心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2013年01月28日(月) 荒削りな人生学校

しばらく前のことです。ある人(AAメンバー)から、こんな事を言われました。

「ひいらぎさんは、僕らアル中とは違ったタイプの人間なんだと思ってましたが、この前のイベントで、やっぱり同じ仲間なんだなと思いました」

僕のことを(強いて言えば)バランスの取れたまともな人間だと勝手に思っていたのが、一泊二日のイベントをその人と一緒に過ごしたことで、僕もアンバランスなアル中であることが分かってもらえた、ということでしょうか。「化けの皮が剥がれた」とでも申しましょうか。元々僕は何ら特別なアル中ではないし、マトモでもありません。

僕の考えでは、どれだけ酒を長くやめようとも、どれだけ回復しようとも、やっぱりアル中はアル中であって、バランスが取れることもないし、マトモにもなりません。理想的な回復を遂げたアル中に会ったことなど一度もありません(キッパリ!)。

AAに入った最初の頃、地元のAAメンバーの姿に正直失望を感じていました。「心の平安」などという話をしている割りには、メンバー同士が些細なことで仲違いや諍いを繰り返していたからです。この地元の「先行く仲間」はダメであっても、日本のどこかにはもっとまともなAAをやっている人たちがいるに違いない・・・違いない、とそう期待しました。

その期待の先が関東のAAでした。何しろ日本のAAメンバーの半数が関東という狭いエリアに集中しています。その数多いAAメンバーの中には選りすぐりの人たちがいて、きっと理想的なAAをやっているに違いない・・違いない。しかし期待は現実によって裏切られました。確かに人数が多ければ、マンパワーもあるし献金も集まるので活動は豊富なのですが、些細なことで争いが起こるのは変わりありませんでした。

メンバーの中から選ばれてきた評議員や理事も、会議の席上でしばしば感情的にムキになって対立します。そして極めつきはAOSMという国際的なイベントにオブザーバー参加したときのことで、その国のAAを代表してやってきたAAメンバー同士が、つまらないことで言い争いをしている姿に、アル中はどこまでいってもアル中であるという思いを深くしました。(英語の聞き取りがろくにできなくても、話の中身が似たようなものであるのは容易に想像がつきました)。

性格上の欠点を取り除くプログラムだなんて言いながら、こいつら欠点だらけじゃないか、と自分のことを棚に上げて思ったものです。もう、うんざりだよ、と。

しかしながら、「だからAAはダメなんだ」とAAそのものに失望を持たなかったのはなぜか。

それは(口はばったいけれど)多少なりとも僕も回復を得たからではないでしょうか。

あるとき、ある医師が言った言葉に僕は深く共感しました。

「依存症の人は、いつも良い気分でいることに必要以上にこだわる」

普通の人が普通の人生を送っていても、いつも良い気分でいるわけではありません。なのに、アル中(とか他の依存症の人)はいつも自分が良い気分でいて当たり前だと思っています。生きていて、いつも良い気分でいるなんてあり得ません。普通の人は、不安になったり、腹が立つことがあったりしても、大体そんなものだと受け入れて暮らしています(それが精神の健康であるのですが)。

ところが、アル中の人は、不安になったり、腹が立つことがあったりすると、「これはおかしい。間違っている」と感じ、その状況を変えて気分を良くしようとします。時には状況を変えることに成功するかもしれませんが、むしろ変えられないことの方が多いわけです。そこで、アルコールや薬物やギャンブルによって、無理矢理気分を良くすることになったりするわけです。

人生とか、生活というものは、大小多くのトラブルの連続です。トラブルがない生活なんてものはなく、トラブルが来ても乗り越えていけるという手応えこそが幸せなのではないでしょうか。自分好みの解決じゃなくても、ともかく解決すれば良いんだし。

AAであれどこであれ、人間がそこに存在する以上、人間関係のトラブルは避けられません。こんなトラブルがあるからAAはダメなんだ、という考えは、トラブルがまったくなくて、心配事も腹立ちも何にもない生活が実現されて当たり前、というアル中の病んだ考え方そのものなのです。

