オクラホマ・スティルウォーターから

2002年01月31日(木)

 朝9時に歯医者に行って10時ちょっとすぎには家に戻ったが、その時には既に雪がちらついていた。

 その後しんしんと雪が降り続いた。夕方になっても除雪車が来ていないので、アパートの駐車場の道路は轍ができている。

 ここで降る雪はさくさくしている。

 ここの町の中にあるワゴンヒル(Wagon Hill)というワゴンが置いてある丘には(そのまんまや!)、雪が降った後、子供達が丘をすべりに来る。ここから車で10分行くか行かないかのところにあって、週末になるとワゴンヒルの前の道路に車で乗り付けている人たちを見かける(駐車禁止って書いてあったような、、、)。この前通りかかったときには救急車が既に到着していて、私の車の後ろにパトカーが走っていた。けが人がいたらしい。

 この週末は天気になるそうだから、また子供達でいっぱいだろう。



2002年01月30日(水) 模様替え

 先々週Hさんの部屋にお邪魔した時や、この前の土曜日にAさんのアパートに行った時に刺激を受けて、リビングの部屋の模様替えをした。

 といっても、ソファーの位置を変えただけである。ソファーを壁側に置いたので、台所とリビングの行き来がしやすくなった。

 夕方ネジャーティが帰ってきて、「部屋を間違えた」と言って、冗談で出て行こうとしていたが、いいよと言ってくれたのでよかった。このアパートにはもうそんなにいるわけではないが、ちょっと気分転換をしてみるのもいいと思う。
 ソファーが壁側に来たので、ちょっとテレビが見にくくなったが、そんなにずっと見ているものでもないし、とりあえずこのままにして様子を見ようと思う。



2002年01月29日(火) 責任追及

 日本では外相と某国会議員の「言った、言わない」が問題になっているらしい。それで、喧嘩両成敗で外相の更迭、辞任と某氏の衆院議院運営委員長が辞任という形になったが、なぜ外相が更迭されないといけないのか、疑問に思ってしまった。

 外相としての果たすべき任務ができなかったという問題ならともかく、今回はそうは思えない。外相もいいとばっちりを受けたとしか思えない。

 「喧嘩両成敗」で、何か問題があったときに、両方が辞めればそれでいいという風潮があるようである。某氏が運営委員長を辞任したから、外相も更迭になったんだと思うが、それは納得行かない。職責を辞めればいいという問題ではない。

 この問題だけでなくても、「責任を取って辞める」とか「辞めれば全てがかたがつく」という風潮があるが、本当に責任感があるなら解決する最後の最後まで自分の任務を全うすべきじゃないかと思う。

 辞めるのは簡単である。某食品会社の社長も辞任したが、事件が解決するまで、責任を果たすのが本当ではないかと思う。



2002年01月28日(月) テレビっ子

 梨奈はテレビが好きである。

 ニケロデオン(Nickelodeon)というテレビ局では朝と昼はニックジュニアといって、子供向けの番組を流している。アニメもあるのだが、子供に人気のある「ブルース クルーズ(Blue's Clues)」「ドラ・ザ・エクスプローラー(Dora the Explorer)」、「リトル・ビル(Little Bill)」は梨奈ももれなく好きである。最近は音楽が流れたら、「ブルース!」と言ったり、「ドラ」と言ったりする。テレビに映るブルースやドラを見てもそれがブルースやドラとわかる。

 最近は写真に映っている私がわかるようになって、私を指して「ママ」と言ってくれるようになった。梨奈の自分の写真は「ベービー」と言うのだが、それが自分とわかっているのかどうかわからない。

 寝る前もテレビや電気がついていないと、はっきりじゃないが「テレビ」「でんき」と言って、つけてほしいと言う。

 にぎやかなのが好きらしい。



2002年01月27日(日) 夕食会

 ネジャーティの研究室にいた中国人のホーミンと娘さんを夕食に誘ったので、スーパーに買い物に行った。店内で50代ぐらいの男性がニコッと私を見ていたので、ニコッとしたが、その男性が「僕のこと覚えてないんでしょ」というので、だれだか頭に浮かんだのと同時にその男性に「君の歯科医だよ」と言われてしまった。

 アメリカにしばらく住んでいるが、アジア系以外はどうしても人の顔が同じに見えてしまう。「ウォーリーを探せ」の本ではないが、たくさんの人の中に知り合いがいてもわからないことが多い。日本ではそんなことはないのだが、、、。

