心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2013年02月18日(月) ロ・ロ・ロ・ロシアン

まだまだ若いつもりでいても、今年は僕も知命を迎えます。

若い頃に比べれば、いろいろな能力が衰えていきます。老いというのは長い下り坂をゆっくり降りていくようなものでしょうか。もちろん脳だって老化していくのです。

アルコール依存症は進行性の病だと言います。最初は酒量をコントロールできていたものが、次第にコントロールを失い、しまいには酒浸りの生活になってしまいます。(ビッグブックではコントロール喪失に対して「渇望現象」という言葉を使っています)。

失われたコントロールを取り戻すことはできない、というのがこの病気の特徴です。

しばらく酒をやめていれば、また昔のように普通に飲めるようになるのじゃないか、と考える人もいます。しかし、そうはなりません。ビッグブックのp.48にも、30才で酒をやめ25年間断酒した男が、再び飲み始めてあっという間に元の飲んだくれに戻ってしまった話が載っています。

もちろん、再飲酒したらすぐに飲んだくれに戻るとは限りません。しばらくの間は飲酒をコントロールして楽しめる場合もあります。僕の最後の再飲酒の時には1日はコントロールできました。もっと長く、何日か、あるいは何週間かトラブルなく酒を飲める人もいます。コントロールを取り戻した状態を何年間も維持できた経験を持つ人もいます。

彼らはその間は「アルコール依存症が治った」と感じたり、あるいは「そもそも依存症じゃなかったのに、自分も周りの人も大げさに考えすぎていたのだ」と考えます。

しかし、いつかはコントロールが失われトラブルの日々が戻ってきます。

「私たちも、自分はコントロールを取り戻したと思ったことがあった。けれど、そのちょっとした、あまり長くない中休みのあとには、必ずもっとひどい状態がやってきた」(p.46)

だから、依存症が治ったとか、コントロールが取り戻せた、という話を聞いても、「ああそうですか、それは良かったですね」と言っておくほかありません。酒を楽しんでいる状態で酒をやめたいと思う人はいません。その間は別の人に時間を割いていた方が賢明です。

酒をやめていても、この病気は進行すると考える人たちもいます。僕もその一人です。酒を長い期間やめた後で飲み出すと、元の酷い飲んだくれに戻るのではなく、もっと酷い状態になってしまう、ということです。

酒を飲むことで、アルコールが肉体(特に脳)に影響を与えて病気が進行していく・・と考えるなら、飲んでいないのに病気が進行するとは信じられないかも知れません。しかし、時間をおいて飲み始めたら、以前よりもっと酷い状態になってしまった、という経験は多く語られています。

この「飲んでいないのに依存症が進行する」理由を説明してくれるのが、加齢による脳の老化です。記憶力や演繹力と同じように、アルコールをコントロールする力も脳の能力のひとつであり、老化によって衰えうるものです。

病気が進行すれば、それだけ酒をやめるのが大変になり、より多くの努力が必要になります。

何年か酒をやめている人間は意識しなければならないことがあります。もし次に酒を飲んだとき、この前やめた時と同じ努力で再びやめられる、とは限らないということです。次はもっと大変な努力が必要になる可能性が高い。その意欲を持てずに断酒達成を諦めてしまうかもしれません。

それだけ今回のソブラエティは貴重だということです。「今度飲んだら死ぬかも知れない」。再飲酒したからって必ず死ぬとは限りませんが、次はやめられずに死ぬまで飲み続ける羽目にならないとも限らない。なにせ、老いから逃れられる人はいないのですから。

(再飲酒はロシアンルーレットと同じ)。

飲まない生活を何年か続けていれば、自分が飲まないでいられるのが当たり前に感じられてしまいます。だから、それを維持する努力を怠りがちです。今のソブラエティを大事にしましょう。もう一度やめられるとは限らないのですから。


2013年02月14日(木) 神聖モテモテ論

12ステップやらAAの話ばかりではつまらないので、たまには趣向の違う話を書いてみましょうか。明日はバレンタインデーだし(関係ないか)。

近年、婚活が流行っているのだそうです。婚活パーティとかネットの婚活サイトなどの婚活産業も盛んです。昔だったら、親戚や近所にお節介なおばさんがいて、頼みもしないのに見合い話を持ってきてくれたものです。(若かりし僕の所にもいろんな話が来ました)。

しかし、そのようなお節介おばさんも絶滅危惧種になったようで、滅多に見かけなくなりました(そのうちレッドデータブックに載るかも知れません)。その代わりに婚活産業が隆盛したのは(介護ばかりではなく)婚活も社会化が進んだということでしょうか。