そもそも、僕がAA嫌いだというのは、AAだけじゃなくて、AA以外の人間も、この世界も嫌だということだったのですから、それはやはり精神が病んでいたことによるのでしょう。

だから僕は不愉快になったり、いろいろ嫌になってしまった時は、「それは自分がいつも良い気分でいられるべきだ」という利己的な思考に陥っていないかチェックするようにしています。

精神を病んでいない健康な人からAAを見たらどう見えるのだろう。そういう疑問に答えてくれた人がいたのですが、AAは嫌なところというより、むしろ面白いところだそうです。その面白さは、どこぞのドタバタの新喜劇のようなものなのかも知れません。苦笑いなんでしょうけどね。

12&12のステップ11の最後には、私たちの周囲の極めて人間的なことのなかに一見神の意志とは正反対のことが現れたとしても、もはやそのために私たちが深く動揺することはない、と書かれています。

これからもAAの中ではつまらないトラブルが絶えないでしょう。そのために時にはうんざりする人もいるかもしれません。でも、その争いが「いかにして最も多くの酔っぱらいに最も良いことをするか」ということであれば心配要らないとビル・Wも書いています。

彼はAAを「荒削りな人生学校」に例えました。僕らはもう一度子供に戻って、そこで人生を学びなおしています。子供というのはそれに見合ったことをするものです。時には小学生のようにガキっぽく、また時には思春期のように青臭く、様々な「しょうもないこと」を繰り返すでしょうし、痛みも伴うでしょうが、一足飛びに大人になることは誰にもできやしないのです。例え過去に僕らが酒を飲んで大人になった気分でいたとしても。


2013年01月10日(木) 書評:ギャンブル依存との向きあい方(その2)

書籍『ギャンブル依存との向きあい方』の評の後半です。

さて、話をギャンブルに戻します。

ギャンブル依存の人が「借金を返すためにギャンブルをしている」と考えるのは自己欺瞞です。ギャンブルで借金を返そうというのは、まったく合理性を欠いた考えです。また、借金が整理されて返済の必要がなくなっても、彼らは再びギャンブルに手を出し、また大きな借金を抱えます。

こうしてみると、対象をアルコールからギャンブルに変えただけで、同じ依存症のように見えます。確かに強迫的ギャンブラーの一部が(アルコール・薬物と同様の)アディクションであることは間違いないでしょう。

しかし、同じだとすれば、再びほどほどにギャンブルが楽しめるようにはならないはずですが、ギャンブルについてはそうなったという例もあります(自然治癒例)。また、金銭問題がギャンブル依存の結果だというのなら、ギャンブルをやめたら金銭問題が無くなるはずです。ところが、やめた後も金の管理ができず、お金を使いすぎて困ってしまう人がいます。こういう人は実はギャンブルにはまる前から、金銭管理の問題を抱えていたことが分かります。

依存症以外のタイプの人が混じってきている、それは間違いないことだと思われます。昔はアルコール依存症が病気だとは思われていませんでした。酒をやめられないのは、不道徳で意志の弱い、罪深い人間だとされてきました。様々な人の努力の結果、慢性アルコール中毒(後のアルコール依存症)は病気だということが、ようやく世間に認知されてきました。それは大変良いことでしたが、弊害もありました。

操作的な診断基準に従って、酒を飲んでトラブルを起こしていれば、誰でも彼でもアルコール依存症という病名がつけられ、専門の医療機関や施設やAAに紹介されてくるようになりました。それによって多くの人たちが助かりましたが、一方で、本当は依存症とは違う原因なのに、依存症のケアで混乱し、何年もの時間を無駄にしている人も少なくありません。問題が違えば、違った解決策が必要なはずです。

それなのに、大酒を飲んでいれば、それだけで依存症だと決めつけてしまい、病院に入れた後はAAミーティングに通わせるだけで、あとは良くなるもならないも本人の「やる気」次第・・・という過剰に単純化した援助がまかり通るようになってしまいました。この現状を嘆かずして、他に何を嘆けというのでしょう。

