ケイケイの映画日記
目次過去未来


2006年09月29日(金) 「母たちの村」


2004年度カンヌ映画祭「ある視点部門」グランプリ作品。珍しいセネガルの作品です。まだアフリカでは広く行われている女子の割礼を題材に、虐げられた女性たちが、人としての尊厳を勝ち得るまでのお話です。アフリカは映画的には後進国なのでしょう。フィルムの状態があまり良いとは思えなかったり、会話の流れがスムーズでなかったり、一部の俳優の演技が素人に毛が生えたような感じもします。しかしそんな細かいことは全て吹き飛ばしてしまうほどの、大地の鼓動のような力強さを感じさせてくれる作品です。

西アフリカのとある村で、少女が4人コレの家に逃げて来ます。彼女たちは年頃の娘に施される女子割礼を嫌い、七年前自分の娘アムサトゥに割礼をさせなかったコレを頼って逃げて来ました。コレ自身は割礼をしていましたが、そのため二人の子供は流産し、アムサトゥも難産の末帝王切開で産んでいました。そのためアムサトゥには、割礼を拒否したのです。彼女たちを保護することを決めたコレは、家の入り口に縄を張ります。これは「モーラーデ」(保護)と呼ばれる儀式で、コレが娘たちの保護を辞めると宣言しなければ、他の者は少女たちに手出し出来ない掟なのです。このことがきっかけで、村は思いもよらぬ騒ぎに発展するのです。

女子割礼は未だに行われていることは知っていました。しかし性器の切除は一部分だけだと思っていたのですが、これが大違いで、ほとんど全て切り取られることもあるそうで、衛生管理が行き届いていない場所での手術がほとんどのため、割礼のために命を落としたり、排尿痛・激しい生理痛・出産時の難産・性交痛など、様々な症状が女性たちのその後人生を苦しめます。詳しくはココ

割礼もモーラーデも古くから伝わる因習です。女性の割礼師や少女たちの母親が、コレの下に娘を返すよう騒ぎ立てます。少女の中には、実の姉を割礼で失い、だから割礼を拒否している子もいるのにです。イスラム教を信仰する彼らは、割礼がコーランに書かれたお浄めの儀式と信じていますが、実はイスラム教の教義には、女子割礼はありません。「一人一万フラン」と囁く声がさりげなく挿入され、少女たちは割礼師の飯の種であることがわかります。

母親たちは自分たちも割礼の後遺症に悩まされているはずなのに、何故娘にも割礼を施すのか?それは割礼を受けていない娘は「ピラコロ」と呼ばれ、結婚出来ないからです。結婚出来ないことは、この村では生きていく術がないということ。それほどまでに女性は従属され抑圧されているのです。夫婦は一夫多妻、妻は金で買われる存在です。いう事を聞かないコレは殴れと、ムチを渡すコレの夫の兄。女たちに外の世界を知られてはいけないと、彼女たちの大切な知識や情報を仕入れる物であるラジオを、没収してしまいます。

抑圧されているのは女だけではありません。超保守的な考えのこの村では、村長を初め長老男性が全てを支配し、村長のフランス帰りの長男の新しい考え方は、ことごとく否定されます。

ラジオを没収された時、「何故ラジオを取り上げるの?」と一人の女性の言葉に、横の女性が「私たちの心を閉じ込める気なのさ」と語るのが印象的。コレの奮闘ぶりに、女性たちは段々と自意識に目覚め始め、一つになっていきます。

古くから伝わる因習を悪しき物と覆すのは、並大抵ではありません。外から観る私たちの価値観ではとんでもないことでも、その国の人々にとっては生まれた時からの習慣であり、言わば文化。この作品はアフリカ映画の父と言われるウスマン・センベーヌが監督しているので、その辺も上手く撮ってあり、決して野蛮なだけの印象は残りません。助けを求めた人を保護するモーラーデでしかり、コレも第二夫人です。同じ敷地に住む第一夫人は、嫉妬するのでもなく、コレや第三夫人には妹のように接し、まるで姉妹のようです。それが証拠に、一番にコレの理解者となり味方になってくれます。

そしてフェミニズムというと、VS男性という図式になりがちですが、この作品では因習に自ら縛られる保守的な女性たち、コレたちに賛同しながらも、長老たちに否定される男性の葛藤も盛り込んでいて、視点はとても公平です。男性の理解なくば、女性の心身の解放は望めません。男性たちを糾弾するだけの作品にはない、知性が感じられました。同じアフリカの男性であり、作品の中の長老たちよりまだ年上の80代のセンベーヌ監督が撮ったのは、とても深い意義があることだと思いました。

私はアフリカ女性の健康的な褐色の肌、大きな胸、しっかりしたお尻を見ると、孕む性をこれほど表現した女性たちはいないなと、いつも強い母性を感じます。原色の民族衣装に身を包み、かいがいしく動きながらも、ゆったりとタバコをくゆらし姿が大らかで素敵です。あまり目にすることのないアフリカの村の日常が垣間見えるのも見所です。エンディングで流れる「女性よ、学びなさい」と訴えかける歌が印象的。「母は強し」は、万国共通のようですね。

余談ですが、一夫多妻って男性にとっては本当に楽しいもんなんでしょうか?妻が何人もいるなんて、想像するだけでも冷や汗が出る男性の方が多いと思うんですけど〜。あくまで妻ですよ、愛人さんじゃありませんので。


2006年09月27日(水) 「フラガール」


公開が先週土曜日の23日というのに、ネットの映画友達がこぞって大絶賛の作品。それも映画が大好き、愛しているからこその、少々厳しい審美眼を持つ方々ばっかりがです。こんな題材、今までいっぱいやってんのになぁ、でもそんなに面白いのならと、早速25日の月曜日に観て来ました。結果娯楽作として完璧な、とても立派な作品でした。泣いて笑って、最高の気分。本年度アカデミー賞外国映画部門・日本代表作品。

昭和40年の福島県いわき市の炭鉱町。かつては隆盛を誇っていた炭鉱でしたが、他のエネルギー資源に取って代わられ、閉山が相次いでいます。炭鉱夫のリストラも進み、閉塞感漂う街を救おうと会社が考え出したのが、「常磐ハワイアンセンター」というレジャーランド。会社側が運営を任せた吉本(岸辺一徳)は、ここの目玉に、素人のこの町の女性たちにフラダンスを踊ってもらおうと考えています。しかし炭鉱夫たちは、この計画に大反対。紀美子(蒼井優)など数名の応募者が集まる中、吉本は東京から元SKDの花形ダンサーだった、しかし今は落ち目の平山まどか(松雪泰子)を、先生として連れてきます。

私は知らなかったのですが、フラダンスの優美で流麗な手の動きは、手話なのだとか。私・あなた・山・愛しています、などなど、踊りに言葉が込められています。腰ミノをつけ、優雅な踊りがフラダンスだと思いがちですが、紀美子たちがフラに魅せられたのは、まどかが踊る力強く情熱的なタヒチアンダンス。田舎の夢のない暮らしに閉塞感を感じていた彼女たちに、光りをもたらすのを、こちらに踊りにしたのは良かったです。

斜陽とはいえ、親や祖父母の代から炭鉱をで働くことがプライドだった人達は建設自体に猛反対なのに、その上半裸でフラダンスを踊るなど、ストリッパーと同じ。大事な娘にそんなことさせられるかと、ここでも娘VS親とのバトルがあります。

