オクラホマ・スティルウォーターから

2002年02月28日(木) 2月も終わり

 昨日は床についた時間がそれなりで、朝はそれなりに遅くなったが、今週は休養週間ということでゆっくりしている。梨奈もお昼に起きてきた。

 お昼過ぎにはフロリダにいるMちゃんから久しぶりに(といっても1ヶ月ぐらいだが)電話があって、お互いの近況報告。

 それから、ちょっと外出の計画。実は梨奈のお気に入りのウサギのぬいぐるみを病院に置いてきたらしい。病院に昨日かけたが、ないといわれ、もう一度病院に行って、見に行くついでに、切らした飲み物など買いに行こうかな、と思っていたが、用意をしているうちに眠気が襲い、そのまま晩ご飯前まで寝てしまった。

 夕ご飯を支度し終えた頃にネジャーティが帰ってきて、食べたが、2人ともまだ本調子ではないようで、少しご飯を残した。そういえば、ネジャーティが具合が悪かったのは火曜日だったので、まだ2日しか経ってなかった。ネジャーティはまだ胃が回復してないだろう。

 夕飯後、ネジャーティはまた学校に行き、私は横になっている。といっても具合が悪いわけではなく、まだ眠たい。

 「ミリオネア」の番組を見ていたら、「1994年のフォレスト・ガンプの主人公がどの学校からフットボールの奨学金をもらったか」という問題があって、アラバマが舞台だから地元のアラバマ大学なのだが、選択肢に自分の学校が入っていて、ちょっとうれしくなったりして、まあそんなことはどうでもいい。

 明日から3月。昨日雪が降るまではこのまま暖かくなるのかなと思っていたが、まだ寒さが続くそうで、そうは問屋が卸さないらしい(古い言い方?)。



2002年02月27日(水) 久々の雪

 このところ暖かくて、降るといったら雨で、雪は溶ける一方だった。今日も雨が降っていたが途中で雪に変わった。久しぶりに雪が降ったので、外を歩いている学生も興奮している様子が中から伺えた。

 雪は土の地面を覆った程度しか積もらなかったが、それでも久しぶりの雪はうれしいものだ。でも天候が悪くなるとインターネットの速度が遅くなる時があって、今日はそんな日だ。

 そんなことより、ネジャーティも私も体調がよくなって、晩ご飯を食べて胃がとても喜んでいる状態だ。

 夜には友人が電話をくれて、気が晴れた。



2002年02月26日(火) 休養

 梨奈は昨日の昼からはすっかりよくなって、何事もなかったように過ごしているが、私は、熱が下がったもののまだ頭が痛くてボーっとしている。寝転がるとまた頭が痛いので、座っている状態だった。でも夜には友人Tさんから聞いたイカナゴ漁解禁のニュースで一気に元気になった。
 
 ネジャーティはというと、寒気がするらしく、学校にも行かず一日中うちで休養。



2002年02月24日(日) 病院へ

 午後にHさんとMさんと買い物に行って、夜は日本の番組が入るので、それを見ていたが、どうも気分が悪い。晩ご飯を食べてすぐに横になったからかなあと思ったが、どうもそうではなかった。それで梨奈も調子が悪くなり、学校にいるネジャーティに電話して病院に連れて行ってもらった。

 診察室へ通されてから待たされることがよくあって、今日も少し待たされた。それで、「Stomach Flu」だろうといわれた。たぶん菌がおなかの中に入ったんだろうといわれたて、診察もすぐに終わり、あとは薬と病院を出る時にサインをさせられる紙を持ってくるのを待っているだけだが、それもまた待たされた。

 幸いネジャーティが元気だったので助かった。梨奈が泣いても私は元気がなく、ネジャーティが面倒を見てくれた。こういうときはありがたい。



2002年02月23日(土) 乱暴な運転者達

 こんな広々としたニューハンプシャーに住んでいると、少し(いや、ここよりもっと)都会のボストンに行くと、カルチャーショックを覚える。

 街には人や車が多いのが一つ。人がいないニューハンプシャーでは、キャンパス以外に人が歩いているのを見たことがない。歩いてどこかにいくという距離ではない。バスはあるが電車(アムトラック以外)はないので、電車でどこかへ行こうということはできない。

 それが、ボストンに行くと、至るところで人が歩いていて、車の方が信号が青なのに、平気で横切る人たち。そんな人はいいとして、ひどかったのは、左折車線と2車線のあるところで信号待ちをしていた時のこと。私は真ん中の車線にいたが、信号が青に変わるかという時に、右にいた車が私の前に来て、更に通り過ぎて、反対車線に曲がっていったことだった。これには周囲の車も唖然。みんなが見守る(!?)中、車が無事通り過ぎ、その後、あちこちの車の中で会話をしているのを見た。きっとその車のことを話しているんだろうと察しがつく。

 それから、これもまた信号待ちで止まっていたら、右の駐車場のようなところから車が割り込みしてきそうだった。割り込みといっても、全くスペースがないのにどうするんだろうと思っていたら、ぎりぎりのところまで車を進めてきた。
 「おじいさ〜ん!」 

 運転手はおじいさん。信号が変わって、こんなんでいけるかなと思っていたら、おじいさんの横に座っている女性が、行けの合図をしている。何とか行けたが、、、。

 こんな田舎のニューハンプシャーでのんびり車を走らせているのとはわけがちがうのだと痛感した。



2002年02月22日(金) 嬉しい便り

 昨日は寝るのが遅くなり、そろそろ寝ようかと梨奈を寝かしつけてるところに、ネジャーティが「Tさんからメールが来たよ」と教えてくれた。早速開けてみると、GWの休みがとれそうだという嬉しい知らせだった。その休みを使って、こちらに遊びに来てくれることになりそうだ。

