心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年12月31日(月) 自助ではなく相互援助

今年も1年ありがとうございました。

Webalizerの出力データ(12/31 23:00現在)。

今年一年の統計データ
送出バイト数 225.0Gbytes
訪問者数 85万4千
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リクエスト数 1,143万

今年も多くの皆さんに訪問していただいて、本当にありがとうございました。

一日の訪問者数については、近年雑記の更新頻度が下がったため、1,700/日ぐらいまで落ちていたのですが、(理由はハッキリとはわかりませんが)今年の後半になって増加し、3,000/日を越えています。(ieji.orgドメインではないブログへのアクセス数はこの数に入っていません)。

今年は「心の家路」が10周年を迎えた年でした。

この10年の間に、僕の考え方もずいぶん変わりました。それが「家路」にすべて反映されているわけではありません。中には10年前に書いたものがそのまま残されている部分もあります。

例えばこのサイトには「〜アルコール依存症からの回復と自助グループの勧め〜」という副題が付いていますが、僕はもはやAAを始めとした12ステップグループが「自助」グループだとは思っていません。

自助グループとは self-help group を訳した言葉です。20世紀の後半に「同じ問題を抱えた人たちが集まって、お互いに自分の経験を話す」というグループがたくさん生まれ、それに対してセルフ・ヘルプ(自助)・グループという名前が与えられました。自助グループには専門家はおらず(専門的な援助はむしろ否定される傾向があり)、同じ立場の人同士で、人の話を聞き、自分の身の上の話をすることで傷ついた自己イメージを修正し、問題を乗り越えていくとされています。

不幸だったのは、AAが自助グループの先駆的存在であるとか、代表的存在であると見なされてしまったことです。AAが自らを自助グループと名乗ったことは無いはずなのですが、外部の人たちがAAを自助グループに分類することで、「AAが自助グループである」と考える人がAAの中にも増えていったのだと思います。

そして日本では、1980〜90年代に自助グループ・ムーブメントとでも呼ぶべき運動が起こり、多くの「自助グループ」が誕生しました。その中には12ステップを使ったグループもあれば、使わないグループもありましたが、どちらも同じ自助グループというカテゴリに入れられました。あの当時、12ステップグループが自助グループであることを疑う人はおそらくいなかったでしょう。

僕も、医師から自助グループを薦められ、AAと断酒会の二つからAAを選びました。だから、AAが自助グループだと信じて疑いませんでした。それは多くの人たちも同じだったでしょう。日本のAAからも、AAを自助グループと紹介する文章が結構たくさん発信されたはずです。

12ステップグループは自助グループではない、という意見に接したのは2007年でした。self-help という言葉に代えて mutual aid group (相互援助・相互支援)という言葉が提唱されていました。なぜ「相互援助」なのか、その理由が分かるには、12ステップに対する自分の理解が深まる必要がありました。

AAのビッグブックの第1章「ビルの物語」には、エビーがビルを手助けする(支援する)様子が描かれています。また、「ドクター・ボブの悪夢」と第11章にはビルがボブを手助けする(支援する)様子が書かれています。11章の続きには、ビルとボブが3人目、4人目を見つけて助けていく様子も書かれています。

彼らが手助け(支援)をするのに使った道具が12ステップ(の原型)です。つまり、12ステップというのはAAが誕生した後で成立したのではなく、最初に12ステップ(の原型)があり、それを使って人を支援することを目的にAAが作られたのです。

「相互」支援とはいうものの、ビルとボブの立場は対称ではありません。ボブは「受け取ること」で助かり、ビルは「手渡すこと」で助けられています。この非対称性というのも12ステップグループの特徴なのでしょう。この一対一の関係を抜きに12ステップは語れません。

12ステップは「ミーティングで自分の正直な話をすることで回復していく」というやり方とはずいぶん違います。ナラティブなやり方に基づいた自助グループというのは、それはそれで役に立つことは疑いもありません。しかし、AAはあくまで12ステップが基本であり、AAは自助グループと呼ぶのは適切とは言いかねるのです。

(AAが自らを self-support と呼ぶことがありますが、これは伝統7による経済的自立を示すにすぎません)