気の強い紀美子がそれ以上気の強い母(富士純子)に、「ダンサーになろうち、ストリッパーになろうち、オラの人生だ!」と、可愛くもクソ生意気に言い放つと、すかさず母ちゃんのビンタが。その他でも大声を張り上げ、母ちゃんVSまどか、まどかVS紀美子、フラガールたち同志など、親の仇かと思うほど、本音をバンバン出しながら相手を罵り言いたい放題言い合いますが、根には持ちません。その諍いを肥やしにして成長していく様子がとっても気持ちがいいです。

確かに「オラの人生だ!」なんですが、あのね紀美ちゃん。紀美ちゃんのあんちゃん(豊川悦史)は、オラの人生など選べず、父ちゃんが亡くなった後、紀美子を養うために、母ちゃんと二人で泥だらけになり炭鉱で働いたはず。紀美子が親友(徳永えり)の行けなかった高校に通えたのも、あんちゃんのおかげだと思います。その事は母ちゃんもあんちゃんも決して紀美子には言いません。しかし紀美子に反対する母ちゃんの心には、勝手なことをさせては亡き夫以上に、息子にすまないとの気持ちが潜んでいたのではないでしょうか?しかし自分が出来なかった「オラの人生」を、妹には歩ませたいと思って、影ながら妹を支える兄の心は、家族らしい思いやりのある行き違いだなと微笑ましいです。

親友も結局ダンサーにはなれません。リストラになった日、フラダンスの衣装を身にまとった娘を見た父は、まさに浮かれてストリッパーになる気なのかと思ったでしょう。明日の糧を心配しながらの帰宅のはずが、甲斐性無しの自分をなじられた気になったのかも。顔も判別出来ないほど殴られた親友が、「オラが悪かったんだ」と、父の気持ちを思い、自分の境遇を受け入れたのを一番理解出来るのは、紀美子の兄だったかもしれません。

皆と別れる親友が、「フラを習って良かった。人生で一番楽しかった」の言葉と、まどかを先生と呼び泣きながら抱きつく姿は号泣させられます。高校にも行けず先生と呼べる相手もいなかった彼女。お金のために、いやいや技術だけを教えようと思っていたまどかが、本当に「先生」に成れたのは、彼女の存在があったからのように思います。

死に体寸前のやる気のなさと侘しさを、気の強さだけで踏ん張っていたまどかが、教え子たちの純粋な上手くなりたいという懸命な気持ちに触れ、今一度ダンサーとしてのプライドを取り戻し、まどかの再生物語にもなっているのは、定番ですが観ていて嬉しいものです。それは吉本の言う、「東京のダンサーに踊ってもらっても意味がない。この炭鉱の田舎娘に上手に踊ってもらってこそ意味がある!」との信念にも、繋がることだと思います。

このお話の良いところは、炭鉱にしがみつく人間を古臭いと否定せず、彼らの自分の今ある境遇の中から、最善の方法を取って生きてきた姿を尊重しながら、その世界を飛び出そうとする若々しい姿も、両方肯定して描いているところです。飛び出そうとする力は、ともすれば自分ひとりで頑張っていると思いがちですが、それは違います。紀美子の兄の姿、親友が紀美子の初舞台に祈りを込めて送るハイビスカスの髪飾りなど、たくさんの人の助けや思いが血となり肉となって、その人に力を与えるのです。あの枯れそうな椰子の木が持ちこたえたのは、そういう意味ではなかったでしょうか?

その思いの集大成が、フラガールたちの踊りです。本当に見事な出来栄えで、なかでもソロでタヒチアンダンスを踊る蒼井優は圧巻。上記に書いた感情が入り交ざって、観ながら感激で涙がボロボロ。彼女は幼い時よりバレエを習っていたそうですが、見事という他ない踊りでした。私はダンスは全然わかりませんが、同じ踊りを踊って、松雪泰子は情熱的で妖艶、優ちゃんは可憐ながらセクシーと、受ける印象もはっきり違いました。

通俗的といえば通俗的。どこかで観た聞いたお話のはずです。しかし丁寧に心のひだを一つ一つ紐解いて描けば、時代の波に飲まれて落ちぶれた人や街が再生するお話は、いつの時代にも受け入れられる、普遍的な題材なのです。やはり映画は、希望と感動を与える物であって欲しいなと、平日ながら、お子さんから(前日運動会があって、振り替え休日なため)お年寄りまで満員の劇場で感じました。




2006年09月22日(金) 「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」

遂に観てまいりました。キング・オブ・カルト、石井輝男の「恐怖奇形人間」です。長いこと観たい観たいと思っていた作品でしたが、内容が内容のため、ビデオ化もDVDも出ておりません。熱狂的なファンが居る模様で、あちこちの特集上映で何度も上映されるも、たまに大阪に来た時はレイトばかり。一昨年もテアトルで上映されたのですが、レイトだったのであきらめました。何気なくネットで検索している時、大阪は高槻の映画館でこの作品を上映すると知りました。それも陽の高いうちに!

しかしここで問題が。主婦というのは子供が大きくなっても、当日どんな用事が出来るかわからんので、こういう特集上映では前売りを買うのはとっても危険。そうするとですよ、映画代1800円、高槻はとっても遠いので電車賃往復1080円で、なんと3000円近くするではないか!

日頃映画代単価千円切るのに必死な私がですよ、そんなお大臣さまのような料金、滅相もございません。それも家族や友人に言えないようなタイトルの作品をですよ、家から小学生の遠足並に遠い所までですよ、また「独りで」(家族に言わすと変人らしい)観に行ったことがわかれば、何を言われるかわかりません。またあきらめるのかぁ・・・

と思った私に救いの手が!ミクシイで私の友人さんたちにはお馴染みの北京波さんから、大阪府下ほとんどの劇場で使えるチケットを5枚もいただきました。お優しい北京波さんは、「ご家族分」と仰っていましたが、そんなもの、私独りで全部使います。くー、(無駄に)精進していて良かったなぁ。

理由がわからぬまま精神病院で監禁されていた医学生の人見広介(吉田輝男)は、彼を殺そうとする坊主頭の男を逆に殺して、病院を脱走します。その途中自分の記憶する子守唄を歌うサーカスの少女初枝(由美てる子)と知り合い、次の日の再会を約束しますが、彼女はその時何者かに殺されてしまいます。殺人の汚名を着せられた広介は、彼女の残した「裏日本」と言う言葉を手がかりに、旅に出ます。途中の電車の中で、自分と瓜二つの菰田源三郎という男が亡くなったのを知る。何か秘密を解く鍵があるはずだと、源三郎が生き返ったとして、菰田家に入り込んだ広介。源三郎の父丈五郎(土方巽)は、生まれつき指に奇形があり、そのため人嫌いになり、無人島にこもってくらしているというのです。その島で丈五郎は、奇形人間の楽園を作ろうとしていました。

先に一言。

遠い・・・遠いぜ高槻セントラル!