婚活によって、すんなり相手をゲットする人もいれば、なかなか成功しない人もいます。「なぜ私の婚活はうまくいかないのか」という疑問にはどう答えれば良いのか。

貴様がなんでもてないかというと、貴様だからだ。

というファーザー様のお答えで済ますわけにもいきません。

話は変わりますが、以前に勤めていた会社が倒産し、やむなく就職活動で面接を受けたのですが、そのときある採用担当者がこんな事を言っていました。

「企業にとっての採用(求職者にとっての就職)は、結婚に似ている」

企業がどんなに「この人を採用したい」と思っても、その人が求人に応募してくれなければ採用できない。求職者にとっても、どんなに「この会社に就職したい」と願っても、会社が承諾してくれなければ就職できません。

この話は、相思相愛になることの難しさを述べているだけではなく、もうひとつ意味があります。求職者はどの企業の求人にも応募できる自由があるのに、採用する側は応募した人という限られた選択肢の中から選ばざるを得ない、その窮屈さを述べています。二重の意味で結婚(とか恋愛)に似ているのです。

動物の多くは「女性選択(female selection)」です。これは、雄が雌に求愛を行い、雌は自分に求愛してくれた雄の中から一番良さそうな相手を選んでつがいを作るという仕組みです。雄は求愛の際に、様々なアピールをして自分を選んでもらおうとします。クジャクは立派な尾羽を広げ、ヤマドリは大きな巣を作ります。この他にもきれいな声で鳴いたり、エサを差し出したり、ダンスを踊ったりと涙ぐましい努力が行われます。

雄の求愛を受け入れるかどうか、その相手と交尾するかどうか。それは雌側に選択権があります。人間とて例外ではありません。「セックスさせてくれよ〜」という男の要求にオーケーするかどうかは女性の権利となっており、相手が嫌だと言っているのに無理矢理やってしまうと、強姦として非難を受けることになります。それは人間の法によるものですが、その根拠を突き詰めれば、人間の雌ばかりでなく動物全般の雌が持つ選択権に行き着くことになります。

なぜ女性選択が成り立つのか。それは雄と雌の繁殖コストの違いで説明されます。繁殖するために雌は妊娠・出産・子育てという大きな負担がかかり、その間は次の繁殖が制限されます。一方雄の側は、精子をばらまくだけで繁殖が可能だし、そもそも自分のパートナーが育てている子が自分の子かどうか確かめられません(人間は科学によってその検査を可能にしましたが、自然界では無理です)。

その結果、雄は雌に求愛して周り、雌は自分に求愛してくれた雄の中から相手を選ぶ、という仕組みができあがったと考えられます。先ほどの採用担当者の言葉を借りれば、男性=求職者、女性=企業、というわけです。(最近は肉食系女子も多いから男女逆でも良いでしょうけど)。

参考:性淘汰の原因
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%B7%98%E6%B1%B0#.E6.80.A7.E6.B7.98.E6.B1.B0.E3.81.AE.E5.8E.9F.E5.9B.A0

どうやったらたくさんの異性にモテるか・・は知りません。でもパートナーを一人つかまえたいという話ならば、「婚活は就職活動と同じ」ではないかと思います。自分を採用してくれる会社にあたるまで、ひたすら応募し続けるしか他に方法はないのじゃないか。婚活も同じです。

しかし、それはメゲる方法かも知れません。あるAAメンバーは、就職活動で100社以上に落ち、その頃はさすがにメゲていました(100社目に落ちたときはスポンサーが飯をおごってくれたそうです)。でも終いにはちゃんと採用されました。別のAAメンバーは数十回見合いをし、断られ続けたものの、最後には幸せな結婚をしたと聞いています。

それにしても応募したくなるような企業、じゃなかった求愛したくなるような異性がいないんだよ、とお嘆きの人もいるかもしれません。それは仕方ないことでしょう。ハタチで婚活する人は滅多にいません。たいてい35才、40才を超えてからの婚活です。その頃には、釣り合う年齢の相手はたいてい片付いており、市場に残っているのは残り物です。残り物は嫌だと言ったって、自分がその残り物なのだから仕方ない。

初婚の人は男でも女でも自分より若い相手を求めるそうです。それは結婚生活を経験していないので精神年齢が若いからでしょうか。自分では若いつもりでいても、肉体の加齢は避けられません。若い人から見ればおじさん・おばさんですから、年齢以外の魅力がたくさんなければ難しいでしょうね。

俺は若い娘じゃなきゃダメだとも言わないし、高望みもしていないのに、なぜか婚活に成功しない、という人は何かが足りないのではないかと思います。個別に何が足りないのかは分かりませんが。

企業経営には「ロマン・我慢・そろばん」の三つが必要だそうです。この言葉を最初に言ったのが誰なのかハッキリしません(経営の神様と呼ばれた松下幸之助ですかね)。

還暦を超えて婚活を開始したIさんは、「この年齢になって初めて、残りの人生をすべてかけても良いと思えることに出会いました」と現在取り組んでいる仕事?のことをメールに書き、それを読んで「この人なら」と思った女性が今の奥様だそうです。やはりロマンを語れなければ人はついてこないか。