しかし悲しいかな、相互援助グループなどという言葉を知る人は少なく、人々は「自助グループ」という言葉でネットを検索します。当面は自助グループという言葉を使った方が便がよいわけです。であるものの「AAは自助グループのひとつです」と言って済ませておくのもなんだかなぁ〜。

最近はこの雑記とリンク集ぐらいしか更新していませんが、2013年は全般に手を入れられたら良いな・・と思うのですが、まあ時間が取れたらってことにしておきましょう。


2012年12月25日(火) 信じることについて

クリスマスですから、何かそれっぽい話を書いた方が良いのでしょうか。

ウィリアム・L・ホワイト先生は、アディクションからの回復を担っているグループを3つに分類しました。

ひとつは宗教的なグループです。例えば Alcoholics Victorious(AV)はクリスチャン向けのグループです。またイスラム教徒向けのグループもあるそうです。こうしたグループへの参加は、その宗教の信徒であることが前提です。

一方、神概念を廃した世俗系のグループもあります。SMART RecoverやSecular Organizations for Sobriety(SOS)がここに入ります。日本の断酒会もここに入るのでしょう。

そして、この両者の中間に霊的(スピリチュアル)なグループが存在します。特定の宗教には属さないものの、神概念を使っているグループです。AAを始めとした12ステップグループがここに分類されます。

AAとか12ステップというのは、宗教と世俗の間に位置しているわけです。AAの歴史を振り返ると、両者の間でどちらか一方に傾きすぎないよう、微妙なバランスを保とうと腐心している様子がうかがえます。AAが宗教になってしまったらそれはもうAAではないし、また逆に神という概念を捨ててしまったら、それもAAではないのでしょう。

さて、12のステップ では、その2番目のステップで「信じる」という言葉が出てきます。その次のステップ3では「神」という言葉が出てきます。12のステップは、AAに来た人や、AAに関心を持った多くの人の目に触れます。なのでこれを見た人が「宗教にそれぞれ神があるように、AAにも神があって、それを信じろと言っているのか」と解釈してしまうのも無理もないことです。しかしそれは早合点というものです。

ステップ3に、単に神と書かれているのではなく「自分なりに理解した神」と書かれていることに注目してください。この「自分なりに理解した」というのは大事なことなので、常に太字あるいはイタリックで強調されて表示されます。

原文 God as we understood Him は「自分なりに理解した神」と訳されていますが、その真意は「自分が理解できる神」です。

多くの人が宗教に拒絶感を持つのは、自分が理解できない神を信じなければならないと感じるからです。宗教は言います「私たちのこの神をあなたも信じなさい」と。それが信じられる人は幸いですが、それができない人は立ち止まるしかありません。そして、自分には神を信じることはできない、と思い込んでしまいます。

実際には人にはそれぞれ信じることができる(理解できる)神さまがいるものです。自分はどんな神さまなら理解することができる(信じることができる)のか、自分に問いかけることが大事です。

ここで難儀する人には、僕はこう問いかけます。「あなたに金を与えてくれる神さまがいたら、信じてみたいと思いますか?」「カレシ(カノジョ)を与えてくれる神さまがいたら、あるいは地位や名声を与えてくれる神さまだったらどうでしょう?」。そのように、自分の欲望を都合良くかなえてくれる神さまだったら、信じられるのじゃないでしょうか。それが、「今のあなた」が理解できる神なのです。

もちろん、それに対して、神さまに自分の都合の良いことばっかり望むものじゃないよ、とたしなめる人もいるでしょう。そのことは、もっと理解が進んでから分かることで、ごく限られた理解しかできない状態にあっては雑音でしかありません。

ビッグブックは「ほかの人が信じる神のことは考えなくてよい」と言っています(p.67)。また、自分の神の概念は「あまり適当でなくても、自分なりの考え」で良いと言っています。「出発に必要なのはそれだけ」です。

「そうして時間がたてば、とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのことが、受け入れられるようになった自分に気づくようになる。それが成長なのだが、成長するには、どこかで始めなければならなかった。だから私たちは、自分なりの神への理解から始めた。たとえそれはせまく、かぎられた理解だったとしても」

