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2006年07月08日(土)  戦争と言う選択



 北朝鮮がミサイルで脅し、韓国が領土侵犯をやっても、「話し合い」と「情報収集」の馬鹿の一つ覚え。小泉首相は記者の質問に「これ以外何の選択があるんですか」と逆に聞き返していたが、あるのだ。何でも話し合いで済むのだったら、世の中テロや戦争なんかはとっくに無くなっている。
 この時、戦争と言う手段が、世界には最後の手段として認められていると、誰もいわない。

 昨日、チャンネル桜の「報道ワイド日本 フライデー(城内実)」のゲストに藤原正彦が、たとえ日本にミサイルが落ちて、一万・二万死ぬとしても、動じない心で応じないと駄目だ、それくらいの気概で、やるならやるぞと言わなければ駄目だと言っていたが、その通りである。
 アメリカに守ってもらうと言う前に、自分の国は自分で犠牲が出ても守るという武士の気概が必要だ。この前、せめて一助にと、自衛隊補になろうと要項を見たら、年齢でだめだったので技能関連でも見てみたけれど、医者とか、消防士とかは年齢を超えてなれるようだが、へっぽこ絵描きには用が無いようだ。

 東京の美術館で見た、*藤田嗣治の展覧会の白眉は戦争を描いたものだ。パリでのなよんとした女の絵や、飯食う途中の絵(猫は別)などどうでもよい。
画家としての力量はあの皇紀で日付された,戦争画に尽きる。



藤原正彦…数学者、最近「国家の品格」が大ベストセラーになっている。父は山岳小説家新田次郎

*藤田嗣治 …Leonard Foujita
1886年11月27日 – 1968年1月29日)画家・彫刻家。
馬鹿らしい、戦争に協力した画家と言うレッテルを貼られて日本を捨て、パリに。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れた。

独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたが日本人にとって騒ぐほどのものでもない。日本画には艶消しで上品な女図がごまんとある。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家。
圧倒的に戦争画がすぐれている。



→今日のたん譚の関連記事









2006年06月28日(水) 位階勲等をめぐって(賞の一)



 先頃、郷里から電話があった。叔父(母の弟)が受勲したという。 最初何の事か分かりかねて、話を聞いている内、この春、叔父は皇居に出かけて式に出たと言う段で合点した。
 叔父は漢詩を良くする。その中に「酒互酌み交わす」という詩語がよく出てくるので、さっそくお祝いに相応しい酒を送った(後に叔父は酒が飲めないと判明、作詩のためのものだった。叔父がきっかけで漢詩の影響を受けて血迷い、へぼ作詩を始めるきっかけになった)。

 ここで、はたと気がついた。皇居で賜る「章」とは何だ。文化勲章のことか。無い頭に浮かんだ単語、「旭日章」「菊花章」「紫綬褒章」…。後が続かない。興味が無かった事もあるが、とにかく何にも知らなかった。
知っている事と言えば、古くは、京都の陶芸家の河井寛次郎、画家の熊谷守一、ちょっとまえでは、作家の大江健三郎が、受勲を辞退したという事くらいであった。
 少し調べたら全体像がつかめた。図のようになっている。文化勲章は全体の一部で、頭に浮かんだ「紫綬褒章」は、文化勲章などに該当しないその他の章として「褒章」があり、これに入る。叔父が賜ったのは、瑞宝双光章だそうである。国や人のために尽力した人に授けられるようだ。仕事で言うと、自衛隊や警察の人達等。ここでようやっと了解した。文化勲章位しか知らなかった事を少し恥じた。

 国(民)を守る人達の章が文化勲章の上位にあることも当然だろう。昔、防人、今、自衛隊がいて国を守り、国あってこその文化勲章である。
 ところで、これを有り難くいただこうが、先きの人々のようにつっぱねようが個人の自由である。ただ、作家の大江健三郎の辞退の理由がひねくれている。辞退するなら黙ってすれば良いと思うが、いろいろ宣うのである。文化勲章辞退の事も含めて、以下大江が言った事を挙げてみる。

 大江が、「天皇制打倒、天皇制廃止論者」である事は、各方面で書いている事を読めばわかる。だから、文化勲章はいらないと言うのは理の当然と言える。なぜ天皇制が気に食わないのかと言えば、「前世紀の遺物で、近隣国を初めとして悪い事した親玉だから、民主主義国なのに天皇の存在はゆるせん憲法違反」という。

