びっと日記
びっと



 ファーラムの剣を手にする者は?

 先日、「サーラの冒険」の話を交えつつ、山本弘について書いた。山本に触れた以上、この男を無視するわけにはいかないだろう。
 そう、ロードス島戦記のGMにして、日本で最も有名なゲームデザイナーの一人、それがこの男、水野良だ。彼をどれほど否定的に捉える人間でも、彼のTRPG業界での功績を無視するわけにはいくまい。水野がコンプティークでロードス島戦記を連載することがなければ、TRPGがここまで広まっていなかっただろう。また、ロードス島戦記だけでなく、クリスタニアの展開を見ても、彼のワールドデザイナーとしての腕が卓越していることは疑いない。
 しかし…である。
 水野良は、やってはならない致命的なミス(過ちというよりは、意図的に行われる失態)を冒している。それも一度ではない。
 彼の過ちとして、第一に挙げられることが多いのは、次のエピソードだろう。水野良はかつて(確かニュータイプ誌だったと記憶としているが)、自分の連載記事の中で「俺はゲームで奥さん見つけました。みんなもコンベンションでナンパしましょう」と書いたことがある。この無責任な発言は、後々まで呪いの如くコンベンション主催者たちを苦しめた。当時、コンベンションの会報等で水野を辛辣に批判した記事を、私は何度も見た。
 だが、このことについては、この場であげつらうつもりはない。これは、彼の人間としての常識や品性に関する問題であり、ゲームデザイナーとしての資質に関する問題ではないからだ。とはいえ、この「事件」は、これから述べる水野の過ちとも大きく関わりがある。彼のミスの特徴は、そのミス自体を彼がまったく自覚しておらず、よって同じことを何度も何度も繰り返していることなのだ。
 水野の過ち。それはTRPGの「可能性」を葬り去っていることである。
 まずは、わかりやすい例でいこう。ソードワールドのシナリオ集に「四大魔術師の塔」というのがあるのはご存知だろうか。古参のTRPGゲーマーなら知っているかもしれない。知らない人もいるかもしれない。しかし、別の印象を持った人がいるのではないだろうか。
「四大魔術師の塔って、魔法戦士リウイの話の一つじゃないの?」
 正解である。魔法戦士リウイのエピソードの一つが、シナリオ集と同じタイトルなのだ。
 ここまで言えばお気づきの方もいるだろう。そう、水野は小説でシナリオ集のネタバレをやっているのだ。
「そんなもの、FEARだってSSSの中身が次のサプリに出てくるじゃん」
 という意見もあるかもしれない(いや、実際言われたので私は驚いたのだが)。FEARは「既存のシナリオ集の結果を次のサプリメントに反映させる」ことはあっても、シナリオ自体のネタバレをしたことはない。たとえルールブック添付のシナリオであっても、だ(ただし、RLが添付のシナリオを読んでいるのが前提のシナリオ、というのはあった)。
 微妙な差異のように見えるだろうか? では、次の話はどうだろう。今日の本題である。
「ソードワールドは、なぜソードワールドというのか知っていますか?」
 SWのファンなら手を叩いて笑いながら言うだろう。そんなものは簡単だ、と。
「ソードワールドの舞台であるフォーセリア世界は、かつては古代魔法帝国によって支配されていた。しかし帝国が滅び、それまで蛮族として虐げられていた人間、剣を使う人間の時代がやってきた。だからソードワールドというのだ」
 こんな答えが返ってくるに違いない。
 しかし。今はもう知る者も少ないが、これでは「半分正解」でしかないのだ。
 正解のもう半分はこうだ。
「ソードワールドは、文字通り一本の剣が命運を握る世界だからソードワールドなのだ」
 一本の剣。それは、魔法王ファーラムの剣のことである。
 そもそも、ドラゴンマガジン(アイドルが表紙だった頃の!)でのソードワールド連載時のタイトルが「ファーラムの剣」だった。私にとっては、この連載の時代が最もソードワールドが面白い時代だった。皮肉なことに、それはルールブックが発売されるまでが面白かった、と言っているに等しいが…。
