無責任賛歌
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| 2003年01月20日(月) |
貴乃花引退/『探偵学園Q』8巻(天樹征丸・さとうふみや)/『魔法遣いに大切なこと』1巻(山田典枝・よしづきくみち)ほか |
貴乃花がついに現役引退。 30歳での引退、と言ってもこの2年ほどはほとんど死に体であったから、実質、20代での引退と変わりない。いくら相撲取りの寿命が短いとは言っても、これはいくらなんでも早過ぎる。怪我に泣かされたとか、一般的に相撲取りの大型化が云々、とか言われてるけれど、怪我に苦しめられてたのは別に貴乃花に限らないし、鍛え方次第でアンコ型の力士もある程度はソップ型にできる。やはり引退の遠因は稽古不足ってことになるんじゃないのか。 更に言えば、早い段階でライバル曙はリタイアしてたんである。上位陣には同部屋も多かったから、本当なら貴乃花はもっともっと優勝しててよかったはずだ。 事実、これまでだって、マスコミは散々「何やってんだ貴乃花」って罵倒を浴びせてきてたのである。それが引退となると、いきなり「平成の大横綱」だ。これって典型的な判官贔屓じゃないのかね。 つまり「貴乃花は弱かった」ってこと。それをムリヤリ褒め称えなきゃなんないんだから、大相撲の未来もあまり明るくないんじゃないかね。
ついでに言えば、この「大横綱」って言い方、屋上屋を重ねるもので日本語としてはおかしい。 もともと力士の最高位は「大関」で、「横綱」ってのは大関の中でも特に強いってことで、「名誉会長」的な意味合いで使われていたものだ。それに更に「大」をつける感覚って、しっくりこないというより滑稽にすら感じるんだが、相撲協会はヘンだとは思わないのか。柔道家を「大黒帯」とか言わんだろう。 更に、みんなこれを「だいよこづな」って読んでるけど、「おおよこづな」の方が訓読み続きでしっくり来ると思うんだがなあ。重箱読みがいけないとは言わないけれど、ムリヤリ作った言葉だからどこか不自然なものになっちゃってるって感じるのはやっぱりオジサン的感覚なのか。
寝てると咳も収まってるんだが、仕事に出ると一気にノドが苦しくなる。 ここまで風邪が長引くと、ちょっとかないません。確かにもともとカラダ悪いことは悪いんだけれど、こんなに長引くっての滅多にないぞ。 しかも、仕事に出てみたら、コンビ組んでる同僚が風邪で欠勤していた。根性なしの私と違って、熱が出ようが槍が降ろうが仕事一筋ってヒトである。これはタダゴトではないなあ。インフルエンザの猛威はニュースでも伝えられてるけど、今年の風邪そのものも、近来になくシツコイものなんじゃなかろうか。 同僚の分まで仕事をしたので、もうクタクタである。 明日私は生きているのだろうか。
マンガ、天樹征丸原作・さとうふみや漫画『探偵学園Q』8巻(講談社/マガジンKC・440円)。 フロクに「スクラッチQ」ってクイズとミニリバーシブルポスターが付いて、お値段がちょっと割高。フロクに凝るより、本編の質を上げてほしいもんだが。 前巻より続いてた『殺人コレクター』編が終了。殺人トリック自体は結局ありきたりだった。っつーか、もう原典がどれか断定できないくらいに使い古されてるんですけど。だもんで、今さら「盗作」とも言えないわなあ。 「動機」については一応現代っぽい「工夫」があるんだけれど、キャラクターに深みがないせいで、犯人に対して同情よりも失笑したい気分になってしまう。コドモ向けマンガだからって、人物描写に手を抜いていいってもんじゃないんだけど。 『家庭科室の謎』編、バカトリックの典型。誰でも思い付くけどバカバカしくて書かんやつだねえ、こんなん。 『アリバイ列車で行こう』編、タイトルは『A列車で行こう』のパロのつもりかな? 中途半端なモジリは作者のセンス疑われるだけだと思うな。 倒叙ミステリとしてもチャチすぎる。犯人がアホまるだしで、シラケるばかりね。それに犯人のドジを笑う話にするつもりなら、ヘンに犯人に同情的な設定を付与するのは余計だわ。なんかもー、ドラマ造りの基本からしてまるでドシロウトなんだけど、もちっとマトモな原作者付けられんのかねえ。 なんかねー、だんだん疑問に思えて来たんだけど、このマンガの作者たち、ホントにこれを子供向けのつもりで描いてんのかね? いったい何歳くらいを読者に設定してる? トリックのレベルから行けばせいぜい小学校高学年くらいなんだけれど、のワリには事件の描写なんか安易に残酷なんだよね。 まあ、小学生に残酷描写を見せちゃイカン、なんて教条的なことを言いたいわけじゃないけどさ、なんか無意味に煽情的で、「節度」っつーか、「気品」がないのよ、このマンガ。カゲの組織が暗躍するような設定も、明らかに『コナン』を意識してるしなあ。 新キャラ(?)の遠矢邦子のキャラも、「外見コギャルで中身ネクラで合気道の達人」って、作り方間違えてないか。ギャグにもなってないしなー。
マンガ、たまご・やき『OH! スーパーミルクチャン』(講談社・1500円)。 オールカラーのせいかバカ高いんでやんの。 でまあ面白いかどうかってことになると、アニメみたいなテンポがない分、どうにも読みづらい。とりあえずファンなら揃えとくアイテムって感じかね。 で、作者の「たまご・やき」って誰よ。
マンガ、山田典枝原作・よしづきくみち作画『魔法遣いに大切なこと』1巻(角川書店/ドラゴンコミックス・777円)。 「魔法少女もの」ってジャンルが確立している以上、お話を面白くするためには、そこでどれだけの工夫ができるかってことになると思うんだけれど、タイトルの「魔法つかい」の「使い」を「遣い」にしただけって印象。 主役が田舎から出て来た魔法遣い見習い、ってのも特に心惹かれる設定じゃないし(田舎ってなるとなんでみんな東北から出て来るかね)、魔法が一応は実在しているけれども、魔法遣い自体は一般人から偏見の目で見られてるってのも、どうも説得力に欠ける。もう長い歴史の中で人間と共存してるんなら、もう少し人間の方も「したたか」になってるんじゃないかって気がするが、なんかまだまだ造りが「甘い砂糖菓子」だなあって思っちゃうのね。 掲載誌が『なかよし』とか『りぼん』ならともかく、『コミックドラゴン』の読者はどんな感覚でこのマンガ読んでるんだろうか。 いやまあ、絵はかわいいっスよ、なんか藤島康介と貞本義明を足して2で割ったような感じだけど。
2002年01月20日(日) それでもアニメだけは見る/DVD『名探偵ポワロ エンドハウスの怪事件』/『フルーツバスケット』3・4巻(高屋奈月)ほか 2001年01月20日(土) 英雄、果つる島/映画『アヴァロン』ほか
| 2003年01月19日(日) |
S(エス)の悲劇/DVD『みんなのいえ』/『ブレーメン�供截幹�(川原泉) |
早朝、何の番組だか、テレビで怪しい外人(アメリカ人らしい)が、オーストラリアで「カンガルーの陰嚢」を探しているのを見る。 なんじゃそりゃ、と思わず居住まいを正して画面に見入る。ンなもんで見入るのもアホみたいだが。 「陰嚢って……つまりアレだよな? そんなもん売ってるのか? 何に使うんだいったい」 矢継ぎ早にしげに問いかける。けれど、しげだって別に陰嚢の専門家というわけではない。 「……小物入れにでも使うっちゃないと?」 そう答えるのが関の山であったが、更に畳み掛けるように問い質す私。 「小物入れって……ホンモノの陰嚢を? 別にナニをかたどっただけってわけじゃなくて? ホンモノの陰嚢をなめして作ったの?」 「知らんよ!」 しげが突き放すのもムリはあるまい。あまり陰嚢陰嚢言われて、返事ができるものでもあるまい。とりあえずそのままテレビを見ていると、件の外人、聞きこみの末、見事某ショップで陰嚢をゲット。潰れた風船か袱紗みたいな形をしたものが四つほどパックに入っている。どうやらホントに陰嚢を小物入れにしているらしい。 うーん、感覚的にはやはり首肯しがたい面があるが、アチラの人たちの感覚では屈託がないんだろうなあ。