ただ幸いなことに、アルコールの場合にはそうしたミスマッチは少数派です。ところがギャンブルの分野では、このミスマッチが日常茶飯事で起きている、ということが、この本から見えてきます。

例えばこんな例はどうでしょう。ギャンブル依存とされたAさんは、子供の頃から自分で決めることが難しく、進学先も、就職先も家族(この場合は母親)が決めてきました。やがてギャンブルの問題を起こすようになり、GAというグループを探してきたのもお母さん(あるいは奥さん)でした。本人のお金の管理をさせると危ないので、家族が代わりに金銭管理をしています。ところが、いくらGAに通っても、なかなかしっかりとギャンブルがやめられず、時々細かな再発を繰り返します。

そこで家族がほうぼうに相談したところ、あるところから「手を離しなさい」「手助けをやめなさい」というアドバイスをもらうことになります。これはデタッチメントという手法で、周囲が本人に代わって問題を解決するのをやめることで、本人が問題に直面し(直面化)、底つきを経て回復へ向かう、というモデルを当てはめようとしています。このやり方が功を奏する場合もありますが、そうならないことも多いのです。

結果がどうなるか。たいてい、もっと悪化し、ギャンブルと借金の問題は深刻化します。おそらくこのタイプの人(Aさん)には、ギャンブル依存症とは違ったタイプの問題を抱えています。GAに通うことや、デタッチメント型のアプローチが効果をもたらさないのは、「アディクションとは違う問題が原因だから」という視点を持てれば、やり方を変えることができます。しかし融通の利かない支援者は、より苛烈なアドバイスを送り(例えば「家から叩き出せ」とか)問題をよりこじらせてしまうこともあります。

高澤さん、中村さんは、それぞれ日々の仕事でギャンブラーに接する中で、「アディクションとは違う問題」を幾つかにタイプ分けしています。発達障害タイプは、上に書いた自閉圏やADHDなどです。知的障害のタイプもあります。また、発達障害とも知的障害ともされなくとも、全般的にキャパシティが小さいタイプは、普通の人なら耐えられる負担でも大きなストレスに感じてトラブルに発展します(キャパ小タイプという名が与えられている)。いずれにせよ、本人の苦手なこと(例えば金銭管理)を無理にやらせるよりは、周囲が支える仕組みをうまく整えることによって、問題が解決していくことが多いわけです。個別の具体的な対応策については、ここで紹介しきれるものではないので、本を読んでいただくのが早いと思います。

もちろん、きれいにタイプ分けできるわけではなく、中間タイプもあるし、アディクションタイプの人もいるわけです。必要なのは、その人の生育歴や生活ぶりを調べて、どのような支援が必要かを調べ、個別のメニューを組み立てることです。その人がアディクションタイプであれば、GAに通って、経験を分かち合うことで内面的洞察を深めるやり方も奏功しうるでしょう。

彼らの発信する情報から、ひとつの明確な考えが導き出されます。「何かを乱用しているからといって、依存症とは限らない」ということです。ギャンブル乱用だからといって、ギャンブル依存症とは限らない。もちろんそのことは、アルコールや薬物にも言えますし、最近の新しい依存症のジャンルにも言えることでしょう。なるほど、ミーティングでの分かち合いや12ステップは強力なツールではあるのですが、何でも切れる矛(ホコ)ではありません。そのことは、12ステップを使って問題解決を手伝っている立場として、身に染みて感じることです。畑違いのことは、その分野の人に任せるのが良いわけで、何でもかんでも12ステップで解決しようとするのは頭が悪すぎる、専門性があるとは言いません。

もしあなた自身か、あなたの家族がギャンブルの問題を抱えていて、他の人のようにすんなり問題が解決していかないのなら、この本を手にとって通読されることをお勧めします。また、ギャンブル以外の分野の人にも一読をお勧めしたい。きっと視野が広がる体験をするでしょう。

