無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年01月29日(土) 誰の名前を書きますか/映画『僕の彼女を紹介します』ほか

 CS日本映画専門チャンネルで自作他作を含めての三谷幸喜特集。
 朝からぶっ通しで見るが、それの感想を全部書いてる余裕はないので殆ど省略。見たことのある映画が多かったから、今更書くのもしんどいのである。
 東宝のクレージー・キャッツシリーズ、若大将シリーズ、駅前シリーズ、社長シリーズは、もう本数がありすぎて内容も全部似ているもので、いったいどれだけ見ているのか自分でももう分からないのだけれども、『社長漫遊記』は、多分中学生か高校生のときにテレビで見ている。宴会芸で三木のり平の天草四郎が加東大介のキリストに向かって「あんたキリストさん?」と声をかけたら「イエス!」と答えるというしょーもないギャグを覚えていたのだ。けれど若戸大橋の開通時に製作された作品だったことは忘れていた。「今度若松と戸畑が合併して北九州市になるんですよ。市庁舎は戸畑にできる予定です」とか三木のり平のセリフにあったけれど、「あれ? 小倉、八幡、門司は?」と首を捻ってしまった。もしかして五市合併する以前は、分割合併の予定でもあったのかと調べてみたら、確かに合併に関してはかなり紆余曲折があったようで、若戸大橋開通時にはまだ五市合併は成立していない。
〉1962年 若戸大橋が開通。(昭和37年9月26日)
〉1963年 門司市、小倉市、戸畑市、八幡市、若松市の5市が対等合併。
してみると、この映画、北九州の歴史の1ページを偶然記録していることにもなっていたわけだ。
 けど、若松で芸者にふられたモリシゲ社長が、シオシオになって博多のホテルに帰ってくるって、距離的時間的に見てムリがあるぞ。新幹線も通ってない昭和37年当時、若松・福岡間は快速に乗ったとしても乗り換えもあるし2時間はかかったはずだ。夜行に乗ったのだとしたら、もちっと早かったかもしれないけれど、それにしても遠い。なんでわざわざ博多にホテルを取るのか。それとも当時の若松にはホテルがなかったのか。……今度よしひとさんに聞いてみよう。まだ生まれてなかったろうけど。