咳に悩まされながら、それでも「映画を見てやるんだ!」と、しげが芝居の練習に出かけている間に、三谷幸喜監督の第2作『みんなのいえ』のDVDをかける。 『ありふれた生活』を読んだときの感想にも書いたが、これが三谷幸喜初のオリジナル脚本の映画化、というのは真っ赤なウソである。 東京ヴォードビルショーの公演ために書いていた『アパッチ砦の攻防』の初稿がその原作。舞台版の方は完成寸前で初稿が破棄され、全く違う脚本が渡された。 出演者の佐藤B作も伊東四朗も、公演一週間前に台本を渡されて大変だったってことを、『アパッチ砦の攻防』のパンフレットで語っている。パンフには制作記録も細かく掲載されてるから、三谷さんがどれだけ周囲に迷惑かけまくったかがバレバレである。あの人もエラくなって、段々井上ひさしみたくなってきたな。 当時は「初稿がうまくまとまらなかったのかなあ」って考えてたけど、こうして映画が作られて、しかも三谷さんがオリジナル脚本があったことをキチンと説明してないところを見ると、あの「原稿落とし」はワザとだな。「これは舞台より映画向き」と判断して、寝かせることにしたんだろう。やっぱりあの人、性格は結構悪辣であるな。
小林信彦はどうやら三谷幸喜を嫌っているらしい。 『週刊文春』の『人生は五十一から』で、三谷さんが自作のテレビ番組『HR』について「日本初のシットコム(=シチュエーション・コメディ)」と標榜している発言を引いて、「『スチャラカ社員』があるじゃないの」と、その無知・不勉強を「静かに」怒っている。 なんで「怒ってる」と判るかっていうと、文中に一切「三谷幸喜」の名を出していないのである。「脚本家は」という言い方だけだ。 まあ、小林さんから見れば、三谷さん程度のコメディはとても評価できるものではあるまい。三谷さん自身が言ってることだが、「私が売れてるのはほかにコメディの書き手がいないから」というのは「今は」事実だ。もっともそれは、即物的なクソバラエティしか作ろうとしないテレビ局に責任があることなんだが。 そのことを自覚せずに「ほかのコメディ作家はなにやってるんだ」と言ってるようにも取れる発言をしてちゃ、業界内で腹を立てる人も現われて当然だろう。 実際、何かにつけ、三谷さんの知識にはやたら偏りがあるのを感じる。私より一つ年上なのに、なぜか『スチャラカ社員』も『てなもんや三度笠』も見てなかったらしい。関西喜劇だけれど東京進出を果たして、視聴率を5、60%も取ってたのになあ。昭和30年代にそれだけの視聴率を取ってたということは、「誰もが見てた」ってことだ。 いや、見てなかったにしても話くらいは聞いてておかしくない。小林さんは控え目に『スチャラカ社員』だけを挙げているが、吉本新喜劇をガキのころから見続けている者なら、「日本初のシットコム」なんて発言は不遜過ぎてできるものではないのである。全盛時の『あっちこっち丁稚』のギャグに次ぐギャグは、「土曜の昼は吉本」って習慣を関西以西の人間に刷り込んでいた(いやマジ)。 少なくとも「シットコム」なんて、腐るほど見てきているのである。どうも関東生まれの人間というのは、自分たちの文化にしか目が向いていない悪いクセがある。好き嫌いならそれも仕方がないが、文化全体を捉えて論考する場合、それは余りにも大事なものを見落としてしまうのではないか。 無知は場合によっては、文化を殺し、人を殺すのである。三谷さんの「思い上がり」に対しては、そろそろクギを刺す人たちが出て来たほうがいい。演劇界にはそういう人もちょこちょこいるんだが、テレビ界では今のところそれが小林さんだけに留まってるように思う。ヌルイ批判は受けてるけど、もっとハッキリと「テレビ向きじゃないよ、アンタの才能は」と言ってやったらどうだ。
……てな言い方もまだ軽いか。 三谷さんには耳がイタイかもしれないが、実は三谷さんのテレビコメディのほとんどは視聴率を取っていないのだ。なのになぜ次々と脚本の依頼が来るかというと、やっぱり「三谷幸喜神話」みたいなものができあがっているせいなんである。 そういった信仰ができたのは、実は『やっぱり猫が好き』『古畑任三郎』の2作品のヒットが大きい。舞台公演のいくつかは確かに出来がいいが、それらは一般の目には余り触れていない。私の勧める三谷幸喜の舞台ベスト3は『12人の優しい日本人』『出口なし!』『笑いの大学』だが、さて、どれだけの人がこれを見ていることか。 テレビシリーズは概してギャグのレベルが低い、あるいはテレビ向きではない、という点でつまらない。舞台に比べて、役者の使い方がヘタってのもあるだろう。
と長々と前置きをしといて、ようやく『みんなのいえ』の話になるのだが、設定の面白さにキャラクターがついて行っていない。まさしく「役者の使い方がヘタ」なんである。
娘夫婦が新居を建てようとする。 娘にはデザイナーの先輩がいて、娘の父親は大工である。娘は二人に自分たちの家を作ってもらおうと考えるが、昔気質の父親と、前衛的な先輩とではどうにも話が噛み合わない。 さあ、果たして家はちゃんと建つのか?
面白い設定だが、このドラマには一つの危険要素がある。 つまり、二人の争いは初めから勝敗が決まっている、ということだ。だって、結局「家を建てる」のは大工なんだから。 実際、ドラマは終始デザイナーの劣勢に次ぐ劣勢、途中、娘が中に入って父親をたしなめるが、それは決してデザイナー自身の力によるものではない。このあたりにこの物語を「舞台」にかけることに躊躇した理由がありはしないか。舞台では二人の力が拮抗したものでないとまるで映えないのである。 さて、この「盛りあがらない」ドラマをいかにカタをつけるか、と思ったら、三谷さん、実は昔気質に見えた父親のほうが職人魂を忘れていて、デザイナーの方が職人としての矜持を持って仕事に当たっていた、ということが判明する。 二人の立場が逆転するアクロバットな展開だ。このアイデアは実に秀逸であった。
でも、この映画で秀逸なところはそこんとこだけなんである。 最初に書いたように、役者の使い方が頗る悪い。 実はここまで、デザイナーである唐沢寿明、父親の田中邦衛、娘の八木亜希子には触れているが、ほかのキャストには一切触れていない。見せ場がないのである。チョイ役キャストならともかく、実は主役である娘婿のココリコ田中直樹に、見せ場がないとはどういうことか。 いや、三谷さんもなんとか田中直樹のシーンを作ろうとして、ラスト近くに嵐が来て家のことが心配になった娘婿、父親、デザイナーが集まるシーンを入れているのだが、これが逆に娘婿の存在がジャマにしかなっていないのである。 こんな「主役を目立たせるいいアイデアが思いつかなかった」ことが露骨に判るくらいなら、そんなシーン、カットした方がマシだ。
ほかのキャストにも触れよう。 野際陽子・吉村実子・清水ミチコ・山寺宏一・白井晃・伊原剛志・江幡高志・井上昭文・榎木兵衛・松本幸次郎・松山照夫・八名信夫・香取慎吾・中井貴一・布施明・近藤芳正・遠藤章造・田口浩正・梶原善・真田広之・戸田恵子・梅野泰靖・和田誠・小日向文世・松重豊・佐藤仁美・大塚範一・エリカ・アッシュ・明石家さんま。 なんだなんだ、この豪華キャストはって感じだが、ほとんどがワンカットだけの特別出演である。 ところが問題なのは、ほとんど出ずっぱりの職人たちにマトモなセリフ、マトモなドラマが与えられていないのだ。江幡さんはそれでもある重要なシーンを任されているが、榎木さんに至っては全くセリフなし。いや、セリフがなくても、この職人たちがいろいろデザイナーに「絡む」シーンがあれば、当然ドラマは盛りあがるのだ。それがない。おかげでチョイ役出演の香取慎吾や明石家さんまのほうが印象に残ってしまう始末だ。これはもう三谷さんは「間違ってる」と判断するしかない。 野際陽子と吉村実子の二人のお母さんだって、もっともっとドラマに絡めることができたはずだ。キャラクターは「風景」じゃないんだよ。
クダクダ書いちゃったけど、もしかしたらほとんどの人がこの映画、冒頭のギャグシーンで見る気なくしちゃうんじゃないか。 主人公の娘婿は放送作家、という設定である(ドラマに関しては全く必然性がない)。 その作家が考えたスケッチが、冒頭で流れるのだ。
マンションの一室の前で、管理人や住人が集まって一人の男を責めたてている。 「何かヘンなもの飼ってるでしょ!」「ここはペット禁止なのよ!」 男はドアに張りついて「何も飼ってません!」と否定する。 中を覗いた住人の一人が叫ぶ。「アっ何か動いた! トカゲのシッポだ!」 誰かがカメラのフラッシュを炊く。 男が悲鳴を上げる。「やめてくれ! 光は嫌いなんだ!」 突然、中から何かが飛び出して逃げて行く。 それは一匹のゴジラだった。
……何かコメントが必要ですか?
