無責任賛歌
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| 2005年03月29日(火) |
再び地が震える日/『BSアニメ夜話/クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』 |
福岡県西方沖地震発生後そろそろ10日が経とうとしているが、九電記念体育館では今なお玄海島の人々が避難生活を送っている。一時的な避難にしてはこの10日ってのはちょっと長すぎるのではないか、疲労で病気になる人も増えるのではないか、と思っていたら、案の上、住民の間で風邪やインフルエンザが流行り始めたらしい。28日夕までに、風邪や体調不良を含めて12人が市内各地の病院に入院したとのこと。市や診療所が「見舞いに訪れた人が感染を広げる恐れもある」として、見舞いを控えるよう呼び掛けているということだが、みんなで集まっていても孤独だと言える島民の人たちに、見舞い客すらシャットアウトする事態を招いたというのは、これも行政の不手際ではないのか。 だいたい地震に限らず、福岡の防災対策が不備だらけなのはもう何度も指摘されていたはずだ。それなのに、県も市も何の対策も取ってきてはいなかったのである。ここ5年の間に二度も市内が水害に見舞われ、死者も出したというのに、市の防災担当者は「今後の対策は?」の質問に対して堂々と「何もできません」と言ってのけた。この無能ぶりはいったいなんだ。何が百万都市だアジアの玄関口だ。ただの田舎者の集まりではないか。確かに、福岡がもう開発の限界に来ており、河川の整備や避難のための土地施設の確保もできない、という事情は分かる。しかし、そこを何とかしなければならないのが「行政」というものだろう。つか、それができないのなら公務員はただの給料泥棒の集団でしかないではないか。被災状況によっては救急病院や民間施設も利用できるようにしておくとか、「被災者を体育館に閉じ込め」なんて状況は、本来なら回避できたはずなのである。 もうはっきり言っちゃうけど、人口に対する福岡の病院の数ってのがそもそも少なすぎるんである。総合病院の類は通常時でも待ち時間が二時間は当たり前なんだから。けが人が運ばれた病院は千鳥橋病院と原三信病院の二箇所に集中していたが、つまりはこの二つ以外にたいした病院がないということなのである。少子化だなんだといいながら、福岡への人口流入は未だに増え続けている。こないだの町内会でも「小学校を増設しないと子供を区域外にやらなければならない」なんて議案があったくらいだ。本来、博多・天神区域にあと二、三軒は総合病院があってしかるべきではないのか。でなきゃ人口の郊外への分散化を図るくらいの措置を取らないと、もう福岡・博多はパンク状態であろう。
ここんとこ地震のことばかり日記に書いてきたけど、スマトラ沖でまた地震に津波。日本人の犠牲者もかなり出たらしい。危ないとわかっていて、また観光に出かけた人もいたということである。「まさかまた地震が来ることはないだろう」と誰もが思う。それが「油断」だ。しかしその油断を責めることなどできはしない。それがやりきれない。
夕べカメの水槽を掃除するときに、玄武をつかまえたときに小指を噛まれてしまった。いつもは背後から捕まえるのでそんな目に遭うことはなかったのだが、目がかすんでいたのでつい持ち間違えたのである。そういうときでも竜宮はおとなしく首を引っ込めているのだが、玄武のほうを持ってしまったのも運が悪かった。あわてて引っ張れば肉を食いちぎられるのは分かっているので、水の中にしばらく漬けていたら、一分ほどで口を離した。それでも傷口はずきずき傷むので、絆創膏を貼っていたのだが、亀の毒でも回ったのだろうか、今朝になって、熱発して寝込んでしまった。 いや、ホントはしげの風邪が移っただけだろうが、タイミングが合ってしまったので、亀にやられたような気分になったのである。でもまあ亀を飼ってるみなさんには充分注意していただきたいが、どんなに可愛くても、亀に人の心は通じないので、感情移入しすぎるのは禁物なのである。だいたい私としげの個体認識だってできちゃいないだろうからな。 転勤のため仕事が全くなくなってるので、欠勤しても迷惑かけずにすむのが不幸中の幸いである。一日泥のように眠っていたので、あの眠り女のしげから「よく寝たね」と言われてしまった。ホントに昼間、10時間以上寝ていたのである。