 天野氏の幻想的なイラスト、それに添えられた、様々な「世界の息吹」を感じさせる挿話の数々。そこで語られている大地は、子供だった私にはまさに想像もつかないほど途方もなく広く、大きく、美しかった。
 そこで語られる「ワールドガイド」は、世界を紹介する「紀行文」でありながら、また一つの物語でもあった。その物語こそが「ファーラムの剣」にまつわるエピソードなのである。
 ここで「あれ? その話、どこかで聞いたことがある」という方。もうしばしお待ちいただきたい。
 フォーセリア最強の冒険者「見つける者たち」。バレン導師など、名だたるNPCが所属するこの冒険者集団が、古代魔法帝国の遺跡を探索中、とある「眠れる精霊」を目覚めさせてしまう。それは、地底都市を建設するための大地の精霊ベヒモスが暴走し生まれた存在。またの名を複合精霊アトン。魔法帝国を滅亡に追いやったその「狂える精霊」は、フォーセリアの全てを滅ぼさんと、無の砂漠を横断し始めた。
 アトンが文明世界に到達する前に倒さねばならない。そのためには、魔法王ファーラムがアトンを滅ぼすため、自分の肉体を材料にして生み出したという伝説の魔剣を見つけ出さなければ!
 これが、ファーラムの剣連載時のソードワールドのメインテーマである。
 フォーセリア世界にはなぜ「冒険者ギルド」などというものがあるのか。なぜ単なる流れ者を支援し、庇護する組織が存在するのか(SWの偉大なる先達、D&DにもT&Tにも冒険者の互助団体なんて存在しない!)。いや、そもそも、なぜ冒険者は古代遺跡に潜るのか? 
 答えは一つ。ラヴェルナが剣を見つけるために世界を旅してワールドガイドを書き記したように、全ての冒険者はファーラムの剣を、あるいはその手掛かりを見つけるために旅をしているのだ!
 …今となってはこんな話、笑い話にしかならないだろう。でも、長いこと心待ちにしていたSWのルールブックが発売された時、私はドキドキしながら複合精霊アトンのデータを探した。なぜって、それが全ての冒険者の究極目的だったはずだから。
 しかし…ルールブックのどこにも、アトンのデータはなかった。それどころか、言葉さえも出てこない。ファーラムの剣についても。
「上級ルールブック発売予定って書いてあるから、それに掲載されるんだろうか?」
しかし、基本ルールの十倍待ち望んだ上級ルールにも、記述は影も形もなかった。
 それだけではない。マルチメディア展開され、徐々に大きくなってゆくSW世界から、アトンの名前もファーラムの名前も消し去られてしまった。その後アトンに関しては、実にワールドガイドの発売まで一切触れられることはなかった。もっとも、ワールドガイドは「ファーラムの剣」の連載記事を集めたものだから、記述があって当然である。しかもその中身は「ファーラムの剣」での情報を一歩も踏み出すものではなかった。
 実は、バブリーアドベンチャラーズリプレイの中に、こんな記述がある。混沌魔術師との戦いに赴こうとするPCが、人海戦術で傭兵を雇おうとした(しかし、天下御免の卑怯者集団だなバブリーズは…)ときのエピソードである。あくまでもプレイヤー発言であることを念頭においてほしい。
「中堅レベルの冒険者は…君達レベルにはオフレコの…ミルリーフ騒ぎで出払っているんだ」(ミルリーフは、ソードワールドPCに登場する邪神)
「じゃあ、それよりも高レベルは?」
「やっぱり…君達レベルにはオフレコの…アトン騒動で出払っているんだ」(NPCに活躍させてもしょうがないから傭兵を雇わせないという思考は間違ってないが、もうちょっとマシな断り方はないのだろうか。君達レベルにはオフレコ、というのは相当に失礼な発言だと思うのだが)
 この部分からわかるように、アトンの存在が消えたわけではない。しかし、SNEの手になる全てのリプレイ、シナリオ集、小説のどこにも、「ファーラムの剣」に関する話は出てこない。先程のバブリーズは最新作「デーモン・アゲイン」の中で、冒険者としてはもはや重鎮の域であるレベル8(導師ラヴェルナや騎士ローンダミスを含め、アレクラスト大陸の冒険者の最大レベルは10だ)になっているが、相変わらずアトンのアの字も出てこない。
