ケイケイの映画日記
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2011年01月27日(木) 「愛する人」

年に何本かは、あらすじを読んで、これは私の映画だと直感する作品があります。この作品もそうでした。たくさんの母と娘が出てきますが、手に取る様に全ての人の心が深く沁み入り、途中からもう滂沱の涙。恥ずかしいくらい泣きました。丁寧に繊細に情感豊かに、母と娘の心の軌跡を紡いでいく秀作でした。監督はロドリコ・ガルシア。

作業療法士としてクリニックで働くカレン(アネット・べニング)。14歳の時に出産した彼女は、実母によって強制的に娘を養子に出され、ずっとわだかまりを抱えつつ、今は母を介護していますが、娘の事は片時も忘れてたことがありません。その娘エリザベス(ナオミ・ワッツ)は、養父母と折り合い悪く早くから自立。今は優秀な弁護士として活躍していますが、男性とは体の関係以上の事は求めず、独りでいることを望んでいます。形を変え、二人とも不器用な生き方をしていた頃、エリザベスは思わぬ妊娠をし、生みの母を意識し始めます。

至る所で確執を感じさせるカレンと母。甲斐甲斐しく介護する様子からは充分な親孝行を感じさせますが、二人とも笑顔一つ交わしません。折々に養子に出した娘の事をカレンは口にしますが、それは母親を暗に責めているからです。

気難しく殺伐とした印象のカレン。娘の事を後悔して自ら律したと言うのもあるでしょうが、それ以上に母親がそれ以降厳しく接したと思うのです。日本であれアメリカであれ、14歳の出産は本人のふしだら以前に、親としての責任が問われる事です。親にとっても人生が変わるようなショッキングな事のはず。娘の将来を案じた母は、自分の育て方の至らなさを猛省し、娘がこれ以上「堕落」しないように懸命だったのではないでしょうか?しかし立派に職を得て自立した娘は、人としての温かみを一切失ってしまいます。

それが端的に現れていたのが、カレンに好意を寄せる同僚男性パコ(ジミー・スミッツ)とのやり取りです。自分も関心があるのに、その先を考えてまず身構えてしまい、ケンカ腰の物言いで、最悪です。そのあまりの不器用さに、過去が心の傷となり、以降恋をした事がなかったのだと感じました。

母が薄々解っていた自分の過ち(とは一概には言えないが)を確信したのは、毎日来るラテン系のメイドと幼いその娘のお陰でしょう。女手一つで健気に娘を育てるメイドから、自分の娘にもこういう生活があったのではないか、何故自分は母として支える事を考えなかったのか、そうすればカレンの人生にも笑顔があったのではないか?きっと悶々としたでしょう。

母の死後、メイドから「お母様はあなたに謝りたいと仰っていました」と聞かされ、「何故直接私に言ってくれなかったの!」と慟哭するカレン。ここで私も一緒に号泣。痛いほどその涙がわかる。母は言うのが怖かったのです。娘の一生を台無しにしたのが、誰あろう娘を一番愛していると自負している、自分であると認める事が。

メイドはカレンの過去は聞いていないと言いますが、私は知っていたと思います。だから通う日数を減らされて賃金が減っても来ると言います。カレンに嫌われている娘も連れて。きっと彼女は亡くなった母を深く理解していたのですね。母の代わりにカレンを見守り、じっと変化するのを待ったのだと思います。

苦悩するカレンの日常と並行しながら、物語は出自に葛藤するエリザベスの生活も映します。自分の過去を誰にも言えず抱え込むカレンに対し、問われれば包み隠さず自分の出自を話すエリザベス。カレンは母という存在の煩わしさもあったでしょうが、守ってくれる存在でもあったはず。しかしエリザベスには何もない。本当の天涯孤独。心に火傷したり砂を噛む思いもいっぱいして、真っ裸の自分を晒すことで強く生きる選択をしたのでしょう。