 旅達者な彼女で、アジア中心の旅行のエピソードは数知れない。そんな彼女だが、アメリカ本土まではあまり足を伸ばしてないらしい。

 Tさんが来たら、どこに行こう? とあれこれ考えている。ボストン観光以外に考えているもの、、、アジア系スーパー、地元のスーパーでの探索、などなど。

 移民の国アメリカだなあと思うのは、いろんな国の人がいるので、その人たちのニーズにこたえるようなお店があるということである。アジア系スーパーはその一つで、中国系の人がやっていることが多いが、中国のものだけでなく、韓国のもの、東南アジアのものなどがあって、日本ではあまりお目にかかれないものがある。私は他のアジアの国には行ったことがないのでよくわからないが、Tさんならいろんなものが発掘できるのではないかと思っている。
 
 地元のスーパーではクラムチャウダーや、アメリカならではの食品をきっとご購入のことだと思う。

 その他、観光はともかく、ここならでは、というのをTさんに味わってもらえればと思っている。というわけで、ご近所の皆さん、いい知恵をお貸しください。



2002年02月21日(木) 外から来る人?

 梨奈が2歳を過ぎてから、写真に写ってる私を見て「ママ」と言うようになったので、嬉しくなったが、今日、冷蔵庫に貼ってあるネジャーティの写真を見て「ダディー」と言って、玄関のドアを指差している。

 朝学校に行って、お昼ご飯に帰ってきて、また学校に行って、晩ご飯に帰ってきて、また出かけることもあるので、出たり入ったりが多い。

 晩ご飯の前や後に、玄関のドアを開けて、外の様子を伺うことが多いこの頃。外に行きたいというのもあるので、そうすることが多くなったが、ネジャーティを外から来る人と思っているのかな? 

 出入りが多い生活ももう少しで終わりだ。就職したら朝行ったきり夕方まで戻ってこないし、夕方もどってきたら出かけることはないと思う。でも他の学校に行くことになったら、きっとおんなじ生活だ。



2002年02月20日(水) 方言(続き)

 夜うたた寝していて、起きてみたら梨奈がノートパソコンのキーを全部取り外してしまっていた。無事全部のキーが見つかってはめなおしたが、焦った(汗)

 先月か、芸能界で伝統のある家の東男と京女が結婚した。昨日インターネットで大阪のラジオを聞いていたら、本当かわからないが、結婚してからは関西弁を使わないように言われたとラジオのパーソナリティーが言っていた。

 彼女は性格がおっとりしているということもあるのか、彼女の言葉は京都の人やなあと感じさせるもので、大阪弁のしゃきしゃきのしゃべり方とは違う。彼女のしゃべり方は好きだったので、それをしゃべるなというのは何かもったいない感じがした。

 関西の中でも京都、大阪では使う言葉も違うものがあったり、やはり微妙にイントネーションが違ったりする。大阪でも昔は摂津、河内、和泉と分かれていたから、今でもその名残があって、その地域で大阪弁が違う。兵庫は昔の5つの国から成り立っているので、違いはもっと大きい。私の実家のある西宮は大阪市から15キロ離れているが、大阪よりはイントネーションがつかなかったり、また西に10キロいかないかぐらいで神戸に入るが、神戸では使う言葉がまた違ったりと、微妙に違うのである。
 
 語尾が違うものとして例を挙げると、大阪では「〜してる」というのが、西宮では「〜しとん」になり、神戸では「〜しとう」になる。これが代表的な例だ。

 京都では「〜しなさいよ」というのを「〜しおし」と言ったり、若い人の場合はわからないが、「〜え」を語尾につけたり、京都だけではないが、「高くなってる」というのを「たこうなってる」と形容詞は古文の活用に近い。

 それで、昨日、ぴろさんのHPに行ってみたら、ちょうど方言の話になって、きむちさんの専門的な視野からの意見があって、うんうんと頷きながら読んでいたが、どうも日本でも方言が俗語のように思われてるのではないかと言う気になったのである。

 きむちさんのご意見では、標準語も方言も同等であるということで、それはありがたい意見だった。そりゃそうだ、東京地方の言葉を標準語にしましょう、とたまたま選んだだけやねんから。そうでなければ、関西人の本音(1500年以上ある歴史の言葉を俗語なんて言われたないわぁ)をここでつらつらと書くところだった。

 話を戻して、伝統ある家に入ったなら、歴史のある言葉を使いつづけてほしいなあというのが率直な気持ちである。



2002年02月19日(火) メール

 最近嬉しかったことと言えば、数年ぶりに大学の同窓生Aちゃんとメールで連絡ができたことだ。Aちゃんは三島の地元出身で、大学のクラスでも同じで、ゼミも一緒になり、ゼミでは数少ない女子学生の一人だ(12人のうち女子は3人しかいなかった)。
 
 大学を出て、Aちゃんは東京に就職して、私は三島に残っていたので、休みぐらいに会う機会があったか、それも確かじゃないが、2年後には私は実家に戻ったので、会う機会はそれで途絶えてしまった。

 今みたいにメールがあれば、気軽に連絡が取り合えるが、当時はメールがなくて、電話だと電話代もかかるし、なかなかつかまらないし、というので、卒業以降の友人との連絡といえば手紙が多かった。

 地震があった年にフロリダの語学学校に行ったが、日本の友人とのやり取りは手紙が主流だった。返事がすぐ書けるわけじゃないし、書いても友人に届くのが1週間かかるから、友人が書いてから返事が届くまでには1ヶ月近くかかるというのんびりしたものだった。