 それはなぜか。
 疑問に対する「公式の回答」は、実に…ルールブック発売から15年を経て、小説「魔法戦士リウイ」の中で用意された。なんと、リウイにファーラムの剣探索の命令が下されたのだ!
 その瞬間、私の中で一人の冒険者が死んだ。なんとまあ、冒険者が冒険者であるための存在意義を、デザイナー自身が消し去ってみせるとは!
 つまり、こういうことだ。
「水野良のフォーセリア世界においては、小説の登場人物こそが至上の存在である。PCがどんなに頑張っても、NPCの活躍を覆すことはできない」
 水野のリプレイに頻繁に登場する、いわゆる「観戦モード」なるシーンがある。PCのレベルを遥かに越えるNPCが登場し、活躍シーンを持っていってしまう、というシナリオだ。水野良のリプレイは描写力もあって面白いのだが、なぜかほぼ毎回こういったシーンがある。見ていた私はいつも、だったら自分でやれば? と思ったものだ。
 この「観戦モード」こそ、水野良の過ちの象徴だ。TRPG業界で強い影響力を持つ水野がこれをいわば推奨したことで、いわゆる「吟遊詩人GM」と呼ばれる、NPCの活躍をとうとうとGMが演出しつづけ、PCはそれを指をくわえてみているだけという、困ったGMが大量に発生することになってしまった。
 そしてついに、ソードワールド世界においては、なんと全てのプレイヤーがこの観戦モードを強制される!
「ファーラムの剣はリウイが何とかするんで、そこで見ててください。君達が手出ししたら死にますから」
 …これで、冒険者をやれというのか?
 そう、水野の世界では、
 アシュラムを倒すのも、ウッド・カーラを打ち滅ぼすのも、神王バルバスを倒すのも、皇帝を倒すのも、周期を終わらせるのも、妖魔王を倒すのも、全てPCではない。
 そしてもしファーラムの剣をリウイが手にしたなら、その瞬間アレクラスト大陸の全ての冒険者は「自分の手で世界の危機を救う」という「可能性」を封殺される。
 ソードワールドTRPGは、小説の登場人物の活躍を横目で眺めるだけの「マギウス・ソードワールド」になる。いや…ファーラムの剣の探索という目的を失った世界を、本当にソートワールドと呼ぶべきかどうかさえ怪しい。
 と、こういう話をすると、必ず反論する人がいる。
「アトンとファーラムの剣のデータを自作して、自分でキャンペーンをやればいいじゃないか」
…こういう人にこそ、FEARゲームの目指す「共有」の意味を知ってもらいたい。
 例えばあるGMが、アトンとファーラムのデータを自作し、自分のキャンペーンをやったとしよう。その物語は、その場にいたGMとPCにしか共有されない。それ以外の人間にとっては、水野良の書いた物語こそが公式設定であることに変わりはない。アトンを倒すためにたとえどれだけの冒険を繰り広げようとも、俺はアトンを倒したんだ、などと言えば周囲の失笑を買うだけだ。
 FEARゲームの場合はどうか? SSSなどで起きた事件の「結果」は後のサプリメントなどに反映するが、「真相」は決してルールブックでは明かされない。
 なぜか? 事件を解決するのはPCであって、他の誰かではないからだ。“「真相」はPCしか知りえない”。だからルールブックには書かれない。だが、その「結果」は公式設定であり、ルールブックを読んだ全てのプレイヤーと共有できる。
 これが「可能性」だ。
 その意味では…ロードスより、ソードワールドより、クリスタニアのほうがまだ望みがある。キャンペーン最後の敵である「終末のもの」が姿を現したところで、(NPCの)物語が終わっているからだ。
 水野は優れたストーリーテラーだ。しかし、だからこそ影響は大きい。物語が駄作ならば、読者であるプレイヤーは無視できる。しかし、駄作でなければ無視できなくなる。山本弘とはまた異なる次元で、彼もまた「小説家であり、GMではない」人間なのである。


