ケイケイの映画日記
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2006年10月30日(月) 「スネーク・フライト」


日曜日に観て来ました。その日は午後に用があり、映画は無理だなと思っていたのですが、朝ちょっと時間が出来たので、一番の回を観ました。いつもあの手この手で安く観ている私ですが、今回東宝の株主券が予定より遅く到着し、来月回しかと思っていましたが、何とか観られました。もっと笑えるのかと思っていましたが、意外や正統派パニック作品で、そこはかとない安モン臭さと唐突な筋がとってもB級っぽく、まずまず楽しめる作品です。

検事である父親の殺人現場を目撃したショーン(ネイサン・フィリップス)。犯人は検事に追い詰められていた大物犯罪者のキムです。キムを逮捕する唯一の証言者として、ショーンはFBIのフリン捜査官(サミュエル・L・ジャクソン)の強固な護衛の中、証言台に立つべく飛行機に搭乗します。しかしそのことを知ったキムは、大量の蛇を彼らが搭乗した飛行機に忍ばせ、パニックが起こった飛行機ごと墜落させようと計画します。

フライト中の飛行機の中で、大量の蛇が発生したらどうなるか?の一発芸作品。

出だしは、如何にもな能天気な爽やかさとBGMで、期待を高めるというより、お茶の間でテレビ東京が放送する作品っぽくリラックスさせておいて、ドン!と殺人シーンが入ってきます。唐突にフリンがショーンを助けたり、変なんですがスピィーディーなんでまぁええかと言う感じ。ちょっとセガール作品を彷彿させますが、蛇が出てくるまでの繋ぎはOKです。

蛇が出てくるまでの機内の様子も抜かりなく描写。
そしていざ蛇!
小さいのからアナコンダ級まで、うじゃうじゃうじゃうじゃ、ぎゃ〜〜〜!と、爬虫類嫌いな人は顔面蒼白に成りそうなくらい出てきます。おっぱい噛んだりあそこを噛んだり、頭から丸呑みしたり。笑ったのはこの辺までで、後は本当に手に汗握るパニックモノでした。愛あり涙あり感動ありなんですが、そこはB級、上手く見せているけど心には残りません。残るのはハラハラドキドキだけですが、それでいいと思いました。

ただ蛇のシーンが長すぎて飽きました。最後のスペクタクル場面で息を吹き替えしましたが、この手の作品で2時間近くは長すぎ。15分くらい切っても良かったかも。しかしなんですね、白人の金髪碧眼クンは良い人ですが少々頼りなく、女子供を体を張って守るのは、黒人やアジア人男性とは、これは狙っているのかも?そういや悪漢も名前から韓国系ですね。

私が蛇と同じくらい楽しみにしていたのが、画像右のジュリアナ・マルグリース。大好きだった「ER」で、女性では一番好きだった看護師長キャロル・ハサウェイを演じていた人です。今回は機転の効く優秀はキャビンアテンダンド役で、キャロルを彷彿させたのが、私的にとっても嬉しかったです。缶が横に滑る様子で、飛行機の水平性が保てていないのを見つけるシーンが良かったです。ちょっと老けたけど、私も老けたからおあいこかしら?(意味不明)。

ジャクソンは大物俳優ですが、結構謎の作品選びをする人で、映画史に残る作品から、なんであんたがこんな作品?というのまで、幅広くご出演のところが、映画ファンにはきっと好感度が高い人だと思います。今回はカッコ良かったから○。でももう還暦近いんですよねー。男性的魅力ムンムンで、まだまだ活躍してくれそうです。

面白かったけど、テレビ東京で放送するまで待っても良かったかな?というのが本音です。割と吹き替えが似合いそうな作品。意外とデートムービーにも向く作品です(いや本当に)。


2006年10月28日(土) 「サンキュー・スモーキング」


タバコ業界を舞台に、情報操作を盛り込んで、現代のアメリカを風刺するコメディ仕立てにしていると聞いて、とても楽しみにしていた作品です。私自身は吸いませんが、私くらいタバコに囲まれた人間はいないはず。夫は日に2箱は軽く吸い、子供の頃、父親を臭い臭いと毛嫌いしていた22歳と20歳の息子達は、今じゃ立派なヤニ吸いです。実家を見渡せば、老いた78の父は「体に悪いから」と、今はセブンスター2箱くらいですが(おい!)、昔はショートホープ日に100本でした。

亡くなった母も吸っていて、死因は何と肺がんとしゃれになりません。妹は母がタバコを吸うのをとてもいやがり、子供の頃は見つけると泣きじゃくったもんですが、今じゃ子供に隠れて自分が吸ってます。あっちもこっちも煙草タバコたばこ!

