無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年08月10日(水) 14万ヒット御礼/DVD『英国戀物語 エマ』1、2巻

 この日記も更新遅れを繰り返しながら、ついに14万ヒット。
 しょっちゅう休んでるのに、忘れもしないで覗きに来てくださる方がいらっしゃるのは自分でもフシギで仕方がないのですが、アクセス解析を見ると、しっかりブックマークして下さってたり、いつの間にかリンク張ってたりしてくださってる方もいて、いちいち挨拶はしていないけれども、心から感謝の念を抱いております。
 もちろん、常連さんでいらっしゃっても、毎度毎度これだけ好き勝手なことばかり書いてますから、お怒りの方もいらっしゃるでしょうし、ご批判したい方もたくさんいらっしゃると思います。時間と体力と気力が許す限り、誠実に対応させて頂きますので、いくらでもメールを下さって構いません。
 いや、実際に批判メールを頂いて、意見交換しているうちに、「やっとられんわ」と嫌われてそっぽ向かれちゃうこともよくあるのですが(苦笑)。たいていの人はそういうやり取りも面倒くさくて、「なんだこいつは?」と、覗きに来ることもやめるのが普通だと思います。それなのに、名も知らぬ常連さんがいつの間にか増えているのは、一応、私の駄文にもそれなりの道理があると思って頂けているということなのでしょうか(思い上がりかな)。
 なかなか信じて頂けませんが、私は私と意見が異なる人であっても、嫌いになるということがありません。つか「嫌いになる」という感情がよく分からないのです。言葉が通じなくて途方に暮れたり、トンチンカンなことを言われてムッとしたりすることはあります。けれど、それは相手を嫌いになったということではありません。
 よく日記に悲惨な犯罪事件のことを書いて、犯人のことを嗤ったり罵倒したりしてますが、こういう場合ですら私は犯人のことを憎んだり嫌ったりはしていないのです。たとえどんな極悪人の犯罪者であっても、「人間、一皮向けばみな同じホネ」ってのが持論で、仮に「死ねばいい、あんなやつ」とか言ったりしてたとしてもそれは言葉だけのことです。基本的に私の人間認識は「環境次第でどんな人間だって犯罪者になっちゃうもんだ」ってことなんですよ。まあ、「他人を嫌うことに何の意味があるか」と思ってるって言った方が正しいでしょうか。
 だもんで、仮に私が誰かから悪し様にののしられたとしても、ココロの中は愛でいっぱいですので、決して怒ったりはしません(笑)。
 つか、人から馬鹿にされて怒る人間は、もともと誰かを馬鹿にしたがってる傲慢な人間なんですけどね。怒っていいのは下らない映画を見せられたときだけで充分(笑)。 


 WOWOWで映画『映画女優』。
 劇場公開時に見たときにも、脚本は説明ばかりでセリフが皆無に等しいし、役者は森光子以外大根ばかりだし(特に吉永小百合と菅原文太が学芸会レベルである)、そのあまりの駄作ぶりに閉口してしまったものだが、久しぶりに見返してみるとやっぱりつまらなかった。つか、以前にもまして欠陥をいくらでも指摘することができる。これと『竹取物語』の二本しか市川崑作品を見たことがない人は、この監督はマイケル・ベイ以下の糞監督であると弾劾するに吝かではないだろう。……いや、この二本は市川さんがどうかしちゃった映画なんで、あまり責めないでほしい。あと『鶴』も。
 原作・脚本は『小説田中絹代』の新藤兼人なんだが、田中絹代の長い人生を松竹入社から『西鶴一代女』まで絞ったのは慧眼のように見えて実は中途半端である。これはもう、『西鶴一代女』のバックステージものとして、そこだけに物語を絞った方が散漫な印象を与えずにすんだはずである。もっともそれでも主演二人の大根ぶりは変わるわけでもなかろうから、結局はそこそこにつまんない映画にしかならなかったとは思うが。世のサユリストには悪いけど、田中絹代を吉永小百合に演じさせるってのがそもそもの間違いなんである。「映画はキャストで決まる」ってのは市川さんの持論じゃなかったのかなあ。
 ついこないだ、古川薫の『花も嵐も』を読んだばかりだったので、比較して気付いたのだが、映画では田中絹代と城戸四郎の男女関係については一切触れていない。松竹社長の城戸四郎は、単に田中絹代のよき保護者ということだけの存在ではなかったのだが、そこを描かないと、物語は表面の上澄みだけを掬い取ったような、キレイゴトの世界にしかならなくなる。徴兵忌避をして失踪した絹代の長兄の存在にも一切触れない。この兄の存在が、田中絹代の人生にどれだけ大きな影となってその道を縛ってきたか。それもこの映画は一切描かない。
 実在人物を扱っているのせいで何か差し障りがあったのかもしれないが、だったらもう田中絹代の名前を使わないで映画化した方がよかったのではないか。溝口健二、五所平之助、清水宏、城戸四郎などは名前を変えて登場しているのに、小津安二郎や鈴木伝明、大日向伝、牛原虚彦などは実名のままというアンバランスさが、この映画の居心地の悪さをそのまま象徴しているのである。随所に映画史に残る傑作のスチールやフィルムが挿入されるが、これがまた物語の流れを阻害して鬱陶しくて仕方がなかった。
 この映画だけを見て田中絹代という稀代の女優を判断されてしまうと本気で困る。こんな中身スッカラカンの伝記映画を見るよりは、オリジナルの田中絹代の映画に当たってもらいたい。日本映画専門チャンネルとかで時々放映してるから、まめにチェックしてくださいな。代表作の『愛染かつら』は今の若い人には少々辛いかもしれないけれど、感性が磨耗してなければ見所はたくさん発見できると思う。『伊豆の踊子』『お琴と佐助』あたりは文芸好きな方には必見だし、『西鶴一代女』『雨月物語』は日本映画黄金期の映画が世界に与えた影響の大きさをその画面から如実に感じ取ることができる。『サンダカン八番娼館 望郷』はもう役者の演技ってここまでの表現ができるものなのかって驚きに魂が震えるほどだ。


