっと大竹しのぶが演じていたが、ヘレンの役はその都度変わっている。1986年・安孫子里香、1987年・荻野目慶子、1992年・中嶋朋子、1998年・寺島しのぶ、2000年・菅野美穂、そして今回の鈴木杏である。
 これまでの『奇跡の人』は一本も見ていない。ずっと福岡にいたんだから仕方ないのだが、記録を見ると、98年版は福岡にも来てたのである(気がつかんかったなあ)。
 評判を聞く限り、大竹しのぶのサリバン先生は絶賛の嵐であった。「ともかく一度は生で見ねば」。これはここ10年ほどの私の強い思いであったが、菅野美穂の時には上京する気が今一つ起きなかった。菅野美穂がいい役者だということは分る。けれど、ああいう「入り込む」タイプの役者がどういう演技をするかはだいたい見当がつくのだ。大竹しのぶも「入りこむ」タイプではあるが、あの人はそれでいて自分を突き放して見ているところがある。「入りこむ」人は、そこで満足して、それ以上の輝きを見せられぬままに終わることも多い。「自分が観客の眼にどう映るか」。それが計算できないといけないのだ。それを捉えることが鈴木杏にはできるのではないか、『六番目の小夜子』『ジュブナイル』『リターナー』の鈴木杏になら。そう直観したのである。

 結論を言えば、私は大竹しのぶにはもちろんのこと、鈴木杏にも充分以上に満足した。ヘレンを演じる上で、何が一番重要か。三重苦の彼女が傍若無人に振舞うための武器は、嗅覚、触覚、そして「慣れ」である。
 鈴木杏は、ちゃんと、人形にはそれを突きつけられるまで反応せず、食料には鼻を突き上げて反応した。部屋の中を移動するときには、テーブルの縁を腰で辿りながら自然に動いた。広いところに出ればしゃがんで床を頼りにした。三重苦だからといって、そこはもう何年も住みなれた我が家なのである。不必要に手探りをするとかえって不自然になる。ヘレンは「自分がどう動くか」を知っていなければおかしいのだ。
 演出の舞台配置が凄い。回り舞台に、中空の二階。目明きでも、いや、目明きならばこそ、膝ほどの手すりしかない高い場所で演技をするのは足が震え体が泳いでもおかしくないのに、鈴木杏は自然に、しかも大胆に飛び撥ねる。もちろんそんなことは、装置を「信頼」していなければできることではない。鈴木杏は、舞台と装置もまた自らの相手とすべき演技者であることをちゃんと知っていて、見事に自分との間に一つのコードを作りあげたのだ。絶賛されてしかるべきだろう。
 大竹しのぶについては言葉を尽くせない。
 外国の戯曲が日本化された場合、どうしても違和感が生じるものだが、どう見ても生粋の日本人にしか見えない大竹しのぶがなぜアニー・サリバンに見えてしまうのか。その一挙手、一投足が、観客を弾きつけるワザとして作用し、ムダがない。私にとっては、『屋根の上のバイオリン弾き』の森繁久彌のテヴィエ以来の感動であった。

 ほかの役者さんについても触れておかねばね。
 辻萬長(アーサー・ケラー)。ただ頑迷なだけではない父親としての威厳を好演。ヘレンとサリバンを引き裂こうとする張本人だから、ヘタな役者が演じると「憎まれ役」になってしまうのだが、彼は絶対憎まれてはならないのである。
 しかし辻さん、太ったなあ(^o^)。
 キムラ緑子(ケート・ケラー)。これも決して嫌われてはいけないのだが、そこがやや弱い。「サリバン先生にヘレンを預けるのが正しいとは限らない」と思わせるくらいに自らを律する冷静さをも表現してほしかった。
 松金よね子(エヴ伯母)。井上ひさしが、パンフの解説でこのキャラクターがステロタイプ過ぎるのが欠点、と言っているが、そんなことはない。アーサーとケートの夫婦の人間としての深みを表すためには、こういう底の浅い人間が対照的に必要となるのだ。底の浅い人間にはその辺がよくわかんないんだよな(^o^)。松金さんのヒステリックな声は役にぴったり。
 吉田鋼太郎(アナグノス校長)。サリバン先生の師であるから、普通レベルの人間ではいけない。ご本人はパンフで「ヤンキーっぽく演技した」と語られているが、演技の質は浅草軽演劇に近い。鼻を啜るクセとか、こういうのをセリフの間に使うの、森繁久彌とかのお得意芸だし。悪くはないが、もう少し年上の人の方がよかったんじゃないかと思う。イメージは名古屋章かな。
 長塚圭史(ジェイムズ・ケラー)。まあ、これはバカでいい役だから(^o^)。
 お父さんの長塚京三さんが見に来られていて、幕間にロビーですれ違ったのだが、すごく険しい顔をされていた。息子さんの演技にもしかしたら腹を立てていたのかも。
 それにしても京三さんは背が高い。異相でもある。黒いマントを身に纏い(ホントに全身黒づくめだったのだ)、悠然と闊歩する姿を見ていると、まるでメフィストフェレスのようだ。この人の迫力をドラマや映画は全然生かしてこなかったのだな、ということが、ご本人を目の当たりにしてよーっく、わかった。意外に『魔界転生』の宮本武蔵役、合うかもしれない。