で、私が嫌煙運動の旗を振っているかというと、さにあらず。マナーを守って人様に迷惑かけなければ、動脈硬化になろうが、母のように肺がんになろうが、あくまで本人が納得していれば良いと思うからです。ヤニ吸いに寛容な私が観るとどう観えるのか、興味津々でした。傑作コメディかと期待して観たので、若干物足りないですが、ライトな風刺コメディとしては出来は上々。面白かったです。監督は「ゴースト・バスターズ」などのアイヴァン・ライトマンの息子、ジェイソン・ライトマンの初監督作品です。

タバコ研究アカデミーの広報担当部長のニック・ネイラー(アーロン・エッカットー)は、猛烈なタバコに対する圧力を、持ち前の回転の速い喋りで、日々タバコのイメージアップに奮闘中の、バツイチ・やり手ロビイストです
。アルコール業界のポリー(マリア・ベロ)、銃業界のボビー(デヴィット・コークナー)との週イチの飲み会では、如何に鬼っ子の自分たちの商品をイメージアップするか、鍛錬も怠りません。そんな旺盛に仕事に精を出す彼ですが、思わぬ落とし穴が待っていました。

この作品でもタバコにドクロマークを!という上院議員(ウィリアム・H・メイシー)が出てくるなど、すっかり有害物質扱いのタバコですが、どういう風に情報操作してイメージアップするのか期待していましたが、その辺の扱いは、私が年がいっているからか映画を観すぎているからか、想定の範囲内で、別に隠し玉的演出はありません。ちょっと期待はずれですが、その代わりテレビや聴聞会などでタバコについてディベートする様子が面白いです。

言葉尻を掴んでちょっとづつずらし、自分のテリトリーに持ち込んでしまうのです。その中には嘘は一片もなし。ほぉ〜、おみごと〜と思わず感心してしまいました。でもこれってちょっと観たことあるなぁ。ネットで荒れたりするのは、全部この手合い。そうか、こういう風に持っていくと言い負かせるんだ、ふんふんと思いつつ、ネットの荒しとニックが違うのは、決して相手個人を貶めたり中傷しないこと。そしてユーモアもある。弁舌爽やかで押し出しもきき、何だかわからないうちに、まさに煙に巻かれてしまい、ニックがとても素敵に思えます。

頭の良さというより回転の速さが信条のニック、墓穴を掘ったのは女がらみです。こんなやり手が女なんぞで失敗するかなぁと思ったのですが、離婚も女がらみを匂わせたり、彼を観ているとそれもご愛嬌かなと思い直します。それに喫煙組と反喫煙組を比べてみると、断然男としての魅力は喫煙組に。頂点にいるロバート・デュパルや肺がんになったマルボロマン(サム・エリオット)からアーロンに至るまで、濃〜い♂のセックス・アピールがいっぱいです。

失意の底に沈むニックを奮起させるのが、「離婚しても僕のパパはパパだけ。あんな男(母の再婚相手)はパパじゃない」と、「やり手」の父を尊敬する息子です。アメリカの離婚した家庭の子は、平日母親、週末父親と過ごすパターンが多く見受けられ、何か中途半端だな、子供も環境がコロコロ変わりよくないんじゃないかと思っていましたが、この作品では、夫婦として別れてしまっても、子供の父と母としては良好な間柄でいたいという描写がかいま観れ、かつての感情に流されずちゃんと締める所は締めているのだと、感心しました。

ニックの巻き返しも、学位もなく優秀な頭脳もなく、舌先三寸で渡ってきた彼らしい姿で、その中に男として父親としの意地も絡ませて、スマートでユーモアがありました。過ぎたるは及ばざるが如し、何事にも過剰に反応するアメリカ人をユーモアたっぷりに皮肉って面白かったです。だって肺がんになったからタバコ会社を訴えるなんて、やっぱ変だもん。

アーロン・エッカートは別に何とも思っていませんでしたが、もうこの作品はとっても素敵!水を得た魚のような軽妙な演技で、無難なだけの印象だった「ブラック・ダリア」とは大違いでした。他にはロブ・ロウが思いっきり怪演です。だって出てきた時、レイ・リオッタかと思ったもん。この線でやっていくと、よろしいんじゃないでしょうか?

この作品を観ても私のタバコに対するスタンスは変わりませんが、他の人はどうだったんでしょうか?今の作品だなと思ったのは、喫煙シーンがほとんどなかったこと。うちの83歳の姑さんは、50過ぎた自分の息子達に、事あるごとに「体に悪いからタバコは減らし」と懇願しています。親にはいつまでも子供なのだなとありがたくも思いつつ、80過ぎてまで子供の心配なんかしたくないわいと思う私(ごめんね、おばあちゃん)。取り合えずタバコの奴隷になりつつある息子達には、「結婚したらタバコ代が小遣い圧迫すんで〜。あんたら安月給やのに。」と脅しています。若すぎる息子たちに健康の大切さなんか言っても、わかるわけないもんね。倒れたらわかるでしょ。夫には人生残り少ないので、好きなだけ吸えと言ってます。その代わり逝く時にはさっさと逝ってなとも。棺桶にはタバコ100箱くらい入れて、紫煙に包まれ極楽浄土に逝ってもらうつもりです。


2006年10月23日(月) 「16ブロック」


ブルース・ウィリス主演の刑事もの。ブルース主演の割には地味に公開ですが、公開後評判はうなぎ上り。それも70年代テイストの熱いものを感じさせる作品だとか。ということで、今日夫と観て来ました。取り合えず押さえておこう程度だったのに、これがクリーンヒット!ラストは思わず目頭が熱くなりました。お腹も出てヒゲも白くなって、もう希望なんて言葉は遥か彼方に忘れ去ったという、中年の御貴兄に是非ご覧いただきたい作品です。監督は希望どころか棺桶さえ射的距離のリチャード・ドナー76歳。年だなんて愚痴ったら、きっと監督に怒られますね。

ニューヨーク市警のジャック・モーズリー(ブルース・ウィリス)は、捜査中の事故のため足を負傷、酒浸りの冴えない刑事です。夜勤明けのある日、もう帰宅しても良いのに、上司から証人のエディ(モス・デフ)を16ブロック先の裁判所まで護送するよう命じられ、渋々引き受けます。しかし何者かに襲われ、二人は逃亡するはめに。エディの証言には元相棒のニュージェント(デビッド・モース)や同僚刑事たちが関係する、汚職事件が絡んでいたのでした。