 語学学校の先生の奥さんが私の会話パートナーで、一度お宅にお邪魔したことがあったが、先生がEメール(アメリカではEメールという)をチェックするといったので、「Eメールって何ですか?」と聞いたことがあった。メールの存在すら知らなかった。そういえば大学の語学研修時代の先生からもメールアドレスが書いてある手紙が来て、何のことだかさっぱりわからなかったが、それでやっとわかったという感じだった。

 語学学校を終えて次の年に正式に院に入ったが、メールのやり取りは当たり前、コンピューターにあるワープロ機能を使って、宿題を提出するのが普通に行われている光景を見て驚いたものである。当時日本ではコンピューターは会社の人が使うか、よっぽど限られた人が使っていたという感じだった。日本でコンピューターを触ったことがなかった。

 今はコンピューターがある家も多く、私の周りではメールアドレスを持ってない人を探すのが難しいぐらいだ。どこに住んでいるかを気にせず、手紙より早く返事ができるなんて、メールは本当にありがたい。



2002年02月18日(月) 狼少年

 今日歯医者に行くからと思い、何も作らなくていいように昨日からカレーを作っておいた。夕方Mさんが忘れ物を取りに来られて、カレーでよかったらと夕食を共にした。バレンタインデーにネジャーティからもらったバラを見せてたら、ネジャーティが「自分はこういうのが得意じゃないんだ」と言っている。

 フロリダにいるときに2回、私は自分の誕生日を迎えたが、そのうちの1回、当時もニューハンプシャーにいたネジャーティに私の方から電話をした(と思う)。それで、ネジャーティは私の誕生日だったことをすっかり忘れていたことに気がついて、今度は絶対覚えておこうと思っていたらしい。

 それで、フロリダにいた最後の年の2月11日にネジャーティから荷物が届いた。バレンタインにしたら3日早いけど、と思って荷物を開けたらいろいろ入っていた。それで「Happy Birthday」の文字が。日は合ってるけど、月が合ってない〜!
 夜、ネジャーティに電話したら、またHappy Birthdayと言っている。2月じゃないよ〜!と言ったら、真っ青になっていた(って電話なのに見たんかい)


 本題に入って、今日は歯医者に行ったので、歯の話になったが、ネジャーティが乳歯を抜いたことがあるらしい。その理由はネジャーティもなんて馬鹿だったんだろうと言っている。

 幼稚園の時に、ずっと閉じこもっているのが退屈でいやになったが、ある日幼稚園の友人が「歯が痛い」と言って、幼稚園から出て行ったのを見て、きっと歯が痛いといえばどこかに行けるんだと思って、ある日ネジャーティも先生に「歯が痛い」と言ったらしい。ネジャーティは「歯が痛い」の意味を知らずに歯医者に連れられた。歯医者さんでは最初どこが痛いのとか聞かれ、適当にこの辺とか言っていたが、抜くことがわかり、本当は痛くないんだと泣き叫んでも、それがうそだと思われ、歯医者さんに「この歯が痛いんでしょうね」と歯を抜かれたらしい。

 歯医者に行ったのはその1回と、大学の時に虫歯を1本治した時に1回行っただけで、後は行ったことがない。ネジャーティは虫歯が全然なく、羨ましい限りである。

 それはともかく、この抜歯事件で、Mさんは少なくともネジャーティが「狼少年」だったということがわかったようだった。



2002年02月17日(日)

 今日は雨が降っていて、雪に変わるという予報だったが、結局ずっと雨だった。そして、積もっている雪も雨で溶け出す始末。去年とは大違いだ。

 今年は年末年始に少し降ったが、去年は雪がとても多かった。3月まで持ち込むぐらいで、雪に囲まれ、息が詰まりそうな毎日だった。とても春が待ち遠しかった。

 雪がなかなか溶けない上に雪が降ったので、一度車が雪に埋もれ、「車はどこ?」と探すぐらいの積雪で、雪見大福の状態をはるかに越えていた(去年の雪の様子)。

 こんなことを言っていながら、逆転劇で、これからどかどか雪が降ったりしてと思ったりするのだが、なんか物足りない冬だ。



2002年02月16日(土) ボストンへ

 以前からボストンに行くのを予定していたが、その日がやってきた。残念ながらAさんはお忙しくて行けなくなり、Mさんと梨奈と3人で行くことになった。
 今日はとても暖かく、積雪も暖かさで溶けていっている。でも出かけるにはいい気候である。2月半ばの気候とは思えない、、、。

 いつもボストンの隣町、ケンブリッジに行く時はボストンまで出て行っていたが、どうもその手前で高速を降りて行けばいいらしく、Yahooで調べた行き方で行ってみた。
 郊外も含めたボストンの町の地図を持っていっていたので、それを見ながら何とか着いた。やっぱりこの方が距離的に近い気がした。

 最初にケンブリッジのポータースクエア近くの日本の本屋とポーターイクスチェンジに行く。ポーターイクスチェンジの建物の中には日本食を食べるところがあったり、食材屋さんがあったりと日本人にとってはありがたいところだ。昼ご飯を食べるまで食材屋さんの中を歩いたが、何だかホッとする。とすると、外では緊張しているということか、、、。

 お昼にはラーメンを食べた。ラーメンはすりこ木鉢で来た。梨奈はラーメンが好きで、かなりの量を食べたので、私の量はよかったが、Mさんが注文したラーメンはラーメン鉢も私のより少し大きく、野菜も食べきれないほど入っていた。私もMさんも食べた後は放心状態に近く、このままごろっと寝転びたい気分だった。

