ケイケイの映画日記
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2007年01月21日(日) 「サラバンド」

この作品は前回の「ある結婚の風景」は、この作品の続編ということで観ました。私は早くに結婚したせいか、同年代の方々が若い頃観たであろうベルイマンの数々の作品にも縁がなく、現在に至ります。テレビで「秋のソナタ」「沈黙」(多分カットだらけ)、スクリーンで数年前に「叫びとささやき」の三本のみ。「叫びとささやき」は念願のスクリーン鑑賞だったのですが、あまりのすごさに打ちのめされ、帰ってから夕食を作るのがいやになり、本当に大変な思いをしました。そんな経験から2本も観る今回は仕事休みを選び、朝から夕食の支度までやって、いざ朝10時に出陣。

しかし「ある結婚の風景」は大変手応えのある作品ながら疲れも充実したもので、お腹がすくすく。しっかりお昼御飯を食べた後2時半からの鑑賞で、「サラバンド」の方も思ったほど重苦しくなく、ベルイマンの女性への素直な敬意は意外なほどで、これは成熟なのか老いなのか?ベルイマンを知らない私にはわかりませんが、難解な作品ではないと思いました。

弁護士のマリアン(リブ・ウルマン)はある望みがありました。30年前離婚したヨハン(エルランド・ヨセフソン)に会うこと。今は親の遺産が入り隠居生活をしている彼を訪ねることにします。ヨハンにはマリアンとの結婚以前に出来た息子ヘンリック(ボリエ・アールステット)とその娘カーリン(ユーリア・ダスヴェニウス)が近くに住んでいます。ヨハンとヘンリックはお互い憎しみあい、ヘンリックはカーリンを音楽学校へ入れようと、厳しい練習を科していますが、カーリンは母を亡くしたあと、自分を盲愛する父に辟易しています。。滞在するうち、そんな家族の愛憎の渦に、マリアンも巻き込まれてしまいます。

続編と聞いていましたが、完全な続編ではありませんでした。ヨセフソンとウルマンが夫婦役なのはいっしょですが、前回は年齢差が7歳でしたが、今回ヨハンは80代半ば、マリアンヌはマリアンとなり63歳です。そして二人の結婚の前に既に結婚歴があるのはマリアンの方でしたが、今回はヨハンにマリアンと年の変わらぬ息子がいるということは、マリアンヌ以前の結婚相手との子でしょう。そして離婚時の年齢も違い、完全な続編と思い込んでいたので、てっきり「不倫旅行」からどうなったのか?と思っていた私は、少々戸惑いました。キャストとモチーフだけがいっしょというわけです。

日帰りで帰るはずだったマリアンは思いの外長く滞在し、老いた元夫婦は、男は厭味を含めた軽口を叩き、女は少々うんざりしながらもそれを受け止め聞き流し、まるで長年ずっと夫婦だったようです。まるで戦場だったこの夫婦のケンカを観た後だったので、この穏やかな時の流れは、歳月は全てを洗い流すとは本当だなと感じました。

しかしその代わり、父と息子、父と娘の愛憎がもの凄いです。特にヨハンとヘンリックの諍いは50年に渡り、立つこと歩くことも辛そうな老人の息子への憎しみが、思春期に自分に反抗する息子の言葉だというのが、またすごい。後述で自分に似ている息子がいやだという、根底には近親憎悪があるのですが、それにしても、経済的困窮を訴える息子に投げ返す言葉の、あまりの冷たさに愕然とします。

ヨハンのあまりの偏屈さと器量の狭さに、これが離婚の原因かなと思う私。マリアンはそれをいさめる風でもなく、穏やかに受け止めます。それは自分が直接関与したことではないからとも思えますが、ヘンリックやカーリンに自ら関わろうとする姿を観ていると、そこにはヨハンを憂いての気持ちがあったのでは?と感じます。昔のマリアンには、こういう芸当は出来なかったはず。男が一向に成長せず更に粘着質になっているのに対し、女の方は離婚を糧に成長している様子を描いていたと感じました。

一方息苦しい父親の愛に苦悩するカーリン。母が亡くなったことで、父ヘンリックが彼女へ一心に愛を注ぐ感情は、普通は理解し易いはずですが、しかし常軌を逸した二人の間柄の描写が、観ていて辛くなります。しかし私が疲労困憊になった「叫びとささやき」の辛さに比べれば、まだ軽かったかな?ヘンリックを間に挟み、ヨハンとヘンリックが憎しみだけなのに対し、ヘンリックとカーリンには激しいぶつかりあいもありますが、お互いを思う愛もあります。憎だけではない、愛憎です。

生前のカーリンの母は素晴らしい女性だったらしく、三人ともがその愛の深さを褒め懐かしみます。自分の愛する孫や、良い嫁だと好意を持っていた女性の愛をヘンリックが受けたことが、ヨハンの息子への憎しみを増大させたかと感じました。嫉妬です。しかしヨハンはここで重大な見落としをしています。「何故あんな素晴らしい女性が、息子についていったんだ」と語るヨハンですが、それが回答でしょう。ヘンリックだから、妻も娘も愛を与えようと思ったのでしょう。これがヨハンでも同じだとは限りません。

父親がいなければ何も出来ないと怯えていたカーリンの選択は、親から自立する娘として、立派なものでした。四面楚歌の状態から、周囲にも自分にも最良の選択を選んだ彼女の賢さが嬉しいです。その娘の選択を喜べぬ父の選択は、予想通りで惨憺たるもの。「叫びとささやき」では、あんなに女に厳しかったのに、この作品ではいやに男のダメさ加減が目立ちます。

しかし夫婦の憎しみ合いが年月が忘れさせてくれるのに対し、親子の確執が一向に消えないのは、ヨハンの性格だけではないはず。その辺が「血は水より濃し」を感じさせ、他人の夫婦より、より根深いものを感じました。

私が印象的だったのは、夜怯えて眠れぬヨハンがマリアンの寝室を訪ね、お互い服を脱いでいっしょのベッドで眠りたいと言う場面です。あれだけ偏屈で強固な自我を見せ付けていた老人が、まるで幼い子供のようです。素直にその求めに応じるマリアンは、聖母のように観えました。この年の老人がセックス出来るとは考えにくいので、老いた男女において、裸でお互いの存在を確かめ合うのは、セックスの代わりなのでしょう。

「ある結婚の風景」の愛も憎しみもぶつけ合う嵐のようなセックスから、「サラバンド」では、スクリーンから穏やかで心地よい感覚が漂います。男はいつまでも女の肌の温もりを求めるものなのですねぇ。そういえば「蕨の行」の中でも、そんなシーンがあったっけ。本来セックスは体の快楽だけはなく、心も癒すものなのでしょう。「欲望」の中で、「二人で裸になって眠りましょう」という類子の言葉を支持した私には、嬉しい演出でした。

「ある結婚の風景」の最後で、「私は誰も愛さず愛されなかったような気がする」と怯えたマリアンヌですが、今回のマリアンの慈悲深さには、充分愛が見えました。そしてラスト、精神を病んだ娘が、母マリアンに見せる久しぶりの笑顔は、愛とは自分が人に与えてこそ与えられるもの、そんな気がしました。これはキリストの教えだったでしょうか?