最初登場した時のブルースの老けっぷりにまずびっくり。お腹は出て体は弛みまくってるは、頭も髭もごま塩だは、仕事中だというのに酒はかっくらうは、もう終わってしまった刑事なのだとわかります。やる気なさそうにエディを護送する彼ですが、瞬時の判断で的確に相手を撃つ姿との落差は、かつてはやり手の刑事だったと思わすのに充分です。しょっぱなから気分が盛り上がり、この語り口の上手さはさすがです。

逃げ込んだバーでのニュージェンとの会話で、ジャックもやっぱりわけありだと匂わせますが、方や出世した勝ち組(ニュージェント)、方や落ちぶれの負け犬風情とくりゃ、観客はどうしたって負け犬の肩を持ちたいもの。その負け犬が善良なチンピラを連れ、勝って知ったるNYのチャイナタウンを、縦横無尽にあの手この手で逃げ回る様子がハラハラドキドキしつつ爽快です。追う方も追われる方も刑事なので、お互いの手の内は知り尽くしています。裏を掻く方法もほぉ〜なるほど〜と感心したり、これがラストまで展開されるんですから、たまりません。きっとどこかで観た演出なんですけど、こんなに面白いんだから構うもんか。

「人は生まれ変われる」「良い兆し」という言葉が、何度も繰り返して出てきます。中年を越え初老になって、順風満帆な人生だったなんて言える人は少ないはず。ジャックもしかり。誰かを傷つけ償えるほどの勇気もなく、自分が落ちぶれることでしか贖罪できません。そんな彼が、貧しく頭も軽そう、でも愛嬌たっぷりでお喋りなエディによって変わるのです。接する内に、段々とエディの前向きな明るさと純粋さに引き寄せられていくジャック。そしてエディもまた、人としての強さをジャックから学ぶのです。

少し難点はドラマの「24」ばりに、時間の経過と映画の経過が同時進行なのですが、ちょっとあれこれつめ過ぎで、時間との兼ね合いに無理があります。他はジャックの妹の扱い。ここで助けてもらえるなら、もっと早くに助けてもらえたんじゃないの?と、ちょっと疑問ですが、落ちぶれ中年もので、こんなに熱くさせてもらえるなんてメッタにないので、不問にします。

ブルースは素敵でした。今の落ちぶれ感と昔はイケてた感のブレンドが絶妙で、長年アクションをやってきた人ならではの安定感と重なり、とっても渋い。こんな役を上手にこなすなんて、多分死ぬまで人気俳優でいられると思います。モス・デフは最初お調子者のお喋りで鬱陶しい奴だなと思わせておいて、段々観客が彼を好きになっていく仕掛けになっているのですが、これもデフの好演あってこそ。警察の腐敗という社会性を織り込みながら、一人の男の再生を、女の愛ではなく、昔の自分だったかも知れない若い男に感化されたというところも良かったです。

エディはケーキ屋になることに固執しますが、それがちゃんとラストに生かされています。自分の犯した罪は消えないけれど、誰かを幸せに導くことは、それは罪の償いになると思います。人間先が見える年になると、今以下になっても今以上はないんじゃないか、そんな気がするものです。しかしラストのジャックの笑顔は、これからの人生、まだまだ何があるかわからない、捨てたもんじゃないぞという気にさせます。日曜日に観ると、月曜日元気で仕事に行ける作品です。

以下ネタバレ













ジャックが昔のような正義感を見せ始めると、「あいつの中で何かが目覚めた」とニュージェンとは言いますが、それはエディから昔の悪徳刑事の同僚が、子供の口に銃を入れ込み脅す姿を目撃したと聞いたからではないでしょうか?その脅しで一人死んでいるのに、その罪悪感から逃れられなくて自分は苦しんでいるのに、まだ同じことをやっているのかと、彼の眠っている正義感に火が着いたのかと思いました。エディがバスの戻ってきた時、「このバカが・・・」と思いつつ、よく戻ってきたと褒めてやりたい私がいました。ジャックは本当にバカだと思ったでしょうねー。でもその愚直なまでのエディの誠実さが、ジャックに証言台に立つ勇気を与えたのでしょう。


2006年10月21日(土) 「涙そうそう」

昨日観て来ました。ラインシネマは金曜日は会員デーで全作品1000円で鑑賞できる日ですが、それにしても確か公開一ヶ月近く経っているはずなにの、平日とは思えぬ入り。場内女性客が多かったですが、序盤からすすり泣きの声が断続的に聞こえます。が、この涙腺ゆるゆるの私が泣いたのはたった1回、子供の時の兄妹の姿にでした。良いシーン、描き方も随所にありましたが、全体的に脚本が安直で、泣かせることを重きに置いたため、底の浅さを感じさせました。今回ネタバレです。

2001年の沖縄。洋太郎(妻夫木聡)は自分の店を持つ夢を抱いて、朝早くから市場の配達、夜は居酒屋でアルバイトする働き者の青年です。充実した日々を送る彼に、島から高校進学のため妹のカオル(長澤まさみ)が同居することになります。二人は実は血のつながらない兄妹なのですが、洋太郎はカオルは真実を知らないと思っています。洋太郎の恋人の医学生恵子(麻生久美子)や友人(塚本高史)とともに、貧しいながら楽しい日々を送っていました。そんな時洋太郎が店の開店の際に詐欺に遭い、借金まで背負う破目になります。