自分に好意を寄せる上司ポール(サミュエル・L・ジャクソン)の気持ちを察し、自ら誘うエリザベス。そのしなやかな様子は、実母カレンと違い数々の恋の経験を感じさせます。しかし彼女はこの直後、信じられない行動を取ります。その様子に、「あの日、欲望の大地で」のシルヴィアが重なります。女が誰とでも寝るというのは、私は一種の自傷行為だと思うのです。幸せを望みながら幸せを怖れ、自らを堕落させ幸せから遠ざかろうとする。それは母親ときちんと向き合う事が出来なかった事に、起因していると感じます。エリザベスは頭では母を忘れていても、心では解決出来ていないからなのでしょう。「いつも必ずロサンゼルスに帰ってくるのは、私が生まれた場所だから」という吐露に、また号泣する私。

思わぬ妊娠に心が千々に乱れるエリザベス。彼女は誰にも告げずに産む選択をします。その頃カレンは昔の自分と対峙します。母が亡くなり、その呪縛から抜けだそうと試みているのでしょう。

重要な登場人物がもう一人。子供に恵まれない黒人の若妻ルーシー(ケリー・ワシントン)。母になりたいと熱望する彼女は、養子縁組を望みます。その事に待ったをかける実母。この母がおせっかいで鈍感、暑苦しく母性を振りまく人で、その母にルーシーは苛立ちます。しかし娘がどうしようもない苦しみに陥った時、この母はあらん限りの愛情で受け止めます。娘のお角違いの甘えには、毅然と叱咤も出来るのです。この真っ当な愛情のお陰で、ルーシーは見事に再生します。カレンやエリザベスの不器用さに比べ、一途に自分の信じた幸せを求めるルーシーの姿は、この下世話で善良な肝っ玉母ちゃんに育てられたからだなと、つくづく感じました。

盲目の少女とエリザベスのエピソードが滋味深い。心の目で語りかける彼女に、初めて自分の心を素直に出せるエリザベス。そして彼女の心には実母が膨らんで行くのです。けれどその後の展開に確信を持っていた私は、全く違う方向に話が進み狼狽して呆然。怒るのではなく、もう哀しくて哀しくてまた号泣。しかしその哀しさの先に物語は深く続いて行きました。

私は母には産みの親も育ての親もないと思っています。育てた人もしっかり母です。しかし生みの母は育てずとも、合えば一瞬に長い空白がなくなるのも事実。要はこの作品に出てきた別の母の言葉に尽きると思うのです。「あなたの事を思わない日はないわ」。子供の幸せをいつもいつも心から祈る人。それが母なのだと思います。

「あの子の目は母に似ているわ」という、カレンの嬉しそうな表情が忘れられません。人が死に人が生まれ、そして育てる。その自然の摂理の偉大さを、深々と感じさせる言葉です。

とにかく主演二人が素晴らしくて。べニングは最初の殺伐としたカレンから、慈愛に満ちた母の表情に変化して行く様子が唸りたくなります。ワッツも一見魔性の女を身にまとったエリザベスの、真の孤独を演じきってお見事。ワシントンも、応援したくなる猪突猛進のルーシーを熱演して、とても好感が持てました。男優陣の大人の男性っぷりもとても良かったです。

全ての女性に観てほしい作品。男性もジャクソンやスミッツ演じる人を見て、是非女性に対して真の優しさとは何なのか?を感じて欲しいと思います。早くも私の今年のベスト10候補作品です。












2011年01月22日(土) 「ソーシャル・ネットワーク」




実は私、facebookのアカウントを持っております。義妹の方の甥っ子がアメリカのとある研究所で働いており、「元気にやってるよ」というのを時々親戚中にメールで知らせてくれておりました。そんなある日招待状が。はは〜ん、これで近況見てくれっちゅーことね。と、すぐに登録したのですが、哀しいかなイマイチ使い方がわかりません。それでも時々甥っ子の元気な姿を観るべくアクセスするのですが、facebookにこんな背景があったとは。現代のアメリカの世相を映しながらの青春ドラマ。私はとても面白かったです。監督はデヴィッド・フィンチャー。

