無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年03月29日(月) また訃報。立て続けだとちょっとツライ。

 六本木ヒルズの回転扉による児童死亡事故を受けて、アクロス福岡でも回転扉を畳んで停止したとか。畳めるものだったのか、あれ。
 誰か死者が出ない限り、何の対策も取らないというのは、一般常識から考えれば無責任極まりないわけだけれども、費用のことを考えれば、「事故が起きない限り何もしない」というのは企業でも官公庁でも変わらないもう一つの「一般常識」であるわけである。ためしにどこぞの会社に「おたくの会社のここのドアの建付けが悪くなってて危険だから新品と取り替えなさい」とクレームつけてごらんなさい。馬鹿正直にそんなことする会社はほぼ皆無でしょう。
 「常識」の怖さというのは、我々の本能を鈍らせるというか、分析と総合の力、もっと簡単に言えば、「考える力」を奪ってしまう点にある。全ての物事についていちいち考えなきゃならんというのも面倒臭くて仕方がないから、我々はそれを放棄し、代わりに「常識」を身に付けることで雑事にアタマを悩ますことから解放されているわけである。だから一概に「常識」の存在を否定するわけにもいかない。けれど、「そんなの常識でしょ!?」と主張する人間に、「どこが?」と問い質すと、たいてい絶句して答えられなくなるのは、それだけモノを考える習慣を人が嫌っていることの何よりの証拠でもある。
 そういう状況に人はみな慣れきっているから、一方の「常識」と、もう一方の「常識」がぶつかり合うということも世間にはよくあることである。そういう場合、片方、あるいは双方に「常識の再構築」が強いられることになるのだけれど、そこでモノワカレになって、結局「考えなしの常識」が放置されたまま、という事態に陥ることもしばしばだ。
 今回の回転扉の事故はまさにそれで、「回転扉は危険じゃない」という「常識」が極めて強固で、ちょっとやそっとの怪我人が出た程度じゃビクともしなかったということだ。これまでにも事故があるたびに、森ビル側には回転扉の問題点の指摘はされていたらしいが、結局撤去はなされなかった。「どうしてなのか?」という疑問は我々の常識であって、彼らの常識ではない。常識に理屈はないのだから、疑問を抱いてもムダである。彼らは「何も考えていなかった」のだから。
 マスコミが今回の事故をあれだけ大々的に報道しなけりゃ、「ヨソはヨソ」で、アクロスだって撤去しようとはしなかっただろう。詳しく報道されちゃいないが、アクロスでも絶対事故は起こってたと思う。悲しいのは、人は、「人死に」が出るくらいのことがないと自分の常識を疑えない、ということだろう。「常識」というか、「自分の作り上げた虚構の物語」にしがみつかないと生きていけない人間のサガの悲しさというやつである。
 ……ま、「人死に」が出たって自分の「常識」の方を優先するやからだって世の中にはいるので、今回の件は「まだマシだった」と言えるのかもしれないけれどね。


 最近、とみに外人さんからのメールが増えて、日に三十通、四十通来ることも珍しくなくなった。半年前は一ヶ月でその程度の量だったから、30倍くらいに増えた計算になる。最初のころはどんな外人さんが来るものやらと面白がってはいたけれども、こう増えるといちいちチェックするわけにもいかない。ウィルス含まれてるやつだってあるだろうと思ってウィルスチェックにかけると、ドンピシャで「感染してる可能性があります」と出る。もう面倒臭くなったので、開きもせずに片っ端から削除してたのだが、つい先日、「迷惑メールフォルダー」というサービスがあることに気がついた。細かい仕組みは分らないけれど、「ユーザーの承諾を得ずに一方的に送信される電子メールであって、その内容が出会い系サイトの広告やアダルトコンテンツサービスの利用料金の架空請求等のように、一般に受領者に不快感ないし、不安感を抱かせることが多いもの(迷惑メール)を、その時点で妥当と判断する基準に基づいて自動的にフィルタリングし、ユーザーへの配送を防止する」んだそうな。早速ためしにやってみると、見事に外人さんからのメールが全てフィルターの中に寄せられてしまった。うーん、やっぱり個人的にお近づきになりたいという外人さんはいなかったのだなあ。もしいたとしても日本語でメールくれるものだろうけどね。
 そういうわけで、もし本気で私に挨拶したい外人さんがいたら、今後はアルファベットじゃなくて、カタカナでメール下さいな。あと、「メールを送ったのに、受信拒否された」という人は、迷惑メールと解釈された可能性がありますから、自分のメールアドレスに問題がなかったかどうか、チェックしてみてください。