冒頭原付で品物を配達する洋太郎の姿が、活気のある市場の様子と共に描かれ、働く充実感に溢れとても良いです。明るい笑顔の好青年が似合う妻夫木のキャラクターに合い、出だしは好調。長澤まさみも、ちょっとはしゃぎ過ぎの感はありますが、高校に入るか入らないかの時はあんなものではないでしょうか?彼女も好感度の高い女優さんなので、いやみには感じません。

洋太郎の母(小泉今日子)は彼を連れて、カオルの父と再婚したのですが、その夫も家族を捨てて出て行ってしまい、彼女もほどなく病気で亡くなっていました。臨終の間際「これからはカオルを守ってね。独りぼっちになってしまうから」と言い残して亡くなります。例え育ててくれる祖母がいても、子供の時から両親のいない人生は過酷です。彼女は子供を糧に夫のいない生活を懸命に生きてきたのでしょう、その知恵を息子に授けたのだと思います。守るべき大切な人がいる、その事は人生を前向きに生きさせることです。そして妹=女性を守る、男として正しい大人になって欲しいと言う思いです。洋太郎の父の離別の仕方はわかりませんが、夫二人に守ってもらえなかった彼女の女性としの願望が、息子に託されていたように思います。この言葉が、洋太郎の生きる指針となる魔法の言葉となったのには、肯けるものがありました。

老若の男性が、男の沽券を見せる場面を私は好ましく思います。時代が移り代わっても、その気概は失くならないものであって欲しいと思います。しかし普遍性を描くのと、古臭いのは違うのです。恵子が医者の娘・医者の卵というのは、後々の展開のため必要なのでしょうが、どうも私にはミエミエでよろしくない。釣りあわぬ二人を描きたいなら、恵子が年上で才媛のキャリアガールであることで充分ではないでしょうか?女性が仕事をしっかり頑張るようになって一番の変化は、男性から選ばれるのではなく、対等の立場になったことだと思います。洋太郎のような真っ直ぐで誠実な青年が、このようなことで借金を背負ったとしても、人を観る目のある甲斐性のある女性なら、別れの原因になるとは思いません。二人で返すなりする方が、断然今の男女の有り方にマッチすると思ったのは、私だけでしょうか?

それも朝から晩まで働く様子を描いていましたが、妹を養いながら3年ほどで返せる額です。カオルのことや洋太郎のひけ目を絡ませていましたが、そんなことは承知の上で4年も付き合った男女の別れの原因には、少し強引な気がしました。

カオルの「にーにー!」連発のはしゃぎっぷりに、多少ウザイものを感じていた私は、ふとこれは実の兄ではないのを知っているから、無理に子供っぽく装っているのかもと感じていましたが、恵子の「洋くんが思っているほど、カオルちゃんは子供じゃないわよ」という鋭い女の勘的セリフで確信しました。いつまで経っても妹離れしない兄に、もっと自分のことを大切にしてと、カオルは兄からの独立するといいます。兄の愛を重たいと言いながら、心から兄を愛するこらこそ、自分の存在が兄の足を引っ張ってはいけない、そう思う心が滲み出ていました。

しかしこんな良いシーンをぶち壊す展開がこの後に!何で無理無理洋太郎を病死させるかなぁ。肉体労働でがっちり働き、質素でも健全な食生活を送っている様子を何度も描いているのにですよ!何故にこの若さで過労死?あっけない臨終の後に病院中に響くようなカオルの「にーにー!」の絶叫に、場内すすり泣きの中、一人だけ凍りつく気分になる私。極めつけは洋太郎の葬式の後、カオルに届く振袖の着物。ご丁寧に手紙まで添えてあり、「今まで何もしてやれなかったが・・・」って、あれほど妹のために頑張っていたのに、そこまで言わすと厭味です。

今の時代は離婚も再婚も多く、ステップファミリーという子連れで第二の家庭を築く人も多いでしょう。あながち奇抜な設定ではないと思います。兄妹の愛と男女の愛の間を揺れ動く二人を丁寧に描いて、兄は店を持ち家庭を築き、妹は優秀な頭脳を生かした仕事につき、故郷の島で里帰りに再会する、そんな血縁を越えた兄妹になる姿を、ラストに私は観たかったと思います。

暖かく懐の深い沖縄の人々の様子は、しっかり受け取れました。血のつながらないカオルを快く育てたのも、無理を感じませんでした。一番良かったのは、古いビルの上の物置を改造した兄妹の家。狭いながらもきちんと整理され、心身ともに健康な二人を表しているようでした。家の前のテラスには花がいっぱいで、潤いと暖かさがいっぱいでした。あんな家に住んでみたいなぁ。








2006年10月19日(木) 「ブラック・ダリア」


ブライアン・デ・パルマの新作。原作が秀作「LAコンフィデンシャル」のジェームズ・エルロイなので、その線で観た人は落胆、デ・パルマ好きの人が観るとそこそこいけるとくっきり評価が分かれています。じゃ、デ・パルマ好きの私なんぞ全然OKじゃんと思っていましたが、これがちと(本当はだいぶ)不満が残る出来でして。でもやっぱりこのムードは好きなんですけどねぇ。