それでも夕方には目が覚めて、テレビを漫然と見る。CSで『ちびまる子ちゃん 私の好きな歌』など。 なにかのバラエティ番組で、細木数子が和田アキ子や出川哲郎になんか説教してるのを見てたら、しげから「何で細木数子とか見てるん?」と驚かれた。別にテレビを点けたらかかってただけのことで、意味があるわけではない。なんか、私が世をはかなんで占いに走ったかのように思われたらしい。んなわけあるかい。
夜11時から、、昨日に引き続き、NHKBS−2『BSアニメ夜話』。今夜は待ってましたの「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲」。ある意味、『クレヨンしんちゃん』、特に劇場版を好きか嫌いかで、アニメファン、オタクの「派閥分け」ができる指標でもある。嫌いな人、興味がない人は私の日記なんか見ないでよろしい。そういう人たちにとっては私の文章は不快なだけであろう。 『クレヨンしんちゃん』に限らず、テレビアニメシリーズの劇場版が製作されたときに、元のシリーズと比べてまるで趣の違った作品に仕上がることはままあって、それがすごい傑作になってたときには、かなり物議を巻き起こすことになる。 例えば、本番中でも指摘されていた『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督)、あるいは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督)、近作では『ONE PIECE THE MOVIE 〜オマツリ男爵と秘密の島〜』(細田守監督)などが挙げられるだろうが、おそらくそういった「テレビシリーズとの乖離」において最も激しいのがこの『オトナ帝国』だったのではないかと思う。 もちろん私に限らず、『クレヨンしんちゃん』の劇場版シリーズに初めから注目していたアニメファンはたくさんいたわけで、「『クレヨンしんちゃん』はすごいよ!」とコトあるごとに力説していたのだが、まあまともに相手にされることはほとんどなかった。だから逆に、『オトナ帝国』で初めて『クレヨンしんちゃん』の魅力を知りました、なんて言ってる人間を、私はマトモなアニメファンとは認めないのである。 しかし、長年の「クレしん」ファンであった身であっても、『オトナ帝国』の異端ぶりには度肝を抜かれた。そのへんの事情を語りだすときりがないので、私の昔の日記とか読み返してください。 いったいこれが誉め言葉になるかどうかは分からないが、番組中でも国生さゆりが言っていたように、「『クレヨンしんちゃん』なのに泣ける」という異常事態が、映画を見たイイ年をした大人の間で蔓延していったのである。 番組中で、岡田斗司夫、唐沢俊一両氏は、露骨に「この映画について一番深く分かっているのは自分だ。自分だけがしゃべりたい、他人にはしゃべらせたくない」ような態度でいたが、もはや「古狸」の域に達しつつある両氏にまでそういう大人気ない自我肥大の態度を取らせてしまうほどに、この映画には「オタク第一世代」の魂を直撃する要素がてんこ盛りであったのである。 いやねえ、我ながら困ったもんだと思うのは、立川志らくさんの言に対して、岡田さんが「違うな、違うな」と突っ込んでるのに対しても、「それも違うな」と突っ込み入れたくなってしまうことである。岡田さん、唐沢さんが指摘する言葉を聞くたびに、「それは見方が甘い」とか「それだけじゃない」とか思ってしまうのだが、たかが一時間の番組で「オトナ帝国」の魅力を説明しきれるはずもなく、パネラーの皆さんもそれぞれに「語りつくせていない」感が当然あるはずなのに、そんなふうに思ってしまうのは、やはり自我肥大を起こしてしまっているのである。そういう文句のつけ方は自身の傲慢に無自覚なただの難癖でしかない。 「自分が最良の理解者」(文学の分野では特に太宰治ファンの女性にこの傾向が強いので、「ダザイ現象」と呼んでいる。SF界では一時期そういうのは「ゲンマ」って言ってたな)という思い込みを持つことは、自分がただのファンではなくて客観的な批評者たろうとするのであれば最も避けなければならない基本事項なのだが、『オトナ帝国』にハマッた人々は、これが『エヴァンゲリオン』のような社会現象を生むにまでは“至らなかった”だけに、かえって思い入れの度を強くしているように思う。 だもんで、「オトナ帝国」ファンは、志らく師匠が「この映画を本当に見てもらいたいと思ったら、国生さんのような普通の人が勧めるのが一番いい」と仰ってたのを肝に銘じていたほうがいいだろう。一人よがりなオタクの言なんて、世間一般にはなんの波及力もないのである。……でも言いたくなるのがビョーキなんだけどねえ。