 終了は10時。3時間とちょっとだが、その間全く退屈しなかった。
 昨日今日と、全く毛色の違う芝居を二日連続で見て、どちらにも大満足というのは滅多にあることではない。ああ、東京に来てよかった! どっちの芝居も福岡で公演してくれたらもっとよかったのだが。
 見終わったあと、私もこうたろう君も「ええもん見させてもろうたわ」という顔でホンワカしていたのだが、しげは今一つ、という感触である。
 悪いとは思わないが、鈴木杏の動きが自然過ぎるのが気に入らないらしい。
 「階段から転げるときはホントに怪我するくらいじゃないと」
 ……って、それじゃ、次の公演できなくなるじゃん(^_^;)。

 外に出て、近くのレストランで、遅目の夕食。
 イタリアンっぽい店で、スバゲティやらハンバーグやらをゴタ混ぜに乗せたサービス定食みたいなのが美味そうだったので、それを注文したら、しげが「自分もそれを頼みたかったのに」という顔をする。頼めばいいじゃん(^_^;)。
 食事をしながら、ひとしきり『奇跡の人』を誉めあったあと、こうたろう君ともお別れ。
 別れしなにこうたろう君、しげに向かって、「こいつ(私である)さあ、今日は大人しかったけど、こないだ来たときはあぐにさんやあやめさんにお触りしまくってたんだよ」と、ありもしないデタラメを言う。
 しげの目が、途端に三倍くらいに見開かれたので、慌ててこうたろう君に向かって、「ウソつくなよ! こいつ(しげである)、どんなウソでも信じるんだから!」と怒鳴る。
 しげも、サラリと「私をだますの簡単ですよ。エロの冒険者さんの『銀河パトロールのジョンさん』も実在してるって信じてましたから」と笑って言うが、それ、全然威張れないって(-_-;)。
 こうたろう君、「オレもカミさんからいつも言われてるんだよ。『どうしてそんなにウソばかりつくの?』って」。そりゃあ、舌から先に生まれてきたからだろう……と言ったらまたしげは信じるにちがいない(^o^)。

 ホテルに戻って、風呂に入って寝る。
 しげも疲れていたから、ウトウトする間もなくストン、と寝たようだ。「枕が変わって寝れん」と言って、いつも泣いてるしげにしては珍しい。旅行先では適度に疲れるのがやはりいいようだ。



 ここから3月3日の日記。

 そう言や、今日って雛祭りだな、全く意識になかったが。
 飛行機の時間を考えて、5時に起床、6時にホテルをチェックアウト、の予定だったが、準備に手間がかかって6時半に出る。しげがまたいつものごとく焦って「間に合うかな、間に合うかな」を連発するが、これでも時間的には充分なんである。だからどうして8時半出発の便に、6時半に渋谷を出て間に合わないと考えるかな。
 夕べ寝たのが12時くらいだから、5時間くらいしか寝ていない。
 飛行機の中では行き同様、爆睡。機内ラジオの落語もクラシックも聞かず、『ちびまる子ちゃん』も見ず。昔はこれが旅の醍醐味の一つに感じてたんだがなあ。
 福岡に着くと、今度はこちらが雨。急に冷えこんできて、飛行機から降りるなり、慌ててトイレに走る。ところが、ロビーから出口のトイレまでの距離がひたすら長い。走って走って走って、やっとトイレに飛びこむ。軽く200メートルはあったのではないか。
 しげを置いてけぼりにした格好になったので、追いついてきた時の恨みがましい顔といったら。けれど、狭いトイレにゃ兄弟も夫婦もないのである。
 バスを待っても時間がかかりそうだったので、タクシーで帰宅。ゆっくり旅の疲れを癒したいところだが、しっかり午後から仕事なのである。
 やっぱり東京に行くなら、三連休とか、そういうときじゃないと、ごっつしんどいですわいなあ(疲れて言葉もオカシクなっているのである)。