 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 靖國論』(幻冬舎)。
靖国神社をどう考えるかってことについての私の意見というかスタンスは特にない(笑)。誰が何を信仰しようとそりゃ当人の自由なんだから、知ったこっちゃないって言った方がいいかもしれない。私には右も左も関係ないし、カミサマとか英霊も信じてないから、基本的に靖国に対する思いは何もないのである。
 だからと言うわけではないが、靖国問題に関して私は、右とか左とかに左右されずに、比較的客観的に状況を見られているほうだと思う。つまり私は別に小林よしのり信者ではないということで(笑)。このことを先に明言しておかないと、やたら「てめえ、右だろう」と勘違いされてしまうので、面倒くさいのである。
 基本的に小林さんの靖国神社についての歴史認識と判断は普通に正しい。「靖国の存在自体がかの侵略戦争を肯定している」というアチラさんの主張が難癖に過ぎないことは、「靖国に祀られているのはペリー来航以来の英霊」という事実だけで簡単に証明できる。それなのにいつまで経ってもアチラさんが難癖を付けるのを止めないのは、アチラさんが「反日」を国家統合のためのスローガンとして利用しているからだ。
 日本人にとって神社とは宗教というよりは「習俗」なのであって、政治にも信仰にも関係なく、これを拝む。初詣をするクリスチャンがいてまるでおかしくないのは、日本においては宗教が常に習俗化される文化が存在しているからだ。「食事の前に手を合わせる」のも何かに対して拝んでいるわけではない(ご先祖様だったりお天道様だったりするが、極めて曖昧である)。
 外国人は日本人の宗教ちゃんぽん行為に首を傾げるが、こういった習慣・文化を知らなければいつまで経っても疑問は消えないだろう。お隣さんたちは自分たちが日本の文化のルーツだと信じていて、宗教観も似たようなもんだと思い込んでいるから、なおのこと理解が難しくなってしまっている。日本人の宗教観はかなりの部分で他国と隔絶しているのだ。
 だから私も、カミサマなんぞ信じちゃいないが、神社に行けば手を合わせる。靖国で手を合わせても、これは「あなたたちの無念を晴らすためにいつかあの国とかあの国とかあの国をぶっ潰してやりますから」という意味にはならない。
 しかしアチラの国については、宗教は即政治である。「英霊を祀る」行為は、復讐を誓っているとしか受け取られまいし、そして政府は国民にそう喧伝している。そうすることで、国内政治の混沌を隠蔽し、恨みつらみを国外に転化しているわけだ。
 歴史の捏造はどの国でも自国に都合よく行っていることだが、ありがたいことに、アチラさんには実に簡単に洗脳されるアタマのお弱い方がいっぱいいらっしゃって、政府のプロパガンダをいとも簡単に信じて支持してくれているのである。ちょっとネットを開けば世界各国の情報も入手できるのだから自国の情報ばかりが正しいわけではないと気付きそうなものなのだが、多分、国民の大半が文盲なのであろう。馬鹿の一つ覚えのようにしょっちゅう反日デモばかり起こして日の丸を焼いているが、暴動を起こすやつに正義があってたまるか。
 だから馬鹿にビビッて、A級戦犯の分祀だの無宗教の慰霊碑の建立だの、そんな姑息な手段で解決を図ろうとしたって、こちらが一つ要求を飲めば図に乗って別の難癖を付けてくるに決まっているのだから、結局は何の意味もないのだ。どんなに困ってるときでも、馬鹿の言うことを聞いちゃいけないってことね。
これは小林さんだけが指摘していることではなく、現実にアチラの政治状況を見ていれば誰にでも理解できる紛れもない事実であるので、ゴーマニズムに反発を覚えている人でもこの点に関しては小林さんと意見を一にしなければならないことだろう。それにアチラの人でも、特に洗脳されてない人は反日デモに参加なんかしないのである。
 ただそれでも問題がややこしくなってしまうのは、日本人の中にもやっぱりアチラさんを憎み蔑み、「いつか復讐してやるぞ」と心に誓ってる連中はいて、そういうやつらと同一視されたくないから靖国参拝を控えざるを得ない普通の人々もいっぱいいるだろうなと思うわけである。筆頭は天皇陛下(笑)。
 鑑みるに、小林さんは右に行く一歩手前で踏みとどまっていると思う。これまでの言動を見て行けば、街宣車でがなり立ててるいかれた連中と一緒にならんことははっきりしている。それをいかにも軍国主義の権化のように口汚くののしっているのは、左翼の方がよりトチ狂ってると言われても仕方のないところだ。
 確かに、小林さんは資料の読み間違いも多いし、南京大虐殺はなかった(かも知れない程度で押さえているけど)とか、全ての主張を鵜呑みにするわけにはいかなってことも分かりはするのだ。感情に流された勢いで馬鹿だの狂ってるだのテキさんをわざと挑発するようなモノイイをするのだって、あまりうまいやり方ではない。
 しかし、だからと言って、いくつかの誤謬だけを根拠に「小林よしのりの言ってることが全て間違い」だなんて断言していいわけがない。
 これまで小林さんが『ゴー宣』で俎上に乗せてきた題材はどれもこれも一筋縄ではいかない困難な問題を含んでいるものばかりで、ちょっとした話し合いであっさり解決できるなんて簡単なものは殆どなかった。薬害エイズの事件についても、オウム真理教事件についても、従軍慰安婦の件についても文字通り小林さんは体を張って取り組んでいる。これだけの事件に首を突っ込んで、とりあえずできるだけ角を立てないように冷静に対応しようったって、土台無理な話なのだ。論戦になれば結局は激しく言葉をぶつけあい「馬鹿阿呆間抜け」とののしりあわざるをえなくなる。しかし、それだけの言葉をぶつけるということは、小林さんがまさに「本気」だということの証ではないのか。
 だから読む方だって最初から「小林よしのりの言うことだから」で初めから鼻で笑ったような読み方をするもんじゃないよと思うのである。相変わらずコマ割りはヘタだし、恣意的でわざとらしい表現は多いし、習俗の問題を政治にすり替えようとする意図は見受けられて、そこんところが一番鬱陶しいのだが、少なくとも極右の人たちのように日本の軍国主義化を標榜しているわけでは決してない。そんなふうに小林さんのマンガを読み取りたがってる左の人は多いようだけれど、それも政治的かつ恣意的に過ぎる読み方である。
 ディテールに腑に落ちない部分はあっても、「靖国の存在が外圧に左右されてどうにかされてよいことではない」という基本的な主張は全面的に正しい。一時期に比べればアチラさんのデモもだいぶ沈下しているが、これはやはり国際的な批判を浴びたおかげだから、外圧に弱いのはアチラさんも同じなのである。受けに回った方が立場が弱くなるのは当然だから、小林さんの責めの姿勢はやはり貴重だと思う。
 まあ、批判したい人はもちろんして構わないんだけど、「コヴァ」なんて斜に構えたモノイイで論争を最初から回避するような態度はやめといてほしいんだけどねえ。