誰もが今自分がいる場所から出発するしかありません。長野にいる僕が旅行を始めようと思ったら、ニューヨークから始めるわけにはいきません。今自分がいる場所からです。「信じる」と言うことについても同じです。誰もが今の自分の理解から始めて、それを深めていくしかありません。

ステップ2で必要なことは、その「自分に理解できる、自分より大きな力を持った神さま」が、自分のアルコールの問題を解決できる能力も備えている、と信じることです(自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じる)。

だから12ステップが信じろと言っている神は、あなたがすでに信じている神さまです。それは周りの人が聞いたら眉をひそめるようなものかも知れませんが、それ以外のところから始めることはできないのです。それは、マイ・ゴッドであり、私のハイヤーパワーです。ビッグブックでも a higher power とか a god という表現があります。これは人それぞれに神があることを示しています。

そして、先のステップへと進んでいけば、それつれて理解は広がり深まっていくでしょう。ステップの効果が出て、神との自分との間の障壁が取り除かれるにつれ、自分の信じる神と、他の人の信じる神と違いが問題ではなくなっていきます。ビッグブックには Creator(宇宙の創造主)とか Father(父なる神)という表現がありますが、そうした「とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのこと」も受け入れられるようになっていきます。そうした、他の人の信仰に対して理解が及ぶようになるのも、霊的なめざめの一環でしょう。

ビッグブックを書いた最初の100人のうち半分は無神論者あるいは不可知論者だったそうです。無神論者というのは、神を信じないのではありません。彼らは無神論という神を信じている、と言われるように、「神が存在しないことを証明できる」と信じている人たちです。(だから日本には無神論者はほとんどいないでしょう)。そんな彼らもやがては信じるようになり、何かの宗教の信徒になることを好むようになったとあります。(宗教に入るかどうかは、その人それぞれの選択ですが)。

12ステップの実践も、霊的な事柄への理解も、今自分がいるところから始めて一歩一歩進んでいくしかありません。12ステップは「この神を信じなさい」とは言いません。けれど、あなた自身が、すでに何らかの神を信じている、ということは信じなければ始まりません。あくまで自分の力、自分の意志の力で酒をやめていこうというのなら、ステップ1の無力を認める以前の段階なので仕方ありませんが、ステップ1がきちんとできた人には、ステップ2はまったく難しくないことだと思います。


2012年12月24日(月) スポンサーの死

(最初の)スポンサーが亡くなりました。年賀欠礼のハガキが届き、奥様に電話を掛けてみたところ、ガンの闘病を終えて先週亡くなったと知らされました。スポンサーと最後に会ったのは、何年前だったのか思い出せません。それほど会っていませんでした。

僕が彼と出会ったのは、彼のソブラエティがまだ1年半ほどだったと思います。長野県内で断酒会が成立したのが1970年代だそうですが、その頃から彼は何とか酒をやめようと苦闘し、十数年後にようやくAAでまとまった期間、酒をやめ始めた、という頃でした。

気性の激しい人で、キレると男二人がかりでないと止められませんでした。エンコ(小指)がなく、「俺は酒のせいでヤクザもできなくなったんだよ」が口癖でした。刑務所の中の話も良く聞きました。その人が、理屈ばっかり言う僕のスポンサーをよくキレずに務めてくれたものだと思います。いや、キレそうになるのを堪えている様子はよく見て取れました。それまで失敗続きで、誰か一人ぐらい助けなくちゃと思っていた、と後年語っていましたが。

活動量の豊富な人でした。僕がつながったグループは実質彼と奥さんだけのグループでしたが、週に二回、水曜と土曜のミーティングを休まずに開けていました。それから当時隣県には県庁所在地に唯一AAがあるだけでしたが、その会場すら維持するメンバーがいなくなったため、毎週火曜と金曜の会場も開に行っていました。それから、僕の住んでいた街にあった月に1回の会場や、僕の入院した病院のAAメッセージを維持していたのも彼でした。現在、長野県内にはおそらく70人ぐらいのAAメンバーが酒をやめているでしょうが、県南部のAAの礎を作ったのが彼でした。また隣県のAAも、彼なしには維持されなかったでしょう。