また、この本の後ろ3分の1はワンデーポート理事長の稲村さんによる債務整理の説明になっています。ギャンブラーの人は借金の問題を抱え、「借金さえ解決すればギャンブルの問題も消える」と信じている人も少なくありません。しかし、借金には原因があるわけで、その原因を解決せずに債務を片付けても、再び借金ができるだけです。稲村さんは司法書士として債務整理に関わるなかで、そのことに気付かれてギャンブルの支援に入ってきた方です。

具体的には、借金が表面化した時(家族にばれたとき)こそが解決のチャンスであり、そのチャンスに向けて家族をすること。また、借金は片付けるよりむしろ返さないでおくのが良いとしています(片付けるのは本人の回復が軌道に乗った後)。そうは言っても、借りた金を返さなければ催促が来てしまうわけで、それにどう対応したら良いか。また家族はどうすれば良いか。法律の専門家の立場から解説しています。

ギャンブルの問題に関わるに当たって借金のことは避けて通れないわけで、特にご家族、支援者の人にこの項は必読だと思います。

最後にまとめになりますが、昔は依存症は病気だとは思われていませんでした。そこからひとつ進歩して、依存症は病気だということが知れ渡るようになりました。21世紀になって、そこからさらに進歩すべき時期が来たのでしょう。この本がその新時代を切り開く先鋒となることを期待を表明して、紹介を終えることとします。今後とも、このお三方の活動に注目していきます。

※アディクション関係の本は1,500冊売れれば御の字だと言われます。この本は初刷り1,500部が早々に品切れになり、アマゾンの中古が定価の数倍に跳ね上がるという現象を引き起こしました。幸い増刷もでき、現在は安定入手できる状況ですが、ご興味を持たれた方は早めの入手をお勧めします。

(この項終わり)

本人・家族・支援者のための ギャンブル依存との向きあい方
 〜一人ひとりにあわせた支援で平穏な暮らしを取り戻す
認定NPO法人ワンデーポート/編
中村努・高澤和彦・稲村厚/著
明石書店
http://www.akashi.co.jp/book/b102419.html
ワンデーポートFAX注文用紙
http://www5f.biglobe.ne.jp/~onedayport/fax.html
Amazon
http://www.amazon.co.jp/dp/4750335991/
セブンネットショッピング
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106174470/
PDFチラシ
http://homepage2.nifty.com/urawa-mahalo/akashi.pdf


2013年01月09日(水) 書評:ギャンブル依存との向きあい方(その1)

書籍『ギャンブル依存との向きあい方』の評を何回かに分けてお送りします。

本人・家族・支援者のための ギャンブル依存との向きあい方
 〜一人ひとりにあわせた支援で平穏な暮らしを取り戻す
認定NPO法人ワンデーポート/編
中村努・高澤和彦・稲村厚/著
明石書店
http://www.akashi.co.jp/book/b102419.html

僕らは「ギャンブル依存症」という言葉を使いますが、まだそれは依存症として完全に認知されたわけではありません。病気の国際的な診断基準(IDC-10)でも、アメリカ精神医学界の基準(DSM-IV)でも、依存症のカテゴリに入れられているのは、アルコールその他の薬物だけです。

(病的賭博は別の「衝動制御の障害」というカテゴリの中に、窃盗癖や放火癖と一緒に入れられています。2013年に発表される予定のDSM-5では、アディクション(嗜癖)というカテゴリが設けられ、そこにアルコール薬物依存と一緒にギャンブル依存も入る予定ですが、反対もあるようで蓋を開けてみなければ分かりません)

医学が保守的に構えている一方で、当事者のほうは先に走り出していました。1957年にはアメリカでギャンブラーズ・アノニマス(GA)が始まり、家族のためには翌1958年にギャマノンが始まっています。(それぞれ1989年、91年に日本でも始まっています)。そこではアルコールや薬物と同様に、12ステップを使った解決が提案されています。