 
 DVD『英国戀物語 エマ』1、2巻。
 初回生産限定豪華コレクターパッケージ仕様ってやつで、黒っぽいカバー(色弱なんで色は分からん)に、英語で「Victorian Romance Emma」って華麗に書かれてるのがすげえ素敵。って、パッケージに惹かれてうっかり買っちゃったみたいだが、もちろん中身のアニメも傑作である。 
 いつの間にやら「メイド萌え」モノがアニメ界を席巻するようになって久しいが、私は多感な学生のころですら特にアンナミラーズにもハマらなかった朴念仁であるので、メイドコスとかにはまるで興味がない。アニメ見ててもフリフリ作画するの大変だろうなあとか、そんなことしか思わない(『ぷぎゅる』とかはその心配いらないから楽だな。ってあれもメイドアニメって言っていいのか)。
 ところがもうファンには一切説明は要るまいが、これはメイドさんに「ご主人様、何でもお言いつけを♪」とこぼれそうな微笑みでかしずいてもらってる主人公に感情移入してムネがドッキンドッキンバックバックしちゃうような妄想逞しいオタクのためのメイドアニメなどではないのである。もちろんそういう観点で見ることだって不可能ではないのだが、それ以前にこれはもうイギリス・ビクトリア朝・ロンドンを舞台にした世紀の大ロマンであり、近代小説が「恋愛」という、ドラマを構築するための重要な要素を獲得したのが、まさにこのビクトリア朝の身分社会を活写することから始まっていることを確認させてくれる画期的な物語であるのだ。
 浅薄な知識なのでいろいろ突っ込まれたい方はおありだろうが、『チャタレイ夫人の恋人』を生み出した土壌もここにあり、全てのハーレクイン・ロマンスの、メアリー・ウェストマコット(正体はあの人ですね)の諸作のルーツもこの時代に求めることができるという理解はそれほど外れてはいないと思う。
 私が原作マンガの『エマ』を見て、今更ながら、ああ、と嘆息したのは、小説以上に広範な守備範囲を誇り、古代ギリシャから近代ヨーロッパ、アメリカ西部劇の時代まで、ありとあらゆる時代、国を舞台に物語を展開させてきた日本のマンガシーンが、この「ビクトリア朝ロンドン」に関しては、ほとんどそのマンガ化と言えば「シャーロック・ホームズ」以外に見るべきものを生み出してこなかったよなあ、という事実である。
 この時代、風俗、これを活写するためには、単に人物のキャラクターが描けていればそれでいいという訳ではない。人々を取り巻くその風景、リージェント・ストリート、コベント・ガーデン、ハイドパーク、ピカデリー・サーカス、タワーブリッジ、ロンドン塔、セントポール大聖堂……。まあ、絵に描くのは大変だってのは分かるけれども、これらが人々の精神世界を象徴する風景としてきちんと描かれ、「機能」していてこそ、近代小説の祖としての恋愛ロマンを現代のマンガとして再生することができるのである。
 ビクトリア朝の美術については、宮崎駿の(美術の山本二三の)アニメ『名探偵ホームズ』の細かいレンガの描き込みを見たときにも舌を巻いたものだったが、原作の森薫の背景描写へのこだわりにはそれ以上の熱情がある。それをアニメはさらにグレードアップ、原作にないディテールに至るまで設定し、動かし、匂うような空気まで感じさせてくれるほどに描き出してくれた。本作の美術を担当した櫻井純子・矢野祐子両氏の仕事はまさしく「入魂」の一語に尽きる。
 ここに描かれている建物が、調度が、衣装が、流行が、ロンドンの人々を支配し拘束しているからこそ、ウィリアム坊ちゃまとエマの恋は「その世界に縛られつつも自由であろうとするエネルギー」を生み出し、ロマンの炎を燃え上がらせているのである。
 まあ、堅っくるしい言い方を避けて簡単に言っちゃえば、女性が一個の人間として「恋愛」できるようになったのは、「身分を越えた恋」を経験できるようになってからってことなんだよね。凡百のメイドアニメが一見、主人公とメイドさんとを対等に描いているように見えながら実はメイドさんが精神的には男の性奴隷となり果てている状況の中で、『エマ』は見事なほどに正統派の恋愛ロマンを蘇らせてくれたってわけ。

 1巻は、第1章「贈り物」、第2章「二つの世界」を収録。
 2巻は、第3章「告白」、第4章「ミューディース」を収録。
 美術の話ばかりしてしまったが、シリーズ構成・脚本の池田眞美子の簡潔でさりげない伏線の張り方の見事さにも感動を覚えるし、決して枚数が多いとは言えない中で、登場人物たちの微妙な表情に気を配り、ここぞというときには髪や衣服の重みまで感じさせるように動かす緻密な作画には私は拍手を惜しまない。いやまあ、スタジオぴえろだし、作画監督も田中比呂人さんをはじめ錚々たる人たちだし、当然のことではあるのだが。
 オーディオコメンタリーは監督の小林常夫さんのほか、時代考証を担当している村上リコさんに加え、なんと原作者の森薫さん自身も登場。でも画面に見入って鼻歌を歌うばかりで、全然解説をしてないのであった。それだけアニメが素晴らしいという逆証明にはなってるけどね。

2004年08月10日(火) 本名、また変わりました(T∇T)。
2003年08月10日(日) 二元論の陥穽/『魔法先生ネギま!』1巻(赤松健)/『金田一耕助ファイル6 人面瘡』(横溝正史)ほか
2002年08月10日(土) 映画ファンってどこにいるの?/DVD『∀ガンダム�機|狼絽�』/『アフター0 著者再編集版』1・2巻(岡崎二郎)ほか
2001年08月10日(金) 代打日記
2000年08月10日(木) トマトの罠/『太陽がいっぱい(リプリー)』(パトリシア・ハイスミス)ほか