 この事は、国内向けには言わないが、外国メディアなどには言っている。一方、ノーベル賞なら喜んでもらうのである。ノーベル賞をだしているのは、スウェーデンで日本と同 じ立憲君主国である。あっちの王は良くてこっちの皇はだめらしい。ご先祖を辿れば、日本の天皇は神様の子孫(信じようが信じまいがそう言う事になっている)で、スウェーデンの王のそれはヴァイキング(海賊)である。ノーベルはいうまでもないが、近代大量殺戮戦争を可能にした「爆薬」をつくった。それで巨万の富を得て出来たのがこの賞である。

 昭和天皇は、帝王学の最重要科目「倫理」を杉浦重剛から学んでいる。その巻頭にあるのは、「武士道精神」だった。この帝王学は「自己犠牲」をもって極とした。

 「武士町民に先立って、天皇こそ自己供献のお覚悟を」と教えられた。

だからこそ、大東亜戦争敗戦後、単独でマッカーサーに会い、「戦争の全責任は朕一人にあり」と告げた時、てっきり国外亡命すると思っていたマッカーサー(父アーサー(→本人。訂正9/20)は、日本軍がフィリピンを攻略した際、I shall retern(→return 訂正9/20) の言葉を残して敵前逃亡した。)は、感動して、思わず「陛下…」と言ってその手を恭しく押し頂こうとさえしたと言われている。
こういう例は過去世界を探しても日本にしかない。

 今上映されている*「バルトの楽園」の中でも見られるように、国(ドイツ)が降参すると、王(ウィルヘルムニ世)は国外に亡命(要するに逃げる)するのが当たり前のことであった。こういう史実を知ってもなを「皇室」だけをあしざまに扱うのだろうか。

 無効が言われている東京裁判の、東条英機供述調書中においてもあるように、天皇は最後まで戦争に反対し、一度近衛内閣に於いて決まった戦争決定を白紙に戻して、抜擢され首相になった東条英機は、もう一度御前会議を開き、米国に対して譲歩に譲歩を重ねるが、ついにどうにもならず、我が国の存亡をかけた開戦となった。この戦争は、「自存自衛 ための防衛戦争」であった事を大江は知らないのか。  −続く−


杉浦重剛…1855〜1924
安政2年、滋賀県生まれ。東京開成学校に学ぶ。選抜され明治9年年(1876)イギリスに留学。帰国後東京大学予備門長などをへて、同18年東京英語学校を創立。同21年三宅雪嶺と雑誌「日本人」を発刊、欧化主義に反対し、国粋主義を提唱、衆議院議員、國學院学監などをへて、大正3年東宮御学問所御用掛となり、儒教的道徳に基づく帝王倫理を講じた。

「バルトの楽園(がくえん)」
第一次大戦時の日本国内に10近くあった俘虜収容所の一つで、徳島県鳴門市大麻町坂東にあった収容所の話。日本で初めてベートーベンの「交響曲第九」が演奏合唱された。劇中の俘虜、ドイツ人バウムは、後に神戸のユーハイムを作った。板東英二(もとプロ野球投手、現タレント)は満洲引き上げ後、一時ここに住んでいた。バルトとは「髭(劇中の松江の髭は俗にカイゼル髭、当時のウィルヘルム二世の髭のこと)」の意。後に模範的収容所ということで、世界から表彰されている。 

。。余談 。。
よく行く刺身の専門店に、モンゴルから働きに来ているバトルさんと言うのがいて、どうしても、「バトルの楽園」と見えてしまう。

→収容所に関する関連たん譚


→2002年の今日のたん譚









2006年06月06日(火) スギたる和ダ猶およばざるが如し



 今は昔、京の都の経営する美術学校に入るべく算数国語理科社会を猛勉強、美術科入学、彼は喜び勇んだ。入ってからはたと気がついた。何をやっていいのかわからない。あらかた、熱意は受験で使い果たしてしまっている。白いキャンバスを前に考え込んでついに四年間、黄ばんだキャンバスを残し、一枚の作品も残さず、英語の単位をも落として仮卒業してしまった。豪傑である。年下の友人の本当の話である。
 
