無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
| 2002年08月09日(金) |
文学を教養で語るな/劇場版『機動戦士ガンダム』四部作/『まんがサイエンス�次.蹈椒奪箸陵茲親察戞覆△気蠅茲靴箸�)ほか |
田中真紀子さんがあれだのこれだの、いろんなことの責任を取るとかで辞職しました。でも、こういう人はタレントの道が残されてるから辞めるのも気楽でいいやな。ホントに転向したらまた叩かれるだろうけれど。 「辞めることが責任を取ることになるのか、まだ秘書給与の疑惑は解明されてないぞ」という批判はやっぱり出てるが、もし真紀子さんが「疑惑をはっきり解明するまでは辞めない」とでも言おうものなら、今度は「潔くない」と批判が出るに決まっているのだ。マスコミの勝手さ、と言うか、批判だけしてりゃそれで仕事が成り立つお気楽さ、無責任さ、まるでこの日記のようだ(^o^)。 しかし、あれだけ世間の認知度の高い人だから、相当政治経験があるのかと思ったら、議員生活自体はたったの6年だったんだねえ。オヤジさんにくっついてた時期が長いから、いかにもキャリアがあるように錯覚するけれども、だいたいにおいてどんな職業でも、おえらいさんの後ろにくっついてるだけじゃ修行にも何にもならんのである。田中真紀子が今シドロモドロだからと言って、「幻滅した」などと勝手に落胆してるやつ、期待しすぎだったんじゃないのかね。
長崎の原爆慰霊式典で、長崎市長が名指しでアメリカのテロ報復について批判。どうですかね、一年前、「テロは絶対に許せない、アメリカの報復を指示する」とか言ってたニワカ「平和主義者」のみなさん、長崎市長のコメント、批判しますかね? 全く、一年前の状況と比べると世間の反応もガラリとかわったもんだよね。 ブッシュ大統領の報復戦略は明らかにやりすぎってことにみんな気がついてきたんだろうけど、遅いよ(-_-;)。政治オンチはそれはそれで構わないんだけども、自分の意見が所詮はシロウト考えに過ぎないってことは自覚してなきゃなあ。 もっとも、テロ事件の直後だったら、長崎市長だって「テロは許せない」とか、コメントしてた可能性は大だけど。やっぱり「結果」が出ないことには人間は事実を納得できないものなんである。けれど、その「結果」が出る以前に意見を述べると、それは「憶測」だって退けられちゃうのだよな。憶測もなにも、アメリカがこれまで何をしてきたか、記憶してないのか。 「世界の警察」なんて妄想に囚われてる国に、必要以上にすり寄ってくのは結果的にワリ食うことになりかねんってこと、ちっとは考えようよ。
体調を崩して、仕事休んで寝る。 熱があるみたいだけど、何度なのかわからん。しげが看病してくれないのもいつもの通りだし。っつーか、こいつも昼過ぎまで寝てやがる。 全く、気力はともかくカラダがついていかなくなってきたよ。 おかげでこうして日記の更新はどんどん遅れていくのである(-_-;)。
昼まで寝てたら、さすがに腹が減ってきたので、ロイヤルホストで食事。 しげも、ずんだ氷を頼む。なんだか今年は私にもしげにもかき氷が流行しそう。してどうするかって気はするが。
夜、テレビを見てると、テレビQで怪談特集の番組をやっていた(タイトルは忘れた)。 漱石、鴎外、芥川といった作家たちがどうして怪談に関心を寄せていたのかって企画のものだったけれど、唐沢俊一さんが出演されてコメントしていたので、身を乗り出して見る。 かつては人間の心の闇の部分を怪談を通して描いていたものが、私小説の流れに日本文学が傾いていったために失われていった、というのが大意。やや言葉足らずに思ったが、多分元のコメントはもっと長かったんだろう。
日本文学がどうして読まれなくなっていったかってことは、原因はいろいろ複合的なものがあるので一言で言いきれるものではないけれど、根本にはやっぱり明治期の黒船コンプレックスと武士階級の選民意識があるよな、と思う。 つまりは福沢諭吉を始祖とする「啓蒙」意識よ。文学を「アホなやつのアタマをよくする」ための「教養」と規定してることがそもそもの間違い。文学読んだって頭がよくなるものか。バカになるばかりであるってのは私のこの日記なんかを読んでいただければ納得してもらえないかね。 で、「バカでいいじゃん、文学読んでる間は世間の道徳とか倫理とか現実のめんどくさいこと忘れてられるし」ってのが文学を読む一番の動機だったんだよね、江戸期までは。 もちろんそのころも教養派の作家たちはいて、文学は女子供の読むべきものではない、と、ひたすら道徳だの倫理だのを語った作家たちもいたのだが、たとえばその代表のような曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』などは、明治になって教養派の坪内逍遥に「荒唐無稽でくだらん」と貶されるのである。で、逍遥の『一読三歎当世書生気質』は、「表面的な人間観察しかしてない」とまたぞろ教養派に貶されてるのだ(^_^;)。 