2005年08月09日(火) おしまいはおしまい/DVD『ベルヴィル・ランデブー/老婦人とハト』

 『ゴジラ ファイナルウォーズ』のDVD発売記念イベントで、プロデューサーの富山省吾さんが、「ゴジラは最長ブランク9年で復活している。今度もそのくらいでよみがえる。新世代のスタッフで新しいゴジラの復活を待ちたい」と2013年ごろに復活させる意向を語ったそうな。
 「ファイナルってウソじゃん!」と怒っているゴジラファンはもうそんなにはいないと思う。もう騙されるのは何度目だかわかんないくらいだしね。
 富山プロデューサーは『ファイナルウォーズ』公開直後から、「いつか復活」は明言していたから、今更驚きゃしないんだが、それにしても発表が早すぎる。言った舌の根も乾かぬうちに掌返すような態度に出るところが富山さんがファンから嫌われてるとこなんだけど、自覚はないのかね。
 以前、『VSデストロイア』でいったんシリーズに終止符を打ったときも「20世紀中の復活はない」と断言していたのだ。ところがわずか三年で『2000ミレニアム』を製作。けれど前VSシリーズほどにはヒットせず、その後遺症はミレニアムシリーズに最後まで付いて回ったという手痛い失敗があるのに、どうしてまあ、また同じ轍を踏もうとするのか、本気で理解に苦しむよ。
 ハッキリ言うが、ゴジラシリーズには既に往年の神通力はない。なんだかんだで初期のゴジラシリーズは映画が黄金時代だったころの産物である。昭和30年代、子供が楽しみに劇場に見に行くことのできた特撮モノと言えば、ゴジラ(と、他の東宝特撮シリーズ)しかなかったのだ。だから、その「名残り」でVSシリーズには初期ゴジラのファンだった親たちが子供を連れて劇場まで足を運んでくれた。
 けれども、ミレニアムシリーズのころの親たちは、昭和40年代、あるいは「9年間の空白期」のころに子供だった世代である。このころの子供たちにはゴジラ以外に熱中できる特撮モノがほかにもいくらでもある。別に「ゴジラ映画に行かなきゃならない」義務感などはないのだ。ましてや、更に2013年までゴジラ復活を待つということになれば、ゴジラを応援する世代は「VS」シリーズや「ミレニアム」シリーズで育った子供たちということになる。
 あの、どこからどう貶せばいいやら見当が付かぬほどフ抜けたテイタラクの両シリーズに、誰がどれだけの思い入れを持つことができるというのだろう。いくつか部分的に見るべきものはあったとしても、もはやゴジラは特撮の王道ではなく、たくさんある特撮モノの一つでしかない。たとえ10年経とうが20年経とうが、一般人はおろか、特撮オタクの間でも、「ゴジラ復活? へーえ」程度の反応で終わりそうな気がしてならないのだ。
 私だって、決して初代ゴジラからリアルタイムで付き合って来た世代ではない。ゴジラよりもガメラに入れ込んでいた世代であることは明言しておかねばならない。しかしそんな私でも、「ガメラのライバルであったゴジラ」が惨めな末路を迎える姿は、見たくもないのだ。若い連中がゴジラになんて興味ないという態度を取られるのが寂しくて仕方がないのだ。
 観客動員数が落ちている以上、「飢餓感をあおって客を寄せる」という手を打とうという目論見は分からないでもない。けれども現実にそれが成功した例はそんなに多くはない。それに、新世代のクリエイターによる新しいゴジラをったって、それをやろうとして失敗したのがUS版『GODZILLA』ではなかったのか。東宝は単にバクチを打とうとしているだけじゃないのか。
 「ファイナル」だと言ったのなら、その言葉を守って、潔くゴジラは過去の歴史の中に輝く存在のままでいてほしい(つかもうかなり薄汚れてしまったが)。万人を満足させるゴジラ映画なんて、もう作りようがないのだから。
 ……でも、それでも「一縷の望み」を期待してしまう自分が一番切ない。これがオタクの性(さが)ってことなのかねえ。

 
 しげの情緒不安定、まだ何となく緩やかに続く。
 またすぐに自殺未遂なんてことにはなりそうにないし、なったとしても実効性はあまりないことしかしそうにないから、いざというときは何とかなると思いはするのだけれども、脈絡もなくいきなり「オレ、母ちゃんと一緒にいられたの、どっちも五年だけだ」とか呟くのを聞くと、もちっとセルフコントロールしてほしいものだと切に思う。
 要するにしげがどうして自殺なんてことを考えたかというと、私が先に死ぬのがいやだったからである。
 先日、父としげと三人で食事をしたときに、父がいつもの口癖で「お母さん、なんでオレより早く逝ってしもうたかなあ」と呟いたので、「年の順だから仕方ないよ。僕がお父さんより先に死んだらやっぱり怒ろうもん」と私が言ったこともしげの記憶に残っていたのかもしれない。
 でも、十中八九、私の方がしげよりも先に逝く。多分、それは避けられない。
 そのことをしげに言ったら、「あんたは私が死んでも寂しくなかろ?」と来た。
 言いたいことは分かる。私は昔から孤独に慣れているから、しげが先に死んでも耐えることができるが、しげの場合は私が先に死んだらとても孤独に耐えるだけの自信はないと言うのであろう。
 確かに私は一人には慣れているが、かと言って、しげがいなくなって寂しくないわけはない。仮に今しげがいなくなっても、そのあと、自分が誰かと再婚する可能性はまずなかろうと思う。「人間は気が変わるものだから」と言われそうだが、これまでしげに散々ヒドイ目に遭わされてきても、全く浮気心が芽生えなかったように(まあ、コンビニで『プレイボーイ』を見る程度である)、しげ以外の人間との結婚生活というものが、自分が50、60歳になったときの状況を想像してみてもいささかもピンと来ないのである。
 私だって、しげに寂しい思いをさせたいわけではないから、しげが70で死ぬなら80まで生きたい。しげが80まで生きるなら、90まで頑張りたいと思う。でも多分、それは無理だ。だとしたら、願うことは「しげに強くなってほしい」。それしかないではないか。
 今まで散々私の期待を裏切ってくれているのだから、せめてそれだけはしげに望みたいと思うのだが、ダメかねこれも。


