心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年04月12日(木) バック・ツー・ベーシックス騒動(その3)

出版物について調べていくうちに、日本のAAは、過去にAA以外の本を売っていた時代があったことが分かりました。例えばヘイゼルデンの『スツールと酒ビン』『一日24時間365日』、アラノンの『今日一日だけ』、その他に『アルコール中毒という病気』というパンフもありました。これらは多くが、日本のAAを始めたピーター神父が翻訳し、マックとAAがほぼ一体だった時代に発行されたものです。

そう、日本のAAはその始まりの頃、マックという施設と密接につながっていました。そして、その後、痛みを伴う分離がありました。僕は何人かのAAの古老に話を聞き、当時なにがあったのか資料を当たりながら調べました。

日本のAAを始めたのはミニー神父というアメリカ人です。彼は京都大学で講師をしていたのですが、酒が酷くなって様々トラブルを起こし、アメリカに帰され、そちらのAAで回復しました。日本は彼にとっては古戦場(AAメンバーは以前飲んでトラブルを起こしていたフィールドをこう呼ぶ)であって、二度と日本には行きたくないと思っていましたが、教会の仕事として、またステップ8・9の埋め合わせのためもあって、しぶしぶ日本を再び訪れることになりました。

日本に来た彼はAAがないことを嘆き、精神病院を巡って患者を紹介してもらったり、断酒会を回って仲間を集め、ミーティングを始めました。これが日本のAAの始まりとなります。

一方で彼は「マック」というアルコホリックのための施設を始めます。その時、彼はドヤ街の住人を対象に考えたようです。なぜそうしたのか。仕事も家族も持っている人たちには、すでに断酒会という回復の場があるが、社会的地位を失った者に手を差しのべる人はいない、という主旨の文章を彼は書き残しています。それもあったでしょう。

アメリカでは19世紀より、困窮者に救いの手を差しのべ、同時に宗教的サービスも提供する「ミッション」が行われています。(たくさんの宗派がミッションを実施していますが、有名なのは救世軍です)。ビル・Wがサミュエル・シューメーカー師の導きを受けたのも、カルバリー・ミッションでした。ミニー神父には、そうしたミッションのことが頭にあったでしょうし、メリノール宣教会の資金を使う理由にもなったことでしょう。(MACとはメリノール・アルコール・センターの略)。

その片腕として呼ばれたのが、当時「受取人のいない荷物のように」教会内であっちからこっちへと(酒のせいで)移され続けていたピーター神父です。ピーターというのは洗礼名で、純然たる日本人です。彼の物語は、日本語版のビッグブック(個人の物語付き)の後ろの方に掲載されているので、ぜひ読んでください。

この二人の神父が日本のAAを始めた、ということになっています。(ピーター神父も神学校で教鞭を執ったことがあり、二人ともインテリです)。そんなわけで、日本の初期のAAメンバーにはこの施設の世話になった人がとても多く、かつ回復後に洗礼を受けてカトリックに改宗した人も少なくありませんでした。

最初の頃のAAのオフィスはマックに間借りしていました。多くの人たちが「AA=マック」だと思っており、「マックAA」や「AAマック」という呼び名すら存在しました。間借りはAAにとって大きなメリットでした。経済的にも、また知名度からも。

「12の伝統」からすれば、AAが特定の施設や団体と特別な関係を持つことは良くないとされています。伝聞によれば、AAのオフィスに対して「マックから出ていくように」と言ったのはピーター神父だそうです。AAメンバーたちはマンションの一室を借りてJSOというオフィスを立ち上げました。1981年10月のことです。

JSOのマックからの独立は、AAとマックの分離にとって象徴的な出来事でしたが、それだけでは精神的な独立を達成するには不十分だと、当時のAAメンバーたちは考えられたようです。3年後には、JSOはAA以外の出版物を取り扱わないことに決め、前述の『一日24時間』や『スツールと酒ビン』などの在庫が廃棄されました。