「ある結婚の風景」から比べると、ちょっと物足りないですが、やはり二つ続けて観て良かったと思います。私にはちょうど良い年齢でのベルイマン体験なのでしょう、少しハマリ気味です。特集上映はまだありますので、何とかもう少し観たいと思います。


2007年01月19日(金) 「ある結婚の風景」(レトロスペクティブ イングマール・ベルイマン)

昨日「サラバンド」の前編と言われるこの作品と「サラバンド」を、30分の休憩を挟んで5時間弱かかって観て来ました。既婚者なら是非観た方が良いと聞いて幾歳月、やっと念願叶ってスクリーンで観て来ました。しかしスクリーンと言っても、上映は大阪の映画ファンにはお馴染みの九条の「シネ・ヌーヴォ」の二階に新たにこしらえた、まるで試写室のような「ヌーヴォ・X」での鑑賞です。しかしこれがこの壮絶な夫婦劇を見せるのにぴったりの空間でした。まるで私の目の前で、白人夫婦がケンカしているようなのです。結婚10年目の夫婦を25年目の私が観ると、様々な当時の感情が蘇り、一口では言い尽くせぬ感慨をもたらした作品です。

ヨハン(エルランド・ヨセフソン)とマリアンヌ(リブ・ウルマン)の夫婦は42歳と35歳の結婚10年の夫婦。ヨハンは心理学を専門にする学者、マリアンヌは主に離婚を扱う民事の弁護士で、子供は女の子が二人。何不自由なく幸せに暮らしているように見えた二人ですが、ある雑誌のインタビューにより、微かに考え方の違いに気がつきます。それ以降少しずつ諍いが増え始め、ついにヨハンは女学生と不倫、それがきっかけで二人は別居し、離婚に至ります。その後二方再婚ののちの、再会までを描いた作品。

元々は本国スウェーデンで、50分6回だったドラマを、映画用に三時間弱にまとめたものです。「自分自身に対してどう思うか?」というインタビューの質問に対し、美辞麗句を挙げ募るヨハンに対し、弁護士という社会的地位の高い仕事についているにも関わらず、控えめに平凡な職業婦人だと語るマリアンヌ。二人の現在の環境や過去を、これで語らせながら、少しの違和感をも感じさせる上手い演出だと思いました。

インタビューの内容がきっかけで、親友夫妻の壮絶なケンカを見せられて、自分たちは違うと確認したい妻。無関心な夫。これも私のような年齢の妻なら経験済みのことです。違うと確認したい妻の本心は、不安があるから。しかし夫とて、無関心を装っているのかも知れません。それを鈍感と捉えているのかも。

インタビューでは、両方の家族とも円満だと言っていたのに、妻は毎週どちらかの家族と夕食を共にするのがいやだと言います。自分の家族だけで水入らずで時間を気にせず過ごしたい。インタビューの答えは建前なのですが、ここから建前と本音が随所に表れます。気になったのは、この夫婦は会話が多過ぎること。会話の少なさが不仲の理由と言われることが多いですが、一概にそうだとは言えません。話し合いは本音を語ってこそ値打ちがあります。どちらとも正しいと取れることを主張したり、自尊心が傷つくからと、本音を隠して問題を摩り替えて話し合ってみたところで、問題は解決せず、不毛な感情が往ったり来たりするだけです。二人を見ていると、それがわかるのです。何故ならば自分が通ってきた道だから。

そうこうしているうちに、ヨハンは若い愛人を作り、別居したいと言います。最初は全て自分が悪いと言っていたヨハンですが、話すうちに激高して、「夫婦のこと、親のこと、子供のこと、全ていやになった。仕事もだ。自由になりたい。いつからそう思っていたと思う?4年前からだ!」と吐き捨てます。「全然知らなかった。私バカみたい・・・」と呆然の妻。「君は鈍感だからな」と語る夫の横顔は、私は皮肉っぽいのではなく寂しげに観えました。愛人はきっと心の隙間に入ってきたのでしょう。彼女でなくても良かったと感じました。

有能な弁護士として良き母として主婦として、完璧にやってきた妻。表面だけ観れば夫の戯言、我がままです。絶対夫が悪い。しかし夫の4年間の感情に気づかず、むしろ良い状態になってきたと思う妻は、夫の心に鈍感ではなかったか?忙しい毎日の中、仕事や子供には手を抜けない。必然的に夫の心に気を配る時間はなくなっていたのではないでしょうか?話は会話ではなく、要求ばかりになっていたのではないでしょうか?一見夫だけが悪いように思えますが、私は両方に非があるように思えます。

夫に取りすがり、友人に電話をかけ、半狂乱になって出て行く夫を止める妻。こんなみっともなく情けないことは初めてでしょう。半年後一旦帰宅した夫。穏やかに話そうとしてはけんか腰になり、しかし離れることの出来ない二人。カウンセラーに勧められて自分の幼い頃からの心情を吐露するノートを一生懸命夫の読む妻。しかし夫は寝ています。落胆する妻。ここで涙する私。うちの夫というのは、私がどういう「人」であるかは気にならないのです。気になるのはどういう「妻」か「自分の子供の母親」かということ。私は夫の「人としての有り方」に始終気を配るのに、どうして私には「人」としての成長を求めないのか?私も何度自分の感情を訴えたかわかりません。

あきらめの境地に辿り着いた時、子供が自分の母親はどんな女なのだろうとか、どんな人なのだろうとかは、気にしないのではないかと、ふと考えたのです。娘なら母の背景に思いも馳せるでしょうか、息子ならまずないこと。夫というのも、そんなものではないかと思ったのです。自分にとって目の前の女は「自分の妻」以外の何者でもないのだから、「妻」としか見えないのは当たリ前なのです。妻として求め妻として愛してくれているならば、それでいいのではないかと理解すると、私の心は晴れました。それは結婚20年くらいのことです。

その後の長き別居の果て、結局離婚する二人。しかし署名する段まで来て、また壮絶な罵りあいがあり殴り合いがあり、すごいです。あんなに毛嫌いしながら、最後の一歩まで迷いセックスまでする。まだ夫婦なのです。別居の逢瀬の時にも必ずセックスがありました。罵りあい罵倒しあっても、セックスしてしまう、それが理屈抜きの夫婦なのですね。あぁ凄まじい・・・。夫婦のセックスは、長年暮らすとお互いが男と女だと確認する行為でもあるでしょうが、他人だと認識することでもあるなぁと感じました。