 ポーターイクスチェンジはマサチューセッツアベニュー(以下マスアベニュー)沿いにあって、このまま来た方向と反対の方向に行くと、ハーバード大学やお店が集まっているハーバードスクエアがある。ハーバードスクエアを通り、そのままずっと進んでいくと、チャールズ川があって、そこを渡ればボストンだ。

 そのままずっとまっすぐ進むと、とてもでっかいアジア系のスーパーに行けるが、今回はボストンの町の中をぐるっと回ってみることにした。そのあと、マスアベニューに戻ろうと車を走らせていたが、普段通ったことがない所だったので、一方通行があったり、同じ所にまた戻ってしまったり、またボストンの中心のほうに行ってしまったりというハプニングもあったが、無事マスアベニューに入れてアジアスーパーに着いた。

 日本食材だけでなく、中国系、東南アジア系もあるので、Aさんも楽しめたのではないかと思う。同窓生Iさん、もしこちらに遊びに来ることがあったら一緒に行きましょう。きっとIさんのお探しの食材も見つかることでしょう。

 買い物を済ませ、もう一度ポーターポーターイクスチェンジに行くことにした。ボストンのダウンタウンからノースエンドというイタリア人街を通った。現在高速の高架がこのノースエンドとボストンのダウンタウンを分離している。今は地下工事をしていて、来年その高架をなくして、地下に走らせる。そして高架の部分は緑にする予定になっている。そうすると、ノースエンドの方も行きやすくなる。

 さて、ニューヨークのイタリア人街よりも大きく感じたイタリア人街、ノースエンドを通ってチャールズ川の橋を渡った。高速の乗り口に道が向かっていっていたので、それに乗って今日来た出口で降りていこうかなと思っていた。高速に乗る手前で信号待ちで待っていると、Mさんが別の地図でハーバードスクエアに通じている「ブロードウエイ通り」のサインを見つけたので、そちらから行ってみることにした。

 ブロードウエイというとニューヨークにあるのが有名だが、Mさんがサンフランシスコに行った時も同じ通りの名前があったという。どこでもある通りの名前なんだなあと思った。それで、この通りは通ったことがなくて、わりとアップダウンがあって、こんなところもあるんだなあと思っていた。この辺もケンブリッジなのかどうかMさんに聞かれたが、いつもはメインの通りを通っていたので、この辺も含まれるのかどうかわからなかった。

 そろそろハーバードスクエアに着く頃かなあと思っていたら、見覚えのあるところに出てきた。今日朝通ってきた道だ。いつの間にハーバードスクエアを通り過ぎたんだろうと不思議に思った。とにかく通ってきた道だから行き方がわかり、ポータースクエアに着いた。

 梨奈が寝ていることもあって、Mさんが買い物をしていて、車の中で待っている間、さっきの通りはどうなってたんだろうと地図を広げると、私たちが通ってきたブロードウエイはケンブリッジの通りではなく、隣町にあるブロードウエイだった。いろんなところに同じ通りがあるんだよね、と話している最中に、隣の町のブロードウエイ通りを走っていたことになり、また、偶然そのブロードウエイ通りが今日来た道に通じたのが面白かった。

 ハーバードスクエアに向かって、ちょうど空いた道のパーキングメーターのあるところに車を置いて、道を挟んだところにある建物に入ってコーヒーを飲んで休憩し、帰ってきた。

 一度通ったところは覚えている。どの道かわかったので、今度はすっと行ける。Aさん、今度は是非一緒に行きましょう。行き方はばっちりです。



2002年02月14日(木) バレンタインデー

 スーパーによることがあって、夕方行ってみたら、中年以上の男性がバラの花の品定めをしている。こちらでは男性がチョコレートだけでなくてバラの花を贈るのが一般らしい。

 カードのお店には「彼に」「彼女に」以外にも「家族に」「子供に」渡すカードが並んでいるが、インターネットでたまたまみたら、それ以外にゲイやレズの人用もあって、やはりアメリカだ〜と唸ってしまった。

 日本ではいつからバレンタインデーにチョコレートをあげるようになったのかなと思っていたら、戦前らしい。神戸のチョコレート屋が紹介したそうだ。確かに神戸にはチョコレートをはじめ洋菓子屋が多いので、納得である。

 7年前の震災ではお菓子屋も打撃を受けて、その直後のバレンタインで自粛する雰囲気があったが、復興のために神戸のチョコレートを買ってくださいという願いがあったのを覚えている。

 ところで、チョコレートは女性から男性に贈ることになっているが、贈るという好意は男性は嬉しいかもしれない。しかしお返しとしてキャンディーなどの食べものをもらうとしたら、それよりもチョコレートをもらう方が嬉しいと思う。女性のほうが男性よりも絶対チョコレートが好きだと思う。

 それからよく考えてみると、女性から男性に求愛の意味を含めてチョコレートを贈るなんて、日本らしくなく革新的な考えである。「女性が男性に求愛、告白するなんてはしたない」とか保守的な考えがあってもよさそうなのに、この日ばかりはそんなことはお構いなく、男性は済ました顔をしながら心の中でどきどきさせてチョコレートを待っている。チョコレートなんてどうでもいいのだ。もらえるかもらえないかが問題なのである。それに味なんてわからないまま腹に収めてるという感じで、味わって食べてるとは思わない。その点、女性のほうが絶対チョコレートを味わって食べると思う。

 いっそうのこと、バレンタインデーとホワイトデーを替えたらどうだろうか。この日は男性からバラの花を添えてチョコレートを贈ることにしたら花屋も儲かる。ホワイトデーには女性からバレンタインの返事をするのはどうだろう。ホワイトデーにお返しをもらった人が本命と言うわけだ。