2003年、ハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、彼女のエリカ(ルーニー・マーラ)に振られた腹いせに、学内のデータをハッキングして、女子の人気投票のサイトを立ち上げます。二時間に2万2千のアクセスがあり、サーバーはダウン。これが学内で評判になり、マークは校内でエリートの双子のウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー)から目をつけられます。ハーバードの学内交流のためのサイトを立ち上げてくれと頼む兄弟。しかしマークは友達のエドゥアルド(アンドリュー・ガーフィールド)に、独自のサイトを立ち上げる事を持ちかけます。瞬く間に登録者を増やすサイトだったのですが・・・・。

まぁ〜とにかくセリフの洪水!それも主役のマークは早口で立て板に水のようにまくし立てます。天才的な頭脳を持っているのはわかるのですが、知性は全く感じられず。対人関係でもコミュニュケーション不全であり、友人もごく少数。天才であっても優秀ではないのです。しかしこのマークの早口につられてか、画面はスピーディーに進み小気味よいです。

天下のハーバードなんですから、学生はどんなに優秀かしらと思っていたら、選民意識丸出しで学生クラブを作ったり、マークにアイディアをパクられたと腹を立て、親の手も借りて学長に「告げ口」しに行くところなんて、小学生か?学生の幼稚化というのは、世界共通なんだわと憂いてしまいます(嘘。超面白かった)。

軽薄でイケイケの若き企業家パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)に、一見影響された様に見えるマーク。そのため共にfacebookを育ててきたエドゥアルドを切り捨てます。そしてウィンクルボス兄弟、エドゥアルドの両方から訴えられるマーク。この様子が現在の調停の様子と過去の彼らの姿が交互に描かれ、その時々の心模様が描かれます。

世界一若い億万長者となったマーク。一見成功した者に付きものの孤独と虚無感を、殺伐としたネット社会を通して描いているように見えます。でも本当にそれだけ?私は違うと思う。

双子もエドゥアルドも、事あるごとに「父」を引き合いにだします。父に頼もう、こんなことを仕出かして、父に怒られるなど。対するマークやパーカーは全く親は出てきません。学内ハイソクラブの招待状も、エドゥアルドには出すのに、その腕を見込んでネット立ち上げを頼んだマークにはなし。自由なはずの学内でも、容姿や家柄で格差社会があるわけです。

最初マークは、双子たちにひと泡吹かしたかったのだと思います。しかし急成長するサイトの様子に、欲が出たのだと思う。それはお金や名誉ではなく、人から尊敬されたかったのではないでしょうか?彼らはお金や名誉は親の代より持っているけど、尊敬はないもの。何度も彼が口にする「クール」と言う言葉。イケてる、カッコイイと言う感じかな?彼はこれで尊敬を得られると誤解したのかと感じました。

人に尊敬されるのには、感動がなくちゃね。世に破滅型の天才はたくさんいますが、それは芸術家に多いです。何故その人たちが愛され敬意を保たれ続けるかと言うと、それは人の心を感動させるからだと思うのです。この作品のマークからは、友人のいない孤独を嘆く心は、私はどこにも見つけられませんでした。むしろ失って行きサバサバしていたように感じました。それってダメな事ですかね?友達いなくちゃダメですか?エドゥアルドの方が、友人関係の終焉に未練があるように感じました。それはマークの方にもちょっとあったかな?

中盤で出てくる「ネットで書いたことは消せない。あなたは私を侮辱し傷つけた。話したくない。」という簡単明瞭なバッサリとしたセリフは、この作品の中でも強く印象に残ります。調停の中でマークが反省したのは、友人を失った事では無く、誰かを傷つけてしまったことだったように思います。

それがラストシーンや、マークに的確なアドバイスをする若手女性弁護士とのやり取りに繋がると思いました。マークは決して空っぽな人ではありませんが、これは大変な人としての成長だと感じました。

実在の人物、それもみんな若くて健在の中、いくらフィクションを交えたと記しても、映画化は難しかったでしょう。でも私は、登場人物誰にものめり込みませんでしたが、嫌悪感もなかったです。壮大に見せてくれた若気の至りは、ほろ苦く、でも美味しい味でした。