1940年代のロス。バッキー(ジュシュ・ハートネット)とリー(アーロン・エッカート)は元ボクサーのロス市警の刑事です。リーには同棲相手のケイ(スカーレット・ヨハンソン)がいて、三人で行動を共にするようになるにしたがって、バッキーとケイは心を通わせ始めます。そんな時口から耳まで裂かれ、内臓は抉り取られ、上半身と下半身は切断されるという死体が発見されます。死体は女優の卵のエリザベス(ミア・カーシュナー)。マスコミは彼女のことを「ブラック・ダリア」と称し、大きく報道します。この事件に必要以上の執念を燃やすリーを、バッキーとケイは心配するのですが・・・。

大々的に「世界一美しい死体」と宣伝文句に書かれてあったので、きっと10分くらいしたら、その死体を拝めるのかと期待していたのに、これがいつまで経っても出てこないのだな。バッキーの裏事情と、リーとケイの間柄の説明、二人のファイトシーンに時間を割いています。終わってみると、これがほとんど筋と関係ないようなもの。ここで無駄まで言わないですが、必要以上に力を入れて描くので、後半これが響きます。

猟奇的殺人の解明が軸ではあるのですが、その他複雑ないくつかの事件が絡み合いますが、これがきちんと交通整理出来ておらず解り辛いです。なんか変だなぁと思いつつ進むと言う感じで、これはきっとこうなんだろう、あぁそうか、騙された、などなどこの手のサスペンスでの盛り上がり方が希薄です。ラスト30分はそれが顕著で、猛スピードで全事件一気に謎解きするので伏線の張り方に気が付く暇もなし。後で考えるとご都合主義的ではなく、説明不足から来る消化不良のような気がします。

デ・パルマといえば、悪趣味手前の官能というか、そういうものを私は期待していたのですが、それもどうもなぁ。ファム・ファタール的で謎めいた美女にヒラリー・スワンクなんですが、私にはどうもミスキャストっぽく感じます。彼女は堂々二度のオスカー受賞、それも主演女優賞というのに、イマイチ大物女優の雰囲気が希薄なのです。それは性同一性障害だったり(「ボーイズ・ドント・クライ」)、ハングリーで根性満点、しかし心寂しい女性ボクサー(「ミリオンダラー・ベイビー」)などで評価されてはいますが、それはいわばキワモノ、ハリウッド女優王道の役柄では、どうも精彩がありません。この作品でも、初登場シーンでこそおぉ!美しい!だったのですが、富豪のバイセクシャル女性という役柄ですが、ゴージャスさも妖しさも感じられず、セックスの後のけだるい色気も皆無でした。だからラストシーンの彼女のセリフも全然盛り上がらず。

その他の官能性も、妖しげなレズバーが出てくるのですが、これも女同士の半裸のキスシーンもあるのですが、あまり色っぽくありません。これがオカマバーなら、男ながら絶世の美しさを放つ異形の美女たち大量投下で、魅惑的幻惑的なシーンになったろうに、女同士って案外難しいのかも。

では見どころが皆無かというと、これがいいところもいっぱい。まず撮影のジグモンドの力か、40年代の雰囲気がフィルムから香っています。男性女性というより、即物的に男と女という感じだし、始終みんなタバコを吸うのですが、本当に紫煙という感じで雰囲気抜群、本当の時代考証はわかりませんが、豪華でレトロな美術も大変見どころがあります。

でも一番の見どころは、画像の生前のエリザベスに扮するミア・カーシュナー。彼女のオーデション風景がモノクロのフィルムに焼き付けられており、登場回数が少ないのですが、とても心に残ります。実の父親にアバズレ呼ばわりされる彼女ですが、演技も下手、媚を売るのが取り得の姿は、そこはかとない哀しさと、賢いとは言えない女の純真さがあるのです。ブルーフィルムの撮影での涙は痛々しいものがあり、フィルムは、彼女の性格や生い立ちまで見えるようで秀逸でした。演じるミアは、すんごく可愛く、猟奇的な死体とのギャップが良かったと思います。

スカーレットはグラマラスな衣装が良く似合い、この時代の女性の雰囲気があり良かったです。でも珍しくお色気不足かな?アーロンはそれなり。演技は上手い人だと思います。ジョシュはとってもカッコ良かったです。彼のファンなら文句はないと思います。こんなめちゃめちゃな筋あるかい!でも面白かった!という前作「ファム・ファタール」から思えば、ちょっと期待はずれですが、私はそれなりには楽しみました。でもデ・パルマ好き以外はどうかなぁー。



2006年10月12日(木) 「太陽」



久々に十三の第七藝術で観て来ました。東京では爆発的な大ヒットと聞いて、レディースデーは避けて、通常より早めに到着しましたが、平日のせいか観客は100席足らずの劇場で半分くらい。でも私がナナゲイで観る時はいつも10数人なので、結構入っているなという印象です。ロシアのソクーロフが撮った作品です。だからロシア映画。今回ネタバレです。

昭和天皇崩御の時、近所の仲良しさんの家に用事で出かけたところ、涙で目が真っ赤の友人が現れてびっくり。「テレビ観ててん。天皇陛下が可哀想で・・・」と、まるで友人知人・親戚が亡くなったような反応なのです。天皇崩御にも、通常著名な人が亡くなった時に感じる感慨以上のものはなかった私は、これが日本の人の普通の感覚なのかと、天皇という存在の大きさを、その時初めて認識したように思います。