さらに、僕が会うたびに「昨夜は東京のミーティングに出た」とか「先週は大阪に行った」という話を聞かされていました。易々と県境を越えてAAの活動していたメンバーが、20世紀にはたくさんいましたが、彼もその一人でした。

AAのグループやメンバーが増えて行くに連れ、彼はローカルなAAの先駆者として精神的なリーダーに祭り上げられていきました。AAにリーダー(指導者)がいないわけではありません。AAのリーダーは号令を掛けるのではなく、模範を示すことによって人々を導いていきます。どこであれリーダーは必要とされるものです。彼は「俺にはふさわしくない」と苦情を申し立てましたが、僕も含め周囲が彼を奉るのをやめることはありませんでした。

尊敬を受けることで彼の中に沸き上がる様々な欲が、彼自身をさらに悩ませ、最後彼はAAから身を引きました。そうして残された僕らは、自分で判断して、自分でその結果の責任を負う、という精神的自立を求められました。やがて彼の存在を知らないメンバーが増えていきました。

飲んでいた頃、酔っぱらいながら彼の家を訪問したことが一度だけあります。その時、僕は「あんたのAAを俺に任せたらメンバーを100万人にしてやるぜ」と彼を挑発したおかげで(!)、ずいぶん後になって彼から「お前は本当に狂っているから気をつけろよ」とからかわれることになりました。でも不思議なのは、まだ自分の酒すら止まっていなかった僕が、なぜ「あんたのAAを俺に任せろ」と言ったのか。彼のAAに対する無闇な愛情に、すでに僕も感化されていたのかもしれません。

彼はステップ1も2も3も、ともかくミーティングに行けとしか言いませんでした。当時のストーリィ形式のステップ5も聞かずに、他のメンバーに任せました。実のところ彼は、AAのプログラムのことなんか、まるで分かっちゃいなかったのだと思います。まるで分かっちゃいなかったけれど、それでもともかくAAを愛し、信じていた。仲間を助け、その中で自分も助けられるのだと信じていました。あの頃は、そういうタイプのAAメンバーがたくさんいて、その人たちによってAAは全国に広がりました。

彼らによってAAという「器」は全国に広がりました。後からやってきた僕らは、そのAAという「器」の中で、ともかく酒をやめることができました。今、僕らの世代に求められていることは、彼らが用意してくれた「器」に「中身」を盛ることなんだと思います。

彼がAAを離れてからは、滅多に会うこともなくなりました。彼が若い頃の無茶な生活のせいで体を痛めていて、しばしば入院するようになったことも聞いていましたが、見舞いに行ったのは一度きりでした。「俺の前に来るより、その時間で新しい人の相手をしろ」という言葉に甘えて、そのうちにと先延ばししているうちに、その日は来てしまいました。

僕のやり方は彼のやり方とは全然違います。でも彼の目標を僕の目標として受け継いでいる、という自負はあります。感謝を伝えることは滅多にしなかったけれど、彼があの頃キレるのを堪えたことは、決して無駄ではなかったと思ってもらいたい。それが僕のするべき感謝の示し方だろうと思っています。彼が身を引いた苦しみ悩みもよく分かります。だが、あえてそれを引き受ける者がいても良いと思います。

スポンサー夫妻は、AAミーティングに部屋を借りている教会の信徒になっていました。教会の定例のミサの中で彼のことを追悼すると聞いて、半日仕事を休んでミサに出席させていただきました。奥様が一番良い写真を選んだのでしょう。「別人みたいだね」と皆でうなずきあいました。泣いている人もいましたが、自分はまず泣かないだろうと思っていました。だが、「また会う日まで」と賛美歌を歌いながら、ああもう会えないのだと思うと、ふいに涙が溢れました。

神ともにいまして 行く道を守り
  あめの御糧もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
  神の守り 汝が身を離れざれ


2012年12月19日(水) 頑張らない(発達障害)