 先日6日、毎日新聞の報道で、「甲子園大会の開会式前に、広島代表の高陽東高校が全代表校に黙祷を呼びかけようとしたところ、高野連の幹部が『原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない』と制した」、というのは誤報だったと判明。
 あとで関係者に確認したところ、「取材の不備で、そのような趣旨の発言をしていないことが分かった」んだと。毎日新聞は「おわび」を掲載することを決めたそうだが、さて、気になるのは「取材の不備って、何をどう間違えたのか」、その過程だ。
 高陽東と高野連との間で行き違いがあったのは事実のようだが、それはまあ偶然のいたずらで仕方のない面があったのかもしれない。しかしそれがそのまま事実として報道されず、「言葉の捏造」が行われたとしたら、それは誰のどういう意志が働いたせいなのだろうか。高野連は実際に黙祷を制止させたのだから、そこで「何か」を言ったのは間違いないことである。さらにてっきり黙祷を呼びかけられると思いこんでいた高陽東の選手たちが、素直に「はいそうですか」とは言わなかっただろうことも容易に想像はつく。理由を聞くなり、どの程度強くかは分からないが何らかの抗議はしたろうと思う。そしてそのやりとりを新聞記者に伝えた者が脚色なり誇張を加えたとしたらどうか。そこに脚色者のどういう意志が働いたか、記者の受け取り方にもどの程度バイアスがかかったか。
 まさに「伝言ゲーム」のようだが、私もホモオタさんの件で新聞記者に取材を受けた経験があるから「様子」は見当が付く。新聞記者の方が聞けば腹を立てるかもしれないが、あえて断定させていただく。新聞記者とは決して「事実を報道しよう」などとは考えない人種である。かなり恣意的に記事を作り、しかもそれが限りなく捏造に近い創作であるにもかかわらず、自分がウソをついているという認識がない。ゆえに罪悪感も全くない。自分はあくまで「正義」のために「真実」を書いていると思いこんでいる。ハッキリ言えばただの妄想家だ。
 今回も、「黙祷呼びかけ中止」「選手の抗議」、この二つの事実だけで、実際のやりとりがどうだったか、記者は勝手に想像して記事を書いたと思われるが、その時点でもう記者のアタマの中では「記事」は「事実」であると変換されてしまったのだと思われる。
 「高野連が黙祷呼びかけを拒否した? それはヒロシマの記憶が風化しているせいだな? きっと乱暴な口調で選手たちを傷つけるようなことを言ったに違いない。『ヒロシマなんて関係ない』とかそんなことを言ったんだろう」
 そう思い込んで取材をし、選手が仮にちょっとでも「ニュアンスとしてはそんな感じです」とでも言おうものなら、もうその発言は「事実」ということになってしまう。恐ろしいことのようだが、これは日常の人間関係でもしばしば起こることで、まさに言葉というものが「受け取る者の恣意によって決定されてしまうもの」であることの一つの事例でしかない。
 注意しなければならないことは、新聞や雑誌、マスコミの流すニュースの言葉は、程度の差はあれ100%例外なく基本的には「捏造」であるという認識を持つ必要があるということだ。「捏造」という言葉が過激過ぎるなら「演出」と言ってもいい。「どこそこで事故があった」とか「誰それが何をした」という基本的なことは事実であっても、それを報道する側の姿勢の中に、「このニュースをこのように見せよう、聞かせよう」という「演出」が混じるのである。
 今回の件はその「演出」が「見え透いて」いたから、すぐにバレた。事件としてもそう大したことはないから、収束させるのも簡単だった。しかし、これが「政治的な事件」だったらそう簡単にはいかない。たいていの国民は政治に関してはシロウトであり、騙されないように気をつけていても裏を返されて騙され、真実に気付いたと思ったらまたそこには裏があるという二重三重四重五重のウソに翻弄されてしまうからである。
 「騙されないでいられる国民はいない」、これが政治における唯一の真実である。だからまあ、私はこの日記ではできるだけ政治的なことを書くのは避けているのだが、世の中には「自分には政治的な判断力がある」と思い込んでいる御仁はやたら多いのである。裏の裏まで見通しているのだと自信ありげな人は多いのである。虚飾を剥ぎ取ったその向こうには必ずたった一つの真実があると信じている人は多いのである。
 「自分が事実として受け取っているものも実は虚構である」という認識を前提として持っておかなければ、いざその虚構によって自らの立場が侵食されるような事態が生じたとき、その虚構を捨てられなくなってしまうのだけれどもね。「あの人は私を裏切ってほかの人のもとに走ったけれども、本当は今でも私のことを愛しているのだ」とか。いや、なんか卑俗な例で落としてしまいましたが、別に他意はありません。ホントよ。


 DVD『ベルヴィル・ランデブー』。
 まあ、以前の日記でも散々褒めちぎったから、再度内容を繰り返すことはしないけれども、DVDの画像の明晰さと言ったら、劇場版以上に艶やかだったんで驚いた。映画を見たときは人物の顔とかがやや平板に見えてたんだけれども、発色がハッキリしたおかげで、かなり立体的に見えるようになっているのである。
 解説書も微に入り細に入り、特にミルクマン斎藤さんが「見所」を逐一指摘してくれていたので、「そうだったのか!」と気付いたことも多い。
 最初のモノクローム映像のシーンで、ワンカットだけギターを弾いていたのがジャンゴ・ラインハルトであるとか(だって一瞬だったんだもん)、ホッテントットが踊ってると勘違いしてたのがジョセフィン・ベイカーであるとか(あんな踊り方してるとは知らなかった)、タップを踊って靴に食われたのがフレッド・アステアであったとか(ジンジャー・ロジャースと一緒に出てきてくれれば分かったのだ。だって顔が似てないんだもん)。
 シルヴァン・ショメ監督の前作『老婦人とハト』の主人公の警官がカメオ出演していたことにも気が付かなかった。こういったことは「遊び」だから、作品の価値と直接的な関係はないわけだが、気が付けば気が付いたで新たに「発見」できることも多い。
 そう言えば、広島アニメーション・フェスティバルで本作が上映されたときに、質疑応答の時間にショメ監督に向かって「私もジャンゴ・ラインハルトが大好きなんです!」と上気して質問に立っていたお客さんがいらっしゃったことを思い出した。ショメ監督は「同志がいて嬉しい」とばかりにニコニコして、「ジャンゴ・ラインハルト、そしてジャック・タチはぼくの心の師匠です」といった趣旨のことを話されていたが、その言葉の意味も今回ようやくDVDを購入して合点がいったのである。
 DVDを買う喜びは特典映像にあるが(映画のネット配信が普及してもここまでのサービスはできまい)、まず面白かったのはショメ監督と高畑勲監督との対談である。ショメ監督は、ディズニーなどの資金をかけて時間もかけて作った大作がかえって空疎な内容の作品ばかりになっていることを指摘して、逆に日本のアニメーションが時間も資金も制約を受けていることでかえって豊穣な作品を作り得ているのではないかと、実に見事な分析をしてくれているのだ。
 これに対して高畑監督が苦笑いをしていたのが可笑しい。なんたって、その「時間も資金も制約がある中でアニメを作る」方式を成功させたのは高畑監督のいた東映動画ではなく、そのライバルたる手塚治虫率いる虫プロだったのだから。ショメ監督はそういう日本の事情を知らず、感じたままのことを口にしただけなのだろうが、偶然にも手塚治虫の功績を世界に通じる技術として賞賛した格好になった。手塚嫌いで宮崎信者のアニメファンの方、あまり自説に拘り過ぎない方がよろしいと思いますよ。
 私も手塚アニメと宮崎アニメのどっちが好きかと言われたら、実はやっぱり宮崎アニメ派なのである。東映動画の昔から大ファンではあったが、だからと言って、手塚さんの功績を宮崎駿が口汚くののしるほどに全否定はしていないのだ。『Zガンダム 星を継ぐ者』の感想のときにも書いたが、テレビアニメを見て育った我々は、等しく「テヅカの子ら」であるのだ。
 もう一つ、DVDの嬉しい特典は、ショメ監督のデビュー作、『老婦人とハト』も収録されていることである。これももう7年ほど前に広島アニフェスで見たっきりで、世界のアニメーションに関心の低い日本の現状では、二度と見ることはかなわないだろうと思っていた。基本的にはハートウォームな『ベルヴィル』に対して、こちらは徹頭徹尾ナンセンス&ブラックなホラー・コメディーである。
 腹をすかした警官が、ある老婦人が公園でハトに豪勢なエサを撒いているのを見て、「ハトに変装して食事を恵んでもらう」ことを思いつく。普通ならこんなアホな計画、成功するはずがないのだが、それがなんとうまいこといっちゃうのだね。けれどそこには裏があって……。というストーリー。
 この物語がどれだけブラックかというと、警官がハトに変装するためにハトの羽根を毟って被りものを作るのだが、哀れ裸ん坊になっちゃったハトがどうなったかというと……。いや、とてもグロくて言えねえ(苦笑)。ジブリも本当はこういうブラックなアニメが作れなきゃ、世界に通用するアニメスタジオとは言えないんだけどなあ。