第二次大戦末期、日本の敗戦は濃厚となった日本。昭和天皇ヒロヒトは、皇后や皇太子や子供たちを疎開させ、自分は廃墟となった東京で、地下にこしらえた防空施設のようなところで暮らしており、昼間は唯一残った研究所でなまずの研究をしていました。「御上」と崇められ、神として国民の上に君臨する天皇は、人間ヒロヒトとの間(はざま)で、常に孤独でした。国民の平和を願う天皇は、降伏を考えています。そして連合国総司令官ダグラス・マッカーサーとの会談の日が、刻一刻と迫っていました。

イッセー尾形の昭和天皇の成りきりぶりが好評で、楽しみにしていました。私は昭和36年生まれで、物心ついた時からもちろん昭和天皇は「人間」であり、飄々とした感じのお爺様でありました。尾形と天皇は容姿は違うのに、表情がそっくりでまずびっくり。口をパクパク、まるで金魚のようにさせるクセも、確かにおありになりました。しかしこの口をパクパクがやりすぎのような感があり、あれほどひどくはなかったように記憶しています。「あっ、そ」という相槌も、確かに園遊会などで仰っているのを聞いていますが、あのように天然ボケのような感じではなく、もう少し暖かな感情も入っていた気がします。

しかしながらこの作品は、昭和天皇を描いた史実に近いフィクション、そしてロシア人から観た天皇です。だからある程度のデフォルメは仕方ないとは思っていますが、一番気になったのは、カリスマ性やオーラというものを、尾形の天皇から感じなかったことです。本当は人間であることなど、本人は元より周りも国民もわかっていたことでしょう。しかし国民の心を一つにするため、神として生きなければならない不自由な生活と、その孤独はひしひし伝わってくるのですが、子供心にも普通のお爺さんとは違うのだと感じさせた、あのオーラが再現出来ていなかったのは残念です。

国民の幸せを願う様子は、魚の形の爆弾で日本が廃墟と化す悪夢や、国の要人たちとの御前会議、マッカーサーとの面談の場面でわかるのですが、今ひとつ心に残りません。何故なら伝え聞いている、「朕の命と引き換えに、日本の国民の命を助けて欲しい」と天皇が訴える場面がないのです。マッカーサーは、この時の天皇の言葉に感激し、天皇制の存続と日本に対する政策が変わったと、これは広く読んだり聞いたりした方も多いお話だと思います。この作品では、マッカーサーが語る「子供のようだ」という、純真で無垢な印象が、マッカーサーの気持ちを変えたように描かれていました。なのでもうひとつ、奇矯な人の印象が拭えませんでした。

印象深かったのは連合軍側の日系人通訳が、必死で天皇は神であると説明する場面。マッカーサーと直接英語で話そうとする天皇に、「平等にお話なるということは、お立場が汚れるということになるので、お止めになって日本語で話して下さい」とも語ります。こういう心情を抱えてずっと戦っていたのなら、本当に辛かったろうと思いました。世界中に難民移民が増えている今、もし大規模な戦争が始まったなら、この通訳のように苦しむ人が多いのだろうと、この部分に反戦の含みも感じました。

意外な好演に感じたのは、皇后役の桃井かおり。彼女は皇后様ではないでしょうと思っていましたが、場面が少なかったですが、長く男子が生まれず側室を勧める側近に、「長子(ながこ・皇后様の名前)がよい」と、決して側室を置かなかった天皇の心が伺えるような仲睦まじさで、夫を陰ながら支える良き妻ぶりでした。考えれば生まれた子を自らの手でお育てになるようになったのは、今の天皇陛下から。それまでは乳母に育てられていたはずで、昭和天皇にとって皇后は、普通の妻以上の存在であったのかもしれません。

時々睡魔に襲われましたが、それは戦時中であるにも係わらず、静々淡々と毎日が進む天皇の暮らしぶり観て、ゆったりした気分になり、頭からアルファ波でも出ていたのかも知れません。

昭和天皇というと、戦争責任云々が取り沙汰されますが、ソクーロフは責任はなかったという見解のようです。少し奇妙な感じはしますが、好人物に描かれていて、まずは良かったと思います。連合軍兵士が天皇のスナップ写真を撮る時、「チャップリンそっくりだ」と口々に囃し立てますが、当時は冷やかしの言葉であっても、今聞くと暖かい褒め言葉のように感じます。


2006年10月06日(金) 「カポーティ」

昨日観て来ました。題材が「冷血」を取材していた時のトルーマン・カポーティだと知った時から、観ようと決めていた作品。予告編のホフマンの喋り方を耳にした時から傑作の予感が大で、この秋一番観たかった作品です(二番目は『ブラック・ダリア』)。凍りつかされ、打ちのめされて、しかし人はやっぱり鬼ではないのだと、観終わった後無性に涙が出た作品です。今では事件を題材にしたノンフィクションノベルは、一つのジャンルですが、「冷血」はその第一作だそうです。本年度アカデミー賞主演男優賞作品。

人気作家のトルーマン・カポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、新聞に載ったカンザスでの一家四人惨殺事件に興味を持ちます。この事件を書きたいと思った彼は、幼馴染でやはり作家のネル・ハーパー・リー(キャサリン・キーナー)を伴い、取材に出かけます。使える手段は皆使って、犯人二人に直接話を聞けるまで漕ぎ着けたカポーティ。犯人の一人、ペリー・スミスと会談を重ねるようになり、ペリーの信頼を得るカポーティ。しかし作品完成までに、壮絶な時が彼らを待ち受けていました。今回ネタバレ気味です。