 その豪傑、 もし在学時に、留学試験があったらどうしたか。件の人と同じく、多分現状から逃れるために受験しただろう。件も豪傑も、もとより、受験勉強はお手の物。あら、受かっちゃった、てなもんで、期待に胸膨らませて異国に行っても、無いもの(才能)は無いのである。
どうするか。とりあえず、気に入った友達の絵のまねっこを始めてついに数十点、試しに、ちょっと片々を変えて見た。
他人の褌のしめ方を変えたら何だかよくなった(ように思えた)。そうこうする内、留学期間も終了、帰国。成果を問われる。仕方ないから、色を変えた他人様の褌で、展覧会に出したら、あらら、賞をもらってしまった。もう後に引けない。が、昔も今も、才能は端から無い。のだから、いまさら作風を変えたくても出来ない。ままよ、同じ作風の予備がまだ数十点、小出しにして行けば、しばらく大丈夫だと思ったのかどうか。

     
和田義彦「宴の後」       アルベルト・スギ「妻と夫」


…ついに破綻の時が来た。それまでなんの和田かまりもなかったのか。
 昔は、大工他・職人、技能職は、試験など無かった。入りたければ這入って、去る者は追わなかった。考えてみてくれ、絵描きが大学院出て、絵の博士号とって何すんの?絵の博士てなんだ?

 数十年前、ある科学的油彩画の技術とやらの本を信じて勉強した。その著者は芸大のセンセで画家であった、ある時、その著者が出品している展覧会を見に行った、目の前の著者の絵が、あまりにも稚拙に見えたその言行?不一致に驚いて、すぐに、うどん屋の釜(湯だけ)図書と認定、破いて捨ててしまった。いくら、絵を科学しようと何しようと、絵が描けなくてはどうしようもない。
これじゃ、グザヴィエ ド ラングレと同じじゃないか。絵画は無言の説得である。
「うーむ」と圧倒させるものが無ければ、プロとは言えない。これに学歴は関係ない。

 はっきりしている事和田、彼の人には絵を描く才能が無かったと言う事である。確かに難しい試験に通ると言う才、デッサンをちょこっと描く才はあったかもしれない。
芸大の入学試験に通る位勉強の出来た只の人だったのだ。もとより絵描きではない。


グザヴィエ ド ラングレ(1906〜75仏ブルターニュで生まれる)…油彩画を技術面から 分析、「La technique de la peinture a 'lhuile (油彩画の技術)」を著す。 ファンアイクから始まり、フランドル画派の技法などを紹介、しかし、その成果を示せるはずのラングレ自身の作品は、末流。俄に、その内容の信憑性を疑ってしまった。むしろ、ブルトン語で書かれた小説の方が高い評価を得ている、中世文学に深い造詣。
画家としてのラングレの名は残っていない。




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2006年05月29日(月) 印度・アンド・インディア −其の二−




*オーパーツ(錆びない鉄塔)を求めて

 

 クトゥプミナール(世界遺産)は、かって、イスラムが印度を席巻した(現在は、ヒンドゥ八割、イスラム一・三割)時の、勝利を記念した塔で、デリーの南にある。ここのモスク(礼拝堂)の一角に、これとは別になぜか、ヒンドゥ教の鉄塔がある。歴史的背景はさて置き、この鉄塔は四世紀に鋳造されて千数百年、雨期と乾期が交互に来る、モンスーン気候に晒されてなを、錆びていない

実際に動画を見て(←ここをクリック見えるまで少し待って下さい)もらうと分かると思うが、下方表面には赤錆がある。しかし未だ中上部は純然たるグレーの鉄色をしている。
 後に、この鉄は、純度99%の錬鉄だと分かった。純?だから錆びないと言う説もあるが、いくら、純鉄(Fe)でも、組成的に鉄は、Fe2O3が安定した状態である。この状態は、酸化鉄、すなわち酸素と結びついた状態、錆びた状態と言う事になる。他に、ごく微量のリンが含有されていて、これが鉄と結びついてリン酸鉄を形成して鉄の表面を覆い、防錆効果を持っているとの研究もある。
 防錆効果については諸説あって、触る人の手に印度に昔から伝わる、日焼け止め油の成分がついていて,それが鉄に絶え間なく触る事で表面を保護しただとか、ある植物の抽出成文が塗られているのだとか、言われて来た。
 この錆びない鉄は、ダマスカス鋼(ウーツ鋼)と言われるもので、この鉄塔よりさらに古い年代に於いて、印度を中心に、近隣国に輸出されていたらしい。*これで作った剣に、上から絹のサリーをそっと落とせば、それ自身の重みでまっ二つになると言われた。