私は大阪市内の地の利の良いところに住んでいるので、あんなにたくさん駅を通り過ぎたのは、何年ぶりかなぁ。

大体の筋は知っていたのですが、精神病院の看守役の高英男でまず大受け(これに肯いたら、あなたも立派な好事家)。シャム双生児の片方が近藤正臣なのは知っていましたが(その方が変。画像の左のお人です)。カラーなんですが、なんとなくモノクロムードの精神病院の様子は、おどろおどろしくて、なるほどなかなか観られないような薄気味悪さです。

この作品は1969年度の作品で、1961年生まれの私は、小さい頃夕暮れまで外で遊んでいると、祖母から「子取りにさらわれて、サーカスに売られてしまうで」と言われたもんです。サーカスにはそんな秘密めいたムードがあったため、初代はサーカスの少女という設定だったのでしょう。それに「裏日本」!そうそう、私が子供の頃は、太平洋側を表日本、日本海側を裏日本と、普通に言っていました。いつの頃からかそういう呼称はなくなりましたが、懐かしく思いながらも、やっぱりこの言い方はあかんわなと思う私。

広介が源三郎に成りすます場面で、由利徹、大泉滉のお坊さん、上田吉二郎のお医者さん、看護婦役で桜京美まで出ているではないか!こんなのんびり笑えるシーンがあるのも知らなかったので、なかなか新鮮です。

この後源三郎に化ける吉田輝男に爆笑させられっぱなし。いや監督にはそんなつもりはなかったんでしょうが。だって老乳母さんが、夜中今にも化け猫に変身しそうな怪しさで、行灯のような暗がりの中でですよ、「旦那様のお写真を観ていたんですよ・・・」と薄気味悪く語れば、何か感づいてるぞの伏線だと思うでしょ?それが写真を観て「源三郎は左利きだったのか!ふぅ〜、危ないところだった・・・」と、吉田輝男の独白が入り、たったそのためのシーンなわけ。他にも源三郎の日常を知らない広介は、メガネを使わなかったり、飼い犬に噛み付かれそうになったり、左手で字が書けないので、わざと証書の上のお茶をこぼしたり、もう怪しい怪しい、怪しすぎ!なのに誰も気づきません。

それどころか妻も愛人も「抱いて・・・」と迫るのに、バレたらどうしようと、すんごく葛藤するのに(←とても笑えます)、結局両方ともとベッドイン(布団インか?)。「源三郎になりきるため、ボクは神経をすり減らした・・・」と独白が入る割には、結構お楽しみじゃん。この手のお楽しみシーンは、当時の東映やかつての新東宝では必須アイテムだったみたいです。

それが一転、父親に会いに無人島に渡ると、かなり気持ち悪くタイトル通りの世界観が繰り広げられます。自分が奇形であったため人に蔑まれた丈五郎は、この島で奇形人間の楽園を作るつもりで、健常な人をさらってきては、人工的に奇形にしていました。この奇形の様子が、私の想像を絶しておりまして、身体障害というよりインモラルな雰囲気がプンプン。人間と動物を合体させたり、男女のシャム双生児を作り上げたり、人間を川に放ち、魚のように飼ったり、家畜のように草を食ませたり。グロいというより、精神的にやられる造形です。中には昔懐かしの金粉ショーのような人もいましたが。しかし演じるのは丈五郎を演じる土方巽の率いる舞踊家たちなので、アングラの風味が加味され、観るに耐えない醜悪さ、というのではありません。

土方巽は「暗黒舞踊」という新しい表現方法の舞踊の創始者で、身体障害を持ち心も病んでいる丈五郎を、確かに薄気味悪く演じているのですが、その体をクネクネさせて丈五郎を表現する様は妙な力強さと繊細さがあり、異形の哀しみが溢れています。広介に「あなたは狂っている」と表現される彼の内面は、それは繊細な神経の持ち主だから、狂人になったのではまで思わせます。

実は(予想通り)広介と源三郎は双子で、奇形人間の理想郷を作ろうと思った丈五郎は、広介を養子に出し、外科医にさせ奇形人間を作り出そうとしていたのです。父に脅され渋々承諾する広助ですが、愛し始めていた人工的にシャム双生児にされていた秀子の分離手術を条件にします。三国一の花嫁と謳われた彼らの母は、障害者の丈五郎を嫌い、愛人を作ったのです。怒った丈五郎は二人の出産後、愛人と妻をこの島に監禁、食事も与えず放置します。愛人だけが死に生き延びた妻は、その後丈五郎の手によって、醜いせむし男に犯され、初代と秀子を産みます。二人がそのことを知ったのは結ばれた後なのは、丈五郎の思惑通りでした。

コメディかいと爆笑したり、痛々しかったり、薄気味悪かったり、感情がアップダウンというか、アップしっぱなしの中、どうまとめるのだと思っていたら、下男に化けていた大木実が実は明智小五郎だったということで、10分もかからずに事件の謎を解決(依頼者もいないのに)。執事の小池朝雄と丈五郎の姪静子が黒幕だったのですが、内容はどうでもいいので割愛。ただ小池朝雄が(カッカッカ)。意味無く性倒錯者という設定なので、女装で女王様のごとく振舞ったり、人間椅子になったり、「屋根裏の散歩者」に出てきた殺害の仕方をやっていたりと、この10分が大忙し。最後まで笑いに手を抜きません(えっ???)。

きっとこのまま丈五郎は殺されるか自殺するんだろうなぁと思っていると、明智に追い詰められた彼を、なんと二十数年丈五郎に弄り者にされていた妻が、「この人を許して下さい!この人がこうなったのは私のせいなんです。私が全て悪いんです!」とかばうではありませんか。意表をつかれた私。

妻は自分の一番恥じる不倫を子供たちに聞かれています。その上生きるため、亡くなった愛人の体をエサにして集ったカニを食べて生き延びたことまで知られてしまいます。思うに三国一の美しさで、資産家の丈五郎に買われるように嫁に来たのでしょう。その美しさを武器に丈五郎の孤独も知ろうとせず、傲慢に振る舞い妻らしいことも何もしなかった彼女。自分も人間以下の辱めを受け、人間ではない家畜以下が日常となっても、子を思い恥ずかしながら生き延びたい希望を捨てずに生きた日々が、丈五郎の孤独も辛さも理解させたのではないでしょうか?舌を噛み自殺しようとする丈五郎が、「憎んでも憎んでも、それでもお前を愛していた」の言葉のあと、涙を流して抱き合い和解する二人。愛と憎しみは表裏一体、誰にも愛されたことがない丈五郎は愛し方を知らず、地獄に相手も道連れにしなければ、愛を勝ち取れなかった辛さに胸が痛みます。

と、ちょっとしみじみしていると(こんな作品で・・・)、唐突に例の有名な

ドッカーン!!!「おかーさーん!!!」

が。異父兄妹のため、この世では結ばれない広介と秀子が世をはかなんで、人間花火となって、頭が、足が、胴体が、結ばれた手が(!!!)バラバラになって宙に舞うというシュールなラストシーンに突入。めっちゃ笑いたかったんですが、場内平日のお昼のためか空いていて、誰も咳払いもしないので、笑いを堪えるのに必死の私。百聞は一見にしかずのものすごいシーンでした。

という見所満載の作品。しかし私が意表をつかれたシーンは、当時の観客も同じだったのではないかと思います。この作品を観ようと思ったのは、見世物小屋を観るのと同じ感覚だと思います(もちろん私も)。期待に違わぬシーンに満足していた終盤、あんな真っ当な愛を見せられ、この映画の印象が変わったのでは。語り継がれる理由は、カルトもカルト、大カルト大会のこの作品の、この部分のせいではないかと思います。ドッカーン!は、スパイスということで。