AAの12ステップとGAの12ステップの間には微妙な違いもありますが、基本的に同じ手段が使えるということは、アルコールがやめられないのも、ギャンブルにハマるのも「同じアディクションであろう」という考えにつながります。

人がハマるのはアルコール(薬物)やギャンブルだけではありません。セックス、買い物、ネットなど、様々なものにハマるのも「依存症」であると考えられ、20世紀後半には様々なグループが誕生していきました。そうした当事者活動の観察から、「依存症」を三つに分類するコンセプトが生まれました。

1. 物質依存・・・・(アルコール、薬物)
2. プロセス依存・・(ギャンブル、買い物、セックス、ネット、食べ物)
3. 人間関係依存・・(共依存)

※食べ物を物質依存にカテゴリする場合もありますが、ここではプロセス依存に分類しました。

こうして最初はアルコールと薬物だけだったアディクションの概念が、次第に拡大されていくことになりました。たくさん誕生した新しい「依存症」が、本当にアルコールや薬物の依存症と同じ仕組みの病気なのか、同じ手法が使えるのか、検証されることはなく、援助職や当事者の分野で、依存症概念の拡大はほぼ無批判に受け入れられていきました。

また、依存症概念が拡大されていった時代は、アルコール依存の援助の中で発見された概念が普及した時期でもありました。その概念を象徴するのが、イネイブリング理論、底つき理論、タフラブ、直面化などのキーワードです。これらの概念やキーワードも、プロセス依存や共依存の分野に普及しました。

現在、アルコール・薬物の分野では、イネイブリング理論や底つき理論の有効性への疑問が出され、MATRIXや動機付け面接など新しい手法が提唱されています。ただ、その話は別の機会にしましょう。

ここで取り上げたいのは、アルコールだったりギャンブルだったりと対象が違っていても、同じ仕組みの病気なのかどうか。もっと話を進めて、同じギャンブルに「依存」している人が全員同じ仕組みの病気なのかどうか。そのことを突き詰めて考えることをせず、みんな同じ依存症と捉えていたのではなかったか。そして、同じアプローチが使えると思っていなかったか、ということです。

本書の3人の著者のうち、高澤さんはアルコールの援助職をした経験を持つ人で、中村さんはギャンブル依存の当事者で、かつアルコールの施設で自身が回復した人です。どちらも、現在はギャンブル依存を対象として援助を行う仕事をされています。お二方とも、最初はアルコールの手法がギャンブルにも使えると信じて活動していたものの、やがて「みんな同じ依存症」という考えの限界に気付き、丁寧なアセスメントと個別支援という方向を打ち出した人たちです。

・・・

僕自身の話をしましょう。

僕は3年前、ある用事でGAのミーティングに初めてお邪魔しました。本当はクローズドだったのですが、特別な計らいで会場の隅で分かち合いを聞かせてもらいました。ちょうど過払い金訴訟の盛んな頃で、戻ってきた金で借金が清算できて楽になったという話を聞きました。もう勝って返す必要がないのでギャンブルもしなくて済む。そんな話でしたが、後日聞いた話では、そうやって過払い金で借金を清算しても、やがてギャンブルに戻っていく人は多いのだそうです。なるほど、ギャンブラーにとっての借金は、アルコホーリックにとっての肝臓の数値みたいなものか、と納得しました。

その時点では、「みんな同じ依存症」という考えの限界には何も気がついていませんでした。

話をいったんアルコールの分野に戻します。

僕がAAにつながって最初の頃、依存症からの回復には「やる気」が必要だと言われました。「やる気」という言葉は、AAで使われるテキスト『12のステップと12の伝統』のステップ3のところにあり、やる気(意欲)こそが回復の鍵であるとされています。

数ある病気の中には、放っておいても自然に良くなりいつの間にか治っている病気もあります。しかし、依存症はそうではありません。依存症からの回復には本人の行動が必要であり、意欲が必要です。しかし、あまりに意欲が強調されすぎると、回復するもしないも本人次第ということになりがちです。回復できない人は、「本人のやる気が足りないから」で片づけられてしまいます。