 今日は仕事を休んで病院のハシゴ。
 久しぶりにかかりつけの主治医と面談、検査の結果、「糖も蛋白も出てませんね」と言われて誉められる。糖尿になって以来、医者に誉められたのは初めてじゃないか。これで油断しちゃしょうがないんだよなと思いながらも、やはり安堵感で気分は晴れやかになる。
 「やっぱり一番の原因はストレスでしょう。どうも相当ストレスが溜まるご職業のようですから、それを緩和するようにされては」と言われたが、それができりゃ苦労はしない。第一、ストレスの原因は職場ばかりじゃないからなあ。
 こういうことをチラッとでも言うとしげはすぐに「私がいなけりゃいいんでしょ」と拗ねるが、そんなのは当たり前のことである。人は出会わなければ無関係な他人のままなんだから。出会った以上は「どのように関わるか」ということを考えるのが人間なんであって、それをしげがまるで考えてないところがヒトデナシと誹謗される理由なんである。飯食らうだけ食らって、片付けしようって気をまるで起こさない、それどころか一切家事を拒否してるってのはいったいどういう神経をしてるんだか。無いのか神経。
 だから私は「自分がいなけりゃいいなんて絶対に言うな、バカをやめる努力をしろ」と百万回言ってるのだが、しげは翌日にはそれを忘れて百万回バカを繰り返しているのである。これでストレス溜めるなというのは無理なんだって(-_-;)。

 その足で眼科に回る。最近とみに右眼がかすんできているので、視力が落ちて来てるか白内障にでもなりかけてるんじゃないかと心配してたんだけれど、医者の見立ては特に変化はないとのこと。でも以前もこの医者、写真撮影で網膜裂傷が起こりかけてたのを見逃してるから、あまり当てにはならないのである。別の病院に変わった方がいいかなと感じちゃいるんだが、近くで通いやすい眼科がないんだよねえ。


 博多駅に回って、5月に北九州で公演のある『バナナがすきな人』のチケットを買う。今のところ月に一本は舞台を見にいっているが、本当は2、3本は見たいところなのだ。十年前に比べると、福岡で公演される芝居の数も格段に増えているし。ただ映画に比べて5倍は高額だし、当たり外れがデカいのがなかなか本数を増やせない恨みになっているのである。『バナナ』も近藤芳正演出というただ一点でチケット買いしたのだが、果たして吉と出るか凶と出るか。
 しげは今日もダイソーでダン・エイクロイドのシールを貼るプレートを探しているが、手頃なのが見つからない様子。プレート求めて○○里の遍歴、いったいいつまで続くやら。
 帰りに立ち食いうどんでコロッケうどんを食べる。ふと気づいたけれど、二人で立ち食いしたのって初めてじゃないかな。


 また淋しい訃報が連続して二つ。
 漫画家で、もとPプロダクションのプロデューサーうしおそうじ氏が、28日に急性心不全のため死去、享年82。喪主は長男で作曲家の鷺巣詩郎氏。
 漫画家として見開きのモブシーンを細密に描いていたのは手塚治虫と鷺巣富雄(うしお氏の本名。漫画家としてこの名前を使っていたこともある)だけだと指摘していたのはみなもと太郎だったか、本人だったか。
 インタビュー記事や自伝の漫画などを読むと、ラッパ吹きと言うか、相当に自己宣伝色の強い人で、そのあたりが後年の不遇にも繋がっていったのだろうと思われる。未だに『マグマ大使』のギャラを岡田眞澄ほか出演者に払ってないというのはどうもデマではないようだが、悪意からではなく、ラッパ吹いてるうちについ次の仕事の資金に使っちゃったのだろう。仕事にルーズな人ではあったが、その大らかな人柄は結構好かれていたように思う。三船敏郎、円谷英二、手塚治虫らとの交友を限りない憧憬をもって嬉々として語る様子を見ていると、この人は基本的に「モノを作る人」ではなく、どこまでもファンの延長線上でプロデューサーになっただけなのだろうなあと感じられる。その意味でうしお氏に一番近い存在は、エド・ウッドだろう。氏のことを「日本のエド・ウッド」と呼んでも怒る人は、うしお氏のファンにはいないと思う。
 Pプロダクションの製作作品群は、お世辞にも一級とは言いきれない。後年に至るほどその出来はどんどんひどくなっていくが、それでもリアルタイムでその殆どを見ていた。見るものがなくて仕方なくではない。本気で好きで見続けていたのだ(見損なってるのは多分福岡では放映が遅れた『鉄人タイガーセブン』くらいのものだ)。でなきゃ当時のコミックスで『宇宙猿人ゴリ』や『快傑ライオン丸』『風雲ライオン丸』まで集めたりするか(復刻版まで買っちまったよ)。円谷の『ウルトラ』シリーズですら当時はあまり買っていなかったと言うのに。
 特撮やセットがチャチだの、脚本がいい加減だの、パクリが多いだの、テコ入れのたびに設定が変わるだの、欠点をあげつらい、チープと呼ぶのは簡単だが、それはうしお氏にとっては決して手抜きではなかったと思う。ほかに表現のしようもないので言い切ってしまうが、うしお氏ほど、当時「愛」をもって特撮ドラマを送り出していた人はいないのだ。
 『ゴリ』も『ライオン丸』も『電人ザボーガー』ですら、今見返すと、私は涙ぐみそうになる。困難に立ち向かう勇気を、逆境に負けない根性を、悪に打ち勝つ正義を、愛を、うしお氏は語った。若い人にとって、それらのものはただのきれいごとにしか見えないかもしれない。けれど、うしお氏の稀有なところは、それを語る時、決して自分に酔ってはいなかったということだ。
 うしお氏の主人公たちはよく涙を流す。蒲生譲二も獅子丸も大門豊も泣いた。けれど彼らは泣いて終わったわけではない。彼らは決して涙に流されることはなかった。感情を越えた強い意志がそこに流れていたからこそ、涙の先に道があることが訴えられていたからこそ、我々はうしお氏の作品群に魅せられていたのではないか。
 うしお氏のそういった思想の背景には、やはり一兵卒として敗戦を迎えた戦争体験が大きく影響しているように思う。こういう形で語り継がれる「戦争」もあるのだ。説教するばかりが能ではないことを知るためにも、今一度、うしお氏の作品が復活してもいいと思うのだが、往年の特撮・アニメのリメイクが流行る今日、『マグマ大使』以外のリメイクがないというのは淋しいことである。