 昼からしげを誘って、公開後一ヶ月を過ぎてヒット中ではあるけれども、そろそろ終映が間近の韓国映画『僕の彼女を紹介します』をキャナルシティまで見に行く。
 韓国映画をあまり見たことがないので(なぜかしげが毛嫌いするのである)、さて、どんなものだろうと思っていたら……。しげは見終わったあと「2時間が5時間のようだった」と怒り心頭に発していたが、実際、周囲でグスグス泣いてた観客がやたらいたのが信じられないくらいにみょうちくりんな映画なのであった。
 こないだテレビで見た『猟奇的な彼女』がまあまあ面白かったので、今回もちょっと期待したのだが、ともかく脚本が右往左往していて締まりがないというのが見ていてツライ。ヒロインが恋人と出会い、恋人の死に直面して苦しみ、新しい恋に生きるまでを描く、という流れを描くつもりなら、それだけでストレートに描けばいいんで、その中に「怪談ばなし」を長々と持ちこむもんじゃない。
 つまりどういうことかというと、恋人が死んで絶望のあまり、ヒロインは何度も自殺しようとするんだけれども、これがなぜか毎回毎回失敗するのである。薬を飲んでも医者に胃洗浄受けて助けられてしまうし、ビルから飛び降りようとしても、家出少年に絡まれて飛び降り損なう。ここなら誰もいないだろうと超高層ビルから飛び降りるのだが、突然ハトの群れが飛んで来て風船がいっぱい飛んで来て掌形のアドバルーンも飛んで来て、ヒロインを受けとめるのである。……こんなんギャグじゃないかと思って吹き出しそうになったんだけど、回りがみんな泣いてるのよ。こんなデタラメな展開でなぜ泣ける? わからーん!
 実はそれは死んで「風」になった恋人がヒロインを助けていたのだが、恋人は自分が風になった証拠に、昔、自分が雑誌のページを破って作った紙飛行機をヒロインの側で飛ばしてみせるのだ。不思議なことにヒロインが紙飛行機を開いて元の紙に戻しても、なぜかまたヒロインが危難に陥ると、どこからともなく折られた紙飛行機が再び飛んで来る。……風は折り紙も折れるんかい。
 恋人が死んで49日目、奇跡が起こって恋人が肉体を取り戻し、あの世に行く前に最後の抱擁をヒロインと交わすのだが、まあこれは露骨に『ゴースト ニューヨークの幻』のラストだわね。でも、アレは死んだ恋人の方がいかに自分が幽霊になってヒロインを守っていることを信じさせるかって設定だったから幽霊の存在を信じられたし、ドラマチックにもなったのだけれど、ヒロインの立場から描いちゃったら、身の回りでポルターガイスト現象が起こってるだけやんか。ヒロインは風が恋人かどうか確かめようと部屋中に風車を差しまくるのだけれど、窓を開けると突風が吹いてきて何百個という風車をいっせいに回す。……これってホラーの演出だってば。よくヒロイン、怖がらないよなあ。
 ヒロインは「どうしてももう一度恋人と会ってみせる!」とタンカを切って、あえて危険な任務に就き、麻薬密売犯に撃たれて生死の境をさまよう。そのとき「恋人は実は生きていた」という夢も見ているのだが、一連のキテる行動を見ていると、風だのなんだのという現象は、全てヒロインが見ていた夢か幻だったんじゃないかとすら思えてくる。……だってハトと風船とアドバルーンが協力してヒロインを助けるなんてオバカな展開、夢以外の何でありえる? それともこういうバカな展開を「純愛の奇跡」なんて受けとめられちゃうのが日本と韓国の文化の違い? ……いや、場内で泣いてた人間もやたらいたから、日本人でもこれを楽しめちゃう人は結構いるんだよなあ。いや、私もある意味楽しんじゃいるのだが、この感覚の彼我の差はなんなの。分からん。
 ラストはなんと『猟奇的な彼女』にリンクするという驚きの展開なのだが、キャストは同じでもキャラクターは違ってると思うけどなあ。
 まあこれはヒロインのチョン・ジヒョンをカワイイと思える人にとっては楽しめる映画ってとこですかね。コスプレもあるし。


 「大場つぐみ=ガモウひろし説」の興奮も覚めやらぬ今日この頃ですが(私だけ?)、『デスノート』関連の微笑ましいニュースが、なんと中国で。
 遼寧省瀋陽市の文具店が、“名前を書くだけで相手をのろい殺せる”という触れ込みの「死亡筆記」というデスノートそっくりの商品を販売したところ、これを小中学生たちがこぞって買い求め、その光景を地元紙が報じたことで、これを規制すべきかどうかという論争が起きているのだそうな。ノートは数ページおきに「最初に死因を、後から名前を書けば相手は40秒後に死ぬ」と説明が付いているそうだから、明らかに「デスノート」のパクリなのである。
 多分、日本でも似たような商売を考えついたアコギな人間はいっぱいいたんじゃないかと思うが、集英社がそんな商品の製作を認めるはずもないし、出すとしたらやっぱりウラでやるしかない。でも摘発されたときのリスクを考えたら、単価は安かろうし、ペイしそうもないや、と判断してみんな遠慮したんだろう。DVDの海賊版と同じようにはいかないのである。
 その点、お隣りさんは相変わらず遠慮がないというか、底辺で生きてる人たちはおよそ考えられる限りの非道な振る舞いを平気でするのである。これを買った子供たちが、陰気な遊びに興ずることを承知の上で売ってるわけだし、そのもとになったのは中国人が日ごろ文化的に見下すことの多い日本のマンガである。日本の文化侵略を実質的に認めてることにはならんか。思想的には反日でも、商売となると親日。なんかの本で「中国人の二枚舌」のことが書かれてあったけれども、こういうバイタリティーはある意味、日本人も見習わなきゃならん面もあるのかも。実際、見習い過ぎてる人もたまにいるが。