 いやいや、女性が強い今の時代、バレンタインデーは男性にとって貴重な日である。男性が女性から懇願されるなんてそうない。これはそっとしておいた方がいいかもしれない。

 ところで、我が家はと言うと、付き合っているときはお互いにチョコレートをおうったものだが、結婚後には縁遠くなってしまっていた。2、3日前から、「バラとチョコレート」と暗示をかけていたら、今日バラ一輪(造花)とチョコレートを持って帰ってきてくれた。造花でも買ってきてくれた気持ちが嬉しかったので喜んでいた。

 花瓶にそのまま挿して置いておいたら、いつのまにか水が入っている。ネジャーティに聞いてみると、枯れるからと思って入れたと言う。造花だからいらないでしょ、というと、「あれ、造花だったの?」と驚いた様子。本物と見分けがつかなかったらしい。やっぱり今の眼鏡に原因が!? レンズもフレームも新しく替えたことがあったが、同じフレームが2回だめになったので結局以前のものをかけている。やっぱり作り変えた方がいいかな? 関西人と一緒に住むと、だんだん性格が似てくるのかな?。おちがついたバレンタインデーだった。



2002年02月13日(水) 英語の先生

 先月、大学時代の英語のT先生にお誕生日のEカードをお送りしたところ、お礼のお返事を戴いた。私がアメリカに来るか来ないかのうちに他の短大に移られたが、去年はまた別の大学に移られたそうだった。お元気にしていらっしゃる様子が何よりだった。

 UCLAで言語の音声学を専攻されていた先生は、1ドル360円の時代、大阪万博で通訳の仕事をしたり、航空会社のポスターで乗務員の制服を着てモデルになったり、他にもアルバイトをしたり自分でお金をためて留学された。6年間のアメリカ滞在の後日本に戻られ、長らく私の学部で教鞭を取っておられた。2年間の必修のクラスでは殊のほか私たちのクラスを気にいられ、飲み会があればお呼びして、先生も「こんなに仲がいいクラスは初めてだ」と喜んでおられた。

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 英語の先生といえば、だいぶ前にも話したが、高校の英語のS先生を思い出す。イギリスの大学院で英文学を専攻されて、日本に戻って教鞭をとられたのだが、3年間私の学年の担任をされて、またイギリスへ戻られた。今は実家の仕事をついでおられるそうだ。

 一風変わった先生で、イギリスの紳士のようにイギリス英語を話す先生はひょうひょうとしていて、物事に動じない。また、英語の先生なのに、冬は暖かいからとなぜか実験の白衣を着ていた。関西でも田舎の方の出身だが、ある日先生が「小さい時に死にかけたことがあるんです」と言う。お母さんが自殺を図ろうと幼い先生を電車の線路に連れていって電車を待っていたが、その辺は電車が1日に1本か2本しかないところで、待っても電車が来ず、結局諦めた、と、本当は笑えない話をみんなで思わず笑ってしまったことがある。

 T先生やS先生がどんな思いをして留学生活で英語力をつけたということは学生は知る由もない。想像ではあるが、本当は大変な思いをしたんだろうなあと思う。



2002年02月12日(火) 名簿

 大学時代の学部の何人かが企画して先月末に同期会のパーティーがあった。

 その時に、名簿を希望するかどうか聞かれ、一応希望した。その名簿が今日メールで送られた。しかし、エクセルファイルで開けて文字化けした。今使っているエクセルは日本語に十分対応しない。例えば直接入力ができない。

 Mさんにお願いして、Mさんの部屋にお邪魔し、エクセルファイルで開いてみたが、やはり文字化けした。もともと何か問題があるようだ。Mさんと少しおしゃべりをして帰ってきた。

 名簿の送信のあて先が全て書かれていて、学科が違って知らない人もいたが、懐かしい名前もあった。卒業して1回ぐらいしか会っていない子もいたので、メールを送ってみた。

 大学時代にメールがあったらどれほど便利だったかと思う。ゼミに入ってから他の学部のゼミと討論会をすることがあった時のこと。自分たちの学部は他の学部とキャンパスが違っていたので、討論の要旨を他の学部のゼミに渡すのは郵送という手段しかなかった。

 また、その要旨は手書きの時もあったし、そのうちみんながワープロを買いだしたので、その時はそれを印刷して、やはり郵送という方法だった。他のゼミからも要旨が郵送されて、と、とても時間のかかることをしていた。

 今ならワードに書いて、それをメールに添付するだけでおしまいだ。こちらからも向こうからも郵送する必要はない。時間もかからない。締め切りの時間もさほど心配しなくていい。

 また、卒業してからは連絡するといっても方法は電話や手紙で、手紙だと時間もかかるし、引っ越したら住所や電話が変わって連絡が途絶えがちだが、メールだとその心配は要らない。メールアドレスさえずっと変わらなければ、いつでも送れるし、やり取りに時間がかからない。

 今日送ってくれた名簿でも郵送しなくてもメールですぐ送れるし、郵送代も払わなくていい。

 便利と言えば、卒業した大学に送る書類があって、実家から送らなければならないのだがるのだが、昨日、実家にメールで必要事項を書いた文書をメールで送った。FAXよりも見栄えがいいし、親も文書の訂正ができるし、2人で「便利だよねえ」と感心していた。

 便利な世の中だ。



2002年02月11日(月) オーブン

 マフィンの素を買って、マフィンを作った。

 マフィンの素には何種類かあって、今回買ったのはバナナとナッツが入っているものと、ハーシーズのチョコチップが入っているものの2つだ。素にはバナナもナッツも入っているので、必要なのは牛乳と卵とサラダオイルで、ただ混ぜて型にまぜてオーブンに入れるだけである。

 オーブンは各家庭にあるので、困らない。15分から20分入れておけば出来上がるのを待つだけである。

 オーブンはとても便利である。電気コンロとその下にあるオーブンはセットで備え付けになっている。

 アメリカに住んでいる同窓生は、在学中は料理をするようには全然見えなかったし、自分でも料理は苦手だと言っていたのだが、オーブンがあるのでケーキを焼いたり、自分でいろいろ作ったりしているみたいで、自分でとても変わったと言っていた。

 先日、ポアチャというトルコのおかし(?)の作り方を教えてもらったので、作ってみようかな?