 お出かけしてたんで、その間にありゃりゃと言いたくなるようなニュースがいくつか。
 まずは、2月28日に東京地裁で判決がおりた「ウルトラマン」訴訟について。
 円谷プロが、タイの映画制作会社チャイヨープロの会長、サンゲンチャイ・ソンポテ氏を相手取って、著作権の確認などを求めたんだけれど、「著作権は円谷プロに帰属する」と認定しておきながら、27年前に当時の円谷プロの先代社長(皐さんだよ……)とソンポテさんが結んだライセンス契約は有効だってことで、「日本国外ではソンポテさんに独占利用権がある」って判決をしたんだって。それって、著作権の意味がないじゃん(-_-;)。
 ああ、当時の様子が眼に見えるようだよなあ。
 胡散臭いタイ人の(きっと顔は黒く塗っているのだ)シャチョーさんが「たいデーハ、うるとらまん、大人気デース。映画一本、作ッテ、たいノ子供タチニ、見セテアゲテクダサーイ」なんてアヤシイ日本語で喋りかけるとさ、皐さんがニコニコ嬉しそうに「タイの子供たちのために作りましょう」なんて言っちゃうんだよ。
 「映画、うるとらまんダケデハサビシイデース。たいニハ、はぬまあんイウまんがカ……ジャナクテ、スクイノひーろーイマース。映画ニはぬまあん出シテクダサーイ」
 「いいですよいいですよ」
 「はぬまあんノ人形、子供タチノタメニ作ッテ売ッテアゲタイ、オモイマース。ケレド、はぬまあんダケデハサビシイデース。うるとらまんノ人形モ、イッショニ売リタイデース。イイデスカ?」
 「いいですよいいですよ」
 「たいノ子供タチ、ミンナビンボーデース。つぶらやサンニオカネハラッタラ、人形ノネダン、タカクシナイトイケマセーン。子供タチノタメニ、オカネトラナイデクダサーイ」
 「いいですよいいですよ」
 「デハココノトコロニさいんシテクダサーイ。コマカイトコロ、目ガワルクナルカラ、読ンジャイケマセーン」
 「いいですよいいですよ」
 とかこんな感じだったに違いないのだ。おのれタイ人。山田長政の恨みをまだ忘れてなかったか。
 それにしても円谷さんとこって最近トラブルが多いよなあ。ウルトラシリーズ以外の財産が殆どないとこだから、今度の判決は相当痛いに違いない。裁判官何考えてるんだ。お前だってウルトラシリーズ見て育って来たんだろう。あれのどこにタイ人の権利が生じるってんだ。詐欺を見逃して、それで法律家と言えるか。円谷を潰したいのか、こんちくしょう。
 ……と私が怒ったってどうにもなんないのである。今度の映画が終わったら、円谷さんとこ、どうなっちゃうんだろう。次の企画、ちゃんと立ってるんだろうか。


 これも随分、旧聞に属する話であるが、私は今知ったんだから仕方がない。
 しりあがり寿原作・庵野秀明監督の短編映画(実写だ)『流星課長』が、1月31日から2月8日までの9日間にわたって行われたフランスの「クレモン-フェラン短編映画祭」で、デジタルワーク部門のCANAL+AWARDを受賞したというニュースである。
 私もこういう映画祭があるってこと自体、初耳だったのだが、この映画祭、決してレベルの低いモノではなさそうである。世界60ヶ国以上から1500本以上の作品が参加しているとのことだから、庵野監督、充分誇ってよいのではないか。
 けど私、見たい見たいと思ってたのに未だに見られないのよ、『流星課長』。いつどこで上映してたんだ。公民館でも回ってたのか。
 その前の『式日』も東京と山口でしかやらなかったから見てないんだよねえ。あと確か、自衛隊の戦闘機かなんかのドキュメンタリーの監修みたいなことも庵野監督はやってたと思うんだけど、そういうのも殆ど世間じゃ知られてないよなあ。
 庵野さん、『エヴァ』以降は、自分の仕事が世間に露出するのをあえて制限してるような感じがするんだが、さて、いったいどういう意図でやってんだろうか。
 『エヴァ』のころはあれだけテレビアニメに拘ってたのが、『カレカノ』で途中リタイアして以降は、急にマイナー路線に行っちゃったのは、結局、どんなヒット作を作ろうと、アニメや特撮を認めない人間は決してその考えを改めない、という悲しい現実に嫌気がさしちゃったんじゃないかという気もする。
 実際、新聞やテレビ、雑誌などのメディアは、もう「今の」庵野監督の動向になんか全く目を向けてないんじゃなかろうか。ネットをあっちゃこっちゃ散策したからこそこういうニュースもなんとか入手できるんだが、新聞読んでるだけじゃあ、多分、こんなこと知らないままで終わってたろう。もう新聞なんか一次資料としての価値は10年前、20年前に比べて、著しく低下してるんである。
 新聞もテレビも、自分たちがメディアの王様みたいな顔してると、自らのプライドのせいで潰れることになっちゃうかもよ。