 夕食にはてんぷら、照り焼きチキン、インゲンの胡麻和え、お味噌汁を作った。
お味噌汁は初めてらしかったが、おいしいと飲んでくれた。てんぷらも初めてだったらしい。

 食べていると、大学のワゴン車が来て、ホーミンが止めていた車の後ろにくっついた。実はその駐車場は下の階の人の駐車場だった。最近は全然いなかったので止めていたら、今日に限って帰ってきたらしい。メモを残して置けば、また少し離れたところにあるビジター用の駐車場に止めていればよかったなあと悔やまれるが、時既に遅し。ホーミンは切符を切られてしまった。

 気を取り直して、夕食後、ホーミンにガイドブックや日本の写真を見せていたが、漢字がたくさんあって、その読み方を中国語と日本語で言い合っていた。似てるものもたくさんあって、ホーミンは意外な発見をしたように喜んでいた。例えば「記念館」は「(中国語では紀念館)ジーニェンクァン」、「料理」は「リァオリ」というような具合だ。音読みの漢字であればとても似ているものが多い。そういうわけで、日本人も中国語は勉強しやすい。

 「かん」という漢字は「クァン」と発音するものがある。「館」のほかに「関」もあるが、この発音で思い出すのは、吉四六か何かのとんち話で、江戸に入った間者(スパイ)を言葉で見破る話だ。

 「火鉢に火箸、やかん、どかん」を人々に言わせて間者を見つけようとするものだが、江戸の人は「火箸(ひばし)」が「しばし」になり、「やかん、どかん」が「やくぁん」「どくぁん」になるというもの。

 役人が調べている間、一人ぶつぶついっている者がいて、吉四六(だったと思うが)がそれを見逃さなかった。その者はその場を切り抜けたように見えたが、吉四六がみかんを指して、「これはなんですか?」と聞いたら「みくぁん」です、といった。「みかんはみかんですよ」と言って見破ったと言うものだった。

 だから、「くぁん」として中国から入ってきた発音がいつしか「かん」になったと考えるのが自然だと思う。江戸時代の話だから「かん」になったのはそう古くはないのだろう。うちの祖母は昔の仮名遣いで習っているから、「館」の仮名遣いも「くぁん」だったらしい。

 漢字は奥が深い。



2002年01月26日(土) ビデオ鑑賞

 AさんPさんのお宅でMさんが日本からもって来てくれた紅白のビデオを見るということで、AさんPさん宅に向かっていた時のこと。道はそんなに田舎道ではないのだが、ヘッドライトの向こうに鹿が道路にいるのが見えた。速度を落として止まったが、鹿が道路を横切るのを始めてみた。

 Aさんのお宅に着いた。初めてお邪魔したが、リビングが広くて、ため息が出そうだった。

 ご飯を食べながら、何回も見たというAさんPさんの解説とともに、紅白のビデオを見た。Pさんと私のご近所のMさんは日本酒、ワイン、ビールを次々と空けていった。ビデオで盛り上がったのはやはりドリフ。子供の時に見ていたドリフはやはり懐かしい。番組のオープニングとエンディングで着ていたものも同じで、「懐かしい〜!」。

 エンディングで加藤茶が「お風呂入ったか?」「歯みがけよ」など言った後は「また来週」と入ったものだが、これは年明けなので「よいお年を〜!」だった。それで、なんか終わった気分になってしまった。

 懐かしさに浸っていたが、20歳前後の人は当然知らないんだろうなあと、自分の年を感じてしまった。

 NHKも軟らかくなったなあと思ったが、元のテレビ局で全員集合の特番をやってくれないかなあとひそかに思っていたりする。



2002年01月25日(金) B先生

 雪が解けてきている。昨日も雨が降ったし、何か暖かい日が続いている。

 ところで、フロリダ時代の大学のHPを見ていたら、学部にいたB先生がおられないことに気がついた。B先生はカナダ出身の女性教授で、移民問題を専門としていて、その専門では名前が知られている方だと思う。フロリダの大学の初めての学期でB先生の授業を取ったが、とても専門家だなあと感心し、学生にはとても寛大な先生だった。また同じ英語圏でもアメリカ人とは違う面を持っておられた。フロリダという土地ではアメリカ人がラフな格好をしている中、B先生はとてもおしゃれで、またとてもスリムで、女性からも魅力的な先生だった。とてもできる先生だったので、男子学生にとっては面食らっている人もいたかもしれない。