二年ののち、何と別々の配偶者がいるのに旅行に来ている二人。観劇で偶然ヨハンを見かけたマリアンヌが、彼のあまりの寂しげな様子に切なくなり声をかけたからです。このプロットに食い入るように画面を見つめる私。

あれは結婚15年くらいの、夫に不満がいっぱいあった時です。ある晩の私の夢は、夫とは離婚して今よりもっと経済的にも豊かに暮らせる男性と再婚し、彼は子供達にもとても良き人です。そんな再婚相手と町を歩いている私は夫と偶然再会します。結婚していた時よりやつれた夫は、私に「元気か?幸せそうで良かった」と微笑んでくれます。私は何故この人と別れたのか、心底後悔して号泣するのです。今思い出しても、あの夢の中の気持ちが蘇り涙が出るほど。この夢が忘れられない私に、マリアンヌはぴったり重なりました。奇しくも旅行に来た日は、ヨハンとマリアンヌの「結婚20年目の記念日」だったのです。

この作品のヨハンには、女優達と数々の浮名を流したベルイマン自身が投影されているとか。マリアンヌ役のウルマンも、長きに渡って公私のパートナーだったはず。愛人に妻役をやらせるとは、一見非情に見えますが、ウルマンに、自分の妻の気持ちを体感してもらい、それを妻に観てもらいたかったからでは?私にはそれがベルイマンの、妻への侘びに思えるのです。

しかし国は違えど、寸分違わず夫婦の事情はいっしょのようです。自分が夫婦ケンカしているかの如く疲れました。結婚10年の時、私はいっぱしのプロの妻だと不遜にも自認していましたが、当時の自分とかぶるマリアンヌの妻としての未熟さに、あの時の私は人の年齢で言うと、15歳くらいだったのだなと思いました。幼くはなくはないが、まだ世間を知っているようでわかっておらず、感情にムラがある思春期、そう感じました。

「今日ベルイマンの映画観てきてさぁ・・・」と、かいつまんで食事時に感想を言う私に、気のない返事を返す夫。そりゃそうでしょうよ。ベルイマン先生の作品どころか、名前も初めて聞く我が夫。話してもわからぬ人に、自己満足で会話をしてもせん無いこと、と学習していたからね。『いつもふたりで』で、ホテルで向かいあって雑誌を読みながら、無言でコーヒーを啜る中年夫婦を、「あんな風にはなりたくないわ」とオードリー・ヘップバーンは言いますが、これはオツなもんですよ。うちもそんなシチュエーションはよくありますが、まったりのんびり、良いものです。よくここまで来たなぁと、つくづく感慨深いです。よくぞ別れず頑張ったよ、「二人とも」。多分私は離婚することはないでしょうが、「絶対」とは言えないのだと、この映画は教えてもくれるのです。


2007年01月17日(水) 「ラッキーナンバー7」

前々日の「愛ルケ」の悪夢を払拭すべく、本日観てまいりました。豪華キャストの奏でるクライムサスペンス、という触れ込みの割には、イマイチ地味な扱いですが、普通に面白かったです。

スレブン(ジョシュ・ハートネット)は災難続き。失業した日に住んでいるアパートはシロアリにやられ立ち退き、恋人の家に行けば彼女は浮気の真っ最中。仕方ないので友人のニックを頼ってNYへやってきた直後、強盗に財布を盗まれる始末。やっとこさアパートに着くとニックは不在。鍵の開いている部屋を不審に思いながらシャワーを浴びた直後のスレブンを、「ボス」(モーガン・フリーマン)と呼ばれる大物ギャングの手下が、ニックと間違えて拉致します。彼はニックに間違えられたまま、ある殺人を依頼されます。しかしその様子を観ていた、敵対する「ラビ」(ベン・キングスレー)と呼ばれる別の大物ギャングの手下に拉致されます。こうしてニックに間違われたまま、スレブンは闇組織の抗争に巻き込まれますが・・・・。

豪華出演者は、他に殺し屋のブルース・ウィリス、ニックの隣の住人にルーシー・リュー、刑事にスタンリー・トゥッチなど、カスミソウのような地味な華も兼ね備えた実力派ばかり。前半は一瞬で相手を仕留める殺戮場面や、一転してスレブンが間違われるシチュエーションをコミカルに見せたりを、強弱つけて見せてくれます。コミカル場面は、まったりしたユーモアがあります。少し間違うとぬるいユーモアで笑えませんが、この豪華キャストが功を奏したようで、アンサンブルが楽しめ私は素直に笑えました。

二転三転のドンデン返しが魅力との触れ込みですが、私のように何の前フリも仕入れず観た観客でも、最初のブルースの語る昔話は、きっと重要なのだとわかると思います。その後のドンデン返しの主の微妙な言動で、これはもしや・・・と思い始め、ある行動に出たときの俊敏さで確信に変わるはず。なのでこれはそれほどでもないなぁ。

辻褄合わせのために、ちょっと無理しているなぁと思うことも、無きにしも非ずですが、ある程度伏線には始末をつけていますし、あっ!あっ〜〜〜!という驚きはないけれど、合格点はあげても良いと思います。それにね、悪い奴は映画の中でくらい、バッタバッタ死んでくれたらスカッとするってもんです。ちょっと腑に落ちない殺人もあったので、最後のドンデン返しはだいぶ甘甘なんですが、この方が気分いいので、良しとしようか。

主役のジョシュはカッコイイ!私は同年代のオーランド・ブルームより彼の方がご贔屓で、「ブラック・ダリア」でも、若々しい色気と精悍さをみせていましたが、この作品ではプラスユーモラスな面も見せて、なかなか上手くこなしています。ルーシーは雑誌などでは魅力が伝わりにくい人で、動きのある役柄だと、とてもチャーミングです。この作品でも東洋人は若く見える素養を生かして、セーターにミニスカート、ボヘミアンっぽいジーンズ姿などガーリーファッションも思いの外似合っていました。早口で陽気な女性をとても可愛く演じていました。他の大御所たちも無難に演じて○。スタンリー・トゥッチは、どんな役でも暑苦しくなく好演するところが、私は好きです。

この作品、「あの時」殺し屋が入れ変わっていれば、なかった話なんですよねぇ。やっぱり人生は運に左右されるもんってとこでしょうか?ではこれにくらいに。一番大事なのは、何も仕入れずに観る事です。
今年のベスト10に入るような傑作ではありませんが、小気味の良い拾い物としては、充分楽しめるかと思います。