 更にも一つ、こっちはいかにも眉唾なニュース。
 『ルパン三世』のハリウッドでの実写映画化権を、『シンドラーのリスト』のプロデューサー、ジェラルド・R・モレン氏が取得して、「米国でヒット作にする」と意気込んでいるんだとさ。
 確か、何年か前にも、ジム・キャリーが主演するとかいうウワサがなかったか? 「映画化権取得」だけじゃ、実際の映画になるとは限らないって事実を、悲しいかな我々は何度となく見聞きしてきているのである。
 こういう「先走り」情報がリークされるマンガ家ってのにはある種の傾向がある。言っちゃなんだけど、「かつて大ヒットマンガを生み、今はその遺産だけで食ってる」人たちね。松本零士とか永井豪とか。作品を描いてないわけじゃないけど、とても「作品」と言えるようなものは生み出せなくなっている。かつては熱心なファンだっただけに、その敗残ぶりがもう悲しくってねえ。
 仮に本当に『ルパン』が実写化されるとして、それを喜ぶファンがどれだけいるんだろうねえ。だいたいハリウッドで映画化って、ルパンは何人になるんだ? わざわざフランスの役者を連れて来るのか? 次元や銭形、不二子はアメリカ人に変えられるのか? さすがに五右衛門を外人に変えるのはムリとしても、英語は喋らせられるんだろう。となると演じるのは誰になるんだよ、ショー・コスギかケイン・コスギかソニー・チバか藤岡弘か。『ラスト・サムライ』がヒットしたら真田広之ってセンもあるよな。
 で、面白くできるのかよ。原作者が喜んでるらしいのがねえ、どうにもねえ、逆にプロデューサーとか名乗ってるやつから何やかやと搾取されちゃうんじゃないかって気がして仕方がないんだけどねえ。いや、このモーレンさん、一応『シンドラー』や『マイノリティ・レポート』なんかのプロデューサーだってことは事実なんで、あまり疑っちゃ悪いんだけれど、日本人はジェフ・シーガルって山師にまんまと騙された過去があるからねえ(^_^;)。
 ま、話半分に聞いとくのが無難じゃないかね。


 最後に「なんだかなあ」なニュース。
 復縁を拒んだ女性を、「セーラー服姿で駅に来い」などと言って脅した容疑で、奈良県警は1日、大阪市の無職、水野勝正容疑者(24)を逮捕。
 記事を読んでもどうもよく経緯がわからないんだが、この男、去年の夏ごろからつきあってた22歳の女性から別れ話を切り出されて逆上し、先月の2月25日に「オレと別れるんなら家に火をつけるぞ、それがイヤなら、明日の朝、セーラー服を着て三郷駅に来い」と電話して、26日にその女性を無理やり呼び出したんですって。まあ怖い(いろんな意味で)。
 もちろん女性はセーラー服を着ていったのである。
 学生時代の着て行ったのか? よく持ってたよなあ。
 いや、そうではなくて。
 22歳でセーラー服って、回りからヘンな目で見られて恥ずかしかったろうなあ。それともまだまだ充分女学生に見えるタイプだったんだろうか。
 いや、そういう問題ではなくて。
 じゃあ、どういう問題かと問われると全く困っちゃうんだが、この男がどういう意図で女性にセーラー服を強要したのか、その真実は本人に聞かない限りわからんことなんだが、でもやっぱり世間は圧倒的に、その目的からこいつの精神的背景に至るまで、勝手に「こうだろうな」と想像すると思うんである。そんなふうに思われてもよかったのかよ犯人。
 というか、やっぱりそれがアタリなんだろうなあ。
 もう、捕まったあとの恥なんて考えてないのである。ともかく男の心にはセーラー服しかないのである。ブレザーでも看護婦の白衣でもスッチャデスの制服でも靖国神社のあたりをよく通りがかっている九段幼稚園の女の子の制服でもダメなんである。そういうシュミがもう、天下に余すところなく晒されちゃったのである。
 ……既にもう罰を受けているよなあ。
 いや、別に赦してあげなよって言いたいわけじゃないんですが、ここしばらくで一番「人生って悲しいね」と思わされた事件でありました。