 苗字が違っていたのでわからなかったが、ご主人も同じ大学で働いておられた。一度、その先生のお宅で、女性に関する何かのワークショップがあってお邪魔したことがあった。一人娘さんが当時大学生になって寮生活を始めたところだったので、「日本語を勉強させようかしらなんて思ってるのよ」と私に言っておられたことがあった。

 いつもお忙しく、最近ではカナダを行ったり来たりしておられたのだが、どうもカナダに戻られ、現在はカナダのとある大学で教えておられるそうだ。

 フロリダには4年ぐらいしかおられなかったが、その間にフロリダで偶然その先生の授業を取り、ペーパーを見てもらえたことはとてもラッキーだったと思っている。またいつか先生にお目にかかれるのを楽しみにしている。
 



2002年01月24日(木) 島からの電話

 昨日の夜、電話が鳴った。ネジャーティが取ったが、声の持ち主はJだった。先日も言ったとおり、Jに連絡を取る唯一の手段がJの会社に電話をするというものだった。伝言を残しておいたものの、その日はかかってこなかった。

 Jと3年ぶりかぐらいに話すと、3年という月日も一気に吹っ飛んだ。Jはやはり島にいるらしい。本社はテキサスにあるが、島に2ヶ月行って、帰ってくるというのを繰り返しているらしい。その島はハワイから800マイルのところにあって、主に米軍施設があるところなので、そこで働くにはアメリカ市民でなければならない。

 島の長さは10キロぐらいと本当に小さいところで、食事は会社がタダで支給し、他の施設も低料金か無料で使えるらしい。スキューバーダイビング、セーリング、ゴルフなどが楽しめるという。

 島から電話をかけるのに15分の制限があるらしく、一旦電話を切って、かけなおしてくれた。アメリカ本土から電話をするのもつながりがあまりよくないらしい。

 2月には日本に遊びに行くらしく、フロリダ時代の日本人とも会えるかもしれない、と楽しみにしている。

 変なきっかけだったが、Jとまた話せるようになってよかった。
 

 



2002年01月23日(水) HP

 フロリダ時代の大学のHPにアクセスすることがあったのだが、やはり日本の大学のHPよりも充実していると思った。

 在学生はともかく、外部の人間でも情報を得やすい。名簿も公開していて、先生のオフィスの部屋番号、電話番号、メールアドレスが載っている。学生の場合は所属の学部、メールアドレスが載っている。
 
 卒業生への情報も欠かさない。例えば、成績表を取り寄せたい場合、PDFファイルで用紙を載せていて、それを印刷して書き込み、個人の小切手を同封して送れば取り寄せられる。オンラインで申し込めないのは、きっと個人の情報からだろう。

 日本で卒業した大学のHPに行ってみた。マンモス大学なので、情報をたくさん載せるのは大変な作業かもしれないが、よく考えたら、フロリダの大学も同じ規模である。できないことはないだろう。

 研究者の検索もできたが、まだメールアドレスは載っていなかった。外部の人間は大学の研究者(先生)と連絡が取れないということだろうか。

 友人か誰かの体験を思い出した。同じフロリダの大学の時、友人は用事で先生のオフィスに直接行き、話をした。友人が「電話やメールでは失礼かと思ったので」というと、「アメリカでは失礼じゃないから、いいんですよ」といわれたそうだ。電話だから失礼とか、そういうのはないらしい。なんと合理的なんだろう。アメリカでも企業では事情が異なると思うが、アメリカの大学ではそういうものらしい。

 日本の大学だとそうはいかないだろう。私は卒業してからだが、推薦状をある年配の先生にお願いするのに、いきなり手紙を送っては驚かれるだろうと思い、電話でお断りを言ってから手紙でお願いしようと思っていた。先生に電話で話し、事情を説明していたが、お手紙を差し上げます、と言わないうちに、「そういうことは手紙で頼むもので、電話では普通頼まないものだ」と言われてしまった。

 日本では面と向かってか、手紙が丁寧で、電話はカジュアルだと思われている。

 メールは書面になるが、その先生にとって、メールと電話とではどちらが丁寧なのだろうか? 
 