2007年01月16日(火) 「愛の流刑地」

私の天敵の、愛欲に狂う子持ち女が、間男に殺されるお話。でもね、「ハッピーエンド」とか、「運命の女」とか、好きな作品もあるんですよ。原作は渡辺淳一の情痴小説です。この手は「失楽園」は元より、「ひとひらの雪」「化身」など、もうええって、というほど映画化されており、最初はパスのつもりでした。しかし監督が鶴橋康夫と聞き、俄然注目度アップ。鶴橋康夫は、長年読売テレビで腕を揮った名ディレクターで、数年前に会社を定年退職。それを知らないまま、TBS系の二時間ドラマを観ていた私は、あまりの面白さにこれは何か特別番組かと思いきや、クレジットに彼の名前を見つけて納得。それほど凡庸な演出とは一線を画すドラマを作る人です。ずっとドラマに拘ってきた人が、満を持して監督した作品。期待は高かったですが、ほんとに鶴橋康夫か?と目を疑うほど、私にはダメでした。

村尾菊治(豊川悦史)という元流行作家が、情事の果てに女性を殺したと警察に電話します。女性は入江冬香(寺島しのぶ)という夫と子供が三人いる人妻です。情事の最中に冬香に「殺してくれ」と求められるまま、首を絞めた菊治。その果ての死でした。彼女に頼まれたからという村尾の証言が焦点となる裁判中で、菊治と冬香の愛が浮き彫りにされていきます。

渡辺淳一の情痴小説は、中身はくだらない内容が多いのですが、それを性への探求と読ませる工夫があり、伊達には遊んでいない渡辺氏の、自身を投影している主人公の語る薀蓄も適当に興味深く、どうしても女遊びが止められない男達を、しゃあないなぁと、可愛げある風情に感じさせてくれるので、読んでいる間は結構面白いです。しかしこの映画、それもない。

のっけから殺人に至った情交場面が映されますが、まぁ確かに多少は刺激的ですが、びっくりするほどのもんじゃないです。この最初のシーンに限らず、これでもかとセックスシーンが出てきますが、正直全部一本調子の演出です。一般映画の場合性描写というのは、ただ卑猥に扇情的に見えれば良いというのではなく、そこに登場人物の感情が込められなくてはいけないと思うんですが、これが同じようなものが繰り返されるだけ。最初こそ恥ずかしげだった冬香ですが、あれだって子持ちの主婦が夫以外の男と初めて一線を越えるのは、ものすごいエネルギーがなくちゃ出来ないもんでしょうが(未経験なので想像)、いけないわ、とか言いながら、この奥様軽々超えたように私には見えました。イーストウッドが監督した「マディソン群の橋」のメリル・ストリープは、もっと悩んでたけどなぁ。悩むシーンがあるかなしかで、女性客の感情移入は違ってくると思います。何が観ていて疑問かというと、この冬香、罪悪感の描写が一切ないんです。

冬香の性は菊治によって開発された、と描きたかった模様ですが、それにしては性描写からは段々大胆になった様子もそれほど見えません。なのでやれ子供が熱を出したのに連絡がつかなかったり、家族と過ごすはずの自分の誕生日に菊治と逢引したり、子供を学校に送り出してから息せき切って、逢瀬を重ねる様に説得力不足。狂おしさがあまり伝わって来ません。この辺はR15にせず18禁で作ったら、この辺りの不満は解消されたはずです。だいたいこの題材で、高校生が観るか?その辺に作る側の中途半端な思惑を感じます。それにしてもこれくらいの描写で、なんばTOHOは女性専用にスクリーンを用意するなんて、いつの時代の話?

女検事の長谷川京子がどうしようもないです。被疑者取調べで、あんな胸の開いたタンクトップ着るか?女女した口調や噂話を審議にかけるような取調べの内容も失笑もの。法廷でも胸が開いた服をやたら着るし、カツゼツも悪く、職業柄の厳しさや知性が全く見えません。この検事、自分も不倫しているのですが、その女の情念を表現したいようなシーンも出てきますが、普段から発情している風なので落差がなく、そのシーンも盛り上がりません。どうしてこんなキャラにしたのか、私には意味不明です。

冬香は仕事で忙しすぎる夫に不満があったのは、夫役仲村トオルの法廷での証言でわかりますが、それにしては回想シーンで子供と遊んでいたり、父親を見つけて、子供達がパパーと飛んで走るシーンなどの挿入もあり、これもいったい何を言いたいのかわからない。夫と子供は別物ですが、女は良き夫ではなくても、良き父親なら、少しのことは我慢出来るもんです。今のご時世では子供が三人居て専業主婦というのは経済的に恵まれているのでしょう。いくら夫が会社人間だったとして、その不満のはけ口に見出したのが開発された女体とは、いかにも男のファンタジーです。冬香は元から淫乱だったのだと表現したければ、(以下上の文章参照)。

冬香はセックスの最中、「殺して・・・」と始終言うようになり、その結果が殺人なわけですが、その結論付けは、子供を捨てて菊治の元へ行くことも出来ず、迷いあぐねた選択が、菊治に殺してもらうことで、菊治の最後の女にとなり、一生彼を我が物にしたいということらしいです。これが菊治が法廷で叫ぶ、「あなたは死にたいほど、人を愛したことがありますか!」の絶叫の主旨なんですって。へぇ〜〜〜〜〜。

好きにすれば。

ホントにね、月光院の方が三倍くらいましです。だいたい死にたかったら、自分で死ねば?こんな情事の最中に死んだら、格好のワイドショーネタになり、自分の子供達がどんな思いをするか、わかるだろうが?菊治の元妻に「あんたも首を絞められたのか?」と下卑たいたずら電話がかかってくると出てきますが、それなら仲村トオルも、「あんたの嫁さんは、あの最中にしょっちゅう首を絞めてと言ったのか?」とからかわれるだろうが。エリートサラリーマンが出世の道も断たれるだろうし、そうすると路頭に迷うのは子供達だよ。まぁここまで頭が回れば、あんなことしないか。要するに浅はか過ぎるわけ。それをご大層に至高の愛みたいに言うから腹が立つのです。ただの幼稚な中年男女じゃん。

しかし淳一さまの原作は、人妻と旅したり、エッチの最中で死んだりが多いなぁ。人妻と旅行ってそんなに興奮すんの?これは今回、多くの渡辺作品で著者を投影した人物を演じた津川雅彦が、「年を取ると先を考えて、もう手が出ないよ。」と語ったように、現実ではもうないことなので、作品の中で夢を描いているんですかねぇ。