今日はしげ、早目に練習から帰宅。 いつもはたいていどこかをふらついて帰ってくるのに、珍しいことだ。少しは私の体を気遣ってくれてるのかなあ、と思ったが、別に看病しようって気配も見せない。 要するに自分もからだがキツイから帰って来ただけか。
練習の様子を聞いてみるが、どうも私の書いた脚本、「説明し過ぎ」とのことである。 第一稿の段階で「意味不明だ」と言われたから、仕方なく説明のセリフを増やしたのに、ワガママなことである。 それぞれのキャラクターにも見せ場を増やしたのに、「あるキャラクターがあるキャラクターだけに関わりすぎてるのではないか」という文句も出たそうな。それがバレないように前の脚本では「さりげなく」書いてたのに、「説明」をしちゃえばどうしてもそうなるのである。 でも、意味さえ通れば「このセリフ、説明し過ぎだから削ろうよ」ってことにもなろうから、こういう過程がどうしても必要になるのである。
穂稀嬢、前回「ヤマさん」のことがわからなかったと書いたが、「アベサダ」も知らなかったそうな。いや、そういうセリフ書いたんだけどね。どういうシーンで使われているかはまだヒミツだ(^o^)。 でもなあ、私の脚本にもともと「古いネタ」が多いことは自覚しちゃいるけどさあ、「アベサダ」を知らないってのは、いくらトシが若いからって、ただの無知じゃないの?(若いと行ってもハタチは過ぎてるんである) いや、もうずっとセンから、穂稀嬢がまれに見る無知女だということは聞かされてたんで、実は脚本でも「まれに見るモノ知らず」役を振ってるんだが、もちろんこれは地で演技できることを狙ってるからである。全く、脚本家とか演出家って類の人間は極悪人である。
けれど、脚本中にあった「S」というセリフは、全員から「意味伝わらないからやめようよ」ということになったらしい。 これだけじゃ何のことかわかんないから、ちょっとだけ中身をバラしちゃおう。
女の子どうしが絡んでいて(もちろん「うっかり」である)、それを見たもう一人がちょっとドキドキして、「まあ、S?」って呟くシーンを書いたのよ。(〃∇〃) てれっ☆
これでもよく分らない人のために説明しておくと、この「S(エス)」っていうのは「Sister」の頭文字なんですね。昔、女学校なんかで、女の子どうしなのになんだかすごく仲よさそうなカップルを見たら、「ねえねえ、あの方たちって、もしかして“S”なんじゃないかしら」とか言ってたんですね。 まあ、ハズカチイ。
もちろん今となってはほぼ死語になっていて、おそらく実際に会話の中で使われてたのは昭和40年ころくらいまでだと思う。私は女学校に通った経験はないから、女の子が使ってるのを実際に耳にしたことはない。いつどこで覚えたかっていうと、母親が使ってるのを聞いたのが最初だ(^o^)。 今はもっと露骨に「レズ」とか言うのかも知れない。 練習場での話し合いでは、「百合」に変えようか、とかいう話になったということだ。 けどねえ、言っちゃ悪いけど、みんな「脚本」ってモノが解ってないよ。ここは、「S」以外ではセリフそのものが成立しなくなってしまうんだよ。
このセリフを言うキャラクターには、どこか浮世離れしている(ように見える)という性格設定がある。 だから「レズ」だの「百合」だの、ストレートかつ今でも通用するようなコトバは似合わないのだ。それに、そんな客に一発で意味がわかるようなセリフを使われても、ただ単に目の前の状況を見て、そのまま説明しただけのことに過ぎなくなる。客に何の引っ掛かりも与えなくなってしまうのだ。 たとえ観客の大半に意味が通じなくとも、ここは「古い」言葉を使ってもらわなければ困る。 意味が分らない客にはここでキョトンとしてもらいたいし、「S」の意味を知ってる観客が「イマドキそんなコトバ使ってるやつがいるんかい」と心の中で突っ込んでほしいのだ。不自然さに気づいてもらった方が、脚本家としては嬉しい。どうも役者は「自分が言いやすいか」ばかりに気を配って、客にどう見てもらうか」ってことにまで気が回らないやつが多い。 だからこそ「演出家」が必要になるんだがなあ。
更に言えば、「レズ」という言葉は直接的過ぎて下品に聞こえるし、やはりこのキャラクターに合わない。「百合」はやや古めかしい感じがしないではないが、もともと「薔薇族」に対する「百合族」という対照語として使われた経緯があるだけで、「S」にあるような「女学生どうしの戯れ」のようなニュアンスには欠けている。「S」というコトバの持つ甘美さも含めて、あえて死語を書いたのだが、そういう意図が読めないというのは情けない話である。 それに「S」というコトバを完全な死語と見なすのはどうだろう。コトバというものは生き物で、いったん死んだかと思っていたら、ひょんなことで復活し、また使われ出す、ということもあるのだ。あえて死語を使うことで、「味わい」を出すという効果もある。『オトナ帝国』を見よ。 それでもどうしても「百合」で行きたい、というのなら、せめて「ゆりゆり?」と二度重ねていただきたい。普通、そんな喋り方をする人間はいないから、これでこのコトバにも「キャラクター」が発生する。キャラクターとセリフが一致するのだ。『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスの「泥棒さん?」がゾクゾクッと来るのは、、まさしくこの効果による。そうなんだよ、「泥棒」に「さん」付けしちゃうんだよ、あの「お姫さん」はさ(* ̄∇ ̄*)。 セリフってのは、そこに命を吹き込むことだってこと、忘れちゃいかんよ。
マンガ、川原泉『ブレーメン�供截幹�(白泉社/ジェッツコミックス・650円)。 祝! 4巻突破! これで川原さん、自作の最長不当距離を達成しましたね。 『オペラ座の怪人』を落としまくってたころを思い出すと、なんかもー、それだけで嬉しいですよ。頑張れ川原さん! ついにヘルツォーク編が今巻で完結。 結末は投与されていたナノ・マシーンが暴走して自我崩壊、というあっけないものだったけれど、このままヘルツォークをどんどんバケモノにしていっても、最後は収集つかなくなりそうなんで、早目に終わらせたってとこかなあ。 昔から、「バケモノの最後」は「食いすぎて自滅」だものねえ。『ゲゲゲの鬼太郎』の「アカマタ」「土転び」とか、『どろろ』の「どんぶりばら」とか。ちょっと定番過ぎた結末はやや残念……なんてご本人に言ったりしたらまたスランプになっちゃうんだよな、このひたー(^_^;)。
「インターミッション」は、宇宙征服を企む某宇宙人が、「ブレーメン�供廚龍�然のミスでヤラレちゃう話。オチは言わないけど、これの元ネタも腐るほどあるよなあ。まあ、既成のSFを川原さんの「味」で読むんだと思えば……(^_^;)。
後半は、「ブレーメン�供廚竜ヾ慊后�熊のミーシャくんが、アミューズメントパークの暴走した人型A.I.「アリス」に拉致される話。 キラたちは、早速ミーシャくん救出のためにその「アリス・ファンタジオーソ」に潜入するのだけれど、ゲームをクリアしていかないと、ゴールへは辿りつけない……って、『幽遊白書』? いや、このパターンの最初は「スフィンクスの謎かけ」かな? アリスはしっかり小悪魔してて、かわいいけど、ちょっとネタ切れ的な川原さんが心配……(@_@;)。実際にどの話読んでも、ここんとこ主役のキラ船長がほとんど活躍してないんだよねえ。ホントに続くのかなあ。続けようよう。
2002年01月19日(土) ハルオ再び/『ルパン三世 公式magagine』3号(モンキー・パンチ責任編集)ほか 2001年01月19日(金) DESERT MOON/『パタリロ!』(魔夜峰央)71巻ほか
| 2003年01月18日(土) |
『青空侍』2冠目!/『イリヤッド 入谷堂見聞録』1巻(東周斎雅楽・魚戸おさむ)ほか |
