ケイケイの映画日記
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2009年10月01日(木) 「あの日、欲望の大地で」




キム・ベイシンガーとシャーリーズ・セロンが母娘を演じる、メロドロマの秀作。終盤まで本当に丹念に演出していたのに、ラスト近くバタバタして、ヒロインの行動の動機だけを語ってしまったのが、非常に惜しいです。それで全体のインパクトが若干弱まりましたが、「これは私に向けられている」と感じるプロットもあり、私は好きな作品です。

高級レストランのマネージャーのシルヴィア(シャーリーズ・セロン)。仕事の出来る彼女ですが、私生活は既婚者のシェフと不倫したり、行きずりの相手と情事を重ねたり、情緒不安定気味です。ある日、彼女の故郷の南米近くのニューメキシコからやったきた男が、「マリアーナ、あなたの娘を連れてきた」と言います。シルヴィアの本当の名前はマリアーナ。遠い昔、母ジーナ(キム・ベイシンガー)は不倫の最中にトレーラーの火事で、相手とともに死去。ふとしたことから、相手の息子サンティアゴと愛し合うようになった昔を、シルヴィアは思い出します。

イニャリトゥ作品の脚本でお馴染の、ギジェルモ・アリアガの初監督作品。私は何気にこの人の脚本作は全て観ていますが、全部時空いじり系。脚本も兼ねたこの作品も、多分そうだろうと予想していましたが、やっぱりそうでした。普通の脚本は書けないのか?という疑念も湧きますが、これも芸風(作家性ともいう)と思えば、受け入れられないこともありません。

淫蕩な母の血が自分に流れているのを自覚しているシルヴィア。そのことに嫌悪も恐れも抱いています。しかし誰にでも身を任せる彼女の様子は快楽とは程遠く、自分を痛めつけているだけです。実際の自傷行為の様子も挿入、決してふしだらではなく、心の自傷行為に思えます。

母ジーナは、淫蕩だったから不倫したんでしょうか?シルヴィアは四人兄弟。末の妹はまだ小さく夫婦仲も睦まじい、一見良妻賢母に見えるジーナ。彼女は二年前乳がんで乳房を摘出。この夫婦はセックスレス、というより、夫はEDだと描かれています。ジーナの不倫の鍵は、セックスレスによる肉体の渇きからではなく、セックスレスの理由ではないかと思います。乳房を失った自分では、セックス出来なくなった夫。女としての自分への絶望感からではないでしょうか?私はジーナの気持ちが理解できるのです。何故なら私も、もう子宮がないから。

ジーナは、40代後半の設定でしょうか?私の子宮筋腫が発覚したのは、43才の時です。女の40代はとても微妙な年齢で、口では「もうおばさんだから」と言いつつ、どこかしら女としての煩悩が消えない年齢です。そんな時に突き付けられた、女性しか得ない病。否応なしに、自分の「女」と対峙しなければいけません。女性の象徴である乳房や子宮がなくなったら、自分はどうなるのか?これからゆっくりと坂を下るように卒業するはずだった女と言う性。これが他の臓器であったなら、これほどに摘出には悩まないはずです。

幸い私の場合、夫に変化はありませんでした。しかし私の場合は、術式によりお腹に傷も無く、外見は全く以前のままです。しかしジーナは、生きている限り、乳房のなくなった自分と対峙するのです。夫は家族としての「妻」と言う自分は愛せても、女としての自分は愛せないのだ。絶望と哀しみに襲われていた時に、自分を女として観てくれたのが、不倫相手のニックだったのでしょう。失った乳房にキスをし、全裸になっても女として認めてくれるニックに、ジーナが家庭を忘れて溺れてしまったのは、ささやかに彼女に残されていた女と言う性が、一気に燃え上がったからでしょう。私にはわかる気がします。

怒りに任せて、夫の葬儀にも出席しないニックの妻に対して、ジーナの夫はニックの家族への憎悪を募らせても、一度も妻への怒りは言葉にしません。たった一度見せる夫の涙は、妻の不倫の理由がわかっていたのでしょう。夫として不甲斐ない自分を責めているようで、私は胸が締め付けられました。女性疾患を抱えた女性の多くは、この夫婦の哀しみを怖れているのです。

対するニックの家庭は、平凡などこにでもある家庭にように描かれていました。兄と弟であるサンティエゴの父への思いの違いで、ニックを浮かび上がらせています。同じ親の元に生まれても、兄弟によって微妙に親は違う人のように感じるものです。家庭的だったはずの父の全てを否定し、母の心を慮る兄に対して、父を恋しく思うサンティエゴ。サンティエゴが、何故父が不倫したのか、そのことを娘を通じて知りたいのは、自然なことだと感じました。

不審に思いつつ、サンティエゴを受け入れるマリアーナ。これも自然な演出で、彼女もサンティエゴと同じ理由かと思っていたのですが、マリアーナは、誰にも言えない罪を犯していました。そのことへの贖罪・逃避、それがいつしか幼い愛に変化していく過程を、本当に瑞々しく描いています。

マリアーナが出奔し、シルヴィアとなったのは、母から自分へ受け継がれている血を、娘も受け継ぐのが怖かったから、と彼女自らの口から語らせます。ラストまでこれで行きますが、それでは少し底が浅いです。多くの男に身を任せ、愛も快楽もないセックスに身を任せた彼女は、母の血を感じるはずはないのです。ジーナとニックのセックスには、愛も快楽もありました。彼女はその事を目の当たりにしています。

ジーナはどんなにニックとの逢瀬が生きがいとなっても、子供は捨てませんでした。子供がいたから、一度はニックと別れようともしたのです。しかしマリアーナは、子供を捨てた。彼女がそのことに気付き、母への思いを新たにする必要があると、私は思います。この辺の複雑な感情を、「淫蕩な血」とだけで始末をつけようとするのは、それ以外が完ぺきなだけに、非常に不満です。

ジーナの役にキム・ベイシンガーを持ってきたのは大正解。老いの兆しを見え隠れさせつつ、今でも豊かな美しさを誇る彼女が演じるからこそ、女でなくなる恐れと哀しみが、観客に深く届くのだと思います。シャーリーズ・セロンも、美しく撮られようとせず、荒んだシルヴィアの内面を表現することを一番に演じているのがわかります。ヌードも映していますが、決して美しくはなく、ここにも彼女の荒んだ日常が表現されていました。ただの美人女優で終わるものかという、セロンの気迫が伝わってくるようです。

そしてびっくりしたのが、若き日のマリアーナを演じたジェニファー・ローレンスが、あまりに上手かったこと。ティーンエイジャーなのに、笑うシーンもほとんどなく、自分の身にふりかかった不幸を受け入れながらやり切れない、そんなマリアーナを演じて出色でした。他にも娘のマリアを演じた、子役のテッサ・イアの瞳の強さも印象的でした。

生後二日目以来会っていない12歳の娘に、「ボーイフレンドは?」と尋ねるシルヴィア。そんなことしか言えない情けない母親です。しかし最初は反発しながらも、母に心を開こうとするマリア。父サンティアゴの確かな愛情を受けて育ったのがわかります。サンティアゴは、娘の血に流れるマリアーナの存在をも、ずっと愛し続けてきたはずです。シルヴィアがマリアーナに戻るには、サンティアゴと娘マリアの愛情が必要なはず。そう予感させる、密やかな幸福感に包まれたラストが、深い余韻を残す作品でした。


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