寺島しのぶは、演技は上手いです。でも美しくない。同じ脱いで濡れ場を演じた「赤目四十八滝心中未遂」で、安娼婦役があれほど美しかったのに。菊治が何故夢中になるのか、彼女がどういう女性なのかがイマイチ観えてこず、あれでは今まで夫で満足出来なかったのが、満足させてくれたのが菊治だった、だから夢中になった、だけに観えます。魔性の女としてもファムファタールとしても、色艶が不足。寺島しのぶはせっかく演技力があるのですから、もう30半ばだし、脱ぎがOKだからでキャスティングされた作品は、辞めた方がいいと思います。

トヨエツは・・・まぁこんなもんかな?幼稚な愛を大人の愛のように語れても、世間並みの知恵のある大人ではないです。だいたい「これ以上冬香をさらし者にしたくない」だとぉ?あんたも娘がいんだろうが?それなりに名前も知られた作家の娘だってみんな知っているのに、殺した女の世間体より、自分の娘が晒されている世間の冷たさを思いやれんのか?(ムカムカムカ)菊治もまた、スランプに陥っている時、自分のファンだった女の体を開発した、それが男としての自信を取り戻すきっかけとなり、彼女にのめり込んだだけに感じました。

ちょっと激しい濡れ場を連続して見せれば、狂おしい愛を描けるってもんじゃないでしょう。あれでは肉欲に溺れている自分たちの言い訳に、愛を持ち出しているようにしか思えません。

いい年をして愛に狂うも性に狂うも、それはその人の責任において全然構わないと思います。むしろ、人生の老いらくにそんなことがあれば、それは一つの幸せでしょう。しかし一度人の親となったら、その子が成人するまで、親としての自分を一番に考えなければいけないんじゃないでしょうか?それをこの二人は全く責任感がありません。バーのママが語る過去の修羅場の話は、これこそ不倫の代償として受けなければならない罰のはず。本来なら、冬香は家を出て菊治の元に行き、子供達とは一切会わない、会えない状況に自分を追い込み、甘美な肉欲と身を切られるような辛さとを両方味わうべきだと思います。そこで彼女が何を感じ何を取捨選択するのか?女の不可思議な性を描くなら、そういう内容だと思います。が、これは性の伝道師淳一さまの原作ですから、情事の最中死ぬのが肝心なんでしょうね。

劇場はレディースデーでもないのに、超満員でした。これが至高の愛だと受け入れられたら、私は哀しいなぁ。


2007年01月14日(日) 「デート・ウィズ・ドリュー」


観て来ました!しかし観るまでに長い道程が。大阪では昨日から公開のこの作品、なんばTOHOのみの公開で、実はレディースデー狙いでした。しかし上映時間が12時の次は何と4時20分!映画は6時までなので、ダッシュで帰っても帰宅は6時半。水曜日はチビの塾があり、その頃には夕食は終わっていなきゃいけません。まずい・・・。家族の世話に支障をきたす時間に鑑賞はしないのが私のモットー。仕事休みの今週木曜日は、ヌーヴォでベルイマン2本を組んでおりアウト。ぼやぼやしていたら、レイトのみになってしまうじゃないか。

と思っていたら、昨日は夫が一旦帰宅後また仕事へ。いつもは土曜日は遊び呆けている次男が、昨日は珍しく家にいるというので、チャンス到来。三男と留守番してもらうことにして、4時20分の回を観ることに。しかしまたここで問題勃発

午前中は三男の公式戦の応援に行き、とっとと家に帰ってネットで割引券を出そうとしたら、なんばTOHOがない!ナビオもなくなっている!そんな殿様商売していいのか、東宝!と怒っている暇なく、なんば近辺のチケット屋に電話かけまくる私。でも全部「なんばTOHOはありません」の返事。たま〜にローソンで、公開中の作品も前売りが売っているので見て来ましたが、ありませんでした。凹んでいる私を見た次男が、

次男「チケット屋て、なんぼ安なるん?」
私 「多分300円か500円」
次男「・・・。お母さん、その金俺があげるから、観ておいで・・・。」

ありがとう息子。良い子に育ってくれて母ちゃんは嬉しいよ。でもね、1800円がないわけじゃないのだ。お母さんは1800円で映画を観るのがいやなの!一介の主婦がね、これだけの本数の映画を観るのは、金銭的にも時間的にもやっぱり贅沢ですよ。それを「私が働いたお金やんか!家族に迷惑かけてるわけちゃうやん!」などと不遜な思いを抱いたら、もう主婦として終わっているでしょ?だから少しでも安い値段で映画を観るのは、私の家族へのちょっぴりの償いなわけ。もちろん自己満足なんですが。そう思うなら、もっと本数減らせって話なんですがね。

あきらめきれず、またネットでチケット屋を検索し直し、最後の最後のお店でヒット!「19日までの分なら1300円です」の美人のお姉さん(多分)のご返答にやっと鑑賞決定。ああ神様!夕食の支度を済ませた後、3時30分に家を出発。なんばTOHOを通り過ぎて「チケットキングなんば店」(お店の名前くらいだしちゃおー)まで行き、無事購買。とって返してなんばTOHOまでや〜と辿り着きました。いや〜往生しまっせ。しかしその苦労の甲斐あった作品でした。

ブライアン・ハーズリンガーは、現在求職中の27歳。金なし恋人なしの行き詰った現状です。ある日クイズ番組で1100ドルを獲得した彼は、生活費に使えばなくなってしまうお金、何か価値があるものに使いたいと思います。浮かんだのが6歳の頃から大ファンの、ドリュー・バリモアとデートするということ。この試みを映画にすべく、友人のジョンとブレッドの共同でドキュメントを撮る事にします。撮影用カメラはお金がないので30日間で返却すれば、返金されるという制度を活用。なのでタイムリミットは30日!ブライアンはドリューとデートすることが出来るのか?

最初ことの経緯を説明するブライアン君を見て、あれ?結構可愛いじゃないかと思いつつ、手の甲のお猿さんのような毛が気になる私。次のシーンに映った彼は、ヒゲが濃くてまるでイケテない。彼は多毛症なのでした。自分の胸毛を見せつつ、自分ってイケテるか?ドリューをどう思う?と道行く人々に聞いてまわる彼は、ドリューのためなら、胸毛も脱毛していいと言います。そんな健気さにちょっと彼に好感を持つ私。

まずは友達の友達は皆友達だ作戦で、ちょっとでも映画にコネがある人を辿って必死でドリューまで辿り着こうする姿は一生懸命です。並行して彼女に相応しい人になろうと、シェイプアップに励み、フェイク・ドリューとデートの予行演習をしたりと、涙ぐましいこと。本来なら無職の息子のおバカなこの試みを止めてもいいのに、「ドリューはアバズレじゃないの。キャメロン・ディアスにしなさい」と、ピントのずれたナイスボケをかます、ブライアンのママが良い味です。本当はすっごく息子の行く末を心配しているはず。でもそれをグッと飲み込むのは、息子を信じているからなのでしょう。