しかし、本人はやる気に溢れているのに、再飲酒を繰り返してなかなか回復できないという、痛ましい例も珍しくありません。そうなると「回復は本人のやる気次第」とは言っていられなくなります。そこで、いままでの方法論が悪いのではないか、という話になりました。従来の「ミーティングでひたすら体験を分かち合う」というやり方で本当に良いのだろうか、という疑いが生じたのです。

元々AAには「12ステップ」という回復の方法論があります。しかし、近年のAAではこの12ステップがないがしろにされてきたと言っても過言ではありません。そこで、21世紀に入ってから、12ステップの原点である「ビッグブック」に沿ってステップに取り組もうとする運動が発生し、一定の成果を上げてきました。ミーティングで体験を分かち合っているだけではなし得なかった数々の回復例が生まれ、それまで意欲を持つことができなかった人が「やる気」の鍵を使って回復のドアを開け始めました。

その喜びがあまりに大きかったために、この(ビッグブックの)12ステップの万能性を信じた人も少なくありませんでした。僕も例外ではありませんでした。「この12ステップという道具を使えば、誰でも回復できる」・・・実際にはそうは問屋が卸しませんでした。12ステップでも回復できない人は存在しました。しかも無視できないほど多く。方法論が曖昧だったころは、回復できない原因を本人の意欲に求めれば良かったのですが、明確な方法論が導入されると、今度はその方法論に合わない人たちの存在が際立っていきました。

どうやら依存症とは別の問題があるのではないか? 意欲が無いと見なされている人たちは、本当にやる気がないのだろうか。それともそう見えるだけなのか。僕がそう考えだしたのは、2009年ごろでした。僕がネットに書いている雑記にも、この頃から発達障害という言葉がちらほら出てくるようになります。

特に注目していたのは自閉圏の発達障害でした(アスペルガー症候群・広汎性発達障害・PDDと呼ばれるもの)。自閉圏の人は、人の話に共感することが難しい人たちです。

ミーティングで他の人が体験を話しているのを聞くと、自分にも同じような体験があるのが思い出され、自分が話す番が来たらその話をします。そうやって他の人の話と自分の体験が「重ね合わされ」ていくのが、ミーティングにおける「分かち合い」です。それによって、自分の過去の行動の意味や問題点に気付き、自分を振り返ることができます。

ところが、この「重ね合わせ」や「分かち合い」に乗れない人たちがいます。彼らは他の人が何を話していようと、お構いなしに自分の話したいことを話します。他の人の話の些末なところに着目してしまうこともありますが、大局的には他の人の話にはあまり影響を受けません。他の人たちが「分かち合って」いる中で、(同じ場所にいながら)その輪から外れているのですが、本人にはその自覚がないようです。過去の自分の行動の意味を振り返ることは難しく、自省に結びついていきません。

こういう人たちは「自分の問題から目をそらしている」(否認している)とか、回復への意欲がないと見なされがちです。場合によっては、罪悪感を持っていないとまで見なされてしまうこともあります。

発達障害について学んでみると、こうした行動は自閉圏の特性ゆえだということが分かります。彼らは共感や自省や罪悪感を持つことができないのではなく、単に「ミーティング」という方法が合っていないだけなのです。また、12ステップも(自閉的な特性を持たない多数派のために作られたものである以上)、自閉圏の人が扱いづらい曖昧な概念を使っているので、その人に合わないということが起こり得ます。

発達障害以外にも、知的な障害を抱えている人もAAに来ますし、精神障害を抱えた人も来ます。それは一部の人たちに限られた問題です。AAは全員に「共通する問題」を解決するために、ミーティングや12ステップという「共通の解決方法」を使うところです。その人に固有の問題を解決するのに、別の方法論が必要になってくるのは、考えてみれば当たり前の話です。

それを「みんな同じ」で、みんながミーティングや12ステップで良くなるというのは、かなり無理があった話と言わざるを得ません。

(続きます)