2006年09月20日(水) 「花田少年史  幽霊と秘密のトンネル」


やっとこさ観てきました。テレビCMで流れる、「母ちゃんの人生には、最初からお前がいたような気がする」という、母親役の篠原涼子のセリフは、親ならとても共感出来るセリフだと思います。子供が何より大切だ、子供にこんなにしてやっていると大声で言わなくても、このセリフ一つで、親の子供への思いは全て語られているように思います。そんなドンピシャだったりデリケートだったりする親と子の感情を、笑わせ泣かせてくれる作品で、ちょっと詰めが甘い部分もあるのですが、泣いているうちにどこかに飛んでいっちゃった。

片田舎の猟師町に住む腕白少年花田一路(須賀健太)は、父大路郎(西村雅彦)、母寿枝(篠原涼子)、姉徳子、祖父徳路郎(上田耕一)と、慎ましくも賑やかに楽しく暮らしていました。ある日遊んでいる時、トラックにはねられた一路は、瀕死の重傷を負います。臨死状態になった一路は、幽体離脱を経験しますが、その時現れた女子高生姿の聖子(安藤希)の助けにより、九死に一生を得ます。また元通りの生活を送るはずの一路でしたが、臨死体験後、幽霊が見えるようになります。

子供たちを描く日常がすごく良いです。子育てをしていて、一番楽しいのが小学生の時です。まだ親と喜んでついてくるし、お腹が空いたのも我慢出来るし、格段に行動範囲が広くなります。そして何より、まだまだ親が世界中で一番好きです。その一番好きだという気持ちが素直に表現されている場合もあれば、可愛く切ない反抗も見せます。父が、母が、自分の本当の親ではなかったら?自分より大切な人が出来たらどうしよう?その愛しい感情を、抱きしめたくなるように描いています。

一路の親友壮太の、再婚話の出た母親を気遣いながら、隠れて亡くした父を想う心は、親とは幼い子供にとって、肉体はなくなってもなお恋しい存在なのだと、胸に染みます。母の再婚相手の子・桂の、壮太とは違う敵意むき出しの感情も、思春期が早く来る女の子と、いつまでも幼い男の子との対比になっていて、とてもよくわかります。同じ片親でも、母と父の違いも感じさせ、それが表面は気がきついが、内面は心寂しい桂と、泣き虫だけど情感豊かな優しい子に育った壮太の違いで、上手く表現されていました。

子供にはうかがい知れない大人たちの秘密を、子供がかぎまわるようにする様子に、昔を思い出し、とてもニンマリしました。自分はそうだったのに、親になると忘れている事って、案外多いですよね。

がさつで凶暴な一路の母ちゃんを演じる篠原涼子が素晴らしいです。都会的なイメージの強い彼女が、明るく生き生きしているけれど、しっかり所帯くさい母親を、とても好演していました。いや、男の子の母親はあんなもんです。私も男言葉で息子三人、ぶっ飛ばしながら育ててきたので、あれで大阪弁ならまるで私です(あんなに美人じゃなかったが。これで2回目か・・・)。上記のセリフが似合う、肝っ玉母さんぶりでした。

父大路郎の、「お前が俺の子じゃなかったら、何が悲しくて育ててんだ!」のセリフは笑いました。そうですよね、何が悲しくてあんな小遣いで我慢してんだか。自分の子供なればこそです。



以下ネタバレ













しかしいっしょに遭難したのに、壮太の父は死に、自分は生き残った大路郎は、壮太の父の遺言どおり、壮太や壮太の妻に出来る限りの援助をします。彼が壮太の父を「見殺しにした」と言ったのは、人からなじられ、後ろ指さされなければやりきれなかったのだと思います。彼が漁師を辞めたのは、怖くなったからではなく、壮太の父との約束を守るため、絶対死ねないと、危険度が高い漁師を辞めたのだ感じました。

このように市井の人々の豊かな情感は上手く描けていますが、エピソードはやや散漫気味。北村一輝の地縛霊は、逆恨みの種があれくらいでは、納得出来ません。元々性格悪すぎというのは、脚本に芸がないです。安藤希の幽霊も、何故北村幽霊は歳を取らないのに、彼女だけ成長する女子高生になるのか疑問。心温まる、彼女と花田夫妻のエピソードですが、聖子の亡くなり方も唐突です。それと安藤希は悪くありませんが、セーラー服姿には無理があり、もう少し若い子でも良かったかと思います。いきなり北村幽霊が化ける術を使うのも疑問。そんな能力があることなど全然描かれていなかったので、かなり強引です。

とはいえ、エンディングで流れる後日談は、仲良くお弁当を食べる壮太と桂、壮太と壮太の母を託せる人が現れて、晴れて漁師に戻った大路郎を映し、また心和ませてくれます。

実はうちの次男も小2の時交通事故の遭いまして、いっしょに遊んでいた友達が、顔を真っ青にして、「○○君が車に轢かれて、スギタニ君の家のところを、つーっと行ったところで泣いている」と知らされた私は、オムツと哺乳瓶を持って、近所の人に一歳前のチビを預け、急ぎ自転車に飛び乗り、そのスギタニ君の家をツーっと行き、ツーっと行き、ツーッと・・・・・

ツーッとって、どこ?

慌てているので、きちんと聞くのを忘れたのです。この間にも血だらけで泣き叫ぶ次男の姿が浮かび、ほとんど涙目になって猛スピードでスギタニ君の家をツーッと行く私の後ろで、「あっ、お母さん」という次男の声が。後ろを振り返ると、かすり傷だけで、汚い手で泣いた顔を拭ったのか、まだらのパンダみたいな顔の次男がいました。へなへなその場に座り込んだ私。見渡すと見知らぬ大人の人が数人。一番年かさのおじいちゃんが、「この子があんまりお母さんいうて泣くんで、可哀想でな。それであんたが来るまで、みんなで待ってましたんや。」とニコニコ。あんなにありがたかったことはありません。「この人(運転していた人)もびっくりしてな、すぐ警察に電話してはりましたで。きちんとした感じの人やし、もうじき赤ちゃんも生まれるそうや(さすが年の功。話を引き出すのが上手い)。怪我も大したことないみたいやし、塩梅しったてな」とまたニコニコ。皆さんに礼を言って、すぐ病院でレントゲンやらCTを撮りましたが、どこも異常なし。擦り傷と打撲で済み、土曜日事故に遭って、月曜日には元気に学校に行っていました。でもね、乗っていた自転車はぐちゃぐちゃだったんです。我が家にも、聖子のような守護霊がいるみたいです。


2006年09月15日(金) 「マッチポイント」


う〜ん・・・。悪くなかったんですけど、面白かったんですけど、好きな作品じゃありません、と結論から言ってみる。ジョナサン・リース・マイヤーズの色男ぶりや、画像のスカーレット・ヨハンソンの妖艶さが大好評で、それは確かに上々でした。でもなぁ、私は監督ウッディ・アレンの無神経さというか意地悪さというか、そういうものを感じてしまって、だから後味悪かった作品です。