2002年01月22日(火) 春学期

 今日からここの大学も春学期が始まって、町もにぎやかになった。ネジャーティは学校に出かけたが、まだ今学期のスケジュールは決まっていないらしい。コースワーク(Course work)と呼ばれる一般の授業は以前に取り終えて、今はずっとティーチングアシスタントとして学部の実験の授業を教えてるのと、自分の実験ぐらいなものである。

 といっても、ネジャーティは今学期中に終わらなければいけないので、博士論文も仕上げないといけないから大変である。実験のデータに基づいて書くものだから、実験が上手くいかないと論文が書けないのである。

 先行き不透明な私たち。案ずるより産むが易し。ネジャーティに頑張ってもらおう。



2002年01月21日(月) 雪遊び

 今日はマーティン・ルーサー・キングJr.ディーで祝日だ。

 夕方ネジャーティが梨奈を連れて洗濯に行った。アパートにランドリールームがあって、そこで洗濯する。

 なかなか帰ってこなかったが、帰ってくると、アパートの前と階段の雪をのけるからと、また梨奈と出て行った。
 しばらくしてネジャーティが戻ってきて曰く、「リビングルームの窓に雪を投げてたんだけど気づかなかった?」。台所にいたからわからなかった。
 リビングルームから外を見ると、梨奈も雪だらけになっている。写真を撮ってほしいといわれたがフィルムがなく、ビデオを撮ろうとしたら、ビデオカメラがどこかにしまってあって、わからなかった。
 そうこうしているうちに、結局ネジャーティも梨奈も戻ってきた。雪で遊べて喜んでいるようだった。

 今日は遅くまで起きていたが、梨奈は夜中に1回も起きなかった(うれしい!)。



2002年01月19日(土) お茶・メール

★お茶
 今日はHさんの寮の部屋にお邪魔して、HさんとMさんとお茶をした。Hさんは部屋を少し模様替えしたということで、同じ部屋でも広く見えた。
 日本のおかしなどでお茶したが、やはりいい。ネジャーティだと、があ〜って食べてしまうが、やはり私たちは味わって食べる。

 小さい幸せでした。

★メール
 先日、フロリダ時代の友人Jについての誤報があったが、今日、本人からメールが来た。よく見たら転送されている。私のメールアドレスとよく似たメールアドレスからだった。その人も同姓同名だということが以前わかって、きっとその女の子が送ってくれたんだと思った。

 Jはある島で働きたい、と言っていたが、現在はテキサスにいるようだ。Jはフロリダ時代の別の友人を通じて、誤報が回っていたことを聞いたようだった。初めは冗談だろうと思ったが、他の人からもそういうメールが回ってきたようで、びっくりしたようだった。
 Jにメールを出そうと思っていたら、よく見たら、Jのメールアドレスが入っていない。転送されているので、転送元に打診しているが、まだ返事は来ない。
 幸い、勤め先がわかっているので、そこにかけるしかないのかな。

 勤め先は理系のところなので、ネジャーティに聞いてみたら、偶然にもそこに履歴書を出したという。
  
 Jとは連絡が途絶えていたが、Jと連絡が取れるかもしれないきっかけが本人死亡の誤報だなんて変な話である。



2002年01月18日(金) トルコでの騒動

 日本のバラエティー番組で、トルコ人の花婿探しの企画があったようだ(こちらを参照)
 ネジャーティに話すと、「それ知ってるよ」ということだった。ネジャーティの見解はこうだ。

 「マスコミも面接会場に来ていて、応募者にインタビューしていたみたい。応募している人の中には親子で来ている人もいたみたいだよ。それで親子にインタビューしたらお父さんが「どんな人が将来息子のお嫁さんになるのか見てみたい」と言ってたとか。まじめな人が応募して来るわけがない。日本人と結婚したら日本に行って稼げるとか、そういう人だって応募してるに違いないんだから。結局見つからなかったみたいだけど、見つからなくて当然だよ。」

 「担当プロデューサーが謝りに行くってよ」(正確には大使館に釈明しに行ったそうだが、、)、と私。

 ネジャーティ曰く、「そんなの謝りに行かなくていいよ。」


 テレビ側もちゃんと番組であることを公表していればよかったのだと思う。女性としては真剣だっただろうし、見つからなかったことは残念だが、もしその女性が誰かを選んだとしても200人の応募者から1人しか選ばないわけで、選ばれる確率は1%にも満たないわけだから、男性側は文句は言えないんだと思うのだが、、。それだったら自分が選ばれなくても誰かを選んでくれた方が気持ちが晴れるということなのだろうか。



2002年01月17日(木) 震災から7年

 やはりこの日が来ると、震災のことを思い出す。もう7年も経ってしまって、だいぶ過去のことになってきているような気もする。それでもあの日起きた地震、復興までの過程や日常生活の不便さ、3ヶ月ぶりに神戸に行くと思ったより被害がひどくてショックだったこと、また大阪や京都に行くと普段の生活に戻っている人々の様子にショックだったことは忘れていない。