ホントに治りやがらねえな、この風邪は。ヽ(`⌒´)ノ ウッキー 寝てても自分の咳で目が覚めちゃうし、咳のし過ぎで胃の内容物が戻ってくるし。もっとトシよりだったら、ノド詰まらせて死んでたかもしれん。冗談でなく、50歳まで生きられないかもなあ。 しげも鼻の穴にティッシュ突っ込んで、寝ちゃ起きの生活。まだ私の方が症状が軽いので、食事は私が作ってやる。夕べ買った鶏鍋に、ササミとネギとうどんを追加して、ダシを加えて二人分に水増し。カラダが温まると少しは気分がよくなる。
なにかDVDでもかけて見ようとするのだが、すぐ睡魔に襲われて寝てしまう。体力が持続しないなあ、トイレもひどく頻繁になってきてるし、こんなんで仕事に戻れるのだろうか。
アニメ『クレヨンしんちゃん』のオープニングが華原朋美に変わっている。 ってことは、映画版『嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』のオープニングも華原朋美ってことか。ついでに本編のゲスト出演もしちゃうかな。
前作の『嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』は、本日、めでたく第57回毎日映画コンクールアニメーション大賞を受賞した(大藤信郎賞は『千年女優』)。「第6回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞」に続いての快挙である。これでキネ旬だの日本アカデミー賞だのがいくら『クレしん』を無視しようと、見ている人はちゃんと見てるってことが証明されたんで、「『クレしん』のどこがいいの?」なんて言ってるアホには「見る目ねえなオマエ」と言ってやれるなあ。アホはたいてい自分の目で判断する力がないから、こういう「権威」にゃ弱いんだよね。 でも驚いたの、「アニメーション大賞」の審査委員長、三留まゆみさんになってたんだね。いや、同世代の人が審査委員なんてエラソウな立場になってるってのがちょっとピンと来なくて。
審査の過程は以下の通り。 エントリーされたのは全部で10作品。 1、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』 2、『千年女優』 3、『頭山』(落語のアレだ。これも見たかったんだよなあ) 4、『猫の恩返し』 5、『ぼのぼの クモモの木のこと』 6、『パルムの樹』 7、『TAMALA 2010』 8、『明日の風に向かって―ありのまま舎物語』 9、『WX3 機動警察パトレイバー』 10、『ミニパト』 10人の審査員が、まずアニメ大賞部門で3本連記の1次投票。 結果は、「千年」9、「クレヨン」8、「猫」6、「WX3」5、「頭山」2。 討議のあと、2次投票では討議で有力となった2本に票が集まり「クレヨン」6、「千年」4で決着。 続いて、大藤信郎賞の投票は「千年」7、「頭山」3で即決。 大藤賞の趣旨についての議論も出つつ「千年」で全員一致。
三留委員長の講評は以下の通り。
> 一昨年の『オトナ帝国の逆襲』でひとつの頂点を迎えた「しんちゃん」シリーズ。10作目は本格的時代劇である。 > しんちゃん一家を脇役に配し、姫君と家来の身分違いの恋を描く本作は設定・ストーリー・技術ともに今までの作品とは一線を画するが、そこにはあえて映画の王道ともいうべき表現を選んだスタッフの意気ごみが見える。これまでの「しんちゃん」への決別 と新たな挑戦。 > さて今回は何を見せてくれるのか? これだけはいえるだろう。日本のアニメは「しんちゃん」があるかぎり大丈夫。
次に、おかだえみこさんによる『千年女優』講評。
> 伝説の女優が回想する女の一生がそのまま昭和史、日本映画史に重なり、彼女への取材者の秘めた想(おも)いが物語の第二主題となって虚実を超え、からみ合いつつ時代を駆け下る。才気あふれる構想と演出。 > 老いたる美女が描けていないなど欠点はいくつも抱えながら、この永遠のすれ違い二重奏はおとなの観客を魅了する。 > 超能力者も悪との戦いもない、日本アニメ史、いや日本映画史に類例のないスタイルと勢いで作られた<映画の映画>を今年の日本映画の収穫として、拍手を送りたい。
未見の映画もあるので、順当な審査結果、と私が言いきることはできないが、必ずしもアニメファンの話題に上らなくても、「これはちゃんと評価しようよ」って審査員が考えている雰囲気がよく伝わってくる。でなきゃ、普通、『頭山』はエントリーされないよな。 セルアニメかCGアニメか、とか、商業映画か文化映画か、というカテゴリーに拘らず、「アニメの未来を見据えたもの」として評価されてるのが嬉しい。 『戦国』=『青空侍』は、アニメファンの間でも賛否両論が激しかったようだが、まず勘違いしちゃいけないことは、「アニメーション」って映像のジャンルを表す言葉じゃないってことである。 じゃあ何かって言うと、専門用語を使えば「メチエ」、簡単に言えば「技法」「手法」であって、表現のための一手段だってことなんだね。今回の『青空侍』ほかの作品は、みな、そのことをハッキリ示してくれているんである。まずは「映画ありき」、それから「実写」を選ぶか「アニメーション」を選ぶかって区別があるってことなんだね。『青空侍』が映画の王道を行ってるのは当たり前なんである。
『ギブリーズ episode2』が選考からハズレてるのはちょっと残念だが、まあ、実験アニメにすらなってない部分が多かったから、仕方ないやな。 宮崎駿と比較されてネット上では不当に評価の低い『猫の恩返し』や、実写的リアル描写とアニメーション描写の融合を図った『WX�掘戮砲睇爾�集まってるのが嬉しい。 概して、私が「面白い」と思ったものが、ちゃんと「ここでは」評価されてるんである。……なんだ、オレって結構、映画見る目あるのかも。とかなんとか自画自讃してみる。 でも実は、大藤賞の『千年女優』は私にはイマイチだったんだよなあ(^_^;)。 ってゆーか、おかださんも講評で語ってるが、「欠点」が見えすぎるのである。しかも「ここをこうすればよくなるのに」ってところがいっぱい。 もともと、現実の人間が虚構の世界に入りこみ何役も演じる、というのは、「映画の手法」ではなく「演劇の手法」である。基本的に「アニメでしかやれないこと」「アニメだからこそ効果があること」ではないのだ(もちろんそうでない描写もあるにはあるが)。 試みが面白いだけに、脚本、演出、演技、全てにおいて「もう一歩」感が強い。このうちどれか一つでも突出してれば、多少の欠点があっても「いいぞこれは!」って推すんだけどね。いやね、「女優の世界」を描いていながら全体の印象が地味なんだわ、これ。 そうだなあ、年取った千代子を一切画面に出さずに声だけで描く、とか、描くにしても見た目全然年を取っていないように見える、くらいのことをしてくれてたら、もっと面白くなったと思うんだけどねえ。 中途半端な力作になるより、思いきって冒険しようよ、アニメなんだからさ。
あ、それから実写の大賞の方は『たそがれ清兵衛』でした。 見に行けなかったから、これはDVD買うぞ。
マンガ、東周斎雅楽作・魚戸おさむ画『イリヤッド 入谷堂見聞録』1巻(小学館/ビッグコミックス・530円)。 こないだネットカフェで読んだんだけど、おもしろかったので購入。 トロイアの遺跡を発掘したシュリーマンは、その晩年、アトランティスの発見を夢見ていた……ってのはどこまでホントなのかね? もちろんこれはフィクションなんで、「アトランティスは実在していた」ってのが真相じゃなきゃ面白くない。さあ、大陸移動説をいかに否定するか、楽しみだな(無視しそうな気はするけど)。