2005年07月02日(土)



 これが剣の世界の大冒険!?

 友人に薦められ、サーラの冒険の最新刊を読んでみた。実は、今までもさらっと走り読みした程度で、まともに読んだことがなかったのだが…確かに、面白い(「ケイオスランド」に比べればなおさらだ!)。
 そして、読み終わって感じたこと。
「これでまた、ソードワールドも妖魔夜行と同じ運命をたどるか」
 「サーラの冒険」は、山本弘の小説家としての優れた力量と同時に…ソードワールドというTRPGの抱える最大の問題点を浮き彫りにしている。

 元々ソードワールドは水野良と山本弘、清松みゆきが世界設定やシステムデザインを分担し、協力して作り上げた世界である。この三人のデザイナーには担当はあるが上下はなく、同格のデザイナーである。
 つまり、この三人のベクトルが違う方を向けば、フォーセリア世界の方向性はバラバラになってしまうのだ。そして…実際に三人のフォーセリアに対するスタンスは、明らかにまったく異なっている。
 山本弘と水野良の現在のスタンスは簡単だ。二人はもはや、フォーセリアをTRPGの舞台として捉えていない。二人にとって、フォーセリアは単なる「小説の舞台」でしかない。
 昔、私は山本弘が書いたリプレイに登場する「善良な環境で育てられた善良なモンスター」や、彼の小説に登場する「ファンタジー世界でギターを持って自由を歌うロッカー」が大嫌いだった。
「モンスターを倒すことに良心の呵責を覚えていたら冒険者などできるわけがないではないか?」
「産業革命もルネッサンスもない世界でロックやパンクが有り得るのか?」
 だが、それらの疑問は、山本の書いた他の小説を読んで氷解した。要するに、山本弘が書いているのは、フォーセリアを舞台にした「異種との遭遇」を描く物語…つまり、SF小説だったのだ。
 今回も例外ではない。象徴的なのが今作のヒロイン「善良なファラリス信者」のデルだ。作者もあとがきでこんなことを書いている。
「デルが登場してから、善良なファラリス信者をプレイする人が増えたと聞きました」
 作者自身は軽い気持ちで書いたのかもしれない。しかし、これこそソードワールドの最大の矛盾点、乖離するデザイン思想そのものだ。

 考えてみてほしい。あなたがもしソードワールドのGMで、プレイヤーが「善良なファラリス信者」をプレイしたいと言い出したらどうするか?
 私なら却下する。それは、山本がその後で述べるように「本巻を読めばわかるとおり、善良なファラリス信者とは極めて不安定な存在」だからではない。
 システムデザイナーの清松なら却下するだろう。私にはそう断言できるからだ。ゲームのQ&Aでデザイナー自らが「血液にはピュリフィケーションはかかりません」とわざわざ断りを入れるゲームで、そんなはっちゃけたキャラクターはとても創れない。
 デルだけではない。先程例示した「ソードワールドアドベンチャー」ははっちゃけたキャラクターのオンパレードだ。
 メイジスタッフを武器に、棒術を自在に操るソーサラー・ファイター。
 全身に戦乙女の刺青を入れた蛮族の女戦士。
 全部清松マスターなら却下だろう。何しろ生命力で最低値を振ったファイターというだけでダメ出しするマスターなのだから!
 山本が「善良なファラリス信者とは極めて不安定な存在」だからプレイに向かないというのは、一種の予防線だ。つまり、善良なファラリス信者ではプレイしないでくれ、という意味だ(ちなみにもし「サーラの冒険」がTRPGのシナリオだったら、サーラよりデルのハンドアウトを渡された方がよほどプレイしやすいと思う)。
 簡単に言えばこういうことだ。
 “この「サーラの冒険」は小説です。だから、プレイヤーの皆さんは真似しないでくださいね”

 余談だが、トーキョーNOVAに“カウンターグロウ”というリプレイがある(FEARばかり引きあいに出して申し訳ない)。このうち一人のキャストはこんな設定だ。
「人が撃てないカブトワリ(狙撃手)」
 また、別のリプレイにこんなのもいる。
「自分は表舞台にほとんど現れず、全部部下にやらせるエグゼクティブ」
「魔剣」
 みんなはっちゃけた設定のキャストだが、もちろんルーラーは設定を却下していないし、ちゃんとセッションも運営している。