2002年03月03日(日) ぼくらの7時間戦争/ドラマ『シャドウ商会変奇郎』/『真・無責任艦長タイラー外伝 LOVE&WAR』1巻(吉岡平・森小太郎)ほか
2001年03月03日(土) オトナの会話/アニメ『サウスパーク・CHINPOKOMON』


2003年03月02日(日) 東京遁走曲/『明日のナージャ』第5話

 ホテルの朝は早い。
 本当は、昼近くまでたっぷり眠るつもりではあったのである。何たって、今日はオフ会に、更には舞台観劇も控えている。体力を温存しておかねば、途中でぶっ倒れかねない。
 ところが、夕べエレベーターに乗ったときに、このホテルの朝食がバイキング形式だと書いてあるポスターを見て気が変わった。ホテルの醍醐味はバイキングである。誰もそんなこと決めちゃいないだろうが、我々夫婦の間ではそうなっているのだ。
 7時に合わせておいた枕もとの時計のベルが鳴ると同時に飛び起きる。
 いつもはこんな朝早くだと、布団にくるまったまま「ふにゃふにゃ、まだ○□♪×▽♯○@☆※♂♀∞¥とよ」とか、ワケの分らぬことを呟くしげが、シャキーン!と目を覚ます。今日食うメシにも事欠く生活から脱却してもう10年以上が経つだろうに、未だに「メシだぞ!」のヒトコトに釣られてしまうというのは滑稽だけれど悲しいよなあ。昔のテレビコントやギャグマンガじゃ、頻繁にこのギャグが使われてたものだけれど、今はとんと見かけなくなった。ギャグ自体が古くなったってこともあるだろうけれど、生活習慣が変わっちゃったってことも理由として大きいよなって思う。
 未だにこういうギャグを体現しているしげは、生ける化石のような存在かもしれない(^o^)。

 バイキングと言っても、朝食だから大して種類は多くないかも、と思ったらさにあらず。パンやらご飯やら卵焼きやらハムやら味噌汁やらスープやら、普通の朝食だけじゃなく、ピラフにスパゲティにカレーライス、なんだか殆ど昼食メニューと言ってもいいくらい、種類がある。皿に一通り取っていったら溢れそうだ。
 しげに、「昼はたっぷり食べることになると思うから控えようよ」と声をかけ、二人で頷きあったのだが、気がついたら二人ともふた皿目を取りに回っている。今し方、相談したのは何だったんだ。
 考えてみたら、朝食を控え目にするつもりなら、最初からバイキングになど来なければよいのである。ホテルなんかに泊まりつけていない庶民なものだから、ついつい、「ホテルにあるものは全部経験しよう」とか考えちゃうのだな。

 部屋に戻って、朝風呂。
 風呂を一回使うだけじゃもったいないなんて考えるのも貧乏症な証拠である。
 昨日、コンビニで買ってきたお茶を飲みながら、テレビで『アバレンジャー』
『仮面ライダー555』『明日のナージャ』などを立て続けに見る。
 『ナージャ』は第5話「星の夜・二人だけのワルツ」。ストーリーについては、1話を見て、シリーズ構成が金春智子さんと知った段階でゲンナリしちゃってるので、もうツッコミを入れる気もない。まあ、オトメのひとりよがりな夢物語しか書かないヒトである。
 細田守演出がその他愛ない物語をどれだけカバーするかってところが興味のポイントだったが、特に誉めたたえるほどではない。
 屋外で踊るナージャとフランシスを、乱舞する花の流れに乗せ、一気に舞踏会場に雪崩れこませて宙を舞わせる演出はハデだが、こういう演出、最近はさんざん『プリンセスチュチュ』で見てるから、それほどインパクトは強くない。踊るはずのないものが踊る、宙を行くはずのないものが飛ぶ、というファンタジックな演出は、実は『赤毛のアン』『セロ弾きのゴーシュ』『じゃりん子チエ』『おもひでぽろぽろ』などで高畑勲が得意としていた手法だ。そういうことも思い合わせると、細田演出もやや意外性に乏しい。まあ、脚本が陳腐だと、演出でなんとかするって言っても限界があるってことだろう。
 作画についても、当初はできるだけ『どれみ』と差別化しようとしていたように見えていたが、なんだか脇キャラの表情の動かし方なんかが、段々とどれみっぽくなってきている。「どれみもどき」じゃしゃあないよなあ。ダンスのCGは動きが機械的過ぎて見苦しいばかり。早いうちにテコ入れしないと、1年間続けるのって苦しくないだろうか。