2004年03月29日(月) また訃報。立て続けだとちょっとツライ。 2003年03月29日(土) メモ日記�� 2001年03月29日(木) 血の収穫/ドラマ『六番目の小夜子』ほか
| 2005年03月28日(月) |
気持ち悪い話(笑)/『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』(稲葉振一郎) |
しげの病状、さらに悪化。 ともかく「気持ち悪い」を繰り返すばかりで、食事も喉に通らない。ともかく医者に行くように言い置いて、今日は職場へはタクシーで。 しげは結局、病院で点滴を打ってもらったようである。これまでさして健康面では特に悪いところのなかったしげだが、検査の結果では肝機能が悪くなっていたそうだ。 しげも酒は全くやらないので、これはもう「肉」のせいだろう。これで「肉しか食わない」生活がどれだけ体によくないかいくらバカなしげでも理解したとは思うが、でもだからといって抑制が利くような性格ではない。つか、我慢がストレスに直結するもんで、食わないでいれば食わないで心と体のバランスを崩すのである。……どうしようもないじゃん。 食事も喉に通らないので、しげはウィダーインゼリーでの食事。私は自分でスパゲティを作ったら、「油の匂いが気持ち悪い」と言われた。そこまで油使ってないのに、かなりひどい状況なのである。
夜、NHK『BSアニメ夜話』「新世紀エヴァンゲリオン」。 冒頭で「10年経ったら冷静に討論できるのではないか」という視聴者からのメールが紹介されていたが、滝本竜彦を呼んだ時点でそりゃ無理だったんじゃないか(苦笑)。編集でかなり“見られる”レベルにしてはいたが、かなり会場の雰囲気は重かったのではないかと想像される。 『エヴァ』にどっぷりハマッてしまって、心ここにあらずになってしまった人というのは、私もホモオタさんという実例を身近に知っているので、滝本さんの言動を見ていると、なんだか暗い気分になる。一歩間違ったら自分もああなりかねないと思うと、ああいうのめりこみ型、思い込み型の人を笑い飛ばせないんだわ。岡田斗司夫さんも唐沢俊一さんも、実にしゃべりにくそうであった。 肝心の論争も、説明のための説明に堕している部分が多々あって、例えば「『エヴァ』は『文学』でありまた『エンタテインメント』であり」といった言葉の使い方についてはかなり乱暴で、文学研究者から見ればあまりに無知な言に聞こえてしまうと思われる。じゃあ『文学』って言葉をどう定義してるんだよ、と突っ込まれかねないのだが、これは視聴者のレベルを想定しての故意の用語なんだろうね。視聴者をバカにしているようだが、まあホントにバカなのでこれは仕方がないのである。結局ここでは、「文学」とは「なんか難しいことを作者が内省してるもの」、「エンタテインメント」とは「お客さんを喜ばせるもの」と、単純に作り手のベクトルが内外のどっちに向いてるかという点でのみ解釈すればよいようになっているのだが、本来「アニメで文学をやるというのはどういうことなのか」まで、もうちょっと突っ込んでしゃべってくれないと、あまり意味のある話にはならないのである。 宮村優子の「気持ち悪い」エピソードは前にも雑誌で読んだことはあるが、より詳しくて楽しかった。いや、よくぞ放送したものである。すごいぞNHK。
稲葉振一郎『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』。 「どうせ藤原のことだからこれは買って読んでるだろう」という声がどこかから聞こえてきそうだが、そりゃ買うよ。買わいでか。 いやね、最近読んだ本の感想、全然書いてないから(だから書き出したら止まらないのである)、これも書くのどうしようか迷ったんだけれど、やっぱりSFファンにはビッグ・ネームである長谷川裕一が、一般のマンガファンには今ひとつ知られていない、というのが悲しくて仕方がないからだ。 長谷川裕一が「スペース・オペラ」「タイム・トラベル」といったSFの古典的モチーフを大河ロマンとして描いて来た唯一無二のマンガ家である、という作者の主張には、「ほかにもいなかったかな?」