2002年02月10日(日) プラスチック王国

 今日、HさんとMさんとプラスチックの話になった。アメリカではプラスチックがよく使われている。パーティーではプラスチックのお皿、フォークやナイフ、スプーン、コップが使われたり、私たちが口にする物の回りでプラスチックをよく見かける。

 プラスチックは確かに人間にとって便利なものである。プラスチックだけでなく自分たちの生活を豊かにしていくのに、様々なものが作られてきたが、人工的に作られたものもある。それが結局人間に大きな影響を与えていることに普段あまり気づかない。

 HさんもMさんも生物系なので、その辺のことも詳しいが、人工的な物質で自然界の生き物のメス化が進んでいるというのも、この何年かで話題になっている。それは人間にも言えることだということも、いつしか話題になった。

 少子化が進んでいることに関して、人口の分野では「女性の社会進出、晩婚、子供の養育への経済的負担」という典型的な見方をしているが、それを一言で言えば、女性が「産まない」という選択肢を選んでいるように見える。海洋学を専攻していたフロリダ時代の友人曰く、海流の温度と出生率が関係しているのではないかという説があるという。
 
 自主的な「産まない」という選択や、自然がもたらすリズムや変化に合わせて「産んでいる」というほかに、人工的な物質が出生率の低下につながっているとしたら、、、、。 

 私たちは人間である前に自然界の一生物だ。人間は自然界があるから生きられるのに、自然界には人間は何をしてきたのだろうか? 自然界にとって人間が「百害あって一利なし」と見られたなら、人間は気がつかないうちに自分の首をしめて、そのうち自然界から葬り去られるかもしれない。



2002年02月09日(土) 4年前のオリンピック

 昨日冬のオリンピックの開会式があって、今日から競技が始まった。聖火もアメリカのほとんどの州を回ってユタに着いた。

 聖火と言えば、ニューハンプシャーにもこの近くの町のポーツマスに聖火が来た。その日は寒かったこともあったし、ボストンに買い物に出かける約束をしていたこともあって、聖火を見に行かなかった。2、3日後にはニューヨーク州にいる友人宅を訪ねたが、滞在している間に、ニューハンプシャー、バーモントを回ってきた聖火がちょうど来た。しかし結局見に行かなかった。
 
 それはいいとして、長野のオリンピックからもう4年が経つんだなあと、月日がたつのが早く感じられる。長野のオリンピックの時は、まだフロリダにいた。アパートの部屋にテレビのケーブルをひいていなかったので、映る番組はCBSぐらいだった。それも映りが悪かった。CBSはオリンピックの放映権を勝ち取っていたので、映りの悪い中、オリンピックを見た記憶がある。またCBSの放送はコマーシャルが多いとか放映が偏っているとか、いろいろアメリカ国内でも批判があったようである。文句を言っているのは私だけじゃなかったようだ。

 日本ではNHKもあるし、コマーシャルなしで流してくれるし、そういう問題はあまりないだろう。それで、実家に電話をして開会式を録画してね、と頼んでおいた。普段電話した時はいろいろしゃべるのに、その時は「じゃ、切るね」と勝手に切られ、何かそっけない電話だったと友人にもらしたのを覚えている。後で知ったのだが、実は前日か2日前に祖母が亡くなって、通夜だの葬式だのと忙しくしている真っ最中だった。私はその年の年末に帰省するまで祖母が亡くなったのを知らなかったが、もし知らされても、まる1日かかる帰省では、葬式には間に合わなかったと思う。

 いずれにしてもそんな大変なことになっていたのならもちろん「録画してね」とのんきなことを頼まなかった。しかしちゃんと録画していてくれた。「ビデオをセットするだけだから」と、のんきな返事。そんな中で録画されたビデオを見るのはとても複雑だった。

 あれから4年。祖母はもういないが、その時いなかった梨奈がここにいる、と不思議な気持ちになった。 

 



2002年02月08日(金) 模様替え

 今日ここのアパートを引き払うという人から、引っ越しセールで取っておいてもらったミニコンピューターデスクとコードレス電話を買った。

 今まで使っていた折りたたみのテーブルをそのまま横にずらして、コンピューターデスクを置いたら、さまになった。棚もあるし、少しモノが置ける。横にずらしたテーブルには寝室に置いていたテレビデオを置き、今までのテレビは寝室に持っていった。

 この前はソファーの位置も変えたし、今回テレビの位置も変わったので、座ってまっすぐテレビが見られる。

 模様替えで、モノが散らかってしまいましたが片付けますので、UNH、ニューハンプシャーの皆様、また遊びに来てください。



2002年02月07日(木) テレビの顔

 テレビに出ている人の顔には共通しているものがあるらしい。

 アメリカのテレビにも、「この人、日本の人と雰囲気が似てる」という人がいる。独断と偏見なので、他の人にはえ〜?と思うかもしれないが、とりあえず、例を挙げると、Drew Careyと中本工事(眼鏡だけかな?)、"Wheel of Fortune"の司会者、Pat Sajakと、Weather Channelの天気予報士、フジテレビの堺アナウンサーの3人。また"Who Wants To Be A Millionaire"の司会者、Regis Philbinによく似た人を起用したなあと思うのが、日本版「クイズミリオネア」のみのもんた。