イギリスのロンドン。貧しい生い立ちからプロテニス選手になったクリス(ジョナサン・リース・マイヤーズ)は、今は引退して高級会員制テニスクラブのコーチをしています。そこへコーチを受けにきた上流階級の青年トム(マシュー・グード)に気に入られたクリスは、家族といっしょのオペラの公演に招かれます。そこでトムの妹クロエ(エミリィ・モーティマー)と出会います。クリスに夢中になるクロエ。上流階級の世界に入り込みたい野心の持つクリスは躊躇無くクロエを受け入れます。ある日トムの家のパーティに招かれたクリスは、トムの婚約者であるノラ(スカーレット・ヨハンセン)という魅力的なアメリカ人女性と出会い、一目で惹かれます。その後トムとノラは破局。クロエと結婚していたクリスですが、ノラとふとしたことから再会後、不倫関係に陥ります。

前半はとってもグッド。ジョナサンのハンサムだけどちょっと卑しさを感じさせる風貌やキャラは、確かに「太陽がいっぱい」や「陽のあたる場所」の貧しさから必死に成り上がりたい青年を彷彿させます。しかしどこか上流階級に溶け込めず、ノラに魅かれたのはその色香のせいだけではなく、同じ匂いのする彼女に、懐かしさや救われる孤独を見出したからでしょう。ノラに対する恋心に、純粋ささえ感じさせます。

スカーレット・ヨハンソンがもぉ〜。今21歳?ウッソー!30過ぎでも出せないような爛熟の色香を漂わせ、こりゃ男なら誰でもなびくわなと納得。「あなたは結婚まで漕ぎ着けるわよ。私とは違う」とクリスに語る姿は、捨て猫のようなほって置けない風情を醸し出し、ちょっとビッチな隙のある様子も含めて、あぁもう完璧。繰り広げられる数々のクリスとの痴態も、すごく刺激的でエロチックです。女の私でもいつまでも観ていたいような、クラクラ目眩がするほどの魅力が全開です。

妻の実家ヒューイット家の人々は、由緒正しき家柄なのでしょう。自分たちの財力と階級には、下々の者は誰でもひれ伏し憧れると思っていらっしゃる。それを無自覚に露にするのでいやみたらしいですが、アレンの皮肉り方が上手いので、滑稽にも感じます。ノラの言うクリスはOKで何故ノラはダメなのか?ノラは「嫁入り」する身分なので、ヒューイット家の一員として品性も家柄も問われますが(だから卑しき身分でビッチなノラはだめ)、クロエは一度パブのオーナーと駆け落ち騒ぎを起こしたいわば「傷物」。封建的保守的な上流社会の噂話に出ているはずです。いいところの結婚話は無理っぽい、そこへ現れた身分卑しき容姿端麗の青年は、如才なく自分たちにも溶け込めそうだ。自分たちが援助して大きい顔が出来るので、娘はいつまでも親の手元、願ったり叶ったり・・・。上流階級って案外スノッブなのねぇと、これも上手く皮肉って面白かったです。

しかし後半になると、そのウィットの富んだ皮肉が、私はには一気に悪意に感じられたのです。


以下ネタバレ













なかなか妊娠しないクロエが不妊治療に懸命な中、皮肉にもノラが妊娠します。しかしこの女二人がギャーギャーギャーギャー、鬱陶しいったらありゃしない。妻の頭は妊娠でいっぱい、子供さえいれば何となく鬱蒼とした、この家の空気も晴れるのよと思い込んでおり、夜は「もう一週間セックスしていないわ」だは、朝は朝で「今出来そうなの。出勤前にしない?楽しいわよ」って、アホかあんたは。夫はまるで種馬扱い。全くお嬢様ってやつは、何でも自分中心だね。対する愛人は、子供が出来た、あんたのせいだ、離婚して私と結婚するって言っただろう、あんたが言えなきゃ私が言うわよと、責めまくる。あのファム・ファタールぶりやいずこ、ただのおバカなあばずれに成り下がってしまいます。あのね、あんたが言ったんでしょう?「私と寝るようなヘマをしない限り、あなたはクロエと結婚出来る」って。そんなヘマするような男が、あんたのために今の生活を手放すわけないでしょう?クリスが両方から逃げたくなって当然よね・・・

あれ???

それっておかしくない?

どうして私は彼女たちに同情しないのか?良き家庭を夢見て、子供のいないわが身を嘆き、早く子供をと若妻が思うのはもっともなハズ。今まで男に程よく弄ばれ捨てられて、もう2回も堕胎しているノラ。可哀想なノラ、哀れなノラ、今度こそ絶対子供が生めますように。そう思って当然なのに、私が鬱陶しく彼女たちを感じるのは、妻と愛人の間でコソコソ渡り歩き、お里の知れる卑屈なな小心者さを感じさせるクリスを含め、この三角関係を意地悪く面白がってアレンが描いているからのような気がします。上流階級を描く時の皮肉は下々の目線が面白かったのに、男女を描く皮肉は、アレンの女修行がそうさせたのか?しかし私は無粋者で色恋沙汰の修羅場も経験ないので、このラブアフェアをスリリングだと楽しめる器量がありません。何か不愉快なのだな。

この後ノラの始末に困ったクリスは、ノラのアパートの隣の老女も巻き込んで、彼女を殺害します。しかし「運の良い」クリスは逃げ切ります。これからのクリスの人生は、罪の意識と妻の実家の重圧に押しつぶされる、辛い人生だと暗示していますが、これもどうも私は納得いきません。運だって金次第ってか?何もクリスが捕まればいいってもんでもないですが、もうちょっと捻らんかいという感じ。例えばですよ、クリスは間違ってクロエを殺した、目撃したノラは自分の産んだ子をクロエとの子ととして、クリスに育てさせる、そしてクロエの子は自分が育てる。これで一生ノラにとってクリスは金の成る木・・・ってのはいかがでしょう?なんか「氷点」とか吉屋信子の少女小説みたいかな?今の時代なら昼メロの「牡丹と薔薇」の世界かしら?

そういうすごーく俗っぽい内容を、グイグイ引っ張って見応えある作品にしたアレンの力量は素直に認めます。完成度は高し、でも私は好きくない作品なのでありました。


2006年09月14日(木) 「トランスアメリカ」


昨日のレディースデーに観て来ました。上映中のガーデンのHPを観ると、すぐ終わっちゃいそうなので空いているのかと思いきや、またも通路に座り観・・・。なんかガーデン&リーブルのレディースデーは、座り観が定着しつつあるようで。トランスジェンダーという重いテーマながら、クスクス笑って軽く観られるタッチの作品で、そこが良いとも物足りないとも、両方感じさせる作品でした。

若い頃から自分の自覚する性と一致しないことが悩みだったブリー(フェリシティ・ハフマン)。医者やカウンセラーの同意がやっと取れ、女性になる性転換手術が目前です。そんなある日、ニューヨークの拘置所から、トビー(ケヴィン・セガーズ)と言う少年が麻薬の不法所持をして拘留中との連絡が来ます。トビーは昔ブリーが一度だけ女性と関係を持った時に出来た、彼の息子でした。カウンセラーのマーガレット(エリザベス・ペーニャ)に諭され、渋々彼の身元引き受けとなるブリーですが、これがとんでもない不良少年。見捨てて置けなくなったブリーは、男性ということも父親ということも隠し、彼といっしょにLAまで旅することにします。