 地震当日とそれ以降のことは去年の日記にもHPでも書いたので省略して、地震の前日と前々日の事を書くと、その2日間は成人の日と日曜日で神戸も賑わっていた。当時は神戸にある人工島でアルバイトをしていて、15、16日は稼ぎ時だったので、当然駆り出されていた。アルバイトの帰りに神戸の中心地の三宮で買い物をした。地下街とつながっている駅ビルの地下に入っているお店でかばんを見つけて、買おうかどうしようか迷ったが、何か買う気になって買った。

 次の朝、地震があった。この地震が半日前にずれていたら、どうなっていただろう。地下街は割と大丈夫だったので、きっと問題なかったが、西宮までどうやって帰っていただろう。当時は今のように携帯が発達していなかったし、公衆電話を使おうとしてももしかしたらつながらないかもしれないし、連絡の取りようがない。

 人工島と三宮を走る無人ライナーの高架部分が落下したが、もしもう少し早い時間にに乗っていて地震が起きたらどうなっていただろう。いつも乗る阪急の三宮の駅ビルは壊れてしまったし、、、。火事があったのは神戸の中心街の三宮付近ではなかったが、いずれにしても私は三宮で地獄絵を見たことだろう。

 地震が起きてから7ヶ月してフロリダに行ったこと、またフロリダに行く直前に電車も全線開通したこともあって、自分の中では一つ区切りがついた。でもまだまだ復興には程遠かった。

 あれから7年と振り返ると、復興と、ほぼ同時期に始まったアメリカでの生活とを照らし合わせてしまう。



2002年01月16日(水) 争奪戦

 親知らずを抜いて静かにしていた。夕方はまだ少し麻酔が残っていたが、しゃべられるようにはなっていた。

 HさんとMさんがこられて、日本からのものを頂いて、すぐに帰られたが、おしゃべりして気がまぎれた。

 ネジャーティが戻ってきた後、頂いたものを開けて食べ始めていた。夕食にはおじやを作ってソファーに座って食べていて、ネジャーティが台所で食べていたが、よく見たら梨奈がHさんから頂いたおつまみのりを食べている。それで、ネジャーティも勝手に開けて食べていたことに気がついた。日本のものは味わって食べたいのに、勝手にむしゃむしゃ食べられたらたまったものではない。

 ネジャーティは「日本のものはおいしいよね。お菓子は僕のもの。」とかいいながら、梨奈と食べてるし、私が思うように食べられないことをいいことに(といいつつ私もつまんでいる)、目の前で食べている。

 恐るべし、ネジャーティと梨奈。ここでは食べものの争奪戦が繰り広げられている。



2002年01月14日(月) 渡り鳥・カード

 昼間には「これを日記に書こう!」と思っていたのに、夜日記を書く時に、何を書こうとしてたんだったかなと思い出せないことがある。それで、思い出したことがあるので、忘れないうちに書いておこうっと(年だ、、、)。

★渡り鳥、冬の鳥
 この季節、普段見られない鳥が集団で見られる。窓の外にある姫りんごの木にも実が落ちずに乾燥した姫りんごについばむ鳥が何羽もいる。
 キャンパスの近くの畑にもカモか雁かが何羽もいて、何かを刈り取った後の畑をついばんでいる。土曜日に車で通った時に、ちょうどその鳥が飛び立っていった。そこからアパートには車で2、3分だが、アパートに着いて車から降りると、ちょうどその鳥の群れがアパートの上を飛んでいった。

 「どこかへ渡っていくんだなあ」と思っていたら、今日またその畑で同じ種類の鳥がついばんでいた。同じ群れなのか、また違う群れなのかはわからない。

★カード
 ユキ子さんから先日カードが届いた。学校でコピーしたと思われるわら半紙には(懐かしい響き、、)日本での体験が書かれていた。それをアメリカにいる友人達にも送っているようだ。

 その体験は温泉やお弁当、日本の変な食べもの、台風の話で、とても生き生きとした文章で書かれていた(こんな英語の文を書いてみたい、、)。生卵(おそらくうずらの卵)がのっている山芋、こんにゃく、納豆などアメリカでは食べたことがないものに初めて挑戦した時の感想を読むと、「そうだろうなあ」と思ってしまう。

 今は関西でも食べる人が多くなったが、納豆はうちの実家では食卓に出されることがない。身体にいいからと一時期買われたことがあって両親も頑張って食べていたが、今は食卓で見ることがない。私はそばで見ながら「私は食べない」と食べないことを通していた。
 
 私はそういうわけで食べない部類に入るので、ユキ子さんの納豆の体験は理解できる。日本に行ってもうすぐ半年のユキ子さん、日本での生活頑張って!