古代ギリシャの哲人プラトンが『ティマイオス』『クリティアス』に書き残した幻の古代文明、アトランティス。シュリーマンの孫・パウルはその日記にアトランティスの秘密を書き残したと言う。 その日記を入手した大富豪ヴィルヘルム・エンドレは、世界の大富豪を集めて、アトランティス探索の極秘プロジェクトを始動させた。しかし、その矢先、彼は謎の組織に暗殺され、魔の手は彼の娘・ユリにまで伸びる。エンドレが最期に娘に言い残した言葉は「日本に行け」。 シュリーマンはかつて、来日していたことがあった。そしてそこでアトランティスの手がかりをある人物に伝えていた……。 ユリとともにアトランティスの謎に挑むのは、かつてある考古学スキャンダルでイギリスを追われた後、日本の団子坂で骨董屋を営んでいた男、入谷修造。 入谷の母親、金の亡者(^o^)淑子も巻き込んで、三人は謎を追ってクロアチアへと向かう。しかし、そこでユリは何者かに誘拐されてしまった……。
ストーリー展開は面白いんだけど、気になることが一つ。 原作の東周斎雅楽って、『MASTERキートン』の葛飾北星じゃないの? いや、根拠って言っても、名前が似てる作風が似てるってとこだけなんだけどね。かつてSASのマスターだったキートンが今やしがない保険屋の探偵、って設定とか、親がちょっと変人とか、考古学的な謎を追ってるとことか、主人公のネーミングセンスが駄洒落でダサイとか(^o^)。 と言っても、その葛飾北星自体が謎の人物なんで、正体が誰かって詮索、余り意味がないのかもしれないけど。 『キートン』の浦沢直樹さんに比べると、魚戸さんの作画はちょっと華がない。絵的に浦沢さんを「追っかけ」てる人だってことは、『家栽の人』でも感じていたけれど、もう一歩のところでオリジナルになりきれていない恨みがある。 主役の入谷はもっとダサくっていいし、ユリはもう少し魅力的に描けないものか。この二人のコントラストがハッキリしてこそキャラクターが生き生きとしてくると思う。
2002年01月18日(金) バンパイアの夜/『ビッグマックプリーズ!!』(小屋一平)/『光の島』1巻(尾瀬あきら)ほか 2001年01月18日(木) はな゛がつま゛ってくるしい/アニメ『ジャックと豆の木』ほか
| 2003年01月17日(金) |
言語作用としての2ちゃんジャーゴン/『POPEE THE PERFORMER ポピー ザ ぱフォーマー』(増田龍治・増田若子)ほか |
写真家・秋山庄太郎氏が16日に死去。享年82。 死因は特に記事中に紹介されてはいないが、林忠彦賞の審査中に倒れたというから、脳溢血かなにかだろう。 私は写真集の類はあまり買わない方で、たいていは企画モノである。 この写真家、と目算をつけて買ってる写真集と言ったら、林忠彦さんにアラーキー、そしてこの秋山さんくらいしかない。もちろん買ったのは女優さんの写真集だったが(〃∇〃)。 女優さんは基本的に「演技してナンボ」であるから、「動」の世界の人である。それを「静」として捉えようというのであるから、考えてみればこんなムチャな話はない。「静」でありながら「動」を感じさせるものを撮らねばならないからだ。 あまりにも有名な秋山さんの原節子を撮ったポートレートだが、実はアレ、あまり出来がいいものではない。原節子の写真集の中で他のものと比較して見れば気がつくことだが、アレはキレイだけれども笑顔が固まっていて、自然な表情ではない。全体を通して見ると、アレだけ浮いているのだ。映画のワンシーンのスチールのほうがよっぽど原節子が生きている。 でもそんなことは秋山さん自身が一番よく知っていたことだったろう。著書の中でも、誰を撮っていても「うまく撮れない」「チャンスを逃した」の繰り返しである。まさしく秋山さんは不可能に挑戦し続けていたのだ。
ちなみに、その「有名な」原節子のポートレート、なんと佐々木倫子のマンガ、『動物のお医者さん』に登場している。 漆原教授が密かに隠し持っていた写真を、ハムテルたちが「教授の昔の恋人?」と勘違いするのだが、真相がわかったあと、教授が「近頃の若いもんは原節子も知らんのか」と激怒するのだ(同感である)。 その写真が秋山さん撮影のものであるということは、前で手を組んだポーズから察せられるのだが、残念なことに佐々木さんは絵がヘタなので、顔が原節子に全然似ていない(^_^;)。 もっとも、どんな絵を描いたところで、「永遠の処女」(映画で結婚する役を何度も演じていたのにこう呼ばれてたってことが、スゴイよなあ)原節子に対する冒涜だって怒る七・八十代のファンは、今もいそうな気はするが。まあ、そういう人たちは『動物のお医者さん』どころかマンガ自体あまり読まないか。
私の体調も全然回復しないが、しげもどうやら風邪を引いたらしい。 と言うか、二、三日前から「気分が悪い」を繰り返していたのだが、今日になってようやく「これは風邪を引いてるのではないか」と気づいた、と言うのだ。 呆れて、「お前、オレにバカって言われて怒るけど、やっぱりバカじゃん」って言ったら、「えへへ」と笑っている。どうやら毒が脳まで回っているらしい。 今日も会議が長引いて、仕事もやたら入れられて、帰りが遅くなる。気分が悪くて私も倒れそうだ。 それでもコンビニに寄って、栄養剤やら胃腸薬やらを買う。 何本も買い込むのは、薬が切れると困るからではなくて、栄養ドリンク一本取ってみても、しげは好みがうるさくて「これは飲みたくない」とかワガママを言うからだ。栄養ドリンクの類は決して安くはない。余り安いやつだと効き目もなさそうなので、つい、一本300円とか400円とか、もちっと高いやつとか、高価なのを混ぜて買ってしまうが、そういうのをまたしげが遠慮もなく飲むんだよな。 で、結果的に余った安いやつが私の分、ということになる。安くても全く効き目がないわけでもなかろう、とさっきと逆の考え方をして飲むが、これがポジティブシンキングというものであろうか(^_^;)。 自暴自棄に近いかもしれんが。
大修館書店『言語』2月号の特集、「遊びたがる言葉」に、ついに「2ちゃんねる」が取り上げられる。 この雑誌、言語学の専門書なんだが、決してかたっくるしい記事ばかりでなく、大衆向けに読みやすい特集をたびたび組んでいて、毎号、実に面白いのだ。どうも全く売れてないらしいのが残念なんだけど。 例えば、今号でも大のオトナが、『ドラゴンボール』のキャラクターはどのような言葉遊びで成り立ってるのか、なんてことをマジメにマジメに分析している。このギャップが面白いんだね。でも、普段マンガを読みつけない人がそういうことやるもんだから、結構引用を間違ったりもしてる(^_^;)。『クレヨンしんちゃん』の「運黒斎」って、字が違っとりますがな(正しくは「雲黒斎」)。
それはそれとして、『「2ちゃんねる」におけるジャーゴン』と題して解説しているのは、メディア・プロデューサーの松本恭幸氏。 「ジャーゴン(jargon)」とは要するに「専門用語」「術語」のことで、ある一定の職種、グループ内のみで使用されるコトバのことである。こういったジャーゴンはどの世界にもあるものだが(同人界の「ヤオイ」とかね)、「2ちゃんねる」用語の多くが、「意図的に誤字誤読や語尾を変形したもの」である点が特徴的であると松本氏は指摘する。 例として挙げられているのが、「氏ね」「厨房」「がいしゅつ」「串(←プロクシーのことだったんだね。私ゃ今回初めて知ったよ)」「スマソ」「マターリ」「ドキュン」など。 「がいしゅつ」については、ホントに「既出」を「がいしゅつ」と読み間違えたアホがいて、そこから流行して行った過程がある。松本氏は「意図的に」と言うが、もともとは単純な漢字変換のミスから使用されるようになったものがほとんどなのではないか。パソコンによるコミュニケーションでなければ、こういうジャーゴンは生まれなかったに違いない。最近も、2ちゃんをチラッと覗いてみたら、やたら「香具師」って出てくるんで、「寅さん関係か?」と思ったら、これ、「奴(ヤツ)」を「ヤシ」と誤変換して、更に漢字をアテたんだね。