2004年08月09日(月) 「さびしんぼう」は詐欺師のエサ
2003年08月09日(土) 一足遅れの祝4周年/『なんだかコワレ丸』4巻(矢也晶久)/『プリティフェイス』5巻(叶恭弘)
2002年08月09日(金) 文学を教養で語るな/劇場版『機動戦士ガンダム』四部作/『まんがサイエンス�次.蹈椒奪箸陵茲親察戞覆△気蠅茲靴箸�)ほか
2001年08月09日(木) 代打日記
2000年08月09日(水) 姓は愚奈印、名は南公/映画『ジュブナイル』ほか


2005年08月08日(月) 「思想」がらみで映画を見るな/映画『亡国のイージス』

(昨日の日記の続き)
 映画『亡国のイージス』。
 『妖怪大戦争』は満席だったが、こちらは公開後一週間が経ったせいか、かなりお客さんは少なくなっている。入っているのがせいぜい四、五十人くらいで、広い劇場内がやや閑散としている印象。休日の夕方だって言うのに、これでホントに50奥が狙えるのかなあとふと心配になる。
 客層は『妖怪』が親子連ればかりだったのに対して、こちらはカップルや若い女性同士でってのが目立つ。渋いキャスティングだから、大人が多いかと思っていたのだが、おじさんファンの女の子が集まってきているのかな。

 公開前から、あちらのお国で、日本の軍国主義を肯定する映画だとか、出演したあちらの女優さんが本国でバッシングを受けたりとか、映画外での騒動が喧しかった作品である。「なんであの国とかあの国とかあの国とかはいちゃもんばかり付けてくるのだ」ともうウンザリも通り越しているのであるが、この手の映画ではどうしても政治がらみになることを避けられない。
 けれども、『亡国のイージス』は基本的にエンタテインメントである。この程度の物語に目くじらを立てるというのは狭量と言うほかはないし、第一アチラでは反日思想まるだしの(しかも事実の捏造に基づいた)映画を腐るほど作っているのだ。文句を付けられる筋合いのものでもなかろうと思うのだが、自分たちがいかにリクツの通じない難癖を付けているのかって自覚はこれっぽっちもないのであろう。
 あちらさんに反論したところで、マトモに会話ができるわけもない。既知外に既知外めと言ったところで既知外だから理解できないリクツである。あるいは「謀略」を題材にされたことが「図星」だったためにいきり立っているものか。どっちにしろ外野は無視して、この映画は世界にでもどこにでも持っていけばいい。この映画の意味は、世界の観客が判断してくれるだろう。

 海上自衛隊のイージス護衛艦「いそかぜ」の副艦長・宮津弘隆(寺尾聰)が、某国のスパイ・ホ・ヨンファ(中井貴一)と共謀して艦を乗っ取った。
 「現在、本艦の全ミサイルの照準は東京首都圏内に設定されている。その弾頭は通常に非ず」
彼 らは最新特殊兵器「GUSOH(グソー)」で首都東京を狙い、日本政府に防衛庁情報局(DAIS)の存在を公表することのほか、様々な要求を突きつけてくる。
 DAISの渥美大輔(佐藤浩市)は、ヨンファの陰謀を早くから察知し、「いそかぜ」に工作員として如月行(勝地涼)を潜入させていた。しかし先任伍長・仙石恒史(真田広之)の勘違いから、如月の防止工作は失敗に終わってしまう。
 政府は東京壊滅を回避するために「いそかぜ」の爆撃を決定した。タイムリミットまでおよそ10時間。いったんは退艦させられた仙石だったが、事態を解決するべく、一人「いそかぜ」の奪取に舞い戻る。果たして間に合うか。