どこでも書いていますが、性転換前の男性を女性であるハフマンが演じて、違和感ないことにびっくりします。日本でいうと所謂ニューハーフの人なので、華やかショーパブで働く人達の表の様子を想像しがちですが、ブリーは安食堂のウェイトレスや電話でのセールスで慎ましやかに生計を立てる、地味で堅実な人です。決して美しくはありませんが、エレガントで素敵な人だとわかります。毒々しく飾ってオカマちゃんに見せるより、ブリーのような造形は、実はとっても難しいはず。模型をつけての立ちションなど、びっくりのシーンも、今後の彼女のキャリアには傷どころか女優根性を見せたとして箔がついたのではないかと思うほど。

ロードムービーの様子を呈して、ドラッグ、養い親の性的虐待、男娼、ブリーのような身内を持つ家族の葛藤など、シャレの利いたエピソードを交え、皮肉ではないユーモアを交えて描かれており、好感が持てます。途中出合ったインディアンの血を引くカルヴィン(グレアム・グリーン)が印象的で、原住民の血、前科者など、幾つものしがらみにがんじがらめになることなく、今を大切に生きるため、過去は忘れず隠さずする姿が、とても心に残りました。

トビー役のセガーズは、リバー・フェニックスの再来とキャッチ・コピーにありますが、それも納得。ハンサムで繊細、思春期特有の反抗的な様子も母性本能をくすぐり、有望株と観ました。前出のペーニャの厳しさと暖かさ、や両親役のバート・ヤング、フィオヌラ・フラナガンの俗物ぶりも愉快で楽しかったです。

しかし、観ていて好感は持てるのですが、ハフマンを初め、キャストの名演技に助けられ過ぎた感じが少しします。今の時代は多用な価値観が認められつつあり、差別や誤解も少しずつ減ってきている時代です。しかしある意味価値観は統一されていた方が楽な場合もあると思います。その今だからこそ、隠して苦しむとは別の、全て自分の責任において、という辛さもあるかと思うのです。ハフマンの名演技でそういう深い部分は想像することは出来るのですが、もう少し突っ込んだ心の葛藤の描写があったら、傑作になったのになと思います。

とは言え、これほど重たいテーマを違和感も嫌悪感もなく見せた、ダンカン・タッカー監督の手腕は上々です。突込みが少々甘かったから、好感が持てたのかも知れないし、ここは難しいところです。これが初監督作品なんて、これもびっくり。次がもの凄く楽しみです。

ブリーのお母さんの泣いたり笑ったり手の平返したりの様子は、とっても笑えるのですが、あれは私も同じ立場だったらそうだろうなぁと、もの凄く納得。他人様は素直に応援できても、これが我が子なら私も動揺しまくりのはず。上に書いたように、今は価値観が多様化した時代で、ゲイでなくても、学校卒業→就職→年頃に結婚→孫が生まれて・・・という平凡なコースから外れる場合も多くなってきました。その時は息子たちを信じて、ガミガミ言わない母親でいようと、この作品を観て思いました。映画をたくさん観ることは、心をニュートラルにする力のあることだと思います。


2006年09月11日(月) 「X-MEN: ファイナル ディシジョン」


画像は今回全然見せ場がないミスティークさん@レベッカ・ローミン。お美しい素顔&肢体を見せて下さいますが、個人的に黒髪よりブロンドがお似合いだと思います。あんな普通の良い人のジョン・ステイモスで、レベッカが満足するわきゃーない、と思っていた皆さん、やっぱり離婚しましたね。というのはさて起き。今回お馴染みキャラがバンバンいなくなり、その代わり新キャラも登場。監督はこの作品の世界観を見事に表現していたブライアン・シンガーから、大作づいてきたブレッド・ラトナーに変更しましたが、そのまま前2作の雰囲気を踏襲しながら、ラトナーらしい賑やかな華やかさを出した無難な出来で、まずまず面白かったです。

ミュータントの特殊能力を抑える薬「キュア」が開発されたと知り、その薬をめぐって、人間とミュータントの共存を目指すプロフェッサーX(パトリック・スチュワート)率いるウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)、ストーム(ハル・ベリー)たちと、マグニートー(イアン・マッケラン)率いるミスティーク(レベッカ・ローミン)、パイロ(アーロン・スタンフォード)
たちの戦いを描きます。

と、しごく筋は簡単。前2作で描かれたミュータントとしての苦悩や葛藤は、今回キュアという新薬をモチーフにして描かれます。キュアは特殊能力を抑え、人間に「治す」と表現されるような薬です。これにはストームなど「穏健派」のミュータントも激しく抵抗感を表します。これは至極納得出来る話で、ミュータントの能力は病気などではないからです。超能力は「個性」とも言い換えることが出来るはずで、例えはマイノリティと言われる人種の人が「あなた差別されて大変ね。この薬を飲めば白人になれるのよ」と言われて、あーそーですかと喜ぶ人はまずいないもんね。

その攻防戦が大掛かりなCGを使い、コミックが原作なのだと実感させてくれる派手さで、前作を凌いでいます。これが作品の半分くらい占めています。見応え十分ですが、この手合いの宿命、観ている時はとても面白いですが、終わるとすぐ忘れてしまいます。そしてミュータントとしての葛藤も、前作より少々底が浅い気が。それを目くらましするかのごとく、マグニートー一派に新規の能力を見せてくれるミュータントが配属されていますが、それなりに面白いですが、底の浅さをカバーするほどではありません。

しかしながら、自分で力をコントロール出来ないミュータントはどうすればいいのか?やはり人間の敵なのか?ということで、今回「2」で死んだジーン(ファムケ・ヤンセン)がまさかの復活。プロフェッサーXやマグニートーも太刀打ち出来ないほどの力があると、明かされます。

確かに復活したジーンはすんごい力なのですが、びっくりするより「フューリー」「キャリー」「炎の少女チャーリー」など、その手の少女モンの似たような既視感があるので、ファムケは年食った分バージョンアップしているのね、というくらいの感想で、あんまりびっくりしませんでした。というか、もっとジーンを全面に押し出して、マグニートーの役回りを彼女にさせ方が、色々脚本を触れて面白かったかも。私は原作を知らないので、勝手なこと言って申し訳ない。

最初このシリーズが作られた時は新人だったり、まだ新進だった俳優陣も、6年経って頑張って一線級になった人も多く、キャラによっての俳優交替もないので、とても豪華な配役のシリーズになったというのが、一番の売りになるのかも知れませんね。新キャラでは予告編でお馴染みの、翼が生えるエンジェルが飛行する姿が雄大で素敵でした。個人的にはサイクロップス(ジェームス・マースデン)が可哀想で可哀想で。演じるマースデンは、ホアキン・フェニックスのような情けないキャラではなく、「スーパーマン・リターンズ」のような、二枚目路線なのにいつも恋に破れる優等生や二番手役ばっかりで、そういう俳優になっちゃうのかな?

