無責任賛歌
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| 2003年01月14日(火) |
ある「B級」監督の死/『風雲児たち ワイド版』9巻(みなもと太郎)/『復活! 大人まんが』(夏目房之介・呉智英編)ほか |
深作欣二監督が12日午前1時、前立腺がんのため死去。享年72歳。 昨年12月21日からの定期入院中に肺炎を併発して、一時は意識が混濁する状態となっていたが、年明けには驚異的な回復力を見せ、監督復帰とのニュースも流れていた。 多分、そのニュースを知ったほとんどの人が「希望的観測だろうなあ」と思ってたろう。もちろん、テレビのコメンテーターはそんなことはオクビにも出さず、「お元気になられるといいですね」とかなんとか言ってたのだ。ニュースが事実を報道するわけじゃないってことは、こういう人の生死に絡んだときには特に感じるね。 撮影中の『バトル・ロワイアル�供戮魯螢蓮璽汽襪鰐別�に行われたが、実際に撮入したのは2シーンのみだそうである。深作監督の長男・健太氏が監督代行していたが、そのまま監督交代、ということになるのだろう。 普通、監督の死で中断した作品を他の監督が引き継いで制作、ということになると、どうにもぎこちないものになるものだが、私は結構期待している。 それはもちろん加藤夏希が出演しているから……というのもちょっとあるが(^o^)、もともとトンデモナイ映画ばかり撮ってきた深作作品のこと、前作を見れば、仮に深作監督が元気で作品を完成させたとしても、絶対ムチャクチャな映画になったろうことは間違いないのだ。息子さんが更に輪をかけてトンデモナイ映画にしたところで、「深作監督が撮ってればなあ」なんてことになるわきゃないんである(それでもそう言うヤツはいるだろうけどな)。
訃報には「巨匠」とあるが、62作と多作のほとんどが東映ヤクザ映画路線のプログラムピクチュアである。この20年ほどの深作監督の作品はたいてい見ていて、数えてみたら20本ほどになるのだが、実は『仁義』以前の初期のチープなギャング・ヤクザ映画のほとんどを私は見ていない(ともかく両親が私がヤクザ映画を見ることを極力嫌ったのである)。普通20本もその監督の作品を見ていれば、いっぱしの口が利けそうなもんだが、そこでどうしても一歩引いてしまうというか、批評しにくく感じてしまうのは、以前も書いたことだが、深作監督の本領は、「B級映画の監督」「プログラムピクチュアの監督」というところにあり、その部分を見ずに評価するのでは、その本質を見誤るのではないか、という気がしてならないからである。深作監督を「巨匠」と呼ぶことはかえってシツレイになってしまうのではないか。 黒澤明が『七人の侍』を制作したときに、「日本映画はお茶漬けサラサラ、たまにはステーキを」と語っていたが、深作監督はステーキを作ったことは一度もない。それは文芸作品と言われている『火宅の人』だってそうである。あれを松坂慶子や原田美枝子のヌードを期待せずに見に行った客がどれだけいるというのか。『青春の門』は杉田かおるの、『魔界転生』は佳那晃子の、『人生劇場』は中井貴恵の、『四谷怪談』は高岡早紀のスケベシーンが楽しみで私は映画館に足を運んだのだ。 ……大学にいたころ、『人生劇場』をテレビで見た友人が、「中井貴恵のセックス、スゲエなあ!」と往来で恥も外聞もなく叫んでたこと思い出したぞ。そいつは今、長野県で教師をやってるが(^o^)。 ええと、他に誰のヌード撮ってたっけ。いや、ともかく80年代の「深作映画」と言えば、ひたすらヌードだったのである。どこまでソレに拘っていたかというと、アイドルゆえに脱がすことができなかった薬師丸ひろ子に、『里見八犬伝』ではアノ表情だけはさせていたくらいなのだ。つくづく深作さんってバカだと思うが、それに付き合っていた私もつくづくバカである。そして、当時、そんなバカが日本中に量産されていたのだ。70年代、落ちこむだけ落ちこんでいた日本映画の興行収入が80年代になって少し上回ったのは、劇場アニメブームが始まったこともあるが、深作監督の功績のヌード映画攻勢もあったと言えるのではないか。功績なのかよソレ、ってツッコミはあるだろうが。 ポルノ映画でもないのに、これだけ女優を脱がすことに命をかけてた映画監督を、私は他に知らない。例えて言うなら深作作品はハンバーグ定食やトンカツ定食、焼肉定食みたいなゴテゴテした定食ものばかりで、ラーメンならギトギトのトンコツ、カレーライスでも辛口か激辛なのである。甘口な映画など、一本もない。 「なんだこのトンカツ、油浮き過ぎじゃねえかよう」と文句をつけながら楽しむのが深作映画には一番似合っている。