有名プロデューサーが協力を了承してくれたり、名ナレーターが「面白かったから」とノーギャラで予告編に出演してくれたり、たくさんの協力者が現れるのに、なかなかドリューまで辿り着けません。刻々と過ぎる日々にあせるブライアン。職探しもままなりません。「僕は何か誇れるものが欲しいんだ」。彼は今の五里霧中な状況の中(若いから四面楚歌じゃありません)、ドリューとデートすることで、今の自分から変わりたいのです。そしてバカにする人はいても、ジョンやブレッドを始め、協力する人も皆冷やかしではなく真剣です。「デート・ウィズ・ドリュー」は、彼の今の人生全てが懸っているのだと悟ると、ここで私の涙腺は決壊。

ブライアンたち三人はHPで見ると、大学は映像を専攻していたようです。ドキュメンタリーにも演出があり、作り手の思惑が入るのは周知の事実です。彼らもそのノウハウは知っているでしょう。この私の涙も、彼らの思惑通りとみることも出来ます。しかしこのドキュメントはそれだけの値打ちなのでしょうか?その憶測は上の画像の、本人よりシャープなあご、ほっそりした二の腕、お腹に修正されたドリューを観るくらいの、些細なことだと思うのです。

この画像が実物とはかけ離れた美女に修正された私なら、ブライアンは見上げて憧れてくれるでしょうか?答えはノー。ブライアンはドリューの外見だけではなく、中身も愛しているのです。例え上手くお話が組み立てられているとしても、プレミアで壇上に上がるドリューに、見えない位置から力いっぱい手を振るブライアン、彼の真剣さに打たれて、激励の気持ちを込めて、別れ際ブライアンのリップにキスするフェイク・ドリュー、あれは真実だと思います。思わぬ幸運に照れる彼もまた真実。何よりドリューとデートすることで、「人に誇れるものを持ちたいんだ」というブライアンの心に嘘偽りがないのなら、私は他はすべてヤラセでも構いません。それが一番大切だと思うから。

しかし相手がドリューというのは、とっても効いていました。芸能界の名家に生まれ、子役スターとして脚光を浴びるも、酒やドラッグで一時は転落。再起不能もあったはずなのに、鮮やかに蘇り、スクリーンに戻ってきた彼女。自分の人生、こんなはずじゃなかったと思う多くの人に、彼女ほど希望を与える女性はいないから。

はてさて、ブライアンはドリューとデート出来たのか?その続きはどうぞ劇場でお確かめを。それではドリューの座右の銘を贈ります。

「リスクを冒さない生き方は、人生の浪費である」


2007年01月12日(金) 「あるいは裏切りという名の犬」


とても良かったです。久々のフレンチノワールという触れ込みのこの作品、最初はどうしようか迷っていました。しかしロバート・デ・ニーロが版権を取り、ハリウッドでリメイクが決定。そして相手役はジョージ・クルーニーが決まり、監督には「チョコレート」のマイク・フォースターが噂されていると聞き、多分そちらは観るので、その前にちょっと鑑賞くらいの軽い気持ちでした。上映中のテアトル梅田は会員なので、いつでも千円だしね(←重要ポイント)。私は入り組んだ人間模様や、人物描写の深すぎるというか濃すぎるフランス映画がイマイチ苦手で、同じ濃いなら能天気で明るいラテン系が大好きなのですが、しがらみや裏切りを単純に白黒つけず、紫煙やお酒が全部「大人」を表現する香りづけになっているのはさすが。見事なおフランス映画です。

パリ警視庁の警視レオ(ダニエル・オートゥイユ)とドニ(ジェラール・ドパルドュー)。それぞれBRI(探索出動班)とBRB(強盗鎮圧班)に分かれて手腕を競っている優秀な刑事です。かつて二人は、カミーユ(ヴァレリア・ゴリノ)を愛し、彼女は今はレオの妻です。それが元で友情の壊れた二人は、現在次期長官を争うライバルとなっています。パリの町に頻繁に起こる連続現金輸送車強奪事件を追う二人。犯人を挙げた方に、長官の座を譲られます。犯人をあることがきっかけで追い詰めるレオですが、そのことをドニに密告され、刑務所送りになってしまいます。

刑事という職業は正義感が命だと思うのですが、レオの表し方はかなり刺激的で強引です。しかし嫌悪感はなく、自分の正義を貫くには、手段を選ばない人で、かつ自分の欲得は二の次な人という印象です。それが彼の弱点でもあるというのは、のちのちわかり、上手くレオという刑事の個性を表しています。

仲間に慕われ、常に良き同僚に囲まれるレオに対し、ドニは上昇志向が強く、周りから嫌われている様子が伺えます。何故彼がそうなったかは、全てカミーユの愛を得られることが出来なかったから。美しく聡明な妻の愛情も受け取らず、常にレオの上を行かねば、自分の心を持ちこたえられないのでしょう。自分の使う情報屋に「お前には俺しか友達はいないだろう?たまに電話しろ。元気なのか気がかりだからな。」と言い放ちますが、それは自分自身を語っているのです。

刑事と言ってもその捜査の仕方は、密告・裏切り・様々な駆引きがあり、一般に想像する正義ではありません。刑務所の塀の上を歩いているようなレオとドニが、片方が刑務所の中に落ち、片方がシャバに留まる様子は、一般的な正義感とは違うものでした。しかし現長官の、「お前のような男は・・・(ネタバレにつき内緒)」という侮蔑の言葉や、ドニの卑劣な人柄についていけない女性部下の、「あなたは亡霊に必ずしてやられるわ」という言葉も、この重みをただの遠吠えとせず、伏線としてきちんとケリをつけたのも見事でした。

ドニについて、これでもかと卑怯者の烙印を作品の中で押しながら、彼の周囲に漂う言い知れぬ哀しさはどうでしょう。愛する女の愛を得られなかった、その一点に彼の人生は集約しているのです。どんな権力を得ようと、ドニの心は乾いたままなのですね。男の映画は、また女の映画でもあるということを感じさせるのが、本当にフランス的です。それを不男と言ってもいいドパルデューで、より強く感じさせるのもとってもおフランス。

オートュイユ、ドパルデュー他、懐かしのミレーヌ・ドモンジョなどを初め、熟年世代の俳優の、皺も肌の毛穴の老いも容赦なくスクリーンに映すのに、この人としての、男としての、女としての現役感は素敵です。年齢とかけ離れた爽やかさや瑞々しさで現役感を表現するのではなく、年相応の成熟でそれを表す様子も素晴らしい。いや参りました。

この人間模様はどのように終結するのか、息を呑む思いで観ていましたが、幸福感も哀愁も漂う鮮やかなまとめ方で、素晴らしかったです。オートゥイユ、ドパルデューとも、死ぬまで現役で人生の機微も愛も語ってくれそうです。この完成された作品、ハリウッドではどうなるかな?