2002年01月13日(日)

 昨日は天気がよかったのに、今日は朝から雪が降っていた。雪はだんだんひどくなっていて、午後に止むという予報は本当なのかと疑ってしまう。

 外を見ると、アパートの部屋の前にある姫りんごの木の枝にも雪が積もっているが、ふと見ると、小枝と小枝の枝が分かれているところに何かが見える。よく見ると、おととい木の根元に置いておいたりんごだ。梨奈が車の中で食べ残したりんごだった。きっとリスが見つけて枝に置いたらしい。

 午後は雪がちらつく程度になり、時々雨に変わったりしたが、地面は溶け始めた雪と雨でぐじゃぐじゃである。排水がよくないので、道路が水浸しだ。

 3時ごろマンチェスターに住んでいらっしゃる私と同じ名前の方が遊びに来られた。先週日本から戻ってこられたばかりだったが、今週から学校が始まるというので、時間がある今日、来られたというわけだ。

 ここの大学は来週からで、火曜日にはMさん、Hさんも戻ってこられる。またここも賑やかになる。

 

 



2002年01月12日(土) 借り物

 アパートにあるものには借り物が多い。これはネジャーティが寮からアパートに引っ越す時に、町の教会から家具を借りているからである。この教会は学生に(ほとんど留学生に)無料で家具を貸している。貸し借りカードがあって、誰に何を貸しているかを控えているというようなことを聞いたことがある。

 ネジャーティが借りた家具はダイニングテーブルと椅子、木の椅子、丸いローテーブル、たんすで、このうち丸いテーブルとダイニング用の椅子はここを出る時にまとめて返すことにしていて、アパートの倉庫に眠っている。

 現在のアパートの部屋に移って3年目になるが、いつかは引っ越すことがわかっているので、あるもので済ませている。学生生活が長かった2人なのに本棚は小さいのが1つしかなく、箱の中に入れたままのものもある。

 この1ベッドルームは1人用としてはいいが、2人+梨奈で住むには狭いところだ。2ベッドルームに移っていればそれは解消されるが、移ると家賃も高くなるし引っ越すのが面倒くさかったので、ここにいることになった。

 アパートの利点は、光熱費やケーブルTVの料金が家賃に含まれていることや、アパートの地下に倉庫があることや、TVで日本語が見られることや、何と言ってもインターネットが大学とつながっていて、24時間無料でインターネットが使えることである。そういう意味では、あまり文句もいっていられない。

 今度引っ越すところでは、インターネットの利点はないにしても、もう少しモノをそろえた生活ができたらと思っている。



2002年01月11日(金) 不快・愉快

★不快
 昨日、首を違えてしまった。起きていた時だったから寝違えではないのだが、寝違えのような痛さである。今日はまだましなような気がするが、頭を支えている首は大切なんだなと痛感した。首がいうことをきかないと、頭を支えているのがつらくなる。車で走っていて、段差で車がゆれると、首に響く。

 この痛さを理由にソファーに寝転んでいる状態で「ネジャーティ、お茶飲みたい」「○○食べたくない?」とこの時とばかりいろいろ持ってきてもらっている。

★愉快
 梨奈はまだ「ママ」と「ダディー」と間違えることが多いが、「ダディー」と呼ぶとネジャーティが「イエス」というので、この2、3日、梨奈は「ダディー、イエス」というようになった。その呼び方がおかしくて、ネジャーティと一緒に笑ってしまう。それでそれを聞きたいために、梨奈に「ダディーって呼んでみー」といって、「ダディー、イエス」と言わせてしまう。



2002年01月10日(木) 暖かいなあ

 お昼すぎにネジャーティが帰ってきて、家のコンピューターを使いたいというので、ネジャーティにお昼ご飯を用意した。梨奈が寝たがっていたので、寝かしつけていたら、梨奈は起きてリビングルームに行ってしまい、私自身が眠たくなって寝てしまった。何度か目が覚めて、梨奈もそのうち来て一緒に寝たのは覚えているが、結局夕方になってしまい、ネジャーティに起こされた。

 買い物に行こうといっていたので、6時過ぎに買い物に出かけた。今日は暖かいらしく、6時を過ぎて真っ暗なのに7度ぐらいあった。降った雪も溶けかけている。

 暖かい日でよかったが、今日はアパートのお湯タンクをきれいにするというので、昼間はお湯が出なかった。夕方には出るようになったが、少しお湯が汚い。シャワーを浴びないで寝ようっと。