キネマ旬報ベストテンで、深作監督が1位を取ったことは一度もない。読者選出ベストテンでは、『仁義なき戦い』と『火宅の人』で、二度1位になっている。
咳がまだ止まらない。 先週末に仕事を休んで、あちこちに迷惑をかけたんで、関係の同僚に詫びを入れて回るが、そのときもゲホゲホグヘグヘやってるのである。なんだか回りに風邪を移しそうで、もうちょっと休んでた方がいいのかも、とも思うのだが、もうみんなカツカツの状態で仕事してるんで、これ以上は迷惑をかけられないのである。 結果的に三連休って形になってはいるが、映画に行く予定もキャンセルして、ウチにずっといたので、もちろん遊んでたわけではない(本は読んでるが)。これだけ休んでりゃいい加減治ってもよさそうなものだが、全然その気配がない。いったいどういうことなんだか、自分でもよくわからない。
溜まった仕事を片付けるために、帰りが遅くなる。 今日はさすがにしげに「迎えに来て」とは言えない。というのも、しげ、いつもは昼間に寝て、夜働いているのだが、今日は昼間寝られなかったはずだからなのだ。 この前、天井から雨漏りしてたのの修繕に、業者の人が来て張り替えをすることになっているからである。もちろん、仕事も休めないし、私の送り迎えなんぞをしていたら、寝る時間がますます削られてしまう。 というわけで、今日はしげと全く顔を合わせない一日になってしまった。 こういう日は結婚以来、数えるほどしかない。……なんてことを書くとまた「ケッ、この愛妻家が」とか思う人もいるかもしれないが、ただの恐妻家なので、そこんとこ、勘違いしないように。 帰宅してみると、なるほど、天井にずっと渡っていたヒビが消えてなくなっている。狭っ苦しい部屋で作業も大変だったんじゃないかと思うが、そこがやっぱりプロの仕事なんだろうなあ。 もっとも、こういう事故が今後も起こらないという保証はないけれど。 今日はコンビニに寄る元気もなかったので、しげリンガーハットから買って来ていたチョコレートカステラを晩飯がわりに食う。カロリー的によくないことは判ってるが、もう何日も冷蔵庫の中に入れっぱなしで、賞味期限も迫っていたのだ。こういうときに食べ物を捨てられないのは、オジサンってことなんだろうな。 風呂に入って、『踊る踊るさんま御殿スペシャル』を見始めたらすぐに、そのまま落ちてしまった。疲れが取れてないんだなあ。
雑誌、『アニメージュ』『ニュータイプ』2月号。 『アニメージュ』は、突然「コラム」のページを全て最終回にしてしまった。 大地丙太郎、大森望、石田敦子、伊藤伸平、水玉螢之丞の各氏の連載、全て打ち切り。どーゆーこと? いや、人気がなかったってことなんだろうが、私ゃ単にアニメ新作情報が知りたいだけでアニメ雑誌を買ってるわけじゃないんだが、こういうアニメ関係者のコラムが楽しみで読んでるオジサンの読者は購買層として眼中に入れないってことなのかな。この分だと、もう一つの楽しみ、小黒祐一郎さんの『この人に話を聞きたい』の先行きも危ない感じである。
その『この人に』の今回のゲストは平田敏夫さん。監督としての最新作はもう4年も前の『Petshop of horrors』なので、なんだか無聊をかこっている印象があったが、マッドハウスで原画やコンテなどの仕事はしているらしい。 平田さんが東映動画で制作した『グリム童話 金の鳥』(1987)は、何年もお蔵入りになった末、ひっそりと公開されたので見てる人が少なかったが、宮崎駿たちベテランの退社で、興行的にはともかく作品のレベルという点では凋落の一途を辿っていた東映動画が、久々に会心の出来映えの作品を送り出したことで印象に残っている。けれどインタビュー読むと、アレ、ほとんどマッドハウスで作ってたんだね。 必ずしも傑作ばかりを作ってるとは言えなくて、『ボビーに首ったけ』『火の鳥 ヤマト編』『カッパの三平』『お星さまのレール』なんてのはどこか腑抜けたところもあった。 けれど、1作目が思想的にガチガチだった『はだしのゲン』を、『2』では見事に躍動感溢れる少年の青春アクションとして描いて見せたその演出力などは、「平田敏夫」の名前をアニメ史上に残す価値があると充分にかんじさせてくれていた。