しかしロマンを語ってばかりで努力できない人も困りますから「我慢」も必要ですし、経済もついてこないと生活できませんから「そろばん」も必要でしょう。

こう考えてくると、婚活が面倒くさいと考える人がいるのもうなずけます。そもそも結婚というのが面倒くさいものですし、我慢も必要だしお金もかかります。それは恋愛も同じ。

昔は結婚しないと一人前の大人とは見なされない風潮がありました。また、国全体が貧しくて、なるべく共同生活をしなければ生活が成り立たない事情もありました。しかし、結婚を仕向ける社会的圧力が減り、自分一人分の生活費を稼いでコンビニ飯で生活できる世の中になって、面倒くさい結婚(とか恋愛)に取り組む人が減ったのは仕方ないことなのかも知れません。

というわけで、どうやったらモテモテになれるかという話はまるでないまま、このエントリはおしまいです。


2013年02月03日(日) 解決したいと思えるようになりたい段階

知り合いのAAメンバーがmixiでこんなエントリを紹介していたので、高速バスで移動中に読んでいました。

うつ病 「心」と「現実」の混同は誤り
拠りどころ喪失が大きな要因に
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2550

加藤諦三という人が正統派?の心理学者なのかどうかは知りません。この人のすごいところは、ずっとラジオの人生相談を続けてきたことです。

僕は「量はやがて質になる」ということを信じています。理屈ばっかり言っていても役に立ちません。場数を踏むことが大切で、たくさん経験を積めば、その中から何らかの法則性を見いだすこともできるだろう、という考えです。(もちろん量を質に変えるにはそれなりのセンスも必要でしょうけど)。

4ページ目、「ラジオで人生相談をしていますが、悩んでいる人たちは解決を求めているのではなく、苦しんでいる姿を伝えるために電話をかけて来ることが多い」という話が一番頷けました。

私は悩んでいる、苦しんでいると言う人はたくさんいます。(実はそれが言えずにいる人も多く、言えるだけでもたいしたものなのですが、それは別の話で)。悩んでいると言うからには、その悩みが解決した方が良いと考えているのでしょう。

それに対して「このような解決方法がありますよ」と言っても、「じゃあ、さっそくそれをやってみます」という人ばかりではありません。むしろ、何もせずに今までどおりのことを続け、ふたたび同じ相談を持ち込んでくる人のほうがずっと多いのです。

なぜその人たちは、解決方法を拒むのか。それは、その解決方法が、自分の側に何らかの労力が必要だったり、自分を変える努力が必要だったりするからなのだと思います。

文中にうつの例が挙げられています。うつ病の本質は憎しみの表れ、というのはよくある話です。

憎しみは12ステップの用語では恨みです。憎しみを持っている人は、だいたいこう考えています。「自分にはたいした落ち度はない。悪いのは相手であって、相手が態度を改めれば問題は解決する」と。相手を変えることに成功することもありますが、現実にはそれが難しいことも多い。そうなると、その人の中で問題は解決不能になってしまいます。なぜなら、その人は労力を割いたり、自分を変えるつもりがないからです。

例えば僕が駐車場に戻ってみたら、駐めて置いた車の窓ガラスが何者かにたたき割られ、中の金品が盗まれていたとします。その時に「僕には何も落ち度はない。悪いのは犯人なのだから、犯人が金品を返し、車を修理して僕に帰してくれるべきだ。それまで僕は何もしないぞ!」と言っていても何も解決しません。僕がしなければならないことは、警察に届け、保険会社に連絡し、車を修理工場に預けることなどなどです。

そうした被害に遭うことは理不尽なことだし、そのおかげで余計な手間もかかります。でも、理不尽なことが起きない人生なんてありません。理不尽な目に遭うたびに、誰かを憎んで、うつになったり酒を飲んでいたりしても、自分が余計損をするだけです。

うつ病で環境調整するのだって、職場を変えることも本人にとっては余計な手間で、その手間を拒めば解決は遠のくわけです。

人は悩みや苦しみを打ち明けて、話を聞いてもらうだけで楽になることもあります。身近に話を聞いてくれる人がいるのは大きな幸せだと思います。人はそうやって、話を聞いてもらって楽になる、ということを学習してしまうのかもしれません。

そして、ふたたび苦しみが募ると、同じように話をして楽になろうとします。仮に誰かが解決策を示してくれたとしても、それを拒んで同じことを繰り返している。苦しんでいるのですが、解決策は求めていない。

自力で酒をやめようとして、何年かおきに飲酒を繰り返すアル中の姿にどこか似ている気がします。ビッグブックに "He wants to want to stop" という言葉があります。自分は「酒をやめたい」と思っているつもりでも、実はまだその段階に至っておらず実情は「酒をやめたいと思えるようになりたい」という段階です(そういう人でも、口では酒をやめたいと言います)。

同じように、自分では「悩みや苦しみの解決を求めている」というつもりでも、まだその前段階という人も少なくありません。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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