だから教養主義で文学を語ったって、「あんたまだ人間見えてないね」と批判されりゃそれで終わりなんである。そして、「人間が描けていない」という批判ほど言葉として無意味なものはないってことも、これでわかっちゃうんだよね。そもそも教養主義自体が人間を描く手段としては全く機能できないんだってこと、教養派のアタマのいい人たちはバカなので分かってないのだ。 「説明」で小説は書けんよ。 だから、今、馬琴だの逍遥だのを読むと、トンデモ本としてしか読めないんである。あのね、馬琴ってさ、本気で狐狸妖怪の類が実在するって信じてたやつなんだからね。日記に「双頭蛇が発見された!」とか書いてるやつだし。イマドキなら「ツチノコが発見された!」って喜んでるようなもんだね。そういうのを「啓蒙」のつもりで読本を何百冊と描き続けてった人なんである。教養がどれだけ役に立たないものか、いや、役に立たなければ立たないものこそ面白いという図式の法がよっぽど文学の本質を表してますよ。
WOWOWで懐かしの劇場版『ガンダム』特集、『機動戦士ガンダム』『ガンダム�供^ダ鏤諒圈戞悒�ンダム�掘,瓩阿蠅△け�宙編』『逆襲のシャア』と続けて見る。 新作カットがあるとは言え、テレビシリーズの編集版を映画として認めるべきかどうか、というのはいろいろ論議はされてるけれども、結局は出来がよけりゃいいんだよね。 久しぶりに見返してみて、我々「一年戦争世代」(^o^)がファーストしか認めないってのは、単にオリジナルに対する拘りだけじゃないなということに気づいた。最初のころは、モビルスーツに乗ってるパイロット同士が会話するシチュエーションはほとんどなかった。ガンダムとグフの外壁が破壊されて、初めてアムロとランバ・ラルがお互いを認識する。まあ、そんな偶然があるかいってシーンだけれど、そういうムチャな展開にでもしない限り、パイロット同士は会話ができなかったのである。 お互いを知らずに、でも戦う。でもそれが戦争ってもんだ。そういうところにリアルさを感じてたんだけどなあ。その「リアル」が一番明確な形で描かれたのが『0080 ポケットの中の戦争』だったんだけれど、クリスとバーニィが戦う必要がなかったってことも、クリスがバーニィを殺したってことも、知ってるのがアルだけってのがもう泣けて泣けて。『1st.ガンダム』へのオマージュとして最もそのエッセンスを表現出来てたのがこの『0080』だったと思うなあ。 それがもう、後期になればなるほど、ニュータイプがどうのってやつのせいで、ただの観念論の会話劇になっちゃうし。『逆シャア』のセリフの「重み」のなさと言ったらもうどうしようもない。なんで頭でっかちの小学生の感情のぶつけ合いを延々と聞かされなきゃならんかね。 「オトナなんて嫌いだァ!」 はいそうですか。クェスは、もっと惨めに殺してほしかったなあ。 ラストの尻切れトンボ感もすごいよねえ。ヒッチコックか。
マンガ、あさりよしとお『まんがサイエンス�次.蹈椒奪箸陵茲親察戞奮惱�研究社/ノーラコミックス・820円)。 ロボットは3巻で既に扱ったテーマだけれど、今回再度、というのは、それだけロボットの発達が日進月歩だからだろう。 いやね、私も別に鉄腕アトムのように心を持ったロボットってのはファンタジーだなとは思うけれど、SONYのSDR−4Xみたいに踊ったり歌ったりしてるロボットを見ちゃうと、将来的にはもしや、と期待したくなるよ。 ロボットを機能重視で、「ヒト型である必要はない」と断ずる人はいるけれど、ロボットに感情があるように錯覚したいのは人間の欲求だからね。だいたいテレパシーがない以上、人間同士だって、「相手に心があるもの」という錯覚の中で付き合っているのだ。 形も表現も、人間に近いほうが嬉しいに決まっている。『�訥婆症寛濺后戮離疋献蹈椒奪箸鮓�なさい(^^)。もしもキミの彼女が実はロボットで、おなかに真空管の入れ替え口があったりしてナニのとき「見ないで……」とか言われたら萌えませんか? あ、それって『最終兵器彼女』か。
マンガ、宇河弘樹『朝霧の巫女 平成稲生物怪録』1巻(少年画報社/ヤングキングコミックス・530円)。 サブタイトルに惹かれてつい購入。 1巻を読んだだけじゃ、もう腐るほど読んできた従来の妖怪退治ものとどこがどう違うんだってことだけれど、『鬼太郎』や『エンマくん』と違うのはこれが「専守防衛」の妖怪ものってところになるかね。『稲生物怪録』の作者の稲生平太郎も、ただウチにいたってだけだし。 言い替えれば攻めてくる妖怪の方に動機が必要となってくるんだけれど、あまり因縁めいた展開になるのもありきたりだし、それこそ原典通り、「脅かしに来た」くらいで充分だと思うけど、どうもそうはならないみたいね。まあ3人姉妹の巫女さん姿が可愛いから飽きるまでは続きを買ってみよっと。
2001年08月09日(木) 代打日記 2000年08月09日(水) 姓は愚奈印、名は南公/映画『ジュブナイル』ほか
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|