2007年01月08日(月) 「リトル・ミス・サンシャイン」


昨日は夫はお仕事、末っ子は花園へ高校ラグビーの決勝を観戦しにいったので、チャンス到来(上の二人はどうでもよし)、昨日梅田シネ・リーブルで観て来ました。続々届く高評価の嵐に、いやが上にも盛り上がる私。ちょっと作偽的に感じたり、ドタバタしすぎたりする場面もありましたが、ラストのオリーヴの踊りで、問題点は全て帳消し。大好きな作品です。やっぱりトニ姐さんの作品は、はずれがないねぇ。

アリゾナ州に住むフーヴァー家の末娘9歳のオリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)は、極々平凡な容姿ながら、将来ミスアメリカになることを憧れています。一家は独自の勝ち組になる方法「9段階論」の出版を夢見て、常に勝ち組たれと、家族にも自分の主義を押し付けるはた迷惑な父リチャード(グレッグ・ギニア)、そんな父に反発し、パイロットの学校の試験に合格するまでは家族と口を利こうとしない長男ドェーン(ポール・ダノ)、ヘロインの吸引が見つかり、老人ホームを追い出されたリチャードの父・グランパ(アラン・アーキン)です。リチャードの本を出版するためのお金がかかり、経済的にも逼迫し、問題山積みのこの家族を、一人明るく支えて頑張る母シェリル(トニ・コレット)ですが、あろうことかゲイの兄フランク(スティーヴ・カレル)が、研究する賞をライバルに取られ、恋人まで奪われて自殺未遂、フーヴァー家で預ることに。そんな一家にオリーヴの憧れの「リトル・ミス・サンシャイン」という子供のミスコンに出場が決まり、一家総出でオンボロバスに乗り、カリフォルニアを目指すことになります。

これがミスを目指すオリーヴちゃん。はじけるような笑顔と、おしゃまだけど、こまっしゃくれていない様子が本当に可愛く、この可愛さは「イン・アメリカ」のボイジャー姉妹に匹敵し、私なんぞほっぺすりすりしたくなるのですが、いかんせん名前負けで(だってオリーヴ)、風船が入っているようなぽっこりお腹のぽちゃぽちゃガールなのですね。しかしこの平凡な容姿が、のちのちコンテストで感慨深いものを観客に与えてくれます。


カリフォルニアに着くまでの珍道中の数々のエピソードが本当におかしく、場内笑いっぱなし。しかし一つ一つ難儀を乗り越えていく度、バラバラだった家族が段々絆を深めていくのがわかります。リチャードの本の出版がダメになり、肩を落とす息子に、一見犬猿の仲に見えたグランパが、「お前はよくやった。頑張ったよ。」と肩を抱く姿に、私は思わずホロリ。これが親子の情ってもんですよ。

崩壊寸前の家庭は一見シェリル一人で支えているようですが、本当にリチャードはダメ親父なんでしょうか?彼が出版を諦めきれず、捨て身で出版元に掛け合う姿は、すごくみっともなく彼の嫌う負け組の姿のはず。自分の意地だけだったのでしょうか?家のお金を全部つぎ込み、家族のためにも何とかしたいと思う気持ちがあったのだと思います。豊かではない家庭で、好き放題やらかす老父を引き取り、これまたやっかいをかける妻の兄を引き取ることにも、彼が厭味をいう場面はありません(フランクのことは嫌いみたいだけど)。優しい言葉をかける姿こそ画面に出ませんが、それこそ鈍感な男の優しさじゃないんでしょうか?シェリルが夫と出版のことで大喧嘩するのも、夫を信じて裏切られたと思ったから。健気な彼女が信じるに値する夫だったということでしょう。この辺が「イカとクジラ」の夫婦とは違うところです。

私が作偽的だと感じたのは、道中のグランパに起こったことと、ドェーンの明らかになる事実。グランパの場合は、まぁ伏線もあるのでいいとして、ドェーンはあまりに唐突。日本ではこういうことは、もっと小さい時に明らかになるシステムです。アメリカはどうなんでしょうか?しかし無駄なエピソードではなく、きちんと筋の中で生かされたエピソードなんで、不問にしたいと思います。

それを立証すべく、グランパの身の上に起こったことの、その後のリチャードの活躍は目覚しく、一家の大黒柱として立派なものです。大黒柱がしっかりすれば、家族はそれについていくだけ。みるみる一丸となってオリーヴのため家族が頑張る姿を見て、世のお父さんたちに観て欲しいと思いました。

子供のミスコンと言えば、あのジョンベネちゃんが記憶にあると思います。小さな子がお化粧して、大人顔負けのお色気を振りまく姿に、私を含め嫌悪感を抱いた方も多かったと思います。あの作られた笑顔は誰かに似ていると思ったら、北朝鮮の子供たち。

そんな欺瞞に満ちた中で、オリーヴがグランパに振りつけてもらって披露したダンスは、去年の紅白のDJ OZMAも真っ青の代物。しかしこれがね。必死でオリーヴを舞台から引き降ろそうとする主催者に、この家族が対抗したことは、爆笑も幸せな号泣も誘うものでした。そうですよ、子供が世界中誰も味方がいなくったって、家族は子供を守るもんです。良かったね、オリーヴちゃん。

オンボロバスはクラッチがいかれて、バスを降りて押さなければ動きません。何度も何度も出てくるこのシーンで、段々とみんな押し方乗り方が上手くなっていきますが、それは家族の絆が段々強まったいく証しなのでしょう。しかしあの踊り・・・。さすが老人ホームでまでも女に不自由しなかったグランパです、もう最高!「負け犬というのは、勝つことをあきらめることさ」。いい言葉だなぁ、私も一生覚えておこうと思います。


2007年01月05日(金) 「大奥」


明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。

今年の映画初めの作品。優先順位下位の作品ですが、寝正月など夢のまた夢の主婦の身のワタクシ、「リトル・ミス・サンシャイン」も「酒井家のしあわせ」もじっと我慢。近場のラインシネマでは目ぼしい正月映画はほとんど観てしまい、残るはこれだけ。予測通りの出来で、テレビ放映待ちでも充分かとも思いますが、もうね、お正月に映画館で観られるならね、何でも良かったのでね、満足しています。一点演出に激怒した部分がありますが、それ以外はそれなりに面白かったです。