発達障害を抱えたスポンシーと話をしていました。

彼は仕事(あるいは勉強)を「よし頑張ろう」と心に決めると、仕事や勉強を頑張るだけでなく、コップを洗うとか、その他いろんな事にも頑張りすぎてしまうので、1時間もするとへとへとに疲れ果ててしまうのだそうです。

う〜む。

「頑張らない」(頑張りすぎない)っていう言葉がありますが、これはまさに発達障害の人のためにあるような言葉だなと思った次第です。

過集中の結果で頑張りすぎてしまう場合もあるでしょう。また自閉的特性がある場合は、ほど頑張るという「ほどよく」という曖昧なところが把握できないから頑張りすぎてしまうこともあるでしょう。

この「ほどほど」とか「ちょうど良いところ」が分からないのも発達障害の特性の一つです。

発達障害の解説本に出てくる例を挙げれば、ほうきを手渡して「この部屋を適当に掃き掃除しといて」と頼んでも、その「適当に」がわかりません。なのでむやみに時間をかけて丁寧にやっていたり、あるいは逆にずさんだったり、または「適当に」が分からないので混乱して途方に暮れたりとか・・・。

だから例えば「3分間かけてこの部屋全体を掃いて、最後にちりとりでゴミを集めて捨てたら終わり」という具体的な「適当さ」を指示することが必要なのでしょう。それができて、さらに「今日は汚れが酷いから3分じゃなくて5分かけてやろう」とかいう調整が自分でできるようになれば、適応に問題なくなると思います。

(ただ、掃き掃除のほどほどが把握できても、それがぞうきんを使った拭き掃除に応用できるかどうかは別ですが)。

だから、先ほどの頑張りすぎてしまう、集中しすぎてしまうっていうことに対しても、ただ「頑張らない」「頑張りすぎない」って言っているだけではダメなのでしょう。例えば「1時間のうち、20分間は意識的に集中して取り組んで、30分は集中できなくていいのでともかく取り組んで、残り10分は休憩」とかいう具体的な話をすれば(あくまで例ですよ)、ほどほどに頑張ることができるってわけなのでしょう。

話は変わって、AAのビッグブックはビル・Wの修辞に満ちた文章で書かれています。

 修辞:ことばを有効適切に用い、もしくは修飾的な語句を巧みに用いて、表現すること〜広辞苑より

発達障害を抱えた人がビッグブックを読むと、ビルの修辞法によって混乱させられてしまうことはしばしばです。

例えば42ページには「最初はか弱く見えた葦が、実は神の力強い愛の手であることがわかった」という文章があります。これだけ読んだら「なんのこっちゃ」ですが、前後の文章や、ビッグブック全体の組み立てを見れば、意味は分かります。

ビッグブックが書かれた時代、つまり初期のAAメンバーたちは、12ステップ(の原型)によってアルコホーリクが回復できるのか心許なかったわけです。「か弱い葦」というのは頼りなさの表現です。けれど、最初はビル・W一人から始まった12ステップが、3年ほどで数十人を回復させるだけの実績を残しました。その結果、彼らは12ステップには確かにアルコホーリクを回復させる力があると確信を深めた、というわけです。それが「力強い神の愛の手」という表現です。

ところが「ここに出てくる<神>って何だろう」というような細部に囚われてしまうと、ビルの言いたいことがくみ取れなくなってしまいます。

だから、「最初はか弱く見えた葦が、実は神の力強い愛の手であることがわかった」という文章を、「最初は私たちも12ステップでアルコホーリクが回復できるのか自信がなかったが、多くの実績が積み上がるにつれ、確かに12ステップで回復できるのだと確信を抱くようになった」というふうに修辞を解いた文章にして伝える必要があるわけです。

他にも、ビル・Wは同じ事を同じ言葉で表現することを嫌い、別の言葉で言い換える傾向が強くあります。

12ステップの文章を見ても、ステップ5では「過ち」とあり、ステップ6では「欠点」とあり、ステップ7では「短所」とあります。(それぞれ英語では wrongs、defects、shortcomings)。これはすべて同じ事を指し示しています。それを「欠点」と「短所」ってどう違うのか、っていう細部にとらわれてしまうと、そこで理解が止まってしまいます。