なんでそこまでしてジャーゴンを作らにゃならんのか、理解に苦しむんだが。 松本氏はこれらのジャーゴンについて、「バーチャルなコミュニティ内でのコミュニケーションを維持するのに有効」と分析する。その点について、基本的に異論はない。 しかし、匿名性が前提となる2ちゃんねらーのジャーゴンが、「異質な他者の存在を許容する潤滑油の働きを担う」とまで言い切って肯定しちゃうのはどうかと思う。例えば、松本氏によれば、「出ていけ」とストレートに言うと喧嘩になるが、「逝ってよし」と表現すると、相手に不快感を与えずにすむ(どころか、言われた方はカタルシスすら覚える)そうである。 ……そうなんですか? 2ちゃんねらーの人。 私ゃ、「逝ってよし」なんて言われたら、怒りゃしないけど嬉しくもありませんが。2ちゃんねらーになるためにはマゾにならないといけないってこと? 私は2ちゃんねるはROMはしても書きこみをしたことはただの一ぺんもないので、その「潤滑油」という感覚がわからない。どの世界でもそうだが、ジャーゴンが不用意に専門外の人間に対して語られる場合の多くは、相手に対する優越感が付随してくる。「こういう難しいコトバをオマエは知らないだろう、オレたちの仲間になりたいんなら、こういうコトバ遣いを覚えないとムリだぞ」という「村八分」の感覚でもあるのだ。 しかもそういう用語がさしたる意味もなく増殖に増殖を続けているということは(これは例えば医学の発展により医学用語が増えて行くのとはワケが違う)、円滑なコミュニケーションを図るためと言うより、「囲いこみ」の論理のほうがより優先されていることの証明だろう。2ちゃんねらーであり続けるためには、日々それらのジャーゴンを覚え続けなければならないのだ。 そして、2ちゃんねる初心者で、ジャーゴンにまだまだ慣れていない人間に対しては、「厨房」「逝ってよし」の、相手にとっては何のことか判らぬ罵声を浴びせる。これは例えて言えば、英語の判らぬ日本人に対して、「Jap」と罵倒するのと同じ感覚だ。キョトンとしてる日本人を見て、更に嘲うのね。相手だって、よっぽど鈍感でない限り、どうやら自分がバカにされてるらしい、くらいのことには気がつく。さて、これで「円滑なコミュニケーションを図ろうとしてる」なんてことが言えるものかどうか。もしそう思って2ちゃんねらーたちがこれらのコトバを使ってるんだとしたら、それはとんでもない甘えである。
2ちゃんねる用語の中には、通常の会話で使われることもあり、必ずしもジャーゴンとは言い切れないが、やたら頻度数の高いもの、というものもある。 例えば、「〜ですが、何か?」という聞きかた。一見、疑問形ではあるが、これは相手に解答などを求めてはいない。「それがどうした、オレはオマエの言うことになんか興味ねえんだよ」という、会話に対する拒絶であって、だからこのコトバを真に受けて、誠実に対応するつもりで答えてみたところで、更に嘲われるか無視されるかどちらかである。「あほが見〜る〜、ブタのけ〜つ〜」ってことだね。 こういう「拒絶のためのジャーゴン」が夥しく使われる空間に対して、「コミュニティ」などという呼称は、本来適切ではない。2ちゃんねるの「掲示板」とは、コミュニケーションのためではなく、あくまで「匿名性」に自己の存在を隠した「言いっぱなし」の「便所の落書き」として機能しているのである。 コテハン(固定ハンドルネーム)を使ってたって、なりすまし、自作自演の多い2ちゃんじゃ、自分自身の証明になんかならない。昔、夏目房之介さんや唐沢俊一さんが2ちゃんに書きこんでたときには、それが自分であることの証明のために、わざわざ自分の日記やエッセイの中でそのことに触れなければならなかったのである。ましてやただの無名人が自分自身を主張しようとするなら、2ちゃんねるに書きこみをすることは全くの逆効果であろう。 重ねて言うが、2ちゃんねるの「効用」は、新しい形のコミュニティを作っているということではない。 その真逆で、誰もが同じコトバ遣いで、誰もが似たような言い回しで、誰とも知られずに心の底に溜まったどす黒い欲望だの憎悪だの偏見だのを撒き散らしてスッキリさせられるからこそ、2ちゃんねるはあそこまで巨大化していったのだ。 そこに、表には現れにくいけれども、実は「大衆に“共通している”」時代の捉え方、時代の雰囲気、文化の底流にあるものを見出し、分析し、研究することが可能になる。たとえそれが醜い差別意識であろうとも、そこから目を逸らしてその国の文化を捉えることはできない。2ちゃんねるはまさしく我々の心の奥底を映し出す鏡なのである。 だから私は、2ちゃんねるの存在を否定はしない。しないんだけれど、たまに実生活やごく普通のサイトで、「2ちゃんねらー」であることのアイデンティティを主張される人に出会ってしまうと、極めて困惑してしまうのである。本人だってことが特定されたら、名誉毀損で犯罪者ってことになる危険があるってことに気がつかんのかね。 昔、あるチャットで、「私、2ちゃんねらーですけど、それが何か?」なんて言われたことあるけど、「あなたバカですね」なんて返事してほしいのか(^_^;)。
ネットの恐ろしさってのは、たとえ個人のホームページであっても、それが巨大化していけば「2ちゃんねる的要素」が生まれてくる点である。つまり、「荒らし」が増えるのだね。典型的な例が山本弘さんの「SF秘密基地」だろうが、そこではやはり、管理の仕方をいかにするかっていう、管理者の「覚悟」が問われることになるのだ。 ネットが新しい形のコミュニケーションを作りあげていく可能性については、大いに期待したい。実際、私の場合を考えてみても、ネットいうものがなければ、まず間違いなくAIQやオタクアミーゴスの先生方ともお近づきになれなかったし、もちろん、見知らぬ人たちから私の考えていることに対して、賛同、批判、罵倒を受けたり、知り合いの信頼、友情、裏切りに会ったりして、職場とトラブルを起こしたりすることもなかった(^_^;)。 もちろん、それは全て私に「考える」きっかけを与えてくれた。 その考えたことがまた日記にフィードバックされていく。おかげで日記がどんどん長くなる(ー∇ー;)。 ネットに妙な夢を見るのは危険だと思う。けれどネットを通して、見えない相手の顔を想像して行くことが、越えられない人と人との心の壁に蟻の穴の一つくらい開けられやしないかと、ちょっとくらいは夢想してみたくなるのである。でもそのためにはまず「現実」を客観視する目を持たないとね。
マンガ、増田龍治作・増田若子絵『POPEE THE PERFORMER ポピー ザ ぱフォーマー』(講談社/KCピース・1200円)。 タイトルの「ぱフォーマー」の「ぱ」だけが平仮名なのは誤植にあらず。 CSキッズステーション制作のCGアニメのコミック版だが、アニメの方のタイトルは『POPEE the ぱフォーマー』とアルファベットも字体もバラバラなのでややこしい。 コミック版は当然CGじゃないんだけれども、そのギャグのレベルはアニメ以上にシュールで意味不明で、もう私にはおもしろいんだかつまんないんだかわかりません(^_^;)。 アニメは最終回以外は全くセリフがないマイムものなんで、実は設定がよくわかってなかった。なにしろ「ポピー」という名前さえ、本編中で呼ばれたことはないのである。もちろんワザとわかんなくしてはいたんだろうけれど。 解説によれば、「ポピーは17歳。クラウンと呼ばれるサーカスでの道化俳優見習い。ヴォルフ・サーカス団に所属していて、助手のケダモノとともにサーカス一座を盛りあげようと日々訓練に励んでいます」ということだけれど、なぜか舞台は誰もいない砂漠なんだよね。 なんでかなあ、と思っていたら、「製作費がバカみたいに安く、制作期間もウソのように短いので、回りに何もない砂漠が一番作りやすかったから」だそうな(^_^;)。それでアレだけのクォリティのものが作れたんだから、やっぱりセンスは大事だね。 とは言ってもこの制作者夫婦のセンス、決してマトモとは言えない。もともとの予定タイトルは『着ぐるいポピー』。そりゃテレビじゃ通らんわ(^_^;)。