 これを、旅行家のP・スコットと言う人がイギリスに持ち帰り、あの*右手の法則(電磁誘導)で有名なファラデーが、錆びない刃物を作るべく研究を始めた。
 ファラデーをきっかけに、研究はロシアにもおよび、冶金(やきん)学者のアノーソフはついに本物のダマスカス鋼の製法を解明した。そしてフランスで、ファラデーの研究に触発された、ベルチェと言う人が、研究の末、とうとう「錆びない鉄」を完成させた。
それが、現在どこにでも使われている、「ステンレス」である。

 ステンレス(「錆びない」と言う意味)は、合金である。印度の錆びない鉄塔の研究から100年近く、人類はそれを目標に、全く新しい鉄、ステンレスを手に入れたが、依然として「錆びない鉄塔」はオーパーツなのである。ステンレスはクロム,あるいはニッケルなどとの合金だが、この鉄塔はほぼ何の混ざり物も無い、ただの不安定な鉄Feであるにもかかわらず、最悪な条件下に置いて、1500年もの間、ほとんど錆びていないと言う事実の解明には至っていない。

今回訪れた時は、柵が張ってあり、触れられないようになっていた。いくら何でも、世界中の観光客が毎日触ったら、ひとたまりもない。下方の赤錆は、近年の観光客によるものだろう。


絹のサリー云々…でそんな阿呆なと思った人もいるだろうが、法隆寺の宮大工だった、西岡常一は、祖父が、角材の上に置いた鉋(かんな)を、キセルで引き寄せたら、シャーッとかつぶしのように木が削られたのを見たといっている。あながちほら話とは言えない、あり得る。

ファラデーの右手の法則… フレミングの法則ともいわれているが,ファラデーの方が早く、また、フレミング左手の法則もローレンツのものだ。これらを混ぜてフレミングの法則と書いてあるものもある。

オーパーツ「Out of Place Artifacts)(時を越えて場ちがいの加工品)」



→2003年の今日のたん譚










2006年05月11日(木) 市民粗加(市民そーか?)



 最近、ちょっと気にかかる事がある。日本の伝統文化をそのまま背負ってらっしゃるような方が、ネット上のとある新聞にエセーを書いていて、その内容については、何も言う事はないのだが、よかれと思い自前奉仕掲載しているネット新聞が、実は相当偏った考への組織が運営しているようなのだ。
 ただし、表面上は分からないように装っていて、敵も中々やるもので実体は旧態然とした、左翼組織なのである。
「私は、左翼と考え方が同じ」と言う人はここで読むのやめてくれ。何もいわない。しかし、日本の伝統や文化(例えば、皇室・国語 宗教 等)を大切にしたいと思っている人達が、ここの記者としてものを書く場合、当然何らかのフィルターがかかってしまう事が考えられる。いまさらながらだが、ここの組織がどういう人達と、運動を共にし、活動しているか一例を以下挙げておく。 

 2001年11月、 アフガンに平和を!いますぐ停戦を求める11・27集会 参加者一同 として、デモを提起。 主 催は、11.27 集会実行委員会 連絡先:フォーラム平和・人権・環境テロにも報復戦争にも反対!!
市民緊急行動 日本消費者連盟 呼びかけ人がなんと言うのか、確信的左翼、心情的左翼の巣窟なのである。以下、一般的にわりと知られた、名前・組織を赤で強調してみる

天笠啓祐(評論家)/天野礼子(アウトドアライター・公共事業チェックを求めるNGOの会代表)/荒井献(東泉女学園大学学長)/李仁夏(在日大韓基督教会名誉牧師)/五百蔵洋一(弁護士)/五十嵐敬喜(法政大学教授・弁護士)/池澤夏樹(作家)/石坂浩一(立教大学講師)/井出孫六(作家)/岩松繁俊(原水禁議長)/宇井純(沖縄大学教授)/永六輔(作家)/江橋崇(法政大学教授・平和フォーラム代表)/荏原明則(神戸学院大学教授)/尾池和夫(京都大学副学長)/大森恵(長島・河口堰を考える会代表)/岡野加穂留(明治大学元学長)/岡本愛彦(映像作家・ジャーナリスト)/落合恵子(作家)/海渡雄一(弁護士)/粕谷志郎(岐阜大学地域科学部教授)/加藤良雄(長島・河口堰連絡協議会事務局長)/鎌田慧(フリーライター)/河合弘之(弁護士)/