 イギリスの俳優、ピーター・ユスティノフが28日、スイスで死去。こちらも享年82。
 役者としてのピークはアカデミー助演賞を受賞した『スパルタカス』(1960)、『トプカピ』(1964)のころだったのだろうが、我々の世代だと、アルバート・フィニーの跡を継いで、『ナイル殺人事件』(1978)以降、映画で三本、テレビスペシャルで三本、計6本で私立探偵エルキュール・ポアロを演じていたのが印象深い(ロイター通信、「『名探偵ポワロ』シリーズでエルキュール・ポワロ役を演じた」って紹介してるけど、これ翻訳ミスだろうな。デヴィッド・スーシェととっちがえているのである)。
 もっとも原作のポアロのイメージ(小男)とは似ても似つかぬ大兵肥満ぶりに、原作ファンは「あんなのポアロじゃない!」と怒っていたのだが。テレビ版『エッジウェア卿殺人事件』(1985)でワトソン役のヘイスティングスを演じたジョナサン・セシルが痩せた小男だったために、ユスティノフの太りぶりは一層強調されていた。
 ユスティノフがポアロに起用されたのは、語学に堪能であった点が買われたのだろう。フランス語訛りの英語を喋るポアロを演じられる役者自体がそもそも少なかったのだと思われる。もともとユスティノフはロシア人を両親に持っているが、ベルギー人といっても通用する風貌だとあちらのプロデューサーたちには考えられたのだろう。日本人である我々には西洋人はみんな一緒に見えるのだけれど。
 しかし、いくら名優とは言え、明らかに体形の違うミスキャストを続けられてもファンは困惑するばかりであった。デヴィッド・スーシェのポアロが登場すると、当然のようにユスティノフにポアロの声はかからなくなった。そうなるとあのイヤミったらしかったユスティノフ・ポアロももう一度見てみたくなる気持ちも湧いてくるのであるから、ファンとはつくづく勝手なものだ。
 名探偵、ということであれば、ユスティノフはもう一本、高名な探偵に扮している。『オリエンタル探偵殺人事件』(1981)でのチャーリー・チャンだ。中国人に扮するのはいくらなんでもムリがあったが、もともとワーナー・オーランドにチャーリー・チャンを演じさせて平然としていたクニだから、「同じ外人ならオッケー」くらいの感覚でいるのだろう。このあたりのどうしようもない出来の映画にもユスティノフは何の衒いもなく出演して、しかも思い切り手抜きの演技をしていたから、果たしてこの人は名優と言っていいのかどうかと首を傾げたくなったものである。
 遺作はマルティン・ルターの伝記映画『Luther』 (2003)。共演者に同じくポアロ役者の一人であるアルフレッド・モリーナがいるのは奇縁であろうか。

2003年03月29日(土) メモ日記��
2001年03月29日(木) 血の収穫/ドラマ『六番目の小夜子』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)