 以前、日記に書いたことがあったような気がするが、『デスノート』というマンガの怖さは、「もしも本当にデスノートが存在したとしてそれを手に入れたら、自分はそこに誰かの名前を書くだろうか」と自問自答させられることである。『デスノート』の基本アイデアは、藤子・F・不二雄の『ドラえもん/独裁者スイッチ』や『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』『神さまごっこ』と同じで、「絶大な力を与えられたものはどうその力を行使するか?」というテーゼを、最も象徴的な形で凝縮したものだと言える。……さあ、この誘惑に勝てるかどうか、正直な話、私には自信がない。自らの正義を信じて「キ○・○○○○○」くらいの名前は書いてしまいそうになる。もちろんその瞬間に「独裁者」と化すのは私自身であるわけだが。
 「いいじゃん、書いても。殺したいやつがいない人間なんていないだろ? キレイゴト言うなよ」という声も私の心の中にはあるのだが、「絶対に誰の名前も書きたくはない」と考えることは果たして本当にキレイゴトなのか。ノートが実在したとして、それが大量にばら撒かれたら、確実に人間は滅亡する。ノートが夜神月ほか、少数の人間にしか与えられていない「特価」的なものであるからこそ、あのドラマは成り立っている。だとすれば、ノートが与えられた時点で、その人は神、ないしは悪魔に等しくなったようなものだ。脆弱な精神しか持ちえない人間に、果たしてそのプレッシャーに堪えることができるのか? 嫌いなヤツだけを消し去るだけに留まらず、自暴自棄になって全人類を消し去ったのび太のようになるか、筐底の奥深くノートを仕舞いこんで封印するか焼き捨てるか、どちらかになるのが落ちではなかろうか。夜神月は、既に前者の道を歩き始めている。
 自らが神となるか悪魔となるかの選択を与えられて、あえて書かない道を選ぶのは、善人ぶっているわけではない。「恐怖」からの逃走である。

 もちろん、「擬似デスノート」で人が死ぬことはありえない。その事実を前提として知っているからこそ、子供たちは平気でノートを使える。中学生の一人は、「たくさんの友達がデスノートを持ってるよ。勉強に疲れた時とか、嫌いな先生の名前などを書いて遊んでるんだ」と話したという。それはまさしくただの「遊び」にすぎない。しかしおそらく、日本人の大多数がここで、忌まわしく忘れてしまいたい“あの”事件を思い出したのではなかろうか。
 1986(昭和61)年2月、東京都中野区立富士見中学校2年生の鹿川裕史君(当時13)が、「葬式ごっこ」などのいじめのために首吊り自殺をしたあの事件である。事件後、教師も含めて、いじめに加担したクラスの人間たちは、「あんな『遊び』で鹿川くんが死ぬなんて、誰も想像していなかった」と口々に言っていた。「あてつけで死んだんだ」と非難する者さえいた。あの事件を聞いたときに感じた怒りと似たような感情を、今回も感じた人はいなかっただろうか。
 デスノートの流行と、「葬式ごっこ」とは、「遊び」や「冗談」が人間の死に繋がる可能性を考えない、想像力が欠落している点で同根のものであるのだろうか。それとも実際にデスノートの流行で人が死んだわけではないから、これと葬式ごっこは似て非なる別のものであるのだろうか。
 私は二つのものは同質のものであると考える。ただしそれはいじめの加害者やデスノートの購入者に、想像力がないからではない。彼らには逆に、悲しいほどに想像力が横溢しているとさえ言えるのである。

 たとえデスノートが販売されていなくても、自分で勝手にデスノートを作って引き出しに仕舞っている子供たち、あるいは大人は、日本中にたくさんいるのではないか。
 実を言うと私も、「いつか殺してやるリスト」「こいつだけは許さないリスト」なんてのを小学生のころには作っていた。ただし「作っていた」とは言っても、それは「心の中に」であって、具体的にノートに書いておいたわけではない。
 別にそれを実際に書いたとして、もしも人に(具体的には親に)見られて「ウチの息子は他人をこんなに恨むような卑劣な人間なのか」と思われたらどうしよう、なんて思って怖がっていたからではない。もしも、万が一、たとえ一億分の一以下の可能性であったとしても、「その“恨み”が現実化したら」と想像すると、まさしく自分自身の「恨み」の強さに自分自身が押し殺されてしまうように感じたからである。
 私は「絶対に死んでほしい」と思う人間の名前しか心のノートに書きはしなかった。だから思うのである。鹿川くんの事件の子供たちが、「まさか死ぬとは思わなかった」と口々に言っていたのは絶対にウソであると。「『まさか死ぬとは思わなかった』という言い訳が成り立つと知っていたからこそ、“本気で”鹿川くんの死を願っていた」のだ。それが「人間」というものだ。