豪華絢爛のアクションとCG、それも一流のを見せてもらって、観て損するような出来ではありません。でもこのシリーズの掘り下げた部分が好きなコアなファンの方は、少々失望するかも。なんとなくウルヴァリン役のヒュー・ジャックマン主演の「ヴァン・ヘルシング」と似たような印象を受けました。エンドクレジットが終わっても席を立たないで下さい。毎度お馴染み重要シーンが出てきます。ファイナルってタイトルにありますが、まだまだやる気十分なようで。


2006年09月08日(金) 「紙屋悦子の青春」

昨日シネフェスタで観て来ました。本当は明日からのラインシネマのモーニング上映で観ようと思っていましたが、三男がまだ短縮授業のため、観る予定だった「マッチポイント」と上映時間の都合で差し替えに。戦時下を描くと、声高に反戦を描いたり、きりきり胸が痛むほど涙を振り絞る描写が繰り返されたりしますが、この作品はそれらとは対照的に淡々と物語りは進みます。ですが心の底から戦争はいやだ、そう感じながら悦子と共に涙した私がいました。数々の名作を残した黒木和雄監督の遺作でもあります。

昭和20年春の鹿児島の片田舎。近くの駅に勤める紙屋悦子(原田知世)は戦災で両親を亡くしたばかりです。親代わりとなった兄(小林薫)と、学生時代から親友の兄嫁(本上まなみ)と三人、慎ましくも平穏に暮らしています。そんな悦子に縁談が持ち上がります。兄の後輩の航空隊少尉明石(松岡俊介)からの話で、相手は明石の友人永与少尉(永瀬正敏)です。明石に好意を抱いている悦子ですので、少し落胆はしますが、結局会うことにします。明石は出陣を前にして、親友に悦子を託したかったのです。

冒頭老夫婦になった悦子と永与の姿が映し出されますので、二人が夫婦になったことがわかります。なので今回もネタバレです。というか、上記の荒筋で全部なので、これからどうなる?のハラハラ感は一切有りません。モンペ姿や軍服、軍需工場の話が出てこなければ、本当にこれは戦時中なのかと思うほど、物語は静々淡々と進んで行きます。

そこが狙いなのでしょう。仕事で帰りの遅い悦子を待つ間に、先に夕食を囲む兄夫婦のたわいもない会話、言葉の行き違いでつい口げんかになってしまう様子、父母の思い出話、見合いに来る相手のために、心を込めて兄嫁と悦子が作るおはぎなど、庶民の平凡で善良な日常が描かれていました。しかしそこへ挿入される、軍需工場への長期出張のため別居せざるおえない兄夫婦、、恋心を胸に抱いたまま出征していく明石、親友の分まで生きて悦子を守りたい永与の様子に、空襲警報一つ鳴るわけではないのに、何も贅沢を望んでいるわけじゃない、ただ心穏やかに暮らしたい人々から、一瞬で全ての希望や幸せを奪ってしまうのが戦争なのだと、ひしひし伝わってくるのです。

悦子は謙虚で清楚で明朗、そして賢い女性です。悦子が親友をきちんと「姉さん」と呼ぶ様子は、控えめで相手を立てる性格を現していました。一抹の寂しさを覚えたはずなのに、永与とお見合いしたのも、明石の気持ちを汲んでのことでしょう。魅かれ合っていた明石とは、二人きりでデートもしたことはなかったと思います。そんな彼女ですから、明石が出陣の挨拶に来て帰った後、ひとり号泣する姿には堪らないものがありました。

飛行機乗りの明石とは、添えないであろうことは、悦子にもわかっていたでしょう。永与の「生きて帰って、明石の分まであなたを守る」との言葉と、「ずっとまっちょりますから」の悦子の言葉が深い印象を残します。明石が結びつけてくれた相手を受け入れ尊重することは、明石の遺志を守ることです。過酷な時代を受け入れながら流されず、明日に希望を持つ、とても良いシーンでした。こうやって多くの人々が、後ろを振り返らず数々の思いを胸に秘め、復興に尽力したのだと思うと、胸がいっぱいになりました。

悦子を演じる原田知世が素晴らしい。私が受けた悦子の印象は、特別のセリフも用意されていないのに、全て彼女のしぐさや表情から受け取ったものです。十代から主演映画をたくさん撮り、芸能界の垢に染まっても良いようなものなのに、40前で20歳過ぎくらいの悦子を演じて、何ら違和感のない透明感と瑞々しさで、本当に感激しました。

もうひとり印象的だったのが、兄嫁の本上まなみ。陽気で思ったことはすぐ口に出てしまう女性で、ちょっと気が利かないところもありますが、とても愛らしいです。しかし兄嫁らしく悦子を気遣う気持ち、愛嬌のある憎まれ口を利きながらも、夫を愛する様子がとてもわかりました。「お赤飯とらっきょ」は、一家の主婦とはそんなものです。どんな馬鹿馬鹿しくとも、それで家族が無事なら藁をもすがる気持ちになり、私だってやったでしょう。夫の帰郷がたった一日とわかり、「なら帰ってこんでも良かった」の言葉には、「数日いっしょに居られると楽しみにしていたのに」と共に「一日だけなら、私を気遣わず体を休めて欲しかった」の気持ちも含まれています。素直に「しんどいのに帰って来てくれてありがとう」の言葉は、若妻の時は意地が先に立って、なかなか出てこないものです。若い時の自分みたいで(あんなに美人じゃなかったが)、つい微笑んで見てしまいました。

そんな兄嫁の「もう戦争に負けてもよか・・・」というつぶやきは、社会としがらみのない主婦ならばこその本音なんだと、しみじみしました。本上まなみも、とても自然に兄嫁を演じて好演でした。

ひとつだけ苦言を呈せば、老いた悦子と永与には無理を感じました。日本には老名優がたくさんいます。このシーンは別の俳優でも良かったかと、個人的に思いました。

鹿児島の方言がとても暖かく耳障りが良かったです。当時の家屋の風通りがよくしっかりした佇まいなど、美術的にも見所がありました(美術監督は「父と暮せば」の木村威夫)。庭に咲く桜が、戦時中でも桜は咲くのだなぁと、当たり前なことを感じさせてくれます。辛く厳しい様で反戦を描くのではなく、ゆったりとした時間の流れの中、暖かい人の心の触れ合いと強さで反戦を浮かび上がらせた、とても日本的な美しい作品でした。


2006年09月04日(月) 「グエムル 漢江の怪物」


昨晩ラインシネマの初日の最終で、末っ子と観て来ました。最近話題作は初日の最終が定番になりつつある我が家。息子によるとラグビーの練習も出来て、次の日も自由に使えるので、夜に映画館に行くのは良いことづくめなのだとか。三番目にして、やっと映画に関して気の合う息子に育って、感激の私。息子は当初「エイリアン」のような、ホラータッチの怪獣モノを想像していたようで、横でゲラゲラ笑う私に「笑ってええん?」と戸惑いつつ尋ねます。「ええよ!」と答えると、次から容赦なく爆笑する息子。まったりした、気の抜けたユーモアが笑いを誘いつつ、それが立派な伏線となって、震撼させられたり怖がったり。「殺人の追憶」や「吠える犬は噛まない」同様、世相や人の心の底を深く深く描く、どこを切ってもポン・ジュノの怪獣モノでした。

漢江の河川敷で売店を営むパク・ヒボン(ビョン・ヒボン)。頼りない長男のカンドゥ(ソン・ガンホ)が店を手伝い、次男のナミル(パク・ヘイル)は大学は出たもののニート状態。妹のナムジュ(ペ・ドゥナ)はアーチェリーの実力者ですが、ここ一番に気が弱いです。一家の希望の星はカンドゥの娘ヒョンソ(コ・アソン)。期待に沿うべく明朗快活な中学生に育っていましたが、ある日突然漢江に現れた怪物(グエムル)によって、さらわれてしまいます。このことを契機にバラバラだった家族は、一丸となってヒョンソを救いに向かいます。