 原作はかなり以前に読んだので中身を殆ど忘れているのだが、こうして映画にまとめてみると、なんだか『東京湾炎上』か『機動警察パトレイバー2』かって印象を受けるね。もっとも福井晴敏の小説はどれもドラマの骨格は同じなんだが。
 それでも長大な原作を説明過剰に陥ることなく、うまくまとめている印象で、決してつまらないということはない。ヘタな監督だと、背景となる事実の説明をするのにナレーションに頼ったり説明的なセリフばかり連発したりして、ドラマを停滞させてしまうのだが、個々の会話がよく練られていて、もたつきを殆ど感じない。
 「原作派」はやたらと「説明不足」だの「省略のし過ぎ」だのと騒ぐが、「小説と映画はそもそもメディアが違う」という常識がいつまで経っても定着しないのはどういうわけなのだろうか。みんな学校に通ったことがないのだろうか。それとも日本の学校では「小説と映像の読解の仕方の違い」を教えたりしていないのだろうか(してない学校も多いんだろうな)。
 小説が、読者に提供しなければならない情報を「説明」しなければならないのは「文章」の特性として当然なことなのだが、映画は基本的に「映像」なのだから、情報は映像中にモノとして映し込むことしかできない。「説明」することなどはそもそも不可能なのである。従って、映像に描かれたものを情報として還元、あるいは補完するのは、観客の洞察力、想像力に任されている。
 言い換えれば、映画を見てすぐに「分かんない」と文句を付けるやつは、単に自分の無知、無教養、理解力の欠如を告白しているに過ぎないことになる。原作小説を読んでいて「説明不足」とほざくやつはメディアの違いを理解していない知ったかぶりの阿呆なのだ。「分からなくても、説明不足な部分はあっても面白い」ことがなぜ認められないのか、先入観や偏見で映画を見ているからどうしてもそうなってしまう。
 『妖怪大戦争』もそうだったが、ネットでの感想を見ると、この「先入観による読み間違い」があきれるほどに続出している。例えば問題になっている「思想」というやつだが、確かに事件の発端となる宮津副長の息子の論文は随所に引用され、日本が「亡国」と化している状況を痛烈に批判してはいる。ヨンファもまた、「まだ日本人は気が付かないのか」と、その平和ボケぶりを嘲笑する。
 しかし一方では「怠惰な平和」のどこが悪いかとの反論も内調の瀬戸(岸部一徳)によってなされているし、たとえ日本政府の対外政策がふがいなかろうが、それがテロリストの暴挙を正当化していいわけではないことは、まさに仙石の「いそかぜ}奪還行動によって示されている。これを単純に再軍備を奨励しているとか、過去の歴史を反省していないとか、決め付けるやつに言ってやりたいのだが、ではテロに対して唯々諾々と従って、無策でいることがいいとでも言いたいのか、ということだ。仙石は別に「思想」で行動しているではない。ちゃんと映画の中でこう言っているではないか。「これは『任務』だ」と。
 映画が「物語」である以上、そこに登場する人物には大なり小なり必ず何らかの「思想」(行動原理、動機と言ってもいい)が存在する。「桃太郎」が何となく鬼退治をやらかしたり、「シンデレラ」が意味もなく舞踏会に現れたら、ドラマは破綻してしまう。登場人物それぞれの思想が交錯し葛藤が生まれ、複雑な事情が絡み合うことでドラマは成立する。思想はあくまでそのための素材に過ぎないのだ。
 仙石や如月の行動は、あくまで「任務」である。即ち、時代が違い、国が違い、立場が違えば、その「思想」も「任務」も変わるということだ。「思想」が全てに優先される絶対的なものだという見方が一般に支配的になれば、結局は「思想統制」が行われるだけだ。自らの職能に基づいた「任務」に徹することが、思想による洗脳やファシズムを打破する唯一の方法なのである。

 『ローレライ』でも『戦国自衛隊1549』でも、登場人物の何人かに語らせていたように、原作者の福井晴敏自身が安穏とした日本の現状に危惧を描いていることは事実であると思われる。まあ別に福井晴敏に説教されなくても、どうしてここまで日本人は自国民としての誇りを無くし、戦争を対岸の火事としてしか見られなくなってしまったのか、ということを憂えている人は多いだろう。
 しかし、福井作品に登場しているその「思想」の持ち主は、『ローレライ』では浅倉大佐(堤真一)であり、『戦国』では的場毅(鹿賀丈史)であり、本作では宮津隆史及びその父の弘隆(寺尾聰)である。つまりどの作品でも彼らはみな「クーデターの実行犯」として設定されており、最後にそのクーデターが「必ず失敗する」点に注意しなければならないのだ。
 福井作品は全部『機動警察パトレイバー2』だなあと言ったのはまさにこの点にある。彼らはみな柘植行人(根津甚八)の子供たちであるが、一点だけ違っているのは、柘植がクーデターに失敗してもなお「この国の未来を見たい」と呟き、「果たして本当にこの国に未来などがありえるのか」という痛切な問題提起を観客である我々に突きつけたのに対し、福井作品の首謀者たちはいともあっさりと後腐れもなく物語から退場してしまう。
 即ち、誰もが福井作品を見てそこに共通しているとすぐに分かる思想は、たとえこの国がどんなに歪んでいようと、その歪みを正すのに更なる歪みを以て行うことは許されないということ、即ちアンチ・テロリズム、それだけなのである。そしてそれは、どの国がどうとか、一国だけを標的にして批判していることでもないし、自国の歴史を隠蔽・美化するためになされていることでもない。単純に数多くの映画のモチーフとして機能している「暴力の否定」、それがここにあるだけである。
 つまり『亡国のイージス』を「思想的に」批判することは、反作用的に「暴力の肯定」ということになってしまうのだが、あちらさんはそのことを理解して批判しているのだろうか? 十中八九、映画も見てなけりゃ原作小説も読んでないと思うがね。
 理不尽なテロルを防止するためには何が必要なのか、日本はどのような道を辿るべきか、それは憲法改正か自衛隊の自衛軍化かと、観客の身としてはそこまで考えたくはなるのだが、そこまでのメッセージをこの映画は描いてはいない。それを描いていたのは『パトレイバー2』の押井守である(なのにあちらにはサヨクからのバッシングは全くなかったね)。
 今後の日本の行く末は、「映画の外」で観客が勝手に考えればいいことだろう。だから、右の方であろうと左の方であろうと、本作を「自分たちの都合のいいように」思想的に読み解くことは、一般の観客にとってはメイワクなことでしかないのである。だから映画として、アクションやそれぞれの陣営の攻防、役者の演技や演出、そういったものに注目して批評しましょうよ。あと原作と比べてどうってのも、映像表現としての意味を探るよすがの一つとして見るならともかくも、単純比較だけでどっちが上とか下とか、不毛で無意味で馬鹿げたことはしないようにね。