2011年01月10日(月) 「アンストッパブル」

五度目となるトニスコ&デンゼル様のタッグ作品。今回若手のクリス・パインとツートップで共演です。何にも考えずに、暴走列車のパニック映画とだけで思って観に行きましたが、うちの三男、考えたら4月から鉄道会社に勤務なんですな。ほんの些細なミスから大惨事が起こるスクリーンを見つめつつ、改めて息子は、社会的責任の大きい職場に勤めるんだと身が引き締まりました。まっ、母が引き締まっても仕方ないんですが。一時間半ノンストップで、爽快に楽しめる作品です。

新米車掌のウィル(クリス・パイン)は、ちょっとしか諍いから、現在妻子と別居中。今日は勤続28年のベテラン機関士フランク(デンゼル・ワシントン)と組む予定。最初からソリが合わず、険悪な雰囲気で仕事を開始する二人ですが、他の操車場で運転士のミスから、最新型の大型貨物車が無人で走行していると言う知らせが入ります。貨物車は大量の化学燃料を積んでおり、転覆すれば大惨事は必至。ウィルとフランクは、それを阻止すべく自分達の乗る機関車と共に列車を逆走行させます。

老練な従業員はリストラ、経験が浅く安く雇える若手を登用はアメリカもいっしょみたいで、そこがウィルとフランクの間に不穏な空気をもたらしています。導入部分で家庭や会社を取り巻く背景を少しだけ語り、後はずっと暴走する列車に付き合います。

最初の人道ミスは如何にもありそう。仕事に慣れてくるとマニュアルより手抜きになるもんです。今までと同じ手順で挽回出来た事が、アクシデントが重なり、事態は悪い方へ進む一方。この辺は列車でなくても、現場仕事をしている人は、他人事じゃない気持ちになるかも。

開映間近に行ったもんで、空いているのは前しかありません。三列目の真ん中に座った途端、しまった!と。これはトニー・スコットの作品、またかちゃかちゃ画面切り替えられて、気分が悪くなるわと覚悟していました。しかし今回は割としっかりアングルを固定して、トニスコにしては切り替えはぐんと少なかったです。被写体がとにかくどでかいので、これはとても良かったです。

時間と場所を少しずつ画面に提示、刻々と惨事の前触れを観客に示す前半から、後半は豪快に暴走する列車のシーン一本やり。色々書くより、まぁ観て下さいって。こんなにハラハラしたのは久しぶりで、スクリーンから目が離せません。この作品は実話を元にしており、アメリカの観客には、事の顛末は周知の事実なのでしょう。でも日本の観客は知らないので、ハラハラ倍増。もしかしたら、誰か死んじゃったのかも?と、緊張感はずっと最後まで持続します。とにかくこの辺の演出がすごく面白い!

仕事場の新人とベテラン、年若い夫と妻を亡くした中年男の両方の面を少しずつ出していく中、短い時間で信頼関係を築いていく二人。私はこの様子が好きです。アメリカお得意の、二人を見守る周囲の歓声や激励の演出も心地よいです。自分も中に加わった気分。フランクの娘の「パパなら出来るわ!」の声援は、アメリカ映画では鉄板ですが、何度聞いても士気の上がる励まし方です。

ラストは、それなら最初からその手を使えと一瞬思いますが、まぁいいんですよ、面白かったから。脚本が拙いと言うより、現実もあの手この手を使いながら、結局こういう方法で解決が多い気がするなぁ。

現場のトラブルには、使えないお偉方より、ブルーカラーの現場作業員の方が数段使えるのも、日米いっしょみたい。そして会社は、ベテラン新人、老若の者が集まってこそ知恵と力が合致して健全なんですね。

デンゼル様はいつも通りの好演。ある事柄から、フランクの男気溢れる正義感は、一見信じがたいのですが、彼が演じるのですごく納得。クリス・パインは初めて観ましたが、ハンサムだしアクション出来るし男っぽいし、有望株だと思います。爽やかなのにオスっぽいところがいいです。ロザリオ・ドーソンが司令官として、二人の上司に当たるのでしょうか?切れ者だけど温かい人柄を感じさせる上司で、とても良かったです。黒人女性が出世出来るなんて、アメリカも進んできたのですね。

観た後、ああ面白かった!と、ほこほこしながら劇場を出られる作品です。特にアメリカの娯楽映画好きさんには、堪らない作品だと思います。近年のトニー・スコット作品では白眉でした。