 こうたろう君から電話が入って、「ゆっくり寝られたかい」と気遣ってくれたのはいいのだが、次のセリフが「『ナージャ』は見たかい。細田演出はどうだった?」。重度だなあ(^_^;)。
 待ち合わせは11時だけれど、早めに来てくれるとのこと。場所は実はハチ公前なのだが、なにしろ私が渋谷に来るのも20年ぶりである。しげは確か、何年か前に来ていたはずだが、一度来たきりの街の様子など、あのしげが覚えているはずがない。念のため、こうたろう君に案内してもらったほうが安心である。
 と思っていたら、こうたろう君も「渋谷になんかもう何年も来てねえよ」とのこと。うーん、ちゃんとすれ違わずにヨナさんたちと会えるのだろうか。

 11時ぴったりにハチ公前に。
 忠犬ハチ公のエピソードを知らない若い人も今どきゃゴマンといるが、さすがにこんなことの解説までする気はないので、自分で調べなさい。
 私がハチ公を見ながら考えていたのは、「そうかそうか、『ガメラ3』の炎はこの角度で来たんだな」ということだけである。いや、ツイやっちゃうってのがやっぱり重度なのであるよ。
 しかし、なんとまあ、待ち合わせの人間の多いことか。こうたろう君が、「大学のころも一度だけ渋谷のハチ公前で待ち合わせたよなあ。あれ、なんで集まったんだっけ?」と聞いてくるけれど、待ち会わせしたこと自体は覚えていても、目的はもう記憶のはるか彼方である。でもどうせ、映画を見るとか映画を見るとか映画を見るとかだったに違いない。アウトドアなことは一切しなかったし、レジャーとかナンパとか合コンとかカメラ小僧とかアイドルの追っかけとか、全然そんなものに縁のない大学生活だったのである。
 でも、本と映画と芝居さえあれば、ほかに何も要らないよな。

 こちらがヨナさんたちを見つける前に、ヨナさんがこちらを見つけてくれる。
 久しぶりの邂逅だけれど、こないだとヨナさん、ちょっと印象が違うな、と思ったのは、前回はヨナさん、無精ヒゲを生やしていたのだった。
 今日、ツルンとしたお顔を拝見していると、ヨナさん、何となくゆうきまさみに似ているように見える。と言っても、顔立ちというよりは、どこかスンナリとしている雰囲気がであるが。もっとも生のゆうきさんもトークショーなんかで二回ほどしか見たことがないので、ウロオボエの記憶の印象でしかない。
 あやめさんはチャットでお話していた通り、和服でのご推参である。勝手に振袖か何かを想像していたのだが、考えてみたらそんなことがあるわけないのであった。「ここに来るまでにいろんな人に振り返られちゃったんですよ」と恥ずかしげに仰るが、ここでつい、「それは着物のせいじゃなくて、あやめさん御本人にじゃないですか」と口走りそうになって、慌てて口を抑える。
 いくら私が物怖じしないタイプ(←要するに「厚かましい」ということだな)だとは言え、さすがにヨナさんとしげの目の前でそんなことを口走って、生きて帰れる保障はないということに気づいたのであった(^_^;)。
 こんなことを書いてるからと言って、私が手当たり次第だなどと思わないで頂きたい。こう見えても私は、昔からシャイで引っ込み思案で通ってるのである。誰に通ってるのかは不明だが。

 まずは、腹ごしらえ、ということで、ヨナさんの案内で しゃぶしゃぶの食べ放題の店に向かう。
 街中を歩いていると、何となく既視感を覚える。
 実は前世で私は「渋谷のプリンス」と呼ばれた雀卓の騎士であった、などということは全くなくて、街並みが博多の中洲によく似ているのである。妙に道が蛇行しているのに、建ってるビルは道から張り出さずに整然と並んでいる。一見、行儀よく見えるけれども何だか居心地の悪い繁華街、という矛盾した感じが中洲っぽいのだ。あまり誉めてる表現ではないから渋谷の人は気に入らないかもしれないが。しげにも「中洲に似てない?」と聞いたら、「ああ、似てる」と納得してたから、私だけの感覚ではないようだ。