マンガの方にはアニメと違ってセリフがあるものもある。けれどセリフが「意味を伝える」ものであるとしたら、これはもうセリフではない。何も伝えようとはしていないからだ。その点では吉田戦車的ではあるね。 例えば「砂かけ母」。 レオタード姿の母親が、四つんばいになって後足で砂を蹴って、娘にかけている。娘は手を差し伸べて言う。「お母さんもうやめてよ」。 母は悲しげに答える。「あんたにしてやれる事はこれ位しか無いの」。 なんだかよくわからないが、何がスゴイってこの母娘、このマンガのレギュラーキャラでは全くないってことだ。ナニモノだよ、この二人(^_^;)。 それにしても、アニメ以上に毎回ポピー死んでるなあ。
ほとんどの話がマンガ版のオリジナルだけれど、最終回だけがアニメ・マンガともにオチだけちょっと変えて共通。 ケダモノはいなくなってしまいました。 だからこの話に続きはありません。 ちょっと寂しいけど、この二人の新作、『ガラクタ通りのステイン』に期待しましょ。今度はもう少し予算が増えたみたいですから。
しげがDVDを何かかけながら寝る、と言うので、久々に『名探偵ポワロ』を見る。今回は第5巻の『夢(The Dream)』。原作小説の方は未読である。 大手パイ・メーカーの社長、ファーリーに呼ばれたポワロ(本当は「ポアロ」と表記したいところだけど、テレビタイトルがこうなってるから仕方がない)は、毎晩自殺する夢に悩まされている、と相談を受ける。やがて彼は死体で発見されるが、その状況は彼が夢で語った通りだった。 長編に比べたら短編は苦手、というのがクリスティーについてよく言われる批評だが、これもトリックがどうにも古色蒼然としていて、現代の目で見ればいささか荒唐無稽な印象を受けてしまう。何よりこれは小説のトリックとしてはまだなんとか成り立ちはするが、映像にしちゃうともうバレバレなんである。犯人、よくこんなチャチなトリックでポワロの目をごまかせると思ったよなあ。 と言っても、ポワロほどの頭脳がなくとも、ミステリーのセオリーをある程度知ってる視聴者なら、定番通りの発想を辿って、容易に犯人もトリックも見破ってしまうだろう。だいたい被害者がノイローゼで自殺したなんてことはありえないって前提で考えれば、誰が何のためにトリックをしかけたのか、すぐに気づくでしょ。 トリックのレベルとしては、下の上クラスかな。
2002年01月17日(木) 部屋の中を歩けるようになったよん(それが普通だってば)/アニメ『七人のナナ』第2話/『クレヨンしんちゃん』31巻(臼井儀人)ほか 2001年01月17日(水) 雪が溶けて川になって流れていきます/『これから』(夏目房之介)ほか
| 2003年01月16日(木) |
階段の怪談……f(^_^; スンマセン/『自殺』(柳美里)ほか |
ちょっと今日は怖い話をしましょう。 しげはぜひ読んで怖がるように(^o^)。
その日(って今日だけど、これは「語り」の定番なんで気にしないように)、私は残業で、七時過ぎまで職場に居残っておりました。 山奥で人家もまばら、冬のこととて、あたりはしんしんと静まりかえっております。 夜の見回りもこれで何度目でしょう、建物の中の暗がりにも随分馴れてきて、懐中電灯を片手に、一階から二階、と心の中で鼻歌なんぞを歌いながら(ホントに歌ったらバカみたいなのでしません)歩いておりました。 コツ、コツ、と私の足音だけが廊下に響きます。 建物は3階建てです。3階の廊下の天井灯がなぜか点きっぱなしになっていたので、スイッチを切って、屋上に登る階段を上がって行きました。 屋上までは天井灯がありません。そのために懐中電灯が要るのです。寒いので外までは出ませんが、屋上へのドアに鍵がかかっているのを確かめて(キャッツアイじゃあるまいし、こんなところから泥棒が入って来るとは思いませんが、念のためです)、階下に降りてみました。
あれ? 明るいな?
消したはずの廊下の電気が点いています。 上に行ってる間に、誰か同僚が通りかかったのかも知れない。そう思って、もう一度、電気を消しました。 見回りはまだまだ終わりません。廊下を曲がって、奥に進みました。
ふと、背中に気配を感じました。
振り返ると、さっき消したばかりの廊下に、電気がまた点いています。 誰も通っていません。それは確かです。足音もしませんでした。 もう一度、電気を消しに戻りました。 スイッチが甘くなったりしているか、と思って目を近づけて見てみましたが、普通のスイッチです。勝手に動いたりするようなものではありません。 今度こそ確実に押して、あたりは真っ暗闇になりました。私は廊下からそそくさと逃げるように警備室に懐中電灯を戻しに行きました。 もしかしたら、また電気が点くのではないか、そういう疑問も心に浮かびましたが、もうそれ以上、確かめに戻るつもりはありませんでした。
職場をあとにして、建物を振り返りました。 廊下にはやはり……。
木曜洋画劇場で『男はつらいよ 寅次郎紙風船』、これはまだ見たことがなかった。 マドンナが音無美紀子で、寅さんについて回るフーテン娘が岸本加代子。まあ、こりゃどうでもいい。 小沢昭一がワンシーンだけ出演していて、渥美清と絡むのだけれど、やっぱり芸達者同士の掛け合いってのは味があるし息は合ってるし、いいんだよなあ。これで監督が山田洋次じゃなかったらもっと面白くなってたろうに(^o^)。いや、せっかくこの二人を掛け合いさせていながら、ギャグがないのよ。 寅さんシリーズ続けててもよかったけどさあ、やっぱり役者の使い方ってものはちゃんと考えてほしかったよね。
『ダ・ヴィンチ』の2月号で、手塚治虫『ブラック・ジャック』の各話人気投票が行われている。 1位はピノコ誕生編である『畸形嚢腫』。 次いで、ブラック・ジャック初恋編の『めぐり会い』『おばあちゃん』『ときには真珠のように』『友よいずこ』『ちぢむ!!』『人生という名のSL』『ふたりの黒い医者』『えらばれたマスク』『ピノコ生きてる』、と続く。 一目瞭然、ベストテンのほとんどが「ブラック・ジャック自身の事件」である。ピノコやドクター・キリコなど、レギュラーキャラの話を含めば、純粋に手術ものと言えるのは、『おばあちゃん』と『ちぢむ!!』だけだ。 本来、ブラック・ジャックは物語の狂言廻しであって主役ではない。主役はあくまで各話のゲストキャラであるのだ。となれば、『ブラック・ジャック』の本質は、この人気投票全体からはあまりうかがえない。 やはり、「内幕もの」的な「自身の事件」を除いた中の最高位である『おばあちゃん』に、このシリーズの本質を見るのが妥当のように思われる。 単純に考えれば。
嫁に嫌われてもお小遣いをせびり取る老婆。彼女は昔、難病にかかった息子の命をブラック・ジャックに救ってもらっていた。おばあちゃんは、まさしく一生をかけて、その高額な治療費をブラック・ジャックに支払い続けていたのである。
何度となく『ブラック・ジャック』中で描かれる「医療とカネ」の問題である。 しかし、このシリーズが一筋縄ではいかないのは、「人の命を助ける医者が高額の代金をもらって何が悪い」というテーゼが提示される反面、別の話では「医者が人の命をどうこうできるなどとはおこがましい」というアンチテーゼも描かれていることだ。 そんなことも含めて、「医者ってなんだ」「命とはなんだ」という疑問を読者に問い続けたのが『ブラック・ジャック』という物語だったのだろう。答えなんて、手塚治虫自身にだってわからなかったと思う。