 こうやって見比べると、テレビに出る人というのはやはり顔に共通の特徴があると思ってしまう。



2002年02月06日(水) 寒い日にはクラムチャウダー

 朝9時に歯医者に行くので、車に乗ろうとしたら、フロントガラスや窓が凍り付いている。アパートからお湯を持ってきて溶かしたまではよかったが、お湯をかけっぱなしにしてしまったので、車を走らせるにつれて、かけたお湯が氷結してしまい、視界が悪くなった。車を路肩に停めて、氷をこすって事なきを得た。

 雪が積もったままなので、体感温度は気温より低い。冷凍庫にいるようにひんやりする。

 こんな寒い日にはやはり、この地方の食べもの、クラムチャウダーでしょう、ということで、昨日買ったクラムチャウダーを食べてみた。このクラムチャウダーは食べたことがないブランドのものだったので、おいしいかどうか食べてみたというところだったが、今日歯医者に行って抜歯したので、味はあまりよくわからなかった。でも今まで食べたものよりは少し水分が多いと思った。

 里帰りした時に友人にあげたクラムチャウダーは大人気だった。Mさんの日本のお友達はメイン州にある会社のクラムチャウダーがおいしかったと言っていたそうだ。う〜ん、今度里帰りした時はいくつかの種類を持って帰り、友人に品評会をしてもらおうか。



2002年02月05日(火) 方言

 インターネットで、室町以来の関西弁が若者の間で使われていないというニュースを見た。それは「〜なんだ」という否定形の言葉である。

 「〜なんだ」の使い方でふっと真っ先に思い浮かぶのは「知らなんだ」で、「知らなかった」という意味である。うちの父は根っからの大阪人なので当然使っているし、父としゃべってると自分もつられて使ってるときがあるが、友達同士で使っているかどうか疑問である。「〜なんだ」は古くさい言葉に聞こえて、少し上の世代は使っているが、たしかに若い人は使わない言葉だ。

 それだけではない。漫才師や落語家や、少し上の世代が使っていても、自分の世代では使わないなあという関西弁は確かにある。特に大阪で使われる「〜でっしゃろ(〜でしょう)」とか、「〜や、おまへんなあ(〜じゃないですね)」とかは使わない。

 関西弁には「〜なんだ」以外にも、古語がちょこちょこと残っていて、標準語にはないが「よう+否定形」という言い方がある。これは西日本には見られると思うのだが、「とても〜できない」という意味である。これは「え+〜ず」という古文で習う否定形の名残だそうだ。「そんなところ、一人でよう行かん」というと、「そんなところ一人では到底行けない」というような意味だし、「そんなん、ようせん」というと「そんなこと、自分にはできない」というような意味になる。

 室町以来の言葉が使われなくなってしまうのはもったいない気がするが、かといって、無理して使うものおかしいかな。時代の流れだから仕方がないのかもしれないという気もする。





2002年02月04日(月) ダイジェスト版

 昨日はコーヒー談を書いてしまったので、昨日のことは書けなかった。今日のこととあわせてダイジェスト版にして少し書くと、こんな感じだろう。

★スーパーボール
 プロのアメリカンフットボールのチャンピオンを決めるスーパーボールがニューオリンズで行われ、ニューイングランドのパトリオットがセントルイスを20対17で下し、優勝。

 この地域ではアメリカンフットボールのチームが強いのは稀で(というか聞いたことがなく)、優勝決定戦まで行って優勝してくるなんていうのはますます稀なことのようだ。


★節分
 日本では節分で、今日が立春だということをすっかり忘れていた。関西では切っていない太巻きを、その年の方角に向いて食べるという習慣がある。今日はおすしが食べたくなったので、1本ずつ太巻きを作って、責任を持って食べた後、残りのすしめしは自分で手巻きにして食べるということにした。
 

★梨奈の早寝早起き
 昨日、今日と私より早く起きて、テレビを見て喜んでいた。昨日は私より早く寝たし、お昼寝はしっかりしてたし、夜もいつもより早く寝たし、自分でリズムを作っているのか?と思うほどである。
 昼寝の時間にネジャーティが学校から戻ってきてお昼ご飯を食べたが、久しぶりに2人でゆっくりおしゃべりをした。



2002年02月03日(日) コーヒー談

 最近コーヒーを毎日のように飲んでいる。ネジャーティは家では朝普通のコーヒーを1杯、夜にカフェインなしのコーヒーを1杯飲んでいる。私は梨奈が生まれる前からカフェインなしのコーヒーを飲むようになり、それがずっと続いている。先月隣のメイン州のキタリーにあるアウトレットでお値打ち価格で買ったコーヒーカップがお気に入りとなり、それでいつも飲んでいる。

 コーヒーを飲むようになったのは中学か高校かぐらいで、小学生の時はもちろん飲まない。父と喫茶店に入ったら「ミックスジュースでええか?(なぜかミックスジュース)」と私はミックスジュース、そして父はコーヒーである。それが今では「コーヒーでええか?」に変わっている。

 神戸にコーヒーの会社があるので、コーヒーはとてもおなじみである。81年の神戸のポートピア博覧会(年がばれる、あっ、ばれてるか、、、)で出展された巨大なコーヒーカップのコーヒー館が後に博物館になっているが、そこではコーヒーの歴史から作り方を学ぶことができる。また最近知ったのだがそこではトルココーヒーが飲めるそうである。

