心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年07月18日(火) すごい雨降りであります

「私はあなたの思っているような良い人間じゃない。本当の姿を知ったら、きっとあなたは私に幻滅して、嫌いになるだろう」

そんなふうに考えているとしたら、本当の自分は誰にも愛される価値はないと思っているのでしょう。だから良い面だけを見せるようにし、悪い面は見せない、そういう緊張の日々を送っているわけです。疲れるはずです。

その一方で、みんなから愛されたい、認められたい、受け入れられたいという願望も強いはずです。その願望は自然なことかも知れません。けれど、「例外なく誰からも」好かれたいと願うのは強迫観念です。
自分のことを考えてみればわかります。自分が「例外なく全員を」好きであるか、愛しているかと問いかければ、やっぱり嫌いな人間、愛せない相手もいるはずです。「すべての人を愛していると言える人がそれほど多くいるわけではない」とAAの本にも書かれています。だからこそ、博愛は美徳なのでしょうが。
ある人には自分の愛は与えずに、一方で全員から愛を受け取らないと気が済まない。もしくは自分のことを認めてくれない相手の存在が、気になって気になって仕方ない。見下されていると感じると、自分の価値がなくなっちゃうような気がする。
人間関係に悩んで仕事を変えたのに、新しい職場でまた人間関係に悩んでいたりする。どこへ行っても、どうしてもそりの合わないヤツが最低一人はいるような気がする。

10人いて、その10人全員から否定されたら、打ちひしがれない人はいないと思います。
でも10人いて、そのうち9人から認められたら、残りの一人がなんと言おうとも、おおよそ満足できる、それが多数決の論理です。
ところが、残りの一人に否定されただけで、9人の肯定がどこかに吹っ飛んでしまうとしたら、それはその一人の問題ではなく、自分の内面の問題です。身の回りの多くの人の愛を感じる能力を失ってしまっているのです。それは積極的な愛ではなく、消極的な肯定かも知れません。ともかく、それを感じられない、感じてもそれに価値を見いだせない。それよりも自分を否定する人間に、自分を認めさせようと躍起になって消耗しているわけです。

良い人間になろうという努力は必要だと思います。でも、その動機が「認められたい、尊敬されたい」というところから来ているなら、その努力は長続きしないでしょう。仮面をかぶる努力は、息が詰まるだけです。

自分で自分のことを愛していない、認めていない、尊敬してもいない、だからこそ人に完全に愛されねばならないのでしょう。自分ことを愛していない人間が、自力で自分を愛せるようになるのは、実に難しいことです。無条件で愛されることが、その近道なのでしょうが、無条件の愛を人に求めるのも病的であります。

生まれたときから変わらず自分を愛してくれている存在。自分がどんなにひどい状態だったときも、見捨てずにいてくれた存在。そして今後命ある限り一緒に歩んでいける存在。そういう人ならぬ存在に「気がつく」ことが、求められているような気がするのであります。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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