柳美里『自殺』(文春文庫・480円)。 そう言えば、柳さんが自分の名前を「ユウ」と読ませてるのは間違いだと『まれに見るバカ女』の中で呉智英が指摘してたな。 本当の発音は「ユ」と短く、「ユウ」だと「乳牛」という意味になるのだという。 朝鮮人と言っても、柳さんは在日二世の人である(正確には在日韓国人。「朝鮮」という呼び方を韓国の人は嫌うらしいが、北朝鮮と韓国をひっくるめた「朝鮮半島」って言い方が日本じゃ一般的なんだけどな。わざわざ「韓半島」と読んだら、今度は北朝鮮から文句が来そうだぞ)。どれだけ韓国語ができるのか怪しいし、そういう間違いもあるんじゃないかなあ。それをあげつらうってのは呉さんもどうかしてるな。 呉さんは「朝鮮語ができなくて当たり前である日本人に、朝鮮人名の朝鮮語読みを強制するほうが理不尽」とも主張しているが、別に日本人じゃなくて朝鮮人なんだから、理不尽でもなんでもないでしょう。呉さんは中国や朝鮮に行ったときに自分の名前が向こうの発音で読まれても気にならないのかもしれないけれど、普通の日本人は「それ、オレの名前じゃないよ」と感じると思う。
そんなことを思ったのは、この本の書きだしが、「はじめまして、ユウです。柳と書きますが、ユウと読みます」で始まってたから。 これは、1993年に神奈川県立川崎北高校で行われた柳さんの講演及び生徒との対談記録、それに1999年時点での論考を追加したものなんである。 1993年は、ちょうど柳さんが処女小説『石に泳ぐ魚』を執筆している最中であり、さて、このとき柳さんがどんな心理状態で小説を書いているのか、ということの興味もあって読んでみた。 テーマがなにしろ「自殺」である。 柳さんの担当編集者はこの講演の企画を説明する時に、「自殺といったら、経験者でもある柳さんをおいてほかにいないと思いまして」と言ったというが、冷静に考えれば、こんなヒドイ言い方はない。まあ、柳さんが「有名人」であり「表現者」であるから、多少のシツレイをしたところで構うまい、という判断はあったろうが、普通、自殺未遂者に「自殺しようとしたときどんな気持ちだった?」なんて聞かないもんだ。 講演を依頼した学校の方も、恐らくは軽い気持ちだったんじゃないか。柳さんのことを「自殺を乗り越えて強く生きている」というふうに考えて、生徒に「命の大切さについて考えてもらいたい」とかな。 しかし、柳さん、確かに「強く」生きてはいるのだろうが、その「強さ」っての、普通に期待されるような前向きなもんじゃないんである。どっちかっつーと、「後ろ向きな強さ」っつーか、「暗い強さ」(^o^)。
「小学校六年で生理が始まったとき、はじめて自殺を考えた」 「生理が始まったことは私にとって、死期が近づいたということだった」 生理のない男である私が、こういう感覚について、あまりうかつなことは言えない。不安はあっても、母になれる身になった喜びはないんだろうか、とか考えるのは、やはり男の勝手なリクツ、ということになるのかもしれない。ましてや柳さんは子供のころから母親に「あなたなんか産まなければよかった」と、母であることを拒絶した言葉を聞かされ続けていたのである。 浅薄な分析ではあるが、裁判時の発言にも顕著に表れている柳さんの心の歪みは、やはり子供のころの親子関係に起因しているように思う。 親はよく、「要らない子だなんて冗談だ」とか「そう言って親ばなれさせるのも躾のうち」だとか言い訳をするが、残念ながら、ある程度ではあっても本気で「コイツ要らないな」と思わないと、親の口からこんな言葉は出ない。子供はそれくらい感づく。 親に見捨てられた子供は確実に歪む。柳さんが歪んじゃったのも、仕方がないことかも……なんて言い方をすると、柳さんの現在の狂いぶりを弁護してるみたいだけれど、必ずしもそうじゃない。 自殺未遂を繰り返してる人に対して言いにくいことじゃあるけどさあ、親ってものはたいてい子供を見捨てるものなのよ。だから、子供は100パーセントの確立で歪むものなんである。「オトナになりたくない」「親になりたくない」って感覚を持たない子供はいないし、自分だけが自殺をしよう、ましてや柳さんのように「世界人類が死んでしまえばいいのに」とまで思うのは、ただの自意識過剰なんである。
中学二年のとき、柳さんは好きな同級生の「女の子」に告白をして、振られ、カミソリで手首を切って自殺を図る。 その女の子は、柳さんのことを「あなたのその長い髪も、しゃべり方も、存在自体大嫌い」と言って拒絶したということだが、まあこの言い方も相当にヒドイけれど、中学生くらいの年頃なら、自分のことを日頃から熱く見つめる「同性」がそばにいたら、拒絶することもありえるだろう。 「ごめんね、あなたの気持ちは嬉しいけれど、私、同性の人には興味がないの」なんて優しい言い方ができる余裕はなかろう。しかも、柳さん、そんな言い方で引き下がってくれそうな雰囲気ないし(^_^;)。
実はもう、本書の内容をつぶさに見て行きたくないんだけど、それはなんでかって言うと、この人の喋ってることも内容も、とことん「鬱陶しい」からなのね。「怖い」と言ってもいい。 基本的に、「生きる権利があるように、人間には死ぬ権利だってある」という主張には賛同できはする。 けれど、柳さんの、ともすれば自殺を肯定するために粉飾を施し、自分勝手な理屈をつけ、美化しようとする語り口にはどうにもついていけない。 私が「人が死ぬのもその人の権利」と言うのは、結局のところその人がなぜ死を選ぶのか、理由はその人自身にしか分らないと思うからだ。 柳さんのように、「寺山修司は自我を守るために死んだ」「岸上大作はぶざまに生きることを拒否して死んだ」「円谷幸吉は誠実であろうとして死んだ」「岡真史くんは鋭い感性ゆえに死んだ」「太宰治は日常のしがらみに堪え切れずに死んだ」とやられると、「私はこんなに自殺する人の気持ちがわかるのよ」という思いあがりばかりが鼻について、「そんなに死ぬ人間の気持ちがわかるならテメエもさっさと死ねや」と暴言を吐きたくなってしまう。
ハッキリ言うが、たとえ柳さんに何度となく自殺未遂の経験があったとしても、それでほかの自殺者の心理などわかったりはしない。絶対にわからない。 そもそも人間に、ほかの人間の気持ちが「手に取るように」理解できるなんて思いこむ方が狂っているのである。人は、人とコミュニケーションを図るとき、結局どんなことをしてもこの人と理解しあえることはないのだ、という絶望から始めなければ、実は一歩も先に進むことはできない。理解できた、と思った時点で人間関係は終わるのである。柳さんはまさしく他人との関係を「終わらせて」いるのだ。そこにはもう柳さん一人しかいない。彼女が語っているのは自分のことだけなのである。 こういう講演の依頼を引き受けたこと自体、柳さんの肥大化した自意識の表れだ、と見なすこともできよう。柳さんは他人のことを語っているようでいて、自分のことしか見ていない。もちろん、誰にしもそういう面はあるものだが、普通はそういう自分に気がつけば自ら一歩引くものである。 それをこう露骨に出されると、引くのはこちらの方になる。アナタ、「ほーら、こんなに手首が切れちゃった」って見せびらかす女のソバにいたいと思いますか? 相手がどう言い返したらいいのか判らない状況を作り出して喜んでる人間がいれば、普通は誰でも逃げますって。
なんだか『石に泳ぐ魚』、読まなくてもいいような気がしてきたなあ。 もう自分のことを批判的に見る目も持たずただただ甘えた自意識を垂れ流すだけの文章って、読んでてツライからさあ。
2002年01月16日(水) どんぶりめしがいっぱい/『パワーパフガールズ<DCコミックス版>』1巻(クレイグ・マクラッケン)ほか 2001年01月16日(火) 雪の白樺並木、夕日が映える/『風の歌うたい』(吉田秋生)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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