 トルココーヒーは「深炒りのコーヒー豆を極細挽きにして、イブリック(別名ジュズベ)という長い柄のついたヒシャク形の器具でコーヒーを煮出して作る伝統的な飲み方」(UCCコーヒー用語辞典参照)であり、エスプレッソぐらいの小さいカップで上澄みを飲む。すると底にドロッとしたものがたまるという面白い飲み物である。

 ところで日本で見るコーヒー豆とこちらで見る豆には種類が違うものがある。日本でおなじみのブルーマウンテンやキリマンジャロはこちらで見ない。日本で好きだったハワイアン・コナはやはりアメリカ国内なので見かける。

 種類だけではなく、フレーバーがついているものがこちらでは見られる。フレンチバニラ、アイリッシュクリーム、へーゼルナッツなどコーヒー屋に行って選んで飲める。スーパーではあまり種類がないが、モールに入っているコーヒーのお店で売っている豆のフレーバーは種類が豊富である。変わりどころでは「ジャーマンチョコレートケーキ」である。ネジャーティにこのフレーバーを知っているか聞くと「それ、ケーキ?それともコーヒー?」と返ってきた。

 フロリダにいるときにたまたまこのコーヒーを飲んで、おいしかったという思い出がある。語学学校に行っていた日本人の女の子もこのフレーバーが好きで、その子が日本に帰ることになったときに、選別にこのフレーバーの豆をあげた。

 ニューハンプシャーに来て1回飲んだか飲んでないかぐらいである。この辺でもモールに行かないとこのフレーバーの豆にお目にかかれない。
 先週Aさん宅にお邪魔したときに、コーヒーミルで豆を挽いたコーヒーをいただいた。うちにはコーヒーミルがないので、飲むからにはよりおいしく飲みたいものである。引っ越してから買おうか、とネジャーティに提案している。

 日本だとデパートにいろんなおいしいコーヒーが売っているだろうし、正直日本のコーヒーが好きだが、ここにいる間に、ここでしか飲めないコーヒーを飲んでおこうという気持ちだ。

 帰省の際には持ち帰りますので、リクエストがあればメールでご連絡を(って、この前帰ったばっかりやんかぁ。今度帰るっていつの話やねん!)。



2002年02月02日(土) 政治事情

 HさんとMさんとWalmart、スーパーに行った。Walmartで子供用の靴が9ドルいくらかだったので買った。その靴はバックスキンなのだがとても軽いので梨奈がというより私がいいなと思って買ったのだが、帰ってネジャーティに見せたら、「5ドルって書いてあるよ」と言っている。よく見ると箱に5ドルのシールが申し訳なさそうに小さく貼られてる。レシートを確かめると確かにそうだった。ちょっと得した気になった。

 それはともかく、買い物で車を走らせているときに、HさんとMさんと最近の日本の出来事を侃侃諤諤(かんかんがくがく)した。

 現在の政権支持率の急降下は、人々が「この人なら自分たちの期待に沿ったことをしてくれるだろう」という期待に沿わなかったことが最大の理由だと思う。「結局今までと同じことをやっているじゃないか」という落胆の気持ちが大きいのだと思う。人々に「改革」だの何だのといっておきながら、やり方は以前と何ら変わってないのである。

 「誰かが辞めたら事が収まる」とか、そんな手の裏は、人には見え見えである。辞めるのは簡単だが、そんなことで問題が解決するわけがない。問題自体を追及しない限り、問題なんて解決しない。

 それに前外相がいたから省のいろんなことが明るみに出てきたわけで、そういう動きが止まってしまってまたいろんなことがうやむやになってしまうのではないかと懸念しているのは私だけだろうか。
 
  
 



2002年02月01日(金) インターネットの楽しみ

 今住んでいるアパートはネジャーティの大学のアパートで、インターネットは電話回線を使わずにケーブルにつながれていて、24時間無料の使いたい放題である。

 こんな生活はもう少しで終わってしまうのは寂しいが、テレビで流れる1時間の日本のニュースのほかに、自分と日本を結んでいるのはインターネットであるといっても過言ではない。

 インターネットの便利さは年々よくなってきていて、フロリダにいた時はアメリカのコンピューターで日本語を読むことはできたが、特別なソフトウェアを入れない限り書けなかった。今はマイクロソフト社のURLから無料でダウンロードできるのでとても便利だ。

 日本語でメールを送ることもできるようになったのが一番の収穫である。日本語で書けない環境だったフロリダ時代はメールがインターネット上でなくて、大学専用のメールソフトを使っていて日本語が読めなかったこともあって、日本人同士でも英語だった。日本語のローマ字読みの方がとても時間がかかったということも一つの理由だった。

 メールやHP以外で楽しみにしているものといえば、日本が発信基地の情報である。今はインターネットで日本の映像の伴ったニュースを読んだり、ラジオもダイジェスト版がインターネットで聞けるが、以前はそんなことを考えもしなかった。

 ラジオでいえば毎週月曜と火曜に更新している、大阪のラジオ番組「上沼恵美子のこころ晴天」を聴いている。2時間の番組を30分弱にまとめてあるものだ。AMの番組だが、ヘッドフォンで聞くといい音である。毎週関西弁のトークを聞きながら笑ったり、そうだと頷いたりしている。日本でAM放送の番組を聴くことは滅多になかったが、日本に帰ったときに2時間たっぷりその番組を聴いた。

 1週間の中でこの番組を聴く以外にも楽しみがある。ある新聞社のHPの関西版に毎週火曜日に更新、掲載されいている「三枝の笑ウインドウ」や、毎週土曜か日曜にに更新、掲載の「聞き書きいとしこいし」など関西発のものである。

 こう考えると、普段楽しみにしている情報発信地は「日本」というより「関西」のものが多いかもしれない。


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