 とあるビルの中に案内されるが、そのお店、開店が11時半からであった。ほかにうろつくところとてないので、そのビルの地階のゲームコーナーを見て回る。こうたろう君からUFOキャッチャーで、ぬいぐるみを取ってくれと頼まれるが、アームを見てみるとネジが緩められているのが分る。ムリだろうなと思いながら挑戦してみるがやっぱりアウト。ゲーセンも最近はこういうセコイところが多い。
 ガチャガチャで「オデン」だの「スシ」だの、なんでこんなものを、と首を捻るようなモノをうっているが、さすがにこういうのを土産に買って帰っても、喜んでくれそうな人がいない。自分の趣味で買ったら、またしげにどやしつけられそうなので、泣く泣く諦める(欲しかったんかい)。

 ようやく開店時間、お店の人から「焼肉にするかしゃぶしゃぶにするか」と聞かれて、しげ、「しゃぶ!」と大声をあげる。それはモノが違うぞ(-_-;)。
 食べ放題と言っても、時間制限があるので、ともかく次から次へと頼まねばならない。こういうときのしげはもう、普段のトロくささがウソのように機敏になる。さりげなく時計を見て計ってみたが、ひと皿平らげて次の皿を注文するのに5分38秒しかかけなかった。それで味が分るのか。
 ウェイトレスさんが追加注文を受けながら、「ハーフサイズも注文できますが」と言うと、すかさずしげ、「あ、普通盛りで♪」とキャラリンっとした声で答える。けれど、ウェイトレスさんが下がった途端に、声のトーンを低くし、ドスの効いた声で、「今のは『これ以上食うな』ってことかな」と呟く。目も当然座っているのである。
 日記の中でさんざんしげのことを「肉食い」(レクターか)と評ししてきたが、もしかしたらそれを「誇張」と見る向きもあったかもしれない。しかし、それがカリカチュアでもなくギャグでもないことを目の当たりにされた今、ヨナさんもあやめさんもきっと感動のメエル・シュトレエムに飲み込まれたことであろう。私はウソは申しません(^o^)。
 感動ついでに、しげに、携帯に入れてある例の48センチタライチョコの画像を見せるように促す。ヨナさん、あやめさん、ともども大いに受ける。
 あやめさんなどは、「これが一番のお土産ね♪」と喜んだだけならまだしも、来年はどんなのを作ったらいいか、しげにレクチャーし始める。話の内容は、実際に来年、しげが作る可能性もあるからここでは書かずにおくが、まあ、そんなもん贈られたらすっごくや〜な気分になりそうなアイデアが次から次へ。なんですかね、美人がサラリと毒吐いてる姿って、なんか横溝映画を生で見てるみたいな迫力で、何と申し上げたらよいのやら((((/*0*;)/。いやあ、戦慄戦慄。
 しげ、あやめさんの話をふんふんと頷いて聞いている。でもさあ、面白がるのはいいけどさあ、食わされるのは其ノ他君なんだけど、誰も彼に同情しないの?(^_^;)

 食い放題の時間が過ぎたので、カラオケハウスに移動。
 今回は特にアニソンシバリはなし、ということで、めいめい勝手に歌ってもいいよ、ということだったのだが、いきなりこうたろう君が『オレンジのダンシング』を歌う。ここはコケるところね(^o^)。
 「これでオレは本望だ」って、そこまでのトラウマが何かあったのか(^_^;)。
 ヨナさんが山本正之をメドレーのように歌ってくれるので、しげは上機嫌である。ヨナさん、声質もちょっと山本さんに似ているので、雰囲気が出るのだ。でも、『やあ。』がカタログの中に入ってなかったのがちょっと残念。
 あやめさんには以前『夜来香』をリクエストしていたのだが、忘れずに歌ってもらえて感動。ここで5万語ほどかけてその歌声がいかにすばらしかったかを書いてもいいのだが、明日、私が油山の林道の脇の土塊の下に埋められる危険もあるので省略。

