ケイケイの映画日記
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2006年01月12日(木) 「欲望」


直木賞作家小池真理子原作の恋愛映画。主演の板谷由夏が「ベティブルー」のベアトリス・ダルばりに、果敢に全裸のファックシーンを何度も演じているので、どうしてもエロティックな作品と捕らえられてしまいがちですが、三人の若い男女の、愛と一致しない肉体の乾き、もどかしさ、悦びを描いて、とてもとても心に残る作品です。

昭和53年。独身の27歳の高校の図書館司書青田類子(板谷由夏)は、同じ高校の教師能勢(大森南朋)と不倫関係にありますが、それは相手を思う気持ちより、肉体の欲が優先していると、彼女は感じていました。そんな時中学時代仲の良かった阿沙緒(高岡早紀)と再会し、婚約者の精神科医袴田(津川雅彦)を紹介されます。彼女より31歳年上の袴田は、かつて阿沙緒の主治医でした。袴田邸での結婚披露パーティに招かれて類子は、そこで高校以来会っていなかった秋葉正巳(村上淳)と再会します。彼は袴田邸の造園を請け負っていました。類子・阿沙緒・正巳は中学の同級生で、正巳は阿沙緒が好きでしたが、当時から親友と呼べる存在は類子の方でした。そんな正巳を密かに愛していた類子。高校生になり正巳と阿沙緒が付き合いだしたある日、自動車事故で九死に一生をおえた正巳ですが、その後遺症で一生女性を抱けない体になってしまいました。そのことは類子だけが知っていたのです。

この作品の成功は、板谷由夏の起用、それに応えた彼女の大変な好演によるところが大きいです。昨年「運命じゃない人」でも、あばずれながら憎めぬ女を自然な演技で好演していた人です。愛と性がテーマの作品なので、たくさんファックシーンが出てきますが、スレンダーで長身の彼女からは猥褻な雰囲気はまるでなく、上品で清潔感が溢れていますので、しっかりと類子の心を追うことが出来ます。能勢とは情事、正巳とは愛。その時々で類子の心模様を見事に演じ分けています。二度ほど正巳との時に彼女が泣くのですが、私も号泣。性を描きながら愛する正巳を思いやる気持ち、哀しさ、喜びなど、見事に心が浮かび上がっていました。長く映画を観続けていますが、セックスシーンで泣いたのは初めてです。

類子の日常は本好きで聡明な彼女に似つかわしく、静かに穏やかに過ぎています。毎週土曜日能勢との情事に溺れる彼女ですが、普通知的な女性の性欲が強調されると、二面性や露悪的な部分など扇情的に描かれがちですが、類子にそういう印象は受けません。隠された部分を暴こうというのではなく、普通の27歳の女性の日常にセックスが組み込まれているのは当たり前であるとの印象が残ります。むしろ自分が快感を感じる時、脳裏を霞める正巳の辛さを思いを馳せるなど、彼女が肉体だけの関係に溺れるのは、常に正巳の存在があるための乾きなのかと理解しました。そしてそんな自分を戒めるため、別れた後自分は一人残されるが、帰る場所のある能勢を選んだのかと思いました。

阿沙緒は無邪気で奔放、自分に正直なため、相手を傷つけることもしばしばな女性です。しかし無防衛な彼女は、誰より自分も傷ついてしまうのです。そして一人が寂しく孤独でいることに我慢が出来ません。それが「私子供が欲しいのよ。セックスなんかしなくていい。赤ちゃんだけが欲しいの。」というセリフにも出ています。上手くいかぬ袴田との関係を短絡的に子供が出来れば何とか過ごせると思う幼さと、敬愛を持つ夫のとの関係の修復に何度も心を入れ替える素直な愛らしさが彼女の魅力です。

家政婦の初枝は類子に、「類子さんは奥様と違う色を持っていらっしゃいます。」と言いますが、類子の持つ色は教養でないでしょうか?私も教養の薄い人間で、この作品で立ち込める三島由紀夫の香りを楽しめず、2冊くらいしか読まなかったのを後悔しています。この作品は精神的には「春の雪」より三島が香っている気がします。芸術的なことや音楽、本、絵画など詳しく味わえる方が羨ましく、自分の干支の牛のごとしでもいいので、今からでも少しずつランクアップ出来れば良いと思っています。それは見栄ではなく、教養が豊かだと人生が充実し、一人で過ごす時間が楽しいのではないかと思うからです。

ただそれにがんじがらめになると、返って自分を追い込むことになるのかもしれません。「二人は似ている」と類子に思わす袴田と正巳。自分の美意識を守りたいあまり、素直に自分の心が表せず、自ら孤独に追い込んでいる節があります。彼らの敵対心は、近親憎悪みたいなものでは?そんな彼らが、自分に正直で教養何するものぞの阿沙緒を愛したのは、彼女の姿に憧れもあったのかもしれません。特に不器用にしか阿沙緒を愛せなかった袴田には、妻が自分に見合った女性になって欲しいと、ありのままの阿沙緒を受けれいれられないその思いの意外な若さは、年齢差を考えれば幼稚なように思えます。演じる津川雅彦は中年期に映画やドラマで数々の渡辺淳一作品に出演、渡辺淳一の情痴小説に漂う「男ってバカだなぁ」(←褒めてます)を、体現化していた人なので、俗っぽい雰囲気と美意識にがんじがらめがマッチしていて、さすがの適役でした。

村上淳は、類子の「この美しい男とひとつになりたい」というほどには美しい男性に見えず、耽美的な三島文学を愛しインテリチックな内面と、今は造園という力仕事にギャップを感じなければいけない人に思えたのですが、私には「美しい男」にも「知的な男」にも見えなかったのが残念。数々の印象的なセリフは、多分原作から多用されていると思うのですが、彼から発せられると少々空虚に感じられるのが残念でした。しかし不能の男性の性的欲望という難しい役を演じて、演技自体は健闘していたと思います。

脚本が男女二人が担当(大森寿美男、川崎いづみ)しているので、男女の性の違いが、異性にもわかりやすく描かれています。二人目が出来たばかりで、類子からその最中に「お乳くさい」と言われて役に立たなくなった能勢の描写など、絶妙でした。男親から乳臭いことなどあまりないので、これは類子の皮肉なのでしょう。類子のように心ある女性が、本当に体だけの関係であるとは考えにくく、彼女がそう思いたいのだというのが、チラっと感じられました。セックスは出来なくても、阿沙緒に憧れながらも、愛するのは類子だという正巳。なんとなくセックスレスの夫婦のようではありませんか?

正巳との再会で能勢とは別れる類子に、同性の私は納得出来ます。たとえ抱かれることがなくても、私も正巳を選ぶでしょう。「裸で抱き合って眠りましょう」。愛する人とならそれはセックスそのものより、女性にとっては価値のあるものだと私も思うのです。しかし正巳の選択は、そうではありませんでした。それは彼の類子への思いやりか、それとも彼の男性としてのプライドか、ひょっとして阿沙緒への断ち切れぬ思いか、それは私にはわかりません。彼自身を使わずに絶頂へと導かれることで、嬉しさの涙を流した類子と共に泣いた私は、男と女の性の意識の壁はやはりあるのだなぁと感じました。

少し長く2時間15分の作品ですが、ラストのラストまで見事なまでに類子という女性を通じて、人を愛する痛切さを意味を感じさせてくれる作品です。原作者が試写で泣いたというのは、リップサービスではないと思います。


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