 デスノートを今買っている子供たちが、どうして心のノートに殺したいやつを書きとめるだけでガマンができないのか、そう考えてみればいい。既に彼らは「想像」から「実行」に一歩踏み込んでいる。「『これで人が本当に死ぬわけがない』という言い訳が成り立つから、“本気で”ノートに名前を書いている」のである。鹿川くんの事件は、鹿川くんが死ななければ事件になるはずがないものだった。デスノートの件だって、人死にが出なければどうということがないが、そのノートを「ほら、おまえの名前をノートに書いてやったぜ」と当人に見せつけるやからなど絶対に出て来ないと、どうして断定できるだろう。それが誰かの死に繋がらないと、どうして言いきれるだろう。「書く」という行為と「思う」という行為は決定的に違う。「読まれない」ことを前提にした文章などはありえない。書かれたものは、たとえその読者が「人間」ではなかったとしても、必ず「誰かが」読むものなのだ。「呪い」がたとえ何十億分の一であっても「実効力」を持つのはそのためである。

 これも何度となく書いていることであるが、私も、この日記を公開している以上は、私の文章を読んで傷つく人間、怒る人間、あるいはショックで死ぬ人間が出る可能性を覚悟して書いている。どんなに注意を払って、人を傷つけないやさしい文章を書こうと努力しても、最終的に文章を受け取る人間は、自分の思いたいようにしかその文章を受け取らない。こちらが「遊び」や「冗談」のつもりだろうと、結果として“本当に”被害者が出てくれば、私は何らかの「処罰」を受けるか、あるいは自らの手で自分に裁断を下さざるをえなくなるのだ。それは責任を取る、ということではない。他者を傷つけた者に回復できる名誉、取れる責任などは存在しない。これも何度も言っている通り、簡単に「責任ある行動を」などと嘯く人間はこの世で最も信用ならぬ人間である。罰か死か、選択はそれしかないのだ。

 だからと言って、私はノートの販売を教育上問題があるから禁止せよと言うつもりはない(いや、パクリだから、ちゃんと取り締まらなければならないのだが、それは置いといて)。中国の遼瀋晩報は、「ノートは邪悪な心を植え付ける毒薬」と批判しているというが、それは違う。人間はもともと邪悪なのだ。だからこそ「デスノート」の意味を、それを手にしたものが実感できるようにためしてあげなければならないと思う。こういう注釈をノートに書いておいたらいかがだろうか。
 「このノートに名前を書いたからと言って、本当に人が死ぬわけではありません。ただし、万が一、本当に死んだ人が出たとしても、当社とこのノートには何の関係もなく、一切の責任を負いません。殺したのはあなた本人の力です」と。
 インターネットの書き込みには、「そうして過剰反応するから中国には斬新な感覚が育たないのだ」などの声が続出しているそうな。別に「呪い」とか「死のノート」なんてアイデアは斬新でも何でもなかろうに(『デスノート』が面白いのは基本アイデアではなくてあくまでドラマ展開である)、そんなことも分からないから中国には斬新な感覚が育たないのであろう。
 さて、改めてみなさんに問いたいが、もし『デスノート』が実在していてそれを手に入れたとしたら、あなたは本当にそこに誰かの名前を書きますか?

2004年01月29日(木) 長いようだが、前に比べりゃあっさりしてます。
2003年01月29日(水) 雪がとっても白いから/『あひるの王子さま』5巻(森永あい)
2002年01月29日(火) 休み過ぎだって自覚はあるのよ。一応。/DVD『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』/『西岸良平名作集 蜃気郎�供戮曚�
2001年01月29日(月) 癒し癒され恋焦がれ。/アニメ『地球防衛企業ダイ・ガード』13巻ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)