「冷血」に関しては原作は未読ですが、粗方の内容は雑学程度には知っていた私ですが、数年前にアメリカのテレビムービーだった作品をビデオで観ました。もう一人の犯人・ディックの役が、愛しのアンソニー・エドワーズだったので観たのですが、監督が「告発の行方」のジョナサン・カプランだったので、ちょっと期待しましたが、冗長な作品であまり強い印象も受けませんでした。この時のペリー役はエリック・ロバーツ。今回のペリーと被る部分のあるキャラクターでした。有名な映画版は未見ですが、「冷血」がどんなお話かは、とにかく知ってはいました。

予告編だけで私を魅了した、ホフマンのお芝居が素晴らしいです。カポーティは偏見が今よりずっと激しかっただろう当時でも、自分がゲイであることを隠しません。甘ったるい喋り方に毒のあるジョーク。文壇や社交界などの派手な場所が大好きで、そこでは輪の中心であることを望み、虚栄心の強さを隠そうともしない強烈なキャラクターです。こういった場面は、隠された孤独を表すように使われがちですが、彼の場合は、仇花のように思われている自分を、誇ってさえいるように思えます。ゲイであることで孤独を感じるヤワな神経では、「冷血」なんぞ書けやしない、その壮絶な作家の業がのちに明らかにされます。

作品を書き上げるため、自分のファンの刑事の妻に取り入り、ショックを受けている第一発見者の少女にも有無を言わさず面談を申し込む。犯人たちに会うために警察側に賄賂を渡すなど、なりふり構いません。良い弁護士をつけよう、そうすれば死刑は免れるかも知れないと、犯人に囁くカポーティ。それは彼らのためではなく、取材の時間を引き延ばし、より綿密な取材がしたいだけなのです。

予告編で「彼と僕は同じ家で育ったような気がする。彼が裏口から出て行って、僕が表から出て行ったのだ」というセリフを聞いて、同じような環境のペリーに感情移入したのかと思っていました。なるほど、二人とも母親の確かな愛情を受けて育ったとは言い難く、その辺は似ています。しかしそのことをカポーティが話したのは、ペリーの信頼を得る為だったのではと思います。表と裏、それは「芸術的才能」ではなかったか?若かりし頃から文壇でもてはやされ、才能を開花したカポーティ。一方、留置所で鉛筆一本で見事な絵を描くペリーは、殺人犯として牢獄の身です。彼がペリーにシンパシーを感じたとしたら、そこではないかと思いました。

当然自分たちに有利な内容だと思い込んでいるペリーは、作品の進み具合を気にし、タイトルを聞きます。タイトルは「冷血」。筆もどんどん進んでいるのに、ペリーにはほとんど書いていないで押し通します。何故なら、作品の山場である殺人時のお話を、ペリーから聞いていないから。ひょんなことからこのことが露見しますが、ペリーの怒りを買うも、これがきっかけで、何故彼らが残虐な殺人犯となったか、その時の心情が取材できました。

ここまでも息もつかせぬ展開で見せているのに、更なる追い討ちが。せっかく彼らの死刑で脱稿・出版の運びとなるはずなのに、控訴が認められ、死刑が延期になるのです。このままでは世紀の傑作となる作品は世に出せず、会いたい、弁護人を探して欲しいと頼むペリーを拒否するカポーティ。心から彼らの死を願うカポーティ。この事件の担当刑事(クリス・クーパー)に小説のタイトルを教えると、「それは事件のことか?それともあんたのことか?」と切り返されます。

これが小説家の業なのか?
ネットにこんな感想文を書いている私は、多分映画の次には、文章を書くということが好きなのでしょう。素人とプロの違いは、文章の上手い下手、お金をもらうため自分の信念を捨てて、悪魔に心を売って書くときもある、そういう認識でした。それは違ったのです。カポーティは悪魔に心を売るのではなく、自分が悪魔になる覚悟を持って書いているのです。どんなに筆が進んで、素晴らしい作品が仕上がっても、楽しいことなんかちっともないはず。楽しんで書くのは素人だけなんだ。納得出来るものが書けたらそれでいい、そういう自己満足じゃだめなんだ。自分の書いた作品から生み出される名声は、どんな快感や快楽にもきっと勝るのでしょう。遅々として進まない時間の経過は、私を心底戦慄させました。

そんな悪魔的なカポーティですが、皮肉にもペリーに請われ死刑の場の立ち会うと、「冷血」の大成功以降、小説が書けなくなってしまいます。創作から逃げた彼が求めたのは、麻薬にアルコール。カポーティのような才能あるひとでも、人はやはり悪魔にも鬼にもなれないのでしょう。彼の最大の理解者であるネル(あの「アラバマ物語」の作者)、パートナーのジャック(ブルース・グリーンウッド)も共に小説家ですが、彼らはこうした取材の果てのカポーティの姿が、多分予測出来たのではないかと思います。二人とも止めなかったのは、それを傑作と成す力を持つ小説家は、カポーティしかいないと思ったからでは?その事は作家冥利に尽きることだと、彼らは思っていたのかも知れません。役者が舞台に上で死にたいのと同じことなのでしょう。