また、そうした本をミーティングで使わないようにというお触れも出たようです。それらの本はミーティングで使われてAAメンバーに親しまれており、廃止には抵抗もあったようです。ハッキリとはしないのですが、当時、マックとの関係をある程度維持しようとする一派と、AAの完全なる独立を達成しようとする一派の間で、せめぎ合いとでも言うべき事態があったようです。だから、そうした本を使っているミーティングを訪れて注意することも行われたと聞きます。(AAが統治機構を持たないとは言え、改革期には極端なことも行われたということでしょうか)。

特に『一日24時間』についてはAAメンバーの愛着が強く、どうしてもミーティングで使い続けたいと考えた人も多かったようで(僕も良い本だと思います)、廃止後には海賊版も出回り、翌年には横浜のホームカミングがヘイゼルデンから版権を取得して新規訳出となりました。その他の本も、人気の高かったものは現在は概ねどこか他から手に入りますが、もはやそれらがAAミーティングで使われることもありません。

1980年代、90年代は、日本AAのサービス機構が整備されていった時代です。関東常任委員会やゼネラル・サービス・ミーティングが始まり、日本AAの創始者たる二人の神父にかわって、AAメンバー達がAAのことを決定できる仕組みが整っていきました。

東京の都心部のAAは「中央」「城東」「城西」「城北」「城南」の5つの地区に分けられていますが、その地区わけの際に、境界をまたいで別の地区にミーティング会場を持っていたグループは、その会場を閉鎖したり、別のグループと会場を交換して、地区境界をまたがないようにするように言われたところもあったそうです。

当時のWSMの資料を読むと、「AAならぬもの」の影響を取り除こうとしているのは日本のAAに限らないようで、例えばバースディで贈られるメダルをAA公式のものでないと認定したり、AA以外の本をオフィスで取り扱うべきではないという話などが、伝えられています。日本のAAの動きもそうした世界的な潮流に沿ったものだったと言えます。

施設に関わってみると分かりますが、施設スタッフは利用者に大きな影響を持ちます。(利用者に何の影響も与えられなかったら、そのほうが問題です)。そしてその影響力は施設を出た後も続くものです。だから、施設から人がやってくる限り、グループは施設の影響を被ることになります。

AA独立派の人たちは、そうしたマックの影響を排除するのに懸命だったようです。前述のようにマック由来の書籍を排除するばかりではなく、例えばマックのステップセミナーのチラシをAAミーティング内で配ることを禁じたり、施設内のことについて明示的に話すことを諫める雰囲気を作っていきました。

まるでマックのことはAA内では禁忌であるかのように。

もうおわかりでしょうか。バック・ツー・ベーシックスを使った鴨川の集いについて、異を唱えていた人たちは、マックの出身者やその支持者が多かったのです。彼らにしてみれば、自分たちの愛する書籍はAAから排除され、世話になったマックのセミナーについて仲間に広報しようにもチラシを配るのすら苦労するという受難を味わったわけです。(AAとマックのプログラムは同じなのに!) その一方で、バック・ツー・ベーシックスが許容され、鴨川の集いのチラシは配って良いどころかAAの月刊誌にもその広報が掲載されている。この違いが納得できない(理屈はともかく感情が)、といういうのが本当のところだったのだと思われるのです。

10年、20年以上前に起きたAAとマックの分離運動で発生した感情的なしこりが、時を経てそんなところで噴出していたとは。

分離活動については「AAの人たちは、その本流をマックから取り戻した」と外部の人が評したそうですが、これまで見てきたようにそれは簡単なことではありませんでした。それでもまだ、日本AAは始まって10年も経たないうちに施設から分離独立することができたので良かったとも言えます。

日本のAAは、ピーター神父の翻訳による12&12を改訳し、さらに2000年にはビッグブックを改訳し、ピーター訳の文章とほぼ決別しました。夏になるとピーター神父の墓参りに行くAAメンバーもごく一部にいますが、もはや二人の神父の影響の残滓を日本のAAの中に探すのは困難です。創始の苦労を忘れるのは恩知らずだと言う人もいますが、この二人が創始者としての賞賛を拒んだことこそが、謙遜の実践としてその名を知る者に感銘を与え続け、望まれたとおり彼らは忘れ去られていくでしょう。「私だって、あなた達と同じ、ただのアル中です」の言葉通り。

(続きます)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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