河内家菊水丸(新聞詠み河内音頭家元)/川村一之(非核自治体全国草の根ネットワーク世話人)/熊沢誠(甲南大学教授)/見城美枝子(青森大学教授)/近藤正臣(俳優)/澤地久枝(作家)/辛淑玉(人材育成コンサルタント)/須田春海(市民立法機構共同代表・環境NGO)/隅谷三喜男(東大名誉教授/主体思想研究会代表、)高嶋伸欣(琉球大教授 従軍慰安婦肯定派)/高田直俊(大阪市立大学工学部教授)/高野孟(インサイダー編集長)/高原孝生(明治学院大学教授)/高良鉄美(琉球大学教授)/田窪雅文(市民エネルギー研究所)/富山洋子(日本消費者連盟代表)/中原準(環境レスキュー大阪)/鳴海正泰(関東学院大教授)/西尾漠(原子力資料情報室共同代表)/灰谷健次郎(作家)/服部学(立教大学名誉教授)/平井孝治(立命館大学経営学部教授)/広河隆一(フォトジャーナリスト)/福本敬夫(大阪大学教授)/藤原信(宇都宮大学名誉教授)/

本多勝一(作家・週刊金曜日編集委員)/松井英介(岐阜大学教員)/松永勝彦(北海道大学教授)/水島朝穂(早稲田大教授)/毛利子来(小児科医)/森村誠一(作家)/安田節子(食政策センター ビジョン21主宰)/山内克典(岐阜大学教授)/山口二郎(北海道大学教授)/山崎公士(新潟大教授)/山住正己(東京都立大学名誉教授)/U.G. サトー(デザイナー)/吉田嘉清(平和事務所)/渡辺雄三(ジャーナリスト)

■賛同団体:日本消費者連盟/許すな!憲法改悪・市民連絡会/婦人民主クラブ/日本婦人会議(日本会議とは別物/原子力資料情報室/DPI日本会議(障害者インターナショナル日本会議・保守系日本会議とは別組織/東京・生活者ネットワーク/日本国際ボランティアセンター/チェルノブイリ子ども基金/在日韓国民主人権協議会/在日韓国民主統一連合/日本青年団協議会/反差別国際運動/日本山妙法寺/たんぽぽ舎/日本の戦争責任資料センター/アジア太平洋資料センター/「STOP!改憲」市民ネットワーク/総本山三井寺・圓城寺/日本チェルノブイリ連帯基金/エコロジカルウェッブ/ソーラーネット/ノーニュークス・アジア・フォーラム関東/多治見を放射能から守ろう!市民の会/脱原発福島ネットワーク/原発・核燃とめようかい/東大和・生活者ネットワーク/平和事務所/ストップ・ザ・もんじゅ/双葉地方原発反対同盟/

プライバシー・アクション/広島県朝鮮人被爆者協議会/非核自治体全国草の根ネットワーク/反原子力茨城共同行動/中部よつ葉会/ノーニュークス・アジアフォ-ラム・ジャパン/調布・子どもと教育を考える市民会議/全石油昭和シェル労働組合/市民がつくる政策調査会/市民運動全国センター/反核FAXポスター展実行委員会/全統一労働組合/労働組合東京ユニオン/アジアと水俣を結ぶ会/原発を考える品川の女たち/フォーラム平和・人権・環境

そして、協賛は、あの誠に何でここまで日本の事を嫌うのか不思議な、反日世界選手権があれば、先頭いくであろう、筑紫哲也がついこの前まで編集長を務め、編集員には何と本多勝一がいる「週刊金曜日(現在編集長は佐高信)」。この人物は、ありもしない南京大虐殺を書き、百人切りを新聞に書きながら、出所を言えと訴えられると、裁判にも出てこない卑怯者である。ジャーナリストの恥さらしである。 こういう人物たちが協賛し、それに乗っかっているのが、「ネットの市民が作る」とやらの新聞の隠れた素性なのである、騙されては行けない。