2011年01月09日(日) 「玄牝−げんぴん」




このポスター、無条件で可愛いでしょう?カンヌに愛されている河瀬直美監督ですが、私はどうも合いそうになくて、今までどの作品も未見。今回は自然出産がテーマということと、このポスターに魅かれてはるばる十三ナナゲイまで出向きました。知らなかったのですが、観た回の後に監督の舞台挨拶がありました。子育てのほとんど終わった三人の子持ち、そして未熟ながら医療事務という医療業界末端の仕事を持つ私は、この作品にはあまり歓迎されない観客だろうと予想しての鑑賞。監督は何とか公平さを保とうとして頑張っていましたが、予想は当たってしまいました。

愛知県岡崎市にある吉村医院。お産は自然たるべきという院長の信念の元、共鳴する全国から妊婦が集まってきています。四季を通じてその日常を映すドキュメンタリー。

江戸時代のような暮らしをしていると、全ての妊婦は自然分娩出来ると言う信念の元、「お産の家」と呼ばれる茅葺きの家に集まる出産前の妊婦たち。薪割り、掃除と称してのスクワット、田畑を耕す、一汁一菜の食事を取ります。もうこの辺からして、疑問がいっぱい。薪割りや田を耕すは、普通都会の人間はしませんよね?農業体験的生活を臨月になり、いきなり始める姿には、正直失笑しました。そういうことは、子供の時からやっていてこそ、初めて「良いお産」に通じるのでは?

スクワットも、家で家事をしっかりやってりゃ充分です。自然にそういう動作をしています。妊婦体操とどう違うのかがわからない。みんなでお散歩のシーンもありますが、それも一人で出来るでしょう?私の時は安定したら、とにかく歩けと医師からも先輩ママさんからも言われ、よく歩きました。ご飯だって、旦那さんと質素な食事を自分で作って食べれば済む事です。家で陣痛まで出来る事を、集団でなければ出来ないというのは、外野が煩いから?そんな事はないでしょう。

以前セレブ出産を扱う医院に勤めていたと言う妊婦さんは、それに否定的で、お産は自然であるべきだと強く思い、この医院を選んだと言います。しかし金銭的な意味では、ここも同じでは?お産にかかる費用は、出産から退院までで普通40万前後。そこには「お産の家」での費用は入っていないはず。少なく見積もっても5〜10万以上でしょう。ここだって、経済的に恵まれた妊婦しか出産出来ないはずです。これも対極なようで、形を変えたセレブ出産では?

ある妊婦さんは、病院でのお産でひどく人工的に介入されとても辛く、それがトラウマとなり子供が可愛くない、それで次の妊娠はここに来たと語ります。ごめんね、新米ママさん、私はここでも情けなくなります。私は次男出産時、逆児だった次男をカンシを使って経膣分娩。上記の妊婦さんと同じく、助産師にお腹もいっぱい押されました。その後胎盤が自然に出てこず、医師の手で掻きだされました。痛いなんてもんじゃない。大量出血して大騒ぎに。血圧は60-30となり、もう寒くて寒くて。ふっと寝てしまいそうになると、看護師さんから頬を叩かれ、「寝たらあかんよ!」「何でですか?すごい眠たいねんど・・・」と言うと「寝たらそのまま死ぬよ!」というお言葉が。25年前のこの時のことは、今でも鮮明に覚えています。

そんなお産でしたが、次男は普通に可愛く、三男はこの作品通りの自然分娩でしたが、別段上の二人(長男は予定日より10日早く破水したため、陣痛促進剤を使用)と違いはありません。私の妹はもっとお産に苦労して、二人とも帝王切開です。しかしそのせいで子供が可愛くないとは聞いたことがありません。というか、お産にトラブルは付きもので、たくさんのお母さん達から、その類の話は聞きますが、やっぱり子供が可愛くないとは聞きません。可愛くない理由は、夫婦間や他に理由があるのに、問題をすり替え安易な所に回答を求めたような気がしました。