2002年01月09日(水) たわごと

 友人をバス停まで送った。アパートに戻ると何となくひっそりしていた。

 夕方近くにM・WさんとJさんがいらっしゃった。Mさんが梨奈に手作りの帽子とマフラーを作って持ってきてくださった。あまり時間がなくてお話しできなかった。

 晩ご飯は早めに食べたのに、ゆっくりしていたら、あっという間に夜更かししていた。明日は7時から3時までお湯が出ないそうである。こんな冬にお湯のタンクを清掃しなくてもいいのに。



2002年01月08日(火) 雪が止んで

 昨日の雪も止んで、気温が5度ぐらいになった。雪が積もっているので、外を歩くとひんやりするが、車の中は太陽が照ってるので暖かい。

 明日友人がここを発つので、お昼過ぎに友人と買い物に出かけた。メイン州のキタリーにあるアウトレットに行って、この前行かなかった陶器屋に出かけた。思っていた通りセールがあって、50%オフの食器もあったので、お皿とティーカップを買った。値段のシールは9ドルでそれが3ドル99セントに下がっていて、最低の値段から50%オフだったので、1枚のお皿、ティーカップが2ドルだった。ファイナルセールといっていたのでそれ以上の安値は期待しないが、割引は大好きである。

 モールに寄って帰宅してしばらくしたらネジャーティから電話があった。どうも2時か3時ぐらいにここの大学にブッシュが来ていて、図書館で演説をしていたらしい。テレビをつけたらすでにボストンに行っていた。教育に260億ドルの予算を計上するらしい、その関係でニューイングランド地域を回っていたようだった。どうりで日曜日からヘリコプターが飛んでたわけだ。また昨日友人が図書館に行った時は、今日は閉館になるというお知らせが貼ってあっただけで、とくにブッシュが来るからというのはなかったそうだ。やはり安全面でそういうのは知らせないのだろう。

 ネジャーティが帰ってきて、夕飯を食べにドーバーにあるFirehouse1というレストランに行った。ここはもともと消防署だったところで、そこをレストランに改装したそうだ。1階部分がレストラン、2階がバーになっている。入口を入って、暖炉に一番近い席に案内してもらった。暖炉にはガラスが張ってあるが、とても暖かい。古い建物なので、重厚な雰囲気があるが、子供も入れるレストランで、子供用のメニューもある。お客が少なかったのでよかったが、梨奈はまだ小さくてじっとしておらず、テーブルの周りをぐるぐると回ったり、水を飲もうと思って服にこぼしたり、なかなか大変である。

 注文したグラスワインの量が思ったより多かったが、貧乏性なので残すことができず、ほとんど飲み干し酔っ払ってしまった。食事の後、いつも行く近くのコーヒー屋に寄って帰ってきたが、帰ってから1時間ほど寝てしまった。起きてもまだ酔っている状態である。シャワーを浴びて身体はすっきりしたが、まだ頭がボーっとしたままである。とりあえず日記を書いておこうと思って書いているが、もう寝る時間にもなっているし、酔いが冷めないまま寝るのがいいようだ。

 というわけで、おやすみなさい。



2002年01月07日(月)

 昨日の夜からWinter Stormがあって、横殴りの雪が降っていた。お昼まではやんでいたが、また午後からずっと降っている。降っている量はそんなに多いわけではないので、車は雪見大福状態にはなっていない。

 ネジャーティ、梨奈、友人が洗濯をしに行っている間、夕飯の用意をした。おでんの残り汁で炊いた(←注釈)大根と油豆腐(と、パッケージには書いてある)、いかめし、ニラとモヤシいためが今日の夕食である。部屋は暖かいが、身体が温まりそうなメニューである。

 明日は晴れて欲しいなあ。




注:関西では煮込むものも「炊く」という。



2002年01月06日(日) ボストンへ

 今日はトルコの食材屋とアジア系スーパーに行くことにした。

 寄り道をしたので、いつもとは違う行き方でボストンに入った。途中でマクドナルドに寄ってお昼を食べた。マクドナルドにはプレーハウスといって屋内で遊べるところがあるので、子供連れが多かった。

 そこから一本でケンブリッジ、ボストンに続いているので、そのまま車を走らせた。途中、ポータースクエアという日本の食べもの屋も入っているところがあったので、そこを通ることがわかっていれば、そこによってもよかったなと後悔。でもお昼にしては遅い時間だった。