事の成り行きが心配で、全てに上の空のカポーティに、「あなたが一番大切にしなくちゃいけないのは、ジャックよ」と語るネル。姉弟のようなキスのあと、彼女を見送るカポーティの丸くて狭い肩幅の背中は、まるで幼い子供でした。子供は分別なく見境なく、欲しいものは手に入れたがるもの。そして無邪気な笑顔で大人を虜にするのだ。大人であったカポーティは、虜にするものを残し自分は小説家として廃人となります。しかしネルやジャックは、その後も丸ごと全て、カポーティを受け入れてくれたのではないか?我がままで自我の強く破滅的、しかしこの上なく魅力的なカポーティに魅せられもした私は、この凍りつくようなお話に、暖かい体温を二人から感じたいのです。


2006年10月01日(日) 「レディ・イン・ザ・ウォーター」

「シックス・センス」は何かの間違いだったのだと、世界中の映画ファンから多分思われている、マイケル・ナイト・シャマランの作品。でもご覧下さい、このセンス抜群の美しいポスター。私がシャマランの前作「ヴィレッジ」を好ましく思ったのは、今回も妖精役で主役を張る、ブライス・ダラス・ハワードの存在があったから。なので、脱力承知で初日に観て来ました。まぁね、こんなもんですよ。予想より遥かに下回る出来ですが、彼女とジアマッティが心優しかったので、文句は言うまい。


クリーブランド(ポール・ジアマッティ)は大きなアパートの管理人。単調な管理作業をこなし、静かな生活を送る彼の前に、アパートのプールの中から神秘的な美女(ブライス・ダラス・ハワード)が現れます。その美女はストーリーと名乗り、訳ありのよう。クリーブランドは住人の一人から聞いたお伽話から、ストーリーは韓国で言い伝えられている、「水の妖精」ではないかと思い初めます。お話の内容を聞くうち、それは確信となり、アパートの住人に協力を求め、ストーリーを元の「青の世界」に帰してあげようと頑張ります。

私はこの作品を決して嫌いではありません。しかし文句は言いませんが、正直に感じたことは書かないと。だって、だってね。ありがたいことに、こんな素人の駄文を参考に、少ない時間を都合して映画館に足を運んで下さる方がいらっしゃるのです。正直に書かないと、私の細々と築いてきた「感想文書き」のキャリアが、ガラガラ音を立てて崩れてしまうというものです。

この作品と他の作品で迷われている方、どうぞそちらをご覧下さい。

この作品は、私のようなどうしも観たい人、ブライスちゃんが大好きな人、暇つぶしの人以外は、相当きついです。シャマランが自分の二人の娘に、寝物語に自ら作ったお話を元に脚本を書いたそうですが、元というか、多分そのまんまなんでしょうね。映画の脚本になっていません。

出だしは全然悪くありません。アパートの住人たちの紹介の仕方は、短いですが程よくまとまって、キャラが解りやすいです。何となくみんな意味やいわくありげです。しかしあの持って行き方は、伏線とかどんでん返しなんかじゃなく、ただの得手勝手というもの。びっくりして、開いた口がふさがりません。

それにストーリーが妖精だなんて、何故信じる?「ET」のような外見ならまだしも、尻尾もなく羽もなく、外見はとても美しい女性なのです。その彼女が完璧に会話できるは、字は読めるは、何故妖精だと思い込むのか、全く不思議。韓国系女性のお話から紐解いていくのですが、何故に韓国?同時通訳みたいなのも、全然面白くない。あげくちょっと変わり者の住人が、単に映画関係の物書きだというだけで、彼のヒントをまるごと信じるし、白羽の矢がたった住人たちがストーリーを見て、全員が協力を承諾します。

だから、何故信じる!

ストーリーを助けようと決行するパーティも、何の意味が?多分シャマランの中では筋は完成しているんでしょう。トランシーバーがつながらなければ、走って言ってこい!目と鼻の先だろうが!ストーリーが「青の世界」に戻るのを阻む魔物も、何故なのか理由があったけど、理由のための理由なんで、もう内容は忘れました。ラストにややいつものどんでん返しの雰囲気はあるものの、今回はあまりにしょぼ過ぎて、またそんなアホな!と言う感じ。意味のない人の紹介が全て伏線だなんて、観たことがありません。てか、あの紹介に意味があったのか?私がアホやったんでしょうか?

出たがりシャマランは、今回チョイ役ではなく、重要な役柄(と、彼は思っているはず。でも実は無駄な人)で出ていますが、少し未来が予言出来るストーリーに語らせる未来は、あれ自分の願望なのかしらん?もう他にもはっ?へっ?何故?&脱力のシーンが満載です。いわゆるトンデモ系になるのかとは思いますが、それにしては、未来に語り継がれるパンチ力が薄いと感じました。

見どころが全くないかと言えば、そうではありません。上に書いたようにブライスは透明感抜群で美しく、長く綺麗な足は惜しみなく出すも、バスト・ヒップの露出はなく、清純派としての自分を守りながら存在感は際立ち、とても良かったです。それと父性愛のような愛情をストーリーに注ぐジアマッティが良かったです。彼は冴えない善良な人の役がとても似合うので、こんな美女に手も出さず、紳士的な無償の愛を捧げる男性を、好感の持てる演技で見せていました。他にも撮影はあのクリストファー・ドイル。さすがに青みを帯びた画面は美しく、これは楽しめます。

シャマラン作品に付き物の、胡散臭さ・いかがわしさはなりを潜め、今回は善人ばかりのファンタジーでした。作りこんだら、妖精版「ET」がみられれたのにと、ちと残念です。でも観たかったから、文句は言うまい。


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