韓国では公開までクリーチャーの露見は厳禁だったと知っていたので、「ジョーズ」のように小見出しに出てくるのかと思いきや、あっさり序盤で大暴れするので、びっくりしました。キャラクター製作のために、ニュージーランドのWETA Workshop(「キングコング」、「ロード・オブ・ザ・リング」3部作)や米国のThe Orphanage(「ハリーポッターと炎のゴブレット」「デイ・アフター・トゥモロー」)などが携わったと聞いていたので、どんな斬新なものかと期待していたので、その辺はちょっともっさり感じて、肩透かしでした。しかし動きが良かった。迫力あるのに流麗で、見た目より華やかでした。怪獣好きの方々も合格点くれそうです。

コメディタッチとも聞いていましたが、これがまた面白い。ガンちゃんのユーモラスでペーソス漂うダメ息子・ダメ親父ぶりが笑わせるし、最初ヒョンソが亡くなったと思った家族が、誰のせいだ!お前のせいだ!と取っ組み合いの末、いい大人が全員大の字にひっくり反って号泣するのですが、韓国人は喜怒哀楽が激しく表に出る性質で、ちょっとデフォルメしていますが、確かに葬式では周りが笑ってしまうほど号泣するのです。しかしながら皮肉ではなく、ジュノ監督は韓民族の愛すべきところだと言っているんでしょう。


すんませーん、ネタバレじゃないと書けないぞ!以下ネタバレ気味





一家一丸となってヒョンソを救おうという時、家長のヒボンがありがた〜いお話をしてくれているのに、子供たちは全員居眠り中で、また私は息子と爆笑。どこの国でもある、親と子の温度差ですね。しかし一番出来の悪い長男カンドゥを庇おうとする父の心が、私も三人子供がいるのでよくわかるのです。幸いうちは低いハードルながら、次男三男は長男を超えられず、下に行くほど出来が悪いのですが、それは親としては有りがたい事。下の兄弟に上の子がバカにされることほど、親にとって切ないものはないはずです。カンドゥのミスでグエムルに殺されてしまう時のヒボンの慈愛に満ちた顔は、「殺されるのが自分で良かった」ではなかったでしょうか?他の二人が後ろ髪を引かれつつ、父と別れを告げたのに、カンドゥだけが一人父の遺体から離れられない姿は、これも韓民族の掟である「長男至上主義」を、暖かく哀しく描いているのだと思います。

漢江にアメリカ軍医師の命令により、ホルムアルテヒドが流されたのは実話だそうで、アメリカに帰国した医師は、法による裁きはなかったとか。グエムルが出現したのは、このことが原因なのは明白で、グエムルによるウィルス感染のでっち上げなども描いているので、反米がテーマと受け取られているみたいですが、私はあまり感じませんでした。確かに事実を憎む感情は入っていますが、韓国人の恋人の反対を押し切ってグエムルに向かっていき、韓国人を助けようとしたのは、駐留の米兵でした。漢江に有害物質とわかっていて流したのも、ウィルスのでっち上げを知っていても、加担したのは他ならぬエリートに属する韓国人です。

カンドゥの訴えを調べもしないで却下する警察、国家権力を見捨てて自分たちでヒョンソを救うパク家の人々の姿は、監督の国に対する思いではないでしょうか?中間ら辺で、一度パク家の人々の手によって、グエムルが追い詰められる場面があるのですが、なんだ、こんな市井の人でここまで出来るのかよ、軍隊も警察も何してるんだろう?と脱力しますが、それこそ監督の狙いだと感じます。建前→反米、本音→自分の国が一番悪い、ではないでしょうか?

ナミルが大卒ニートというのも、学歴に異常なまで渇望する韓国の姿を皮肉っています。火炎瓶の作り方の上手さに、ナミルが学生運動に携わっていたのが忍ばれますが、結局今は酒びたりの無職です。運動にも挫折し、何のための大卒かわかりません。私は受験期の韓国の、パトカーが遅刻しそうな受験生を学校まで送るという異常な様子に、とても疑問があったのですが、この描写に監督も同じ思いを抱いていたのかと、ちょっと嬉しく思いました。

ヒョンソが希望の星、というのは、観る前の荒筋で知っていました。しかし明るく素直な良い子ですが、ヒョンソが才媛だとか芸術的な才能があるとの描写はありません。何故平凡なヒョンソが希望の星なのか?

それはこの家族に母や主婦がいないからです。母親は一家の太陽、そう表現されることの多い、家庭を縁の下から持ち上げる存在です。妻のいない、母のいない寂しさ侘しさを、パク家の人々は心からヒョンソを愛するということで、埋めて来たのだと思います。与えられて癒されるのではなく、与えることで癒す道を選んだのだと思います。

一身に愛を浴びたヒョンソが、同じ捕らわれの幼児を最後まで守ろうとする確かな母性が、それを正しいと証明しています。「脱出出来たら何が食べたい?順番に考えよう」と幼児を慰めるヒョンソ。母親が一番子供に気にかけるのは、お腹をすかしていないかです。まだ中学生の子が放つ母の光りに、ヒョンソが一家の希望の星だというのが、すごく納得出来ました。

ダメ親父とわかっているのに、ヒョンソが一番に助けを求めたのは、父のガンドゥでした。どんなに情けない格好でも、娘を救おうとするガンドゥ。普段はバカにしたりいがみあっても、世間の誰より兄を息子を信じる兄弟と父。最終的には必ず一家団結する姿は、韓国も最近は変わりつつあるのでしょう、古来からのあるべき理想を映したのだと思います。それを眉目秀麗な才人一家ではなく、美男美女の一人も居ない、欠点だらけの家族で描いたところに、ポン・ジュノらしさが現れています。


ここからは絶対観た後!!!













グエムルを退治した後、ヒョンソは死んでしまいびっくり。こういう作品なら、必ずヒョンソは救われるはずだからです。しかしラストの一年後、ヒョンソが守ろうとした幼児を育てるカンドゥが、アメリカのウィルス事件のでっち上げを謝罪するニュースを流すテレビを、足の指で興味なさそうに止めた姿で、ある思いが湧きました。韓国というと、「恨の国」と称されることも多いですが、これは「恨みの国」ではありません。「恨」という言葉は、「情」や「想い」といった感情が、色濃く現された言葉です。その言葉と対極のような「ケンチャナヨ(気にしない)」という言葉もまた、韓国人を表す言葉です。くよくよしない、執着しないという意味です。今更謝られてもしょうがなし、他人の子だが、ヒョンソの「忘れ形見」のようなこの子を大切に育てる、「恨」も「ケンチャナヨ」も両方表現するシーンであったと感じました。この言葉もまた、目の前に映さねば、今の韓国では忘れられているのかも知れません。

たくさんの食べるシーンが印象的でした。韓国人というのは食べることが大好きな民族、それもお腹いっぱいにというのが、私の意見です。少し前まで貧しかった韓国が、三段飛びで豊かになった今、この作品の盗みをしてお腹を満たすような子供は、大幅に減ったことでしょう。昔のひもじさを思い出すのは大切なこと、若いジュノ監督がそう言っているかのようです。


ケイケイ |MAILHomePage