 そのまま車で走って、ケンブリッジに入り、ハーバード大学のそばを通った。そこからチャールズ川の川沿いを走り、川を渡って、ボストンに入った。

 インターネットで調べた行き方を頼りに、最初にトルコの食材屋がある場所に着いたが、食材屋からトルコの食べもの屋に変わっていて、買うものがなかった。それからアジア系スーパーに向かった。

 久しぶりにボストンの街の中を走った。ボストンの街並みはとてもきれいで、街に並ぶアパートもロンドンのアパートと同じように、通りから階段を上って玄関を入るようになっている。車の中から街並みを見ていてため息が出るほどだ。普段ニューハンプシャーの自然の中での生活に慣れていても、やはり大きい街に少しは出ないといけないなと思った。

 アジア系スーパーでまた買い物をして、帰る途中でマサチューセッツ州内にあるモールで休憩をして帰宅した。帰宅して夕食を済ませて、朝録画しておいたトム・ハンクスの「Cast Away」を見た。



2002年01月05日(土) おでん

 お昼に買い物に出かけ、もう一度アジア系スーパーに行った。

 帰ってきてから、スーパーで買った野菜天をおでんに入れたら、味が出てきた。

 何せ、おでんを作るのは始めてである。日本から持ってきた料理の本に載っていなくてもインターネットで作り方を調べられるのでとても便利である。作り方を見ながら作っていった。
 牛角が煮込んでいくうちに小さくなってしまったり、なかなか味が出ず、調味料を足していったりしたが、それなりにうまくできたと思う。

 7時にご近所のMさん、元ご近所のAさん、Pさんと新年会をして、おでんと春巻き、サラダを出した。黙々と一気に食べてしまった。
 Aさん、Pさんにうちに来ていただいたのは初めてである。Aさんの中学の同級生が私がフロリダで知り合った学生だったという偶然もあって、いつかAさんをお呼びしたいと思っていたが、何かと機会を失ってしまい、引っ越されるまでお呼びすることができなかった。

 10時にお開きとなったが、今度AさんPさん宅で、ビデオ鑑賞会を企画してくださるということだ。(Aさん、Pさん、楽しみにしていま〜す!)。



2002年01月04日(金) 花金

 ネジャーティが「今日は金曜日だから、夜コーヒーを飲みに行こう」と言って初めて、今日は金曜日なんだなあと思うほど曜日の感覚がなかった。

 いつも行くドーバーのコーヒー屋に行った。改装を始めたらしく、ネジャーティがお店の人に聞いたら、もう少し席を増やすということだった。

 アパートに戻って、明日のおでんの仕込みを始めた。



2002年01月02日(水) 25セント

 今日は友人とモールに行くことにした。モール内には梨奈の好きなガチャガチャがある。しかしそのガチャガチャにはキャンディーやチョコもある。梨奈はお金を入れれば中のキャンディーが出てくるのを知っているが、どのお金かわからない。

 モールに着いた。梨奈がいつのまにか25セントを持っていた。どうもコートのポケットの中にあったらしい。ガチャガチャに近づく前に25セントを取って隠しておいた。ガチャガチャを見て梨奈は脱いでいたコートのポケットに手を突っ込んだ。しかしあるはずの25セントがないのでコートを着てポケットに両手を突っ込んだ。友人が先に行っているので、友人を追いかけて歩いていった。

 梨奈はポケットに手を突っ込んだまま歩いて、あったはずなのにおかしいなあという顔をしていたが、同時にがっかりしたような顔だった。かわいそうなことをしたかなと思ったが、その後コーヒーを飲みに行くのでその時に何か食べさせようと思った。

 コーヒー屋兼パン屋でパンを買って食べさせ、私も友人もコーヒーを飲んで、帰宅した。梨奈は途中から寝ていた。

 夜、ネジャーティにそのことを言うと、自分が25セントをポケットに入れたという。とても甘い父親である。

 私は梨奈がキャンディーを食べられなかったことよりも、モール内を歩いて友人を探している時に、がっかりしたような顔をして、ポケットに手を入れて25セントを探している梨奈の様子に、梨奈の小さな喜びを取ってしまったような気がして、ちょっと罪深く感じた。



2002年01月01日(火) 新年

 明けましておめでとうございます。
 天気がいいのがわかっていたのですが、起きられず、海まで初日の出を見に行くことができませんでした。
 昨日作ったおせち料理とお雑煮で新年を祝いました。

 今年もよろしくお願いします。


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