高揚して語りまくる自然分娩推進派の産婦たちには、正直げんなりしてしまいました。怖くはないけど、一種盲心的な宗教めいたものを感じます。お産のシーンも何度か出てきます。煽情的なものはなく、神聖な雰囲気は出ているところに好感は持てますが、出産の瞬間だけ映しちゃ、反則でしょ?その前の段階の痛い痛い陣痛を経るから、出てくる瞬間「気持ちいい」わけです。あれだけ観りゃ、「お産=気持ちいい」と誤解されます。お産は決して不浄なものではありません。しかし実際の現場は決して美しいわけでは無く、汚物や血液にまみれるものです。自然分娩を謳うならそこを撮らないのも反則。出産に一番適した言葉は「厳か=おごそか」かな?粛々と行うもので、私は夫や子供には見せたくありませんでしたが、この辺は人によると思います。

とまぁ、前半はダメダメでしたが、後半になると父に反抗する吉村院長の娘、院長に不満のある助産師さん、集まった妊婦さんの様子に圧倒されて、ここで妹は産まなかったと語る助産師さんの言葉、他院に救急搬送されて、帝王で産んだ産婦さんが、素直に医学の力に感謝したりが出て来て、公平な視点を求める監督には、好感が持てました。しかしこの辺も踏み込みが甘い。

娘は他人ばかりに一生懸命で、ほったらかされた実の子の気持ちを訴えます。でもそれは観方を変えれば、医師としての吉村院長への称賛です。看護師さんの不満の中身もわからない。帝王で産んだ産婦さんの言葉が引き出せたのはお見事ですが、最終的に帝王になるなら、助産院ではなく「医院」と名乗るなら、何故吉村医院でオペしないのか?吉村医院は院長以外にも医師はいます。産科は現在全国的に崩壊状態。自分たちの病院でも手に余るはずなのに、どこの施設でも普通に帝王に切り替える分娩を持ち込まれても、正直搬送先は迷惑なはず。提携先の病院関係者にもインタビューすべきです。医師として産科の先進医療に頼る現状を否定ばかりする吉村医師ですが、私には疑問が残ります。

他で経膣分娩は無理と言われたが、ここでは経膣で産めたという産婦さんは感謝の言葉を述べます。でも具体的に何故帝王をすすめられたか、状態の説明はなし。途中で妊娠中毒症が出たらどうするのか、40歳以上の高齢出産の人は受け入れるのか、その辺は全く描かれていません。出てくるのは30前後の健康そうな妊婦ばかりです。ハイリスク妊婦の問題はスルーです。医療現場のドキュメントを撮るなら、最低この辺は描いて欲しい。監督の認識不足は否めません。

ハイライトは一見傲慢に「自然に生まれない者は死んでも構わない。神の摂理だ」と語る院長が、涙しながら本音を語るシーンです。私は五体満足に生まれ母子ともが健康であって当たり前という、現代のお産の風潮には疑問があります。人である以上、どんなに尽力しても、救われない命はあるはず。母子ともに健康であるのは有り難い事で、人ひとりこの世に産みだすのは、今も昔も命懸けであるには代わりないのです。同じ意味の言葉をこの老医師から聞け、その事をわかってもらう術がわからないと言う院長。医師だからこそ悩み苦しみ、自己主張の強いこの信念に辿りついたのだなと、理解しました。

監督は「子供は独りで生まれてくるのではない、たくさんの人の思いを受けて生まれる、その感動を伝えたかった」と語っていました。私も全く同感です。でもそれは帝王切開や人工的に介入したお産でもいっしょです。それが何故吉村医院なのか?は見えてきません。自然に拘る吉村医院は選択肢の一つであるだけだと思います。

私が子供を産んだのは全て個人の医院で、有床診療所でした。エコーでの診察、毎月の検診、要所での血液検査などなど。陣痛が来るまで普通に待ってくれました。なんら吉村医院と違いはありません。違うのは母子が危険ならば、帝王切開も陣痛促進剤も使うというだけです。18年間で、それほどお産現場は変わってしまったのでしょうか?その辺の取材もあった方が良かったです。

私的には未出産の人向けの作品だなぁと思いました。監督によると、昨日母校である高校で試写があったそうで、生徒たちに好評だったとか。多感な時に生と死を真摯に見つける事は良い事で、上手い使い方だと思いました。