と思いはするが、長谷川裕一のマンガ作品がどのように生み出されてきたか、そのルーツとなる文化背景としてのSF作品、それこそ海外日本を問わず、小説、映画、マンガの歴史をたどりつつ詳述していく姿勢は好ましい。文化を無視した単独の作品論、作家論というものはただの個人的感想にしかならないからである。 『スター・ウォーズ』が『スペース・オペラ』と言いつつも、実は宇宙を舞台にした御伽噺でしかなくなっていることはもはや明確な事実であるが、長谷川裕一の『マップス』は「寓話」となる寸前で「SF」として成立していると作者は主張する。そんなのどっちでもいいじゃないか、という反論はあろうが、その違いは、長谷川裕一マンガの魅力はSF性にこそあり、と信じている読者にとっては重要だろう。「神とは何か」というSFのテーマをただの「寓話」として終わらせるか、科学的可能性としての「未来」として受け取るかは、そのベクトルが全く違う。 種々雑多な宇宙人が登場する銀河世界など、現在ではほとんど荒唐無稽な域の物語であるし、私は別に「寓話」でかまわんと思う。人間であれビメイダー(人工生命)であれ、自意識(心)を持った存在が、そのアイデンティティーを「心があること」に求めるというのは、循環論法であり、証明不能な「コギト・エルゴ・スム」の哲学の課題でしかない。しかし、現代では「SF」は「寓話」としてしか語りえないのではないか。科学もまた本質的には哲学であり神学の範疇にあるのであろう、というのが私の現在のSF観である。 もちろん私は稲葉氏の論が間違っていると言いたいわけではなく、長谷川裕一作品が、「SFマンガ」を考察したい人のための格好のテキストである、という作者の基本的姿勢は多くの人に共感を持って受け止めてもらいたいと思うのである。
本の内容からちょっと離れて、これは私の推理、というよりは勝手な憶測なのだが、石森章太郎が『サイボーグ009』を完結できなかったのは、長谷川裕一の存在があったからではないか、と想像しているのである。長谷川さんの『マップス』が連載されたのは『SFアニメディア』(後に『コミックNORA』と改題)の創刊号からだが、これには『009』最後の長編「時空間漂流民編」も同時連載されていた。 最初、編集部は、『009』完結編「神々との戦い編」の連載を依頼したという。それに対して石森さんは「まだ準備が整っていない」と断ったという。ではなぜ、「漂流民編」が終了した後、完結編に着手しなかったのか。『NORA』は長いこと「時空漂流民編」の権利を他社に渡さなかったし、当然その「席」を用意していたはずなのだが、結局、完結編は描かれることはなかった。 これは、同誌に連載されていた『マップス』を石森さんが読んで、「しまった! 先を越された!」と思ったんじゃないかというのが、私の憶測なのである。 「神々とは何か? 地球上に残るさまざまな不可解な遺跡、ピラミッドやモアイ像などなどの探索から人類発祥の謎を追い求め、その果てに『創造者』としての“神”とサイボーグ戦士たちが対峙する」というのが「神々との戦い編」の基本ラインになるはずだったことは今ではよく知られている。 しかしそれは、「宇宙に残る伝承を辿って、この宇宙発祥の謎を追い求め、その果てに創造主たる“神”と対峙する」という『マップス』のストーリーラインとそっくりなのである。しかもスケールは長谷川さんのほうがはるかに大きい。結局は「専守防衛」で内へこもって終わりそうな『009』に対し、『マップス』は銀河障壁を越えようという、外へ外へと広がっていく物語だった。 「009」をライフワークと任じ、自身の最高傑作であるのみならず、日本SFマンガの最高峰にしたいと望んでいたと思しい石森さんにとって、『マップス』ショックは相当なものだったのではないかと思う。『マップス』を超える作品を描かなければならない。しかしそのプレッシャーがどれだけ大きいものか、これは『マップス』を読まれた方ならばすぐにご理解いただけると思うのだが、日本におけるスペース冒険ファンタジー作品としては、『マップス』を超える作品は空前絶後なのである。最高傑作を超える最高傑作なんて、いくら石森章太郎でも無理というものである。 石森さんは悩んで悩んで、結局、描けなかった。膨大なメモだけは残っているようだが、完結を約束された息子さんたちも、それを「傑作として」纏め上げることは不可能なのではないかと思う。残念なことではあるけれど。
関係ないけど巻末の「長谷川裕一作品リスト」、『ハイスピード・ジェシー』が載ってないなあ。ああ、あれは双子の弟さんの「長谷川裕二」さんの作品だったか(笑)。