 さて、話を戻そう。善良なファラリス信者という存在には、プレイヤー側だけではなく、GM側の問題も隠れている。それは「プレイヤーの(キャラクターの、ではない)モチベーションとカタルシス」だ。
 善良なファラリス信者が存在する、ということは、邪悪なファラリス信者が善良な存在になる可能性があるということ…つまり、ファラリス信者を「説得」できる可能性がある、ということである。それも改宗させずことなく、だ。
 しかし、ゲーム中にファラリス信者を説得して善良な人物にすることは不可能に近い。なぜなら「そのためのルールが用意されていない」からだ。
 ソードワールドTRPGのシステムは(他の多くのTRPGと同様)、戦闘することでカタルシスを得るタイプのゲームである。必然、GMはシナリオの中核に戦闘を用意することになる。シナリオの中核に「説得」を据えることができないのだ。
「そんなことはない、山本弘は“善良なモンスター”のシナリオで、ファリス神官の説得を核にしてるじゃないか」
という意見もあるかもしれない。
 しかし、山本弘以外のGMによるリプレイでは“善良なファラリス神官”も“善良なモンスター”も登場したことはないし、シナリオが戦闘によらず平和的に解決するシーンも描かれたことはない。
 むしろ「モンスターは敵だから邪悪である。よって理由なく殺してもいい」という描写の方が多い。
 有名なバブリー・アドベンチャラーズのリプレイにこんなシーンがある。PCたちが、敵のダークエルフを殺すことなく捕虜にし、情報を聞き出すシーン。一通り情報を聞き出した後、当然ダークエルフをどうするか、という話になる。
 PCの一人がこう言う。「アノス(神聖王国)の官憲に引き渡そう」と。それが、即ダークエルフの処刑を意味すると承知の上で。しかも、尋問などによってではなく、ダークエルフの「協力」で情報を得たにも関わらず、である(このシーンのPCたちの邪悪っぷりはなかなかのものだ)。
 もちろん、ダークエルフを殺すことは問題ない。ただ、それは「ダークエルフは生来邪悪な種族であり、それ自体が倒す理由となりうる」場合においては、だ。このバブリーズの行動を山本リプレイのケッチャやユズが見たら、いったい何と言うだろう?
 実は、山本弘のリプレイにおけるPCたちの行動には、ルール上のバックボーンがまったくない。サーラの冒険におけるデルも同じである。
 「善良なファラリス信者」の存在を認めると、GMはPCの行動の動機づけに「敵がファラリス信者であるから」という以外の動機が必要になってしまい、逆にPCは登場したファラリス信者を倒しづらくなってしまう(善良なファラリス信者であるかどうかを見極める必要があるからだ)。
 もちろん、GMとプレイヤーに自信があるなら、善良なファラリス信者を登場させ、説得して改心させるというプレイングを試みてもいいのだろう。
 だが、経験から言わせてもらうと、戦闘をクライマックスにすることを想定したシステムで戦闘をしないことは、プレイヤーとGMの双方に相当なストレスを強いる。
 相手を説得するに至るプロセス…小説でドラマとして成立させるのは難しくない。小説というメディアならではの心理描写が大きな役割を果たせるからだ。しかし、客観的な描写をするのが主であるTRPGのGMが、同席するプレイヤー全員のコンセンサスを得ながら「説得」シーンを演出するのは茨の道だ。山本のリプレイは気心の知れた者同士だから成り立っていたのだということを忘れるべきではない。
 しかも、その遊び方は一切ルールブックではサジェスチョンされていないのだから!
 この問題を…矛盾を簡単に解決する方法は一つだ。
“この「サーラの冒険」は小説です。だから、GMの皆さんは真似しないでくださいね”
 さっきと同じ結論である。

 私はTRPG原理主義者なので、どうしてもこう考えてしまう。TRPGの関連商品は、TRPGの魅力を紹介し、TRPGをプレイしたいと思わせるものでなければ、と。
 どんなに優れた小説であっても「どうですか、すごい設定でしょう? でもTRPGでは使わないでくださいね!」と言われたのでは、TRPGとしての魅力とはまったく無関係でゲームをプレイしようという気にもならない。
 もちろん、小説としての完成度の高さとはまったく別の話だ。いや、むしろこういうべきか。
「小説としての完成度が高ければ高いほど、TRPG小説としての価値は低くなる」と。
 妖魔夜行の「戦慄のレクイエム」がそうであったように、「サーラの冒険」もまた、山本弘がフォーセリアをTRPGの背景世界としてではなく、小説の舞台と考えている何よりの証なのではないだろうか。
 そして、このベクトルの違い、デザイン思想の乖離こそが、ソードワールドの展開を今のようにしてしまった最大の原因ではないかと、私には思える。

 ちなみに…今回は触れなかったが、水野良はもっとヒドい。でも、それはまた、別の機会に。


2005年07月01日(金)
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