私ゃ、マッドハウスの演出家の中じゃ、りん・たろうや川尻善昭より、よっぽど平田さんの方を監督として上だと思っている。 なのにだよ、監督として何本もの傑作を作って来てる人がさぁ、『メトロポリス』や『千年女優』では、ただの一スタッフとして参加してるんだよ。ああ、なんてもったいない! 言っちゃなんだが、その二本、平田さんが監督した方がよっぽど出来がよくなったんじゃないかと思う。この意見には賛同者、結構いると思うぞ。小黒さんが平田さんを取り上げたのも、「才能ある人を飼い殺しにするな」ってマッドハウスに対する批判の意味も込めてるんじゃないかな。
『ニュータイプ』の方、新連載で庵野秀明の『エヴァンゲリオン』リニューアルのレポート。 作画のデジタル化だけかと思ったら、なんと音響も5.1チャンネル化、再アフレコまで行ったとか。すごいなあ。 音に拘る、というのは、絵的なモノについ目が行きやすいアニメの場合、しばしば忘れ去られがちなのだが、実は基本中の基本なんである。こりゃ庵野さん、腰を据えてこのリニューアルに取り組んでるな。もっとも、ご本人のエッセイによると、新作が一つポシャったおかげで『エヴァ』に取りかかれるようになったって事情だそうだが(^_^;)。 確かに庵野さんには新作を作ってほしいと思うけれど、これはこれで期待はしてしまう。当時の騒動があまりにデカ過ぎて、「今さらエヴァかよ」って思う人もいるだろうが、もう随分時間が経ったんだし、冷静な目で普通に「面白いアニメだった」てこと認めていいんじゃないかねえ。 ともかく私は、LDの時には間に合わなかったリテイクカットが挿入されて再構成されるんだったら、それだけでもうれしくなっちゃうけどね。
マンガ、みなもと太郎『風雲児たち ワイド版』9巻(リイド社・680円)。 何巻か感想書くのすっ飛ばしてるような気もするが、まあいいや。 時代的には田沼意次の失脚と、松平定信の寛政の改革が始まるあたり。私の子供のころには、まだ田沼意次は「ワイロ政治」の代表みたいな印象が強かったのだけれど、近代経済の先駆者としての評価が高まった背景には、この『風雲児たち』の宣伝効果も大きいんじゃないかな。 これ以前に田沼をよく描いた作品、ということになると、NHKドラマ『天下御免』で平賀源内のブレーンとして登場させていた例くらいしか思いつかない。あのドラマじゃ、仲谷昇が遠山の金さんみたいな役回りで田沼を演じてたように記憶している。 何の本だったか、さくまあきらが「歴史上、無名な人物にばかり光を当てているのがいい」と誉めてたが、えらくトンチンカンな誉め方である。そりゃ、何百人というキャラクターが登場しているから、中には「へえ、こんな人がいたの」って人物もいないわけじゃないが、扱われている人々は、たいてい誰でも名前くらいは聞いたことがある有名人ばかりである。 この巻に出ている主要人物をちょっと挙げただけでも、大黒屋光太夫、最上徳内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、大槻玄沢、司馬江漢、林子平、高山彦九郎といった面々である。この人たちをみんなひっくるめて「無名人」だの「地味」だなどと言うんだったら、さくまさんの学生時代の日本史の成績は赤点だったに違いない。 みなもとさんのスゴイところは、これらのキャラクターにたびたびギャグをやらせてフィクションに見せかけていながら、実は、要所要所でちゃんと歴史的事実を踏まえているところである。 今巻でも、林子平が高山彦九郎について、「この男は泣くよりほかに何の脳みそもないっ」とバカにしてるセリフ、いかにもマンガチックなんだけれど、これがホントに林子平が語ったコトバなんである。「寛政三奇人」とひとくくりにされちゃいるが、勤皇思想に凝り固まった高山彦九郎と、世界の情勢を客観的な理性で見通していた林子平とでは、まさしくその脳みそに天と地ほどの差がある。それをマンガのキャラとして描き分けているみなもとさんの力量、もっともっと評価されていいと思うのだがなあ。