2004年03月28日(日) 夢の中では生きられない。 2003年03月28日(金) メモ日記�� 2001年03月28日(水) 悪役NO.1/映画『隠密剣士』/『名探偵コナン 科学トリックBOOK』ほか
| 2005年03月27日(日) |
オウムが来りて……何をする?/ドラマ『巷説百物語 孤者異(こわい)』 |
今んとこ一回も見逃してないぞ、の『仮面ライダー響鬼』九之巻「蠢く邪心」。 今回の妖怪(魔化魍)は「オオアリ」。ムシ系は一話で土蜘蛛が出てきてたからインパクトが薄いなあ、こいつでまた二話連続の話だったら間延びしちゃうなあ、と思っていたら、ヒビキにあっという間に倒されてしまった。 あれれ? と思っていたら、メインの妖怪は,イブキが遭遇する別のやつなのであった。姑獲鳥(うぶめ)か大首か、これまでの「猛士」のデータでは判断がつかない(どうやら「おとろし」らしい。予告編を見る限りデザインはでかいサイだが)新妖怪。レギュラーが増えて、そろそろ新展開が必要じゃないかと思っていたところだったのだが、設定も構成も少しずつ複雑になってきている。 その反面、明日夢がなかなか猛士V魔化魍のメインストーリーに絡んでこないのが気になる。いや、常識的に考えればただの高校生をそんな危険な運命に巻き込んでいくことは極力避けるのが普通なのだが、それじゃドラマにならないから(笑)。でも昭和ライダーシリーズの少年ライダー隊みたいになっちゃっても困るし。ここは明日夢がとんなふうにヒビキの弟子になっていくか、その展開を見ていきたいところである。多少の葛藤はあっても、多分そうなると思うんだけどな。 知ってる人はもう多いと思うが、明日夢君を演じている栩原楽人(とちはららくと)くん、島本和彦原作の映画『逆境ナイン』にもライト山下役で出演している。映画は多分つまらないと思うが、藤岡弘、と楽人くん目当てで、オタク諸君は見に行くように。全国ロードショーは七月からだ! 福岡じゃ「シネリーブル」での公開だからいつになるかわかんないんだけどなっ(涙)。
町内会の総会があって、来年からうちが組長の当番が来るというので出席。収支決算だのなんだの、こういうのは退屈なだけなんで、居眠りしないかと心配していたのだが(実際、殆ど退屈なのだが)、会長さんが“あること”を口にして、いきなり眠気がすっ飛んだ。 「昨年から、オウムの道場が町内にできておりますが……」 もちろんこの「オウム」というのは「オウム真理教(アーレフに改称)」の支部のことである。10年前の事件当時は博多駅前にあったのが、その宇土枝クー気裏に引っ越したまでの情報は聞き知っていたが、まさか自分とこの町内に来てたとは。 会長さんの提案は、来年を期して町内からの退去を求める委員会を設立したらどうか、ということだったのだが、10年前ならばともかく、旧オウム真理教の罪を認め、ひたすら謝罪と賠償を行っている現在ではかなり難しいのではないか。 あえて他人事のように言っちゃうけれど、オウム真理教が麻原彰光の「ポア」の宗教概念に則って、再び無差別大量殺人を行う危険性があるかどうか、それは年々低下してきていると考えざるを得ないのではないか。もちろん、だからと言って、住民の不安が解消されるわけではない。未だに地下鉄サリン事件の実行犯の一部が逃走中である以上、在野の信者が彼らをかくまっていないと断定することはできない。しかしやはりそういった「不安」も、結局は漠然としたものだとして、今後犯罪を犯すという確たる証拠とは認められないのではないか、ということなのである。 私も正直な話、今はオウムよりも地震のほうが怖い。いや、未だにややヒステリックな感じで、オウムをいかにせん、とコブシ振り上げ力説する会長さんのほうが怖い。まあ仕事だから町内会の連絡とかはするけれども、あまりこういう人のいる総会とかには出たくないもんである。
帰宅して昼寝をしたら、変な夢を見た。しげが自分の日記にも書いていたが、「生きた雪ウサギ」を飼っている夢である。 ウサギは二羽いて、名前はジャニスとケン。生きてはいるのだが、この二羽、雪ウサギだから動かない。でも生きてる限りは自分の見てないところでは動いてるんではないかと思って、ちょっと離れたところにジャニスを置いていたら、いつのまにかいなくなってしまった。「ジャニスー、ジャニスー」と声を掛けて探していたら目が覚めたという、特に面白くもない夢だった。 けれどもどうやら、寝ぼけて夢の様子をうわごとで実況中継していたらしく、それがおかしかったのでしげは日記に書いたらしい。相変わらず意味不明な文章になっているので、注釈をしておきます。