追記、不勉強でほとんど知らんとおっしゃる方、名前を強調して、右ボタン(マックはCtrl+クリック)で簡単に各人々の素性洗へます。


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2006年05月06日(土) 印度・アンド・インディア −其の一



 2002年、印度と日本は国交回復した。
印度のガンジーはすでに知られているが、もう一人印度独立の父で、武闘派と言われているチャンドラ・ボーズがいる。武闘派と言うと何だか聞こえが悪いが、お題目を唱えていれば「平和」「独立」が勝ち取れると信じている人達とはちがい、武器には、武器を持って立ち上がり、自分達の主権を確立すると言うのが武闘派である。

 ではずっと英国の植民地であった印度になぜチャンドラ・ボーズのような人が出現したか。
日本人を見たからである。東洋の小国が、当時の大国ロシア相手に日本海海戦でほぼ全滅させたのをきっかけに、その後、大東亜戦争緒戦時、マレー・シンガポールでは、要塞に立て込もった英印軍十数万も、その三分一の日本軍にあっさり突破された。
インドネシアでも、五万人の英・蘭・豪の連合軍が立てこもった、バンドン要塞をわずか七百数十名の日本軍が降参させた。この降参した兵の中に、映画にもなった「戦場のメリークリスマス」を書いた、バン・デル・ポストがいた。

 みっともない動物(ニコライ二世)、「黄色くて臭い足曲がり猿(オランダ人「ピンネルの日記」)」、「東洋の黄色いちび猿」に、何百年我々を支配して来たご主人様の英国人やフランス人が、降伏して手を上げ逃げ惑う姿を、印度を初めとするアジアの人々は目のあたりにし、そのことに衝撃を受ける。チャンドラボーズもその一人であった。
 ベトナムでは、「東遊」という運動が興る。東遊というのは、「なんで、日本人がそれをなし得たか、答えは日本にある、東京にはすでに中国人・朝鮮人・インド人学生があふれている、我々(ベトナム人)も日本に行き、学べ」と言う運動であった。

 朝日新聞などがことあるごとに、アジアの国々に迷惑をかけたと言うような事はないのである。戦った相手は、アジアにいた、英国であり、オランダであり、フランスアメリカであった。

これは印度からの感謝状である。


われわれインド国民軍将兵は、インドを解放
するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した曰本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表わします。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまでけっして忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、御冥福をお祈り申し上げます。

1998年1月20日

於ニューデリー

インド国民軍大尉 S.S.ヤダバ(インド国民軍全国在郷軍人会代表)

日本語訳:加瀬英明
 コピー提供 印度親善訪問団主催 ガンジー財団、チャンネル桜



参考文献: *情報鎖国・日本  高山正之 廣済堂









2006年04月28日(金) 案内板のローマ字表記について 
-本当の終戦、主権回復の日-



 今月、固まって一度に来た雑事も済みようやく落ち着いた。
インドに行っている間に二三、先の「とんぼ返り」中のローマ字表記について、ご意見を頂きました。有り難うございます。共通した指摘は、kinrin syakoでも良いのではないか。現に、日本では「訓令式」で認められていると。

 日本では、ローマ字をめぐって、*西 周(にし・あまね)をきっかけに、日本式ローマ字を作った、日本物理学の父、*田 中舘 愛 橘(たなかだて・あいきつ)など がいる。 確かに、日本語を音声的に見ると、訓令式とやらが正しいのかもしれないが、よく考えてみてくれ。この案内板のローマ字部分は、一体誰のための案内なのだろう。日本人のためなら、仮名を振れば事足りる。当然この場合、外国人のためのものだろう。そうすると、彼等のために便宜をはかっている訳だから、ここは、ヘボン式が正しくはないか。
それと、一度英語の字引をひいてもらって、 S y の後に母音のa が続く文字を探して見たら良い。
多分発見出来ないだろう。一方、 S h a k oとした場合、そのまんま、フランス語で「軍帽」の意味があり、英語も、S h a で 始 まる 単 語は 沢 山ある。
なじみがある。 
ちょっと違うかもしれないが、読めたら良いというのであれば、「こんにちは」を「こんにちわ」と書いて、違和感の無い人は別として、 やっぱり「S y a k o 」は、 なにやら 気色悪いのである。