時は江戸時代、6代将軍家宣の急死により、幼い家継が7代将軍となり、後見人として、お側用人の間部詮房(及川光博)が実権を握っていました。大奥も家継御生母の月光院(井川遥)と、6代将軍の正室であった天英院(高島礼子)との間に確執があり、月光院は常に中傷の渦の中におり、心の拠り所は間部詮房 と、大奥総取締りの絵島(仲間由起恵)だけでした。天英院一派は、男女の関係にある月光院と間部の間柄に気づき、二人を失脚させるため、まずは片腕の絵島を陥れるため、歌舞伎役者の生島(西島秀俊)を近づけます。

大奥史上最大のスキャンダル・「絵島生島事件」のお話。「大奥」フリークではなくても、ご存知の方も多いかと思います。歴史上、ねねVSお茶々、お江の方(家光生母)VS春日の局など、女同士の確執はたくさん描かれていますが、概ね骨格は皆同じ。権力争いの中、女の意地と根性がぶつかり合い、格調高く描けば、女の業の深さと哀しみや歓びが深々と描かれますが、今回はそれはさておき、見どころは意地悪の応酬と女の性の乾きを、ちょっとお安く描いていたところだと思います。

私は岸田今日子が「ほぉ〜おくでは〜」と震えるような妖しいような声でナレーションをしていた、大昔のも観ていました(当時小4くらい)。時々再放送のを観ると、これが陰険でいやらしく、本当に女って怖いねー!と言う感じと、女に生まれた哀しみが充満しておりますが、こちら現代版大奥、意地悪も真綿で首を絞めるようなものでもなく、とっても解りやすいです。現代の人は、意地悪の詫び錆びは解りにくかろうという配慮でしょうか?

性の乾きは、男を知る者はそれが忘れられず煩悩に苛まれ、知らない者は恐れや憧れがない交ぜになった複雑な感情を見せますが、これもいささか小粒で中身が薄いです。むかーし、「大奥丸秘物語」というのがあって、懐妊しない側室がよそでお種を頂戴したり(藤純子が演じる)、お中廊と部屋子が同性愛関係になり(岸田今日子&小川知子が演じる)、部屋子が上様のお手つきになり懐妊、流産を望む中廊に毒を盛られ、流産後の部屋子が自殺したり、年期付きのはずのお犬(下働き)が美貌のため上様の目に止まり、またまたお手つき(佐久間良子が演じる)、大奥から出られなくなり、恋しい許婚と別れなければならず、大奥に火をつける、などなど女の業の表現もバラエティに富み、且つエロも哀しみの色も多彩だったことを思えば、物足りないものでした。

今回の上様は幼少のため、お種も頂戴できないわけで、大奥と言う場所の意味を考えれば、もうちょっとディープに描いても良かったかと思いますが、その辺はテレビサイズでした。

出演者は、格不足と思っていた仲間由起恵が意外に健闘。絵島の賢さと清楚な芯の強さを好演していて、やっぱり大河の主役は伊達ではないなと感心しました。生島役の西島秀俊は、割と好きな役者ですが、生島かぁ〜?と予告編では疑問でしたが、これが良かった!男優における時代劇での目張りの威力を確認。もーねー、流し目が色っぽいのなんの。そらおぼこ娘の絵島が一目惚れするのも、さもありなんと納得。

月光院役井川遥は、昔のお話にならない大根ぶりからは、ずっとましでした。ミッチーは私は贔屓ですが、間部役は荷が重かった模様。月光院を本当に思っているのか、ただ己が保身のためか、もっと曖昧に見せなければならない訳ですが、その辺の演じ方が甘いです。知恵者の切れ者にも見えず、能役者上がりの艶もなし。阿部寛は大物に成り過ぎて、キャスティング出来なかったんでしょうね。

高島礼子は魑魅魍魎感が出ていて、かなり良かったです。惜しむらくは天英院は天子様の血筋のはず。そういう品には欠けていました。天英院派のお中廊・宮路の杉田かおるも良かったです。男に体をあずける天英院を蔑むような、嫉妬のような目で見つめる顔、生島を誘ったものの、トウのいった生娘(のはず)の、恥じらいではなく恐れが拒んでしまう様など、やっぱり上手い人なんだと感心しました。もうヨゴレ芸人のようなバラエティーには、出ない方がいいと思います。

と、中身の薄さを出演者の好演で補い、それでも足りないと思ったのか、藤田まこと、浅野ゆう子、柳葉敏郎、竹中直人なんかもちょっと顔を出しています。それでも大奥という華やかな場所を舞台にして入る割には、豪華絢爛のムードも小粒でした。やっぱり今は時代劇を演じられる人は少ないのですね、ちいさ〜くまとまっていました。

さて私が激怒した部分です。月光院がしばらく間部に会えず、煩悩の塊となり、床に伏してしまいます。何とも頼りない母親ですが、幼少の上様が見舞いに来ると、「あきさま、あきさま」と、うわ言で間部の名を呼び、側にいる我が子の名など、一言もなし。当然これは月光院のバカ母ぶりを表し、上様の孤独を描写していると私は感じました。が!次のシーンで何と絵島は、間部に「どうぞ月光院様をお見舞い下さい」と懇願していました。「それはならん」と言う間部に、今度は上様が「母上を見舞うてくれ。母上はそなたに一番会いたいのじゃ」という健気な言葉が出るに至り、私は口あんぐり。結果月光院を見舞った間部はそこでおしと寝、果たして生死を彷徨っていたかのような月光院は、見事ご快癒。

えぇぇぇぇぇぇ!!!!

一発やったら、ビョーキが治ったってぇ?はしたない表現で申し訳ないですが、何じゃこりゃ?、あんたセックス中毒ですか?と私は怒り心頭。女の煩悩でも何でも、好きにしてりゃあいいですが、子供を産んだら最後、ある程度子供が大きくなるまでは、母親は女より母親を優先するのが当たり前のはず。心細いのはね、月光院だけじゃありません。先君である父を早くに亡くし、帝王学も受け継げず、辛く寂しいのは上様とて同じ。まず自分の寂しさより息子の気持ち優先ではないかい?それを男旱で精気のない母親に、せっせとエッチのお膳立てをし、あろうことか、幼い息子もそれに加担させ、母の性の煩悩に理解を示すような脚本は、私は絶対認めません!

昨今幼児虐待がマスコミを賑わしていますが、私が一番腹だたしく思うのは、内縁の夫と称する者が、幼い子を虐待することです。どうして我が子を痛めつける男といっしょに居るわけ?断じてこれを女の性の哀しさなどど言ってもらいたくないし、理解したくもないです。今回の月光院の描写は、そんな風潮をなぞって肯定しているようにも感じ、私は猛烈に不愉快でした。

あー、すっとした!正月早々吠えてみました。
なんかまとまりない初回ですが、色々小粒で薄いですが、観るに耐えない作品ではなく、まぁそれなりでした。


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