産むのは大変ですが、育てるのはその10倍も20倍も大変です。そのうち産み方に拘っていた自分が懐かしい日が来ますよ。自然に拘るもよし、医学の力を借りるのもよし、大事なのは私がお母さんなんだと言う責任です。その気概が持てるなら、吉村医院もありでしょうか?でも私が息子たちの未来のお嫁さんや姪たちに相談されたら、反対します。

未婚の人、産みたいのに授からない人、色々いらっしゃるので、女が子供を産むのは当たり前ではありませんが、普通のことです。それを殊更神格化、神秘的なものとして持ち上げる今の風潮は、私は受け入れ難いです。吉村先生の言う江戸時代のお産も、普通のことではなかったですか?その辺を先生に聞いてみたいです。監督にもね。




2011年01月04日(火) 「黒薔薇昇天」(神代辰巳レトロスペクティブ)

皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

本年初映画です。念願の「ロマポ」&「動く谷ナオミさま」(画像はたくさん観ている)を拝見出来て、春から縁起がいいったら、ありゃしない。実は生まれて初めて日活ロマンポルノを劇場で観る事に、嬉し恥ずかしの私なのでしたが、昨日夫とこんな会話が。

夫「あんた、明日なんの映画観るんや?」
私「日活ロマンポルノ」

夫「・・・。普通の女の人は、一人でそんなもん観にいかんやろ?」(あんたの嫁は、映画に関しては普通の女ではない)
私「知らんか?キネ旬とかで、昔邦画のベスト10にいっぱい入ってたんやで。神代辰巳の特集やねん」

夫「神代辰巳って誰や?どこでやるねん?」
私「・・・。『青春の蹉跌』(これくらいは知ってるかと思っていたら、これも知らんかった)とか、一般映画も撮ってる人や。場所は九条。主演は岸田森。シネヌーヴォって、大阪の映画好きの聖地やねん」

夫「九条て、また微妙な(←それはそうやな)。岸田森て、あの気持ち悪い俳優やな。まぁ行っといで。」

岸田森の名を出したら安心するかと思いきや、これが不信の上塗り。う〜ん、一般人は手強い。巨匠・神代も、夫の前では形無し。これが成田三樹夫なら、夫も「俺も行くぞ」となったと思います。(夫は成田三樹夫が好き)私にしたら、二人とも早逝の名優(怪優?)なんですけど、ポジションは違ったからね。でも大阪で日活ロマンポルノが一般館で上映されるのは、稀有なこと。夫の白い眼もなんのその、頑張ってきました。めっちゃ面白かった!

ブルーフィルム監督の十三(岸田森)は、「ワイは芸術を撮ってるんや」が口癖の男。主演女優メイ子(芹明香)が妊娠のため、出演作を降板するのに頭を痛めていましたが、ふとしたことで老人の妾稼業の幾代(谷ナオミ)を見出し、彼女を主演にすべく、あの手この手で策を練ります。

ポルノ映画の中でブルーフィルムを撮ると言う二重構造が面白いです。「ワイの撮ってるもんは、やくざが作ってるもんとはモノが違う」と鼻息荒い十三ですが、妊娠したメイ子にとっては、男性をその気にさせるもんには変わりなし。彼女が「お腹の子に恥ずかしい」と、降板を申し出るにはすごく共感出来る私。まっ、そういう事して子供は出来るもんですが、それを人前で大公開してお金にするのは、彼女に芽生えた母性が許さなかったのでしょう。

十三は動物園で鳴き声や歯医者での会話など録音して、エロテープ作成の副業をしているんですが、私が爆笑しそうになったのは、土俵を下りてすぐの力士のインタビュー。確かにハァハァ言ってます。頭がエッチでいっぱいになってたら、確かにエロエロに聞こえますわな。いや人間の想像力とは素晴らしい。レスリー・チャンの「色情男女」でも疑似ファックの小道具を作るのに苦心惨憺の場面が出てきますが、実際のポルノ映画の苦労を垣間見ているようです。