西周(にし・あまね)
父・時義は森鴎外の父の弟、最後の将軍、徳川慶喜のフランス語教授、外国語の適訳、以下、「科学」「芸術」「帰納」「演繹」「肯定」「否定」「技術」「概 念」「観念」「哲学」「主観」「客観」などを造語した。ローマ字国字論者、

田 中 舘 愛 橘 (たなかだて・あいきつ) 地球物理学,航空物理学を始め,日本の物理学の草分け。ローマ字運動の父と呼ばれる.メートル法の普及にもつとめた。

補足
1972年にシェヴェニンゲンで開催された第14回総会で、 訓令式のほうが日本語の音声構造をより論理的に表わしており、 ヘボン式は、 英語にもとづいた日本語の発音を表わすものであることを認めた。
し か し、ヘボン式はもっとも歴史が古く、日本国外で広く採用されている方式であり、参考図書も大部分がヘボン式で書かれている。さらに、国内でもヘボン式が定着しており、日本ドキュメンテーション協会は訓令式を推薦するわけにはいかないと思っている。…云々。


参考公文書
国際規格公文書ドキュメンテーション―日本語(仮名書き)のローマ字表記


→2002年の今日のたん譚









2006年04月13日(木) 時差は三時間 一ルピーは三円



インドの首都デリーの高級ホテルタジパレスホテルから。写真の時間はあわせてませんので、間違いです。これを書いたのは午後四時半から五時の間です。


今、下のプールで、80歳を超えてなを、意気軒昂のスーパーおばあちゃんが、今宵の懇親パーティの始まるまでの自由時間を使ってプールサイドで白人種の有閑層の昼寝する中悠々と泳いでいる。日本人である。世界中を旅している。昨夜空港で行方不明になるも、本人はヘッチャラ。
 その景色を見ながら、読書三昧、白隠禅師の健康法と逸話、高山正之の新聞の犯罪、インド関連の本。今日の昼飯はよそのホテルで食ったが、国内産のビール大瓶一本、300ルピーは高すぎるで。
ブルートゥースを使って無線LANでこの原稿を書いて載せてみた。現在進行形でありますなマステ。
十年近く前に、スイスのツェルマットから、フロッピーディスクカメラを使って、インターネットを通じて、画像を送ったとき、ホテルの一泊分の料金より高くて米を食わずにあわくった事が懐かしく思い出されている場合か! 今宵はネクタイ着用なので、少し気が重い、
補足
ホテル内ならどこからでもインターネットは、一時間260ルピー、24時間だと600ルピー。
転送のためのアプリケーションや、各局のテレビニュースの動画もダウンロードは速い。
インドのハイデラバード、バンガロールはこちらのシリコンバレーである。


→2004年の今日のたん譚









2006年04月09日(日) とんぼ返り



 昨日、明日から銀座で開かれる四人展(iをクリック)のための小品数点を搬入しなければいけないのを、送ればいい日だと勘違いしていて、朝それに気がついた。急遽荷造りをして、旅行用の二輪車?に縛り付け、新幹線に飛び乗ったのが午後二時前、銀座の画廊に手渡ししてとんぼ返りで京都にもどって、八時には、室戸から送られて来た鰹をおろしていた。
東京滞在数十分、まぁ、便利な世の中になったものだ。会期中の半分近くは、日印友好親善訪問旅行(超党派地方議員文化人他200名)の一員として印度に滞在するので、その準備に頭があって失敗してしまった。
 この季節になると、展覧会案内がちらほら来るようになる。ほとんど出向く事はない。学生の個展案内ならまず行かない。
学んでいる最中に個展で何を発表したいのか。学んだ成果なら、卒業制作展がある。学生は、個展をしてはならないというのが、昔通っていた学校の方針で、もっともだと納得し以後その考えは変わっていない。仕送りしてもらいながら、勉強途中で、何の個展かという訳である。
それにしても、その案内状や、町の案内板の表記が最近変なのだ。例えば、展覧会案内図の四条河原町角にある、高島屋のローマ字表記が、Takaimaya、「たかいまや」ってあんた!誤植にも程というものがあるぞ。
 通り名にも、四条通と交差している寺町通りが、YERAMACHI-STになっている。これは、YとTが似ているのでまだわかる。この展覧会案内は、某女子大卒の、昔のお嬢様達のものである。この昔のお嬢様たちの案内図には、他にDU 25 AU28 なんてフランス語も混ぜて書かれている。フランス語で書く前に、ローマ字勉強しましょう。
町にもあるぞ。

平安神宮Heian Shrin??         錦林車庫Kinrin Syako??