他にも、ビッグブックには「酒をやめる」という言葉が何度も出てきます。逆に酒が「やめられない」という言葉も出てきます。ここでいう「やめられない」とは、毎日飲んでいる酒を切って断酒することができない、という意味で使われているケースは(あるにはあるが)少ないのです。そうではなく、自分の力で再飲酒を防ぐことができない、ということを指して「酒がやめられない」という言葉を使っています。

だから「飲み始めの早いうちだったら、私たちのほとんどは酒をやめられたろう」という文章の意味は、アルコホーリクになる以前だったら、自分の(意志の)力で再飲酒を防いでいくこともできただろうが、もう本物のアルコホーリクになってしまっているなら、意志の力は酒の魅力の前にいつかは敗れ去り、未来のどこかで飲んだくれに戻ってしまうのじゃないか・・という問いかけの一部なのです。

ビッグブックってのは、なんで70年以上前の、こんな分かりにくい文章のまま使っているんでしょうね。その理由は僕にも分かりませんが、聖書もシェークスピアもそのまま使っているじゃないか、と答えることにしています。


2012年12月12日(水) 上から目線

上から目線についての話をする前に、世の中の序列について話をしなければなりません。

世の中、何にでも序列ができるのは避けられません。例えば、あなたがスイミングスクールに入って水泳の上達を目指すとします。スクールの会員は全員平等です。しかし、目的が水泳の上達なので、そこに優劣が生まれます。泳ぎのうまい人は、このようなフォームだと早く泳げるとか、息継ぎやターンのやり方、トレーニングの工夫など、いろいろなスキルを持っています。ビギナーにはそれがありません。だから、ベテランはビギナーに教えることができます。

世の中、どこへ行っても、こうした何かの基準で序列や上下関係が生まれることは避けられません。

けれど、例えば会員が集まって忘年会をやりましょう、という話になったとき、ベテランの意見が重視されるとは限りません。むしろ親睦を深めるために、新しい人たちの都合にあわせて日取りを決定することも十分あり得ます。これが平等性というものでしょう。

目的が序列や上下関係を作り出す。しかし、目的とは無縁な評価基準はここに持ち込まないのが集団の平等性、民主制ということでしょうか。

泳ぎがうまくなりたい人は、コーチやベテランから教えられても「上から目線が気に入らない」とは思わないはずです。思わないのは、教えてくれる相手の持つ技量への敬意があるからでしょうね。自分もそれを欲しいし。

一方、初心者が別の初心者の泳ぎを見ながら「あいつは息継ぎが下手だなあ。具体的には××が○○で・・」などと言っていたとすれば、「お前も初心者で、自分もできてないのに、上から目線で何を言っておるんじゃ!」となるでしょう。

つまり「上から目線」と感じるかどうかは、相手の態度の問題というより、自分が相手をどう評価しているかにかかっています。自分が相手を高く評価していれば「上から目線」とは感じないし、相手を低く評価していれば「上から目線」と感じる、というわけでしょう。「上から」という表現そのものが序列を前提とした言葉です。

ところで、最近ネット上では「上から目線」に対する批判が目立つような気がします。

確かに「上から目線」は気持ちの良いものではありません。しかし、そう感じるかどうかは自分の問題ですから、「上から目線は良くない」と主張するのも何かしっくりきません。

そこで言われている「上から目線」は、上の例で言えばベテランに教えてもらっているのに、それが気に入らないという怨嗟の声です。(会社の新人教育担当者の態度が上から目線で気に入らないので、入ったばかりの会社を辞めちゃった、みたいな)。

「上から目線」への抗議は、ルサンチマンなのではないでしょうか。

ルサンチマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3

上に書いたように、社会の中ではどこでも序列が発生しうるため、人は誰でも何らかの序列の下位に置かれることを避けられません。その人に能力や意欲があり、周囲の状況が許すのであれば、その序列の上を目指すことができます。しかし、それができない時に、人はルサンチマンによって自分を正当化します。