 1時間ほどして、あぐにさんから連絡が入る。
 渋谷駅まであやめさんに迎えに行ってもらって、かけつけ3杯ならぬかけつけカラオケ(^o^)。
 事情があって朝からは合流できなかったのだが、カラオケだけにムリヤリ参加させてしまったってのもヒドイ話である。全く申し訳ない。
 ここんとこしばらく、掲示板の方であぐにさんにはSF作品をいろいろお勧めしていたのだが、こうたろう君が約束していた『SF総解説』をプレゼント。これでもう私の拙いガイドなどはもう不必要である。
 作品の書評くらい、その人の才能が現れるものはない。実のところ、その作品を貶すことはとても簡単である。欠点のない作品などはありえないし、揚げ足取りでも一応、批評という体裁は取れる。
 ところが、その作品の本質を的確に捉え、単なるストーリーの紹介に堕せず、しかも購読欲をそそるようにその魅力を語るというのは、並大抵の技量でできることではない。「これ以上は語れない、あとは作品を実際に読んでくれ」とシメることが多いのは、正直な話、逃げているのである。
 だって、その作品のすばらしさを一番伝えられるのは、その作品そのものなんだから。

 それでもあぐにさん、私の拙い文章を参考に、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』を読まれたとのこと。「ああいう終わり方をするとは思ってなかったんで……」と微笑まれる。実際、掲示板で私が紹介した作品は、私のヘボな文では語り尽くせぬほどにすばらしい傑作揃いなのである。
 あれは一応、あぐにさん向けに紹介したものばかりだが、もし未読の方がおられたら、実際に手に取って読んでいただきたい。
 『火星』を楽しんでいただけたようなので、私も気持ちがウキウキしてくる。でも、次にあぐにさんが食らわしてくれたパンチが思いっきりキツかった。
 「『幼年期の終わり』も買いました♪」
 ……あああ、そんな禁句を( ̄□ ̄;)。
 そうなのである。掲示板にも書いたが、私はまだアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を未読なままなのである。解説本を読んで中身を知ってるだけなのに、いかにも読んだことがあるような顔をしてSFファンのフリをしている薄汚い野郎なのである。
 そこから読まれてしまったら、私は泣くしかないのである(T∇T)。
 こんな若さで、人の弱点を正確に突く術をあぐにさんは身につけているのである。なんという天稟。末恐ろしいとはこのことであろう。さて、どういう末に向かってるのか(~_~;)。

 アニソンしばりをかけなかったおかげで、外国曲まで混じってくる。
 しげが、“Can't Take My Eyes Off You(君の瞳に恋してる)”なんてのを歌い出したものだから、こうたろう君、「オヤジ世代直撃だねえ」とビックリする。なあに、しげはダン・エイクロイド主演の『コーンヘッズ』でこの曲が使われてるから、何度も聞いて覚えちゃってるだけなのだ。
 だから、しげが聞いていたのは、オリジナルのフランキー・ヴァリ版ではなくて、a−haのモートン・ハルケット版の方。でも、そのことを抜きにしても、50年代、60年代のオールディーズ、名曲が多かったよなあ。ダンがらみであっても、こういう曲をしげが好きになってくれるのは嬉しいのである。
 だって、泣けるじゃん。

 芝居の時間が迫ってきたので、最後はヨナさんの『シビビーン・ラプソディー』でシメ。
 カラオケの様子は記念にとビデオカメラで撮ったのだが、しげがこういうのをいやがるのであまり連続しては撮れず。私を撮るのは喜んでするくせに、不公平なのである。

 カラオケハウスを出て、あぐにさんとはここでお別れ。ホントにカラオケをしに来ただけであった(~_~;)。また機会がありましたら、ゆっくりと落ちついた店などでお話しなどいたしましょう。

 ヨナさんに案内して貰って、舞台『奇跡の人』の公演のあるBunkamuraまで移動。私の大学時代にはまだなかった劇場である。NHKの劇場公演ではやたらと「Bunkamuraシアターコクーン」と表示が出るので、一度来てみたかったのである。
 でも、「村」っていうから、広大なトチにポツポツと劇場が建ってるのかなあ、と思ったら、ただのドデカイビルなのであった。いや、別に腹が立ったわけじゃないけどね。
 開場時間まで、どこか喫茶店でひと休み、と思ったのだが、残念ながら休日の渋谷はどこも満杯なのであった。名残惜しいが、ヨナさんあやめさんともここでお別れ。
 ……しまった! あやめさんのコスプレ写真、見せてもらうの忘れてた!
 次のときに頼みます(^_^;)。


 またまた枚数オーバーしたので、『奇跡の人』観劇記はまた明日。

2002年03月02日(土) イビツな職場だと思うぞ、実際/『ビートたけしドラマスペシャル 張込み』/『真・無責任艦長タイラー�Αヽ�旋編』(吉岡平)ほか
2001年03月02日(金) あっいぃ、うー、えぇおー♪/『ドラゴン株式会社』(新谷かおる)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)