         

英語出来なくていいから、せめてローマ字の振り仮名くらいはちゃんとしたい。あぁ、恥ずかしぃ…。

→2005年の今日のたん譚










2006年04月04日(火) 親より子が先立つ不孝−下−



−続き−
 親猫と子猫(両方とも雌)は育て方を変えた。親猫は、生後一ヶ月位でもらわれて来たので、生まれた時からではないが、一日一食、人間様と同じものを与えた。生のきゃべつはシャクシャクと美味しそうに食べた。数年後、子猫が生まれたのを境に、親も共々、キャットフードを日に二度、主に与えた。そのせいか、子猫は人の食べ物には興味をあまり示さなかった。

 親猫に比べて、子猫は行動範囲も極端に狭く、半径5m位だと家族とよく笑った。極端な怖じ気で弱虫な猫だった。猫でも、親とずっと二匹で暮らしていると自立出来ないようで、死ぬ直前まで、出ない親猫の乳を時々吸った。叱ってもやめる事はなかった。子猫はまた、とても変わった面を持っていた。人、猫に限らず献身的に介護するのである。一度など,家人が熱を出してうんうん言って寝込んでいた時、枕元に寄り添いじっと見て、なんと熱のあるおでこをぺろっと舐めた。家人は感激した。親猫にも同じように、子猫にするように献身的に毛繕いなどを手伝った。
 子猫は、たん譚が、ドイツに出かけた次の日に生まれたせいか、刷り込みが出来ずに、家人ほどには馴れてくれなかった。多産で一度に5匹生んだ事もあった。この時、引き取り手を探したが、二匹しか引き取り手がいず、残りの三匹は、責任を持って、自分で一番楽なようにして処分した。捨て猫にするのも、人様に頼んで処分するのも、嫌だったから自分でやった。無責任な輩は、動物病院の玄関に捨てて行く人も居ると、獣医さんから聞いた事がある。処分するのは獣医さんである。その獣医さんに自分で処分した事を言った。
以後懲りて、避妊手術をしてもらった。山奥で住んでたなら、10匹でも20匹でも飼えただろうが仕方なかった。

 猫と言えば 漱石の書いた「我が輩は猫である」が有名だが、漱石の弟子(ひゃっけん)の書いた「ノラや」に愛着を持った。(映画『まぁだだよ』黒澤明(1993)にも、少しその顛末が描かれている。)
昔、それを読んで大笑いするも、その中に何とも言えない悲哀があり、先生、ノラがいなくなって、張り紙を出したりあちこち奔走するのだが、何かに付けておいおい泣く。ノラいなくなって何日目、などと日記につけて、また泣く、果てしなく泣く。ずーっと泣く。とことん泣く。その様子が目に浮かぶようで、腹を抱えて笑った。
 後に、カーテル・クルツという猫が登場するが、こちらのほうが一緒に暮らした年月が長く、ノラとは実質一年半くらいしか一緒にいなかったにもかかわらず、ノラへの思い入れは強かった。 これを読んでいたおかげで、人とペットの関係を客観的にみることが出来た。世に言うペットロス症候群にはならなくて済んだ。

 他日、親猫の方を、健康診断のために昔手術をしてもらった獣医さんの所に連れてった。このお医者さんは、すぐに血を採取したり、読み上げたりはしない。長生きになったとは言え、ネコの寿命はそれ相応である事、高齢だから、いつその時が来てもおかしくないので、覚悟はしておく事などをいった。親猫には異常はなかった。
 運び込まれて来たカラスがもう十五年生きている事や、事故にあって倒れていた犬を引き取って、いまも元気で、ここにいる、いろいろな動物が増えて、いまでは家の一部屋を解放して飼っているという獣医さんだった。途中、奥さんも出て来て話に加わった。動物が本当に好きで獣医をやっている事が伝わってくる。
話していて、気の休まる先生がやっばり名医なんだろう。

 家族のもとで生まれ、「ノラ」のように行方不明になるのでもなく、最後の最後まで親猫と一緒に居て、誰にも迷惑かけず静かに寿命を終え、心を和ませてくれた子猫に有り難うと言ってやりたい。はや49日過ぎてしまった。










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