貧乏から抜け出せない時に、金持ち(資本家)を敵と想定して、「あいつらは悪人だ、だから俺たちは善人なんだ」という正当化がなされるわけです。これは想像上の復讐です。

努力しているのに貧乏から抜け出せないとか、何らかの制約によってその努力すらできない、という人がルサンチマンに一時の慰めを求めるのは理解され、同情されるべきことなのかもしれません。

しかし、「上から目線」への抗議は、同情されるべきルサンチマンとはどこか異なっている気がします。自らの無気力や怠惰に気づきつつ、それを自己正当化するために、問題を相手に転嫁する独善的な臭いが漂ってくるのです。「あいつは上から目線だから良くないのだ。だから私のこの反感は正当なのだ」という論理です。

では、自分がその類の自己欺瞞に陥らないためにはどうすればよいか。その答えは平安の祈りの中に見つかるのではないでしょうか。


2012年12月07日(金) 常識を疑え!

常識が非常識になる(Common sense would thus become uncommon sense)とは、ビッグブックの「ビルの物語」に出てくる言葉です。それまでの自分にとって常識だと思っていたことが、実はそうではなかったという気づきを示しています。

ジョー・マキューの言葉によれば、狂気とは「真実でないこと(虚偽、false)を信じること」です。回復とは、それまでのその人の常識が、実はそうではなかったと気づきがあるプロセスです。

僕が初めて出席したAAミーティングは「言いっぱなしの聞きっぱなし」と呼ばれるスタイルでした。人が話をしている間は黙って聞き、自分の番が来たら話す。クロストークが排除された形式で、AAで最も一般的なやり方です。そのグループのミーティングはすべてそのスタイルでしたし、他のグループも同様でした。

AAのオープンスピーカーズやセミナーと呼ばれるミーティングでも、同じスタイルでした。AAと似たようなグループでも、概ね同じ形式のミーティングをやっていました。

だから、AAの「すべての」ミーティングが「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルで行われているはずで、AAとはそういうものだ、という常識が僕の中に形作られました。後になってそれは勘違いだったと分かるわけですが。

2004年頃に、スクリプト・ミーティングというのに出会いました。スクリプトとは台本のことです。通常の「言いっぱなしの聞きっぱなし」ミーティングに台本なんてありません。誰が何を話すか分かりませんから。けれど、スクリプト・ミーティングは参加者が台本を読み上げることによって進行しますから、内容は台本どおりになります。(実際には短い体験の分かち合いや質疑応答もあるので、厳密に毎回同じではないけれど)。

スクリプト・ミーティングに対しては「そんなやりかたはAAミーティングとは言えない」という意見もありました(僕も最初そう思った)。「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルのミーティングが最もポピュラーなのは間違いがありませんが、それ以外のミーティングを行ってはならない、という決まり事はAAにはありません。

この雑記でよく取り上げる「ジョー・アンド・チャーリーのビッグブックスタディ」は、ジョーとチャーリーの二人が聴衆に向かってひたすら語るという、いわば講演形式ですが、でもこれもAAのミーティングとして大変に人気があり、これを聞いた人は20万人とも50万人とも言われます。

また、1950年代までのアメリカのAAでは、教室形式でビギナーに12ステップを教える「ビギナーズ・クラス」が行われ、高い成果を上げていたそうです。

数年前にある人がアメリカのAAミーティングに行ったところ、講師役のAAメンバーがホワイトボードに図を書きながら12ステップを説明していて驚いたそうです。これが普通のAAグループのミーティングとして毎週行われているというのです。こうしたやり方に対して反発はないのか心配して聞いてみたところ、「全くない」という返事でした。これが嫌なら別のミーティングにいけばいいのだから、何の不都合があるのだ? と逆に問い返されたそうです。

「言いっぱなしの聞きっぱなし」のミーティングでは参加者の体験が分かち合われます。このスタイルのミーティングしか出席したことがなければ、AA(や他のグループ)は分かち合いをするところで、分かち合いこそが目的であると考えてしまっても不思議ではありません。それが僕の勘違いでもありました。

すべてのAAミーティングには共通した目的があります。12ステップを伝えることで参加者一人ひとりに回復をもたらすのが目的です。分かち合いはそのひとつの手段に過ぎません。目的達成のために、別の手段を使うのもありでしょう。