 で、ようやく前置きが終わったのであるが(笑)。いやもうあとは短く書く。
 もう最近は寺尾聰の演技に釘付けになっているので、その「軍人らしさ」に舌を巻いてしまったが、あの「静かな怒り」の表現は寺尾さん以外にはまずできない至芸だろう。これまでの福井作品に主演してきた役所広司や江口洋介、鹿賀丈史と言った連中は寺尾さんの爪の垢を煎じて飲むがよろしい。
 いや、寺尾さんのみならず、これまでの戦争映画や怪獣映画に出演して安っぽい演技で我々のアタマを悩ませてくれていた吉田栄作とか谷原章介とか豊原功輔とか池内万作とか、この人たちが格段に「上手く」なっているのである。これは阪本順治監督のリアルな演出もさることながら、自衛隊の全面協力があったことも大きいだろう。谷原・豊原の二人は「VSゴジラ」シリーズでそれぞれ主役を張った経験があるが、二人ともパンフのプロフィールにそれを載せていない。まあ、こういう渋い演技ができるようになれば、とても恥ずかしくて載せられるものじゃないだろうが。
 怪獣映画で閣議シーンが出てくると、これがもういい役者さんを集めていてもどこか絵空事めいて見えてしまうものであるが、これが実に「ちょうどいい」緊迫感を醸し出しているのである。総じて現実の政治家も緊急事態にはオタオタしてまるでマンガのような醜態を晒してしまうものであるが、現況をなかなか認識できない総理大臣を原田芳雄は好演している。「なんでオレのときに」と呟き、自分の選挙区に帰ることの方を気にしている様子はカリカチュアされているが、現実の総理がこれ以上にマンガチックな存在でであることを我々はよく知っている。平泉成、佐々木勝彦、天田俊明、鹿内孝ら、内閣の面々も、適度な無能さである。
 中井貴一は口跡がハッキリしているわりに、どこかリアリティを感じさせない発声で、ちょっと「使いにくい」役者だろうなあと思っていたのだが、これが某国人にはよく似合う(笑)。ヨンファとジョンヒ(チェ・ミンソ)とが実は兄妹であるという設定は映画の中では具体的に語られず、二人の過去に何があったのかもよく分からない。だから「説明不足だ」と文句付けてる人が多いのだが、家族の写真をヨンファが燃やすシーンで、「何かあったのだろう」と察するだけで「映画としては」充分である。そこに文句を付けるのは映画の見方を知らない人間のすることだ。あとは二人の「妖しい雰囲気」(照)を感じておけばいいではないの。
 で、いいとこだらけかと言うと、主役の二人が演技的には一番弱い(苦笑)。
 如月行の勝地涼君(『1980』で、ともさかりえとエッチしてた子だな)は頑張ってはいるが、アクションに今ひとつ腰が座ってなくて、プロフェッショナルな工作員という感じがしない。真田広之はもう、最近はどの映画に出ても真田広之で。あのいつも鼻で笑ってる演技、役柄を考えて少しは控えるようにしてほしいものだ。
 主役二人がイマイチでも、ほかの要素がかなりよいので、トータルではやはり福井三部作では一番の仕上がりになっている。特撮にあまり頼ってないのもポイントが高い。自衛隊のホンモノの迫力には人間の演技はなかなか太刀打ちできないやな。
 でも世間にはフ抜けた前二作の方が「ファンタジックでよい」なんて批評もあるから、人の感じ方は全く様々である。まあ戦争なんて現実、ファンタジーとして認識しなきゃやってられないってのはあるんだろうけれどもね。

 こないだ買い損なってた『鋼の錬金術師』のパンフレット、デラックス版の方もようやく入手。しかしデラックスと言ってるくせに、たった46ページで1200円ってのはかなりボッてるよなあ。『イージス』がやはり大部でシナリオまで完全収録しているけれども、それでも1000円、『妖怪大戦争』は大判サイズで700円だ。こんなところでセコく稼ごうっての、松竹が未だに傾いたままだっていう証拠なのかな。



(これより本日の日記) 

 深刻なんだかふざけてるんだか、妻が自殺未遂を働いた。
 とだけ書いちゃうと深刻にしか聞こえないので、実態を説明しなきゃならないのだが、しげがやろうとしたのは首吊りでも飛び込みでもなくて、「アイスクリーム死」である。
 昨日の夜中、トイレに起きてみると、しげが台所でうずくまっている。
 「何してんだよ?」と問いかけてみると、「アイス食ってる」と言う。
 様子がおかしくはあったが、私はまだ寝ぼけていたので、「ふーん」と言って便所を済ますと、また寝床に戻った。
 それからしばらくして、またトイレに起きたのだが(頻尿なので、3時間もすれば目覚めてしまうのである)、しげはまだ冷蔵庫の前にうずくまっている。
 「……何やってんだよ?」
 「アイス食ってる」
 「さっきもじゃん。いつまで食ってるんだよ」
 しげはうつむいたまま返事をしない。こちらもまだ眠いので、「いい加減で早く寝ろよ」とだけ声をかけてまた布団にもぐりこんだ。
 その時点で、こいつは「アイスを食いまくって腹を壊して死のうとしてるんだな」と気づいたが、放っておいた。冷蔵庫には二十個くらいアイスを買い込んでおいたが、これを全部食って腹を壊したところで、そうそう死ねるものではないと思ったからである。
 朝になったら、しげはおなかを押さえながら、「しょうゆアイスはまずいよ」と言った。どうやら戦時中に醤油瓶飲み干して徴兵忌避しようとしたエピソードを思い出してやってみたらしい。「そりゃまずいだろう」と言って笑った。
 「アイス食って死のうと思ったのか?」と聞いたら「あんたに助けられたね」と答える。「特に助けなくてもいいと思ったから放っといただけだよ」と返事をして、「アイスはまだ残ってるの?」と尋ねてみたが、もう三、四個しか残っていないと言う。一人でやはり十数個は食っちゃったようだ。これ以上食われても困るので、残りは私が食うことにした。それでこの件は終わりになった。
 しげが本気で死ぬつもりだったのかということについてだが、しげのアタマの状態を考えれば充分本気だったろうと思われる。きっかけや原因はよく分からない。唐突にそんな気分になったものか、例の自殺サイト殺人事件に影響でも受けたのか、最近、私の体調がよくないので不安になったものか。
 どっちにしろ、しばらく傍にはいないといけないかなあと思って、ちょうど仕事がひと段落ついたところでもあったので、今日から夏休みを取ることにする。アイス食ってこちらも腹が壊れてしまったし(笑)。

2004年08月08日(日) 悪魔と狂人の間に…
2003年08月08日(金) 新車の名前はまだない。/DVD『諫山節考』/『低俗霊DAYDREAM』5巻(奥瀬サキ・目黒三吉)ほか
2002年08月08日(木) モラリストは読まないように(^_^;)/『軽井沢シンドロームSPROUT』1巻(たがみよしひさ)ほか
2001年08月08日(水) 代打日記
2000年08月08日(火) ボケ老人の夕べ/『カランコロン漂流記』(水木しげる)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)