で、念願の谷ナオミさま登場。ほぉ〜、気品がある!楚々として恥じらいのある風情が何とも可憐。実際自分の盗聴テープのエロさに恥入り観覧車から飛び降りようとしたり(!)、騙されてブルーフィルムを見せられて、身体をよじって恥ずかしがったり、この辺のお芝居がすごく上手。可憐なのにエロエロという稀有な個性が充満しています。

それでまぁ脱ぐとですね、私はあんな完璧なそそる女体を観た事がない。もうほんと、完璧。ちょっと大きめの美乳になめらかそうな肌。エクソサイズで鍛えました!的ではない、筋肉をまるで感じさせない柔らかそうな肉体です。圧倒的に美しい裸体からは、「私を抱いて〜」オーラが発散しているわけ。でも男性を威圧するところが全くありません。男性のモノなんて、見た事もありませんという感じの令夫人が、セックスしたら一転、あらん限りの情熱的な痴態を見せるんですから、たくさんの男性諸氏の「永遠の恋人」になるわけだわと、すごーく納得出来ました。艶技だけではなく、演技も想像以上に上手でした。

岸田森が圧倒的な存在感で熱演していて、これまた嬉しくてホコホコしました。私的には「怪奇大作戦」や「傷だらけの天使」が印象深い人ですが、カテゴリー「怪優」になるんでしょうか?この作品でも、当時まだ30半ばのはずなんですが、既に頭髪薄く哀愁を誘います。熱気と汗でその頭髪がべちゃ〜となると、怪しくてキモイ。でも「ファックこそ人間最大の崇高な行為!」と、なるほどと、丸めこまれそうな理屈を並べながら、やってることは「あんた、頭おかしいんちゃう?(byメイ子)」と、ほとんど詐欺師か山師なんですが、ブルーフィルムで芸術を撮るという信念は強く感じさせるので、可愛くてちょっとカッコよく見えてくるから不思議。

思えば当時は(今でもかな?)、ポルノだからエロ、巨匠が撮る性がテーマの作品は芸術、というのが一般的な風評だったはず。だから神代監督は、十三の口を借りて「ブルーフィルムで今村昌平はんや大島渚はんの映画みたいな作品を撮るんや!」と語らせたのでしょう。ロマポ監督の意地と気概が言わせたセリフだったのですねぇ。

それと印象深かったのは、「ブルーフィルムを芸術にするには、演じる女性は清潔でなければいけない」という、十三のセリフです。ポルノというと、下品なお色気を振りまく安い女優が出てくるような印象がありますが、それは違います。これもポルノはれっきとした映画だと、エロビデオと混同しがちな世間に向けての言葉なのかも。

ラストは艶笑話的ちょっといい話でした。あそこまでやりゃ関係ないと思うんですが、男性にとって、「イク」と「イカナイ」では大層違いのある事なんだなと、勉強になりました。いやほんまに。

たった一つ気分が悪かったのは、何かというと十三が女性陣の髪を引っ張り回して叩いたり小突いたりすること。暴力も愛情表現の一つみたいな、間違った認識が昔の男性にはあったようですが、これは絶対違いますから。幾代もこれに応じて、「あんたみたいな人、待ってたんよ〜」みたいなセリフが入り、正直ワタクシ激怒。これは教養のない盲想ですんで、努々お間違いなきよう。まっ、拙レビューを読んで下さる紳士諸氏におかれましては、関係ないことですね。

舞台が大阪だったので、昔の戎橋、チラッと映る南街会館、松阪屋の屋上の遊園地など、今はもう無くなったものばかり。わ〜、懐かしいと嬉しかったです。ロケではフィルムに入る人々がじ〜と俳優さん達を観ていて、ゲリラ的に撮ったのかしら?と、低予算の苦労も忍ばれました。ポルノというには、ファックシーンはそれほどなく、ストーリー重視で、女性も観易い作品でした。私は時間の関係で、この特集の他のロマポは観られませんが、21日まで特集はやっていますので、興味がおありの方は是非どうぞ。ヌーヴォですので、女性一人でも安心できる環境です。

谷ナオミは堪能しましたが、多分こんなもんじゃないんでしょうね。いつかきっと劇場で、「SMの女王」たる谷ナオミを絶対観るぞ!小沼勝特集望む!


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