もちろん、「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルには利点があるから大部分を占めるに至ったのでしょうし、今後もAAで最もポピュラーな形式であることは疑いありません。

神さまと違って人間の能力は限られているので、全てのことを見聞き出来るわけではありません。自分の手に入る限りの情報から導き出した結論が、実は真実ではない、ということもあり得ます。まったくのウソではないにしても、局所解に過ぎないってことはよくある事です。

実際に講座形式のミーティングをやってみたら好評でした(講座というより会議みたいだったという話もありました)。僕が「ミーティングとは言いっぱなしの聞きっぱなしのみ」という虚偽の情報に囚われていたら、この新しい体験は得られなかったでしょう。

(自分の中の)常識を疑え!、というのが大切な姿勢だと思います。


2012年12月03日(月) 仮面

懸案事項がいくつか片付いて、ホッとすることの多い週末でした。掲示板は相変わらずですね。

僕は「ぬるい」スポンサーだと言われています。スポンシーに厳しいことをあまり言わない優しいタイプだという意味です。でも、何も言わないわけではありません。先日もスポンシーにこんな話をしました。特に個人的な情報はないので、書いても構わないでしょう。

背の低い人はかかとの高い靴を履く。髪の毛の薄い人はカツラをつける。こんなふうに人は自分の欠点(欠点だと思っているもの)を隠そうとします。それは何も外形的なことに限りません。自分がわがままだと周りの人に思われたい人はまずいないでしょう。だから、わがままだと思われないように振る舞おうとします。自分にわがままな部分があることを自覚しつつ、それを隠そうとするのは、言わば心に仮面をかぶって、その下の欠点を覆い隠すことです。

こうした仮面は、人が社会の中で生きていくのに必要だから身につけたもので、誰でも多かれ少なかれやっています。必要があってやっていることであるのは、忘れてはいけないことでしょう。

自分に役に立っているはずの仮面ですが、時にはそれがその人の行動を縛ることがあります。仮面の下の醜い真実が見えてしまったら、自分は人から拒否されるのではないか、という不安に支配されてしまうことがあるわけです。こうした恐れが強くなると、自分を守ろうと仮面をより強く顔に押しつけ、仮面の下を見られないように一層気を使うことになります。それは極めて不自由で、安心のない暮らしを送ることになります。

あなたが周りの人に受け入れられたのは、あなたが完ぺきで欠点のない人間だったからでしょうか。それを考えてみて欲しいのです。仮面によって欠点を隠し通すことなどできはしません。靴やカツラをつけっぱなしにできないように、仮面もかぶり通すことはできません。仮面で隠し通せたと思っていても、実はその下の欠点や醜さは、周りの人にはモロバレであるものです。

近しい人たちはあなたの欠点が見えていたにもかかわらず、あなたを受け入れていたのではありませんか?

(もしあなたが、ミーティング会場から追い出された経験があるにしても、それは酔っ払って(酒に酔ったのか感情に酔ったのか知りませんが)ミーティングの進行を邪魔するという行為をしたからであって、欠点ゆえではないでしょう)

仮面で欠点が隠し通せるわけでもないし、欠点が見えたからとして近しい人に拒否されるわけでもない。神さまは完ぺきかも知れませんが、人間はそうではない。必ず欠点があるものです。お互いの欠点を受け入れあって生きているのです。

だからあなたに必要なのは、もっと人を信じるということです。先に言ったように、仮面は必要な道具ですが、そんなに顔にきつく押しつける必要はない。

もうひとつは、これはもっと大事なことですが、仮面で欠点を覆い隠せない以上、他の人の欠点が目立つこともあるでしょう。その欠点を持った人を受け入れることです。生まれてからずっと人にしてきてもらったことなのですから、それを他の人にしてあげることはできると思いますよ。

もちろん、書いた文章だからある程度まとまっていますが、話す言葉はもっといい加減です。また、言うにもタイミングがあることも学びました。少なくともスポンサーシップの初日に言っても仕方ありません。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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