明石書店
http://www.akashi.co.jp/book/b102419.html
ワンデーポートFAX注文用紙
http://www5f.biglobe.ne.jp/~onedayport/fax.html
Amazon
http://www.amazon.co.jp/dp/4750335991/
セブンネットショッピング
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106174470/
PDFチラシ
http://homepage2.nifty.com/urawa-mahalo/akashi.pdf


2013年01月04日(金) 人の欲望の複数性

先ほど年賀状を郵便局に差し出してきました。

誰かを助けることは、あなたの回復の基礎である。
Helping others is the foundation stone of your recovery.
(ビッグブック p.140)

今年もゆるゆるとしたペースで雑記を更新して参ります。何らかの形で皆様の需要に応えることができれば幸いです。

はてさて。

ビル・Wは『12のステップと12の伝統』のステップ4の冒頭で、人間は欲望(欲求)を複数持っていることや、それらが競合して人間に葛藤をもたらすことを論じました。また、ジョー・マキューはそれを分かりやすい表の形にまとめました。

しかし、欲望の複数性を論じたのはビルが初めてではありません。例えばフロイトは、神経症を性欲と自我の葛藤として説明しました。ここでいう性欲は自由や自己実現を、自我は伝統的な価値観に基づく承認欲求を指していると考えられます。自由や自己実現への欲を持たない人はいないでしょうし、周囲からの承認が要らないという人もいないでしょう。普遍的であると見なされたからこそ、フロイトの考えは現在にまで残っているのではないでしょうか。

人の持つ複数の欲求を分類する試みはフロイトだけではありません。マズローは人間の欲求を5段階に分類しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
その階層構造はともかくとして、これらの5つの欲求を詳しく見れば、5つのすべてが自分にも、また他の人にも当てはまることは納得していただけると思います。また、これら5つの欲求とジョーの表には共通項が多いことにも気付かれるでしょう。

また、日本発祥の森田療法を作った森田正馬は、人の欲望を「生への欲望」と「死への恐怖」の二つに分け、強すぎる欲望が葛藤を生むことを説明しましたが、これらの欲求はさらに細目に分けられ、それを子細に見れば、やはりビルの主張やマズローの段階説と構成要素の多くが共通しています。

このように、人間の欲求に関する理論は、どれも欲求の複数性と、その欲求の構成要素が似ています。なぜでしょうか。それは、どの理論も人間という共通のものを対象にしているからです。分類の仕方が異なっているのは、(理論というのは実践のためにあるのだから)その後の治療の展開に都合の良いように、それぞれに合わせてあるのは当たり前です。

分類の仕方の優劣の議論は脇に置いて、一つひとつの構成要素が自分に当てはまるかどうか、またそれらの競合が自分に葛藤をもたらしていないか、自分に照らし合わせて考えることができる人ならば、「どの欲求理論であれ、自分に当てはめうる」ことは認められるでしょう。

そして、それが他の人にも当てはまるかどうかを現象学的に積み重ねれば、ビル・Wの言うことも、ジョー・マキューの言うことも、フロイトの言うことも、マズローの言うことも、森田正馬の言うことも、こと人間の欲求に関しては、アルコホーリクであれ、それ以外の人間であれ、すべからく当てはまることはうなづけるはずです。それぞれの説によって用語の違いがありますが、字面の違いに惑わされずに理解を深めることが大切です。

もちろん、複数の欲求説があるのには、どのように分類するかとか、それをどう役立てるかについて、それぞれの考えの違いがあるわけですが、あのビル・Wの文章の肝心なことは、人が複数の欲求を抱えていて、それらの競合が人に苦悩をもたらすということです。

どの欲求説を使うにせよ、それを自分に当てはめて考えられないのであれば、理解できているとは言えないのではないでしょうか。

ジョー・マキューの表がアルコホーリク以外にも当てはまるかどうか、という問いのナンセンスさはそこにあるわけです。もちろんそんなことは言わずもがなのことであるわけですが。

今年もよろしくお願いします。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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