WOWOWドラマ『巷説百物語 孤者異(こわい)』。 以前、『巷説』を『京極夏彦 怪』と題して四話ドラマ化したのもWOWOWだったけれども、そのときとはスタッフ、キャストを一新している。監督は酒井信行から堤幸彦へ、小股潜りの又市は田辺誠一から渡部篤郎へ、山猫廻しのおぎんは遠山景織子から小池栄子へ、考物の百介は佐野四郎から吹越満へ、事触れの治平は谷啓から大杉漣に交代。ストーリーも前作とのつながりはなく、百介は今回の事件で初めて又市たちと出会う設定になっている。 意外に気が付かれていないようだが、『巷説』シリーズは立派な「本格探偵小説」である。不可解な謎は提示されているし、それを解き明かすためのヒント、伏線はちゃんとあるし、それが論理的に解かれもする。 印象としては闇を扱いながらも華やかな印象のあった前シリーズに比べて、かなり暗く渋めのキャスティングになっていると思う。だからと言ってつまんなくなったかというとそうではなく、ミステリーとしてのツボはやや外しはいるものの、キャラクターの魅力がドラマのうねりは充分作っていると言えるだろう。 又市については、最初の田辺誠一はあまりにさわやか過ぎて、「小股潜り」の名にふさわしくない印象だった。アニメ版は又市本人が妖怪であるかのようなキャラクターデザインで、面白くはあるけれども完全に原作とは別物になってしまっている。映画『嗤う伊右衛門』の香川照之は薄汚れた小悪党の雰囲気でかなりイメージに近い。渡部篤郎もかなり「胡散臭く」てよいのだが、もう一つ「軽み」があればもっとよかったと思う。だいたい悪党というものは、どこかにふざけたところがないと辛気臭くなってしまうものだからだ。アウトローで世をすねちゃいるけれども、どこか底抜けな明るさがあって、それでいて全く逆の闇もまた背負っていて……なかなかに微妙な演技力を要するのである。一昔前なら、こういう役どころは砂塚秀夫やジェリー藤尾あたりが受け持っていたものだったが、最近ではなかなか適役な俳優さんを探すのが難しい。竹中直人ならソツなくこなしそうだけれど、何でもかんでも竹中さん、というのもどうか。今回の渡部さんはこれまでの演技の流れでそのまま流した印象があって、やや物足りない。できればもう二、三回は又市を演じさせて、役を深めてもらえたらと思う。 大杉漣の治平には文句なし。キャストを聞いたときに一番不安だったのが百介とおぎんだったのだが、意外や意外、この二人の「距離感」が実にいい具合なのである。 ラストシーン、二人の間の「敷居」を示すおぎんに対して、それを乗り越えることができずに黙りこくる百介。おぎんは何事もなかったように去るが、そんな彼女に又市は「忘れ物は?」と問いかける。おぎんは笑って「いけすかねえやつだよ」と笑う。このときの小池栄子の表情がいい。何か一つ吹っ切れたような、それでいて切ないものを少しばかり残しているような、幼いようで艶っぽいような、不思議な微笑である。遠山景織子のおぎんも素敵ではあったが、原作のイメージには小池栄子のほうが近いのではないか。 堤幸彦作品は『ケイゾク』がまあマシだった程度で、正直な話、これまでは惨憺たる出来のものが多かったのだが、それは主に脚本の粗雑さによるものだろう。今回もとても江戸時代人とは思えないような台詞は多々あったが(同心が「過去形で言うなっ!」なんて近代文法の知識があるのはいくらなんでもちょっとなあ)、一応、ドラマとしての密度は高い脚本を与えられて、初めて時代劇を演出したにもかかわらず、あまり破綻のない出来栄えに仕立てている。それなりに「粋な」脚本なら、その実力を充分に発揮できるのだろう。
しげ、体調崩したまま。風邪引いた上に薬が合わなくて「気持ち悪い」を繰り返す。どうにかしてあげようにもどうしようもないので、明日は病院に行くように言明するくらいしかできないのである。
2004年03月27日(土) 作りゃいいってもんじゃない映画だってある。 2003年03月27日(木) メモ日記�� 2001年03月27日(火) 今日も伏字、明日も伏字/『トランジスタにヴィーナス』2巻(竹本泉)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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