マンガ、夏目房之介・呉智英編『夏目&呉の復活! 大人まんが』(実業之日本社・1575円)。 「大人マンガ」と「成人コミック」は全く違うものである。 ……ということも、説明しなきゃ分らない人が圧倒的に増えちゃったんだよなあ。実際、「大人まんが」という響きから真っ先に連想されるのは、私より上の世代なら『漫画讀本』あたりなんだろうけれども、30代より下の人なら、「それナニ?」って言いそうだ。 呉さんは「大人まんが」を「成熟した笑い」「子供には分らない深みのある笑い」と評しているが、実際、ホントに今時の「子供(必ずしも成人が「大人」とは限らない)」は、それがどういうものか全くピンと来ないし、存在自体を知らない人も多い。 東海林さだお、加藤芳郎、谷岡ヤスジ、黒鉄ヒロシ、岩本久則(ちゃんと「キューソク」と読もう)、園山俊二、馬場のぼる、滝田ゆう、久里洋二、古川タク、砂川しげひさ、二階堂正宏、杉浦茂、タイガー立石、秋竜山、矢玉四郎、長新太、横山隆一、杉浦幸雄、佐川美代太郎、高新太郎、みなもと太郎、永井豪……。さて、アナタは彼らの大人マンガをどれだけ読んだことがありますかな? 「『ギャートルズ』をアニメで見てた」、なんてのはダメですよ。
一作だけ、その内容を紹介しよう。 東海林さだおの『緑の水平線』である。
夫が庭で、木舟を作っている。 妻がそれを見て、「ボートなんて作ってどうすんだよ、このバカ」と悪態を吐く。 夫はただ黙々と木舟を作り続ける。 そして、完成した木舟を持って、はるか沖へと向かって行く。 妻はそのときになって初めて慌てふためき、夫に追いすがる。 警察を呼び、仲人を呼び、夫を止めようとする。 しかし夫は言う。「しかたないんだよ」 夫は沖に出る。 カモメが飛んでいる。 空が青い。 夫の舟は、海に沈む。 波紋だけが、そこに残っている。
どうだろう、この「味わい」は? 作品自体についての解説はもうしたくないので、ぜひとも現物に当たっていただきたい。
これら「大人まんが」の特徴はなんなのか。 確かに、少年マンガにも青年コミックにもない「味わい」があるのはその通りなのだが、それはいったいどのように発酵し、芳醇な香りを生み出すまでに至ったのか。 夏目さんも呉さんも、作品の紹介はしていても、そういった歴史的な流れについては触れていないので、その点についてだけ、ちょっと注釈を付け加えてみたい。 ここで紹介されている作品は、もともと海外の作家たち、チャールズ・アダムス(あの『アダムス・ファミリー』ですな)やペイネ、コービン、トポール、サンペ、シャバル他、ナンセンスマンガの系譜の上に生まれてきたものばかりなのである。『漫画讀本』は、創刊時からこういった海外作家たちの作品を次々に掲載していた。その影響のもとに日本のナンセンスマンガ家たちが育っていったのだ。 例えば、本書では紹介されてないが(版権の関係だろう)、あの長谷川町子だって、「大人まんが」の代表選手である。 彼女をアニメの『サザエさん』のイメージで、ほのぼの家庭マンガを描いてた人、なんて思ってたら大間違いで、原作はもっともっとナンセンス色や時評性が強いのだ。もう随分昔、『磯野家の謎』なんかでその「大人まんが」としての一端が紹介されたりはしてたが、結局、長年培われてきた大衆の勝手なイメージを覆すまでには至らなかった。そのあたり「寅さん」が「庶民派」と誤解されてる点とよく似ている。原作のサザエさんって完全にオバタリアンだし、マスオさんだってしょっちゅうマジで浮気したがってるのにねえ。 だいたいやねー、『いじわるばあさん』自体、ボブ・バトルの『意地悪爺さん』をルーツとしていることを考えれば、長谷川さんが「大人まんが」の描き手だってことに気づきそうなもんなんだけどねー。 愚痴はともかく、若い人には特に感じてほしいことなんだが、いっぱしにマンガが好きだ、マンガを語ろう、と思ってるなら、こういう「大人」の世界もあることをちゃんと知っといてもらいたいものである。 と言うより、もともとマンガは「大人のもの」だったのだよ。だって、「子供」の概念が生まれるのは西洋も日本も近代以後のことで、マンガの歴史はそれよりもずっとずっと古いんだからね。マンガの歴史を語るのに、「大人まんが」は避けて通れない。一読を乞うものである。
2002年01月14日(月) 原作と映画の間/映画『走れメロス』/『朱色の研究 夕陽丘殺人事件』(有栖川有栖・麻々原絵里依)ほか 2001年01月14日(日) 雪の断章/アニメ『ポール・グリモー短編集〜ターニングテーブル〜』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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